history日誌

歴史と歌が大好きな私が日本史から世界史まで広く浅く書きます。 歴史の知識は素人レベルで、私が語る歴史の内容が真実かどうかは自信はありませんがw、楽しんでブログを書いていきます。教科書に載ってないようなマイナーな歴史の話もします。

1 松倉重政&勝家親子の圧政
 今日は、島原の乱の元凶となった松倉重政、勝家親子の圧政について触れます。この親子の政治はひどいものがありました。まさに、日本の金正日・金正恩親子だと思いました。具体的にはこんな感じ。

  • 分不相応な壮大な島原城をつくり、城づくりに駆り出された領民たちをこきつかった。しかも築城費用は領民負担。ひどいよね〜


  • 重い年貢を領民たちに課した。島原藩は本来4万石なのに、幕府に良い顔をしたくて10万石の年貢を請け負うと約束した。そのために領民たちが苦労した。いまのブラック企業と通じるものがある。


  • 税金をとりまくった。家を建てれば囲炉裏銭いろりぜに、窓銭、棚銭、戸口銭とぐちせんをとられる。子供が生まれれば頭銭、死人が出れば穴銭という具合に。


  • 年貢を納めないものにはみのおどりの刑にした。これは蓑を頭と胴に結び付け、両手は綱で背後にかたくしばられる。そしてこの藁に火をつける。当然、蓑に火をつけられた領民は、「熱い、熱い」と叫んで苦しみのあまりに踊りだす。最悪の場合は焼死。


  • 年貢を納めないものを「水牢」にとじこめた。これは、おおむね腰の高さほどの水に漬かっている牢屋に閉じ込める刑罰。見た目とは裏腹にかなり残酷な刑罰で、座ったり横になって休むことができず眠ることもできない状態に置かれ、そのうちに皮膚が水を吸い過ぎてふやけてしまい破れてしまうというもの。女だろうが子供だろうが容赦なし。中には何日も水につけられ死んだ妊婦もいたとか・・


  • キリシタンの焼きゴテを顔に押し付ける・指を切断する・ムチうちをした。こどもまで海に投げこんだという・・・


  • 松倉氏がやったもっとも最悪なキリシタン弾圧は雲仙岳の拷問ごうもんだ。。雲仙から噴き出す熱湯を体にかけたり、手足をしばって硫黄が噴き出す中へ投げ込んだ。それは恐ろしい地獄絵図だったという・・・


すんげえ悪い奴ですね!まさにキム親子ですね!これで、北のおばさんアナウンサーが松倉家にいたら完璧だ?しかし、松倉重政ははじめからこのような圧政を敷いたわけじゃありません。それどころか、松倉が島原の地に赴任して間もないころはキリシタンには黙認の姿勢をとっていたのです。


2 何が松倉重政を変えたのか

 松倉重政はもともとは大和国(和歌山県)の筒井家の家臣で、大阪の陣などの活躍で出世した人物です。それで、大和国(奈良県)五條藩の領主となりました。そこでは意外にも善政を敷いていたのですね。城下の振興をはかり、商人を集める為に紀州街道沿いに「新町」を開設して商業と交通の要衝となる五條の礎を築いたのです。松倉重政が「豊後守」を名のったことから「豊後様」として高い評価をうけており、彼の功績をたたえた祭りまで行われたというからオドロキです。

それから五條から島原藩へと領地替えをしたのですが、そこで松倉は悪の道を進んだのです。どうして松倉が悪さをするようになったかというと、これは時の将軍徳川家光にも責任があるのですね。家光が、松倉重政にたいしてキリシタンに対して甘すぎると叱責をしたのですね。それでヤケになった松倉はヒトラーばりの悪政を行うようになったようです。

また、江戸幕府は参勤交代をはじめました。これは妻子を江戸の屋敷に預け、江戸まで将軍に謁見えっけんをするというものですが、これが大名にとって大きな負担でした。江戸までの旅費が莫大でした。何しろ何日下手すりゃ何週間もかけて、それも家臣をふくめ大ぜいで江戸までいくのですから。それはお金がかかります。大名一人が飛行機か新幹線にのって帰るのとは訳がちがいます。松倉家の治める島原藩は江戸からうんと離れているから大変だったと思いますよ。

3 人命が粗末に扱われた時代
 松倉親子に限らず、江戸時代初期のころの大名たちは領民を粗末にあつかっておりました。もう人権なってあったものじゃない。領民たちは牛馬のようにこき使われており、高い年貢もとられ領民たちは貧しい生活を強いられ、今でいうワーキングプア状態だったようです。当然、反発する領民も出てくるわけです。しかし、これを領主たちが黙認するはずがありません。

たとえば、会津を加藤家が治めていたのですが、過酷な年貢に耐え兼ね農民たちが直訴をしたのですね。そのことを藩主である加藤氏が家老に「どうしたものか」と尋ねたら、家老は「いざとなったらすべて”なで切り”にしてやるから大丈夫です」と答えたといいます。なで切りとは稲をなぎ倒すように、すべてを切り殺すという意味で、いざとなったら皆殺しにしてやると当時の領主たちは考えていたのです。

また、水戸藩主だった徳川家も自国の領民を皆殺しにしたといいます。それが生瀬の乱と呼ばれるものです。水戸藩の領地内に生瀬なませ村という村(いまの茨城県太子だいご町にあった)があって、そこの重い年貢に耐えかねた領民が徒党を組んだが、水戸藩に弾圧され女こどもまで皆殺しにされ、いまもその村の後は地獄谷とよばれ、地元の人も近寄らないといわれております。

ブラック企業ならぬ、江戸時代初期の日本はブラック国家だったのです。


※ おまけ
雲仙の地獄の様子を紹介する動画をどうぞ。



※ 参考文献






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1 熊本地震から一年
 今日から数回にわたって天草・島原の乱のお話をします。天草・島原の乱のお話をしたいと思うのは、熊本にまつわるお話だからです。(厳密にいえば、この乱で一揆勢が立てこもった原城は長崎県にあるのですが)

今年は東北の地震を風化させてはいけないと、地震のお話や東北にまつわる話をいくつかしましたが、昨年起きました熊本の地震のことも忘れてはいけないと思うのですね。ネットで調べると熊本の地震は回復は進んでいるようですね。しかし、僕は今年東北に訪れたのですが、東北は復興は進んでいるとは聞いていたものの、まだ避難生活を余儀なくされている方々も少なくないですし、原発事故のあった周辺はまだまだ人の住める状態ではないのです。ネットやテレビで言っていることと違っていることにがく然としましたね。僕は震災後熊本に訪れてはいないのですが、実際に現地にいってみるとネットで書かれていることと状況が異なるのかもしれない・・・

前置きが長くなりましたので本題に入ります。

2 島原の乱の発端
 島原の乱の事件の発端になったのは、1637年の10月25日、島原藩の大名松倉勝家の家臣で肥前国有馬村の代官たちが、有馬村の百姓、キリシタン村民によって殺害された事件でした。事態を重く見た島原藩士が鎮圧に向かいますが、一揆勢の勢いに押されて島原城に逃げ込んでしまいます。キリシタン一揆勢は数日間も島原城を攻め立てたといいます。

そのわずか二日後に肥後国の天草地方でも、キリシタンが蜂起しました。当時、天草地方を支配していたのが唐津藩の寺沢堅高かたたかでした。

天草の一揆勢は富岡城を攻め立てました。富岡城を守っていたのは、唐津藩の筆頭家老・三宅重利でした。三宅は細川ガラシャの甥で、熊本藩をおさめる細川家とは親せきにあたります。三宅は奮戦し一揆勢と激しい戦いをしました。

島原半島と天草地方をあわせて住民3万7千人が蜂起したといいます。その大多数が農民でしたが、数十人n牢人(小西行長や有馬家の元家来たち)をはじめ、商工人、さらには女こどもも加わった戦いでした。この農民一揆は牢人たちが指導的立場をとっておりました。のちのち触れますが、浪人たちがいたからこそ、農民たちは幕府の軍隊と互角に戦うことができたのですね。牢人たちは落ちぶれたとはいえ、元は関ケ原の戦いや大阪の陣で生き残った猛者でしたから。


3 島原の乱の背景

 一揆の背景には、この地方で数年続いた飢饉がありました。飢饉にもかかわらず重い年貢を課した領主に対して農民の不満が爆発したのです。また、松倉ら領主はキリスト教を激しく弾圧しました。(具体的に松倉がどんなことをしたかは次回に触れます)島原・天草地方はもともと小西行長や有馬氏などキリシタン大名の領地で、キリスト教が盛んに進行されておりました。しかし、幕府はキリスト教を厳しく弾圧し、それに倣って松倉らが弾圧をしたのです。だから、この農民一揆はキリスト教の信仰を認めてくれよと訴えた戦いとも指摘されております。

とは言いましても、この蜂起は必ずしも重税に苦しむ農民たちの支持を得ていたわけではありませんでした。重税に苦しむはずの民衆にキリシタンへの改宗を強制し、それを拒んだ人々を攻撃した者たちもいたのです。だから、嫌々ながら一揆に参加した農民たちも少なくないのです。

しかも、この者たちは仏教の寺を焼いてしまったり、お坊さんを迫害したりと悪いこともしていたのですね。まさに謗法罪ほうぼうざい(※1)です。そんなものたちが天草・島原の乱の指導的立場にいたのです。僕は子供のころ、小学館の『まんが日本の歴史』で、この乱のことを知りました。その時は天草四郎や一揆勢の人たちを心の底からかわいそうだと同情したのですが、大人になってこの乱のことを調べるうちに考え方が変わりましたね。

また、そもそも信仰厚いキリシタンは暴力を否定し、弾圧をされたら、ためらいもなく殉教(※2)の途をえらぶ傾向があり、本来はキリスト教と武力蜂起とはなじまないのです。にも拘わらず、彼らが蜂起したわけは、これは僕の憶測でしかないのですが、徳川家によって取り潰された小西家や有馬家の浪人たちが徳川をうらみ、徳川に一泡吹かせようと思って、この一揆を計画したのではないかと。あるいはキリスト教を認めてもらいたいという願いもあったのかもしれない。そして、一揆勢をまとめる中心的人物として白羽の矢がたったのが天草四郎というわけです。

また、この時代は戦国時代の気風が色濃く残っており、暴力や殺りくが当たり前のように起こっていたのです。戦国時代の終わりに来日したルイス・フロイスは「日本では人殺しが普通のことである」と評しました。武士がちょっと機嫌を損ねただけで近くにいた農民を切り殺すなんて普通におこっていたようです。今じゃワイドショーものですよね。座間の連続殺人事件や富岡八幡刺殺事件なんて甘ちょろい、甘ちょろい。「領主や権力側がそんなのだから、じゃあ俺たちも暴力で立ち向かおう、目には目だ!」と農民側が考えることは別に不自然なことではないのです。こわいですね・・・

つまり、重税に苦しむ農民の不満と幕藩体制でひどい目にあった牢人など旧武士層の反発が重なり、そこにキリシタンによる宗教戦争という側面が加わった結果が、島原・天草の乱ということです。


※1 謗法(ほうぼう、ぼうほう)は、誹謗正法(ひぼうしょうぼう)の略で、日本の仏教、あるいは一部の宗派間で使われる用語である。 “誹謗正法”とは、仏教の正しい教え(正法)を軽んじる言動や物品の所持等の行為を指す。

※2 自らの信仰のために命を失ったとみなされる死のこと。 キリスト教の歴史でよく用いられる言葉である

※ おまけ

熊本の震災の動画をどうぞ。題名は「まごころの手紙」。




※ 参考文献





イット [Blu-ray]
ハリー・アンダーソン
ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント
2016-10-12



1 座間の事件と映画のモデルの人物
 座間の9人殺人事件は衝撃を受けましたね。事件のことを知るたびに身の毛がよだちます。週刊誌やツイッターには憶測を含め、いろいろと犯人の青年のことを言っております。

なんでも、座間の犯人は、優しくて、彼女もいて、コミュ力も高い、仕事もできる人だった、だからそんなことをするなんて信じられないという話を聞いております。しかし、彼はサイコパスの典型だと思いますよ。何かの本に書いてあったのですが、いわゆるサイコパスはIQも高く、コミュ力も高いそうですから。その本に書かれていたサイコパスの特徴というのが犯人の青年の人物像ともろに重なるので僕も驚きましたよ。

たとえば、「IT」(映画化もされた)に出てくる殺人鬼のモデルがいまして、彼の名をジョン・ウェイン・ゲイシーといいます。彼は、優秀なビジネスマンで20代で会社を立ち上げました。ボランティア活動にも熱心で、青年会議所の幹部や民主党の有力な党員になるほど人望の厚かった人物でした。しかも大統領夫人や議員さんともパイプがあったというから相当ですね。そんな彼が33人も殺したというのですから・・・

いかにも妖しそうな人間が、コミュ力が低くて変なことばかりしていたら、普通の人は警戒して逃げます。けれど、ジョン・ゲイジーは名士と呼ばれるような人物で、子供たちにも優しい人だったから、殺された人たちも気を許したのでしょう。

奇しくも「IT」のリニューアル版が最近上映されました。座間の事件で騒がれているときに上映されるなんて僕は本当に驚きましたね。座間の犯人の青年とジョン・ゲイジーが何となく似ているなと思うから。座間の犯人も殺人なんかしないで、もっといいところでコミュ力なり才能なりを発揮すればよかったのに・・・・


2 犯人をかばう意見
 話を座間の話に戻します。ツイッターでは臓器移植だとか、犯人の青年は暴力団の下っ端で命令されてやっただけだったとか、いろいろ書かれておりますが、僕が驚きのあまり腰をぬかした書き込みがありました。

それは、「○○君(犯人の名前)、君は本当はいい奴じゃないのか?自殺したいという人が死ぬのをてつだってあげただけじゃない」という彼をかばう書き込みです。僕はあまりにも呆れて言葉を失いましたね。そもそも、見ず知らずの女の子に「一緒に死にましょう」なんてLINEとかで誘い寄せること自体おかしいですわ。

ほかにも彼をかばうような書き込みをいくつか見ました。彼は暴力団に脅かされてやっただけだとかいろいろ。同情するなとはいいませんが、安易な同情は彼のためにならないと僕はおもうんですけれど・・・・なるほど、犯人のビジュアルがいかにもキモオタだったら、「こいつならやりかねない」と誰もフォローしないが、今回の座間の犯人がビジュアルは中々好青年風に見えるだけにかばう人間や組織犯罪だという人間がでるのかしら?すみません、言い過ぎましたw

確かに、彼の幼少期の生い立ちをみると気の毒な一面もありますけれどねえ・・・

これから、僕が古代インドのアングリマーラという殺人鬼のお話をします。口をアングリして聞かないでくださいねw

3 アングリマーラが殺人鬼になるまで
 アングリマーラが殺人鬼といいましたが、彼がもともと殺人鬼だったわけではありません。もともと彼はアヒンサという名前でバラモンの子供でしたが、500人の弟子をもつバラモンのもとで修業をしました。アヒンサはその500人の弟子をもつ師匠に大変気に入られておりました。

しかし師匠の奥さんがアヒンサに恋をしてしまったのです。師匠が出かけているとき、奥さんはアヒンサを誘惑しました。しかし、アヒンサは「修行の邪魔をしないでください!私はよこしまなことをしたくないのです」と。そりゃそうですね。不倫ですもの。しかし、それで収まらないのが師匠のおくさん。師匠の奥さんは自分の衣装をやぶり、あたかもアヒンサに犯されたように見せかけました。この奥さん性悪ですな。帰ってきた師匠はその姿をみてびっくり。師匠はアヒンサを激しく罵り、そしてアヒンサに無理難題を押し付けます。

それは百人の人間を殺し、その死体から指を百本集めなさいというもの。この師匠、すげえ悪い奴ですね。金正日の前世かしら。もちろん、アヒンサははじめは考えたのですが、ほかならぬ師匠の言葉だからと、この師匠の愚かな主張をそのまま受けいれてしまうのです。素直というか、バカというかなんというか。素直で人の言うことをよく聞くとのは良いことなのかもしれないけれど、時と場合によりますね。素直すぎて悪人の手足になるようでは元も子もありません。

そして、アヒンサは本当に次々と人を殺してしまうのです。いつしかアヒンサはアングリマーラという有り難くないあだ名がつくほど人々から恐れられたのです。アングリマーラとは「指の首飾り」という意味だそうです。

そして99人もの人を殺した後、アングリマーラはお釈迦様(ブッダ)に出会いました。アングリマーラはブッダを殺そうとしましたが、ブッダはアングリマーラをとがめず、さとしました。無益な殺害をやめさせました。そしてアングリマーラは罪を悔い改めブッダの弟子となりました。

4 償い
 アングリマーラがブッダの弟子になって10日ほどたち、アングリマーラが町へ托鉢たくはつにいきました。托鉢とは、お坊さんが修行のため、はちを持って、家の前に立ち、経文を唱えて米や金銭の施しを受けて回ることです。しかし、アングリマーラが托鉢にいくたびに彼は血まみれになるのです。なぜでしょう?

それは、アングリマーラに殺された遺族たちが、石や棒でアングリマーラをボコボコにしたのです。殺されたものの遺族の悲しみは大変深いものです。ジョン・ゲイシーに殺された人の遺族たちもそうですし、今回の座間の事件でもそうでしょう。事件現場のアパートの近くにメッセージ付きの花束がおかれており、そのメッセージには「うちの子に生まれてきてくれてありがとう」とありました・・・そして、殺害者に対して恨みさえ思うのです。

アングリマーラの額から血を流し、着ていた衣は破け、身体はあざだらけになり、帰ってくるのです。それも毎日。いくらアングリマーラが極悪師匠の命令でやったとしても殺されたほうは許さないのです。

アングリマーラの姿を見てブッダは言いました。「アングリマーラよつらいだろうけれど耐えなさいよ。お前は本当は地獄へ行き何万年も苦しむのですよ。これに耐えてこそ、お前は本当に生まれ変われるのです」と。

そして、アングリマーラは殴られても、罵られても耐えに耐えました。そして、石を投げられることも次第になくなりました。アングリマーラが心から自分の罪を償い精進をしたからです。その姿に、かつて石を投げたり、ぶったり、罵った人たちも思わず手を合わせたのです。


※ 参考サイト


http://buddha-tree.com/2013/07/17/352/






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