history日誌

歴史と歌が大好きな私が日本史から世界史まで広く浅く書きます。 歴史の知識は素人レベルで、私が語る歴史の内容が真実かどうかは自信はありませんがw、楽しんでブログを書いていきます。教科書に載ってないようなマイナーな歴史の話もします。


宇喜多秀家 備前物語



1 宇喜多秀家(うきたひでいえ)の没落ぼつらく


 先週の歴史秘話ヒストリアで宇喜多秀家の事が取り上げられました。宇喜多秀家の秘話は八丈島はちじょうじまからなんと泳いで海をわたったというものw

ジョークはこれくらいにしてw宇喜多秀家は、幼少ようしょうのころから豊臣秀吉(とよとみひでよし)にかわいがられました。


豪姫ごうひめ(※1)と秀家が結婚けっこんしたのは恋ではなく秀吉の命令、つまり政略結婚せいりゃくけっこんだったそうですが、二人はまわりの人間がうらやむほどの仲が良かったそうです。

宇喜多秀家は秀吉の5大老に命じられるなど、まさに勝ち組でした。が、そんな秀家にも不幸が訪れます。

※1 前田利家(まえだとしいえ)のむすめ

 2 八丈島に流された秀家

 宇喜多秀家は罪人として八丈島はちじょうじまに流されてしまったのです。なぜ罪人になったかというとワケがあります。

それは秀家は関が原の合戦で西軍として、徳川家康(とくがわいえやす)率いる東軍と戦ったから。それで、西軍が負けてしまいました。家康に歯向はむかったばっかりに、宇喜多秀家は罪人にさせられてしまう・・・・

そんな宇喜多秀家といっしょにいたのは子供と10人くらいの家来だけ。おくさんである豪姫と別れてしまったのです。


3 子どもたちのために

 ある日、八丈島の代官の家で宇喜多秀家は白いご飯をごちそうになり、何度もおかわりをしたそうです。無理もありません。

しかも、宇喜多秀家はいただいた白いお米をフロシキに包んで家に持ち帰ったそうです。家に帰って自分が食べるためじゃありません。家で待っている子ども達にも白いお米を食わすために。

泣かせますねえ。

3 豪姫のおも

 一方、実家の前田家に帰っていた豪姫は八丈島に流されていた夫や子ども達のために食料を死ぬまで送り続けました。遠くはなれていても夫婦のキズナは切れなかったのでしょう。

しかし二人は死ぬまでおたがいに会うことは無かったというから切ない話です。この時代にインターネットや電話があればなあって自分はヒストリアをみて思わず思われました。

そんな二人の事をかわいそうに思って、今から10数年前に八丈島の人たちは秀家と豪姫がツーショットで並んだ石像をつくったそうです。

「今度生まれてくる時はいっしょになれるといいね」という願いをこめて。


※ オマケ


最後に、八丈島の映像を。八丈島には高校生の時に行きました。海もきれいで、お魚もおいしい良いところですよ。(映らなかったらごめんなさい)








昨日は成人式でしたね。ハンカチ王子も成人になりました。僕も昨日は成人式でした。2度目のね(笑)

僕からの新成人へ送る言葉は、

「これからは堂々とお酒が飲めますね」(笑)

今日は、北宋の時代に活躍した政治家の王安石(おうあんせき)のライバル、司馬光(しばこう)の少年時代の逸話を。

司馬光はとても頭の切れる人でしたが、すでに子どものころから才能があったようです。

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※ この記事はウィキペディアとラジオ中国語講座のテキストを参考にして書きました。



1 劉慶邦(リュウ・チンバン)さんのインタビューより

 以前に、ラジオ中国語講座の応用編で『信』(手紙)という小説を題材にして学習をしておりました。この小説の作者は劉慶邦(リュウ・チンバン)さん。

彼は1951年に河南省沈丘(かなんしょうしんきゅう)の農村に生まれ、農民として炭鉱労働者として働いた後、記者・編集者などをやって、そして小説家になったです。

そして、中国語講座のテキストのコラムに劉慶邦さんのインタビューについてふれられていました。

2 木の皮や草まで食べた
 その劉慶邦さんがあるインタビューで木の皮や雑草まで食べてえをしのいだと語りました。賞味期限しょうみきげん切れのコンビニ弁当が山のように捨てられるような今の日本では想像もつきません。それくらいきびしく悲さんな生活を劉慶邦さんはされたのでしょう。

劉慶邦さんがまだ子どものころの中国、だいたい1959年から1961年にかけて、大躍進政策(だいやくしんせいさく)が行われました。

3 失敗しっぱいだった大躍進政策
 大躍進政策とは、アメリカやイギリスに追いつけ、追いこせとばかりに農業や工業の生産力を大幅おおはばにアップさせましょうというものです。

しかし、当時の指導者だった毛沢東(もう・たくとう)が中心になって行われたその政策(計画経済)はムチャクチャなものでした。経済はかえって混乱し、天災もかさなって多数の餓死者がししゃを出したそうです。金正日と同じようなことを毛沢東らはやってきたのでしょう。

餓死した数はおよそ2000万人〜5千万人といわれていますが、はっきりした数字はわかりません。でも、少なくともヒトラーが行ったホロコーストの犠牲者ぎせいしゃ数をはるかに上回るといわれております。

この大躍進政策の失敗の責任を取って毛沢東は失脚しっきゃくしてしまいます。しかし、毛沢東は権力の座をねらっていました。やがて文化大革命(ぶんかだいかくめい)とよばれる混乱の最中に毛沢東は再び表舞台おもてぶだいに現れるのです。


4 評価が分かれる毛沢東

 大躍進政策そして文化大革命などの失態しったいのため、中国では毛沢東は評価は人によって分かれます。英雄だとあがめている人もいる一方で、父のように厳しい人、あるいはおにのような人だとおそれられています。

映画監督の陳凱歌(チェン・カイコー)さんのように、毛沢東をきらっている人も少なくありません。

一方、周恩来(しゅう・おんらい)は母のようにやさしい人だと中国人から尊敬されているそうですね。

学校の歴史の授業などではヒトラーのホロコーストはふれられていましたが、大躍進運動については全くというほどふれられません。そのせいもあってか、僕が大躍進運動のことを知ったのはわりと最近のことです。









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