history日誌

歴史と歌が大好きな私が日本史から世界史まで広く浅く書きます。 歴史の知識は素人レベルで、私が語る歴史の内容が真実かどうかは自信はありませんがw、楽しんでブログを書いていきます。教科書に載ってないようなマイナーな歴史の話もします。

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1 熊本地震から一年
 今日から数回にわたって天草・島原の乱のお話をします。天草・島原の乱のお話をしたいと思うのは、熊本にまつわるお話だからです。(厳密にいえば、この乱で一揆勢が立てこもった原城は長崎県にあるのですが)

今年は東北の地震を風化させてはいけないと、地震のお話や東北にまつわる話をいくつかしましたが、昨年起きました熊本の地震のことも忘れてはいけないと思うのですね。ネットで調べると熊本の地震は回復は進んでいるようですね。しかし、僕は今年東北に訪れたのですが、東北は復興は進んでいるとは聞いていたものの、まだ避難生活を余儀なくされている方々も少なくないですし、原発事故のあった周辺はまだまだ人の住める状態ではないのです。ネットやテレビで言っていることと違っていることにがく然としましたね。僕は震災後熊本に訪れてはいないのですが、実際に現地にいってみるとネットで書かれていることと状況が異なるのかもしれない・・・

前置きが長くなりましたので本題に入ります。

2 島原の乱の発端
 島原の乱の事件の発端になったのは、1637年の10月25日、島原藩の大名松倉勝家の家臣で肥前国有馬村の代官たちが、有馬村の百姓、キリシタン村民によって殺害された事件でした。事態を重く見た島原藩士が鎮圧に向かいますが、一揆勢の勢いに押されて島原城に逃げ込んでしまいます。キリシタン一揆勢は数日間も島原城を攻め立てたといいます。

そのわずか二日後に肥後国の天草地方でも、キリシタンが蜂起しました。当時、天草地方を支配していたのが唐津藩の寺沢堅高かたたかでした。

天草の一揆勢は富岡城を攻め立てました。富岡城を守っていたのは、唐津藩の筆頭家老・三宅重利でした。三宅は細川ガラシャの甥で、熊本藩をおさめる細川家とは親せきにあたります。三宅は奮戦し一揆勢と激しい戦いをしました。

島原半島と天草地方をあわせて住民3万7千人が蜂起したといいます。その大多数が農民でしたが、数十人n牢人(小西行長や有馬家の元家来たち)をはじめ、商工人、さらには女こどもも加わった戦いでした。この農民一揆は牢人たちが指導的立場をとっておりました。のちのち触れますが、浪人たちがいたからこそ、農民たちは幕府の軍隊と互角に戦うことができたのですね。牢人たちは落ちぶれたとはいえ、元は関ケ原の戦いや大阪の陣で生き残った猛者でしたから。


3 島原の乱の背景

 一揆の背景には、この地方で数年続いた飢饉がありました。飢饉にもかかわらず重い年貢を課した領主に対して農民の不満が爆発したのです。また、松倉ら領主はキリスト教を激しく弾圧しました。(具体的に松倉がどんなことをしたかは次回に触れます)島原・天草地方はもともと小西行長や有馬氏などキリシタン大名の領地で、キリスト教が盛んに進行されておりました。しかし、幕府はキリスト教を厳しく弾圧し、それに倣って松倉らが弾圧をしたのです。だから、この農民一揆はキリスト教の信仰を認めてくれよと訴えた戦いとも指摘されております。

とは言いましても、この蜂起は必ずしも重税に苦しむ農民たちの支持を得ていたわけではありませんでした。重税に苦しむはずの民衆にキリシタンへの改宗を強制し、それを拒んだ人々を攻撃した者たちもいたのです。だから、嫌々ながら一揆に参加した農民たちも少なくないのです。

しかも、この者たちは仏教の寺を焼いてしまったり、お坊さんを迫害したりと悪いこともしていたのですね。まさに謗法罪ほうぼうざい(※1)です。そんなものたちが天草・島原の乱の指導的立場にいたのです。僕は子供のころ、小学館の『まんが日本の歴史』で、この乱のことを知りました。その時は天草四郎や一揆勢の人たちを心の底からかわいそうだと同情したのですが、大人になってこの乱のことを調べるうちに考え方が変わりましたね。

また、そもそも信仰厚いキリシタンは暴力を否定し、弾圧をされたら、ためらいもなく殉教(※2)の途をえらぶ傾向があり、本来はキリスト教と武力蜂起とはなじまないのです。にも拘わらず、彼らが蜂起したわけは、これは僕の憶測でしかないのですが、徳川家によって取り潰された小西家や有馬家の浪人たちが徳川をうらみ、徳川に一泡吹かせようと思って、この一揆を計画したのではないかと。あるいはキリスト教を認めてもらいたいという願いもあったのかもしれない。そして、一揆勢をまとめる中心的人物として白羽の矢がたったのが天草四郎というわけです。

また、この時代は戦国時代の気風が色濃く残っており、暴力や殺りくが当たり前のように起こっていたのです。ある大名は、年貢を納められない農民に対して「いざとなったらなで斬りにしてやる」と平然と言ったそうです。なで斬りとは稲をなぎ倒すように、農民をみんな切り殺してしまえということ。こわいですね・・・

戦国時代の終わりに来日したルイス・フロイスは「日本では人殺しが普通のことである」と評しました。武士がちょっと機嫌を損ねただけで近くにいた農民を切り殺すなんて普通におこっていたようです。今じゃワイドショーものですよね。座間の連続殺人事件や富岡八幡刺殺事件なんて甘ちょろい、甘ちょろい。「領主や権力側がそんなのだから、じゃあ俺たちも暴力で立ち向かおう、目には目だ!」と農民側が考えることは別に不自然なことではないのです。

つまり、重税に苦しむ農民の不満と幕藩体制でひどい目にあった牢人など旧武士層の反発が重なり、そこにキリシタンによる宗教戦争という側面が加わった結果が、島原・天草の乱ということです。


※1 謗法(ほうぼう、ぼうほう)は、誹謗正法(ひぼうしょうぼう)の略で、日本の仏教、あるいは一部の宗派間で使われる用語である。 “誹謗正法”とは、仏教の正しい教え(正法)を軽んじる言動や物品の所持等の行為を指す。

※2 自らの信仰のために命を失ったとみなされる死のこと。 キリスト教の歴史でよく用いられる言葉である

※ おまけ

熊本の震災の動画をどうぞ。題名は「まごころの手紙」。




※ 参考文献





イット [Blu-ray]
ハリー・アンダーソン
ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント
2016-10-12



1 座間の事件と映画のモデルの人物
 座間の9人殺人事件は衝撃を受けましたね。事件のことを知るたびに身の毛がよだちます。週刊誌やツイッターには憶測を含め、いろいろと犯人の青年のことを言っております。

なんでも、座間の犯人は、優しくて、彼女もいて、コミュ力も高い、仕事もできる人だった、だからそんなことをするなんて信じられないという話を聞いております。しかし、彼はサイコパスの典型だと思いますよ。何かの本に書いてあったのですが、いわゆるサイコパスはIQも高く、コミュ力も高いそうですから。その本に書かれていたサイコパスの特徴というのが犯人の青年の人物像ともろに重なるので僕も驚きましたよ。

たとえば、「IT」(映画化もされた)に出てくる殺人鬼のモデルがいまして、彼の名をジョン・ウェイン・ゲイシーといいます。彼は、優秀なビジネスマンで20代で会社を立ち上げました。ボランティア活動にも熱心で、青年会議所の幹部や民主党の有力な党員になるほど人望の厚かった人物でした。しかも大統領夫人や議員さんともパイプがあったというから相当ですね。そんな彼が33人も殺したというのですから・・・

いかにも妖しそうな人間が、コミュ力が低くて変なことばかりしていたら、普通の人は警戒して逃げます。けれど、ジョン・ゲイジーは名士と呼ばれるような人物で、子供たちにも優しい人だったから、殺された人たちも気を許したのでしょう。

奇しくも「IT」のリニューアル版が最近上映されました。座間の事件で騒がれているときに上映されるなんて僕は本当に驚きましたね。座間の犯人の青年とジョン・ゲイジーが何となく似ているなと思うから。座間の犯人も殺人なんかしないで、もっといいところでコミュ力なり才能なりを発揮すればよかったのに・・・・


2 犯人をかばう意見
 話を座間の話に戻します。ツイッターでは臓器移植だとか、犯人の青年は暴力団の下っ端で命令されてやっただけだったとか、いろいろ書かれておりますが、僕が驚きのあまり腰をぬかした書き込みがありました。

それは、「○○君(犯人の名前)、君は本当はいい奴じゃないのか?自殺したいという人が死ぬのをてつだってあげただけじゃない」という彼をかばう書き込みです。僕はあまりにも呆れて言葉を失いましたね。そもそも、見ず知らずの女の子に「一緒に死にましょう」なんてLINEとかで誘い寄せること自体おかしいですわ。

ほかにも彼をかばうような書き込みをいくつか見ました。彼は暴力団に脅かされてやっただけだとかいろいろ。同情するなとはいいませんが、安易な同情は彼のためにならないと僕はおもうんですけれど・・・・なるほど、犯人のビジュアルがいかにもキモオタだったら、「こいつならやりかねない」と誰もフォローしないが、今回の座間の犯人がビジュアルは中々好青年風に見えるだけにかばう人間や組織犯罪だという人間がでるのかしら?すみません、言い過ぎましたw

確かに、彼の幼少期の生い立ちをみると気の毒な一面もありますけれどねえ・・・

これから、僕が古代インドのアングリマーラという殺人鬼のお話をします。口をアングリして聞かないでくださいねw

3 アングリマーラが殺人鬼になるまで
 アングリマーラが殺人鬼といいましたが、彼がもともと殺人鬼だったわけではありません。もともと彼はアヒンサという名前でバラモンの子供でしたが、500人の弟子をもつバラモンのもとで修業をしました。アヒンサはその500人の弟子をもつ師匠に大変気に入られておりました。

しかし師匠の奥さんがアヒンサに恋をしてしまったのです。師匠が出かけているとき、奥さんはアヒンサを誘惑しました。しかし、アヒンサは「修行の邪魔をしないでください!私はよこしまなことをしたくないのです」と。そりゃそうですね。不倫ですもの。しかし、それで収まらないのが師匠のおくさん。師匠の奥さんは自分の衣装をやぶり、あたかもアヒンサに犯されたように見せかけました。この奥さん性悪ですな。帰ってきた師匠はその姿をみてびっくり。師匠はアヒンサを激しく罵り、そしてアヒンサに無理難題を押し付けます。

それは百人の人間を殺し、その死体から指を百本集めなさいというもの。この師匠、すげえ悪い奴ですね。金正日の前世かしら。もちろん、アヒンサははじめは考えたのですが、ほかならぬ師匠の言葉だからと、この師匠の愚かな主張をそのまま受けいれてしまうのです。素直というか、バカというかなんというか。素直で人の言うことをよく聞くとのは良いことなのかもしれないけれど、時と場合によりますね。素直すぎて悪人の手足になるようでは元も子もありません。

そして、アヒンサは本当に次々と人を殺してしまうのです。いつしかアヒンサはアングリマーラという有り難くないあだ名がつくほど人々から恐れられたのです。アングリマーラとは「指の首飾り」という意味だそうです。

そして99人もの人を殺した後、アングリマーラはお釈迦様(ブッダ)に出会いました。アングリマーラはブッダを殺そうとしましたが、ブッダはアングリマーラをとがめず、さとしました。無益な殺害をやめさせました。そしてアングリマーラは罪を悔い改めブッダの弟子となりました。

4 償い
 アングリマーラがブッダの弟子になって10日ほどたち、アングリマーラが町へ托鉢たくはつにいきました。托鉢とは、お坊さんが修行のため、はちを持って、家の前に立ち、経文を唱えて米や金銭の施しを受けて回ることです。しかし、アングリマーラが托鉢にいくたびに彼は血まみれになるのです。なぜでしょう?

それは、アングリマーラに殺された遺族たちが、石や棒でアングリマーラをボコボコにしたのです。殺されたものの遺族の悲しみは大変深いものです。ジョン・ゲイシーに殺された人の遺族たちもそうですし、今回の座間の事件でもそうでしょう。事件現場のアパートの近くにメッセージ付きの花束がおかれており、そのメッセージには「うちの子に生まれてきてくれてありがとう」とありました・・・そして、殺害者に対して恨みさえ思うのです。

アングリマーラの額から血を流し、着ていた衣は破け、身体はあざだらけになり、帰ってくるのです。それも毎日。いくらアングリマーラが極悪師匠の命令でやったとしても殺されたほうは許さないのです。

アングリマーラの姿を見てブッダは言いました。「アングリマーラよつらいだろうけれど耐えなさいよ。お前は本当は地獄へ行き何万年も苦しむのですよ。これに耐えてこそ、お前は本当に生まれ変われるのです」と。

そして、アングリマーラは殴られても、罵られても耐えに耐えました。そして、石を投げられることも次第になくなりました。アングリマーラが心から自分の罪を償い精進をしたからです。その姿に、かつて石を投げたり、ぶったり、罵った人たちも思わず手を合わせたのです。


※ 参考サイト


http://buddha-tree.com/2013/07/17/352/






東日本大震災は未曽有うの被害をもたらしました。しかし、あのような大きな地震とともに巨大な津波が1000年以上前に、しかも同じ東北で起きたのです。地震の規模は少なくともマグニチュード8.3以上であったそうです。恐ろしいことです。

その地震とは869年に発生した貞観地震です。869年といえば平安時代の初期で、朝廷では藤原家が実験を握っておりました。

貞観地震では、高さ9メートルの津波が何回も押し寄せたと推定され、仙台平野では内陸数キロメートルにまで達したというから恐ろしい・・・・

被害の様子を歴史書には、このように書かれております。



五月・・・廿六日癸未 陸奧國地大震動 流光如晝隱映 頃之 人民叫呼 伏不能起 或屋仆壓死 或地裂埋殪 馬牛駭奔 或相昇踏 城(郭)倉庫 門櫓墻壁 頽落顛覆 不知其數 海口哮吼 聲似雷霆 驚濤涌潮 泝玳長 忽至城下 去海數十百里 浩々不辨其涯諸 原野道路 惣爲滄溟 乘船不遑 登山難及 溺死者千許 資産苗稼 殆無孑遺焉

現代語訳(意訳)
5月26日20時、陸奥国で大地震が起きた。(空を)流れる光が(夜を)昼のように照らし、人々は叫び声を挙げて身を伏せ、立つことができなかった。ある者は家屋の下敷きとなって圧死し、ある者は地割れに呑まれた。驚いた牛や馬は奔走したり互いに踏みつけ合い、城や倉庫・門櫓・石や土などで築いた塀などが多数崩れ落ちた。雷鳴のような海鳴りが聞こえて潮が湧き上がり、川が逆流し、海嘯が長く連なって押し寄せ、たちまち城下に達した。内陸部まで果ても知れないほど水浸しとなり、野原も道も大海原となった。船で逃げたり山に避難したりすることができずに千人ほどが溺れ死に、後には田畑も人々の財産も、ほとんど何も残らなかった。

(『日本三大実録』より)



甚大な被害が出たのですね・・・さて、このときの朝廷はどうしたかとうと、地震から3カ月を経た貞観11年9月7日((ユリウス暦869年10月15日)になってようやく、從五位上紀春枝を陸奥国地震使に任命したそうです。震災への対応の遅さは、今と比べて通信網や交通網が発達していなかったとはいえ、昔もあまり変わらないのですね・・・


九月・・・七日辛酉・・・以從五位上-行左衛門權佐-兼因幡權介-紀朝臣-春枝,爲陸奧國地震使。判官一人、主典一人。

現代語訳(意訳)

9月7日辛酉(かのととり)の日、従五位上行左衛門権佐兼因幡権介である紀春枝を陸奥国地震使に任命した。また、判官一人、主典一人を併せて任命した。(『日本三大実録』より)


発災から4カ月を経た11年10月13日(ユリウス暦869年11月20日)の記事には、清和天皇が、陸奥国の国境が被災地とする詔を発しました。朝廷は民夷を論ぜず救護にあたり、死者はすべて埋葬するように命じました。被災者に対しては租税と労役義務を免除したとのことでした。

※ おまけ
震災当時の仙台市商業施設の動画です。動画を見ても、震災が恐ろしさを感じます。震災の時は落ち着いて行動するものだとは頭でわかっていても、いざ実際に大地震がきたら僕は冷静ではいられないと思います・・・





※ 参考サイト 

ウィキペディア

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