history日誌

1 ありがとう
みなさんは経営の神様といえば、どなたを思い出しますか?スティーブ・ジョブズ?ビル・ゲイツ?日本で経営の神様といえば、やっぱり松下幸之助まつしたこうのすけでしょう。古くは渋沢栄一ですが、渋沢のことはまた別の機会に触れたいと思います。松下幸之助は従業員数名の零細企業れいさいきぎょうを一代で巨大企業に育て上げた素晴らしい経営者です。また、僕も彼の著作を読ませてもらったことがありますが、ただのもうけ主義ではなく、なまじっかの宗教家よりも哲学もあって、本当にすごい人だなって。

本題に入る前にパナソニックの社員の皆様申し訳ございませんね、松下幸之助と呼び捨てして。「さん」をつけたほうがいいという意見もあるかもしれませんが、基本的に僕のブログは外国の有名人や歴史上の人物は敬称を省略しております。織田信長さんとか、聖徳太子さんというのも、悪くはないけれど、なんか違和感がありますよね。松下幸之助の功績は歴史の教科書に載っても全く違和感がありません。それだけ戦後の日本の復興に貢献した人物の一人です。

松下幸之助が一人でパナソニック(松下電器産業株式会社)をつくりあげたわけではありません。彼を陰で支えたのが、妻のむめのでした。

松下電器創業50周年記念式典が1968年(昭和43年)に行われました。その時幸之助が講演でこう語られました。

「今日、この50周年を迎えるということにあたりまして、一番感慨深いのは、まあ私自身であることはもちろんでありますが、奥さんもそう思っておるだろうと思って今日は2人で喜んで、ここに参上したような次第であります。どうも奥さん、長い間ありがとう。


その時、会場にいた妻のむめのは涙を流しました。

夫がこの「ありがとう」という言葉の背景には夫婦の苦難の道がありました。

2 松下電器創業

 お話は1917年(大正6年)の大阪にさかのぼります。このころ、松下幸之助とむめのは結婚したばかり。ふたりはともに関西出身でお見合い結婚だったそうです。幸之助はこのころはハイセイコーじゃなかったw配線工でした。電柱に電線をしく仕事です。出来高制の仕事で収入も不安定で会社の上司ともうまくいっていなかったそうです。そこで幸之助は独立を決心しました。

しかし、独立をするといっても、なにをすればよいのやら。独り身ならともかく、奥さんを養っている以上は、失敗が許されません。はじめ、幸之助は「お汁粉屋をやろう」と言い出しました。理由は幸之助がお汁粉が好きだから。お汁粉おいしいですよね。お汁粉の話をしてたら急に食べたくなっちゃったwおっと、お話を続けましょうw
幸之助が妻のむめのにそう言ったら、むめのは大反対。そりゃそうですよね。ただでさえ独立はリスクが高いのに、お汁粉屋なんて、これまでの幸之助のキャリアを生かせない仕事です。歌が好きだから公務員をやめてミュージシャンになろうというようなものです。

むめのの思わぬ反対に幸之助は「わしは電気しかない、電気をとことんやろう」と。そして翌年の1918年(大正7年)松下電機器具製作所を創業します。社員は妻のむめのと、むめのの弟の井植歳男いうえ としお(※1)などわずかな人数でした。

3 失敗と成功

 創立当時の松下電器は扇風機の碍盤がいばん(※2)を製造するかたわら、幸之助は便利で品質のよい配線器具を作れば、一般の家庭にはいくらでも需要があると確信し、夜遅くまで配線器具の考案に没頭したといいます。

大正当時、多くの一般家庭は電力会社と「一戸一灯契約」という契約を結んでいました。え、「一戸一灯契約」なにかって?僕もわかりましぇーんwというと怒られそうなので、ネットで調べました。

なんでも、家庭内に電気の供給口を電灯用ソケット一つだけ設置し、電気使用料金を定額とする契約のことだそうです。このため、当時電灯をつけているときには同時に電化製品を使用することができず、不便をこうむっていたのです。今風にいえば電灯をつけている間はテレビもパソコンも見ることもできなければ、冷蔵庫さえ止まってしまうということでしょう。そこに幸之助は眼をつけたのでしょうね。

しかし、新商品の開発は失敗ばかり。開発のコストも増えるし、収入も少なくなってきます。

それで、むめのは質屋に通っては着物や指輪を質屋にいれていたのです。むめのは、幸之助に心配させまいと、そのことを黙っていたのです。

そしてついに幸之助はアタッチメントプラグと2灯用差込クラスターという配線器具の開発に成功。商品は飛ぶように売れ、従業員もどんどん増えたといいます。

Attachment_Plug_Improved_by_Matsushita

(アタッチメントプラグ)

Two_way_cluster_by_Matsushita

(2灯用差込クラスター)

従業員たちの日ごろの面倒を見たのが妻のむめのでした。むめのは従業員たちに食事をつくってあげたといいます。むめのは食事だけでなく従業員たちの身の回りの世話もしていたのですね。当時の従業員たちは松下電器の寮に住み込みだったのですね。

4 時代にほんろうされながらも

 昭和4(1929)年、昭和恐慌のあおりを受け日本の経済界は大混乱。松下電器も売上げが半分以下に落ち込み、ピンチになり、12月末には倉庫に入りきらないほど在庫がたまります。しかも悪いことに当時、幸之助は病気で静養中だったのです。

療養中の幸之助のもとに2人の幹部が訪れ、従業員をリストラするしかないと訴えます。 これを聞いた幸之助は、「あかん」といって拒否。工場は半日勤務、そして給与は従業員に全額支給するように指示しました。

一方で店員は休日返上で在庫品の販売に全力をあげるようにとも指示します。幸之助の決断が告げられると、従業員たちは喜び、全店員一丸となって販売に努力しました。その結果、2カ月後には、倉庫に山積みになっていた商品をすべて売りつくし、このピンチを乗り切ったといいます。

そして、1941年(昭和16年)に太平洋戦争が勃発。松下電器は軍需産業への協力が求められました。これがのちに、幸之助とむめのにとって災いとなります。戦後、日本はGHQに統治されます。そして幸之助は戦争に協力したという理由で公職追放の憂き目にあいます。

幸之助は会社を追放されてしまったのです。するとGHQにたくさんの訴えの手紙が届きます。「幸之助の公職追放をといてくれ」と。その差出人は松下電器の社員やその社員の家族から。その届いた手紙の通数は1万5000通にも及んだといいます。

会社が大変な時でもリストラをせず、内部留保を取り崩して社員を守った幸之助を労働組合が中心となって立ち上がったのですね。本来労働組合は経営側と対立するものですが、その組合が社長を守れといったのですから、すごいですよね。こうして幸之助は1947年に社長に復帰します。公職追放されてから4か月後のことです。

5 主婦のための電気製品を
 

 社長に戻った幸之助は「家庭の主婦が楽できるようなものをつくりたい」と思ったそうです。便利な電気製品がいっぱいの現代でも、梶じゃなかったw家事って手間ヒマがかかるんですよ。買い物にしたって、料理にしたって、掃除や洗濯だってそれなりに手間ひまがかかります。「主婦は楽でいいよな」なんて思わないほうがいいですよ、マジで。男性でも一人暮らしをしたことがある方ならお分かりいただけると思います。ましてや、戦後間もないころの日本において、ほとんどの家庭は手作業で家事をしていました。掃除もほうきとちり取を使い、洗濯もたわしや洗濯板で手でゴシゴシ洗っていて、冷蔵庫もほとんど普及していなかった時代です。


そんな幸之助にむめのも協力しました。むめのは家の庭先に洗濯機5台ぐらい並べて、それをぶんぶん回したといいます。いわゆる商品のモニターをやっていたのですね。むめのは主婦の目線で夫にアドバイスをしようとおもったのでしょうね。

そして高度成長期には、従業員は3万人突破、売り上げも1000億円突破したといいます。アメリカの雑誌「TIME」(1962年2月23日号)には幸之助が紹介されました。紙面では幸之助の功績に加え、むめののことも取り上げられました。「彼女は幸之助のビジネスで欠かせない役割を果たしてきた」と。松下幸之助は創業から様々な困難にあいました。そんな幸之助を常に支えてきたのが、妻のむめでした。冒頭で、50周年の記念式典で幸之助がむめのに「ありがとう」といったのは、そんなむめのへの感謝の気持ちからでした。

6 95点

1978年(昭和53年)の幸之助の誕生パーティーの席上、むめのは「夫に点数をつけるとした何点ですか」と質問をされたそうです。むめのは「かんしゃく持ちだから、85点」と答えたそうです。幸之助が従業員を厳しく叱責したという話はよく聞きますが、幸之助はかんしゃくもちだったのが玉にキズだったのかな。

一方の幸之助が同じ質問をされて、「95点」と答えました。ケンカもしたけれど、必死に夫を支えてくれたことへの感謝の気持ちもあったろうし、「100点」と答えなかったのは、残りの5点はこれからまだ先があるからと思ったからでしょう。お互いに点数をつけた二人は幸せそうに笑いあっていました。

むめのが亡くなったのが1993年(平成5年)でしたから、幸之助のほうが先に亡くなったのですね。自分が亡くなる直前、きっと幸之助はむめのに「100点」いや「200点」以上をつけて、旅立ったのかなと僕は思います。


※ この記事は「歴史秘話ヒストリア」を参考にして書かせていただきました。








※1 松下電機を30年つとめたのち、三洋電機を創業。
※2 扇風機の速度調整スイッチを取り付ける絶縁体。絶縁体とは電気や熱を通りにくくするための器具。当時の碍盤は陶磁器でできており非常に壊れやすかった。

わが夫、溥儀―ラストエンペラーとの日々


前回の記事で取り上げた溥傑ふけつのお兄さんである溥儀ふぎにまつわるお話をします。溥儀ふぎには奥さんがいました。その人の名前を李淑賢り しゅくけん。といいましても溥儀は初婚ではありません。バツイチです。溥儀が満州の皇帝だったころ、婉容えんようというお妃がいました。そして、もう一人側室がいたそうです。で、婉容えんようと溥儀の二人の生活は最悪で、夫婦のすれ違いや自由のない生活のストレスが重なり婉容えんようもアヘン中毒にかかって、最後は狂人になって39歳の若さで亡くなってしまうのです。

で、李淑賢り しゅくけん の書いた本を読ませてもらいましたが、夫である溥儀ふぎに負けないくらい波乱に満ちた半生だったようです。

二人は結婚けっこんしてから大変な思いをしましたが、それでも夫との夫婦生活はとても充実じゅうじつしていて幸せだったことを知りました。そして溥儀ふぎが子供のような純粋な心を持ったやさしい人だということも理解できました。

李淑賢り しゅくけん は大変まずしい家庭に生まれ、少女時代は苦労をしたそうです。いちど結婚けっこんをしたが、最初の結婚はうまくいかず離婚りこんしたそうです。身分が違いすぎるとはいえ、最初の結婚生活がうまく行かなったところは溥儀と同じでした。

それから、バツイチの彼女の元に縁談えんだんが持ち上がりました。そのときの相手がラストエンペラーことruby>溥儀ふぎだったのです。

さいしょ、李淑賢り しゅくけんは最初の結婚生活でりている上に、「相手が自分とは身分がちがう人だから、結婚なんてとてもとても」と思っていたようです。


結局、元皇帝の溥儀ふぎと一般人である、李淑賢り しゅくけんは結婚をすることになりました。溥儀ふぎ皇帝こうていだったので、人にやってもらうことはあっても、自分で何かをするなんてことはありませんでした。だから、炊事すいじ(※1)だとか縫い物ぬいもの身支度みじたくなどが満足にできません。顔を洗うときも周りを水だらけにして、上着までびしょぬれにしちゃうほどだったとか。ご飯を食べるときもボロボロこぼしたといいます。

そんな溥儀ふぎを妻の李淑賢り しゅくけんはがんばって彼をサポートしました。まるでダメ亭主ていしゅとしっかり者の女房にょうぼうのようですが、それでも二人は幸せだったようです。

溥儀ふぎは妻の李淑賢り しゅくけんことを死ぬまで気づかったようです。溥儀ふぎ何不自由のない皇帝の生活よりも、平民で決して豊かとはいえないが、今の結婚生活のほうが幸せだと語っていたそうです。

しかし、そうした二人の幸せな生活も長くは続きません溥儀ふぎもガンにかかってしまったのです。しかも、溥儀ふぎが病気になった時期というのが、悪いことにちょうど文化大革命の真っ最中でした。昔、皇帝だったという理由と満州国皇帝として日本に協力したという理由で、満足な治療が受けられなかったそうです。

文化大革命というのは、毛沢東が党内で権力闘争をおこし、その余波が中国国民にも及んだ出来事です。それは、1965年から10年間続きました。この時期、先生だとか親だとかともかくエライ人がきらわれた時代でした。紅衛兵こうえいへい(※2)と呼ばれる若者達は、先生だとかエライ人たちをリンチしたのです。

https://www.youtube.com/watch?v=9DjOrC_PGWI&feature=youtube_gdata_player
(紅衛兵のことが出てくる動画)




※1 食物を煮たきして調理すること
※2 中華人民共和国の文化大革命時期に台頭した全国的な青年学生運動。毛沢東を支持し、教師だとか親だとか権威的なものを攻撃した。

岡村隆史さんが結婚されるそうですね。おめでとうございます!お相手は一般の女性の方だそうです。これでチコちゃんに「ボーっとしてるんじゃねえよ!」って叱られなくてすみますねw?コロナが流行る不穏な時代だからこそ、明るいニュースはよいものですね。いつまでもお幸せに。

僕のブログでも夫婦のお話をしたいと思います。僕はまだ独り身ですが、記事を書いて少しでも、あやかれるようにと願いと、こういう先行き不安な時代だからこそ家族の絆が問われるんじゃないかとおもいましてね。今日は愛新覚羅溥傑あいしんかくらふけつひろのカップルです。


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1 自分がターゲットにされてしまう
 魔女狩りでは、実際に拷問ごうもんを行った人間も悪いけれど、ごく普通の庶民たちがお互いに監視したり、密告するようになったことも、そもそもの問題でした。なぜ、人々はこんなことをするのでしょう。たとえば、いじめやパワハラが起こった場合、いじめやパワハラに合った人を見ている人は「その人を守りたい」という気持ちはあるにはあるのですね。

でも、下手にかばったりしたら、自分もそのいじめやパワハラの標的になりかねません。だから、人々は見て見ぬふりをしたり、最悪自分も、いじめのターゲットを攻撃する側にまわることもあるのです。それが自分の身を護る一番の手段になってしまうのです。

『ドラえもん』でジャイアンとスネ夫が二人でのび太をいじめますが、実はスネ夫はジャイアンの忠実な家来ではなく、腹の中ではバカにしているのですね。実際、スネ夫はジャイアンがいないときは陰口叩きまくりだし。それでも、スネ夫がのび太をジャイアンと一緒になっていじめるのは自分が標的になるのが怖いからですね。

一緒になってターゲットをいじめるのは本意ではないが、何回も攻撃を繰り返しているうちにそれが次第に快楽になってしまうのですね。

2 レッテルはり
 魔女狩りの最大の問題は、まったく魔女とは関係ない普通の人が、魔女のレッテルをはられ、多数リンチにあったり、処刑されてしまったことです。なぜ、こんなことがおこったのでしょう。これは人間の悲しい性が原因だと思われます。

魔女狩りに限らず、会社や学校、ネットの中などのコミュニティの中には潜在的に小さいな言い争いがありますよね。悪口の応酬おうしゅうみたいなものは、日常的とは言わなくても、起こったりします。しかし、それが繰り返されていく中で、一人の人間に悪評、魔女狩りであれば、「この人は魔女じゃないか」って評判が蓄積ちくせきされてしまいます。それが根も葉もないうわさであったり、誤解であっても、一度悪いレッテルが貼られるとそれを挽回ばんかいするのが大変なんです。

度、そういうレッテルがはられると、その人の行動すべてがマイナスに解釈されてしまうのですね。魔女狩りであれば魔女であると、会社であれば、「あいつは使えないヤツだ」と。一度Aさんが使えないやつだと思われると、たとえ上司のミスが原因であっても、上司はAさんのミスだと思いAさんを叱責しっせきをする。

『サザエさん』であれば、本当はタラちゃんがやったイタズラなのに、普段ふだんからワンパクのイメージがあるカツオが父さんに怒られるみたいなものでしょう。近くにいる人だからこそ疑いの目が向けられてしまうのです。

そうして、魔女狩りの悲劇ひげきは起こったし、近年でもネットの書き込みを真に受けた人間が無実の人をリンチしたり、自殺に追い込んだりする事例がおこっているのですね・・・

3 みんなのための正義
 魔女狩りは終焉しゅうえんしたものの、集団ヒステリーや集団リンチ、いじめはなくなっておりません。これは人間が集団をつくるという機能を人間が持っている以上、なくならない問題ともいえるし、課題ともいえます。

戦争だとか、疫病だとか、危機を感じる時に、人間は絆を強めようとします。そういうときは集団が個人よりも優先されます。ナチスドイツや、戦時中の日本もそうでしたし、文化大革命時代の中国、今日のコロナ騒動もそうでしょう。そうして集団の足を引っ張たり、ルールを破ろうとする人に対して攻撃をすることが、みんなのための正義だという考え方になりやすいのです。

時々、いじめを肯定するも意見も出てきますが、それは集団の秩序を守るためやむを得ないという認識なのでしょう。

『はだしのゲン』に出てくる鮫島伝次郎は、ゲン親子を攻撃することが、お国のためだとマジでおもっていたのですね。実際は、戦争を早く終わらせ、外国と仲良くしたほうがいいというゲンの父親の意見のほうが正しく、鮫島の言う通りの道を進んでいたら、間違いなく日本は、外国、たとえばソ連などの領地になっていましたね。もし、そうなったら戦争を反対したゲンの父が愛国者で、鮫島が売国奴でしたね。

自分たちの正義の行動と思っているものに対し、本当にそれは正義なのか?じぶんがやっていることは正義中毒ではなく、本当にみんなのためになっているのか?それをよくよく考えないと、人を傷つけたり、最悪人を死に追いやってしまうことも。

4 当事者の問題にしない
 魔女狩りによって魔女達は徹底的に弾圧されましたが、魔女が絶滅したわけじゃありません。以前、何の番組かは忘れたのですが、21世紀の今もスコットランドにいる魔女がテレビで取り上げられました。魔女と言っても、テレビに出てきた女性の見た目は童話にでてくるような魔女とは明らかに違います。どう見ても、普通のおばさんでした。

現代の魔女はハーブやパワーストーン、アクセサリーなどを売ったり、占いをして生計を立てているようです。

また、その魔女さんは「かつて魔女達は、産婆さんばもしたり、薬を売ったりと色々と人々に役立つ事をしてきたが、悪魔の使いという汚名おめいを着せられ、ヒドイ弾圧を受けてしまった」と残念そうに語っていました。

魔女たちは汚名を着せられ迫害されましたが、魔女たちはそれに抵抗する術もありませんでした。なにしろ、相手は強大な権力をもってたり、集団てまやって来ます。だから、怖くて抵抗もできない。抵抗できないから、相手はさらに図にのってエスカレートします。魔女のレッテルがはられた人物が一人処刑されると、また別のターゲットをみつけ迫害されます。そんなことが10年どころか200年以上続いたのだから恐ろしい。

「女王の教室」の鬼教師の「(人間は、人をいじめることに喜びを感じるから)大事なのは自分たちがそういういじめにあった時に、耐える力や解決する方法を身につける事なんです。」という台詞があります。要するに当事者同士でなんとかしろということ。僕は、これは半分は正しいが、半分は間違っていると思います。イジメがあっても、「仕方がない」と放置するなんて。ましてや耐えるなんて逆効果です。魔女狩りは為政者も周りの人間もそんな態度だったから200年以上続いたのですよ。

「魔女狩り その4」の記事でも取り上げましたが、バンブルクというドイツの街でゲオルク2世という司教が猛烈な魔女狩りを行っていました。それでバンブルクの住民は周辺の都市の有力者に助けを求めに行ったのですね。幸い周辺都市の有力者たちは、バンブルクの住民を助けてくれて、それがゲオルク2世の失脚にもつながりました。もし有力者たちが「耐える力を身に着けたり、自分で解決しろ」なんて言ってたら、バンブルクの街でさらに犠牲者は増えただろうし、猛烈な魔女狩りもゲオルク2世が死ぬまで続いたでしょうね。

僕の学生時代の恩師は、イジメにたいして非常に厳しい態度で臨みました。僕もイジメにあいましたが、自殺せずにすんだのは先生のお陰です。

イジメとか集団ヒステリーは本人もしっかりしなきゃいけないが、当事者同士で解決するのは非常に困難です。結局、魔女狩りも当事者同士で解決できず、外的要因や魔女狩りの第三者的存在が声をあげたりして、なんとか収まったのですね。

※ 参考
NHK BS 『ダークサイト・ミステリー』

前回までの記事で魔女狩りのひどさを書かせていただきましたが、科学や学問の発達に比例し、魔女狩りも次第に落ち着いていきます。今日はそのあたりを書かせていただきます。まずは魔女狩りに関係する科学者のお話をします。


1 魔女狩りと科学者

  近代天文学の祖ケプラー(1571年12月27日 - 1630年11月15日)はドイツの有名な科学者で「ケプラーの法則」を発見しました。ケプラーの母親は魔女と疑われ、牢屋に入れられたそうです。ケプラーの母親は薬草を売っていたらしく、それで魔女だと疑われたとか。ヒドイ話です。

ケプラーは母親のぬれぎぬを晴らすべく頑張ったみたいです。息子の努力も実りケプラーの母親は無罪になりました。親孝行ですねえ。まるで僕みたいwww自分で言うなってかw

フランシス・ベーコン(1561年1月22日 - 1626年4月9日)はイギリスの哲学者です。彼はシェイクスピアと同世代に生きた人物で、ベーコンとシェイクスピアは同一人物だという説まであるみたいです。彼は哲学者なのに魔女狩りと拷問ごうもんを容認していました・・・

「(魔女達に)苦痛を与えることによって自然の本質が理解できる」と言ったそうです。おっかないですねえ・・・学校や職場のイジメを「精神をきたえるためにも必要だ」と言っているようなものです。また、ベーコンは魔女を取り締まる法律の立案に協力したようです・・・

アイザック・ニュートン(1642年12月25日 - 1727年3月20日)は木から落ちるリンゴを見て、「勿体ねえ!!俺が食べてやる」と言った人物。
「万有引力の法則」を発見した人です。地球には引力があるという事を発見したのです。

ニュートンも魔女の存在を信じていたそうです。それと、ニュートンは錬金術れんきんじゅつにも熱心に取り組んでいたそうです。ちなみに、錬金術とは魔法で金を作ろうとしたのですが、それは失敗に終わります。しかし、錬金術は失敗したものの、金を作り出すための実験は、科学の発展にもつながったのです。

このころは科学者といえど、魔女の存在を信じる人が少なくなかったのですね。

2 下火になる魔女狩り
 17世紀(1601〜1700年)になると魔女狩りも下火になってきます。魔女狩りが下火になった理由は、科学の発展、ルネ・デカルト(※1)によって物事を懐疑的にとらえる思想が広まったこと、内部告発者がでたこと(※2)、裁判のやり方が変わった(魔女裁判で極刑がなくなった)だとか色々な説がありますが、はっきりとした理由はわかりません。

はっきりした理由がわからないものの、魔女狩りを禁止する法律が作られるようになったことも無視できないのではないかと。もともと人間には人をいじめたり、迫害する要求が潜在意識にあるようです。『女王の教室』でもオニ教師が「人間が生きている限り、いじめは永遠に存在するの。なぜなら、人間は弱いものをいじめるのに、喜びを見出す動物だからです。」といっていましたっけ。

魔女狩りというのは、当時の為政者や司教たちが、庶民に「魔女をいじめてもいいよ」ってお墨付きを与えたようなものです。だから、庶民たちはここぞとばかりに魔女狩りをしたのでしょうね。それが、お上から魔女狩りを禁止されたから、庶民たちも「魔女をいじめて罰せられるのでは合わない」って徐々にやめるようになったとも考えられます。

近年、学校でいじめにあった子の家族がイジメた子供の親に対して裁判を起こし、慰謝料を請求したという事例もありますし、裁判まで行かなくても、いじめた子の保護者に内容証明を送るとだいたい、それでいじめが収束するという話も聞きます。弁護士から書面が届けば、いじめっ子の親も子どもにやめるよう注意するからでしょう。そら、我が子のいじめが原因で罰せられたり、賠償金を払う羽目になったら合いませんよね。


ともあれ、ヨーロッパ社会において魔女狩りは18世紀(1701〜1800年)のなかごろになくなりました。

3 アメリカの魔女狩り
 ところが、魔女狩りは意外な場所で息を吹き返します。新天地アメリカ。それはマサチューセッツ州のセイラムという街で起こりました。ヨーロッパからの移民が開拓した街の一つです。それは1692年の出来事です。ある日、10代の少年や20代の青年数名が異常行動をしだしたのです。なぜ、そんな異常行動をとったのかを彼らにきいてみると、その中の一人が「魔女が自分たちに呪いをかけている」といったのです。

当時アメリカの各地で、先住民(インディアンの襲撃にあったり、伝染病が流行ったり、農作物の不作など、人々の間で不安が高まっていったのです。そうしてセイラムで、自分たちがこんな大変な思いをするのは魔女の仕業に違いないと思うようになったのです。こうしてセイラムで魔女狩りが始まりました。それは一年ほど続いたといいます。人口およそ1700人のうち、逮捕者は約200人、処刑者は19人もいたといいます・・・

魔女狩りを鎮めるような権力者が不在だったこともあり、皆が皆「あいつが魔女じゃないか」って疑うようになり、隣人同士の殺し合いもあったそうです。


4 魔女狩りはなくなったものの・・・ 


 魔女狩りそのものは無くなりましたが、魔女狩り的な集団ヒステリーがなくなったわけじゃありません。たとえば、ヒトラーやナチスに熱狂したドイツ国民もそうだし、戦前の日本もそうでした。『はだしのゲン』に出てくる鮫島伝次郎は、戦争に反対するゲン親子を非国民といじめる描写がありますが、実際そうしたヒコクミン狩りは戦時中おこっていたのです。それから戦後も、中国で文化大革命というものがありましたが、それはひどいものでした・・・紅衛兵とよばれる若者たちが、大人たちを集団リンチしたり、お寺を破壊したりしました。文化大革命に関しては、陳凱歌監督の『さらば、わが愛ー覇王別姫』にも描かれております。

最近のヨーロッパでも起こっているのです。SNSで「私たちの子供を誘拐して臓器売買をする奴があらわれた」というデマが書かれ、ロマとよばれる人たちが「誘拐犯」のレッテルをはられ、(デマを信じた)心無い人たちに襲撃された事件が起こっています・・・

ヨーロッパだけでなく、2018年のインドでも見慣れぬ車を住民たちが襲撃され、車の中に乗っていた人がころされてしまった事件もおこっています。これも「誘拐犯がいる」というSNSの書き込み。

メキシコでも2018年に一人の人間が集団リンチにあったあげく、焼死したという事件が起こりましたが、これも「誘拐犯がいる」というSNSの書き込みが原因。

日本では、コロナの影響で自粛警察なんて出てきました。自粛期間中に営業している店に張り紙をはって嫌がらせをしたり、東京から地方に来た車のナンバーが壊されたりという事件も起こっております。また、執拗なSNSによる批判に心を痛め自殺をした方もいらっしゃいます・・・


※ 1 フランスの哲学者ルネ・デカルトの一番有名な言葉は「我思う故に我在り」。すべての意識内容は疑いえても、意識そのもの、意識する自分の存在は疑うことができないということ。


※2 たとえば、ドイツのイエスズ会士フリードリヒ・シュペー。彼のことは前回の記事でも触れさせていただきました。→http://ehatov1896rekishi.diary.to/archives/2489208.html

参考文献
ウィキペディア

歴史能力検定世界史2級の問題用紙


週刊歴史のミステリー No.2 (2008/2/12号)
(株)デアゴスティーニ・ジャパン
2008







魔女狩り (岩波新書)
森島 恒雄
岩波書店
1970-06-20






〔コミック版〕はだしのゲン 全10巻
中沢 啓治
汐文社
1993-04-01

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