history日誌

歴史と歌が大好きな私が日本史から世界史まで広く浅く書きます。 歴史の知識は素人レベルで、私が語る歴史の内容が真実かどうかは自信はありませんがw、楽しんでブログを書いていきます。教科書に載ってないようなマイナーな歴史の話もします。

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今日から沖縄おきなわの明治時代までの歴史を三回にわたってお話します。第一回は沖縄がまだ琉球王国りゅうきゅうおうこくと呼ばれていた時代。豊臣秀吉(とよとみひでよし)や徳川家康(とくがわいえやす)と言った権力者に翻弄ほんろうされるところのお話を始めたいと思います。


1 秀吉VS琉球王国


 琉球王国は、日本と別の国でした。中国や東南アジアとの国と貿易をして大いに栄え、平和に暮らしていました。特に中国と仲が良かったみたいです。琉球が中国に貢物みつぎものを差し出し、その見返りとして琉球が中国と交易をさせてもらうという関係ではありましたが。

その琉球の平和に暗いかげが落ちます。天下を取った豊臣秀吉が琉球に圧力をかけてきたのです。秀吉は琉球の国王である尚寧(しょうねい)に貢物として米を送るようにせまります。当時秀吉は朝鮮ちょうせんと戦争をしていたから、大量の兵糧ひょうろう(※1)が必要でした。

※1 戦争時における軍隊の食糧しょくりょうのこと。 日本においては主食である米であることが多い

2 琉球侵攻しんこう口実こうじつをあたえてしまう・・・

当然、尚寧は秀吉の要求に反発しました。が、秀吉はその後も琉球に圧力をかけ続け、とうとう琉球は「もはや、これまで」と思い、秀吉から要求された米の半分を秀吉に差し出す事になりました・・・

さらに秀吉は、島津しまづ氏に琉球の軍事的指導権をあたえました。つまり、島津氏が「戦争に行け」と言えば、琉球の人たちは戦争にいくハメになるのです。

当然、琉球の人たちは島津氏の要求を「イヤだ」といいました。しかし、このことが江戸時代になって、島津氏による琉球侵攻りゅうきゅうしんこう口実こうじつを与えてしまいます。


3 家康VS琉球王国

 秀吉が亡くなったものの、今度は家康が琉球に圧力をかけてきました。家康は考えていたのでしょう。秀吉の時代に途絶とだえていた明との国交を回復し、交易も再開するには琉球の役割が重要になる。

また、琉球を意のままに動かしたい、そのためには島津氏の仲立なかだちが必要だと家康は考えました。

琉球王国もそういった動きにだまってはいません。尚寧は中国(明)の力を借りて家康に対抗たいこうしようとしました。さらに、中国に留学をしたことがある人物を国政の最高責任者に抜擢ばってきしました。そして、家康や島津氏の提案をことごとく「NO」と言いました。

それになのが家康と島津氏でした。

琉球王国は何度も島津家に和平の交渉をしたのだが、島津家はこれを受け入れず、とうとう1611年、島津軍は沖縄島おきなわとうみました。そして尚寧をらえてしまったそうな・・




4 ヒドイ内容の起請文きそうもん
尚寧たちは島津への起請文きしょうもん(※2)を書かされます。 起請文の内容は

「琉球は昔から薩摩・島津氏さつま・しまづしの属国でした。無礼のために琉球国は破却はきゃくされましたが、島津公のおかがで、島をたまわりました。このごおんわすれられません」というもの。

自分達が攻めておいて「ご恩は忘れられません」はヒドイ話です・・・・。むしろ「よくもオレ達の領土を攻めたな!この野郎!」って言いたいところでしょうか?こんな心にもないことを書かされた尚寧(しょうねい)たちの無念さが感じられます。

※2 今で言う契約書けいやくしょみたいなもの。自分の行動を神仏にちかって守るべきことを守らなかった場合はばつを受けるみたいなことが書かれた文書。




5 琉球りゅうきゅうのその後
この起請文にただ一人、反発する人物がいました。その人物はの名前は謝名親方利山(じやなうえかたりざん)。しかし、彼は処刑しょけいされてしまいましたが・・・

それ以降、琉球王国は表向きは独立国ではありましたが、島津家の役人が琉球に居つくなど、島津家には逆らえない感じでした。

それでも、琉球は島津に気をつかいながらも、中国とは相変あいかわらず仲良しだったそうな(悪く言えば板ばさみ)。そうした関係は明治代まで続きました。また、次回、明治維新以降の近代の歴史を取り上げます。

http://blog.livedoor.jp/seimei1128-rekishi/archives/1459517.html

※ おまけ
沖縄にリザンシーパークホテルという大きなホテルがあるそうですね。このホテルの名前は、謝名親方利山(じやなうえかたりざん)の名にちなんでいるそうです。沖縄では彼は英雄えいゆうなのですね。




※ 参考文献





http://blog.livedoor.jp/seimei1128-rekishi/archives/1517305.html

http://blog.livedoor.jp/seimei1128-rekishi/archives/1519099.html

これまで2回(↑)にわたって諏訪湖すわこの女工さんの話をしてきたけれど、今日で三回目です。今日でとりあえず諏訪湖の女工さんの話はいったん中断します。今日の内容は、諏訪湖の女工の問題が現代にも通じるのではないか?そんな問題提起をしたいと思います。



1 勝ち組の女工さん


 製糸の作業は細かい作業なので向き不向きも当然ありました。今の日本と同じく、明治・大正当時の女工の間でも勝ち組、負け組がいたみたいです。

器用で糸引きが向いていた女工さんは仕事でさほど苦労することなく、いっぱい給料ももらえた上に、表彰ひょうしょうまでされました。なかには田んぼや家を買った女工もいるというからすごいですよね。30年ローン組んで家を買った人から見ればなんともうらやましい限りの話です。

しかも優秀ゆうしゅうな女工さんはアチコチの工場で引く手あまただったそうです。

2 気の毒なのは糸引きが向いていない女工さん

一方、気の毒なのは糸引きが向いていない人。不器用で仕事も失敗ばかり。だから検番から年中どやされました。しかも失敗をすれば罰金ばっきんとして給料からひかれてしまい、年末にはサイフもスッカラカンで故郷に帰れなかった女工さんもいたとか。

新人教育もしていたある女工さんはこうつぶやいております。


「ワシは長年糸ひきをしてみて感じることだが、まず十人のうち本当にいいのは二人か三人で、次に、本人の熱心と努力でまあまあ何とか糸をひけるというものが、三、四人、しかし残りの二、三人というものはいくら教えてもおこってもたたいても、この人たちは糸ひきに向かない人です。怒るほうがだいたいムリです。」


『あゝ野麦峠』(山本茂美) p125より



「2-6-2の法則」(※1)というものを聞いたことがありますが、この女工さんのお話もそれに近いですね。

それから、いくら器用な女工さんでも体が弱い人は、ムリがたたってそのまま死んでしまったそうです・・・

※1 人間が集団を構成すると、 『優秀な人が2割、普通の人が6割、パッとしない人が2割』という構成になりやすいという法則。

3 製糸業も慈善事業じぜんじぎょうではないから
 当時の日本は西洋諸国に追いつけ、追いせという状況じょうきょうでした。資源の少ない日本が外国と張り合う為ためには無理も止むを得なかったのでしょう。企業きぎょう慈善事業じぜんじぎょうでもないから、もうけなくてはつぶれてしまう。まさに食うか食われるかの世界です。

それに生糸は相場の変動が激しく不安定で、もうかる時は儲かるのだが、損をするときは大損をします。だから、製糸業を廃業そうぎょうする会社も少なくなかったそうです。

女工さん達も大変でしたが、企業きぎょうにとっても大変だったのでしょう。

4 現代にも通じる問題
 製糸工場の社長達は社員を低賃金(あるいは無償むしょう)でこき使い自分だけゼイタクをしていた訳ではありません。

朝は女工さん達よりも早く起き、工場の動力である水車がこわれれば、自ら川に飛び込んで水車を修理したり、かまに火をたいたりしたそうです。現場監督げんばかんとくである検番たちはえばってばかりだが、社長はちがっていたみたいです。

人の上に立つような人物は違うのでしょう。(例外もいるがw)

今日の豊かな日本があるのは女工さん達が頑張がんばってくれたおかげでもあると思う半面、その一方で女工さん達の犠牲ぎせいがあった事、それから派遣はけん切りや過労死かろうし(ブラック会社)の問題など今にも通じる様々な問題がある事を考えさせられます。

※ おまけ
野麦峠についてバスガイドさんが語られている動画です。




※ 参考文献

あゝ野麦峠―ある製糸工女哀史 (角川文庫)
あゝ野麦峠―ある製糸工女哀史 (角川文庫)
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今日の東京の夜はすずしい。今夜はゆっくりねむれそうですw

さて、前回の続き。再び女工のお話。今日は工場のお話ではなく野麦峠越のむぎとうげごえの悲劇について。

製糸工場は正月になると休みになります。女工さん達は故郷に帰れるとウキウキするのですが、しかし信州の冬の厳しさは相当なもの。特に飛騨ひだ出身の女工さん達は野麦峠というけわしいとうげえなくてはなりません。それはレミオロメンの「粉雪」に出てくるようなロマンチックな風景ではありません。

ぴゅーぴゅーとやいばの様なするどこおった風、そこを歩いた人間がたちまち雪だるまになるほどの激しい雪。あたりは猛吹雪もうふぶきで視界が悪い。壮絶そうぜつな風景です。

明治時代はパンツもなかったから、女工さん達の腰巻はらまきのすそは凍ってガラスの破片のようになり、女のモモは切れて血が流れ、ワラジをいくら取り替えてもたびは凍り、足は凍傷にふくれ、宿についてもすぐ火にあたることはできなかったそうです。凍死とうしする女工さんも、雪の谷底に落ちる女工さんだっていました。また、妊娠にんしんしている女工さんは寒さのあまりに流産りゅうざんしてしまったとか・・・

一応運び屋と呼ばれる男性(体が弱い女工さんをおぶったりする男性)やお助け茶屋などの休息所や宿屋も峠にあったのですが、それでも女工さん達には冬の峠越えは厳しい。ましてや外灯も舗装道路ほそうどうろもなかった時代だからなおさら大変でした。

政井みねという女工さんは「ああ飛騨が見える」と言って、兄におんぶをされたまま、この峠で亡くなったそうです・・・

いま野麦峠には、「冬の野麦峠を歩いた女工達の事を忘れないでおくれ」と現代の私達に語りかけるように、政井(まさい)みねの像が建っています。

我々現代人は故郷に帰るなんて、さほど難しいことではありません。交通も便利になりましたし。事故さえ気をつければ、命がけの帰郷ききょうなんて無いと思います。しかし、本当に命がけで故郷に帰るような時代があったのです・・・

Nomugi_Pass_Masai_Mine_and_Masai_Tatsujiro_statue

(この画像の出典はウィキペディアです)


http://blog.livedoor.jp/seimei1128-rekishi/archives/1520131.html
(次回の記事)


※ おまけ


野麦峠の動画をご紹介しょうかいします。今でこそ野麦峠はスキーの名所ではありますが、かつては女工さん達の悲劇の現場であった事をご理解いただければと思います。






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