history日誌

歴史と歌が大好きな私が日本史から世界史まで広く浅く書きます。 歴史の知識は素人レベルで、私が語る歴史の内容が真実かどうかは自信はありませんがw、楽しんでブログを書いていきます。教科書に載ってないようなマイナーな歴史の話もします。

前回の記事で、テニスコートの誓いのお話をしました。いよいよ第三身分の人たちが立ち上がった瞬間です。かれらは「我々は憲法が制定されるまで、解散しない」と宣言したのです。

その様子をルイ16世はただ黙っていたわけじゃありません。ルイ16世は場合によっては解散もありうることをほめの課しました。実際、ベルサイユには軍隊が集結していました。

しかし、それぐらいのことで彼らは動じませんでした。「われわれは人民の意思にしたがってここにとどまるのだ。われわれをここから動かすことができるのは銃剣のみ」とミラボーは叫んだといいます。

その後、第一身分(聖職者)と第二身分(貴族)の一部が第三身分に同調したのです。実は第一身分は税金を払わなくてよい特権階級でしたが、ほとんどは貧しい生活をしていたのです。だから、貧しい平民たちに同情的だったのですね。そして、ルイ16世は、国民議会を認めざるを得なくなりました。そして7月9日に「憲法制定国民議会」とあらためました。

平民たちの勢いに負けて国民議会を認めた国王側ですが、それを指をくわえて黙っていたわけじゃありません。国王側は武力をもってでも、第三身分たちのこうした動きをつぶそうとしたのです。本来、ルイ16世は国民おもいで貴族たちがブイブイしている世の中はおかしいと思っていました。しかし、宮廷にはこれまでどおりの体制を維持しようとする反改革派の勢力も根強かったのです。

ルイ16世自身も改革の必要性は認めつつも、先祖代々から受け継がれた王制を守らなくてはならないという、ジレンマにおそわれていたのです。結局ルイ16世は全国から王家の軍隊をヴェルサイユに呼び寄せます。軍隊を使って国民議会の有力者な支持者であるパリ市民を軍隊の力でねじ伏せようとしたのです。パリには武装した兵士であふれ、王宮は軍隊に囲まれ、パリも物々しい雰囲気になりました。この状況を見た時の財務長官ネッケルは、これらの政策がむしろ市民の暴動を誘発してしまうと感じ、王に軍の撤退を要求します。しかし、ルイ16世はネッケルを罷免してしまいます。

このネッケル罷免が非常にまずかったんですね。ネッケルは改革派で平民にも人気が高かったのです。今でいえば小泉進次郎議員みたいな感じでしょうか。そのネッケルをクビにするなんて許せんという空気になってきたのです。さらに国王の軍隊がうじゃうじゃパリに集まったことに、民衆たちは「国王軍が我々を殺しに来る」と思ったのでしょうね。


民衆は武器を持って立ち上がろうとしたのです。その武器を手に入れるために7月14日、アンヴァリッド(廃兵院)に押しかけ3万2000丁もの銃と24門の大砲をてにしましたが、まだまだ武器がたりない。それで、民衆たちはバスチーユに乗り込んだのです。

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バスチーユ陥落は、フランス革命の幕開けともいうべき大きな事件でした。バスチーユ要塞に市民や国民衛兵が襲撃をしたのです。バスチーユ要塞は、高さ30メートルの城壁と幅25メートルの堀に守られ、城壁にはいくつもの大砲が備え付けられておりました。そのため難攻不落だといわれていました。

ところが、要塞司令官のローネー侯爵は銃撃戦が交わされたあと、自ら降伏したのです。民衆に銃を向けることが耐えられなかったのでしょう。これでローネーがヒトラーのような男だったら、要塞をせめる民衆を銃で皆殺しにしたでしょう。

ベルサイユの宮廷では、軍隊を派遣し、パリを制圧すべきという意見もありましたが、流血を好まないルイ16世は、和平の道を選びました。7月17日に和解が成立したので

ちなみに、バスチーユ牢獄は、もともとパリ防衛のために14世紀につくられたものでした。その後、パリの街が大きくなるにつれ、首都防衛という軍事的な機能を失い、政治犯を収容する監獄になりました。しかし、革命当時、バスチーユに収監されていたのは政治犯ではなく、普通の犯罪者でした。




紅白歌合戦の司会者が決まりましたね。白組が嵐の櫻井翔さん、紅組が広瀬すずさん、で総合司会が内村光良さん、アナウンサーの桑子真帆さん。個人的には「歴史秘話ヒストリア」の井上あさひさんに紅組の司会やってもらいたかったなあ・・・・ファンには申し訳ないけれどジャニーズの司会もそろそろ飽きてきたし・・・でも、総合司会の内村光良さんを選んだのはGJ。去年は内村さんがいらしたから面白かった。おっと、本題に入りましょうwww

前回の記事で、三部会のことをふれました。第三身分たちが政治的に目覚め、第一身分や第二身分に反発しだしたのです。きょうはテニスコートの誓いについて。教科書にも出てくるお話なので、ご存知な方も多いかと。

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(テニスコートの誓いの絵。中央に立って手をあげているのが国民議会議長バイイ。ロベスピエールやミラボーといった革命の有力人物も描かれている)

三部会で採決の仕方でもめていましたが、第三身分は指をくわえて黙っていたわけじゃありません。第三身分は自分たちに協力してくれそうな貴族や聖職者に接触しました。そして1789年6月17日に、第三身分は「国民議会」を称し、三部会から分離独立をしたのです。こうした第三身分の動き。国王であるルイ16世は第一身分も第三身分も仲良くやろうよという立場でしたが、まさにルイ16世に対する裏切りのようなもの。しかし、第三身分は国王をないがしろにする気持ちはなく、「国民議会」をひらいたあと「国王バンザイ!\(^o^)/」と叫んだそうです。

ルイ16世は、改修工事を口実にして、第三身分が会合を開いていた部屋を閉鎖せました。そりゃ、ルイ16世にとって、第三身分のやり方は看過できるものではありません。しかし、それにくじけないのが第三身分の議員たち。6月20日に、第三身分は室内球戯場きゅうぎじょうに集まって、会議を開いたのです。この会議ではパリ選出のバイイ議員の主導の元「憲法制定までは解散しない」とちかいあったそうです。この誓いによって彼らの心は一つに、そして強固になりました。これが「テニスコートの誓い」という出来事です。

テニスコートといいましたが、当時のテニスとは今のテニスとは違います。この時代は「ジュドポーム」とう遊びで、ラケットを使わず手のひらでボールを打ち合うゲームだったそうです。いわば手打ち野球のテニス版といったところでしょうか。


※ 参考文献





前回の記事で名士会について書かせてもらいましたが、きょうは三部会について。三部会とはいまの国会みたいなものです。三部会は1614年以来ずっと開かれていなかったのでが、ルイ16世は国民の要求に応じて1789年5月5日に開きました。実に100年以上も開かれていなかったのです。フランス全土で議会の代表を選ぶ選挙戦が開かれました。貴族たちが、三部会のテーマは税制問題と貴族たちの特権についてでした。

三部会では第一身分(聖職者)、第二身分(貴族)、そして第三身分(平民)の3つの身分からそれぞれ、議員が選ばれました。議員の数は1200名。そのうち第一身分が約300名、第二身分が約300名、そして第三身分が600人の議員がいました。その第三身分の600人の中に、ミラボーやロベスピエールといった革命の有力者がいました。

単純な多数決だと、第一身分+第二身分の総人数約600人に対して、第三身分が600人ほどだから拮抗しております。しかし、その採決方法が問題がありました。

↓に図をまとめましたので、ご覧になってください。画面がスクロールします。また75パーセントとかかれているところをクリックすると倍率をあげて、画面を大きくすることもできます。

   
(三部会 説明の図)

三部会の採決の仕方について三部会はもめたのです。第三身分は、単純な多数決による議員別採決を主張しました。議員の数だったら第一身分+第二身分の600名、第三身分の600名で同等です。それで第一身分や第二身分にも平民に同情的だったり、貴族の特権に批判的な人もいるので、そういう人たちを味方につければ、第三身分側が有利になります。

しかし、第二身分などの特権身分は身分別採決を主張しました。これは、議員の数でではなく、第三身分が600人いようが、1000人いようが、票の数は一票とカウント。そうなると、第一身分+第二身分で二票、第三身分一票で、身分別採決では第三身分は不利です。これには第三身分の人たちは怒り出しますそれからどうなったかは次回の記事でご説明します。

※ 参考文献




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