history日誌

歴史と歌が大好きな私が日本史から世界史まで広く浅く書きます。 歴史の知識は素人レベルで、私が語る歴史の内容が真実かどうかは自信はありませんがw、楽しんでブログを書いていきます。教科書に載ってないようなマイナーな歴史の話もします。

1 「香港」を歌唱中に泣いたテレサ
   テレサ・テンさんの歌で「香港」という歌があります。1989年につくられた曲で、エキゾチックな曲調の歌です。個人的な話になりますが、この「香港」は、テレサ・テンさんの歌のなかで僕が一番好きな歌で時々カラオケで歌います。でも、カラオケでこの歌をDAMの精密採点で採点してもらっても毎回60点台と低い点数なんですwちゃんと音程通りに歌ったつもりなんだけどw、「つもり」ではダメなんですねw(「時の流れに身をまかせ」を歌ったほうが点数が高く、80点台をだせるのに) 1989年といえば中国に香港が返還されることが決まった年です(実際に返還されたのが1997年)。

その香港返還を記念して作られた曲らしいのです。この年に放映された日本の歌謡番組にテレサさんは香港からの中継でご出演されました。1989年当時のテレサさんは香港を拠点にしておりました。そして、「香港」を歌ったのですが、歌っている最中に泣き出してしまうのです。彼女はなぜ泣いたのでしょう? それは本人に聞いてみないとわかりません。けれど、彼女が泣いたのは1989年6月4日におきた天安門事件と何らかの関係がありそうです。

2 天安門事件
 
  この事件は胡耀邦こようほう総書記の死をきっかけに、北京の天安門広場にあつまった数万の学生たちが「独裁打倒、官僚主義反対」をさけびました。すると、共産党は、こうした事態が全国に広がることを恐れて、「動乱」として徹底的に弾圧することを決めました。人民解放軍は民主化を要求する学生や市民たちに発砲をしたのです。人民を守るはずの人民解放軍が罪のない市民に銃口を向けたのです。

当時中学生だった僕もこの事件はショックでしたね。 そもそも、学生や市民たちは一昔前の学生運動みたいに火炎ビンをもって暴れたりしませんでした。むしろ穏健なデモでした。それにもかかわらず人民解放軍の装甲車が市民をひき殺したことで、大きな動乱になったのです。テレサさんは天安門事件のことで、ひどく心を痛めておりました。テレサさんは中国の民主化をかねてから願っておりました。しかし、香港が中国に返還されたとしても、香港で政府による弾圧が起こるかもわからない。果たして香港返還は、香港で暮らしている人々にとって果たして幸せなことなのか?そんなことがテレサさんの脳裏に浮かんだのかもしれない・・・

3 私の家は山の向こう
 
 天安門事件がおこる一週間前の5月27日。香港のハッピーヴァレー競馬場で中国の民主化を支援するコンサートが開かれました。ジャッキー・チェンも出演するなど豪華な顔ぶれでした。そのコンサートには30万人もの市民がつめかけました。そこにテレサさんも出演されました。テレサさんは「民主万歳」と書いたハチマキをしめ、表には「反対軍管」、裏には「我愛民主」と書かれたゼッケンを身に着けておりました。軍事独裁を許さない、私は民主主義を愛するというテレサさんの強い意志が伝わります。

テレサさんはマジで中国の民主化を願っていたのですね。実際、テレサさんは「歌で中国人の心をひとつにしたいんです」と親しい知人に語られていたそうですから。 僕はテレサさんというと穏やかなイメージしかなかったのですが、ここまで強い人で政治色の強い方だったとは思いませんでした。今の日本に、ここまで政治的なメッセージをいう人はいないでしょう。いたとしても、そんな人が出たら、たちまち、その歌手のツイッターやブログは炎上し、下手すりゃ右翼団体に目をつけられますからね。


そしてテレサさんが歌ったのが「私の家は山の向こう」でした。「松花江上」という歌をもとに、大陸から台湾に逃げてきた兵士たちが1960年代に歌詞をかえて歌った歌でした。 その後、テレサさんは香港を去り、フランスのパリに移住をします。まさに「香港」の歌詞のとおり、銀色の翼にのって異国に旅立ったのですね。しかし、テレサさんは「香港はもうひとつのわたしの家ですから疲れた時には帰りたいところです」とも親しい知人に語られていたようです。

4 恋人との出会いそしてテレサの死
 
  そしてフランスに移り住んだテレサさんですが、そこで、ステファン・ピエールさんというフランス人と出会います。彼とは亡くなるまで交際を続けたといいます。もちろん二人は価値観や生活習慣の違いからしばしばケンカもしたそうです。テレサさんが「三日も洋食が続いたのだから今日は中華にしましょう」と言ったら、ステファンさんは露骨に嫌な顔をしたという具合に。あるときはテレサさんとステファンさんが大げんかをして、テレサさんが「出ていけ」と怒鳴ったこともあったとか。 テレサさんって穏やかなイメージがあるけれど、けっこうキツイところがあったのですね。とういか、女性はみんなそんなものかw。あわわ、ジョークですよwそれでステファンさんが外を出たのですが、あいにくの大雨。10分ほどでステファンさんは家に戻ったのですが、ずぶぬれになったステファンさんをみて、テレサさんはそれ以上怒らなかったといいます。テレサさんはなんだかんだで優しい良い人だから、激しいケンカがあってもステファンさんと別れなかったのでしょう。

まもなくテレサさんはタイのチェンマイで生活するようになります。1993年には「あなたと共に生きてゆく」をリリースします。この歌の作詞はZARDの坂井泉水さん、作曲は織田哲郎さんという豪華なメンバーです。ヒットしませんでしたが、とてもいい歌です。まるでテレサさんがステファンさんに贈る歌みたい。この曲はテレサさんのオリジナル楽曲としては生前最後のシングルとなりました。


そして、テレサさんも次第に体調をくずし、この歌をリリースした2年後の1995年5月8日にテレサ・テンんさんはなくなります。テレサさんの死は多くの人に衝撃を与えました。テレサさんの死は世界中で報じられ、一時はテレサさんの歌声を禁じた中国のマスコミでも大きく取り上げられ、北京大学でもテレサさんを追悼する看板が立てられたそうです。 台湾でも日本でいう国民栄誉賞のような賞が与えられました。芸能人でこの賞を授与されたのはテレサさんがはじめてだそうです。


テレサさんは、台湾、日本、香港、フランス、アメリカ、タイと世界のあちこちを飛び回りましたが、インタビューではいつも「わたしはチャイニーズです。世界のどこにいても、どこで生活しても私はチャイニーズです」と答えていたそうです。波乱に満ちた人生でしたが、彼女が残した歌は今も多くの人々に親しまれております。


※ 参考文献
これならわかる台湾の歴史Q&A
三橋 広夫
大月書店
2012-05-01



 前回はテレサさんが日本でのご活躍をお話ししましたが、今日は時代を少しさかのぼります。日本に再来日する前のテレサさんのお話からはじめます。1980年にアメリカから台湾に帰国したテレサ・テンさんは、まっさきに中国との国境の島、金門島きんもんとうを訪れました。そして兵士たちと歌を合唱し、大陸にむかって「『何日君再来』をいっしょに歌ってください」とよびかけました。台湾の国民政府は、中国でも人気を博していたテレサさんを利用したのでした。

この「何日君再来」は1937年に映画の挿入歌としてつくられました。酒場の踊り子が、一人の抗日青年に思いを寄せつつ、その青年が作戦を成功させて次の任地に移っていくときに歌う、別れの歌でした。それを日本のレコード会社が日本語の歌詞をつけて発売し、広く知られました。しかし、日本軍は中国の抗日ソングだということで、この歌を歌うことを禁じました。戦争後は台湾の国民政府が、この歌の「君」は日本軍のことで、日本軍を懐かしむ歌だということで歌うことが禁じられました。

中国では文化大革命の混乱が収拾にむかい、改革開放政策がおしすすめられました。改革開放政策とは、中国は社会主義の国でありながら、資本主義の良いところも取り入れていこう政策です。海外の情報や文化も様々なルートから入ってくるようになりました。当時の中国人たちは、文化大革命の混乱でほとほと疲れていたので、平和におだやかにすごしたいという気持ちを強くおもっていました。そんなときにテレサさんの「何日君再来」のやさしい歌が当時の中国人たちに響いたのでしょう。

中国共産党は、これほど親しまれたこの歌を、革命精神を堕落させる歌だとして禁止しました。しかし、人々はそれでも、平気でこの歌を歌ったり聴いたりしていました。「小圧倒老」(かわいいが年老いたを負かした)などという人もいました。小平とうしょうへいによって、この歌は禁じられても、みんなテレサのことを愛し、逆に小平のことを煙たがっていたということでしょう。

その後、中国も胡耀邦こようほうが実験をにぎると、テレサの名誉も回復され「何日君再来」も愛国の歌とされました。そればかりか、北京などでコンサートを開くようにひそかに招待されました。

「何日君再来」は日本軍にも、台湾の国民政府にも、そして中国共産党の幹部にも疎まれたいわくつきの歌ですが、この歌もやっと日の目をみるようになるのですね。そして、この曲はテレサさんの代表曲でもあり、現在も数多くの歌手や音楽家によって歌われたり、演奏されたりしております。




※ 参考文献

これならわかる台湾の歴史Q&A
三橋 広夫
大月書店
2012-05-01





1 一生忘れらない三大ロマンス
 きょうはテレサ・テンさんの誕生日のようですね。そして、テレサさんがもしご存命なら今年で65歳になられるのですね。僕もウィキペディアでそのことを知りました。きょうはテレサさんのロマンスからお話しします。テレサさんは3名の男性とロマンスがありました。一人は、青年実業家、二人目は華僑の学生、そして三人目が財閥の御曹司(シンガポール華人)でした。とくに財閥の御曹司とは結婚まで考え、シンガポールに家を買ったほど。けれど、御曹司の家族が男尊女卑だったこともあり破談になりました。

「わたしは歌が好きですけれど、向こうの家族は仕事をやめてほしいと要求してきました。家柄もよくないといわれたんです」とテレサさんは語ったそうです。破談はテレサさんに深い悲しみを与えました。しかし、失うものがあれば得るものはある。こうした悲しい経験は、テレサさんの歌手人生においてはプラスに働くのですね・・・あまり、こんなことは思いたくないのですが。でも、たしかにテレサさんの歌はこういう経験がないと歌えないと思います。技術的にはテレサさんの歌をうまく歌うことができても、それだけ。テレサさんが歌うと泣けるけれど、ほかの人が歌うと「うまいね」で終わってしまうことも少なくありません。

でも、テレサさんに限らず大歌手はプライベートではつらい経験をした人が多いのですね。島倉千代子さんなんて、不幸不幸の連続だったし、宇多田ヒカルさんもお母様をなくされたり、色々つらい経験をされ、それを乗り越えた今のほうが(若い時より)僕は好きですね。もちろん、プライベートも大変充実した歌手の方ももたくさんいらっしゃることも言うまでもありません。

2 「つぐない」 「愛人」
 失意の中テレサさんは三木たかしさん、荒木とよひささんに出会います。このお二人との出会いがテレサさんの歌手人生を大きく変えます。1984年1月に「つぐない」がリリースされます。作詞が荒木とよひささん、作曲が三木たかしさんです。しかし、発売して一週間で売れたのはたったの10枚。五週間たってもわずか50枚だけ。この曲がリリースされて1か月にテレサさんは再来日します。テレサさんが日本にきたのはパスポート事件以来5年ぶりです。(「つぐない」のレコードは日本ではなくシンガポールのスタジオで収録されたのですね。)

テレサさんは日本に来るなり、パスポート事件のことを謝罪し、会見がおわったところでミニライブが開かれ、「つぐない」が披露されました。それから「つぐない」が有線放送でどんどん順位をあげ、大ヒットにつながります。そして、この曲は有線大賞を受賞します。

そして翌年の1985年は荒木、三木のコンビで「愛人」が大ヒット。前年に続き有線大賞を受賞。そして、テレサさんはこの曲で紅白に初出場。まるで楊貴妃のような衣装でこの「愛人」を歌いあげました。 

しかし、テレサさんはこの「愛人」の歌詞にはじめは納得しなかったようです。「どうして私がこんな歌を歌わなければいけないんですか。悪いことをそそのかす女のひとの歌」とテレサさんはおっしゃったそうです。それもそのはず「愛人」は不倫がテーマの曲ですからね。しかし、仕事だから歌わないわけにはいけない。テレサさんは中国語で意味する「愛する人」について歌うのだと自分を納得させ、純粋な気持ちで歌うことにしました。歌詞に不満があったけれど、語尾に気持ちを表現することで切なさを伝える独特な歌唱法は、ここでも優れた冴えを見せました。


3 「時の流れに身をまかせ」 「別れの予感」

 1986年には「時の流れに身をまかせ」をリリース。やはり荒木、三木コンビによる名曲です。この曲で3年連続有線大賞受賞、レコード大賞も受賞、この年の紅白にも出場されました。「時の流れ」は徳永英明さんら色々な方がカヴァーされており、今でもカラオケで上位に上がるほどの素晴らしい曲です。僕もときどきカラオケで歌いますよ。テレサさんみたいには歌えないけれどw

翌年の1987年には「別れの予感」が大ヒット。しかし、この年の紅白は落選してしまうのですね。この年の紅白はオペラだとかシャンソンだとか、そういう歌手を出す一方で、流行歌手や人気歌手の何人かがあおりを受けたのですね。僕はこの年の紅白こそテレサさんを出すべきだと思ましたね。テレサさんが若くして亡くなったことを考えると、なおさら当時のNHKの上層部の判断は間違っていたと僕は思います。そういえば、このころから紅白の視聴率が落ち始めましたからね。

ちなみにテレサさんが紅白に再出場したのが1991年です。この年には「時の流れに身をまかせ」を歌いました。しかし、それ以降テレサさんは紅白に出ておりません。テレサさんは生涯三回しか紅白に出場しておりません。なぜでしょう?「長い時間拘束されるのが嫌」とか「演歌歌手と共演するのが嫌だ」「ギャラが安すぎ」みたいな理由で辞退したからではありません。むしろ、彼女は紅白に出たかったそうです。しかし、様々な事情があって紅白に出ることはかならず、1995年に亡くなってしまうのです。本当に惜しいなあ。紅白で「別れの予感」や「香港」(次回以降にこの歌のお話を取り上げます)が歌われなかったのは本当に残念で仕方がありません。

※ 参考文献


これならわかる台湾の歴史Q&A
三橋 広夫
大月書店
2012-05-01

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