history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。



まずは、一曲お聴きください。映画「追憶」(「The way We were」)のテーマ曲です。バーブラ・ストライサンドの歌です。名曲です。切ないメロディーラインだけれども、じわじわと心の琴線に触れます。映画バーブラ・ストライサンドが出演し、歌の主題歌も歌いました。

バーブラ・ストライサンドは女優ですが、歌手としての実力も折り紙付で、米国で最も成功した女性歌手として認識されました。彼女のアルバムのセールスはすごくて、1970年代当時彼女より多くのアルバムを売り上げていたのはエルヴィス・プレスリーとビートルズだけと言われるほど。 1982年に、音楽評論家のスティーヴン・ホールデンは彼女を「フランク・シナトラ以来最も影響力のある米国ポップ歌手」と評されました。


映画の内容は理想主義的な左翼思想に傾倒する頑固なケイティーと、政治的主義にとらわれない考えを持つ人気者のハベル。信条が正反対の2人は大学で出逢い、卒業後それぞれの道を進むというもの。バーブラ・ストライサンドはその左翼思想にハマったケイティーを演じました。彼女が演じたケイティーですが、口を開けば政治の話ばかり。言わんとする気持ちは理解できるが現実にこんな女性が自分の彼女だったら嫌だなって思いました。そんな彼女をバーブラ・ストライサンドは見事に演じてました。

映画のテーマはマッカーシズム。

マッカーシズムと米国共和党上院議員J=R=マッカーシーを中心に米国内で行われた反共運動。いわゆる赤狩りです。赤つまり共産主義者が弾圧されたのです。戦後のアメリカは共産主義を根絶やしにするために、共産主義者だけでなく、共産主義者だと疑われたものまでが職を失ったと言います。まさに二十世紀の魔女狩りと言われてる時代で、その魔の手はハリウッドにまで及びました。

赤狩りそのものは戦前からありましたが、ひどくなったのは戦後。かのウォルト・ディズニーも熱心に赤狩りをやっていたと言います。びっくりしますよね。ディズニーって夢いっぱいのイメージがあるのですが、保守的な政治思想の人だったんだなって。ロナルド・レーガンは俳優でありタレントでもありましたが、この赤狩りに熱心に協力し、政界とコネクションができて、やがて大統領にまで上り詰めたのです。ちなみに「バック・トゥー・ザ・フィーチャー」で1985年から1955年にタイムスリップした主人公のマーティーが、1955年のドクに「僕の時代の大統領はレーガンだ」と言ったら、ドクが怒って「あの三流俳優が!?」って信じないのですね。それが1955年当時のアメリカ人の感覚でしょうね。考えてみたら、今のウクライナの大統領だって元はコメディアンだったし、人間の運命ってわかりませんね。

チャップリンは、共産主義者のレッテルを貼られてしまったのです。そんなチャップリンが作った映画が「殺人狂時代」という映画。金を目当てに殺人を繰り返す男の物語。この映画のクライマックスにこんなセリフが出てきます。

「一人を殺せば悪党だが、百万人を殺せば英雄。数が殺人を正当化するのだ」

このセリフはソ連を核兵器競争をしているアメリカを批判したもの。当然、アメリカの保守派は激怒。チャップリンを避難する声が上がるのです。自由の国アメリカと言われておりますが、全く逆のことをしている。アメリカに渡ったのに、いまだにイギリス国籍のままなのも攻撃材料になりました。

その時、チャップリンの言葉が、

「私は祖国を熱狂的に愛することができない。なぜなら、それはナチスのような国を作ることになるからだ。ナショナリズムの殉教者になるつもりはないし、大統領のため、首相のため、独裁者のため、死ぬつもりもない」


ところが赤狩りはエスカレート。チャップリン追放の声も上も上がりました。ある議員は「彼がハリウッドにいること自体、アメリカの体制には有害なのです」と。そして1952年9月、チャップリンはアメリカから追放されてしまいます。

「さまざまな政治力が支配する空気の中で反感を買い、残念ながらアメリカの大衆の愛を失ってしまったということになるだろう」とチャップリンと言い残し、寂しくアメリカを去っていったのです。

そして1972年、ロサンゼルスで行われた第44回アカデミー賞授賞式で、チャップリンは会場に呼ばれたのです。チャップリンの名誉が回復されたのです。しかし、セレモニーで多くを語ることはなかったのです。そしてチャップリンは1977年になくなります。

最後にチャップリンの言葉を引用します。


すべての映画はプロパガンダです。ボーイ・ミーツ・ガールの映画は愛のプロパガンダ。そして「独裁者」は民主主義のプロパガンダなのです。

※この記事は「映像の世紀」を参考にして書きました。

「ちょっと考えてみろ。彼は狂人で、私は喜劇役者だ。しかし一つ間違えれば、その反対になっていたかもしれない。私がこうしていられるのも、神様のおかげだ」

チャールズ・チャップリンの言葉です。彼とはアドルフ・ヒトラーのこと。実はチャップリンとヒトラーは生まれた年も同じで、誕生日が4日違いなのですね。驚きですね。平和を愛し、人々を楽しませてきたチャップリン、一方のヒトラーは独裁者として人々を恐怖のどん底に陥れた。まるで正反対のようですが、実は二人の共通点はあるのですね。両者とも、ちょび髭がトレードマークで、人々を熱狂させたという意味で。また、両者とも

また、ヒトラーはユダヤ人を弾圧したことで有名ですが、意外にもチャップリンもユダヤ人を弾圧こそしなかったものの、ユダヤ人に偏見を持っていたような描写の映画を撮ったことがあるのですね。最も、それは初期の頃の話です。「チャップリンの覚悟」(1916)という作品にユダヤ人らしき人間が登場し、その人物に(チャップリン演じる)主人公が金を巻き上げられる描写が描かれているのです。しかし、チャップリン自身は自分の心の奥に潜むユダヤ人への偏見と葛藤していたようです。「チャップリンの霊泉」という映画に、初めはユダヤ人を馬鹿にしたような描写のシーンもあったのですが、そのシーンをボツにしたとも。

トーキーが流行り出しても、チャップリンは無声映画にこだわり続けました。チャップリン曰く」トーキーは嫌いだ。人類最古の芸術であるパントマイムを滅ぼし、沈黙の美を破壊するからだ」と。逆にトーキーをうまく利用したのがヒトラー。ヒトラーは演説の際、トーキー映像を使い、多くの人々に訴えることができたのですね。ヒトラーは発声法のプロ(オペラ歌手)を雇って、力みのない発声法や呼吸法を学び、演劇で使われるジェスチャーなども学んだのです。こうしたテクニックは演説の時に役立ったと言います。ヒトラーが演説の時、大きな手振り身振りをしますが、あれもこうして学んだテクニックのうちなんですね。

チャップリンはドイツでも人気がありましたが、1935年1月にドイツで上映禁止通達書が出され、チャップリンの映画も上映禁止になります。理由は、チャップリンと風貌が似ているということで、ヒトラーも神経を尖らせていたのです。実際、ドイツは「永遠のユダヤ人」というプロパガンダ映画を作り、チャップリンを批判したのですね。

そしてチャップリンは自分と容貌が似たヒトラーを笑い物にしようと「独裁者」という映画をつくり、ファシズムを批判するのです。この「独裁者」は大ヒットしました。この映画でチャップリンは一人二役で、独裁者とユダヤ人の理髪師を演じたのです。僕も前に見たことがあるけれど、面白かったですよ。ヒトラーを笑い物にするべく、嫌っていたトーキーを取り入れたのですね。ヒトラーの演説のパロディをするために。一方のヒトラーも黙っていません。ナチスはこの映画を「チャップリン特有のグロテスクで下劣な作風」と批判。それにしてもヒトラーは、この映画を実際に見たのでしょうか?チャップリンは「ヒトラー本人の感想を聞きたいね」と述べていましたが。


チャップリンとヒトラーは日本とも繋がりがありました。チャップリンは親日家であり、生涯において四度も訪れています。和食を食べたり、歌舞伎や相撲を倒しんだそうです。そんなチャップリンは日本でも大人気。チャップリンの真似をする人もいたほど。チャップリンはちょと前なら、マイケル・ジャクソン。今ならジャスティン・ビーバーのような存在でしょうか。しかし、チャップリンが来日したタイミングが悪く、一度目は5・15事件、二度目は2・26事件の時だったのですね。なお、先に挙げた「独裁者」は日本では上映されませんでした。「独裁者」が日本で初めて上映されるのは、なんと1960年。

日独伊三国同盟を結んだ後だったので、ヒトラー批判の映画は上映しづらかったのでしょうね。一方、ヒトラーは日本と同盟を組みましたが、「我が闘争」では日本人を馬鹿にしたような描写があるし、日本がシンガポールを陥落させたという知らせを受けた時は、喜ぶどころか、逆に援軍をおくってイギリスを助けたい部下に言い出す始末。口では親日だと言っていたが、本心は侮日だったのですね、ヒトラーは。

新潟県に北陸新幹線が走っていて、「燕三条」という駅名があります。一方、北陸高速道が通っていますが、そこのインターチェンジに「三条燕IC」とあります。面白いですね。駅名もしくはICの名前が微妙に違います。また新潟を代表するご当地グルメに燕三条ラーメンがあります。そんなこともあって新潟県外の人は、「燕三条市」もしくは「三条燕市」という市があるのだなって思いがちです。が、そんな市はございません。三条市と燕市という二つの市から駅名もしくはICの名前を取ったのです。なぜ、ICと駅名の名前が違うのかはオトナの事情があるのですね。

実は両市の市町村合併の話もあったのですね。市の名前も二つの市の名前を使わず「県央市」と名づける案まで出たのですが、結局合併の話もたち消えとなりました。ちなみに東京にも田無市と保谷市という市があって両市は合併したのですが、市の名前は西東京市となりました。

燕市と三条市はお隣同士で、仲が悪いとネタにされることもあるそうですがw、この両市は金属産業が盛んで、世界的にも類を見ないほどの高い技術を持っているのですね。江戸時代に信濃川が氾濫する旅に、田んぼが流され、農民たちの生活も苦しくなったのです。そこで代官が和クギをつくらせ、収入源にしたのがその始まりだそうです。明治時代になり、洋クギが普及し、和クギの需要が減少しました。それで、今度は燕がキセル、矢立、銅器を手がけるようになったのです。大正時代になると、ヨーロッパで第一次世界大戦になって、洋食器の需要が高まり、洋食器も造るようになったのです。さらにハウスウェア、自動車に使うステンレス製のミラー、国産ロケット用の部品、さらにはApple社の薄型パソコンやiPadに使われているチタン板の加工なども行われております。

一方の三条は江戸時代から続く、鍬や鎌などの農具、カンナなどの大工用具など主に金物作りが主流になったのです。さらに三条市は1950年代から工業デザイナーと共にオリジナル製品を作り、フォックスの愛称で親しまれた「スナップリングプライヤー」などが誕生。

三条や燕で作られた製品は独創的で優れたデザインの商品に贈られる「グッドデザイン賞」を何度か受賞しているとのこと。また、両市が共同でプロジェクトを行っていると言います。すごいですね。






前回の記事で、平三郎の話をしましたが、今日は同じく鳥島に流れ着いた野村長平のお話を。野村長平の方が漂流者としては有名かな?野村長平がこの島に流されたのは、前回の記事に出てきた平三郎より後の話。平三郎が流されたのは享保4年(1719)ですが、長平が流されたのは天明5年(1785)のこと。長平は土佐の出身で、船でお米を運び、帰る途中に嵐にあい鳥島に流されたのですね。長平の他に乗組員が三人いたのですが、鳥島に漂着してから2年以内に皆死んでしまい、長平は一人取り残されたのですね。しかし長平が流されてから3年後に、大阪からの漂流者、それから日向からの漂流者と合流し、総勢十八人が皆で助けあったのです。しかし四人も病気で亡くなったものの、5年かかって船を作って、鳥島を離れ、青ヶ島を経由し、八丈島に到着、そして長平たちは無事に帰路に着くことができたと言います。

ともあれ、僕がウダウダブログで語るよりも、こちらの動画で野村長平の功績を見ていた方が、はやいかと。↓



前回の記事で平三郎が洞窟に書き置きを残したと言いますが、長平ものちにくる漂流民のためにさまざまなものを残しました。火打ち石、鍋、ふいご、船の模型、それからやはり生き残るための書き置き、今で言うマニュアルまで洞窟に置いてきたと言います。

そればかりでなく長平たちは島で亡くなったものたちにも手を差し伸べたと言います。出航の際、長平たちは亡くなった四人の名前を呼んだと言います。まるで、お前たちも乗れと言わんばかりに。さらに、すでにこの島で亡くなった名も知らぬ漂流民たちの遺骨も持ち帰り、八丈島にあるお寺に葬ったと言います。生死の淵に追い詰められながも、人のことを思えるこの余裕。しかも亡くなった人たちのことまで心を寄せられるなんて。英雄と呼ばれる人たちはこういう人たちのことを言うんだなって。

野村長平は無事に土佐に帰ってきました。長平の死後、彼のことは語り継がれ、今も地元の人たちに愛されていると言います。長平の銅像が造られたり、長平を偲んだお祭りも開かれたり。


鳥島の漂流民たちはまさに生きるか死ぬかの瀬戸際のような生活でしたが、それでも彼らは諦めずに、帰りたいという強い信念で頑張ったのですね。鳥島の漂流民たちが現在に教えてくれるものは何か?それはどんな絶望的な状況に置かれても光があるということでしょうか。

鳥島という島をご存知でしょうか。伊豆諸島と小笠原諸島の中間あたりにある無人島です。明治になって人が入植したと言いますが、この島は火山島で度々噴火するので、人が住める状況ではないのですね。それでも昭和の初め頃までは人がいたのですが、結局、この島は無人島のままです。現在は、この島全体が特別天然記念物に指定されているため、特別な許可がないと入島できないのですね。

鳥島じゃないけれど、僕は高校の頃、青ヶ島に行ったことがあります。八丈島の先で、東京から船で八丈島に行き、八丈島からは小型船で行ったのですが、青ヶ島って遠いなって思いましたもん。鳥島は青ヶ島のさらに先だと言いますから、いかに遠いかって思いますね。

今は無人島です江戸時代、この島に何人も漂流したのです。1681年から1867年にかけて、なんと15件、遭難した数も122人にも及んだと言います。幕末にもジョン万次郎がこの島に漂流したのですね。幸い、ジョン万次郎はアメリカに助けられたのですが。

江戸時代にこの島に遭難した人たちは大抵は数ヶ月、早ければ一日以内に島を脱出するケースが多いのですが、なんと、この地に19年間も滞在した人たちがいたのです。1719年冬、この島に漂流した遠州新居出身の12人の男たち。しかし、病気や老衰とかで次々なくなって最終的に生き残ったのは三人だけですが。この島は植物も小動物もいない(強いて言えばアホウドリがいるくらい)の不毛の地です。だから、そんな島で暮らすのは大変です。島を脱出したくても、乗ってきた船が大波で大破されてしまい、帰るに帰れなくなったのです。

生き残るために、まず必要なのは、住処と食料それから水。住処は島にある洞窟にしました。食料は主にアホウドリ。彼らは幸い道具を持っていたのです。大きな斧、鍋、釜、おけ、火打ち石。火打ち石で火を起こし、鍋や釜でアホウドリを煮たり焼いたりして食べたのです。しかし、毎回アホウドリばかりでは飽きてしまいますし、肉ばかりで野菜も取らないとビタミン不足になり脚気になります。それで亡くなった仲間もいたのです。野菜がないなら海藻を食べればいいじゃないかと思われますが、鳥島あたりには海藻もそんなに生えていません。食糧不足、栄養不足は深刻です。

食糧よりも大事なのは飲み水。かといって海水を飲むわけに行きません。真水じゃないと。それで彼らは桶に雨水を溜めて飲んでいたそうです。しかし、持ってきた桶だけでは足りません。


そんな彼らを助けたのは海辺にちょくちょく流れてついた漂流物。例えば、難破船の破片。難破船の破片から木材や帆布ハンプ、それから舟釘を使って彼らは道具をいくつか作ったのです。まず、船の木材を使って桶をいくつか作っては雨水を溜めたと言います。

また、その木材の木を削って細くし、釣り竿を作り、さらに壊れた船の帆布から糸をひき抜き釣り糸にし、舟釘を石で叩いて釣り針にしたと言います。これで魚を取ることができたのです。

帆から抜いた糸をより合わせ、アホウドリから採れた脂を浸すと明かりになります。アホウドリの脂だけでなく道具を作る作業の時にでた木屑も火の燃料として無駄なく使ったと言います。まさにエコですね。

また、この島に米俵を乗せた船も流れ着いたと言います。その米俵の中に入っている籾米から芽が出てきたのです。しかもその米は赤米で、水が少ない土地でも育つもの。米のヌカの部分はビタミンも豊富だから脚気防止にもなります。流れ着いたのが赤米だったのが良かったですね。普通の米だったら、こうは行きません。大量のお水が必要になりますからね。不幸中の幸いですね。これは神仏の助けかもしれない。実際、十二人の漂流者たちは、いつも神仏に無事に帰れることを念じていたと言います。その願いが通じたのかもしれない。

それで岩の隙間にわずかに土がある場所をいくつか見つけ、そこを耕し、赤米の籾米を撒いたと言います。さらに肥料には食べた魚の頭や骨を使ったと言います。すると年に20升(約30キロ)も収穫できたと言います。しかし漂流者たちはやたらと食べたわけじゃなく、病人が出たときに、お米を薬代わりに食べさせたというのです。

しかし、島での長い暮らしは漂流者たちの心を蝕みます。女房、子供と生き別れたものたちは特に辛かったと思う。それでも、女房、子供に再び会える日を信じ続けたのでしょうね・・・

そして、仲間が病気や自殺で亡くなり、とうとう残ったのはも甚八、仁三郎、平三郎の三人だけ。三人の人間関係はどんどん悪くなります。死んだ仲間の衣類を独り占めしたり、一人で焚き火にあたるなんてこともあったし、とうとうケンカにまで発展したと言います。


そんな三人が揉めているところへ新たな漂着民たちが現れます。その漂流民たちは宮本善八を中心としたグループでした。宮本善八が乗ってきた船は修理すれば、なんとかなる状況。それで船を直して、甚八、仁三郎、平三郎、それから宮本善八一行は鳥島を出発。その船は順調に進み、八丈島に到着。そこから幕府の船に乗せてもらい、無事江戸に帰れたと言います。平三郎たちはなんと時の将軍徳川吉宗にも謁見できたと言います。平三郎たちは故郷の新居に帰り余生を過ごしたと言います。

平三郎たちが島を離れる際、洞窟の中に漂流の経緯を記した書き置きを残しました。さらに余った籾米も撒いておいたと言います。それは後から来た漂流者のためでしょう。普通だったら自分のことだけで精一杯なのに、人様のことを考えらえれるのだから素晴らしいですね。


*参考文献並びに参考にした番組
「ダークサイドミステリー」(NHK)




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