history日誌

※ この記事はウィキペディアを参考にして、2014年4月13日にかいたものを加筆修正をしました 


1 私に一分間時間を下さい
 ことしで紅白70回目をむかえるのですね。歴史のある番組です。戦後間もないころに始まった番組が今でも放送されているというのがすごいです。ちなみに第一回紅白歌合戦の出場者はほぼ鬼籍にはいり、いまでもご存命なのは菅原つづ子さん(令和元年12月31日現在)お一人になってしまいました。

紅白は生放送なだけにいろいろなハプニングがありました。紅白のハプニングで特に語り草になっているのは、おそらく「私に一分間ください」ではないかと。

第35回(昭和59年)の紅白は、都はるみ(※1)さんの引退劇でした。

都はるみさんは結婚けっこんで芸能活動をやめてしまう都はるみさんの最後の花道です。都はるみさんは大トリで「夫婦坂」めおとざかを歌いきりました。「夫婦坂」を歌い終わったとたんに都はるみさんは、泣き出してしまいました。



すると、NHKホールの観客席から「アンコール」が。会場のNHKホールはものすごい興奮に包まれています。すかさず当時の白組司会者だった鈴木健二アナウンサー(※2)が、「私に一分間だけ時間をください!」といって、都はるみさんにアンコールを頼んだのです。



※1 日本の歌謡界かようかいを代表する歌手の一人で昭和のころには、たくさんのヒット曲を出した。主なヒット曲は「北の宿から」「好きになった人」「大阪しぐれ」など


※2 元NHKの看板アナウンサー。「クイズ面白ゼミナール」「歴史への招待」という番組の司会をやっていた。気配りのうまさと、バツグンの記憶力きおくりょくの持ち主だった。彼が書いた「気くばりのすすめ」はベストセラーになった。紅白の司会も昭和58年から60年まで3度つとめた


都 はるみ ベスト・コレクション
都 はるみ
コロムビアミュージックエンタテインメント
2010-01-01








2 ものすごい熱気
 僕も紅白をいくつも見ましたが、会場からあれほど熱気が感じられたのは他にありません。最近の紅白でAKB48や嵐が歌うときの会場の熱気もすごいけれど、やはり昭和59年の紅白の熱気はスゴイと思いました。

ちなみに、鈴木さんの「私に一分間時間をください」は全く台本に書いてない、まったくのアドリブだそうです。

鈴木さんが都はるみさんにアンコールをするように説得をはじめたのですが、鈴木さんが説得をしている最中に都はるみさんの名曲「好きになった人」の演奏が流れました。

はるみさんは泣くばかりでまともに歌うことができません。紅白両軍のメンバーがはるみさんを囲んで「好きになった人」を歌っていました。




3 ミソラ・・・ミヤコさんに

 「好きになった人」の演奏が終わると、紅白の総合司会をつとめた生方恵一(※3)さんという元NHKアナウンサーが登場します。

そして、生方さんが「もっともっと、たくさんの拍手はくしゅを、ミソラ…、ミヤコさんに、お送りしたいところです 」と言ってしまったのです。生方さんはキャリア豊富なアナウンサーだったのですが、そういう人でも「都」を「ミソラ」と間違まちがえるからおそろしい。

紅白は生放送。事前にちゃんと準備をしても、本番何が起こるかわかりません。しかも、紅白には魔物がいるといわれています。これまで多くの司会者や歌手たちが紅白の魔物まものになやまされてきたのです。

なお、その時の話はこちらのサイトに、その当時の話がよくまとまっております。

http://www.news-postseven.com/archives/20131229_233702.html







あとは当時の白組の司会者だった鈴木健二さんのご著作にも、1984年の紅白の裏話が書かれております。私も図書館で借りて読ませていただきましたが、あの紅白の舞台裏で司会の鈴木さんをはじめ当時のスタッフたちは、都はるみさんの引退劇を盛り上げるために、ここまで気を配っていたのかと驚かされました。

また、この本を読んで驚いたのが、鈴木さんが「自分のやったことはNHKの先輩たちが築きあげたもの。それは後進のためにお返ししなければいけない」みたいなことがこの本に書かれていたのです。鈴木さんといえば、紅白だけでなく「面白ゼミナール」という番組でもバツグンの記憶力と司会ぶりを見せていた方。普通だったら「俺はすげーぜ」などと言いたくなるのが人情ですが、鈴木さんはそうじゃない。

それどころか、今の自分があるのは自分の実力というよりもNHKが積み重ねたノウハウがあったからであって、NHKを離れれば自分は普通の人だと主張するのですから。





※3 NHKの元アナウンサー。紅白の総合司会は3度つとめた。第35回紅白の翌年の昭和60年に生方さんはNHKを退職し、都はるみさんは平成に入ってから歌手に復帰。生方さんは「はるみちゃん、もどってきたんだ」とよろこんだそうです。

※ オマケ 
ことしもお世話になりました。らいねんもよいお年を。きょうはことしの干支、イノシシの動画をみてお別れしましょう。東京の土手でもイノシシがみられるようになったのですね・・・開発がすすんで、住処を追われたイノシシが東京にもやってきたのですね・・・・来年は東京オリンピックでめでたいのですが、環境問題について考えさせられます。




噺家たちの戦争協力は国策落語だけではありません。軍の慰問にいったり、実際に戦地にも赴いたのです。柳家小さんさんや、前回の記事にもでてきた柳家金語楼さんもそうでした。

寄席も空襲で燃やされたり、兵役に噺家(おもに若手)が取られたりして、戦時中の噺家たちは苦労をしたのです。落語で食べていくのは大変なので、軍の慰問のみならず、軍需工場や農村など日本国内での慰問にでてきた噺家もいました。慰問さきでは娯楽に飢えていたので、どこでも歓迎されました。しかし、戦況が悪化し空襲がひどくなると、交通機関が止まったり、場合によっては空襲で列車が爆破されたりと、慰問活動も命がけになってきます。


実は日本国内の慰問活動は落語家自身を守るためのものでもあったのです。ある噺家曰く、

軍需工場だとか農村だとかを慰問してまわります。銃後の人たちのお役に立つようなんて、もっともらしいモットーを掲げているのですが、これがじつは徴用逃れなのです。噺家、それも私たちのように若いものは徴用され、軍需工場に連れていかれる危険性もありますから、慰問という形でお国のために働く、芸能をもって奉仕しますと(中略)いっておくと、徴用に行かなくてもいいわけです。」

もし、いまネットがあって、こんなことをした噺家はぼこぼこにたたかれてしまいます。しかし、戦争とはいえ、やはり自分の身というものは守りたいもの。僕だって当時の噺家の立場だったらそうします。

噺家といえば、高座着です。噺家にとっては高座着は大事な仕事服。しかし、戦況が悪化し、1940年に国民服令がだされ、男子は強制的に国民服を着る羽目になったのです。戦時中はものが不足しているから贅沢をするなということでしょう。 噺家の高座着も贅沢だからやめろという意見も当然でてきます。一方で「落語家の高座着は一種の衣装であって、俳優がヒゲをつけ、女形が赤い衣装を着けるのと何ら異なることもなく、業務上の必需品である」という意見もありました。


高座着は贅沢かそうでもないかで意見が分かれ、もめているうちに戦争が終わってしまいました。もし、戦時中に高座着が禁止されていたら、高座着を着ない噺家も戦後出てきたかもしれません。

また、戦時中は食糧難ということで、噺家たちのその影響を受けておりました。噺家は寄席に行く際は弁当を持参しましたが、その弁当のごはんは大根、芋、野草が混じっていたといいます。お米が足りなかったから、芋や野草を混ぜたのでしょう。

そして東京大空襲直後、東京の寄席も燃えてしまいましたが、五代目蝶花楼馬楽の自宅は燃えなかったのです。そこにはたくさんの噺家があつまってきましたが、ご飯をたくとき、コメが不足し、その日の人数が多い場合は米を足すのではなく、水を足し、ゆるいおかゆにして量を増やしていたといいます。

また、生活必需品は配給をされていましたが、その配給だけだはとても足りないので、闇取引が盛んだったといいます。ある噺家も近くの農村に交換用の衣類などをもって、食糧を確保したといいます。

※ 参考文献


柳家金語樓―泣き笑い五十年 (人間の記録 (120))
柳家 金語楼
日本図書センター
1999-12-25


政府は庶民が天皇マンセーして、戦争に協力してほしいと願っていました。そうして作られたのが国策落語です。 とはいえ、国策落語は、戦争場面がずばり出てきたり、戦意高揚をするような噺は意外と少ないのです。それもそのはず、本来落語は庶民の生活をネタにしたり、時に権力者をからかってみたり、そういうものですから。それより戦争遂行のために銃後の国民はどのように暮らすべきかというテーマが多かったのです。だから、戦争とか、権力マンセーは落語とは水と油なのです。
国策落語はいくつもの演目がありますが、その中でも「緊めろ銃後」という演目についてお話しします。この演目には大家さん、熊さん、八っつぁんがドイツの欧州での戦争ぶり、日本の戦争、銃後について語られております。この演目の最後のオチの部分を紹介します。 『いづれにしても、銃後はいま一段の緊張が絶対必要だよ。そうして、いざとなれば、法律で臨む。私は国策違反はこの際反逆罪と認めてもいいと思っているくらいだ」 「国賊ですからな。へえ、日本時とは言わされねえ。蒋介石の間者(スパイ)も同じだ。だから罰金ぐらいじゃすまされねえ」 「罰金以上とすると・・どうするか」 「日本から追い払ってしまおう」 「国外追放は厳罰だな。どこへ追い出す」 「そいうやつは重刑(中国の重慶)でいい」 この落語は政府の立場からすれば、よくできた落語といえます。国策落語はほかにもいろいろな演目があります。「隣組の運動会」、「産めよ殖やせよ」、「防空演習」、「スパイご用心」、「出征祝」など。あと「債権万歳」というものもあります。これは戦費を調達するために国民に国債を買わせるためにつくられた演目です。このように国家権力べったりの落語が戦時中につくられました。
かつて柳家金語楼という噺家がいました。彼は戦後になってテレビタレントとしても、俳優としても活躍しました。その彼は戦時中は、国策落語を通して戦争協力をしたのです。しかし、彼が戦争協力をしたのは本心からではありません。太平洋戦争がはじまる前までは兵隊落語とよばれる新作落語を演じておりました。ちなみに新作落語とは大正以降につくられた落語で主に現代が舞台となっております。江戸時代から存在し、お話の舞台も江戸時代の落語が古典落語です。

柳家金語楼は新作落語の名手でした。その中でも兵隊落語は人気がありました。これは金語楼が大正時代に軍隊に入隊し、そのときの体験をもとにして作った落語です。兵隊落語と聞くと、「兵隊さんえらい」みたいな落語のように思えますが、厳しい軍隊生活を笑いにしてしまう、時に軍隊批判もあるようなそんな内容だったのです。たとえば、「兵隊落語」に兵隊検査のシーンなんか象徴的です。


検査官「おい、山下、お前は甲種合格だぞ」
山下「え、合格、しまったッ」
検査官「なに、しまった?」
山下「いえ、家の表のカギはしめてきたはずで・・・」
検査官「軍人になれてうれしかろう」
山下「あー、ん〜。う、れ、し、い。・・・」
検査官「なんだ、お前、泣いとるのか?」
山下「はい、うれしなきです」


噺にでてくる山下とは山下達郎さんのことではありませんw柳家金語楼の本名です。それはともかくとして、こういう兵隊落語を当局は黙っているわけではありませんでした。金語楼は憲兵本部から出頭を命じられ、「兵隊モノを遠慮してほしい」といわれてしまいます。そして太平洋戦争が勃発して、戦争ムードが広がると、金語楼の落語も変化をしていきます。ほのぼのとした金語楼の落語も次第に国策落語の性格を帯びてくるのです。同じ兵隊検査のシーンでも、太平洋戦争前とでは異なります。こんな感じです。

検査官「いい体をしている」
山下「じゃあ兵隊になれますか」
検査官「その体なら大丈夫だろう」
山下「ありがたい、ありがたい」(話に出てくる山下はこの時裸体のまま跳ね上がって喜んだと)


太平洋戦争前とは180度オチが違いますね。それまでは、兵隊になったことを内心嫌だなって描写だったのに、太平洋戦争が始まってからは、表面的とはいえ喜んでいる描写なのです。

金語楼は兵隊落語だけでなく、国策落語も演じました。彼が演じた演目の中で「産めよ育てよ」というのがあります。内容亜はこうです。はじめは主人公と親友が男同士で酒を飲みながら、子供ができないことを嘆くことから始まります。途中で、主人公の友達の奥さんが三か月とわかり、怒った主人公が家に帰ると、自分の女房も三か月とわかります。すると主人公は「マッチより重たいものを持っちゃダメ」と大騒ぎ。それで子供が生まれると、翌年には二人目、また今度は三人目ときて、最終的に子供の数も十人を超えてしまい、まさに主人公はビックダディーになってしまったというお話。

まさに当時の政府の方針である「産めよ、育てよ」に忠実な内容の噺です。さらに、この噺には、子供を産めない奥さんも登場します。その奥さんに対して「兵隊さんになるような男の子を、一日でも早く産むことが、お国のために尽くす仕事だとしたら、子を産めない女なんか意義がないぞ。さてはお前は敵国のスパイだな、憲兵に訴えるぞ」みたいなセリフがでてくるのです。今のご時世だったら確実にモラハラ、セクハラですよね。こんなセリフ当時の政府のお偉いさんとか右翼は涙を流して喜んだでしょうが、こんな話が出てくるようでは笑いたくても笑えません。

金語楼の国策落語は戦況が悪化すれば、悪化するほど一層権力マンセー、戦争バンザイの内容の噺をしました。さぞ、当時の政府のお偉いさんたちやウヨは金語楼のことを、ほめたことでしょう。しかし、昭和17年に政府は金語楼に対して、噺家をやめ、俳優になるように強要されます。この非常時に人を笑わせている場合か!まじめにやれという言い分でしょう。金語楼はしぶしぶ噺家の看板を下ろす羽目になったのです。

もちろん、金語楼が国策落語をしたのは、彼ひとりがわるいのではなく、当時の時代の要請でしたからね・・・
※ 参考文献


桂歌丸 名席集 CD-BOX
桂歌丸
ポニーキャニオン
2018-03-07



桂歌丸師匠が亡くなって、もう一年たつのですね。月日のたつのも早いものです。「笑点」では時事問題を得意とし、時に厳しい政治批判を回答者時代よくされておりました。たとえば、「説得力のないセリフは?」というお題に対し「政治家の"日本を変えてみせる"」と答えておりました。

そういう彼のピリリと辛い風刺は定評がありました。司会者になってからも、政治批判だとか風刺がらみの回答を好み、そういう回答をした人には(たとえば三遊亭円楽さんとか)座布団を気前よく上げていたのを覚えております。そんな調子ですから、歌丸さんはある政治家から圧力があったそうです。ある政治家が「あんまり政治家の悪口を言うなよ」というと、歌丸さんは得意のとんちをきかし「悪口言われるような政治家になるな」と言い返したそうです。すごいですね。その歌丸さんの言葉に政治家はぐうの声も出さなかったそうです。歌丸さん、かっこいいですね!

歌丸さんが亡くなってからも、政治批判する回答がちょくちょくでてきます。すると、炎上をしたり、保守系言論人から批判もされるそうです。そもそも、落語とは庶民のためのもの。庶民が噺家たちの風刺をきいて、留飲をさげるのです。「自分たちが言いたいことを代弁してくれてありがとう」って。逆に言えば、噺家が権力マンセーになったら面白くありません。権力への批判精神を失い、弱者や庶民を切り捨てるようになったら落語はおしまいだと僕は思います。

戦時中はまさに噺家が政治批判をできない時代でした。

1940年9月に、当時の講談落語協会などは「磁極柄ふさわしくない」として、遊郭にまつわったお話や、恋物語、残酷な話を自粛したのです。これは上からの圧力ではなく、自主的な行為です。そして、ただ自粛しますと宣言しただけではダメと思い、記念碑をたてることにしました。翌年の1941年に浅草の本法寺に「はなし塚」を建立し、その塚に禁じた落語の台本、せんすや手ぬぐいを奉納したといいます。その「はなし塚」は今もあるそうですよ。



そして戦況が悪化し、いくつもの演目が時節柄ふさわしくないとして演じられなくなりました。禁演落語といいまして、53種あったといいます。しかし、戦時中に演じらるのが太平洋戦争に突入し、戦況が悪化していくなかでも庶民は笑いを求めていました。その庶民が心から楽しんでいた落語は、古典落語(江戸時代にできたもの)で、平和で明るく、実にのんきでほのぼのとしたお話ばかりです。しかし、政府はそんな落語さえも目の敵にしたのです。

噺家が寄席でそうした禁演落語をやろうものなら、警察がやってきて「中止」と声がかかってしまいます。禁演落語だけでなく、歌丸さんみたいに権力者を批判したり、戦争をちょっとでも批判すると厳しく取り締まりをされたといいます。

ただ、禁演となった53種の落語は、戦前、表むきは寄席で演じられなくなりました。が、噺家が軍の慰問にいくとそうでもなかったそうです。一般の兵隊には基本的に演じなかったそうですが、こっそり女郎買いの噺をしたら、一般兵たちから喜ばれたといいます。さらに将校には、逆に禁演落語をやってくれと言われたといいます。軍の上層部では禁演落語どころか、もっとエッチな噺もしたといいます。

ある噺家は「兵隊の前じゃいけないが、将校の前ならば会食の時なんかに演じると喜ばれるんです」と証言しております。戦争でいつも締め付けられるのは、一般国民と下っ端の兵隊だけ。上層部や勝ち組はそんな時代でもおいしい思いをするのですね・・・

※ 参考文献





ここのところ、戦時中の日本の暮らしについて触れてきましたが、今日は少し脱線したお話をします。かつて辻元清美議員が、天皇制について批判をしたことがあるそうです。以下、引用します。

平成29年6月の衆院憲法審査会で、辻元氏は、自身の過去の言動について反省を表明した。昭和62年3月出版の著書『清美するで!!新人類が船を出す!』で、皇室について述べていたことに関してである。

「生理的にいやだと思わない? ああいう人達というか、ああいうシステム、ああいう一族がいる近くで空気を吸いたくない」「天皇とあの一族の気持ち悪さ」


https://www.sankei.com/politics/news/170608/plt1706080021-n1.htmlより引用

この辻元発言をあげつらって批判した保守系の議員さんがいたようですが、この発言は30年前の話。令和になったいま現在も彼女がこのような発言をしているというのならば問題ですが。今更って正直思います。

ちなみに本人は、「30年ほど前、学生時代にご指摘の発言をした」と認めた。その上で「日本国憲法の下、日本は生まれ変わり、戦争放棄の国になった。憲法に規定されている象徴天皇を尊重しなければならない。私は考えが一面的だったと痛感し、深く反省した」とのことでした。

かつての自分の発言の非を認め、反省しただけでも、僕は偉いと思うんだけれど。戦時中、軍国主義をマンセーしておいて、戦後になったとたんに、なんの反省も説明もないまま極端な平和主義者になった人よりマトモです。そんな人物は「はだしのゲン」にも登場します。鮫島という男で戦時中は、戦争協力しないゲン一家を非国民だと言っていじめたくせに、戦後は、議員に立候補し、自分は始めから戦争に反対していたがバカな軍部のせいでなんたらかんたらと嘯いていたのです。鮫島のようにコロリと手のひらを返した人間は結構多かったのです。

それだったら戦時中、戦後一貫して軍国主義者だった人の方がまだ尊敬できます。軍国主義者の主義主張には全く賛同できないが、自分の信念を曲げないところ、ブレないところは凄い。


言論人だけでなく学校の先生もひどいものでした。戦時中熱烈な軍国教師ほど、戦後になってウソみたいな平和主義者になったという指摘があります。逆に戦時中それほど軍国主義者じゃなかった先生は、戦後、GHQのやりかたに反発したのかも。あるジャーナリストはそんな先生の変わりようをみて、「ああ、人間はこれほどまでにいい加減なんだ。その先生は自分に『人をみたらまず疑うことを教えてくれた。今はその先生に感謝している』」とおっしゃっていたほど。

戦後になって進歩的文化人と呼ばれる左巻きな人たちが雨後の筍のように登場しましたが、彼らのほとんどが戦時中は戦争をマンセーしていたといいます。それが、戦後になって平和憲法マンセーどころか、マルクス主義やソ連にしっぽを振ったというのです。で、戦時中に自分の書いた論文を燃やしてしまったり、戦時中の発言を人から指摘されると逆切れして怒鳴りつけた者もいたといいます。

言論人もひどかったけれど、一番ひどいのは新聞社。特に朝日新聞の戦時中と戦後の論調の違いすぎはとてもひどいものがありました。朝日は戦後になっても北朝鮮を「地上の楽園」なんて言っていたのですから・・・

それにしても、日本の言論人やマスコミはなぜ、ここまで極端から極端にものの考え方が偏るのでしょうね。共産党員だったのが、いまでは極右の言論人になった人も少なくありません。右→左、あるいは左→右というのは多いけれど、その中間がないのが僕には不思議でしょうがありません。

「右翼と左翼の違いこそあれ、それは表の看板だけで、頭の構造は同じではないかと疑われるほどだ。自分と異なった意見には全く不寛容で、異常なほどの敵意を抱き、大声で言いまくることで相手を圧倒しようとする性癖まで瓜二つである。テレビの討論番組で見かける声だけが大きい進歩的文化人のモノマニアックな言動は、昔の柄の悪い関東軍参謀の姿を彷彿とさせるではないか。」
稲垣武『悪魔祓いの戦後史』より


これは朝日新聞に勤められた稲垣武さんの本から引用したものですが、確かにそうだよなって思います。思想が変わったというよりも、本人の頭の構造が変わっていないだけなのかもしれない。多様な考え方を認めないから極端な考え方に走りやすい。ある意味正義感が強いのでしょうね。世の中を良くしたいという気持ちが人一倍強い。

でも、一つの思想で世の中全体をよくするのは、僕は無理だと思う。戦時中は八紘一宇、戦後はマルクス主義こそが世の中全体を良くする処方箋だと信じられましたが、世の中全体をいっぺんに良くするような思想はないと断言します。ガンを治すすごい薬があったとしても、その薬で虫歯や骨折、脳梗塞を治せますかって話になりますよね。病状にあった薬や治療法をしますよね。それと同じ。不良の更生だって、子ども達もそれぞれ個性もあるし、置かれた状況も異なるから、先生はよく相手の話を耳に傾け、アプローチを一人一人変えていかないとうまくいかないと思う。

また、一つの問題が解決すれば、絶対また別の問題が出てくる。だから、問題の一つ一つを地道に解決していくしかないです。そこに利害関係も絡むから本当に難しい。それに困っている人を助けたいなら、目の前の困っている人を、自分の出来る範囲で手を差し伸べればいいのでは。マザーテレサもそのような事をおっしゃっていたような気がする。

それから正義感というと聞こえはいいけれど、正義の名において惨たらしい虐殺や悲惨な戦争が幾度も起こった事は歴史が証明しています。正義感は否定しませんし、むしろある程度の正義感がないと、汚職や犯罪、ブラック企業による不当な労働もへりません。ただ、正義感も限度があります。山本夏彦翁は「汚職で国が滅びることはないが、正義感は国を滅ぼす」とおっしゃってましたっけ。まあ、汚職も限度がありますがね。

それか、ズバリ保身ですね。はだしのゲンの鮫島はもろこのタイプ。いつも上司にゴマすっているが、本心は、じぶんの栄達やお金儲けしか頭にない。上司に対する尊敬などまるでなし。

とはいえ、言論人の頭の構造ばかりをなじるわけにはいきません。彼らの頭の構造も確かに問題もありますし、行きすぎた正義感は褒めれるものではありません。けれど、言論で飯を食うのは本当に大変だと思います。多様なものの考え方を許容しつつ、かといって自分の意見を正直に言ったところで、それで飯が食えるわけではない。場合によっては政権よりのことを言わないと食っていけないのですから。

市川房枝さんがおっしゃっていたのですが、外国は戦時中でも、政権に批判的なことをいっても仕事があったそうです。だから、外国では政権に批判的なことを書いたりしても、あんまりとがめられることもなかったといいます。逆に日本は戦争反対っていうと全く仕事が無くなったと言います。

たとえば、原爆が投下された翌日、アメリカの主要な新聞は、その原爆投下を非難したといいます。それが日本だと違ったといいます。日本では原爆が投下されたことは新聞では非常に小さな扱いだったそうです。


政権に批判的なことをいったり、戦争反対なんていえば、仕事もなくなるうえに、最悪警察に捕まってしまったといいますから、当時のジャーナリストも大変だったと思います。でも、日本にもそんな状況でも戦争を批判したサムライもいたのですね。石橋湛山元首相もその一人でした。彼は戦時中ジャーナリストだったのです。ちなみに石橋は戦後はGHQの批判をしたため、連合国側から危険な軍国主義者のレッテルを貼られたのですよ、石橋本人はあれほど戦争に反対したのに、むごい話です。








戦う石橋湛山 (ちくま文庫)
半藤 一利
筑摩書房
2019-04-10





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