history日誌

歴史と歌が大好きな私が日本史から世界史まで広く浅く書きます。 歴史の知識は素人レベルで、私が語る歴史の内容が真実かどうかは自信はありませんがw、楽しんでブログを書いていきます。教科書に載ってないようなマイナーな歴史の話もします。

福島県に「伊達市」という地名があるのをご存知でしょうか。実はこの地こそ仙台の伊達氏の発祥の地なのです。僕は伊達氏には訪れたことがありませんが、福島の観光案内で伊達市に伊達家ゆかりのお寺があり、伊達政宗のコスプレをした人やゆるキャラのまめっち(後で動画でご紹介します)もおもてなしをしてくれるそうです。

ちなみに伊達市は内陸部にあるため、先の大震災の時は津波はさすがに来なかったものの、大きな揺れがあったようです・・・




伊達家というと仙台のイメージがあったのですが、もともとは福島出身なのですね。ちなみにサンドイッチマンの伊達みきおさんは宮城県ご出身で、伊達家の末裔だそうです。

さて、伊達家といえば独眼竜政宗こと伊達政宗が有名ですが、実は歴史上もうひとりの「伊達政宗」がいることをご存知な方はいらっしゃるでしょうか?というか、僕も本を読むまで知りませんでしたwwww


もう一人の伊達政宗が生きていたのは室町時代前期(1353年〜1405年)です。実は戦国時代の伊達政宗の名前も、この室町時代の伊達政宗にあやかってつけられた名前なのです。それくらい室町の伊達政宗も大人物だったということでしょう。何をしたかというと、室町の伊達政宗も東国を管轄した鎌倉府に反旗を翻したといいます。

きっかけは1391年のことでした。当時の東北は室町幕府の奥州管領が統治していました。しかし、室町時代の初期の内乱の影響が東北にも及び、奥州管領の統治機構は機能不全におちいりました。困った室町幕府は、関東をおさめる鎌倉府に東北の管理をさせようとしました。しかし、その鎌倉府は東北に代官を派遣しては、強引に土地調査を行ったり、徴税も行ったりしたため、地元住民の強い反発を招いてしまったのです。

当時の鎌倉公方(鎌倉府のトップ)だった足利満兼(あしかがみつかね)は1399年、反乱に対処するため弟の満直(みつなお)、満貞(みつさだ)を奥羽に派遣。だが、これが新たな火種になりました。満直と満貞のふたりは南東北の実力者伊達政宗に領土の献上を強要しました。それに政宗は反発。翌年の1340年3月、地元の豪族たちと手を結んで鎌倉府に反逆。500騎あまりの軍勢を率いて福島の白河まで攻め上ったといいます。

しかし、鎌倉方の結城満朝(ゆうきみつとも)の奮戦もあり、伊達家の反乱も鎮圧されてしまいます。が、鎌倉府と伊達家の緊張はさらに続きました。

1402年、ふたたび反乱を起こした政宗に対し、足利満兼は上杉氏率いる7000騎の討伐軍を奥羽に派遣しました。政宗本拠地である赤館を包囲しました。赤館は圧倒的な兵力をほこる上杉軍に負けてしまいます。が、政宗はそれでも見事な奮戦をし、敵である上杉軍に多大な損害を与えたといいます。

鎌倉府は伊達家には勝ちましたが、幕府とつながりの深い伊達氏を討伐することはできませんでした。実は正宗の妻と時の将軍足利義満の母親は姉妹で、政宗は乱が始まる前に、京都におとずれ義満と交流をしていたといいます。義満と政宗は親密な関係だったのです。むしろ義満は同じ足利氏がおさめる鎌倉府と仲が悪かったのです。身内よりも赤の他人といいますが、義満と鎌倉府はまさにそんな関係だったのです。だから、義満は政宗に反乱をしむけ、鎌倉府と戦わせたという説もうまれるほど。

それはともかく、この戦いで政宗は男をあげ、伊達家中興の祖とまでいわれるようになりました。なお、政宗は武勇だけでなく文化人としてもすぐれておりました。このような和歌も残しております。

山間の霧はさながら海に似て波かと聞けば松風の音」

※ おまけ



(伊達市の観光動画です。ゆるキャラのまめっちも登場します)



※ 参考文献


 今日は7月7日。七夕の日です。たなぼたじゃないですよww彦星と織姫が年に一回会う日です。年に一回会えない分、彦星と織姫はLINEとかで連絡とりあっているのかなw?そんなことはさておき、宮城県の仙台でも七夕まつりが行われます。七夕祭りといいましても7月7日にやるのではなく、仙台の七夕祭りは毎年8月の上旬に三日にわたって行われます。その様子はこちらの動画を。



きれいですねえ。僕も東京杉並区にある阿佐ヶ谷で毎年8月上旬に行われる七夕まつりに何度も言ったことがあるのですが、ぜひ仙台の七夕祭りもいってみたいですね。

さて、七夕まつりというのは平安の昔、宮中の清涼殿で行われていた貴族の遊びの一つでした。それが江戸時代になって民衆にも普及し、女の子は技芸の上達を、男の子は字がうまくなることを願ったといいます。

仙台で七夕祭りが始まったのは伊達政宗の時代です。政宗が七夕について歌を詠んでいるのです。それがこちらの二首。


「まれにあふ こよひはいかに七夕の そらさへはるる あまの川かせ」

「七夕は としに一たひ あふときく さりてかへらぬ 人のゆくすえ」


政宗ってなんとなく合理主義的なイメージが僕にはあったのですが、結構ロマンティストだったのですね。

また、政宗が歌に詠むくらいですから、このころからすでに七夕祭りも盛大に行われていたのですね。

政宗亡き後も仙台では七夕まつりは続けられました。しかし、明治維新後、全国的に七夕行事が衰退していき、仙台も大正末期ごろには往時の華やかさはなくなったといいます。1927年(昭和二年)には、商家の有志たちが華やかな七夕祭りを復活させたものの、戦争がはじまり戦況が悪化すると、七夕飾りは町から消えていきました・・・・

そして終戦の翌年、1946年(昭和21年)。仙台空襲で焼けた一番町通りに、52本の七夕飾りが飾られました。仙台の人々は涙がでるほど喜んだといいます。まさに仙台の七夕まつりは終戦後の復興のシンボルだったのですね。そして2011年の震災で仙台七夕まつりは中止にしようかという意見もあったようですが、「震災の年に七夕まつりをやらなかったら、復興は今より遅れていたんじゃないかな」という声に仙台の人たちも同調し、この年も例年通りに七夕まつりが行われました。 

避難所暮らしを余儀なくされたある女性は「犠牲者の中には毎年楽しみにしていた人もいる。供養のためにも祭りができてよかった」と語られたそうです。




※ 参考文献および参考サイト




http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0601C_W1A800C1CR0000/

今日の話は震災とは関係ないかもしれませんが、福島のグルメにまつわるお話をします。喜多方といえばラーメンが有名です。僕も喜多方ラーメンが大好きです。というか、喜多方に訪れてから喜多方ラーメンが好きになりました。


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いま喜多方にはたくさんのラーメン屋がありますが、その元祖のお店が「現来軒」。藩欽星が創業しました。中国の浙江省のうまれの藩氏は、若くして両親に先立たれ、1925年(大正14年)、19歳の時に来日しました。長崎と横浜で土木作業員として働いたのち、現在の喜多方市熱塩加納町にあった加納鉱山で働いていた叔父を訪ねて、苦労の末喜多方で叔父と巡り合ったようです。

藩氏はここで祖国の食べ物であるラーメンを打ち、屋台で売り歩くことになります。2年間ほどチャルメラを吹き、屋台を引いて生計を立てた後、1926年(昭和元年)に店舗を構えました。この藩氏がつくったラーメンこそ喜多方ラーメンのはじまりです。

藩氏のラーメンは評判を呼びましたが、中でも出前は注文が絶えないほどでした。というのも、かん水を少量しかつかわず、力をこめて手打ちをする藩氏のつくるラーメンは出前をしてのびても、切れることがなかったのです。さらには出前のラーメンが残っても、その翌日には麺がワンタンのようにふくらみ味がしみこんでうまいという声も聴かれるように。

遠くても出前をとってくれるお客さんや、煮込み料理で二度楽しみたい人の思いにこたえるには、細麺よりも切れにくく、味をたっぷり吸うことで時間がたってもうまい太麺のほうがよいと藩氏はおもったのかもしれません。

当時の日本は中国人の差別がひどかったので、藩氏も相当苦労もしたと思いますが、それでも、日本人においしいラーメンを食べさせてあげたいという真心が、ラーメンが地域に溶け込み時代をこえ、人々に愛されるようになったのですね。

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※ 参考文献


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