history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

今日は、川島芳子(かわしまよしこ)が川島浪速(かわしまなにわ)の養女になり、日本に来るまでのお話をします。芳子が生まれたのは1907年。それで、日本にはじめてきたのが芳子が7〜8才のころだそうです(1915年)。

川島芳子の父親は粛親王善耆(しゅくしんのうぜんき)。彼は日本の明治維新めいじいしんを高く評価し、親日派と言われています。

その一方で清朝復活を夢見ていて、その夢をむすめにたくそうとしていました。粛親王善耆は日本人の川島浪速と出会います。川島浪速は、信州出身の大陸浪人(※1)で満蒙独立(※1)を願っておりました。

粛親王(しゅくしんのう)は川島浪速と仲良なかよくなり、川島浪速の元へ芳子を養女として送り込みました。浪速は子どもがいなかったので、たいそうよろこんだといいます。

粛親王がこのようなことをしたのは、芳子を日本で教育をさせ、日本と中国のけ橋になってもらいたくて養女に出したのだと思われます。

芳子は生まれながらにして清王朝再建という重責じゅうせきを背負わされていたのです。

なんとしても清朝を再建させたいと願う親父の気持ちもわかりますが、小さくても幸せな人生を娘にさせてあげればいいのにと思ってしまいました。

芳子は、わずか7才で住みなれた中国の地をはなれ、見ず知らずの日本へ行くハメになりました。

大の大人だって住みれた土地から離れるのはさびしいのに、ましてやおさない芳子にとっては本当につらい事だと思われます。芳子にとってもつらいことですが、芳子の母親もホントにつらかったと思います。

そうして芳子は日本での暮らしが始まったのですが、あるおばさんが、まだ幼い芳子に「あなたのお国はどちら?中国かしら、日本かしら」という質問をしたそうです。このおばさんは川島浪速の秘書ひしょであるAという人物の奥さんです。何気ない会話ですが、心なしか人種差別をしているような、そんな悪意さえも感じられます。

その時、芳子は少し考えて「お母様のおなかの中」と発言しました。

その芳子の返答に、おばさんは「利発りはつな子だ」と感心したそうです。でも、僕は「おなかの中」としか答えられない芳子が気のどくでなりません。中国人と日本人の間を生きる人間の苦しさも感じられました。



※1  日本の大陸進出にかかわった民間活動家をいう。中国大陸を活動の舞台ぶたいとし,日韓併合にっかんへいごう満州国建設まんしゅうこくけんせつには,その政治の裏舞台うらぶたいで一定の役割を果した

※2 辛亥革命しんがいかくめい期から日本が満州やモンゴルを中国の主権を無視し,勢力圏せいりょくけんとすることをはかった運動。軍部が中心となり,この地における日本の特殊権益とくしゅけんえき確保かくほすることを目的として行われた。


※ おまけ
長野県松本市のシンボル、松本城の動画を。



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川島芳子 生死の謎―長春での生存説調査記録
川島芳子 生死の謎―長春での生存説調査記録 [単行本]


今日のテーマは「川島芳子(かわしまよしこ)は生きていた?」

1 テレ朝の特集をみて

 前にテレ朝で「川島芳子は生きている」という特集をやっていました。川島芳子といえば、清朝復活を夢みるが、日本軍にさんざん利用されて、終戦後は中国政府によって処刑しょけいされてしまうかわいそうな人です。

日本では彼女の事をかわいそうに思う人もいますが(かくいう自分もその一人)、中国では彼女の事を中国を裏切った悪人とされているそうですね。

もっとも、川島芳子がホントに生きていたとしたら、新聞やニュースで大きく取り上げられるはずだから、川島芳子の生存説はウヤムヤのまま番組は終わるなと思っていました。で、僕は番組を最後までみていたのですが、けっきょく決定的な証拠しょうこがないまま番組は終わってしまいました。

2 川島芳子そっくりのおばあちゃん

 川島芳子にそっくりなおばあちゃんにかわいがってもらった女性が番組に出てきて、彼女がそのおばあちゃんから「君が代」を教えてもらったり、亡くなるときに李香蘭(りこうらん)に会いに行けといわれたことも取り上げられました。

そのおばあちゃんの遺品いひんも李香蘭(川島芳子の親友)のブロマイドやら日本語で書かれた本、日本海軍が使っていた蓄音機ちくおんき(※1)、そして川島芳子の本名のイニシャルがついている双眼鏡そうがんきょうなど、ただの中国のパンピー(古いいい方だねw)じゃなかったw、一般いっぱんピープルが持っているような品物ではなかったようです。

また、中国国民党政府が行った漢奸かんかん(※2)処刑しょけいは一般公開されるのがふつうなのですが、川島芳子の処刑しょけいだけは非公開。

さらに、処刑された女性は顔がだれだかわからないくらいムチャクチャにじゅうたれていたそうです。

川島芳子が金を役人にわたしてげのび、処刑されたのは替え玉の女性だったというウワサもあるそうです。え玉といいましてもラーメンの替え玉のことではありませんからねw

だからとってそのおばあちゃんが川島芳子だという決定的証拠けっていてきしょうこにはなりえません。

おばあちゃんの話をした女性がウソをついている可能性もあるし、そのおばあちゃんがたまたま日本海軍の蓄音機ちくおんきを持っていただけかもしれませんし。



※1 大昔のレコードプレーヤーの前身。いまでいうCDプレーヤーみたいなもの。ちなみに蓄音機とはこういうもの。




※2 中国人を裏切った罪

3 人々の心の中で生きる川島芳子

 川島芳子が史実どおりころされたとしても、こうして彼女の事が21世紀の今も語られて、ドラマ化も何度もされるということは、ある意味で彼女は21世紀の今も生きているといえるかもしれません?

人々の心の中で川島芳子は生き続けているのでしょう。

※ オマケ 

もしよろしければ、アンケートのご協力をお願い致します。今回のテーマは「川島芳子生存説」です。




日帝時代、わが家は

以前に韓国かんこくの女性英文学者である羅英均(ナ・ヨンギュン)氏の父親と叔母おばの(主に父親)生涯しょうがいをつづった本を読んだことがあります。韓国が日本の植民地だった時代から朝鮮戦争ちょうせんせんそうまでの歴史を筆者の一家の視点を通してえがかれています。

筆者は、屈辱的くつじょくてきともいえる日韓併合にっかんへいごうの歴史は、今日の自分達の否定ひていできない一部分を形作っていると述べています。韓国の歴史を語る上で、日本の植民地時代は良い面も悪い面もふくめて欠かせないという事なのでしょう。

この本で語られている筆者の父親はなんと14さいのときに無理やり結婚けっこんさせられて、その束縛そくばくからげるように日本に留学して、大杉栄(おおすぎさかえ)に出会い社会主義に目覚め、三・一運動にも参加しました。が、彼は教条的きょうじょうてきなマルキストにはなれなかったのです。それでも、韓国の現状をなげき、韓国の明るい未来を築くための情熱は後年まで変わらなかったそうです。

当時の韓国は日本の植民地であったが日本人の迫害はくがいのみならず、中国人の略奪りゃくだつや暴力、ロシア人の横暴おうぼうと無法地帯だったそうです。韓国の地をらしたのは日本だけではなかったとは知らなかった。

筆者の父親は「わたしたち朝鮮人は不幸を経験するたびに他人をうらみ、状況じょうきょうのせいにしてきた。このことはほとんどわたしたちの悪いクセだ。朝鮮人ちょうせんじんが貧しくなったのは、日本人や中国人よりも朝鮮人自身にもっと大きな責任がある」と考えたそうです。

筆者の父親は反日主義者でありましたが、日本や日本人に対してむやみに非難するような人ではなかったそうです。日本の良いところは良いと認めていた。そんな父親に育てられた筆者だからこそ、日本の統治時代を冷静に語ることが出来るのでしょう。例えば、彼女の担任だった日本人の先生は、民族差別を全くしない人もいれば、韓国人を偏見へんけんの目で見ている先生もいたと語る具合に。日本人を侵略者しんりゃくしゃという目で相手をみないで、血の通った人間として見るべきだという考え方が筆者の羅英均さんにあるのでしょう。

* この記事は2007年ごろに書いたものを加筆修正したものです。

3月11日は東日本大地震が起きました。亡くなられた方にはおやみの言葉を申し上げます。テレビで見たのですが、自然の力は本当におそろしいと思われました。道路がこうもグニャグニャに曲がるのかと思いました。津波つなみもおそろしいと思いました。人間が自然に打ち勝つことはムリなのだろうなって改めて思いました。

2011年3月11日は東京でも大きなれがありました。余震よしんも何度か続きました。あの地震じしん以来、自分は本当に神経質になりました・・・風でマドがカタカタいっただけで「あ、また地震か?」なんて思うようになりまして・・・・

東北だけでなく、中国やニュージーランドなど世界各地で大きな地震が起きました。東京に住んでいる僕にとっても決して他人事ひとごとだとは思えませんでした。

大阪のJR環状線かんじょうせん大正駅たいしょうえきの近く、木津川きづがわにかかる大正橋に石碑せきひがたっています。その石碑には安政南海地震あんせいなんかいじしんの際の犠牲者ぎせいしゃをとむらうために建てられたものです。

その石碑には地震が来たときの教訓も書かれているそうです。安政南海地震の時は山の様なでっかい津波つなみおそい、大坂(※2)の町も被害ひがいを受けたそうです。

そこには「大地震が起こったときは、いつも津波がくると思って、絶対に船に乗ってはいけない」、「家がくずれて、火災も発生するだろう。お金や証文しょうもんなどはくらに保管し、戸じまりを厳重げんじゅうにし、火の用心が肝心かんじん」なども書かれているそうです。

自分達の住んでいる地域の歴史を学ぶのも地震対策になるんだなって思いました。

※2 大阪のことを昔は「大坂」と表した。


※ オマケ

これまで日本で起きた地震を1300年分り返るという動画を見つけました。日本はいかに地震が多いかがうかがえます。

なお、この動画を見ていると古い時代ほど地震が少ないように感じられますが、,それは古代は地震の記録がちゃんと残っていなかったためです。近代になるほど多くなるのは、きちんと記録をしているからであって、近代になって地震が増えたわけではないのです。





(今回の記事は2011年3月25日に書いたものを加筆修正しました)

※ 参考文献


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(直江兼続のヨロイの写真。ウィキペディアより)


直江兼続(なおえかねつぐ)といって連想されるのは、ヨロイカブトのでっかい「愛」の字です。この「愛」は民を愛する「愛民の精神」の「愛」を意味するのでしょうか?

それは直江兼続本人に聞いて見なきゃわかりませんがw、どうもこの「愛」の字は「愛民」の愛というよりも、軍神である愛宕権現あたごごんげんあるいは愛染明王あいぜんみょうおうの一字から取った可能性が大きいそうですね。

なにしろ戦国時代ですからねえ。戦国武将は、カブトの前立てに神仏の像や神号・仏号を用いた例が多いそうです。戦に勝つためのゲンかつぎorお守りみたいなものでしょうか?

といっても、直江兼続が血もナミダも無い人物だったわけじゃありません。直江兼続は米沢よねざわにてよい政治をおこなったそうですね。暮らしむきの安定と生産性の向上を図る治水事業も行いました。武士達には、っ立て小屋に住まわせながら荒地あれちを開いてソバや豆を植え、野菜をつくるという生活を直江兼続はすすめました。

また、直江兼続は米沢の地にウコギを持ちこんだ人物で知られています。

ウコギの葉はかわかせば茶の代用になり、その根を乾かしてせんじれば薬となり、みきにはするどいトゲがあるからドロボーよけにもなるという便利な植物です。

そのウコギを武士の家々の垣根かきねにウコギを植えさせる事をすすめました。

さらに武士の屋敷の庭にはクリ、かき、あんず、イチジクなども植えさせました。他にも染料せんりょうとなるベニバナなどの栽培さいばいもすすめました。

直江兼続は文化人でもありました。豊臣秀吉(とよとみひでよし)の朝鮮出兵ちょうせんしゅっぺいの際には多くの本を集めたり、印刷技術も朝鮮ちょうせんから持ち込んだそうです。

直江兼続は米沢に禅林寺ぜんりんじ宝泉寺ほうせんじ)というお寺もつくりました。そのお寺に禅林文庫ぜんりんぶんこというものをつくりました。

そこには直江兼続が集めた本がいくつもあります。禅林文庫は藩士はんしの教育に役立てるためにつくったものですが、これが後の藩校はんこう興譲館こうじょうかん」設立にもつながったそうですね。他にも直江兼続は連歌れんかや漢詩にも通じていたようですね。


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(ウコギの写真。ウィキペディアより)






※ 写真はウィキペディアより引用しました。 
※参考文献


直江兼続のすべて



直江兼続の生涯―義に生きた天下の智将 (別冊歴史読本 23)

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