history日誌

ここのところ、戦時中の日本の暮らしについて触れてきましたが、今日は少し脱線したお話をします。かつて辻元清美議員が、天皇制について批判をしたことがあるそうです。以下、引用します。

平成29年6月の衆院憲法審査会で、辻元氏は、自身の過去の言動について反省を表明した。昭和62年3月出版の著書『清美するで!!新人類が船を出す!』で、皇室について述べていたことに関してである。

「生理的にいやだと思わない? ああいう人達というか、ああいうシステム、ああいう一族がいる近くで空気を吸いたくない」「天皇とあの一族の気持ち悪さ」


https://www.sankei.com/politics/news/170608/plt1706080021-n1.htmlより引用

この辻元発言をあげつらって批判した保守系の議員さんがいたようですが、この発言は30年前の話。令和になったいま現在も彼女がこのような発言をしているというのならば問題ですが。今更って正直思います。

ちなみに本人は、「30年ほど前、学生時代にご指摘の発言をした」と認めた。その上で「日本国憲法の下、日本は生まれ変わり、戦争放棄の国になった。憲法に規定されている象徴天皇を尊重しなければならない。私は考えが一面的だったと痛感し、深く反省した」とのことでした。

かつての自分の発言の非を認め、反省しただけでも、僕は偉いと思うんだけれど。戦時中、軍国主義をマンセーしておいて、戦後になったとたんに、手の平を返して、何の反省もなく「あの戦争は間違っていた」とか「私は初めから戦争に反対していた」なんてうそぶいた言論人や政治家よりもマトモだと思うんですが。そんな人物は「はだしのゲン」にも登場します。

言論人だけでなく学校の先生もひどいものでした。戦時中は「お国のために死ね」と教えておきながら、戦後になったとたんに極端なまでの平和主義者となったといいます。戦時中熱烈な軍国教師ほど、戦後になってウソみたいな平和主義者になったという指摘があります。あるジャーナリストはそんな先生の変わりようをみて、「ああ、人間はこれほどまでにいい加減なんだ。その先生は自分に『人をみたらまず疑うことを教えてくれた。今はその先生に感謝している』」とおっしゃっていたほど。

戦後になって進歩的文化人と呼ばれる左巻きな人たちが雨後の筍のように登場しましたが、彼らのほとんどが戦時中は戦争をマンセーしていたといいます。それが、戦後になって平和憲法マンセーどころか、マルクス主義やソ連にしっぽを振ったというのです。

戦時中に自分の書いた論文を燃やしてしまったり、戦時中の発言を人から指摘されると逆切れした者もいたといいます。

言論人もひどかったけれど、一番ひどいのは新聞社。特に朝日新聞の戦時中と戦後の論調の違いすぎはとてもひどいものがありました。朝日は戦後になっても北朝鮮を「地上の楽園」なんて言っていたのですから・・・

それにしても、日本の言論人やマスコミはなぜ、ここまで極端から極端にものの考え方が偏るのでしょうね。共産党員だったのが、いまでは極右の言論人になった人も少なくありません。右→左、あるいは左→右というのは多いけれど、その中間がないのが僕には不思議でしょうがありません。

「右翼と左翼の違いこそあれ、それは表の看板だけで、頭の構造は同じではないかと疑われるほどだ。自分と異なった意見には全く不寛容で、異常なほどの敵意を抱き、大声で言いまくることで相手を圧倒しようとする性癖まで瓜二つである。テレビの討論番組で見かける声だけが大きい進歩的文化人のモノマニアックな言動は、昔の柄の悪い関東軍参謀の姿を彷彿とさせるではないか。」
稲垣武『悪魔祓いの戦後史』より


これは朝日新聞に勤められた稲垣武さんの本から引用したものですが、確かにそうだよなって思います。思想が変わったというよりも、本人の頭の構造が変わっていないだけなのかもしれない。多様な考え方を認めないから極端な考え方に走りやすい。ある意味正義感が強いのでしょうね。世の中を良くしたいという気持ちが人一倍強い。

でも、一つの思想で世の中全体をよくするのは、僕は無理だと思う。戦時中は八紘一宇、戦後はマルクス主義こそが世の中全体を良くする処方箋だと信じられましたが、世の中全体をいっぺんに良くするような思想はないと断言します。一つの問題が解決すれば、絶対また別の問題が出てくる。問題の一つ一つを地道に解決していくしかないです。また、困っている人を助けたいなら、目の前の困っている人を、自分の出来る範囲で手を差し伸べればいいのでは。マザーテレサもそのような事をおっしゃっていたような気がする。

それから正義感というと聞こえはいいけれど、正義の名において惨たらしい虐殺や悲惨な戦争が幾度も起こった事は歴史が証明しています。正義感は否定しませんし、むしろある程度の正義感がないと、汚職や犯罪、ブラック企業による不当な労働もへりません。ただ、正義感も限度があります。山本夏彦翁は「汚職で国が滅びることはないが、正義感は国を滅ぼす」とおっしゃってました。僕は「行きすぎた汚職も、行きすぎた正義感も国を滅ぼす」と言いたいですね。

とはいえ、言論人の頭の構造ばかりをなじるわけにはいきません。彼らの頭の構造も確かに問題もありますし、行きすぎた正義感は褒めれるものではありません。けれど、言論で飯を食うのは本当に大変だと思います。多様なものの考え方を許容しつつ、かといって自分の意見を正直に言ったところで、それで飯が食えるわけではない。場合によっては政権よりのことを言わないと食っていけないのですから。

市川房枝さんがおっしゃっていたのですが、外国は戦時中でも、政権に批判的なことをいっても仕事があったそうです。だから、外国では政権に批判的なことを書いたりしても、あんまりとがめられることもなかったといいます。逆に日本は戦争反対っていうと全く仕事が無くなったと言います。

たとえば、原爆が投下された翌日、アメリカの主要な新聞は、その原爆投下を非難したといいます。それが日本だと違ったといいます。日本では原爆が投下されたことは新聞では非常に小さな扱いだったそうです。

また戦時中には中部地方などで大きな震災がありました。地震による家屋の倒壊、地震直後に発生した津波により、三重県、愛知県、静岡県を中心に、推定1000名前後の死者・行方不明者を出したとされております。が、日本の新聞は「大したことがない」と申し訳程度に取り上げられたそうです。でかでかと取り上げられたのは昭和天皇の肖像画、しかも新聞は戦意高揚の文章ばかりだったといいます。

それがアメリカの新聞は「地球が6時間にわたって揺れ、世界中の観測所が「破壊的」と表現した」と、大々的に報じた。」と書かれたそうです。これは、軍需工場の被害状況などの情報が連合国に漏れることを恐れた軍部は情報を統制したとも、国民の戦意が失われることを恐れたためだといわれております。被害にあった人たちには厳しい緘口令が行政側からまわったそうです。そのため他の地域からの救援活動もなく、被災地は孤立無援となったといいます。そのうえ空襲があったのだからたまったものではありません。

政権に批判的なことをいったり、戦争反対なんていえば、仕事もなくなるうえに、最悪警察に捕まってしまったといいますから、当時のジャーナリストも大変だったと思います。でも、日本にもそんな状況でも戦争を批判したサムライもいたのですね。石橋湛山元首相もその一人でした。彼は戦時中ジャーナリストだったのです。

僕は何も右から左に転向したことが悪いといっているのではありません。人間の心は移ろいやすいものですし、ましては戦時中は自由に意見も言えない時代だったのですから。それどころか、戦時中、戦後一貫して軍国主義者だった人の方が僕は大好きだし、尊敬できます。主義主張には賛同できないが、自分の信念を曲げないところ、ブレないところは凄い。でも、戦時中に自分が発した発言が後ろめたいと思うのなら、なおさら素直にそれを認めたほうがいい。その方が絶対自分もスッキリする。自分の発言に責任が持てず、開き直る人がいるから問題視しているのです。








戦う石橋湛山 (ちくま文庫)
半藤 一利
筑摩書房
2019-04-10





戦時中の日本は、体育を重視しました。精動運動(※1)は「健全な精神は健全な肉体に宿る」と信じていたからでしょう。本当は「健全な精神は健全な肉体に宿る」という体育会系が好きな言葉は間違っているのですね。これは、本来の意味は健全な肉体をもち、健全な精神をもっているのならそれ以上高望みするなよって意味だそうです。それにこの名言(迷言?)の元ネタには「宿る」なんて言葉はついていないのですね。決して健全な肉体を持っているからといって健全な精神を持っているとは限りません。部活でも先輩のシゴキと称したいじめが横行したり、会社でも体育会系上司によるパワハラがはやっていますから。

当時の精動運動も国のお偉いさんたちも「健全な精神に健全な肉体に宿る」と固く信じていたのでしょうね。それで、国民に体育をさせようということで、武道や水泳などが奨励されました。

たとえば、水泳は市営プールが無料開放をするところがでてきたり、無料で水泳を教える指導員もでてきました。へえ、いいなって僕も思ったのですが、国がここまでするのも理由があります。これも戦争の影響がありました。それは戦争で川や海を泳ぐこともあるからです。海から敵地に上陸したり、陸地でも川を渡って進軍しなきゃいけないこともある。元兵士のある関係者は満州事変のことを「敵前波間でいかに水泳が必要であるか痛感した」というのです。この元兵士はプール開きのときに軍服を着たまま泳いだそうです。その兵士は(プール開きの)参加者から満場の拍手を浴びたといいます。

昭和17年7月21日から8月30日までの間、「健民運動夏季新進鍛錬運動」が全国民を総動員して開催されました。そのときやったのがラジオ体操。ラジオ体操って戦前からあったのですね。7月21日から8月30日までずっと毎朝ラジオ体操を半ば強制されたといいます。おそらく、出席カードみたいなものがあって、町会や隣組のボスにハンコをもらい、さぼったり、休んだりしたら、いじめられたりしたのでしょうね。

こうしたラジオ体操の強制はなにもにほんだけではありません。当時の日本の植民地でもおこなわれえておりました。たとえば、フィリピンとか。写真週報には、その植民地におけるラジオ体操の普及をこのように賛美しておりました。

「電波がまき散らす希望と健康の贈り物ーやがて見るからに弱弱しい原住民たちの体位も、かうしたラジオ体操の普及によって、建設と歩調を一つに盛り上がっていくことでせう。まこと共栄圏の確率はラジオ体操からといふところです。」(『写真週報』第250号、昭和17年12月9日)

                              
そして、精勤運動がもっとも力を入れたのが、武道です。とりわけ剣道。戦争が泥沼化していて、一刻も早く現地で戦える兵士を育てたかったのでしょう。「剣こそは日本建国精神の象徴であり、惟心大道の表現である」と。宮公私立男子中等学校以上の学生が、全国七大年で剣道大会が行われたといいます。           

※1 日中戦争の拡大に伴って,国民に戦時意識を徹底させ戦争に協力させるために起こされた,国民的規模の精神運動。


                                           
※ 参考文献                                          

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       

国民精神総動員運動は、メディアを積極的に活用しようとしました。とはいえ、今みたいにネットはもちろん、テレビもない時代。あったのは新聞とラジオ。政府は運動を展開する手段としてラジオの活用をしました。1937年のラジオ普及率は、都市部で48・2パーセント、郡部では14・3パーセントでしたが、実際にラジオを聴いていた人たちはもっと多かったようです。商店街や隣家から大音量で流れるラジオ放送をもらい聴きする人がたくさんいましたし。

精勤運動が始まった年度のラジオ番組の内容は精動中央連盟のお偉いさんの講演の実況中継やら、「非常時の国民の生活様式」やら、そんな番組を流しておりました。それは1937年と1938年の二年間流しておりましたが、特に講演については評判が悪かったようです。1939年4月に内閣情報部がまとめた関係各方面からの意見をみると「講演会の効果は薄し」。その他の意見として「講演会などの集合の不振」、「運動、講演会などの不徹底」など。熱烈なアイコクシャさまはきっと講演を聴いて涙を流して感動したかもしれませんが、ラジオを聴いていたほとんどの国民はウザいとしか思っていなかったようです。その講演会事態も不人気、不入りだったようです。

とくに地方ではその傾向がつよかったようです。だから「地方においては演壇よりする啓蒙的運動はもはや効果少なくかつその必要性乏し」と精動はあきらめモードだったようです。

そして精動運動はラジオの利用の仕方を改めます。1940年1月から毎週金曜日午後4時30分から50分に「精動特報」を放送するようになりました。「精動特報」は放送内容は「国民生活の指導と国民組織の問題」がメインで、「都市部のぜいたく全廃運動」をとりあげたり、「冠婚葬祭の新様式について」(要するに贅沢するなといいたい)という特集をくんだりしたそうです。しかし、聴いているほうは、講演会よりはマシくらいにしか思っていなくて、上から目線の精動運動のやり方に反発する声も決して少なくなかったと思われます。

国民が一番関心をもったラジオ番組は「早朝ニュース」でした。このニュースでは戦況が伝えられ、戦地に赴いている兵士の安否情報も取り上げられたそうです。国民は、戦勝気分に踊らされたわけではなく、自分の身内や知人が無事かどうかを心配していたのですね。

一方、戦時下とはいえ、国民はラジオに娯楽をもとめていたのです。浪花節、歌謡曲、講談、落語、漫才、ラジオドラマが人気でした。

※ 参考文献


戦時中は英語やローマ字が使われることが禁じられました。僕も前にこのブログで書いたことがありますが、改めて書かせていただきます。英語禁止は国が命じたというより、マスコミなどがキャンペーンを張ったりしたので、そうした動きが生まれたのですね。

ある雑誌の投書欄にはこんなことが書かれておりました。

「街に、家に我々の周囲には、ローマ字、英字が氾濫している。特に看板や包装紙に甚だしい。共栄圏の人たちが日本に訪れた場合、彼らはこれをなんと感じ、なんと見るだろう。彼らと同じように、米英「文化」に支配された日本と見、指導国日本に対する信頼の念を薄くすることがないと、果たして断言できようか。町から家から、我々の生活から、あって益なきローマ字、英字を追放し、我々本来の文字をもって街を、生活を充たそうではないか」


今ではトンデモ発言とバカにされそうですが、当時の日本人にはこのような考え方をする人は少なくなかったのです。しかし、日本と同盟国だったドイツやイタリアだってローマ字を使用しているのですが、その辺のところはどう思われますかなんて突っ込みもしたくなります。

もちろん、戦争中英語がすべて排除されたわけではありません。少なくとも高等学校以上の中・上級生の受験科目には英語も入っていました。受験生向けの参考書も出されました。しかし、その参考書にも軍国主義の精神が色濃く残っておりました。

基本問題には「山本提督は古来まれなる海軍武人である」とか「長期戦を遂行するためには銃後の我々が節約せねばならぬ」いう日本語を英訳せよというのがあります。

さらにレベルアップすると

「日本の武人は刀折れ矢尽きるまで闘ひ続ける。さうなっても彼は降参する位ならむしろ自決する。之は世界無類の大和魂があるからだ」

う〜ん、難しいですね。特に「大和魂」はどう英訳すればよいのでしょうw

さらに必勝問題はもっとむずかしい。


「日本の執ってゐる政策並びに懐抱かいほうしてゐる理想は人類の功利的観念を一掃し、大東亜の旧組織に代ふるに新体制を以てし、かくて世界各国をしてその所を得しめるkとである。」


うーん、難しい。僕にはさっぱりwでも一応、答えが参考文献に乗っているので引用させていただきます。

「 The policy that Japan is pursuning and the ideal that she cheriishes are to eradicate the untilitarian way of thinking of mankind, and to establish in the Freater Asia the new order in plance of the old,so that each nation in the world may find its proper place」

だそうです。

また、旺文社の『蛍雪時代』とならぶ受験雑誌であった『学生』に「英語は日本語だ」というトンデモな内容が書かれているのです。


英語は日本語である。わが大日本帝国の勢力圏内において通用する英語は、明らかに日本語の一方言なのである。したがって我らは今日以後、国語の一部として英語を当然学習すべきである」

(『学生』昭和18年1月号 著者 佐藤正治)


すごいですね。英語も日本語の一部とは。なんでも韓国の国家主義者が「日本の文化は全部韓国の文化、たとえば、日本の剣道もルーツは韓国」みたいなことを言っているってネットに書かれているようです。でも、当時の日本には韓国の国家主義者のことを笑えないような暴論を吐いた人がいたのですねw

といいたいところですが、当時の英語教育者たちは鬼畜米英のスローガンの下、さぞかし肩身のせまい思いをしたことも想像に難くありません。多くの人たちが英語を勉強してもらいたいけれど、今のご時世ではそれが難しい。だからこそ、「英語は日本語の方言の一つ」なんて言って、読者に無理やり納得して英語に興味をもってもらおうと思ったのかもしれません。

また、英語やローマ字だけでなく米英音楽追放キャンペーンも張られるようになります。洋楽を聴いたり歌ったりしただけで非国民と罵られたのですね。戦後になって、日本も洋楽がたくさん流れるようになったのも、ある意味戦時中の反動かなと思いたくなります。実際昭和30年代の紅白歌合戦の曲目を見てみると、意外と洋楽が多いことに気づかされます。江利チエミさんとかザ・ピーナッツとか弘田三枝子さんとか、昔は洋楽も歌いこなせる歌手がたくさんいたのですね。

※ 参考文献



戦時下の出版史もしくは出版弾圧史に必ず出てくる男がいます。その男の名前は情報局情報官の鈴木庫三といいます。検閲と用紙統制によって出版社の首根っこをおさえて出版・マスコミ統制をおこない、大変な権勢をほこったといいます。そんな彼が「主婦の友」昭和17年1月号に登場して「新しい生活の建設」という文章を書いています。その文章を引用します。

シナ事変とともに燃え上がった国民の精神運動で、いろいろな標語が流れてきました。そのなかで面白いのは『贅沢は敵』といふ標語で(略)、この標語は、我が国や日本民族について真理だけでなく、広く全世界にとっても、全人類にとってもまた真理でなければなりません。そこにこの標語が面白いおところがあるのです。(略)

今度の世界大動乱にはいろいろな原因がありますが、その中の大きな要因の一つは世界の経済的な行き詰まりであります。世界を経済的に行き詰らせた主たる原因が右のように英米人の贅沢極まりない生活にあるのですから、この点から見て、英米人は世界人類の敵だというふことになります」


なんとも、トンデモな人だなって思いましたねwこの戦争の目的が贅沢と戦うためだといわんばかりの内容です。ともあれ、「ぜいたくは敵」という言葉は独り歩きしてしまったのですね。国民精神総動員運動が始まってから国民に対して、ぜいたくはするな、質素倹約をしろと上からいわれ続けました。そして配給制もはじまり、お米などが国から支給されるようになりましたが、これが少ないのですね。だから、闇業者からヤミ米をひそかに買った人も少なくありませんでした。 

実際に国民に質素倹約をしろといっても、それが完璧に守られるわけではありませんでした。国民精神総動員運動ではパーマも禁止され、丸刈りも奨励されました。が、こっそりパーマをかけていた女性もいたそうです。それどころか、精動(※1)の委員会の会議でも、パーマネントの擁護論まで飛び出したといいます。


「パーマネントウェーブは時間と経済上有利な点もあるので、その点を考えて手心を加えるようにしてほしい」
と。これではパーマの廃止は無理でしょう。


もちろん、今でいう社畜みたいな人たちは熱心に国のために質素倹約にはげみ、少しでも贅沢をした人間に「非国民」と罵ったことでしょうが。

「いかに国民精神を動員しても、統制経済の気候や運用に根本的欠陥があり、売り惜しみ、買いだめ、闇取引をしたものが、結局において社会の勝利者となり、きわめて正直に自粛自戒をしているものが、生存に必要なる最低生活も保障されず、かえってその迂愚(うぐ)を笑われるがごとき結果となるので、道義心ある国民に大いなる失望と憤りを与えずにはおかないのである」

これは堀切善次郎という政府のお偉いさんの言葉です。ようするに正直者がバカをみる、まじめに質素倹約を励んでいる人ほど苦労をするということです。いかにまじめに国のために尽くしたけれど、ちっとも生活が良くならない、それで要領がよくて悪賢い人がおいしい思いをしているみたいな、そんな状況が戦時中にあったのですね。

さらに、国民精神総動員運動の弊害も堀切は反省しているのです。これまでの国民精神総動員運動は「末梢的、羅列的、観念的かつ消極的であり、実践から遊離した天下りの掛け声にすぎない」と。

そして、「たとえばパーマネントの廃止とか、丸刈りの奨励とかにおいては、そのこと自体は決して非難すべきではないと思うがただこれを実践運動に移すにあたっては(中略)全国一律に画一的に行うことは不可能であると思う」


それでも、精勤は贅沢全廃委員会を設置しました。その実施対象は上層富裕者、戦時利得納税者など。いわゆる勝ち組です。贅沢廃止運動は六大都市(東京、京都、大阪、横浜、神戸、名古屋)を実施の重点地域として乗り出しました。婦人団体の協力を得て、市内のあちこちで自粛カードを配布しました。そのカードには「華美な服装はつつしみましょう。」「指輪はこの際全廃しましょう」と書かれていました。自粛カードだけでなく立て看板も設置されました。立て看板には「贅沢は敵だ」「日本人なら贅沢はできないはずだ!」と書かれておりました。

婦人団体は目を光らせ、派手な服装や、袖の長い着物、指輪をしている人間に注意を促し、やめさせるように促したといいます。婦人団体のおばさまたちが長そでの着物を着ている女性を捕まえて、手に持ったハサミでもって、片っ端から長そでを切ったという話もあるそうです。こわ・・



山田洋次監督の「母べえ」にもそうした場面がでてきます。笑福亭鶴瓶さんが演じるオジ様が金属製の指輪をはめていました。それを見ていた町内会のおばさまたちが、その指輪をよこしなさいといいます。それをこばんだ笑福亭鶴瓶さん演じるオジ様が拒むと、町内会のおばさんが「この方は非国民です!」と大騒ぎするのです。ちなみに、町内会のおばさまの一人を田中真弓さんが演じられていました。そう、「ドラゴンボール」のクリリンや「ワンピース」のルフィを演じられたあの田中真弓さんです。

母べえ
吉永小百合
2013-11-26



※1 国民精神総動員運動の略。日中戦争の開始直後の1937年8月から国民の戦意高揚をはかり,とりわけ経済戦への協力を強化するために政府が先頭に立ってすすめられた運動。





※ 参考文献






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