history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

(この記事はウィキペディアを参考にして書きました。また2022年7月8日に加筆修正しました)


1 曽我兄弟の仇討ちとは
 
 日本で仇討あだうちといえば、大石内蔵助オオイシクラノスケ他、赤穂浪士アコウロウシの討ち入りが有名ですね。、吉良邸キラテイに討ち入りにいく前に、お参りしたお墓があります。そのお墓にに眠っているのが、曽我兄弟そがきょうだいです。兄弟は実の父のカタキを取ったです。彼らの壮絶な人生は、のちに『曽我物語』に書き残され、歌舞伎や能でも取り上げれられ、曽我兄弟の仇討アダウちは多くの人に知られるようになりました。曽我兄弟の仇討ちは武家社会において、仇討ちの模範と言われたため、赤穂浪士たちもそれにあやかって、曽我兄弟の墓へお参りしたそうです。大石内蔵助は、曽我兄弟の墓に生えているコケを削り取って、それを袋に入れお守りにしていたそうです。

曽我兄弟のあだ討ちは、鎌倉時代の始まりころに起こりました。曽我十郎祐成(そが じゅうろうすけなり)曽我五郎時宗(そが ときむね)の兄弟が父親のカタキである工藤祐経(くどうすけつね)を討った事件です。工藤祐経とは時の鎌倉幕府の将軍、源頼朝の側近でした。


曽我兄弟の父親の名前は、河津祐泰(かわづのすけやす)。彼は領地をめぐる争いで、工藤祐経に暗殺されてしまいます。

領地をめぐる争いとは、一言で言えば身内同士の土地をめぐるです。今の時代でも、身内同士の財産争いってありますね。それで父のカタキと立ち上がったのが、曽我兄弟なのです。と言いたいのですが、実は、この曽我兄弟の仇討ちの真相は違うんですね。曽我兄弟の本当のターゲットは源頼朝なんですね。これは案外知られていないことですが、歴史学者の間では常識だそうです。

2 それは同じ一族の土地争いから始まった
事の発端は、工藤佑経と伊東佑親の土地争いでした。工藤は伊東に土地を横取りをされたことをしり、訴訟を起こしたのです。しかし、佑親は有力者たちにワイロを送っていたので、工藤佑経は伊東の土地の半分しか取り戻せなかったのです。しかも、工藤佑経の妻までも伊東佑親は奪ったため、工藤佑経は激しく伊東佑親を憎むようにあり、佑親だけでなく伊東の息子の河津佑泰(三郎)まで殺そうと決意したのです。ちなみに工藤は源頼朝に気に入られていたのですね。一方の伊東は頼朝が伊豆に流罪になっていた時に頼朝を預かっていた平家の下人。当然、伊東は頼朝と敵対するのですね。頼朝が挙兵して平家と戦った時も、伊東は頼朝と敵対。石橋山の合戦でも伊東は頼朝を追い詰めていたのです。この辺から見ても、伊東と工藤は仲が悪かったのでしょうね。


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そして安元2年(1176)10月、伊豆の国で狩りが行われ、伊東佑親・河津佑泰親子も参加しました。そこで工藤は刺客を送り込みました。狩りが終わって帰路に着く二人を刺客が矢を放ちました。伊東佑親は助かったものの、河津佑泰は矢に当たり死亡。河津佑泰(三郎)は幼い二人の息子を残して亡くなったのですね。その伊東佑親は助かったものの、結局、源頼朝に殺されてしまうのですね。

そして、兄弟の母は、曽我家の当主と再婚しました。二人の兄弟の苗字も河津から曽我になりました。兄弟の母は、夫の仇を忘れ、新しい夫との幸せな日々を過ごしていましたが、兄弟は、工藤並びに頼朝をうち取ろうと武芸の鍛錬をしながら日々を過ごし、そのチャンスを待っていたのですね。兄弟にとって、工藤は父の仇、頼朝は祖父の仇なのですね。

平家が滅亡した年に、兄は元服し曽我十郎となり、弟は箱根権現に預けられたのです。弟は厳しい修行をしながらも、父の仇である工藤佑経への憎しみを忘れなかったのです。そして箱根の山を無断で降りて、兄の元へ向かったのです。そして弟の方も晴れて元服をし、曽我五郎と名前を変えます。しかし、二人が元服しても、まだ父の仇が取れぬまま。月日はいたずらにすぎるばかり。

3 仇討ち、そして頼朝暗殺
 そんなおり、源頼朝が大規模な巻狩をするという情報が耳に入ります。これは源頼家のために開かれたものだと言われております。頼朝の正当な後継者は頼家であるというアピールなんですね。

建久4年(1193年)5月に源頼朝が多くの御家人ごけにんを集め、富士山の裾野すそのあたりを中心として行った壮大そうだい巻狩まきがりをしました。


曽我兄弟は、富士の狩場に行き、チャンスをうかがっていました。そして、工藤祐経が夜に屋形で寝ているところを兄弟が忍び込み、めった斬りにしたのです。
こうして、仇の工藤佑経を討ち取った曽我兄弟。本願を成し遂げたと思いきや、騒ぎを聞きつけて集まってきた武士たちが兄弟を取り囲んだのです。兄弟はここで10人斬りの働きをするが、兄の十郎は殺されてしまいます。弟の五郎は、向かってきた武士たちをことごとく倒して頼朝の館に押し入ったのです。いよいよ頼朝を殺すために。

しかし五郎は館の中で五郎は捕まり、源頼朝の前に連れてこられ尋問を受けたのです。五郎は「頼朝に恨みがないわけではない」と本人の前で言ったのですね。頼朝は五郎の話を聞き、感動し助命をしようと考えたのです。五郎は、なまじかの武士よりも勇気があるから家臣に召し抱えようと思ったのでしょう。しかし、幕府の重臣たちの猛反対で、結局五郎は晒し首にされてしまいます。まだ20歳の若さでした。


工藤祐経を暗殺する際、兄弟が密談をした場所が、こちらのかくれ岩

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(隠れ岩)

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(隠れ岩の説明板)


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(音止の滝  この滝の音がうるさくて話ができなかったそうです。そこで、二人が神にいのったところ、なんと、滝の音が止んだのです。)

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(音止の滝 その2)


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(工藤祐経の墓)

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(説明文)


* おまけ
曽我兄弟の父、河津佑泰は相撲の名手でした。伊豆での狩りの時にも余興で相撲が行われました。今では相撲の決め手となっている河津掛けも河津佑泰が編み出した技です。ちなみに柔道では河津掛けは禁じ手だそうです。

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今年の春、埼玉県・所沢さいたまけん・ところざわにある航空公園におとずれました。航空公園にある航空発祥記念館こうくうはっしょうきねんかんにて、「日本の航空技術100年」というイベントをやっておりました。そのイベントの一環いっかんとして本物のゼロ戦機の公開をしておりました。ゼロ戦なんて図鑑ずかんでしか見た事が無かったので、感激モノでした。






そのゼロ戦が動く時にエンジンが音を出すのですが、そのエンジン音がけっこう大きくて、びっくりしました。


(ゼロ戦がプロペラを回している動画)

ゼロ戦の設計主任は、堀越二郎(ほりこしじろう)さん。

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そして、こちらが堀越さんが書いたと思われる飛行機の設計図です。

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堀越さんは、戦後になって木村秀政(きむらひでまさ)さん達とともにYS-11の設計もしたそうですね。

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(YS-11)


※ オマケ

ゼロ戦を設計した堀越二郎さんの半生は、宮崎駿監督の映画化されます。題名は、『風立ちぬ』。主題歌はユーミンの「ひこうき雲」


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金太郎といえばサラリーマン金太郎、童話にも出てくる勇かんな少年で、後に坂田金時(※1)と呼ばれる豪傑ごうけつに成長します。

金太郎は神奈川県の足柄山あしがらやまにいたと思っていましたが、信州にも金太郎にまつわる伝説があるようです。

なんと、金太郎の父親が八面大王だという言い伝えもあるのです。

昔、穂高ほだかに八面大王が住んでいましたが、八坂村の大姥山おおうばやまに住んでいた紅葉くれはとラブラブになったのです。

そして紅葉のおなかに八面大王の子が宿りました。

その子こそ金太郎だというのです。

この紅葉とは、鬼無里きなさの鬼女・紅葉と同一人物なのでしょうか?

そこの所ははっきりしないのですが、八面大王の本拠地の穂高ほだかと、紅葉の本拠地の鬼無里きなさ距離的きょりてきには、そんなにはなれていません。

しかも、八面大王が坂上田村麻呂さかのうえたむらまろにやっつけた時、奥さんの紅葉は悲しみのあまり、鬼無里までげ延びて、そこで舌をかみ切って死んだそうです・・・

八面大王の奥さんの紅葉と鬼無里きなさの紅葉との関連性、気になりますよね?

しかし、八面大王がいた時代はAD805年前後、鬼無里きなさの紅葉がいたのはAD960年ごろですから時代が違いすぎます。

ですから、鬼無里きなさの紅葉と八面大王の紅葉は名前は同じでも別人ではないかと思われます。

大姥山おおうばやまには大姥神社があります。この神社は旧暦の4月1日(今の5月のはじめごろ)に、祭りが行われるのですが、その時必ずといっても良いぐらい雨が降るそうです。これは紅葉のナミダ雨なのでしょうか?

※ おまけ


大姥山の動画をどうぞ。






※ 関連記事http://blog.livedoor.jp/seimei1128-rekishi/archives/1022386.html
(八面大王の記事)

http://blog.livedoor.jp/seimei1128-rekishi/archives/1932061.html
’(紅葉の記事)



不良少女とよばれて (1984年)
不良少女とよばれて (1984年)


『不良少女とよばれて』は舞楽家の故原笙子さんの自伝です。ドラマにもなりました。原作者の原笙子さんは、かつては不良少女だったそうです。不良といっても彼女がやったのは、この本に書かれているように家出くらいのもの。ドラマのように、チェーンを振り回すようなことは一切しなかったからw戦前から不良少女はいたけれど、原さんは違ったみたい。

原笙子さんは満州で幼少時代をすごしましたが、今日は原笙子さんの幼少時代のお話を。中国の歴史に興味のある僕にとっては、不良少女時代の話よりも、こちらの話のほうが関心がありました。

1945年8月15日、日本は敗戦しました。原笙子さんのお父様は宮司だったそうです。宮司とは神主さんのこと。神国日本に神風が吹き、必ず戦争に勝つと強く信じていた宮司のの父は、玉音放送を涙を流して悔しがったそうです。おそらく当時の多くの日本人がそうであったのだろう。

しかし敗戦の現実は父から神職の収入とプライドをなくしてしまったのですね。そういう人は多かったと思います。ドラマ『おしん』にも主人公のおしんの夫の田倉竜三が敗戦とともに自殺をするのですね。原家はたちまち貧乏になりました。気力を失った父に代わって、まだ幼い原笙子さんは学校を辞めて、街にでて行商をしたといいます。

幸い原さんは北京語を学校で習ったことのあるから、中国人とも多少は話が出来たそうです。原さん曰く、中国語で最初に覚えたのが汚い言葉、悪口言葉だって。なるほどなって思ったね。僕も子供の頃を思い出すと、きれいな言葉よりも悪口言葉のほうが、すぐに覚えられたもの。

原さんは親が病気だとか死んだとか中国人たちの同情させて、うまいこと彼女は商品を売りさばいたと言います。本当は嘘はいけないことかもしれないけれど、生きるための智恵ですね。彼女もそれだけ生きるために必死だったのです。

その後もスリにあったり、ある中国人から石を投げられたり、年齢をごまかして弟と一緒に工場で働いたりと彼女は色々な体験をしたのですね。

満州国の国旗が街中にはためいていたが、それが突然、青天白日滿地紅旗(中華民国の国旗)に変わり、そのことで「ああ、日本は戦争で負けたんだな」と幼心にも原さんは悟ったそうな。

日本が負けたということで、八路軍(中国共産党の軍)がやってくるという噂も耳にしていたのです。八路軍は恐ろしい軍隊だと噂されていたそうだけど、実際彼女が八路軍に接した時はそんなに怖い人たちではなかったと回想しています。満州という国は無くなったが、満州の地で生まれ育った人たちの思い出の中に満州国は今もあるのかもしれません。




九尾キュウビキツネをご存知でしょうか

僕は藤子・F・不二雄先生の「T・Pぼん」で九尾の狐のことを知りましたwww


時は平安時代の後期、鳥羽上皇トバジョウコウは、玉藻タマモの前と呼ばれる女性を大変愛していました。頭も良く、気量も良い。ある日、帝が重い病気になってしまうのです。その原因はなんだろう?都の医師という医師が「さても不思議な病気」と首をひねるばかり。それで、陰陽師おんみょうじの安倍泰成(あべのやすなり)のおいのったところ、九尾の狐が玉藻の前に化けて、みかどをたぶらかしたとわかったのです。玉藻の前は正体を見破られて、逃げてしまいます。おそらく、鳥羽上皇が病気になったのは、九尾の狐の仕業というより、疫病にかかったのだと思います。コレラだとか、20世紀の初めに流行ったスペイン風邪(インフルエンザ)みたいな。昔は医学が発達していなかったから、治療法のわからない重い病気になると、キツネだとか妖怪のせいにしていたのでしょう。

藤子先生の『TPぼん』では、玉藻の前は、上皇に愛されていたので、妬まれ、宮中の勢力争いに巻き込まれた気の毒な女性と描かれております。一方、玉藻の前のモデルは、藤原得子という説もあります。藤原得子は低い身分でありながら鳥羽天皇(上皇)に愛され皇后にまで成り上がり、自分の子を帝位につけるよう画策したと言われております。そして自分に敵対する人物を失脚させ、保元の乱の遠因を作った女性です。

そして、九尾のキツネ那須なすが原にげこんだのですが、朝廷ちょうてい上総介広常カズサノスケヒロツネ 三浦介義純 ミウラノスケヨシズミの両名に九尾のキツネを退治するように命じました。

九尾のキツネは妖術を使って広常と義純ら率いる朝廷の軍勢と戦いますが、九尾は力尽きてしまいます。すると、死した九尾のキツネはうらみを残したまま石になってしまいました。その石から毒気どくけき出て、近づくものは死んでしまったそうです。

その石こそ殺生石(せっしょうせき)と呼ばれるもので、今も那須高原なすこうげんにあります。

室町時代になると、あるおぼうさんがこの石に念をかけたそうです。すると石は三つに割れてしまい、ひとつは会津あいづ、ひとつは備後びんご、そして残ったのが、この那須高原の殺生石だそうです。伝説では、殺生石から出てくる毒は、九尾の狐のおんねんだといわれています。が、那須の山々は火山帯で、殺生石付近一帯も、硫化水素りゅうかすいそ亜硫酸ありゅうさんガスなどの有毒ガスが吹き出ることがあります。ガスが出てくるのがひどい場合は、立ち入りを規制されるそうです。僕も実際に訪れたときは特に規制はされなかったのですが、殺生石あたりは硫黄いおうのにおいがぷんぷんしていました。




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(殺生石)

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(殺生石の説明板)

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(殺生石のところにあった無数のお地蔵じぞうさま。)


※ おまけ

殺生石の近くに温泉があります。



(この記事はウィキペディアを参考にして書きました)

この記事は2013年10月15日に書いたものを加筆修正しました。

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