history日誌

あんなに暑かった夏も終わり、もう11月ですね。だんだん秋めいてきた今日のこの頃。今日はかなり季節外れですが、弘前の桜のお話をします。

弘前城は、1611年にこの地を治めていた津軽氏によってつくられました。しかし、1627年に落雷にあい天守閣は炎上。しかも悪いことに火薬庫にも引火し、城は爆発。それで天守、本丸御殿、やぐらは焼失してしまったのです。津軽氏はお城を再建しようとしたが、当時の江戸幕府が認めませんでした。それが幕末のころになってようやく再建が認められました。1810年に天守が造られました。現在残っている弘前城の天守は、1810年に再建されたものです。


そして1871年(明治4年)、廃藩置県はいはんちけんが行われ、藩主の津軽氏は弘前の地から去りました。1873年(明治6年)に廃城令はいじょうれい発布により廃城処分とされ、この後、本丸御殿や武芸所等が取り壊されたのです。それから城の跡地は軍が所有することになりましたが、城跡はほとんど手入れもされず、荒れるに荒れてしまいます。城の石垣にはヘビが住み着くほど荒れてしまったのです。

そんな荒れた城跡をみかねたのが元弘前藩士の内山覚弥うちやまかくやでした。彼は自費で20本の桜の苗木を城跡に植えたといいます。

それから元弘前藩士の菊池楯衛きくちたてえも「栄えある城を取り戻したい」。そう思って菊池も桜の苗木を植えました。1882年(明治15年)菊池は1000本の桜を植えます。1000本の桜ときいておもわず、僕の脳内で初音ミクの「千本桜」の歌が流れてきましたw

菊池はリンゴなど果樹栽培を行っており、植物栽培のノウハウをもっていたのですね。

2人はなぜ桜にこだわったのでしょう。青森だからリンゴでもよかったのでは。あるいは日立のCMに出てくる「この木、何の木」の木でもよかったのではないでしょうかw?「花は櫻木、人は武士」という言葉があり、昔の(弘前城)栄を取り戻すには桜ほどふさわしいものはないと菊池と内山は考えたのかもしれません。また桜の木は華やかできれいですからね。見た目も美しいという面もあったのでしょう。

ところが、ある日菊池が目にしたのは桜の苗木が無残にも踏みにじられていたのです。折られたり、抜かれたり、ひどい有様でした。無事だったのは数本のみ。なぜ、こんなことが。

桜を荒らした犯人は、旧弘前藩士が多かったのです。元弘前藩士の中には桜を軽薄けいはくだと思っていた人間もいたからです。また、このころは明治維新後の混乱もまだ残っていたし、士族(武士)の気風も荒かった時代です。そのため「お城の跡を行楽の地にするとは何事だ」という考えが根強かったのです。

しかし、菊池と内山はあきらめませんでした。

1894年(明治27年)に日清戦争が勃発ぼっぱつし、津軽からも兵士が派遣されました。そして多くの戦死者がでました。そのため戦死者を慰霊いれいしようという機運がうまれたのです。1895年(明治28年)、内山は、この桜で出征した兵士たちをなぐさめたいと思い、100本の桜の苗木を植えます。

そして大正天皇の結婚記念としてさらに 1,000本の桜が植えられたそうです。

こうして、弘前城は桜の名所になりました。

1918年(大正7年)には、第一回観桜会(のちの桜まつり)ががおこわれました。芸妓たちの踊りあり、山車がでたり、花火もあがったり、自転車競争や相撲すもう大会などのさまざまな余興よこうが繰り広げられました。中でも人気だったのは、仮装大会だったそうです。

この年の4月8日に、この地に桜を植えた菊池がなくなります。享年73歳。菊池と内山が植えた櫻木のなかで、今も残っている桜の木があるようです。その気は樹齢138年だそうです。内山と菊池が頑張って植えた木が今日も残っていることがすごいなあって。


(弘前城の桜の様子)

※ この記事は「歴史秘話ヒストリア」と以下のサイトを参考にしました。

http://www.city.hirosaki.aomori.jp/jouhou/koho/kouhou/r020101_04-05.pdf




以前の『歴史秘話ヒストリア』で宇喜多秀家の事が取り上げられました。秀家の秘話といえば、「八丈島より泳いで参った!!!」。ウソウソ、冗談ですわw宇喜多秀家は、幼少ようしょうのころから豊臣秀吉(とよとみひでよし)にかわいがられました。

豪姫ごうひめ(※1)と秀家が結婚けっこんしたのは恋ではなく秀吉の命令、つまり政略結婚せいりゃくけっこんだったそうですが、二人はまわりの人間がうらやむほどの仲が良かったそうです。宇喜多秀家は秀吉の5大老に命じられるなど、まさに勝ち組でした。が、そんな秀家にも不幸が訪れます。

宇喜多秀家は罪人として八丈島はちじょうじまに流されてしまったのです。なぜ罪人になったかというとワケがあります。

それは秀家は関が原の合戦で西軍として、徳川家康(とくがわいえやす)率いる東軍と戦ったから。それで、西軍が負けてしまいました。家康に歯向はむかったばっかりに、宇喜多秀家は罪人にさせられてしまう・・・・

そんな宇喜多秀家といっしょにいたのは子供と10人くらいの家来だけ。おくさんである豪姫と別れてしまったのです。

ある日、八丈島の代官の家で宇喜多秀家は白いご飯をごちそうになり、何度もおかわりをしたそうです。無理もありません。しかも、宇喜多秀家はいただいた白いお米をフロシキに包んで家に持ち帰ったそうです。家に帰って自分が食べるためじゃありません。家で待っている子ども達にも白いお米を食わすために。

泣かせますねえ。

宇喜多秀家、その子供と家来たちは努力して、島の暮らしに溶け込んでいったのですね。その証は今日も残っております。たとえば、八丈島のあるい家は宇喜多家から紫と緑色の鉱物を譲り受けて、それを糸の染色に使ったという、言い伝えもあるようです。

秀家は島の暮らしに慣れると、島民の役に立ちたいと、新田開発をおこなったり、薬草の知識などを村人に伝えたり、いつの間にか秀家は島民から「殿様」と慕われるようになったといいます。その後、秀家の子供も成長し妻をもうけたといいます。その後も秀家の子孫は八丈島に生き残り、明治のころにも秀家の子孫が八丈島がいたといいます。

一方、実家の前田家に帰っていた豪姫は八丈島に流されていた夫や子ども達のために食糧を死ぬまで送り続けました。はじめは幕府に遠慮しながら細々とやっていたのですが、正式な許可をもらってからは、一年おきに前田家から食糧が送られるようになったのです。前田家から(八丈の)宇喜多への援助はなんと明治時代まで続いたといいます。豪姫が「島のもののこと、くれぐれもお頼み申します」という遺言さえ残したほど。

遠くはなれていても夫婦のキズナは切れなかったのでしょう。泣かせますねえ。僕の頭の脳内にスキマスイッチの『奏』が流れてくるようですw二人は死ぬまでおたがいに会うことは無かったというから切ない話です。この時代にインターネットや電話があればなあって自分は『ヒストリア』をみて思わず思われました。


そんな二人の事をかわいそうに思って、今から10数年前に八丈島の人たちは秀家と豪姫がツーショットで並んだ石像をつくったそうです。「今度生まれてくる時はいっしょになれるといいね」という願いをこめて。


※1 前田利家(まえだとしいえ)のむすめ



※ オマケ


最後に、八丈島の映像を。八丈島には高校生の時に行きました。海もきれいで、お魚もおいしい良いところですよ。一応、「八丈島」の観光協会の公式チャンネルの動画ですから、削除される可能性は低いとは思いますが、それでも、もし映らなかったらごめんなさい。(削除したら怒りますよw観光協会さん)



このページのトップヘ