history日誌

東京も雷がゴロゴロなって、ツユじゃなかったw梅雨がもうすぎ明けて、本格的な夏を迎えようとしております。めんツユが明けてもしょうがないですよねwめんツユといえば、冷や麦が食べたくなる季節になってきましたね。(なんのこっちゃw) それでは今日も前回に引き続き防空法のお話をします。今日は政府がいかに空襲の情報を禁じたかというお話。


1 マスコミの罪

 昭和17年4月18日、B25爆撃機が白昼堂々と東京や川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸などを攻撃しました。死者も約90名もでたのですね。しかも死者はほとんど非戦闘員の一般人です。しかも、死者のなかには幼い子供もいたといいます。これは大変なことです。コロナが東京で200名以上でたことも衝撃ですが、これはもっと衝撃的なニュースですね。

しかし翌日の新聞の一面は空襲の悲惨さや恐ろしさをほとんど触れず、それどころかこんなことが書かれておりました。

「家族が食卓を囲んで食事をしているところに焼夷弾が落ちた。とっさの機転で老婆がお鉢のふたをかぶせれば、あとの家族が砂やムシロなどを運んできて簡単に火を消し止めた」

「バケツのお尻で焼夷弾の灯をたたき消した」


いづれも『読売新聞』の記事から引用したものですが、呆れた話です。こんな話をまともに信じる人はそうそういないと思います。焼夷弾は3000度の熱があるといいます。僕も実際に焼夷弾を生で見たことがあります。見たことがあるといっても不発弾ですが、不発弾とわかっていても、近づくのが怖いくらいでした。バケツのお尻や砂で火が消せるわけないのです。消せるどころか爆発してしまいます。当時の大マスコミはこんなウソを平気で書いていたのですね。

さらに『朝日新聞』には「爆撃の状況を種々詮索したり、あるいは憶測などによって流言飛語をなすなどは厳に戒めねばならない。作戦上のことに関しては一切軍に信頼して、一般国民はそれぞれ全力をあげてその持ち場を守り、各自の任務を全うすることが必要である」と軍部の談話、まさにDVオヤジの言い訳のような談話を嬉々としてとりあげておりました。その軍部が一番信頼できないのにこの言い方はないですよね。この新聞が戦後になって反戦平和なんていっても説得力がありませんよね、ホント。

こんな与太話ばかりで肝心な犠牲者の数は取り上げておりません。それというのも当時の政府というか軍部が、マスコミに空襲のことは書くなって命令したからです。本土空襲以降、報道規制が強まり、空襲の報道記事はすべて特高課によって検閲されたといいます。



2 うわさ話もするな
 戦時中はSNSはありませんでしたが、東京や神戸、横須賀などこれだけの都市が空襲にあえば、その恐ろしさは嫌でも日本の方々に伝わります。そのことに危機感を感じたのは軍部。国民に厭戦気分が蔓延するのが何よりも恐ろしい。なんたって戦争があっさり終わって困るのは、国民ではなく一部の勝ち組ですからね。で、軍部は、空襲の話を人々に話すのは非国民だとキャンペーンを張ったのです。

政府が刊行した広報誌『週報』にも、このように書かれております。

「(空襲の話を友達や親戚等に)知らせたいのはやまやまです。しかし考えねばならないのは国内に発表すればそれが津津根家に敵国に聞えるということです。先だっての空襲でも米国は空襲の真相がわからず、弱り切っています。そこへ国内発表することは、敵へ真相を教えてやるようなものです。」

「空襲の被害状況を発表できないのは、こういった理由からで、結局、国民を空襲の被害から救おうとしていることができます。」

「ここで特にお願いしたいことは、空襲のことについては、知ったかぶりをして、人から聞いた話など言いふらさぬようにしていただきたいことです。空襲のうわさ話などをしていたら、お互いで相戒め、でたらめな話をすることは非国民的な行為としてお互いに注意していただきたいことです。」

要するに、空襲の話をするなといいたいのでしょう。それにしても、敵に空襲の真相が知られるから、話すとはなんとバカなことを書いているなって。空襲を落としたのはほかでもないアメリカなのですから、空襲の真相なんてあったもんじゃありません。もし、この『週報』をアメリカ軍が読んだら鼻で笑われますよ。当時の政府はこんな態度だったのですね・・・・

うわさ話だけでなく、空襲のことを手紙に書くことも禁じたといいます。昭和16年10月に制定された勅令『臨時郵便取締令』がだされ個人が出した手紙も郵便職員が検閲することが認められました。つまり、空襲のことが手紙に書かれていたら警察にチクることもできたのです。今では考えられないことです。いまでは郵便職員が個人が出したハガキどころか年賀状も読むことを固く禁じられていますし、たとえ警察が犯人が書いたかもしれない手紙を見せろと言われても、郵便職員は通信の秘密を盾にそれを拒むことができますからね。

ちなみに空襲のことでも書いていいのは「どこどの誰かさんの家が焼けました」とか「誰かさんがけがをした」くらいならOKのようです。

3 空襲予測も隠蔽
 政府が隠蔽したのは空襲の被害だけではりません。空襲の予測さえ隠蔽していたのです。アメリカが昭和17年に続いてまたも日本を爆撃するということを事前に予測していたのです。それはガダルカナル島の戦いで日本軍が敗退した翌日(昭和18年2月8日)、政府は「絶対国防圏」を縮小し、次の空襲判断をしめしたのです。

「大東亜戦争は今や長期戦の様相を濃化し、これに伴う空襲は、来年度以降さらに深刻かつ激化すべ趨向すうこうを予想せらるる・・・(中略)小型焼夷弾の多数投下及び焼夷威力が大なる大型焼夷弾の混用投下し、消防活動を困難ならしめんとする公算大なる。(中略)大なる機数をもって反復空襲し一挙壊滅的効果おさめんとする公算大・・・」


なんと政府は昭和18年の時点でアメリカは再び空襲をする、今度は一回目よりもっとひどい爆撃をするだろうと割と正確に予測をしていたのですね。それにもかかわらず、大本営には「大したことがない」「逃げるな火を消せ」と昭和20年の8月15日まで国民に命令していたのですね。おそらく、軍部のお偉いさんや一部の勝ち組にはこうした正確な情報が伝わっていたが、一般国民には知らされていなかったのです。空襲がひどくなることが昭和18年の時点でわかっていたなら、その時点で戦争をやめるべきでした。

時々ネットで「日本も優秀な人間が独裁的な政治をやったほうがいいのでは」という意見がありますが、戦時中の空襲の対応を見るにつけ、その考え方は非常に危険であると思いたくなります。

※ 参考文献















1 退去禁止を違反した者
 防空法に加えられた退去禁止。その違反者への処罰は最大で懲役6か月または罰金500円でした。消火義務に違反したものは懲役こそはなかったものの最大罰金500円とられたといいます。500円なんてワンコインでマックのバリューセットより安いじゃんと思うのは現代人の感覚。当時の教員の初任給が月55円でしたから、500円なんてその10倍。当時の500円がいかに大金かわかります。

また、灯火管制(家やオフィスの電気を消して真っ暗にすること)をしているときにドロボウをしたり、物資の買い占めや売り惜しみをした場合も処罰されたそうです。東日本大震災それから今回のコロナのときも買い占めが問題となりましたが、世が世なら処罰されていた行為です。

とはいえ、実際にこの規定で処罰された例は、現存の公文書などから見つかっていないことから、処罰された人は極めて少なかったのではないかと。しかし、罰則の存在自体が市民への脅しにもなるわけです。昭和17年4月18日に初めて日本が空襲をうけましたが、それ以降空襲はひどくなっていきます。その処罰規定も空襲がはげしくなるほど、市民にとって重いものになっていきます。 

2 逃げるものは非国民
 法律による処罰だけでは、退去禁止を義務付けるのは手ぬるいと政府は考えました。だって「空襲で死ぬくらいなら、逃げた後で処罰されたほうがましだ」と思う人も出てくるかも。はっきり言って、刑務所の中のほうが安全かもしれませんよねw?それで政府は精神主義的なキャンペーンを重視しました。

昭和16年9月3日発行の政府広告誌『週報』256号の記事にこのように書かれております。


「関東大震災では地震そのものがもたらす惨害を食い止めることができずに、その何十倍もの惨害を引き起こしたのは、当時の人たちに大多数が太平の夢に慣れ、士気がたるんでいたからで、激震に逆上して周章狼狽し、自分一人の安全を願って逃げだし、ついに大火となり、そのうえ荒唐無稽な流言飛語に迷って混乱に混乱を重ねたからです」

つまり関東大震災の被害が大きくなったのは地震そのものではなく、逃げた人間が悪いという無茶苦茶な論法です。これを書いた人は東日本大震災のとき「天罰」発言をした某知事と同じ頭の構造だなって。それにしても、当時の政府のお偉いさんはマジでこのような発想をしたのですね。江戸時代の政治家のほうが何十倍も偉かったですね。知恵伊豆こと松平信綱公は江戸の大火の際、逃げ場をつくるために広小路(広場)をつくったり、墨田川を渡れずに多くの人が火で焼かれてしまったので、墨田川に橋を架けたりしたのですよ。この記事で納得できるとすれば「荒唐無稽な流言飛語」のくだりだけですね。さらに続けます。

「問題は、どうすれば犠牲を少なくすることができるかを考え、それを実行することです。その最良の方法は、国民各自が一死奉公(※1)の精神をもって協力に団結し、なんどきでも敵機御座んなされという決意をもつことです。一死奉公の精神を持つためには、先づ第一に利己主義、個人主義を清算し、とかく陥りやすい人情の弱点である自分ひとり、自分一家だけの安泰を願ふことがあってはなりません。いふまでもなく個人は国家と運命を共にすべきもので、たとひ、自分一人が助かっても、万一国家が一大損害をこうむれば、個人の幸福等は到底望めないことです」

昔の日本は個人よりも国家の都合が最優先されたのですね。しかし、そうした考えがかえって国家の大損害につながったのは本当に皮肉だなって。震災とか災害の時は、消防とかそういう仕事についている人はともかく、誰それかまわずとにかく逃げたほうがいいといいます。東日本大震災の時、津波がくるぞ逃げろといって、一目散に逃げた人は助かったといいます。

空襲のときも逃げた人のほうが、生き延びて戦後の復興のために働き、一方で防空法をかたくなに守ったほうが尊い命を落としたのですから・・・

「富んだ者も貧しいものもすべてのものが、大なり小なり都市の恩恵や利益を受けているのです。それが平素恩恵だけを受けて、いったん風雲急になると、都市を放棄して退去することは、日本の武士道、帝国の国民道徳からいっても許されないことです」


逃げることは武士道の国民の道徳にも反しているなんて言われたら返す言葉もないですね。ちなみに『武士道』の話がでてきたので、『武士道』のお話を少し。確かに『武士道』は素晴らしいといわれておりますが、あれは平時のときの武士の心構えで、むしろ風雲急の時はマイナスになることが多いみたいです。

『武士道』といえば「武士とは死ぬことを見つけたり」というセリフを連想しますが、そもそも戦国時代の武士たちは生き残るためなら、だまし討ちや裏切りもOKだったそうですよ。江戸時代になって、戦争がなくなってから『武士道』の本質も変わってきて、平時の武士たるものの心構えに代わっていきました。そうして江戸時代に出来上がった武士の価値観が明治になって新渡戸稲造が『武士道』にまとめたのですね。生き残るよりも死ぬことが大事だといわれた『武士道』がある意味、戦時中の日本人を呪縛したのかもなって・・・・




3 隣組の組織化
 政府は防空法実施にあたって「ご近所づきあい」を重視しました。国民が逃げずに火を消す方針を守らせるには、監視役が必要だと。それで国民同士を監視させるためにつくられたのが「隣組」です。 隣組とは10戸前後の家庭から構成され、防災訓練だとか、配給される食糧の分配などを行っていました。隣組は今でいう町内会や団地の自治会をパワーアップさせたものでしょうか。

隣組にはいくつもの決まりごとがありますが、そのなかでも焼夷弾が落下したときの心構えも決められていました。

「焼夷弾が落下してきたら、防空壕のなかに待避している人も家の中にいる人も一斉に飛び出して、直ちに防火に努めねばなりません。防火にあたるのは単に防空責任者だけでなく、隣組全員の責任です」
政府広告誌『週報』256号(昭和16年9月3日)より引用

「国を守れ」と政府のお偉いさんが言うよりも、顔なじみの人に言われたほうが恐ろしいです。政府のお偉いさんなんて一般国民にとっては遠い存在ですが、隣近所の人を敵に回すと、あとで報復があるかもしれない。

焼夷弾が落下しても、逃げたら「非国民」といじめられてしまう。それが怖いから、しぶしぶ従ってしう。現代でいえば、コロナで自粛を破った人が、隣近所の人に写真で隠し撮りされてSNSで公開されたり、嫌がらせをうけるみたいな。だから、隣近所の人間が嫌な奴でも従わざるをえない、というか嫌な奴ほど、ここぞとばかりにえばり散らす。以前の記事にも書いた『はだしのゲン』の鮫島伝次郎のような男。現代ならば自粛警察。

 ※1 戦争で死んで奉公すること

※ 参考文献 
























   


  
  


1 防空法制定の翌年、突如の方針
 前回の記事で防空法が制定されたことを書かせていただきました(昭和12年3月)。防空法にははじめは避難禁止の条項はありませんでした。ところがその年の7月の盧溝橋事件以降、抒情に避難禁止の方針が姿を現すのです。同年12月17日の内務省が定めた「防空指導一般要領」は「避難については、原則として自衛防空の精神により建物毎に護るべく」として、あんまり非難はしないでねみたいな内容が盛り込まれました。さらに昭和13年になると、もっと踏み込んだ話になってきます。

高齢の方や病気の人以外は非難を認めない方針になったのです。こんなことは帝国議会では一言も審議されませんでした。こんなことは「防空法」の条文には全く書かれておりません。だから法的根拠はありません。にもかかわらず通牒のみでこのようなことがまかり通ってしまったのです。

昭和14年4月に内務省が刊行した「国民防空読本」にも「我が国の現在の防空の方針としては、原則として非難を認めないこととなっている」と明記されております。昭和16年以降になると、退去禁止を法律上で定められます。空襲が起きても持ち場を離れるな、火を消せといわれるようになったのです。政府が出した『時局防空必携』には「(火は)心がけと準備次第で消せる」という言葉に始まり、家の柱やふすまに火がついたら、火をたたいて消せだの、服を水で濡らして消火せよだの、焼夷弾に直接砂や土をかぶせろだの、無理難題が書かれているのです。花火やたばこの残り火と焼夷弾とは訳が違います。当時の日本政府のおえらいさん方はたばこの残り火と焼夷弾の区別ができなかったのかと呆れてしまいます。しかも、自分の命は守れという記載は一切ないのです。

2 なぜ非難を禁止するのか
 
それにしても戦争を遂行する側からすれば、労働力や兵力を温存する意味でも避難を認めて、人命を守ったほうが合理的だと思うのですが、当時の政府はまったく逆のことをしていたのですね。昭和16年ン位防空法改正を審理する衆議院防空法改正特別委で、佐藤賢了・陸軍省軍務課長はこのように述べました。

「空襲をうけたる場合において、実害そのものは大したものではないことは度々申したのであるが、周囲狼狽混乱に陥ることが一番恐ろしい。またそれが一時の混乱にあらずして、ついに戦争継続意思の破綻という混乱にあらずして、ついに戦争継続意思の破綻ということになるのが最も恐ろしい。

いかなる場合においても、戦争とは意思と意思の争いである。たとえ領土の大半を敵にとられても、あくまで戦争を継続する意思を挫折せしめなければ、このものは結局において勝つのである」


つまり、空襲はたいしたものではない。根性があれば戦争に勝てる、空襲の被害よりも戦争が嫌になることが一番怖いといいたいのでしょう。ひどい話です。この佐藤賢了のコメントは翌日の新聞各紙に大々的に取り上げられたといいます。

3 無視された異論
 もちろん、防空法の問題点に関しては異論もありました。たとえば貴族院の水野甚次郎議員は国会で次のように質問しました。

「私は戦犯んお防空演習をみても『お祭り騒ぎ』の感があるのであります。三千度の熱をもった焼夷弾に対して、あのちいさなバケツで水をそばに持っていくような余裕は果たしてあるのか、そばに寄れるものじゃない。あんな状態でどうして火を消しえるのであるか、私ども誠に空恐ろしく感じました。」

まったくもって正論です。しかし、政府のお偉いさんは開き直るような態度だったそうです。もし、当時に5ちゃんねるがあったら、間違いなく水野議員は「パヨク」とたたかれていたでしょうね。

また芦田均議員(戦後総理大臣になる)は、防空施設の不足を指摘しました。ポンプ車や水道整備が立ち遅れていましたから。物資が不足していたとはいえ、空襲に備え防空施設を整えるべきだと思うのは、軍事に素人の僕でさえ思います。しかし、軍のお偉いさんの答えは「施設の足りない分は、精神で補う」というものでした。政府の無策を棚に上げ、各人の精神で乗り切れというまさに「自己責任論」です。僕もこのブログで度々書いておりますが、戦前、戦時中は現代よりも「自己責任論」がまかり通っていたのです。

もちろん軍部のなかにもまともな考え方を持っている人もいました。たとえば室井捨治(海軍少佐)は「空襲の脅威」という座談会でこのように述べております。

東京全体としては、まず避難させるのが一番よい。いくら施設(整備)をしてもかなわぬから避難させる。むろん根本的な対策は色々ありましょうが、現在差し迫ってどうしたらよいかといえば・・・実際対策はないですね。とりあえず消防力を強化する位の手しかないんじゃないでしょうか」

室井少佐はベルリン駐在の経歴があり、空襲の恐ろしさも見聞していたと思われます。避難すべきというのは率直な実感でしょう。

しかし、ある中佐が「もし市民全部が逃げてしまうと空になって火を消す人がいなくなる」と反論。こうして室井少佐も黙ってしまい、この後「空襲はこわい」「避難させるべき」という論調は姿を消したといいます。今日コロナが広まっておりますが、果たして政府のお偉いさん方がどれだけコロナの実態を把握しているのか?不安になってきます。まさか根性で乗り切れなんて、戦時中のお偉いさん方や某ブラック企業の社長さんみたいなことは言ってほしくないですね。









※ 参考文献




1 防空法
 これまで、戦時中の暮らしについてお話してきましたが、今回から数回にわたって「防空法」のお話をします。三回くらいで「防空法」の話をまとめられるかと思いきや、いざやってみると数回やらないとダメかなとおもいましてね。戦時下の暮らしの話はいったん中断して、これから「防空法」の話にしぼってお話をします。もちろん、「防空法」の話も戦時下の庶民の暮らしに大きくかかわる問題であるのですが。
 
昭和12年3月30日、帝国議会で「防空法」が成立しました。この「防空法」というのが欠陥がありましてね・・・この「防空法」を守ったために、空襲の被害がすくなくなるどころか、かえって被害を大きくしたといいます。その辺のお話はまたのちほどお話しします。

「防空」とは本来、敵機への反撃など国家が担う防空体制を意味します。しかし、防空法が定めるのは市民向けのものでした。その第一条は、防空の定義を「陸海軍のおこなう防衛に即応して、陸海軍以外の者の行う灯火管理、相貌、防毒、避難および救護ならびにこれらに関し必要なる監視、通信および警報」とあります。第一次世界大戦以降、航空技術の急速な発展により、戦場だけでなく都市部も狙われるようになりました。敵による空襲の危険があるで、急ごしらえで作られた法律が「防空法」なのですね。

この「防空法」が制定されてから防空訓練の参加が法的義務となったのです。それまでは防空訓練は度々行われていたのですが、強制参加ではなかったのですね。

防空のため必要があるときは、国や市町村が一般市民の土地建物を使用することや、資材等の物件を強制収用が可能となったのです(防空法第9条)。もっとも、実際に土地や建物の強制収用ができるようになったのは昭和18年の防空法改正時ですが。これまで訓練で実施されていた灯火管制(※1)も法律で義務付けられたのです。

制定当初の防空法は、違反者に対して次の三つの罰則を定めました。

  1. 灯火管理違反(300円以下の罰金、 拘留または科料)


  2. 資料提出や立ち入り検査への非協力(罰則は上に同じ)


  3. 特殊技能者の防空従事義務違反(3か月以下の懲役または100円以下の罰金)

灯火管理違反の罰金は、当時の教員の初任給の5か月分にあたるといいます。これは重すぎないかという意見に対し、時の内務大臣河原田稼吉は「一人が灯火管理に従わなかったために、それが目印となって非常に大きな害を及ぼすということもあります」と述べたといいます。違反者のせいで町中が焼け野原になってから処罰するのでは遅い、むしろ「違反者は重く処罰される」と慈善告知することによって国民の防空意識を高めようとしたのでしょう。


2 自信がないとう海軍大臣
 「防空法」が制定される8日前の昭和12年3月22日、「防空法」の制定を審議する衆議院本会議あありました。そのとき当選5年目の中山福蔵議員(民政党)が質問に立ちました。曰く「軍官民一体というのなら、まず軍が海上第一線において防御していただければならぬ」と。そして、「現在の陸海軍のお持ちになっている飛行機の力をもってわが国土を完全に防御しるる自信があるかどうか、この点陸海軍大臣にお尋ねしておきたい」と中山議員は質問しました。

すると米内光政海軍大臣は「敵の一機をもわが国土に近寄らしめない自信をもっておるかといわれますと、遺憾ながらその核心は今日のところありませぬ」という実もふたもない答えだったといいます。国民には空襲がくるかもしれないから、おまえたち防災に協力しろと言っておきながら、海軍のトップが自信がないというのです。要するにお前たちが何とかしろ、空襲で死んでも自己責任だということでしょう。そもそも敵機による爆撃を防ぐのが軍隊のつとめだと思うのです。国を守るためにあるのが軍隊なのに、これでは軍隊の存在意義を否定するかのような問題発言です。

さらに中山議員は、「消防や避難、道路・水道・建築物を改良するなどの策があるのか」と問いました。すると、河原田内務大臣は「これらの問題は、あるいは国民経済、あるいは国家の財政ということも関係いたしますので、今回の防空法案は、とりあえず一般国民の訓練と、かつ最小限度における設備を命ずるというような制度にとめたのであります。」と答えました。この「とりあえず」がやがて国民を苦しめることになるのですが、それはまたのちほど触れておきます。

さらに野中徹也議員も「去年あたり東京市内で行われました防空演習のごときは、子供の悪さであります。ああいうものでは、私どもでいわせるならば、本当の防空というものは完備しない。本当に防空を完全に行おうとするあんらば、すなわち航空事業の発達が絶対条件ではないか」と質問をしました。そりゃそうです。実際に空襲になったら、消火よりもまずは逃げることを優先しなければいけないのに、防空演習のメインはバケツリレーですもの。少しぐらいのボヤだったらバケツリレーでもなんとかなるかもしれませんが、実際の空襲ではほとんど役にたちません。そのことを野中議員も訓練を実際に見て疑問視したのでしょうね。

しかし河原田内相は「ごもっともでありまして、従来のような訓練を実効あらしめるためにこの蜂起を制定したような次第であります・・・」というはぐらかすような発言を言うのみでした。

こうした疑問が出されながらも、昭和12年3月30日に「防空法」は制定されてしまいます。もし、この時代にネットがあったら中山議員や野中議員は「売国奴」か「パヨク(※2)」よばわりされていたでしょうね。


3 知らぬ前に制定
 
防空法が成立した昭和12年3月は、満州事変の停戦から4年目で武力衝突は沈静化していました。また昭和12年といえば、淡谷のり子さんの「別れのブルース」がヒットし、映画は嵐寛寿郎さんの「鞍馬天狗」がヒット。松竹や宝塚の少女歌劇のレビュー公演は連日満員。プロ野球では後楽園球場や阪急西宮球場が開場し、第一回オールスター戦がはじまるなど、華やかな時代でした。そうした時代のためか国民は戦争なんて遠い国の話でしかなかったのです。

また前年の昭和11年には2・26事件がありましたが、意外にも国民は青年将校たちに冷ややかな態度だったそうです。なぜなら景気もよくなって、国民からすればむしろなんてことをしてくれたんだって心情だったそうです。
景気が悪くなると人々の心も荒んでくるのですが、景気がよいと違ってくるのです。

そんな状況のなか「防空法」が定められるのです。 帝国議会での審議はくわしく報じられず、法案の内容も国民に周知されておりませんでした。ところが10月1日に防空法が施行される際、新聞に「空の護り我らの手で備えよ、各自のとりで」と心構えを説く記事が大きく掲載されました。国民にとってはまさに寝耳に水。

それから悪いことに盧溝橋事件が昭和12年の7月に起きてしまい、国民はいやおうなし戦争と防空法に直面させられたのです。国民の知らぬ間に日本は泥沼の戦争に突き進められ、国民の知らぬ間に「防空法」という悪法が制定されたのですね。

時代はすすんで昭和20年、幣原喜重郎は外出先で玉音放送をきき、電車で帰路に就いたのですが、電車の中で、30代の男性のさけぶ声が聞こえました。「いったい君は、こうまで、日本が追い詰められたのを知っていたのか。なぜ戦争をしなければならなかったのか。・・・おれたちは知らんまに戦争に引き入れられて、知らぬ間に降参する。けしからんのは我々をだまし討ちにした東京の連中だ」と。幣原はこの男性の言葉を真摯に受け止めたといいます。

















※1 夜間に敵機の攻撃目標とならないために、町の灯りをすべてけすこと。しかい、アメリカ空軍はレーダーや照明弾があるので、そんなことをしてもまったく無意味だった。

※2 パヨクとはいわゆる「左翼」を侮蔑・嘲笑の意味を込めて呼ぶ言葉。




1 金属回収
 
日本は今も昔も輸入に頼っていました。だから、諸外国と戦争するとえらいこっちゃになるわけです。輸入が途絶えると食糧だけでなく、武器や航空機、戦艦、大砲をつくる金属も不足してしまいます。特に鉄の不足は深刻です。当時の日本の鉄鉱石はほとんど中国とイギリス領マレーからの輸入でした。アジア・太平洋戦争開始前に、イギリスやアメリカなどによって石油と鉄鉱石の輸入を封鎖されてしまい、鉄鉱石が手に入らなくなったのですね。

それで1941年金属回収令がだされました。翌年の1942年には寺の鐘や仏具、エレベーターなどあらゆる金属が強制的に回収されました。

銅像も、その対象になりました。1930年ごろから、ほとんどの小学校の校庭に建てられていた二宮尊徳像も金属製のものは回収され、石像に作り替えられました。また、東京・渋谷駅前の忠犬ハチ公の銅像も回収されたといいます。ハチ公の銅像って戦時中からあったのですね。驚きです。


公共のものだけでなく、家庭の金属類も回収されるようになりました。家庭にある火ばち、鉄びん、窓ごうし、ネクタイピンや指輪などの装飾品、さらには時計のチェーンまでその対象なりました。「家庭鉱脈」という新語もうまれたほど徹底していました。


そのような取り組みをしても、金属は十分ではなく、おけ、コップ、さじ、フォーク、家具の取っ手まで回収されるようになりました。防火に必要なバケツも布製のものが売り出され、こどものおもちゃも金属製のものは回収されてしまいます。

2 代用品
 
鉄や銅などの金属は、まず軍のために使われました。そのため各家庭にあった金属類は姿を消してしまいます。日用品の多くは陶器や竹などでつくった代用品を使用するようになりました。金属どころか、国民の衣服にかかせない木綿の使用まで政府の管轄下におかれてしまいました。国民は代用品をつかってガマンをするしかなかったのです。

金属の代用品といえば、僕は陶製の湯たんぽを思い出します。僕は母と骨董の仕事をやっていたのですが、骨董市で陶器の湯たんぽをみた覚えがあります。アイロンも陶器をつかっていたそうです。陶器の中に暑いお湯をいれて使っていたそうです。陶器だけでなく、セルロイドやセメント、ガラスなども使われておりました。学生がかぶる学帽につける交渉や制服の金ボタンも代用品がつかわれました。交渉は髪をかさねて圧縮して金粉をふきつけたものをつかっていたそうです。なんだかせこいなあwボタンは陶製やガラス製。

あと、なんと陶製の硬貨も作られたといいます。しかし作られただけで実際には用いられませんでした。そりゃそうですよね。

陶製だけでなく、代用品の材料として脚光を浴びたのがセルロイドです。主にこどものおもちゃなどに使われました。セルロイドとは、化学的につくられたプラスチックの一種です。75度でやわらかくなり、冷やすと固まることから、缶づめの容器、画びょう、こどものおもちゃなど様々な金属製品の代用品として重宝されたといいます。ただ、セルロイドって燃えやすいのですね。そこが難点です。

セルロイドといえば、太田裕美さんの「ドール」って曲にも「セルロイド」ってくだりがでてきます。あ、若い人は知らないかw失礼。




金属だけでなく、革製品も代用品が用いられるようになりました。革靴には牛革が使われておりましたが、底をクジラの川、甲をクジラまたはブタの皮に替えられたそうです。議ほかにも布や紙に塗料をぬった鞄、ハンドバック、クジラの皮でつくったベルト、時計バンド、サイフなど。ランドセルも竹でつくられたそうです。竹をほそく割り、竹かごのようにあんで形をつくったといいます。

綿をつかった繊維製品も代用品が使わました。綿は江戸時代から日本人にとってかかせない繊維です。だから、「綿の流通禁止」が新聞の号外にのったとき、国民は驚いたといいます。綿の代わりにスフとよばれる一種の化学繊維が配給されました。スフは洗うと縮んだり、すぐにきれたりするので評判は悪かったといいます。

3 木炭と松根油
 
1938年5月からガソリンの切符制が実施されました。ガソリンも切符がないと買えなくなったのです。石油の輸入も連合軍によってストップされ、燃料となるガソリンが不足したからです。ガソリンが思うように使えなくなったので。「ガソリンの一滴は血の一滴」といわれるほど、この当時のガソリンは貴重でした。

それで木炭自動車が登場しました。木炭を燃やして発生するガスを燃料して走るものでした。木炭自動車といっても、木炭自動車をわざわざ買う必要はありません。持っている自動車に木炭ガス発生装置を取り付けるだけで改造できたことから、たちまち普及したといいます。

また、ガソリンの代わりに松根油を使おうという動きもありました。松根油は松の木を切り倒し、根っこからにじみ出る白いヤニから作られます。この松根油をとりだす作業は小学生までかりだされたといいます。

しかし、松根油は非常に労力が掛かり収率も悪いため実用化には至らなかったといいます。戦後、進駐軍が未調整のままの松根油をジープに用いてみたところ、「数日でエンジンが止まって使い物にならなかった」という記述がJ. B. コーヘン『戦時戦後の日本経済』にあるそうです。

※ 参考文献
戦争とくらしの事典
ポプラ社
2008-04-01



このページのトップヘ