history日誌

戦前の日本は意外にも二大政党制でした。民政党と政友会という政党があって、この二つの政党が権力争いをしていたのですが、どちらの政党も大きく政策に違いがありませんでした。だからお互いに難癖をつけて、与党を倒そうとしたのです。込み入った政策論争をせず、わかりやすいネガキャンをやって、与党を政権の座から引きずりおろし、自分たちに政権が転がりこませようとしたのです。今でいえば、自民党と立憲民主党の関係のようなものです。以前にも戦前の政党について書かせていただきましたので、こちらの記事もご参考のほど↓




僕はいつも思うんですよね。なんであんなにネガキャンばかりで、いざというときに自民党とも極力できないのかって。アメリカではコロナの問題を与野党で協力し合うといいます。トランプ大統領(共和党)とニューヨーク州の州知事のクオモ(民主党)は非常に仲が悪く、お互いの所属政党も違うこともあって、トランプ大統領も名指しでクオモ州知事の批判をすることもあるそうですが、それでもコロナ対策でクオモ州知事がトランプ大統領と会談をして協力要請をするなど、いざというときは与野党の立場、個人的な感情を捨て、協力もできるだなって僕も感心しました。立憲民主党というか、日本の野党(とりわけ革新政党)にはできない芸当だなって。

ともかく、戦前は両政党がつまらないネガキャンを繰り返すばかりで、国民のことをまるで考えようとしなかった。当時の日本は超格差社会および身分社会で、格差の是正と、身分社会撤廃が強く強く求められておりました。しかし、それでも当時の両政党はそれをしようとしませんでした。それで、国民が軍部に期待を寄せたのです。実際は軍部も腐敗していて、太平洋戦争末期にはそれが顕著になるのですが、当時の国民は軍部が清廉潔癖に映ったのですね。だから、5・15事件の時、青年将校への同情がたくさん寄せられたのですね。

話は立憲民主党に戻りますが、立憲が自民にあまり協力的ではないのは、大政翼賛会と同じ轍を踏みたくないと思ったのですね。大政翼賛会は、ナチスを参考にして近衛文麿らの呼びかけで作られた政党ですが、保守政党や無産政党の寄せ集めのため、いつも議論がまとまらず、党内はバラバラだったそうです。かつての民主党よりもひどかったようですよ。大政翼賛会はファシズムのイメージがありますが、実際はバラバラだったのですよ。

もし、戦前に民政党と政友会がもっと協力していたら、太平洋戦争は免れたかもしれない。 



※ 参考文献





今では信じられないことですが、太平洋戦争の目的はアジアの開放だって言われていたのです。欧米列強の魔の手からアジアを救い、日本を盟主とした「大東亜共栄圏」をつくろうと。

しかし、これも後付けなんですよね。真珠湾攻撃をしたときは、政府はアジアの開放という見解ではなかったのです。あくまでも自存自衛のためだと。しかし、自衛のためといっても、アメリカと戦争をする大儀がありません。当時のアメリカは中国の利権をめぐって対立をしていたものの、アメリカが日本に侵略しようとは考えておりません。

それが、真珠湾攻撃で中国だけでなくアメリカまで本格的に敵に回してしまったのです。また、アメリカはアジアに植民地を持っておらず、むしろ植民地支配に批判的で、イギリスとフランスとも微妙な立場にありました。イギリスやフランスは世界中に植民地をもっておりましたから。だから、日本がアジアの開放をいうならイギリスやフランスと戦わなければいけなかったのです。

さらに日本は資源とりわけ石油がないので、東南アジアを占領し、石油資源を確保しようと考えたのですね。それで苦し紛れに当時の政府は「アジアの開放」って言いだしたのです。本当のことを言ったら国民はついていきませんからね。

ちなみに、当時の日本人は大東亜共和圏に関しては冷めたものの見方をした人も少なくなかったようです。矢部貞治という東京帝国大学の教授が、真珠湾攻撃の翌年の1942年(昭和17年)に大学で大東亜共和圏の理念を学生たちに語ったところ、学生たちはマジメに聴くどころか、げらげら笑ったといいます。矢部は怒り、日記にも不愉快な思いをしたとつづったほど。しかし、最先端の英語教育を学んだエリートたちにとって、大東亜共和圏なんて絵にかいた餅にしか思えなかったのです。当時のエリートたちは貿易相手のアメリカと戦うことがいかに無謀かわかっていたのですね。また、戦争が悪化すると「どうせ、戦争なんてお偉いさんが喜ぶだけだから、早く戦争を終わらせてほしい」と学生が言ったといいます。学生だけでなく当時の華族たちもみな戦争に反対していたそうです。庶民でもゲンのお父さんのようにわかっている人はわかっていたと思います。

1 コロナ自警団
いま非常事態宣言が出されステイホームが叫ばれております。もともとステイホームは、外出を自粛し、集団感染を防ぎましょうって話でした。しかし、いまは病気を抑えるためというよりも、外出そのものを抑えようって雰囲気になりつつあります。そう、外出は悪みたいな。実際、県外からやってきた車のナンバーが傷つけられたり、営業中の店に「自粛中になんで営業してるんだ」という内容の張り紙を貼ったりします。こういう人たちを自粛パトロールといいます。あるいはコロナ自警団。

おそらく、コロナ自警団をやっている人たちはよくいえば、まじめで正義感の強い人たちなのでしょう。でも悪く言えば、独善的で、情けを知らない。100人入れば100通りの正義があると思うのですが、こういうタイプは自分こそ正義だと思い込む。だから自分にとっての正義なら、人が困ろうが、迷惑をかけようが、全然かまわないのでしょうね。


たしかにコロナは恐ろしいし、自粛の大切さも重々承知をしております。しかし、経済が止まってしまうことは恐ろしい。経済が停滞すると、後々いろいろなところで悪影響がでてきます。自粛も大切だけれども、こういう時期でも営業をせずを得ない会社やお店側の事情も理解してあげないと・・・

あんまり厳しく押さえつけようとすると、かえってしっぺ返しがくるんですよ。僕はコロナ自警団が動けば動くほど、自粛解除になったとき、うわーって緩みそうな気がする。前にも言いましたが、戦時中に厳しく生活面まで押さえつけた分、戦後になってその反動が来たのだと僕は思います。


そもそも自粛せよと言っておきながら、自粛しない人を見張るために外に出るなんて矛盾しているじゃん。

また、これはあくまで説でありますが、コロナは太陽光に弱く、また太陽の紫外線を浴びることでビタミンDが生成され、細菌やウィルスをやっつけるような免疫をつくるのに役立つといいます。もちろん、説なので確証はありません。ただ、もし、本当にコロナが太陽光に弱く、ビタミンDによって免疫力アップするとしたら、基本は無駄な外出は避けるとして、天気の良い日は三密をさけて、散歩とかをしたほうが良いということになります。

もしも、本当に太陽に当たることが有効だとしたら、コロナ自警団の人たちはなんというのでしょう?まさか、「俺(わたし)は初めからステイホームは良くないと思っていたが、みんなが自粛自粛ってうるさいから、仕方がないからそうした」みたいなことを言わないよね?

そんなことを言ったら「はだしのゲン」に出てくる鮫島伝次郎とおんなじですよ。


2 鮫島伝次郎とは

 彼は、町内会の会長で戦時中は戦争マンセーで戦争反対を声高に言っているゲン親子を疎ましく思っておりました。それで、ことあることに意地悪をしたのです。それが戦後になって、手のひらを返して平和の使者と自称するようになったのです。鮫島いわく「私は初めから戦争に反対してたのに、バカな軍部共が」なんて言ったもんだから、ゲンが怒ってしまったのですね。そのバカな軍部の片棒を熱心に担いだのは、鮫島さんあんたでしょう。

鮫島伝次郎が活躍した時期が戦後間もないころだったから、まだよかった。現代だったらSNSもあるし、WEB魚拓なんて便利なものもありますから、過去の発言もどんどん露見されてしまいますからね。だから、令和という時代は鮫島伝次郎みたいな人が生きにくい世の中なんですよ。

SNSがない時代だからこそ、鮫島みたいな人が幅を利かせていたのでしょうね。

それで、日本が負けた、そして連合軍主導の元民主主義が急ピッチに進んだことにしどろもどろになったのですね。自分が戦時中に言ったことと、真逆のことが起きたのですから。そりゃ慌てます。「私は初めから戦争に反対した」と言って逃げてしまう。自分でも戦争マンセーしたことは今となっては恥ずかしくて仕方がないから、消してしまいたい忌まわしい過去だから。ましてや鮫島はゲン親子に意地悪したから彼なりに良心の呵責を感じたのかも。

そう考えると、鮫島も根っからの悪人とは思えないのですね。誰だって、思い出したくない古傷あるでしょう。


3 リーダーになってはいけないタイプ
 鮫島を卑怯だという人が多いですが、僕は卑怯というより、ある意味人間的だと思います。ただ、人の上にたってはいけないタイプ。権力を握らせてはいけないタイプ。

勘違いするから。

下の人間がすごく苦労するから。

リーダーになる人は広い視野をもち、部下の意見にもちゃんと耳を傾けない人でないとね。鮫島伝次郎みたいな人は、主任どまりでいいですよ。鮫島みたいな主任がガーガーいっても、課長とか他の先輩たちが、うるさい主任をなだめてくれるだろうし。

僕の職場もそうだったなあ。主任がまさに鮫島伝次郎みたいな人で、僕もよく怒られた。僕だけでなく他の人にもそんな調子で、職場でも浮いていた。聞くところによると主任も僕が来る前は管理職についていたが、パワハラがひどくて、主任に降格させられたとか。その主任もとうの昔に定年退職。主任が課長だったらと思うと今でもゾッとしますね。

戦時中は軍部では牟田口、町内の隣組では鮫島みたいのが威張っていたのも、戦時中の日本の不幸のような気がします。

4 にわか反戦主義
 
軍部や町内だけでなく、政治の世界にも鮫島のような人間はいました。たとえば、社会大衆党。無産政党で、今の社民党というか、かつての社会党の前身のような政党でした。しかし、この政党は戦時中はいち早く大政翼賛会に合流し、社会大衆党の数名の議員が、反戦演説を行った斎藤隆夫の除名処分に賛成。熱心に戦争協力をしたのですが、戦後になって社会大衆党に所属していた議員たちが、社会党を結成したのですが、社会党大衆の数名の議員は「私は初めから戦争に反対していた」ってウソをついたのですね。おそらく鮫島のモデルは社会大衆党の議員じゃないかって僕はにらんでおります。

また、いまだに社会党(社民党)サイドから自分たちの戦争責任に関してはあいまいな態度をとっております。憲法9条を守れといいながら、そりゃないよねって僕は思います。

言論人だけでなく学校の先生もひどいものでした。戦時中熱烈な軍国教師ほど、戦後になってウソみたいな平和主義者になったという指摘があります。逆に戦時中それほど軍国主義者じゃなかった先生は、戦後、GHQのやりかたに反発したのかも。あるジャーナリストはそんな先生の変わりようをみて、「ああ、人間はこれほどまでにいい加減なんだ。その先生は自分に『人をみたらまず疑うことを教えてくれた。今はその先生に感謝している』」とおっしゃっていたほど。

戦後になって進歩的文化人と呼ばれる左巻きな人たちが雨後の筍のように登場しましたが、彼らのほとんどが戦時中は戦争をマンセーしていたといいます。それが、戦後になって平和憲法マンセーどころか、マルクス主義やソ連にしっぽを振ったというのです。で、戦時中に自分の書いた論文を燃やしてしまったり、戦時中の発言を人から指摘されると逆切れして怒鳴りつけた者もいたといいます。

言論人もひどかったけれど、一番ひどいのは新聞社。特に朝日新聞の戦時中と戦後の論調の違いすぎはとてもひどいものがありました。朝日は戦後になっても北朝鮮を「地上の楽園」なんて言っていたのですから・・・


 
 
 

新型コロナが蔓延し、なかなか収まりそうもありません。安倍総理が非常事態宣言を延長しました。コロナが収まっていないので、仕方ないといえば仕方がないのですが、僕もカラオケができなくてイライラしておりますw5月7日に非常事態宣言が解除されるはずだったのが、それが伸びてしまいました。カラオケは当分お預けですね。それはともかく、自粛、自粛で正直イライラされている方も少なくないかと思われます。そうなると僕が懸念するのは自粛という言葉が独り歩きし、本来、コロナの感染を防ぐため、これ以上犠牲になる人をなくすためのの自粛が次第に意味をなさなくなり、自粛のための自粛になるのではないかって。本来は思いやりから始まったことが別のゆがんだ形ででるのではないかって。

歴史上、日本のお上は下々の人間の生活を縛るのが大好きですがw?、人間はそんなに長く修行僧のような暮らしを続けられるはずがありません。そのひずみはゆがんだ形ででてきます。現に、ドラッグストアーでレジ打ちの店員さんをバイ菌扱いしたり、県外から来た車のナンバーに傷をつけられたという出来事が現実に起こっているのです。

もちろん、自粛も大事ですが、長引くともっとエスカレートして、もっとひどいことが起こりうる可能性も否めません。以前に隣組の記事でも書きましたが、いじめの問題も出てくる可能性もゼロとは言えないのです。もし、コロナの自粛をめぐって事件沙汰にまで発展したら、世も末ですね。

それはともかく、今日は教育勅語のお話をふれます。教育勅語は1890年(明治23年)に発布され、公式には「教育二関スル勅語」といいます。道徳や区の教育方針について、明治天皇の名のもと国民に発せられた言葉です。天皇を敬い、国を愛し、そして自分の命をよろこんで天皇陛下や国のためにささげることを示されていて、全国の学校には教育勅語の謄本(複製)が配られました。

もともと教育勅語は、明治時代以降もっとも大切にされてきましたが、それがもっとも重要視されたのが太平洋戦争中です、国の祝祭日の式典などでは、児童・生徒は、ご真影(明治、大正、昭和の天皇・皇后の写真)に拝礼し、校長先生が読み上げる教育勅語を静かに聴くことが義務付けられました。教育勅語は天皇の言葉として崇拝され、きわめて神聖なものとして扱われました。そして、児童たちには教育勅語を暗記させられたといいます。

ネットでは、戦前の人たちは教育勅語の教えが身についていたから、戦後日本を復興できたといいますが、本当にそうでしょうか?僕は全否定はしません。戦時中の方は凛とした人もおおかったし、今の人よりも厳しさの中にも温かいものをかんじます。教育勅語に書かれている隣人愛、家族愛はまさに現代人が欠けているものであり、そういう意味では教育勅語に光を当てるのも一考かと思います。しかし、僕が調べたところ、必ずしも当時の子供たちが教育勅語の教えを身に着けていたわけではないのです。

授業で教育勅語を習い、友達と仲良くすること+の大切さを教えられたといいます。当然授業をきいた子供たちはなるほどそうだと納得をしました。ところが、授業が終わり休み時間になると、さっき教育勅語の話を聞いた子供たちが取っ組み合いのケンカをしたといいます。また、暗記することに重きがおかれすぎたために、かえって教育勅語にか書かれている言葉の中身をあまり把握できなかったと回想する方も決して少なくないのです。私ごとになりますが、僕が某宅配業者のアルバイトをしたのですが、それで社訓みたいな言葉を毎回復唱したのですが、今ではどんな言葉だったか覚えていないし、その言葉が今の僕の人格形成においてどれほど役立っているのか正直わかりかねます。

また、戦時中といえども凶悪犯罪があったといいますし、児童虐待も少なくなかったそうです。戦後になってもそれはおなじ。むしろ昭和30年代は、平成よりも犯罪件数や児童虐待の被害件数が多かったようですよ。昭和30年代の親御さんと言えば、教育勅語を習った世代。教育勅語を幼いときに学んでいながら我が子をぎゃくたいする、教育勅語が身についていませんね。

また、ある方がおっしゃっていたのですが、教育勅語を「官僚的」って批判をしていましたっけ。さらには、「どんないいことでも強制され、形式的になったら、心がなくなる。それに人間は成長する。大人になったのに小学生の時の服を着ようとしても無理だ」とまでおっしゃっていたのですね。僕も悪いけれどそう思います。たしかに教育勅語にもいい言葉が書かれておりますが、良い言葉でも強制するといかがわしいものになります。

人間ってあんまり強制すると反発するんですよ。今回の自粛だってあんまり強制すると、かえって自粛しない人間が出てくると思う詩、あるいは内心反発しても反発できない人もいます。そういう人は自粛しない人間や弱い立場にいる人間をいじめたりするんです。僕は戦時中のあんまり色んなことを強制したから、戦後は極端ともいえるような人権が叫ばれたり、自由が強調されるようになったのではないかとにらんでおります。

教育勅語の謄本やご真影は各学校に配られましたが、学校の金庫に保管していたわけではありません。「奉安殿」とよばれる建物にしまっておいたのです。レンガやコンクリートでじょうぶに作られ、空襲をさけるために、校舎から少し離れた場所に建てられました。登下校時などには、教師も生徒も奉安殿に向かって最敬礼をしなくてはなりませんでした。空襲で学校が火事になったとき、校長先生が奉安殿に真っ先にかけつけ、ご真影と教育勅語の謄本を守りにいったそうです。ご真影と教育勅語のご真影は無事でしたが、校長先生は焼死したといいます。

美談ともとれますが、人の命より、いい方は悪いけれど物のほうが大事なのかって僕は思ってしまいます。歴代の天皇陛下のご真影だって、原本とかネガならともかく、写真のネガを焼き増ししたものですからね。ご真影も教育勅語の謄本も大切なものかもしれませんが、人の命には代えられないような気がします。

太平洋戦争が終わると、進駐軍によって、教育勅語は学校現場から排除され、奉安殿は解体、撤去されました。が、一部では奉安殿が残っているところもあるそうです。貴重ですね。僕は現物の奉安殿をみたことがないので、実際に見に行きたいです。





※ 参考文献







※関連記事

http://ehatov1896rekishi.diary.to/archives/2248371.html

1 標語や合言葉
戦争がはじまると、国民は、自分を犠牲にして、国家のために戦うことを求められました。国民精神総動員運動が繰り広げられ、戦地で戦う兵士だけでなく、国内に残っている人たちも挙国一致(国をあげて一つの目標にむかうこと)で戦争に立ち向かうように仕向けたのです。

そのような状況で生まれたのが、勇ましいスローガン(標語)や節約を訴える合言葉でした。

代表的なのは、「欲しがりません勝つまでは」「ぜいたくは敵だ」「進め一億火の玉だ」でしょうか。今振り返ってみるとむなしく響きますが、当時の人たちは必至だったのです。ちなみに、標語がやたらと社内に貼られている会社はブラックで倒産のリスクも高いといわれております。逆に言えば、倒産しそうなくらいヤバイ状況だから社員にハッパをかけているのでしょう。そう考えると戦時中の日本はそれくらい経済的にもやばく、国民を標語であおらないとやっていけない状況だったのでしょうね。

2 「欲しがりません勝つまでは」の秘話
「欲しがりません勝つまでは」は1942年(昭和17年)、大政翼賛会と新聞社が戦意を高揚するような標語を募集し、たくさんの応募の中から選ばれました。この標語は国民学校5年の少女が作ったとされております。みんな口には出さないけれど少女は恨まれただろうな。「ただでさえ苦しいのに余計なこと言いやがって」とか「大人の苦労のわからない子供の言葉になんでみんな言うことをきくんだ」みたいな。しかし、こちらのサイトをみて驚きました。

https://withnews.jp/article/f0150731000qq000000000000000G0010401qq000012294A

この標語は少女ではなく、少女の父親が考えたものだそうです。父親だろうが娘だろうが僕にとってはどうでもいいのですが、この標語は独り歩きをしてしまい、国民は厳しい倹約生活を強いられる、つまり同調圧力が産まれたのです。ちょっとでも贅沢をした人は非国民と罵られる、とても息の詰まった状況になったのです。言葉って恐ろしいですね。現在コロナで自粛、自粛の雰囲気ですが、バカな人間が変なツイートをして、それが拡散して、その言葉が独り歩きし、やがて国民自身が自らが自らの首を絞めるようなことになりかねません。

もちろんすべての国民が戦争に協力したわけじゃありません。もともと戦争に疑問を持っていたり、長引く我慢、我慢の生活にくたびれて嫌になった人もいたはず。現代でいえばコロナで自粛、自粛
につかれてしまい、ある日羽目をはずして、どこかに旅行にいったり、パチンコにいくようなものです。こんな風に国民が厳しい生活を送る一方で軍部のお偉いさんが芸者遊びをしていたといいます。現代も一緒ですね。政治家が風俗にいったり、ファーストレディーが花見や旅行に行くようでは、国民に示しがつきませんね。
 
3 鈴木庫三
 戦時下の出版史もしくは出版弾圧史に必ず出てくる男がいます。その男の名前は情報局情報官の鈴木庫三といいます。検閲と用紙統制によって出版社の首根っこをおさえて出版・マスコミ統制をおこない、大変な権勢をほこったといいます。そんな彼が「主婦の友」昭和17年1月号に登場して「新しい生活の建設」という文章を書いています。その文章を引用します。

シナ事変とともに燃え上がった国民の精神運動で、いろいろな標語が流れてきました。そのなかで面白いのは『贅沢は敵』といふ標語で(略)、この標語は、我が国や日本民族について真理だけでなく、広く全世界にとっても、全人類にとってもまた真理でなければなりません。そこにこの標語が面白いおところがあるのです。(略)

今度の世界大動乱にはいろいろな原因がありますが、その中の大きな要因の一つは世界の経済的な行き詰まりであります。世界を経済的に行き詰らせた主たる原因が右のように英米人の贅沢極まりない生活にあるのですから、この点から見て、英米人は世界人類の敵だというふことになります」


なんとも、トンデモな人だなって思いましたねwこの戦争の目的が贅沢と戦うためだといわんばかりの内容です。ともあれ、「ぜいたくは敵」という言葉は独り歩きしてしまったのですね。

※ 参考文献








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