history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

1 団塊はパワハラ世代⁉︎
近年パワハラが問題になっております。20年くらいまでは考えられなかったことです。昔は、上司に理不尽でひどいことをされても「厳しくするのは、あなたを鍛えるため」だとか「根性が足りない」という感じで、周りの人も世間もパワハラされても我慢しろみたいな雰囲気があっただけに、本当に驚いています。もちろん、今でもそんなことを言う方はいらっしゃいますが、昔に比べると減っている印象です。

あと、団塊の世代とその前後5年生まれの人が、退職してからパワハラが問題視されるようになったという意見もあります。僕の職場にもいたなあ。短気ですぐ怒鳴る人。年齢から言うと団塊の世代。その人が退職してから、職場も静かになりましたよ。で、Twitterでも何げに検索したら、団塊及びその5年前後生まれの人が退職してから、パワハラや怒鳴り声がウソのようになくなり、上司もソフトな感じの人になったなんて、つぶやきを見かけましたっけ。(逆に団塊がいなくなってパワハラが増えたなんて意見もありましたが)

昔は多かったのですね、会社ではパワハラ上司、家に帰ればモラハラ親父という人が。一概に言えないが、団塊とその前後はその傾向はありました。僕は団塊ジュニア世代ですが、父親がそういう人だったって話は聞きます。それで子供は家庭の中のイライラを、学校で自分より弱い子にぶつける。昭和60年ごろ、小学校や中学校のいじめが問題になりましたが、そういうことも理由の一つかも?









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1 秀吉の経済政策
1582年の本能寺の変で信長が明智光秀に討たれた後、信長の後を継いだのが豊臣秀吉。秀吉の経済センスはすごいものでした。有名なのは太閤検地。それまでばらばらだった測量方法を統一し、全国の領地を調べ上げました。コメの生産高を正確に把握し、効率よく年貢を集めることができたといいます。そうやって秀吉は財政基盤をつくりあげました。秀吉は日本を平定した後、さらなる経済発展のために途方もない計画を立てました。それが明国出兵。明は高価な陶磁器や絹織物があふれる巨大市場。しかし海禁政策のため、貿易は厳しく統制されておりました。秀吉は中国市場をこじあけようとしたのです。秀吉が明国出兵を思いついたのは、中国をわが領土にしたいという意思は初めはありませんでした。明と日本との貿易を再開し、アジア経済の活性化を目指したのです。しかし、明が日本の申し出を拒否。それで力づくで明をねじふせようとして、手始めに朝鮮半島に出兵したのです。

しかし、中国の地を狙っていたのは日本だけでなく、スペインも狙っておりました。スペインを束ねるのは征服王・フェリペ2世。フェリペ2世は世界征服をマジで狙っていて、世界で初めてアジアとヨーロッパを統一する壮大なビジョンを抱いておりました。世界の市場がひとつに統一されれば、より大きな利益を生むはずだと考えました。

フェリペ2世に先んじて、明を支配しておきたい。しかし、戦争をするにしても、ましてや海外進出となると、そのためにはお金がかかります。それで秀吉は日本中の銀山を開発していたのです。いわゆるシルバーラッシュ。日本の銀の産出量は世界の3分の1を占めており、世界でも「日本は銀山王国」だと広く知れ渡っていたほどです。

そして秀吉は明国出兵の足掛かりに朝鮮半島に出兵。さらに秀吉は明の遠征と同時にスペインのアジアにおける拠点、フィリピンへの侵攻も計画していたといいます。もし、秀吉がフィリピンにも進行していたらスペインと日本との激しい争いになり、それが世界を巻き込むような大戦争になる恐れがあったのです。アジアを発火点に「最初の世界大戦」が起きる可能性もあったのです。ところが、1598年にフェリペ2世と秀吉が死去したため、その危機は免れたのです。本当に危なかった。

2 家康の経済政策
 秀吉の死後から2年たって、関ケ原の合戦がおこりました。東軍率いるは徳川家康。西軍率いるは石田三成。総勢20万の人が入り乱れて戦う、すさまじい戦でした。この戦で勝利を収めた家康は、壮大な経済構想をたてました。家康は1603年に江戸に幕府を開きました。しかし、当時の江戸は湿地が広がる小さな田舎町。急ピッチで建物の建築を進めたものの、大都市とは程遠いものでした。当時、日本で最も栄えていたのが豊臣家の本拠地大坂でした。豊臣家は豊臣秀頼が後を継ぎ、秀吉が残した経済力と、秀吉に忠誠を誓った家臣団を抱えており、家康を脅かしておりました。

豊臣家に対抗するには経済力と軍事力が必要。それで家康が目を付けたのが貿易です。特に商人たちが興したオランダは家康に接近してきました。オランダは家康は武器を買うように提案してきました。これは家康にとっては渡りに船でした。オランダの後ろ盾を得た家康は、豊臣家に戦いを挑みます。大坂の陣です。徳川軍は大阪城に攻め込みますが、鉄壁の守りを持つ大坂城を落とせません。それで家康が頼みの綱としたのがオランダです。家康はオランダから最新式の大砲を買います。オランダの大砲を用いて、大坂城を攻撃。砲弾は天守の御殿を直撃。豊臣家をビビらせたといいます。そして、いったん休戦をして、大坂城の堀を埋めてしまいます。堀を埋められたら、さすがの難攻不落の大坂城もたまったものではありません。そして大坂城は落城。豊臣家はほろんだのです。

敵がいなくなった家康は貿易をすすめました。家康はキリスト教には厳しい態度でしたが、貿易には寛容な態度をとってきました。朱印船を送り東南アジアのほうにも貿易をしていたのです。その時の日本の輸出品が、火縄銃やヤリ、日本刀、それから日本人の傭兵など。

そして、家康は貿易を通して経済力を高め、300年近く続く幕府の基礎を築いたのです。
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1 交通整備
戦国時代は敵が領内に入り込むことを警戒していました。敵に領地に入られることを防ぐため、道を狭く曲がりくねった悪路にしたり、川にもほとんど橋をかけなかったと言います。

しかし、信長はそんな戦国時代の常識などお構いなし。信長はこんな命令をしたと言います。


  1. 入江や川には船を並べた上に橋をかけ、石を取り除いて悪路をならせ


  2. 本街道の道幅は3間2尺(約6・5m)とし街路樹として左右に松と柳を植えよ


  3. 周辺のものたちは道の掃除と街路樹の手入れをせよ


道幅がぐーっと広くなり、道も平たんでまっすぐに整備したから、通行人が通りやすくなりました。さらに道路の両側に松や柳を植えて、夏には通行人が木かげで休めるようにしたのですね。そこまで行き届いているのですね。

さらに信長は排水溝も作ったり、今でいうバイパスみたいなものも作っています。こうした信長による道の整備は、道を通る行商人や通行人には喜ばれたことでしょう。交通インフラの整備によって商品流通を活性化させたのですね。

ただ、これだけ道を整備し、とおりやすくするということは、逆にいえば敵からみたらありがたいことです。そうなると敵が攻めやすくなるのではないか、信長にとって自殺行為ではなかろうかって話になりますが、信長はそういう弱点を跳ね飛ばすほどの経済力、そして軍事力を持っていたのですね。

信長は莫大な経済力をもって軍事力を強化したのですが、信長の軍事強化もこれまでの常識を破るものでした。

2 兵農分離と城下町整備
まず信長が行ったのは「兵農分離」。戦国時代の兵士たちは基本的に農民です。普段は農民として田畑を耕していたのですが、戦争になると戦地に赴くのです。だから農繁期は戦に出ることができませんし、長期遠征などできません。信長は戦に専念できる兵士が欲しいと思ったのですね。いわゆる職業軍人が欲しいと。当時の家制度は長子相続で、長男が跡取りになります。それで信長は長男には農民として働いてもらい、次男や三男を召し抱え兵士となってもらおうと。そうして集められた兵士の集団を親衛隊。

さらに召し抱えた兵士たちを城下町に住まわせたのですね。そして、刀、やり、鉄砲という武器ごとに分けて集団訓練を受けさせたのですね。こうした共同訓練を受けさせ高い組織力と機動力を強化し、強くなっていったのです。また兵士たちを城下町に住まわせることで城を護衛することもできたのですね。

城下町といえば、信長は何度も居城を変えているのですね。清洲城→小牧山城→岐阜城→安土城と城を何度も変えているのですね。そして変えるたびに城下町も広くなっていくのですね。城下町を拡大することで、商人を集め、より多くの税収を集めることができるのです。特に信長が最後に構えた安土城は京にも近く、大坂を中心とした畿内経済圏、名古屋を中心にした中京経済圏の中間にあたり、さらに中山道や八風街道はっぷかいどうが安土を通っており交通の要所でもあったのです。


3 鉄砲と鉄甲船
そして、信長といえば鉄砲。鉄砲を用いて強敵たちと立ち向かったのです。もちろん、信長以外の大名たちも鉄砲に目をつけていました。しかし、多くの大名たちは鉄砲に手をつけなかったのです。なぜなら、当時の鉄砲は火縄銃だから。火縄銃は強力な反面、弾を込めるのに時間がかかるし、火縄銃自体も高価だったのです。火縄銃一丁買うのに現在のお金で50万円もかかると言いますから。なかなか普及しなかったのです。でも、信長は経済力が高かったから、他の大名よりも多く鉄砲を導入することができたのです。

特に武田騎馬軍団との戦いは壮絶なものでした。相手は戦国最強といわれている騎馬軍団。まともに戦ったら勝ち目がありません。それで信長が現在の価値で15億もの大金をはたいて、鉄砲3千挺も購入したのです。長篠の戦では、一発撃つごとに先頭を交代する(*1)という斬新な戦い方で武田軍を打ち破ったのは有名な話です。

しかし、いくら鉄砲があっても、火薬や弾丸がなくては、何の役にも立ちません。実は、鉄砲の弾丸と火薬も信長はあっさりと調達することができたのです。

弾丸には鉛が使われておりました。鉛は日本では珍しいものでした。信長軍の弾丸は海外、それも東南アジアのタイの鉱山でとれた鉛を使っていたといいます。

オランダやポルトガルなどのヨーロッパ諸国は当時大航海時代。こうしたヨーロッパ諸国がアジアにも進出してきたのです。

1572年、カブラルという宣教師が信長の館に訪れます。カブラルは信長にキリスト教の布教の許しをもらうと同時に、日本では取れない貴重な鉛の取引を進言しました。信長は布教を許す代わりに、宣教師たちのもつ交易ネットワークを信長が利用したのではないかと考えられております。戦乱が続き、国内で不足しがちだった軍事物資を信長は海外から調達をしたのです。

火薬は硝石を使っていました。これも海外からの輸入品です。信長は堺を抑えていたから、こうした貿易を通して海外の物資をいち早く手に入れることができたのです。


そして、信長の軍事力の集大成と言えるものが鉄甲船。元亀元年ゲンキガンネン(1570)に石山合戦が始まりました。石山本願寺の顕如が信長に立ち上がったのです。顕如は毛利輝元に支援を求めます。毛利は毛利水軍700そうを大坂に差し向けます。信長は毛利水軍と戦いますが、あえなく敗退。毛利軍は海の戦いに強いですから。それで信長は伊勢志摩水軍に命じて燃えないような強力な船を作れと命じます。そうしてできた船が鉄甲船。全長約23mの巨大な船だったそうです。この鉄甲船を作るのに莫大な費用がかかったから、これも信長の経済力のなせる技。そして鉄甲船をもって毛利水軍を打ち破ったのです。





*1 この戦法には諸説あり。
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(永楽通宝。Wikipediaより)

本題に入る前にクイズです。戦国時代に永楽通宝エイラクツウホウという貨幣が流通しておりました。さて、この永楽通宝の「永楽」の何からとられた名称でしょうか?



  1. ラーメン屋の名前

  2. 中国の皇帝の名前

  3. 銅の産地

  4. 元号



まさか、1番を選ぶ方いらっしゃいませんよねw?ラーメンの原型となる食べ物がすでに室町時代に日本に伝わり、水戸光圀ミトミツクニ公もラーメンを食べたなんて話もありますが、少なくともラーメン屋さんなんて、この時代にありません。正解は2番です。永楽通宝は、明の3代皇帝永楽帝からとられた名称です。

永楽通宝は日本で作られた貨幣ではありません。中国からの渡来銭トライセンで、日本では室町時代から江戸時代初期まで使われておりました。

今日から3回にわたってお金、つまり戦国時代の経済にまつわるお話をします。かといって戦国武将の経済政策を全部取り上げたら大変なので織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人をピックアップします。彼らの活躍の背景には豊かな経済力がありました。戦国時代を生き抜くためには、やはりお金が必要だったのです。

1 役職よりもお金
 織田信長は、戦争中、自軍の旗に「永楽通宝」の絵を描かせました。永楽通宝は当時流通していた貨幣です。それは「銭の力で天下を取る」という意思表明。信長は武力よりも経済力で天下を取ろうとしたのです。

織田信長は、今川義元、斎藤義龍といった強敵を打ち破り破竹の勢いでした。そして永禄11年(1568)に信長にとって天気じゃなかったw転機が訪れます。足利義昭が、信長に支援を要請したのです。足利義昭を擁して上洛ジョウラクしました。6万の兵をもって京を制圧。そして義昭は晴れて15代将軍になれました。大いに喜んだ義昭は信長に褒美を取らせることに。

はじめは義昭は信長に管領(※1)になるよう勧めます。この当時の信長は例えるなら新興企業の社長。それを内閣に入閣して、大臣になれといっているようなもの。これは信長にとって大変な出世。しかし、信長は「身に余ること」と辞退。すると、今度は副将軍になれと義昭は言います。これは大変なことです。副総理になれと言っているようなものですから。それも信長は拒否。義昭は首を傾げ、「何が欲しいのじゃ?」と尋ねます。すると、信長は、

「堺、大津、草津(*2)に代官を置かせていただきたい」


代官を置くとは直轄地にするということ。義昭は「そんなことでいいのか」とあっさり信長の要求を認めます。信長は意外と無欲だなって思ったことでしょう。実は、これこそ信長にとって重要なことだったのです。信長にとって大事なことは天下を取ることです。天下を取るには経済力が必要だということを信長は見抜いていたのです。

そのためには商業な街を手中に収めることが大事。大津や草津は琵琶湖水運の港町で商業も盛んですし、堺は当時の日本最大の貿易港で、流通も盛んでした。日明貿易や南蛮貿易で外国からの船もたくさんやってきます。海外の珍しい商品が市場に出回るようになりました。

フランシスコ・ザビエルは「日本のほとんどの富がここに集まっている」と評すること。

役職をもらって室町幕府に取り込まれるよりも、港町からの莫大な税収や貿易で得た利益などを軍資金にして天下を取ろうと思ったのでしょう。いつの時代もお金を握った人間は強いですからね。

2 楽市楽座
革新的な経済政策をとりました。たとえば、永禄11年に出された「楽市楽座」。これで商業の自由を認めたのです。それまで商人は定められた市でしか商売ができなかったのです。しかも市の多くは寺社の境内や門前に開かれることが多く、商人は寺社に地子銭ジシセンという場所代を払わなくてはならないです。それが自由に商売ができるようになったのです。

また、それまで「座」と呼ばれる商品の独占販売権をもつ同業者組合があって商人は、どこかの座に所属していないの商売ができなかったのです。しかも座を保護している公家や寺社に冥加金ミョウガキンという売上税も払わなくてはいけないのです。それを、信長があらゆる業者が座に所属せずとも自由に商売ができるようにしました。しかも以前よりも安く設定した売上税のみを自社ではなく信長側に支払うように命じました。

最も楽市楽座を初めてやったのは信長ではなく、六角義賢ロッカクヨシタカが最初です。それも信長より20年も早く。言い方は悪いけれど信長は六角氏の政策をパクったのですね。ただ、パクったのではなく時代に合わせて進化させました。とはいえ、信長の楽市楽座で商業は活性化したのは事実。

3 関所の撤廃
 さらに信長は通行税を取り上げる関所の撤廃。これにより商品を自由に流通できるようになりました。関所というと江戸時代を思い出しますが、江戸時代の関所と違い、戦国時代の関所は税関や高速道路のインターチェンジみたいなもの。公家や寺社が自領の荘園内を通る道に勝手に関所を設けていたのです。それで通行税を取っていたのです。これは公家や寺社の収入源だったのです。ひどいところでは一里(4辧砲隆屬40ヶ所も関所があったと言います。こりゃ通行人はたまりません。行商人は通行税でとられた分を商品に上乗せしたものだから商品の値段も高くなってしまいます。これでは商売になりません。関所を取っ払ってくれたのだから、通行人や行商人にとっては信長は神様のような存在でしょう。

しかし、それまで市や座、関所の通行税で儲けていた公家や寺社が不満を持つのですね。収入がなくなったのだから。特に寺社の反発は相当大きかったと思います。のちに信長が延暦寺を焼きうちにしたのは、ある意味寺社に対する見せしめでもあるのかも。

また、公家や寺社は荘園を持っていて莫大な税収人があったから武家に対抗できる大きな権力を持っていたのです。それで信長は、楽市楽座や関所撤廃で公家や寺社の経済力を削いで、武家に対抗できる力を弱めようとしたのですね。信長のこうした政策は経済発展だけでなく、公家や寺社といった勢力の弱体化も進めていたのですね。


※1管領とは将軍を補佐して幕政を統括する役職。
※2 草津と言いましても群馬の草津ではありません。戦の疲れを温泉で癒そうと信長が思ったから草津が欲しかったではありませんw滋賀県の草津です。
※この記事は
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野村克也さんがお亡くなりになられて、一年以上経つのですね。月日の経つのは早いものです。僕は野球をやるのは苦手ですが、見るのが好きで、野村さんのご著書はけっこう読ませていただきました。
でも、野村さんが大変な苦労をされたことをしり大変驚きました。

野村克也さんは、京都府竹野郡網野町キョウトフタケノグンアミノチョウ(現: 京丹後市 キョウタンゴシ)に野村家の次男としてお生まれになりました。

野村さんの実家の家業は食料品店。3歳のときに日中戦争に出征シュッセイしたお父様が満州にて戦死したのですね。網野町は丹後ちりめんの産地で周囲は裕福ゆうふくな家庭が多い一方、野村家は貧しく、劣等感レットウカンにさいなまれたのですね。


看護師カンゴシだったお母様は病弱で野村克也さんが小学校2年生と3年生のときに二度もガンわずらいい、非常に大変な生活をされたのですね。野村さんはご著書で「母の幸せそうな顔など見た覚えがない」、「この世に、苦労をするために生まれてきたような母だった」とおっしゃっておりました。

それで、家計を少しでも助けるため、野村克也さんは小学校1年生の頃からお兄様と共に新聞配達やアイスキャンディー売りなどのアルバイトをしたのですね。また、父の戦友の助けやお母様の糸繰りの仕事もあり、何とか生活は出来たそうです。


貧乏ビンボウ生活から脱却ダッキャクしたいとの思いから、将来は歌手になろうと中学校のコーラス部に所属したり、俳優になろうと映画館通いをしたりしていたのですが、当時プロ野球の大スターであった赤バットの川上哲治さんや青バットの大下弘さんのあこがれもあったりで、野球選手を目指したそうです。野村さんがプロ野球選手を目指したのも、「お母ちゃんを楽させてやりたい」との一心からだそうです。


しかし、野球をやるとなるとお金がかかります。野村さんは、短パンでランニングシャツで野球をやり、試合に行く時は、後輩にユニホームを借りたとか。周囲からは「野球なんてやらずに家の仕事を手伝え」と言われたそうですが、野村さんは「兄が野球をやらせてくれた。」と回想されています。

それで本当に野村さんが本当に野球選手の夢をかなえたのだから、すごいなって。自分の夢をかなえつつ親孝行もしたいと。たいていの人は、他のことを犠牲にしてまでも自分の夢を取るか、夢を捨てて別の道を歩むかのどちらかなのに。野村さんがいかにすごい努力をされたかが伺えます。


野村さんがプロ野球に入ったとき、お母様は大反対されたそうです。そんなお母様がプロで成功した頃、ぽつんと野村さんに言った言葉が

「私は、生まれてきて、いいことはなかった。けれど、いい息子には恵まれた」

そして、お母様は、野村さんがプロ入りして15年目、8年連続でパ・リーグのホームラン王を獲得カクトクした1968年(昭和43)のシーズンオフに帰らぬ人となったそうです。野村さんは生前に親孝行ができて本当によかったなあって。僕も母を亡くしましたが、苦労ばかりさせて結局親孝行ができなかったものなあ・・

野村さんは現役時代輝かしい成績を残しましたし、監督としても大変すらばらしい功績を残しましたが、野村さんが一番誇れるものは、野球でもお金でもなく、お母様だそうです。

今の自分があるのはたくさんの方のおかげだと前置きした上で、「母が苦労しながら病弱な体で頑張り抜いて支えてくれたから、今の私があります」と野村さんはおっしゃっています。





*参考文献及び参考サイト
憎まれ役 (文春文庫)
広務, 野中
文藝春秋
2009-11-10




https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202002120000327.html

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