history日誌

歴史と歌が大好きな私が日本史から世界史まで広く浅く書きます。 歴史の知識は素人レベルで、私が語る歴史の内容が真実かどうかは自信はありませんがw、楽しんでブログを書いていきます。教科書に載ってないようなマイナーな歴史の話もします。

ガダルカナルの戦いでは、多くの犠牲が出ました。今日はこのガダルカナルの戦いを通して日本軍の失敗を考えてみましょう。

昭和17年7月6日、日本海軍は南東方面の最前線基地であったラバウルから約千キロはなれたガダルカナル島に飛行場を建設するため、設営隊と護衛の陸戦隊を送り込みました。ちょうど一か月後の8月5日に第1期工事が完成し、航空隊の派遣を要請した直後の7日に、アメリカ軍がガダルカナル島に上陸したのです

アメリカ軍上陸の報をうけた大本営は、きゅうきょ海軍航空隊の攻撃機を派遣します。

このとき、攻撃機を護衛していたゼロ戦パイロットの一人がこのように述べました。

「みよ、海上を埋めて真っ黒に密集している敵の大船団。数は数えきれない。その船団の周りを10数隻の駆逐艦らしきものが、真っ白い弓型の航跡をきながら走り回っている。日本の潜水艦を警戒しているのだろう。その停泊している船団と海岸の海面が数百条、数千条の白いシマ模様でおりなされている。海岸との間を、アリのように往復している無数の上陸舟艇しゅうていの曳く航跡だ。これをみた瞬間、私は戦争は負けだと直感した」と。

ところが、こうした情報を得ていながら大本営は、

「敵上陸兵力は2000人程度、目的は偵察で本格的反攻ではない。したがって奪回は難事ではない」と簡単にかたづけてしまいます。

当時、ラバウルにはニューギニア方面担当の第17軍司令部がおかれており、この17軍にガダルカナルシマ奪回が命じられました。奪回作戦検討の中で軍参謀長の二見秋三郎少将は、「船団規模からみて1個師団くらいは来ているのではないか」と正確に見積もっていたのですが、当時の軍の幹部は「「そんなことはあるまい」と思っていたようです。

第17軍の兵力は当時1万人くらしかななく、ニューギニア作戦で手いっぱいだったため、大本営は敵が二千人程度なら、こちらもそのくらいで十分だというので、ミッドウェー占領のために派遣されていた一木清直大佐が指揮する一木支隊(2000人)を差し向けたといいます。

その後、軍司令部から「どうも敵兵力は予想以上より多そうだ」という意見がでましたが、参謀本部は「上陸さえすれば精強な一木支隊なら奪還できる。とにかく急げ」でした。陸軍内部にも補給困難なガダルカナル島のような孤島に兵力をおくりだすことはノモンハンの二の舞になりやしないかという慎重な意見もありましたが、こうした意見は消極意見として顧みることはありません。おそらく「大和魂があればなんとかなる、お前ら根性が足りない!」みたいなことを上層部が言ったのかもしれません。

ガダルカナル島に派遣された一木支隊は、輸送の都合で千人ずつの二梯団にわかれて出発し、まず支援長が先遣隊をひきいて8月18日にガ島に上陸しました。

支隊長の一木は「夜襲をもってすれば米軍の撃破も容易である」と信じていたようです。そして、一木支隊は、後続の到着を待つことなく、各兵わずか250発の小銃弾と七日分の食料をもっただけで、「行軍即捜索、捜索即戦闘」を合言葉に十分な偵察もしないで、8月21日未明、陣地を構築して待ち構えていた米軍に銃剣突撃を敢行しましたが、戦車や重火器に阻まれ壊滅しました。

つまりアメリカ軍をなめてかかって、ろくに情報を活用しなかったことが、裏目にでてしまったのですね・・・

一木支隊壊滅のため、大本営はあわてて追加の兵力を投入します。川口清健少将指揮する川口支隊(一戸旅団約5千人)です。この川口支隊も駆逐艦や上陸用舟艇による輸送のため、重砲や戦車などが輸送できず、食料も二週間分しか持っていませんでした。

8月31日から9月7日にかけてガ島に上陸した川口支隊は、9月12日夜から攻撃を開始しましたが、さらに兵力を増強して待ち構えていた米軍の前に、またしても攻撃は失敗してしまいました。

このころから17軍司令部内でも、二見参謀長などから補給問題やガ島とニューギニアの二方面作戦の困難性を理由にガ島撤退論が出ましたが、若手参謀の強硬論や、陸軍から先に撤退するわけにはいかないというメンツ論が勝って、結局さらに増援を要請することになり、さらに泥沼にはまってしまいます。

そこで大本営はジャワ島にいた第二師団(約一万二千人)を投入し、さらに第38師団主力にガ島進出を命じました。大本営から派遣されて指導にきていた辻政信参謀は「軍は敵殲滅のため最善の努力中であり、戦捷せんしょうすでに我にあり」と楽館的な電報を大本営あてに打電しております。

さらに総攻撃指揮官の第二師団長の丸山政男中将はつぎのような攻撃命令をしております。

「一天祐神助と将兵の辛苦により、師団はその企図をまったく秘匿ひとくし、敵の側背に進出することを得たり。二予は神明の加護により、既定計画に基づき攻撃をおこない、一挙飛行場付近一帯の敵をせん滅せんとす」


日本軍の作戦命令には「天祐神助てんゆう-しんじょ」とか神明の加護だとか、神がかりな表現がたびたび見受けられるそうですが、この丸山の攻撃命令にもそれが見られます。一種の精神論ですね。

そうして10月に第二師団は一万人以上の兵力でもって、攻撃を開始しました。その攻撃は夜襲による一斉攻撃の予定でしたが、準備不足のために密林や豪雨に阻まれ各隊の終結がおくれ、相互の連携を欠いたために日本軍は敵軍に撃破され、夜明けとともに日本軍の攻撃は失敗。

こうして8月の一木支隊、9月の川口支隊、そして10月の一万の兵力を用いた第二師団による攻撃も、いづれも失敗に終わります。

兵学上「攻者3倍の法則」というのがありまして、陣地にこもっている敵をこうりゃくするには、攻撃側は守備側の3倍の兵力が必要だそうです。しかし、一木支隊が1000名なのに対し米軍が一万人、川口支隊が5千人のときは米軍は1万8000名、第二師団が1万2000人のときは米軍は2万2000人以上と常に米軍は日本を上回る兵力で対応しておりました。

また、兵学上最も忌むべきである「戦力の逐次投入」も文字通り日本軍は実行し、失敗しております。

昭和天皇陛下は「日本は兵法の研究が不十分だった」とおっしゃっておりますが、ガダルカナル島の戦いを振りかえるとそう思わずにいられません。

しかし、こんな状況にもかかわらず大本営はまたしてもガ島奪回計画を考え、さらに増援部隊を送ろうとしますが、制空権はすでにアメリカにうばわれ、補給もまったく途絶え、全軍餓死寸前だったといいます。ここにきてやっと大本営は12月31日の御前会議でガ島撤退を発表。しかし実際に撤退したのは翌年の昭和18年2月初旬です。その間にも多数の餓死者がでたといいます。

ガ島で約2万人がなくなったといいますが、この死者のうち純粋な戦死者は5〜6千人で、のこりは飢餓による戦病死者だといいます。

対して米軍は6万の兵を投入しして、戦死者はわずか1千名だといいます。

いくら戦争で死ぬことが名誉だとはいえ、餓死だとは英霊も浮かばれないでしょう・・・・

日本軍のガダルカナル島撤退について、昭和18年2月9日の大本営発表は「敵軍を追い詰めたりすることはできたが、目的を達成したので、二月上旬にガ島をはなれ、ほかに転進した」と。つまり完全な負け戦なのに、「軽進」というセリフでごまかしたのです。


日本軍も敵兵力が一個師団以上いると初めから知っていれば、こんなことにはならなかったのです。当時の日本軍が情報を軽視していたと思わずにはいられません。にもかかわらず失敗をごまかそうとした。

戦争ではミスや指揮官の誤認はつきものだと思うのですが、その間違いやミスから何を学び取るかが大事で、その同じミスを繰り返さないためにはどうしたらよいかを考えることが大切なのではと思うです。同じミスを繰り返さないためには、少数意見やマイナスの情報の尊重も重要になってきます。

しかし、日本軍はそれをしなかった。

会社でたとえるなら、些細なことで怒鳴るようなおっかない上司がいて、部下がミスの報告やマイナスの情報を伝えるのも恐れ、部下は上司にとって心地よい話しばかりする。仮に部下がちゃんと報告したとしても、「根性が足りない!」といって全く聞く耳をもたない。社長は社長でワンマンで周りにいるのはイエスマンばかり。結果的にその会社はとんでもない不祥事が起こってしまうような、そんな状況に日本軍は陥ってしまったのでしょうか?

※ 参考文献


今日の記事は長いです。

今日の記事で言いたいことをざっくり言うと、「旧日本軍は兵站(※1)を軽視している」、「物資の調達は、現地調達という考えが根強い」「それは人命軽視につながっている」です。


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1 わたしには神様がついている

「わたしには神様がついている」

ずいぶん、ゴーマンちきな言葉ですねwまるでカルト教団の教祖様みたいな言いっぷりですが、さて誰の言葉でしょう?

この言葉を言ったのは無駄口じゃなかったw牟田口廉也むだぐちれんやさまです。

インパール作戦で悪評高き人物です。

牟田口がこの言葉を言ったのは、インパール作戦が発動される直前のことです。


イギリス軍が100機のグライダーとのべ600機のダコタ機(短距離用の輸送機)で9000人の兵員と1100頭の動物を中部ビルマに投下させました。このことをしった第五飛行師団長・田副登たぞえのぼる少尉は、連合軍の飛行機による大量輸送能力を数字をあげて説明し、作戦中止を訴えました。連合軍はすでに、100両編成の貨物列車に相当する兵力を、毎日空から届けることができるという説明に、牟田口は「それは数字の間違いにすぎない、数字に驚かされてどうする。わたしには神様がついていると。

ほかにも牟田口がいった変な発言をもうひとつ取り上げます。

2 普通一般の考え方では初めから成立しない
 補給を心配したある師団長が補給担当の参謀に「責任がもてるか」とたずねたら、その参謀(薄井誠三郎少佐)は「とても責任がもてません」とこたえました。これはこれでずいぶん変な話です。師団長は「補給に責任がもてんでは戦はできん」と答えました。当然です。師団長のいうことは正しいです。

しかし、牟田口は「もともと本作戦は普通一般の考え方では初めから成立しない作戦である。かては敵による(占領してそこの食料で食いつなぐこと)ことが本旨である。各兵団はその覚悟で戦闘せねばならない。敵と遭遇すれば銃口を空に向けて3発うて、そうすれば敵はすぐ投降することになっているのだ」と。

このとき出席していた師団長は二人いたが、牟田口と同じ中将でした。牟田口のほうが先任(先に中将になった)だから牟田口にしたがう義務がありました。しかし、こんなデタラメな話を持ち出して、師団長の述べたような合理的な話を牟田口は封じたのです。

本来なら、牟田口の指揮権をこのときに取り上げるべきだったのですが、そうはならなかったのです。それどころか、こんな牟田口の重大なごまかし発言に、下級者は内心あきれてはいても「ええ!?牟田口さん、あなたの言っていることはおかしいですよ」なんて質疑をする者はだれもいなかったのです。それが当時の日本軍の体質だったのです。つまり「上がおかしなことをいってるぜ」と頭ではわかっていても下の人たちはただ泣き寝入りするしかないという。

なにしろ司令官の牟田口は、ひごろから持ち歩いているムチで自分の子分を叩くような男でした。そのため部下もこわがって牟田口に意見さえいうこともできませんでした。


このように牟田口は「普通の作戦とはちがう」と強調したが、一か月後にビルマ方面軍の参謀長から「再考の余地はないのか」と質されました。参謀長は牟田口のやりかたに疑問を投げかけたのです。しかし、牟田口は「心配はご無用です。わたしの経験から申せば、今回ほど準備を周到にやった戦はかってないほどです」と答えました。

3 ビルマ人のうらみを買っただけだった
 牟田口が用意周到と答えた根拠の一つとして、食料補給にめどがついたということでした。それは大量の牛をつれてくることでした。牛の背中に米や弾薬を背負わせ、その牛も最後は食ってしまおうという一石二鳥の補給法を牟田口は考えたのです。

その牛は農家から徴発されました。しかし、牛は歩みがのろいので、日本兵は早々と牛を殺して食べちゃったそうです。しかも大量の牛を整然と連れていくにも技術が必要で、大部分の兵士がそれに慣れていなかったのです。そのうえ牛にあたえる飼料も持って行かなかったので、途中で牛がたくさん倒れてしまったり、川の氾濫で牛が流されてしまったのです。

牟田口による牛連行作戦は、実際には食糧問題解決にはまったく役に立たず、それどころかビルマ人のうらみを買ってしまったのです。なぜなら、あまりに牛を大量に徴発されたので、農作業ができず飢餓におちいった村もあったほど。戦後になってビルマで「牛を殺してはならない」という法律ができたそうですが、それというのも牟田口がこんな法律が必要になるほど牛を減らしてしまったのです。


4 悪いやつほど出世する???

 兵隊たちは牟田口を「ビルマの三バカ」の一人としてあげております。ちなみに残りの二人は河辺 正三中将と辻政信だそうです。川辺中将は牟田口の上司でした。辻政信もこれまた評判のわるい人です。さて、インパール作戦終了後、人事異動が行われましたが、川辺はどんどん栄転し、昭和20年3月には陸軍大将にまでのぼりつめました。この昇進にはさすがに軍司令部でも批判があり「負けても大将か」と批判があったほど。牟田口はいちどは予備役に編入されるものの、その後予科士官学校の校長に任命されたというから驚きです。インパール作戦は明らかに失敗だったのに、その失敗が問われずに、出世してしまうなんて。



昭和天皇陛下は、日本の敗因の一つとして「常識のある首脳者が存在しなかったこと」をあげましたが、牟田口なんかはそんな非常識な首脳者の一人でした。どんなに下が優秀でも、上に立つ人間がワルだったりバカだったりするとハチャメチャになるということを改めて考えさせられます。

あと、記事を書いて思ったのですが牟田口はともかく、まともな考えをもった首脳者もいたのですね。しかし、正論や合理的なものの考え方が通らずに、デタラメやムチャがまかり通ってしまうことの恐ろしさも考えさせられました。

※参考文献

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