大山捨松は、万延元年(1860)、会津の家老の家に生まれました。幼少のころはサキといいました。それが、会津戦争で彼女の人生が変わりました。この戦で会津藩は、鶴ヶ城に立てこもって籠城戦をしました。その時捨松ことサキはまだ8歳でした。彼女の当時の心境をのちにこのように回想しております。
「毎日のように大砲の弾が私たちの頭の上をかすめお城の中に落ちてきました。私たち女子供も精いっぱい、男たちを助けて働きました。幼かった私に割り当てられた仕事は弾薬づくりの準備を手伝うことでした」
結局、会津藩は負けてしまいます。それから薩長を中心に新しい政治がはじまりますが、新政府は士族の子弟を留学生を募集します。岩倉具視を中心に使節団を欧米にわたり、条約改正の準備と欧米の視察をすることに決まったのですが、ついでに欧米に留学生も送ろうと政府は考えたのですね。山川家はこれに応じ、サキを送り込みます。これは山川家が薩長を見返したいという思いと、学問を通してお家再興を願ったのです。
その時、母がサキに贈られた名前が「捨松」という名前です。犬の名前のようですがw、これは「捨てたつもりで待つ」という意味合いが込められております。日本初の女子留学生は5人の少女がいましたが、捨松のほかに津田梅子もいました。津田梅子はなんと当時8歳です。捨松11歳、梅子8歳で海外へ留学。親は内心とても心配したと思います。コロナやテロが心配だから?それは21世紀の話でしょw?ましてや今の留学とは訳が違い、当時のアメリカは日本にとって未知の国でもありましたから。
捨松当時11歳でした。明治4年(1871)11月、捨松はアメリカへわたりました。捨松がアメリカでステイホーム先になったのが牧師のベーコン家。ベーコン夫妻は地元から尊敬されていたほどの名士で、英語やマナーなどを学んだのです。捨松はベーコン家で実の娘のようにかわいがられたのです。捨松に影響を与えたのはアリスというベーコン夫妻の娘です。彼女は教師を目指しており、人はみな平等だと主張していました。
ベーコン夫妻やアリスを通してキリスト教に基づいた価値観を捨松は学びました。捨松は武家の娘。武士の倫理は、親の言いつけを守ったり、上の人間に忠義を誓うことしか頭になかったのです。生命を大事にするなんてもってのほかで主君のためには命さえも捨てろという価値観でした。これがキリスト教に基づく愛や慈愛の精神とは真逆の考え方です。そういう意味ではカルチャーショックを受けたのではないでしょうか。
明治政府が捨松ら留学生に求めていたのは良妻賢母になること。しかし、アメリカはその逆で女性の社会進出も盛んでした。アリスの影響を受けた捨松はニューヨーク州のヴァッサ―大学に入学します。英語はもちろんフランス語、政治学なども学び、成績はトップクラスでした。22歳で捨松は大学を卒業。捨松は日本で学校を作りたいと思うようになりました。
明治15年(1882)、捨松は学校をつくるという夢を抱き日本に帰国します。しかし、喜びもつかの間、捨松には過酷な運命が待っていました。政府は男子には仕事を与えましたが、女子には何一つ仕事を与えていませんでした。日本に帰国した捨松はアメリカのアリスに手紙を送りましたが、その時捨松はこのようなことを書きました。
「ああ、アリス、人生はなんて複雑なのでしょう。私はいままで人生の暗い面など想像したこともありませんでした。自分の未来、自分の強さにとても自信を持っていたのに、その両方を亡くしてしまいました」
22歳になった捨松、家族からの結婚するように迫られました。そんな時、大山巌からプロポーズされます。大山は18歳年上ですが、前妻に先立たれた大山が新しい嫁さんを探していたのです。この縁談に捨松の兄は断固として反対。そりゃ18歳も離れたらね。親子ほどの差がある。今でこそ親子ほどの年の差カップルなんて珍しくありませんが、当時はとても珍しいものでした、もちろん、年の差だけでなく、大山は薩摩の出身。かつての会津戦争の敵。それでも大山はあきらめなかったので、兄は根負け。判断は捨松本人に委ねられました。
また、捨松に教師の仕事の話が舞い込みますが、捨松は11年の留学生活のため日本語は初等教育レベルしか話せません。いくら英語ができても日本語がしゃべれなければ、日本人の生徒に勉強を教えることはできません。そのため教師の話を断念。しかし、捨松は学校をつくる夢をあきらめておりません。その夢を果たすためにも実力者の大山と結婚したほうがよいのではと思うようになったのです。大山は包容力があり、薩長の幹部たちがケンカをしても、大山が仲裁に入ったほど。また、指揮官として部下が働きやすいように配慮をする人でもあったのです。そんな大山を捨松は見抜いたのでしょうね。
そして、明治16年(1883)6月、悩んだ末、捨松は大山巌と結婚すると決心します。その時の心境をアリスへの手紙につづっております。
「大山氏はとても素晴らしい方で私は将来を託すことにしました。未来の夫のために自分自身を捧げ、よき協力者になりたいと思っています。今、私は自分がしたことが正しかったと思っています」
大山巌と捨松の夫婦関係はなかなか良好で、捨松は夫のことを「巌」と名前で呼んでいたそうです。大山も自分の娘に外国の教養を学ばせようとする進歩的な考え方だったので、価値観も一致していたそうです。
大山は陸軍卿として軍隊の強化を行っていました。しかし、厳しい訓練だけでは軍はつよくなりません。西洋から優れた軍事物資を取り入れる必要があります。そのためにも欧米とも仲良くならなくてはなりません。
茄子じゃなかったw那須の塩原に大山の別荘があるのですが、ここで各国の要人をもてなしたといいます。捨松は国ごとの作法でもてなし、パーティーを取り仕切ったといいます。椅子やテーブルなどの調度品もアメリカから取り寄せてたといいます。欧米の要人たちがまるで母国のようにくつろいでもらいたいという捨松の配慮でした。
そんな彼女のおもてなし術は新政府の眼にとまります。
明治政府は鹿鳴館をつくりました。政府は不平等条約を改正させるため、夜な夜な各国の要人を鹿鳴館に招いて、ダンスパーティーを開いたのです。日本が文明国であることを証明しようとしたのです。当時の人たちは西洋のもてなし方など知らなかったのです。そんな中、捨松は本場仕込みの巧みなダンスのステップと語学力で各国の要人をもてなしました。各国の要人たちは捨松のエレガントな立ち振る舞いを称賛。捨松は「鹿鳴館の華」とも呼ばれました。
そんな捨松は看護学校をつくりたいと考えるようになりました。実は捨松は大学を卒業後、半年くらい看護学校に通っていたのです。チャリティーバザーを開き、その資金で看護学校を作ろうとしたのです。新聞も捨松のこうした動きを大きく取り上げした。当時の日本にはバザーなんてありませんでしたからね。新聞を見た婦人たちも、捨松のこうした動きに賛同。手製の人形やハンカチなど多くの品物が集まりました。そして鹿鳴館を会場に日本初のバザーが開かれました。そのバザーには皇室の関係者がくるなど、すごいもので、3日間で一万人も集まったとか。集まった金額は現在の価格で一億円だとか。すごいですね。この資金をもとに有志共立東京病院看護婦教育所を設立しました。これは日本初の看護学校でした。
これは捨松がアメリカでの経験もそうですが、幼少時の会津戦争での経験も大きいと思われます。照姫という会津藩主の義理のお姉さんが、籠城戦で場内の女性や子供を指揮したのですが、照姫がうちかけを傷ついた兵士にかけてあげたりするなど、身分の差を超えて看護をする姿をみたのです。それで、彼女は看護学校をつくることの必要性をかんじたのですね。
小平市にある津田塾大学ですが、この大学の前身、女子英学塾をつくったのが津田梅子ですが、捨松もこの学校設立の際に全面的な協力をしたそうです。この英学塾の顧問に捨松が就任。梅子のために資金集めなどで協力したのです。また、アリス・ベーコンを英学塾の教師へと招聘したのです。
明治37年(1904)、日露戦争がおこります。大山巌は満州軍総司令官に任命されます。95万の兵士を率いて、大国ロシアに立ち向かいます。戦争中、捨松は出征兵士たちの家族を支援する活動をしたといいます。働き手を失い困窮する家族には、軍服の裁縫や洗濯をする仕事を与えたり、母親が働きやすいように無料の託児所をつくっていたそうです。そして総司令官の妻として何よりも大切なことは戦死者の遺族を慰問することでした。
「いま、私が一番つらいことは遺族の方たちを訪ね、慰めの言葉をかける時です。たとえ国中の人が栄誉ある死について褒め称えたとしても、私たち女性は悲しみを殺して愛国主義者となる前に、妻であり母なのですから」
日露戦争当時の日本はイケイケムードで、おそらく日本の歴史上もっともネトウヨみたいな人が多かった時代だと思います。そんな時代で「家族のつらさ」を語るとは勇気があります。捨松は幼少のころに、会津戦争で多くの死を目の当たりにし、戦争で亡くなった遺族のつらさを身をもって経験していました。だからこそ、彼女は慰問活動を大切にしたのでしょうね。
晩年の捨松と大山巌夫妻は那須塩原の別荘で静かな余生を過ごしたといいます。その時の心境を親友アリスにこう手紙につづっています。
「親愛なるアリス、私は自分の生活が今とても幸せであることに心から感謝をしています。夫もとても元気で、私たちは仲の良い老夫婦となりました。あなたの親友捨松より」
大正8年(1919年)2月18日)、捨松は亡くなります。
捨松は愛する伴侶、巌とともに那須の地で今も眠っています。
「毎日のように大砲の弾が私たちの頭の上をかすめお城の中に落ちてきました。私たち女子供も精いっぱい、男たちを助けて働きました。幼かった私に割り当てられた仕事は弾薬づくりの準備を手伝うことでした」
結局、会津藩は負けてしまいます。それから薩長を中心に新しい政治がはじまりますが、新政府は士族の子弟を留学生を募集します。岩倉具視を中心に使節団を欧米にわたり、条約改正の準備と欧米の視察をすることに決まったのですが、ついでに欧米に留学生も送ろうと政府は考えたのですね。山川家はこれに応じ、サキを送り込みます。これは山川家が薩長を見返したいという思いと、学問を通してお家再興を願ったのです。
その時、母がサキに贈られた名前が「捨松」という名前です。犬の名前のようですがw、これは「捨てたつもりで待つ」という意味合いが込められております。日本初の女子留学生は5人の少女がいましたが、捨松のほかに津田梅子もいました。津田梅子はなんと当時8歳です。捨松11歳、梅子8歳で海外へ留学。親は内心とても心配したと思います。コロナやテロが心配だから?それは21世紀の話でしょw?ましてや今の留学とは訳が違い、当時のアメリカは日本にとって未知の国でもありましたから。
捨松当時11歳でした。明治4年(1871)11月、捨松はアメリカへわたりました。捨松がアメリカでステイホーム先になったのが牧師のベーコン家。ベーコン夫妻は地元から尊敬されていたほどの名士で、英語やマナーなどを学んだのです。捨松はベーコン家で実の娘のようにかわいがられたのです。捨松に影響を与えたのはアリスというベーコン夫妻の娘です。彼女は教師を目指しており、人はみな平等だと主張していました。
ベーコン夫妻やアリスを通してキリスト教に基づいた価値観を捨松は学びました。捨松は武家の娘。武士の倫理は、親の言いつけを守ったり、上の人間に忠義を誓うことしか頭になかったのです。生命を大事にするなんてもってのほかで主君のためには命さえも捨てろという価値観でした。これがキリスト教に基づく愛や慈愛の精神とは真逆の考え方です。そういう意味ではカルチャーショックを受けたのではないでしょうか。
明治政府が捨松ら留学生に求めていたのは良妻賢母になること。しかし、アメリカはその逆で女性の社会進出も盛んでした。アリスの影響を受けた捨松はニューヨーク州のヴァッサ―大学に入学します。英語はもちろんフランス語、政治学なども学び、成績はトップクラスでした。22歳で捨松は大学を卒業。捨松は日本で学校を作りたいと思うようになりました。
明治15年(1882)、捨松は学校をつくるという夢を抱き日本に帰国します。しかし、喜びもつかの間、捨松には過酷な運命が待っていました。政府は男子には仕事を与えましたが、女子には何一つ仕事を与えていませんでした。日本に帰国した捨松はアメリカのアリスに手紙を送りましたが、その時捨松はこのようなことを書きました。
「ああ、アリス、人生はなんて複雑なのでしょう。私はいままで人生の暗い面など想像したこともありませんでした。自分の未来、自分の強さにとても自信を持っていたのに、その両方を亡くしてしまいました」
22歳になった捨松、家族からの結婚するように迫られました。そんな時、大山巌からプロポーズされます。大山は18歳年上ですが、前妻に先立たれた大山が新しい嫁さんを探していたのです。この縁談に捨松の兄は断固として反対。そりゃ18歳も離れたらね。親子ほどの差がある。今でこそ親子ほどの年の差カップルなんて珍しくありませんが、当時はとても珍しいものでした、もちろん、年の差だけでなく、大山は薩摩の出身。かつての会津戦争の敵。それでも大山はあきらめなかったので、兄は根負け。判断は捨松本人に委ねられました。
また、捨松に教師の仕事の話が舞い込みますが、捨松は11年の留学生活のため日本語は初等教育レベルしか話せません。いくら英語ができても日本語がしゃべれなければ、日本人の生徒に勉強を教えることはできません。そのため教師の話を断念。しかし、捨松は学校をつくる夢をあきらめておりません。その夢を果たすためにも実力者の大山と結婚したほうがよいのではと思うようになったのです。大山は包容力があり、薩長の幹部たちがケンカをしても、大山が仲裁に入ったほど。また、指揮官として部下が働きやすいように配慮をする人でもあったのです。そんな大山を捨松は見抜いたのでしょうね。
そして、明治16年(1883)6月、悩んだ末、捨松は大山巌と結婚すると決心します。その時の心境をアリスへの手紙につづっております。
「大山氏はとても素晴らしい方で私は将来を託すことにしました。未来の夫のために自分自身を捧げ、よき協力者になりたいと思っています。今、私は自分がしたことが正しかったと思っています」
大山巌と捨松の夫婦関係はなかなか良好で、捨松は夫のことを「巌」と名前で呼んでいたそうです。大山も自分の娘に外国の教養を学ばせようとする進歩的な考え方だったので、価値観も一致していたそうです。
大山は陸軍卿として軍隊の強化を行っていました。しかし、厳しい訓練だけでは軍はつよくなりません。西洋から優れた軍事物資を取り入れる必要があります。そのためにも欧米とも仲良くならなくてはなりません。
茄子じゃなかったw那須の塩原に大山の別荘があるのですが、ここで各国の要人をもてなしたといいます。捨松は国ごとの作法でもてなし、パーティーを取り仕切ったといいます。椅子やテーブルなどの調度品もアメリカから取り寄せてたといいます。欧米の要人たちがまるで母国のようにくつろいでもらいたいという捨松の配慮でした。
そんな彼女のおもてなし術は新政府の眼にとまります。
明治政府は鹿鳴館をつくりました。政府は不平等条約を改正させるため、夜な夜な各国の要人を鹿鳴館に招いて、ダンスパーティーを開いたのです。日本が文明国であることを証明しようとしたのです。当時の人たちは西洋のもてなし方など知らなかったのです。そんな中、捨松は本場仕込みの巧みなダンスのステップと語学力で各国の要人をもてなしました。各国の要人たちは捨松のエレガントな立ち振る舞いを称賛。捨松は「鹿鳴館の華」とも呼ばれました。
そんな捨松は看護学校をつくりたいと考えるようになりました。実は捨松は大学を卒業後、半年くらい看護学校に通っていたのです。チャリティーバザーを開き、その資金で看護学校を作ろうとしたのです。新聞も捨松のこうした動きを大きく取り上げした。当時の日本にはバザーなんてありませんでしたからね。新聞を見た婦人たちも、捨松のこうした動きに賛同。手製の人形やハンカチなど多くの品物が集まりました。そして鹿鳴館を会場に日本初のバザーが開かれました。そのバザーには皇室の関係者がくるなど、すごいもので、3日間で一万人も集まったとか。集まった金額は現在の価格で一億円だとか。すごいですね。この資金をもとに有志共立東京病院看護婦教育所を設立しました。これは日本初の看護学校でした。
これは捨松がアメリカでの経験もそうですが、幼少時の会津戦争での経験も大きいと思われます。照姫という会津藩主の義理のお姉さんが、籠城戦で場内の女性や子供を指揮したのですが、照姫がうちかけを傷ついた兵士にかけてあげたりするなど、身分の差を超えて看護をする姿をみたのです。それで、彼女は看護学校をつくることの必要性をかんじたのですね。
小平市にある津田塾大学ですが、この大学の前身、女子英学塾をつくったのが津田梅子ですが、捨松もこの学校設立の際に全面的な協力をしたそうです。この英学塾の顧問に捨松が就任。梅子のために資金集めなどで協力したのです。また、アリス・ベーコンを英学塾の教師へと招聘したのです。
明治37年(1904)、日露戦争がおこります。大山巌は満州軍総司令官に任命されます。95万の兵士を率いて、大国ロシアに立ち向かいます。戦争中、捨松は出征兵士たちの家族を支援する活動をしたといいます。働き手を失い困窮する家族には、軍服の裁縫や洗濯をする仕事を与えたり、母親が働きやすいように無料の託児所をつくっていたそうです。そして総司令官の妻として何よりも大切なことは戦死者の遺族を慰問することでした。
「いま、私が一番つらいことは遺族の方たちを訪ね、慰めの言葉をかける時です。たとえ国中の人が栄誉ある死について褒め称えたとしても、私たち女性は悲しみを殺して愛国主義者となる前に、妻であり母なのですから」
日露戦争当時の日本はイケイケムードで、おそらく日本の歴史上もっともネトウヨみたいな人が多かった時代だと思います。そんな時代で「家族のつらさ」を語るとは勇気があります。捨松は幼少のころに、会津戦争で多くの死を目の当たりにし、戦争で亡くなった遺族のつらさを身をもって経験していました。だからこそ、彼女は慰問活動を大切にしたのでしょうね。
晩年の捨松と大山巌夫妻は那須塩原の別荘で静かな余生を過ごしたといいます。その時の心境を親友アリスにこう手紙につづっています。
「親愛なるアリス、私は自分の生活が今とても幸せであることに心から感謝をしています。夫もとても元気で、私たちは仲の良い老夫婦となりました。あなたの親友捨松より」
大正8年(1919年)2月18日)、捨松は亡くなります。
捨松は愛する伴侶、巌とともに那須の地で今も眠っています。