history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

今の東久留米の駅の辺りから、西東京市への谷戸にあった中島航空金属田無製造所まで引込み線があったそうです。

その引きこみ線のあとが今も残っております。

東久留米市ひがしくるめしに落合川という川が流れています。


(落合川)

その落合川に大きな橋がありました。この橋の上を中島航空金属専属の列車が走っていたそうです。

その橋の鏡台(きょうだい)のあとが今も残っています。



(鏡台のあと


(引きこみ線のあと。何となく列車が走っていたような雰囲気が感じられます)

引込み線は、谷戸のほうまで延びていて今も引きこみ線の跡が残っております。引きこみ線のあとは散歩道のようになっております。


(引きこみ線のあと

西東京市は中島の航空金属田無製造所など中島の関連工場や、下うけ工場もこの辺りにあったせいか、空しゅうもありました。

西東京市はもちろん、その爆弾ばくだんの一つが(西東京市のおとなりの)東久留米市にある浄牧院(じょうぼくいん)にも落ちました。お寺の境内けいだいには爆撃ばくげきのモニュメントがあります。





(爆弾型のモニュメント)


(浄牧院)





東久留米方面だけでなく、谷戸やとより南側にある柳沢やぎさわ方面にも引込み線の名残が残っています。

武蔵製作所から中島航空金属田無製作所の間を走っていた簡易かんい鉄道は、このガードの下をくぐっていたようです。↓



(西武新宿線の西武柳沢ー田無間のガード。)




※ オマケ
かつての引きこみ線をたどった動画をどうぞ。



※ 参考文献

戦争の記憶を武蔵野にたずねて 増補版
戦争の記憶を武蔵野にたずねて 増補版

1 三鷹研究所みたかけんきゅうじょとは

今のJR武蔵境の南方に三鷹研究所みたかけんきゅうじょがありました。三鷹研究所みたかけんきゅうじょとは中島飛行機の関連施設で、陸海軍の軍用機研究の開発のため、さらに政治・経済をもふくむ総合的な研究所でした。

この研究所では、アメリカ本土を爆撃ばくげきするための超大型爆撃機「富嶽(ふがく)」のエンジン開発なども行われました。しかし、富嶽(ふがく)は日の目を見る事もないまま、終戦をむかえます。三鷹研究所みたかけんきゅうじょのあと地はICU(国際基督教大学こくさいきりすときょうだいがく)になっております。

三鷹研究所みたかけんきゅうじょの建物は、大学本館として使われているようです。もっとも、建物も増築され内部も大改造されましたが。

ICUは大学なので、ここの学生さんでもない限り、やたらと入ることはできません。秋に学園祭があるので、その時に入るといいかもしれません。僕も昨年、学園祭の時にICUの中を見学しました。大学と言う事もあるのですが、中はかなり広いです。三鷹研究所みたかけんきゅうじょはこんなに広かったのかと感心してしまいました。



(ICUのPV。大体、大学はこのような雰囲気ふんいきです)

2 泰山荘と中島知久平
 また、ICUの校内に、泰山荘たいざんそうという離れ屋敷はなれやしきがあります。この、泰山荘たいざんそうに中島飛行機の創設者・中島知久平で暮らしていたそうです。

もともと、泰山荘たいざんそうは「日本産業」(のちの「日産」「日立」もここから分岐)という企業の重役だった山田敬亮(けいすけ)が建築したものです。それが、三鷹研究所建設時に、この別荘も中島飛行機に買収されたようです。

あいにく、泰山荘たいざんそうの写真が手元にはないのですが、純和風の建物です。ICUの公式サイトにちょっとだけ泰山荘の写真がのっております。



3 晩年の知久平
 晩年の中島知久平は高血圧になやまされたそうです。戦後、中島知久平はGHQからA級戦犯容疑者に指定されてしまいます。しかし、高血圧ということで、巣鴨すがもプリズンには連行されず、自宅拘禁じたくこうきん(※1)となり、、泰山荘たいざんそうで暮らしていたそうです。

戦後も間もないころは、飛行機の生産や研究が禁止されてしまいます。途方とほうに暮れた中島飛行機のエンジニア達は泰山荘に訪れると、中島知久平はブルーになっていませんでした。それどころか、将来アメリカとソ連の戦いが始まるだろうと予測しました。

さらに知久平は「アメリカは日本に武器の注文をしてくる。そうなれば景気も回復し、必ず日本の航空機産業も復活するから、それまで技術力を落とさぬようにつとめよ」と葉っぱじゃかなったw発破はっぱをかけたそうです。中島の予測は朝鮮戦争ちょうせんせんそうあたりから現実のものとなります。改めて中島知久平の見識におどろかされます。

また、知久平は娘夫婦も泰山荘に住まわせ、娘夫婦の間に生まれた孫をかわいがっていたようです。

1949年10月、ある政治家が泰山荘に訪れ、昔話など色々と話をしたそうです。その政治家との話が終ってから、知久平は急にたおれ、脳内出血のうないしゅっけつで亡くなりました。66才でした・・・

※1 拘禁(こうきん)とは1 人を捕らえて、一定の場所に閉じ込めておくこと。この場合は自宅に閉じ込めること。

※ 参考文献





1 田無試運転工場と、中島航空金属
 昭和の初めころ、中島の荻窪製作所おぎくぼせいさくじょ(現・杉並区桃井)で製造された試運転場として東京都西東京市の谷戸やとに工場が作られました。これが後の田無試運転工場たなししうんてんこうじょうです。

ここでエンジンのテストがされたそうですが、この運転工場からきこえてくる騒音そうおんに、地元の住民達から苦情がでたとか。それで、試運転場は「谷戸のブウブウ」という有難くないあだ名が付けられました。

田無試運転工場のあと地には今は中小企業の建物などが建っています。

1938年(昭和13年)、中島飛行機は、その試運転場の南側に工場を造りました。田無鋳鍛工場たなしちゅうたんこうじょうと呼ばれましたが、のちに中島航空金属株式会社なかじまこうくうきんぞくかぶしきがいしゃとなりました。中島航空金属のあと地は今は住友重機械工業製造所になっています。




工員数は、開設した当初は五千名で、その後大きくなって1万6千名に達したといわれています。けっこう大きな工場だったのですね。どんなモノを造っていたかと言うと、エンジンの部品であるシリンダーとかシリンダーケースなどを作っていたそうです。職場の中はとても熱くて、工員達は職場で気を失わないよう塩をなめながら作業をしていたそうです。


2 意外に小さかった空しゅうの被害
 中島航空金属の工場があった西東京市の谷戸あたりでも、空しゅうがありました。しかし、意外にも工場そのものは被害ひがいを受けなかったそうです。

武蔵野市にあった武蔵製作所は空襲の被害をすごく受けたのと対照的です。

しかし、空襲警報が出るたびに工場の人は作業を中断してしまいます。この谷戸あたりを連合国軍側が空しゅうを行ったのは、工場をつぶすためと言うよりも、生産ラインをくるわせるためだとも言われています。

3 田無病院
 住友重機械工業製造所の道路をはさんで向かいに、田無病院があります。西東京市の中ではわりと大きい病院で、漢方による治療ちりょうなどもおこなっています。この病院の前身は中島航空金属の附属ふぞく病院だそうです。


(田無病院)


※ 参考文献

戦争の記憶を武蔵野にたずねて 増補版
戦争の記憶を武蔵野にたずねて 増補版

武蔵野の浄水所じょうすいじょ玉川上水たまがわじょうすいあたりから、武蔵野中央公園までにかけて、グリーンパーク遊歩道ゆうほどうという道が通っています。散歩道として、あるいはマラソンコースとして、市民のいこいの場となっております。



(地図で言うと緑色にぬられている細い道)

この遊歩道ゆうほどうは、かつては中島飛行機武蔵製作所への引きこみ線だったのです。

引きこみ線とは、工場・市場など,特定の場所に引き入れた鉄道線路のことです。

かつて、この遊歩道には武蔵製作所へ向かう鉄道が走っていたのですね。


(引きこみ線の説明板)



(浄水所)


(玉川上水)


(グリーンパーク遊歩道)


(グリーンパーク遊歩道)


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(遊歩道の途中で見かけた池)


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(高射砲の跡)



(高射砲の跡地)


(高射砲の跡地にある説明板)


(高射砲の説明板)


また、このグリーンパーク遊歩道には、かつて高射砲こうしゃほうもありました。

空しゅうから工場を守るために造られたものでしょう。

こうした高射砲こうしゃほうは中島飛行機の工場のまわりにいくつもあったそうです。

しかし、この高射砲こうしゃほうがボーン、ボーンと攻撃をしても、敵機に命中することはめったになかったそうです。

※ おまけ
高射砲こうしゃほうの動画をどうぞ。たぶん日本のじゃないと思いますが、大戦中の高射砲こうしゃほうがどのようなものかを知る上では参考になる動画ではないかと。



(高射砲の動画。

今の武蔵野市八幡町むさしのしやはたちょうから緑町みどりちょうにかけて、中島飛行機武蔵製作所なかじまひこうきむさしのせいさくじょという大きな工場がありました。武蔵製作所のあと地には武蔵野中央公園や市役所、マクドナルド、高齢者施設こうれいしゃしせつ、富士重工業の社宅にアパートなどが建っています。


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(現代の地図。かつての武蔵製作所のあったところを線で囲っております。)

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(武蔵製作所の航空写真)


武蔵製作所は、「武蔵野製作所むさしのせいさくじょ」と「多摩製作所たませいさくじょ」が合併して出来たものです。「武蔵野製作所」は1938年に開設されたもので、陸軍のために中島飛行機がつくった工場でした。しかし、陸軍と海軍は仲がわるく、「オレたちにも工場を作れ!」と中島飛行機にいいました。そうして出来たのが「多摩製作所たませいさくじょ」です。


多摩製作所たませいさくじょは1941年に開設されました。多摩製作所たませいさくじょは武蔵野製作所のおとなりにありました。ちなみに、合併がっぺい後は、元の武蔵野製作所は東工場、多摩製作所は西工場とよばれました。多摩製作所こと西工場のあと地が、いまの武蔵野中央公園です。

武蔵野中央公園はかなり大きな公園で、ここに大きな工場があって、しかも空しゅうがあったとは思えないようなのどかな風景です。公園の西側には、かつて武蔵製作所のエントツが残っていたのですが、今ではなくなり、ここが中島の工場跡だという名残は残っていません。ここが中島の工場のあと地だという証拠しょうこは、公園の入口にある案内板のみです。

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(武蔵野中央公園)


(中央公園にある案内板)

「武蔵野製作所」と「多摩製作所」は、おたがいにかべで仕切られ、おたがいに連らくもしていません。なんと非合理でしょう。よく、日本の組織ではセクショナリズム(※1)が批判されていますが、この当時の日本もそうだったのですね・・・

しかし、戦局も悪化し、「アメリカに勝つには、いつまでも海軍、陸軍がいがみ合ってはいけない」という空気が広がり、軍需生産ぐんじゅせいさん(※2)をぐんと高めようとして軍需省ぐんじゅしょうという省庁が創設されました。そして増産への障害しょうがいを取りのぞくことを目的に「行政査察」が実施じっしされました。中島の武蔵野・多摩両工場にも査察されました。

「工場が二つに分かれて効率が悪い、カイゼンせよ」という上からの求めのもと、両工場は合併がっぺい。多摩製作所が誕生しました。それは1943年11月の事でした。


しかし、そうしてできた工場も空襲の被害にあい、工場の中はめちゃくりゃになり、工場で働いていた人たちも犠牲になりました。この多摩製作所だけでなく、周辺も空襲の被害にあいました。空襲で亡くなれた方もたくさんおりました。

僕の親せきのおばあちゃん(従妹の祖母)も旧保谷市(現西東京市)に住んでおりました。旧保谷市といえば、旧多摩製作所から位置的にとても近いです。さらに旧保谷市のとなりにあった旧田無市(現西東京市 ※3)にも、中島の関連工場がありました。そのためB29の空しゅうを目の当たりに見たそうです。そこで親せきのおばあちゃんはB29が墜落ついらくするように神仏にお願いしたとか。

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(空しゅうの被害にあった工場)







※1 集団・組織内部の各部署がおたがいに協力しあうことなく、自分たちが保持する権限や利害にこだわり、外からの干渉かんしょうをきらい、自分たちのからに閉じこもってしまうこと。
※2 軍隊で使われるものを製造したり販売したりする産業のこと。

※3 旧保谷市も旧田無も合併して西東京市になった


※ おまけ

武蔵野市の動画をどうぞ。中島飛行機で働いていた人たちの貴重な証言もあります。

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