history日誌

歴史と歌が大好きな私が日本史から世界史まで広く浅く書きます。 歴史の知識は素人レベルで、私が語る歴史の内容が真実かどうかは自信はありませんがw、楽しんでブログを書いていきます。教科書に載ってないようなマイナーな歴史の話もします。



人気ブログランキングで見つけたアンケート。アンケートの結果を見てみると、徳川吉宗(とくがわよしむね)や徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の人気が高いようです。

僕が徳川15代将軍の中で一番好きなのは、6代将軍の徳川家宣(とくがわいえのぶ)。14代将軍の徳川家茂(とくがわいえもち)も捨てがたいけれど、やはり6代将軍がいい。

生類憐みの令しょうるいあわれみのれいをやめさせたし、いろいろと政治改革を行った人物です。また、とてもいい人らしくて『徳川実紀』(とくがわじっき)では「仁慈じひ(※1)の心あり」と書かれています。

家茂は勝海舟(かつかいしゅう)もほめたほどの人物で、もっと長生きをしていれば彼の評価はもっと高かったでしょう。和宮(かずのみや)との仲も良かったそうですし。


※1 仏・菩薩(ぼさつ)が人々をあわれみ、楽しみを与え、苦しみを取りのぞくこと。または、いつくしみ、あわれむこと。なさけ。

(この記事はウィキペディアを参考にしました)
1 ザビエルが石見銀山を狙っていた?

 以前、ある歴史番組で取り上げた話の中で印象に残ったのはザビエルが石見銀山ねらっていたという話です。

石見銀山とは、島根県にあった銀山で、今でこそは銀はとれなくなったようですが、全盛期は世界の銀の産出量の三分の一もめていたとか。

その石見銀山に外国人が目をつけないはずがないということで、ザビエルが銀山をねらっていたという話になったのでしょう。
 
ザビエルのイエズス会はヨーロッパ諸国がアジア諸国を侵略しんりゃくするために使わしたスパイなのだと番組で取り上げられていました。

2 ザビエルは純粋じゅんすいな気持ちで布教?

 でも、イエズス会という組織はともかく、ザビエル個人は本当に純粋じゅんすいな気持ちでキリスト教の尊さを教えようとしたのだとボクは思いますね。

ザビエルは日本の国民の事を大変めていたそうですから。

石見銀山あたりにはかくれキリスタンが多かった事も、ザビエルが石見銀山を狙うという野心をもっていた根拠こんきょの一つのように取り上げていました。

でも、それがどうしてザビエルの野心と結びつくのでしょう?

隠れキリスタンはむしろ九州に多かったのですがw?
100歩ゆずって、ザビエルがアジア侵略しんりゃくをたくらむスパイだったとしても、石見銀山を本当にねらっていたかどうかは、わかりかねます。


(石見銀山の動画)

3 イエスズ会の実態
 そもそもイエスズ会というのは、当時ヨーロッパで勢力をばしつつあるプロテスタントに抵抗するためにつくられたカトリックのグループだそうです。

イエスズ会は「教皇に対して忠実でありたい」というスタンスですが、かといって教皇にペコペコする立場ではありません。また、カトリック教会の改革の必要性をイエスズ会の人たちは理解しておりました。カトリック教会の様々な問題点をイエスズ会は厳しく批判をしています。

また、豊臣秀吉(とよとみひでよし)がバテレン追放令ついほうれいを行ったきっかけは、九州などでヨーロッパ人が人身売買を行っていたからと言われていますが、イエスズ会は奴隷貿易に協力するどころか、むしろイエスズ会はポルトガルに対して日本人を奴隷どれいとして売買するのを「やめてくれ」と呼びかけているのですね。

イエスズ会は外国のスパイどころか、ヨーロッパで弾圧だんあつもされたようです。ヨーロッパ諸国がナショナリズムを強め、王権のもとに国をまとめていこうとしたときにイエスズ会の存在がジャマになったのです。18世紀以降になると、それがひどくなってイエスズ会は弾圧されていきます。


宇喜多秀家 備前物語



1 宇喜多秀家(うきたひでいえ)の没落ぼつらく


 先週の歴史秘話ヒストリアで宇喜多秀家の事が取り上げられました。宇喜多秀家の秘話は八丈島はちじょうじまからなんと泳いで海をわたったというものw

ジョークはこれくらいにしてw宇喜多秀家は、幼少ようしょうのころから豊臣秀吉(とよとみひでよし)にかわいがられました。


豪姫ごうひめ(※1)と秀家が結婚けっこんしたのは恋ではなく秀吉の命令、つまり政略結婚せいりゃくけっこんだったそうですが、二人はまわりの人間がうらやむほどの仲が良かったそうです。

宇喜多秀家は秀吉の5大老に命じられるなど、まさに勝ち組でした。が、そんな秀家にも不幸が訪れます。

※1 前田利家(まえだとしいえ)のむすめ

 2 八丈島に流された秀家

 宇喜多秀家は罪人として八丈島はちじょうじまに流されてしまったのです。なぜ罪人になったかというとワケがあります。

それは秀家は関が原の合戦で西軍として、徳川家康(とくがわいえやす)率いる東軍と戦ったから。それで、西軍が負けてしまいました。家康に歯向はむかったばっかりに、宇喜多秀家は罪人にさせられてしまう・・・・

そんな宇喜多秀家といっしょにいたのは子供と10人くらいの家来だけ。おくさんである豪姫と別れてしまったのです。


3 子どもたちのために

 ある日、八丈島の代官の家で宇喜多秀家は白いご飯をごちそうになり、何度もおかわりをしたそうです。無理もありません。

しかも、宇喜多秀家はいただいた白いお米をフロシキに包んで家に持ち帰ったそうです。家に帰って自分が食べるためじゃありません。家で待っている子ども達にも白いお米を食わすために。

泣かせますねえ。

3 豪姫のおも

 一方、実家の前田家に帰っていた豪姫は八丈島に流されていた夫や子ども達のために食料を死ぬまで送り続けました。遠くはなれていても夫婦のキズナは切れなかったのでしょう。

しかし二人は死ぬまでおたがいに会うことは無かったというから切ない話です。この時代にインターネットや電話があればなあって自分はヒストリアをみて思わず思われました。

そんな二人の事をかわいそうに思って、今から10数年前に八丈島の人たちは秀家と豪姫がツーショットで並んだ石像をつくったそうです。

「今度生まれてくる時はいっしょになれるといいね」という願いをこめて。


※ オマケ


最後に、八丈島の映像を。八丈島には高校生の時に行きました。海もきれいで、お魚もおいしい良いところですよ。(映らなかったらごめんなさい)








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