history日誌

昭和12年7月7日に日中戦争が勃発すると、国内でも次第に戦時体制が強化されるようになりました。よく、戦前は暗黒時代といわれておりますが、日中戦争がはじまる前くらいは、それほど窮屈な時代ではなかったようです。とくに大正時代は大正デモクラシーがおこり、自由が叫ばれたほどです。

昭和12年当時の近衛内閣は国民精神総動員運動を開始しました。「挙国一致、尽忠報国、堅忍持久」のスローガンがかかげ、国民が積極的に戦争に協力して国家に忠誠を誓えと言い出したのですね。いまの〇本〇議が喜びそうな運動ですね。

日本で独裁者といえば、東条英機のイメージがありますが、意外にも「国家精神総動員運動」は独裁者のイメージがなさそうな近衛文麿が首相の時だったのですね。

具体的な活動といえば、神社への参拝、出征兵士の送迎、戦没者の慰霊、遺族への弔問。

また、莫大な軍事費をねん出するために、国民に国債を買わせたり、貯蓄や節約を奨励しました。たとえば、昭和16年の軍事予算は223億3千万円以上でした。すごいですよね。政府は貯蓄目標を設定しました。昭和17年は230億円でしたが、次の年の昭和18年は270億円にアップしました。

昭和18年当時の総人口約7千4百人で割ると一人当たり年間365円(月およそ30円)貯蓄せよということになります。当時のサラリーマンの初任給がだいたい月額100円前後でしたから、その中から毎月30円を国のために貯金せいというのだから、けっこうキツイですよね。夫婦であれば、夫の収入だけではきついので、主婦は節約に励んだり、内職をしたりしたそうです。主婦だけでなく、高齢者や子供までも尽力したといいます。しかも貯蓄目標は年々アップしたというから、大変です。


ぜいたくになりがちな冠婚葬祭の在り方についても色々とケチがつけられました。たとえば、結婚式のありかた。

1 披露宴は小範囲にとどめ、数回にわたらないこと。
2 披露宴は二時間以内。茶菓子は小宴の程度にとどめ、引き出物、お土産は絶対に廃止すること。
3 隣組に対し、あいさつ回りをする場合は物品を用いないこと。
4 見合いの写真や新郎新婦の記念写真はキャビネ以下、参列者の記念写真は八つ切以下とする。
5 新婚旅行はなるべく廃止すること。



いくら戦時中だからとはいえ、披露宴とは一生に一度の宴。悔いの残らないように盛大にやりたいですよね。節約が大事とはいえ、あれもダメ、これもダメでは国民の戦う気力がかえって失うのではないかと思うし、節約もやりすぎると国内の経済も回らなくなるのではと余計な心配もしてしまいます。


戦争には莫大な費用がかかるというので、国債の購入も奨励されました。国民がせっせと買った国際は戦後100倍ともいわれる急激なインフレによって、国債は紙くず同然になってしまいましたが。

金属の回収も推進されました。昭和12年に国家総動員法が制定され、昭和16年に改訂されました。昭和16年になると中国だけでなく、アメリカとも戦わう羽目になりましたからね。戦争遂行のために人的および物的資源を統制・運用できるようになりました。軍需生産ばかりでなく、鉱工業生産、農業生産も対象となりました。

連合国側が経済封鎖をしたので、石油などの資源も不足し、一方で戦況の悪化で、武器や戦地の兵隊さんにおくる食糧も必要になりました。昭和16年9月1日、政府は兵器生産のために、金属回収令を施行し、鉄や銅を強制的に供出させました。全国各地で寺の鐘、街灯、看板、鉄製ポストなどが回収されました。一般家庭からも日用雑貨(たとえば湯たんぽとか)などの金属製品を供出しました。一応自発的という建前でありましたが、協力しなければ、非国民のレッテルがはられたといいます。

山田洋次監督の「母べえ」にもそうした場面がでてきます。笑福亭鶴瓶さんが演じるオジ様が金属製の指輪をはめていました。それを見ていた町内会のおばさまたちが、その指輪をよこしなさいといいます。それをこばんだ笑福亭鶴瓶さん演じるオジ様が拒むと、町内会のおばさんが「この方は非国民です!」と大騒ぎするのです。ちなみに、町内会のおばさまの一人を田中真弓さんが演じられていました。そう、「ドラゴンボール」のクリリンや「ワンピース」のルフィを演じられたあの田中真弓さんです。

母べえ
吉永小百合
2013-11-26



※ 参考文献









1 ロベスピエール打倒へ
 前回の記事で革命の雄ダントンが処刑されたことを取り上げました。ダントンの処刑は人々に衝撃を与えました。革命以降次々と人が殺され、「草月法」が制定され裁判が簡素化されてからは一日に50人ないし60人も処刑され、さすがに革命推進派の人たちもウンザリしてしまいます。

議員たちはそんな恐怖政治を進めているロベスピエールに不信感を抱くようになります。なにしろ議員たちは汚職だとかスネに傷があるもの。ロベスピエールに批判的な政治家たちは、いつか自分の番がくると恐怖にとらわれておりました。「やられる前にやろう」。反ロベスピエール派は、ロベスピエール暗殺計画に乗り出します。その中心人物が、フーシェ、バラス、タリアンの三人です。


2 テルミドールのクーデター

 1794年7月26日にロベスピエールが国民公会で演説をしました。そのときのロベスピエールの演説の内容が反革命派を厳しく攻撃するものでした。当然それを聴いていた人たちは、不安になります。特にクーデーターを企てていた人たちはなおさらです。

次の日(7月27日)の朝、ロベスピエールの側近サン・じぇすとが国民公会で演説しようとしますが、タリアンに妨害されてしまいます。その日の15時ごろに、ロベスピエールやサン・ジェストらの逮捕が決議されました。ロベスピエールは牢獄に入ってしまいます。しかし、夕方になってロベスピエールらは(ロベスピエール派の)国民衛兵隊によって救出されます。

釈放されたロベスピエールらはパリ市庁舎に入りました。市庁舎前の広場には、パリ48地区のうち16地区の(ロベスピエール派の)国民衛兵隊が集結していました。この国民衛兵隊を率いて、反撃するチャンスです。しかし、なぜかロベスピエールはそれをためらいました。

広場前に集まっていた兵士たちは何も命令がでないことに不安を感じます。ロベスピエールは夜になっても命令を下さない。そんな親分の不可解な行動に兵士たちも少しずつ広場から去っていき、深夜になると広場には誰もいなくなりました。

日付がかわって7月28日の午前2時、バラスが反ロベスピエール派の国民衛兵を率いて、市庁舎を攻撃。その時ロベスピエールは19歳の青年衛兵にピストルで撃たれてしまいます。ロベスピエールはアゴを撃ち抜かれてしまいます。ふたたびロベスピエールたちはクーデター派の手に落ちます。

そして28日に、ロベスピエール、サン・ジェストらは裁判にうけることもなく処刑されたといいます。

3 革命の終わり
 ロベスピエールの行った恐怖政治は誤りであったといわざるを得ません。恐怖政治だけでなく、この革命でも多くの血が流れました。しかし、フランス革命は負の一面ばかりではありません。「国民主権」、「すべての人間に教育を受ける権利」、「思想信条の自由」などはフランス革命によって確立されたものです。フランス革命以前は絶対王政で、王様が偉いというのが普通でした。もし、フランス革命がなければ、いまだに王政が続いていたし、日本でも不敬罪が残っていたかもしれない。


ロベスピエールたちは理想に燃えていました。フランスだけでなく人類の未来をも見据えて革命をすすめてきました。しかし、十分な根回しもないまま、ものごとを急激にやりすぎたために、フランス革命は失敗もしたし、多くの血がながれてしまったのです。

日本でも明治維新があり、そのときも多くの血が流れました。しかし、江戸城無血開城のような話し合いもあったことも見逃すことができません。江戸城無血開城がなかったら、江戸の町は戦火で焼かれ、多くの人が犠牲になっていたことでしょう。この話し合いをした勝海舟と西郷隆盛はGJですね。

おっと、話は脱線してしまいましたね。フランス革命以後、フランスのごたごたが続きます。そのゴタゴタにまぎれて登場したのが、かのナポレオンなのですね。ナポレオンのことはまた別の機会に触れます。

※ 参考文献


平成から令和にかわり、新しい年を迎えることができました。令和の世が平和で楽しい時代になりますように。さて、令和最初の記事はフランス革命の続きです。今日はフランス革命のキーマンの一人、ダントンのお話です。ダントンは、大変魅力的な人物ですが、革命の同志だったロベスピエールと次第に対立するようになり、やがて断頭台で亡くなった人物です。もし、ダントンが生きていたら、フランスの歴史はもっと違っていただろうと思いますし、日本にもダントンのような政治家がいればなあと思わずにいられません。



続きを読む

きょうは、平成最後の日です。僕は40年生きておりますが、今の時点で人生のほとんどを平成という時代にいきてきました。昭和から平成になったのは僕が中学生の時です。たしか、あの時は昭和天皇陛下が亡くなったときで、平成天皇のご葬儀の日には雨が降っていたのも覚えております。平成最後の東京も雨がふっております。「平成」と書かれた色紙を掲げたのはいまは亡き小渕恵三元総理でした(当時は官房長官)。平成になって、僕もいろいろなことがありましたが、もうすぐその平成が終わるのかと思うと寂しい気分です。

さきほど、天皇陛下の退位のお言葉をきかせてもらいました。陛下の平和への思い、そして全世界が平和になることを願っていることがひしひしと伝わってきました。

きょうはフランス革命のお話の続きをしようかと思いましたが、それは新しい令和の年になってから書かせてもらいます。きょうは僕が個人的に印象に残った平成のニュースを5つあげます。僕が思いついた順で書かせてもらいますので、あくまでも、順番はニュースの重要性とは一切関係ありません。あらかじめご了承ください。



 
 続きを読む

1 恐怖政治の要となった裁判所
 久々にブログを書かせていただいております。寒い日が続いていたのと、個人的にいろいろ忙しかったので、更新が滞ってしまいました。さて、前回の記事で恐怖政治のことを取り上げましたが、恐怖政治の要となったのが「革命裁判所」です。この裁判所は恐怖政治が始まる半年前、1793年3月に出てきていました。

1792年9月に、民衆がパリの監獄をおそい、囚人千数百人を虐殺する「九月虚殺事件」がありました。革命指導者たちは、こうした事件が起こるのを恐れたのでしょうね。ジロンド派は、この裁判所ができることで、独裁政治が起こるのではないかと裁判所設置に反対しましたが、ダントンが押し切ったといいます。

革命裁判所は「あらゆる反革命的企て、自由、平等、統一、共和国の不可分性、国家の内的および外的安全を脅かすあらゆる行為、王政を復活させようとするあらゆる陰謀」にかかわる事件を管轄する特別法廷で、控訴・上告はいっさいなく、ここで下された判決は、即確定というものです。極端なはなし、革命三番で「お前は気に入らん、反革命分子」だという判決が下されば、即死刑になってしまうこともあるという大変恐ろしいものです・・・

2 ギロチンでおびただしい人が処刑
 死刑判決の割合の推移をたどると、1793年4月から1793円8月までに革命裁判所で裁かれた224人のうち死刑は52人と約4分の1でした。しかし、革命裁判所の再編強化がされると状況がかわってきます。1794年になると4月だけで155人が死刑になり、1794年6月に「草月法」が制定されるとさらにひどくなり、ひと月で796人も殺されてしまうのです・・・。革命裁判所が1793年3月に設置されてから廃止されるまで、死刑になった人の数は2800人にのぼりますが、そのうち半数の1300人が「草月法」以降のたった一か月半の間に処刑されたといいます・・・

3 マリーアントワネットの死

 マリー・アントワネットは、恐怖政治の最初の犠牲者です。マリー・アントワネットを殺せという声は非常に高かったことがうかがえます。1793年8月1日にタンプル塔から革命裁判所付属の牢獄コンシェルジュリにアントワネットは身柄を移され、10月14日に革命産所法廷に出廷しました。コンシエル受理に収監されていた二か月半の間には、アントワネット救出の試みも何度かなされましたが、こごとく失敗に終わりました。

革命に敢然と敵対したのは、いかにもアントワネットらしかったです。「国は国民のもの」と出張する革命家たちは、彼女をとんでもない悪人とおもったことでしょう。戦争中、敵国に軍事機密を流すのは革命の世では「国家反逆罪」で死刑に相当する重罪です。しかし、彼女にしてみれば、実家に助けを求めようとしただけでした。法廷では9歳になる息子といかがわしい行為にふけたとか、いわれもない非難も受けたといいます・・・・

その時アントワネットはこのように反論しました。

「一人の母親に対してなされたそのような非難にお答えすることは自然に反します。私は、ここにいるすべての女性たちの証人になっていただきたいと思います」

2日間の裁判で死刑を宣告され、パリの街を粗末な荷車に乗せられ死刑場にアントワネットは運ばれました。その時のアントワネットの髪は真っ白で、その姿は老婆のようにふけこみ、やつれはてていたといいます。

※ おまけ
僕がブログを書くのをさぼっているw?間、フランスで事件がおこりました。ノートルダム寺院の火災です・・・原因はたばこの不始末だとか・・・ノートルダム寺院の復興に関して、寄付は割と早く集まっているのですが、この寺院を再建するのに長い年月がかかるそうです。

ノートルダム人はパリっ子にとっては心の支え。その悲しみは大変深いものと察します。一日も早い再建をお祈りします。


※ 参考文献

このページのトップヘ