history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。ブログ削除しようとしましたが、やめましたwそのかわりブログをリニューアルしました。コメント欄も久々に開放しましたが、コミ障で、なにぶん心が折れやすい性格なので、コメントの方は何卒お手柔らかにお願いします。

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1 武家よりも君の恨めしくわたらせ給ふ
護良親王モリヨシシンノウは鎌倉に送られた際、「武家よりも君のうらめしくわたらせ給ふ」と、ひとり言を言ったそうです。意味は足利尊氏アシカガタカウジより天皇のほうがうらめしいという意味です。護良は父親のためだと思って、一生懸命頑張ってきたつもりだったのです。後醍醐天皇ゴダイゴテンノウに帝位を狙っていると誤解されましたが、護良自身は自分が天皇になれないことをよくわかっていたのです。護良からしたら、父親である後醍醐に裏切られた気分で、さぞ悲しい思いをしたと思います。護良が鎌倉に送られ土牢の中に入れられてしまいました。

護良は「Zガンダム」に出てくるカミーユ(ただし序盤)やカツのようなスタンドプレーをしたけれど、それも自分の名声ではなく、親である後醍醐のためにやってきたこと。本当は護良も父に愛されたかった、それなのに、誤解されてしまったら護良もやるせ無いと思います。

ちなみに、護良は土牢ツチロウに入れられたと言いますが、土牢というより土蔵のような建物の中で軟禁されていたのではないかという説もあるようです。

2 護良死去
護良が鎌倉に送られてから8ヶ月、護美にとって危機が訪れます。建武ケンム2年7月、北条高時ホウジョウタカトキの子、北条時行ホウジョウトキユキが信濃国で反乱を起こしたのです。鎌倉幕府の再興、おやじのカタキを取ろうと立ち上がったのでしょう。いわゆる中世代チュウセダイの乱です。時行軍は関東地方に侵入し、足利直義が派遣した軍勢を次々と撃破。直義はこいつは敵わんと鎌倉を放棄ホウキ、逃げたのです。すると、鎌倉にいる護良はどうなるのか


足利直義は家来の淵辺義博フチノベヨシヒロに命じて護良の暗殺を命じたのです。護良は雛鶴姫ヒナヅルヒメのお世話になりながら、法華経の経典を読んでいました。そんな二人に忍び寄る淵辺。そして淵辺は刀でりかかろうとします。護良も抵抗しますが、護良は武術の達人とはいえ、何ヶ月も監禁されていましたから、体が思うように動きません。それでも護良は抵抗し、なんとで淵辺の刀をくわえ、しかも刀を折ったと言います。これが本当に真剣白歯取りw冗談はこれくらいにしておきましょう。

そして、護良は必死に抵抗したものの、結局淵辺に殺され、首もちょん切られてしまいます。淵辺は護良を撃った証拠に首を拾ったら、その護良の首をみて、淵辺はびっくりしたのです。なんとその首ははっきり目を見開いていて、世にも恐ろしい形相をしていたのです。さすがの淵辺も驚いて、その首を捨ててしまったのです。なお、淵辺義博は実はいい人で、護良を逃し、護良は東北へ落ち延びたという伝説もあります。

3 護良がそんなに悪いのか?
護良の死を報を受けて、後醍醐は大変ショックを受けました。そりゃいくら護良と後醍醐が対立してたとはいえ、実の息子が殺されて平気な親なんていませんからね。護良暗殺が、のちに後醍醐が足利と対立する遠因となります。

後醍醐は生前は護良を親のいうことを聞かぬ困ったやつと思っていたが、亡くなってから、実は護良が親のために一生懸命やっていたこと、護良が父の愛を求めていたことにやっと気づいたのでは。

また、親に反抗という面では、後醍醐もあんまり護良のことを非難できないのですね。実は後醍醐も父親に反発していたのです。後醍醐天皇の父親は後宇多天皇ゴウダテンノウと言いますが、後醍醐天皇は本来天皇になれる人ではなかったのです。

後醍醐の話をするにあたって、この時代の複雑な事情をお話しします。持明院統ジミョウイントウ(※1)と大覚寺統ダイカクジトウ(※2)と皇室が二つに割れていて、皇位を巡って両者が対立していたのです。持明院統も大覚寺統も元々は兄弟だったのですが、兄弟で天皇の座を争っていたのです。それで両統迭立リョウトウテツリツ(※3)といい、持明院統と大覚寺統の両統が変わりばんこで即位していたのです。大覚寺統の天皇が即位したら、次は持明院統の天皇。その天皇が退位したら今度は大覚寺統という具合に。

後醍醐には後二条天皇(大覚寺統)という兄がいました。後二条天皇の後任が、持明院統の花園天皇が即位し、その花園天皇(持)の後任に後宇多天皇(大)は自分の孫の邦良親王クニヨシシンノウ(後二条天皇の子で大覚寺統)に帝位を継がせたかったのです。しかし、邦良親王(大)が8歳と幼かったので、中継ぎとして後醍醐天皇(大)が即位し、邦良親王(大)が成長したら、邦良親王(大)に天皇の座を譲らなければならないのです。

野球に例えれば後醍醐は監督代行みたいなもの。監督が成績不振でシーズン途中で休養し、それでヘッドコーチ等がシーズン終了まで監督の代わりを務め、次の監督にバトンタッチするのが監督代行。オリックスの中嶋聡監督みたいに監督代行からそのまま正規の監督になるケースもありますが、基本的に監督代行はシーズンが終わったら退団します。

中継ぎも大事な役割だと思うのですが、後醍醐はそれに納得できませんでした。後醍醐天皇は父である後宇多上皇の「皇位は後二条天皇の子孫に継承させて、後醍醐天皇の子孫には相続させない」との考えに反発したのです。つまり、父の言うことを聞いていたら、自分の子供を天皇にすることもできないし、せっかく自分が手に入れた天皇の地位もやがてはオイの邦良親王に譲らなくてはならないのですから。だからこそ後醍醐は父の後宇多天皇の言いつけに背いたのです。

また、「あれ、こんなに天皇がすぐにコロコロ変わるものなの?天皇は生きていいるうちはずっと天皇の位にあるんじゃないの」と思うのは現代人の感覚。即位から亡くなるまで天皇の位につくというのは明治以降。今の上皇様のように生前退位したのは明治以降では実は初めて。しかし、この時代は10年で天皇の位を降りる、つまり生前退位したのですね。


さて、護良親王の首はどうなったか?それはまた次回に。

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(クリックすると拡大します)


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※1 後深草天皇から発した皇統。大覚寺統と皇位を争うが、建武の新政により一時衰退。のちの北朝
※2 亀山天皇から発した皇統。鎌倉末期、持明院統と皇位を争って両統迭立となる。のちの南朝。
※3 持明院統と大覚寺統の両統が交代で皇位につくこと。後嵯峨天皇の譲位後、皇室が分立したため、幕府が解決策として提示した原則。天皇の在位期間は10年。



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(Wikipediaより)


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1 征夷大将軍をやめさせられる
護良は征夷大将軍の他に兵部卿ヒョウブキョウもかねました。また和泉国(大阪の和泉市あたり)や紀伊国(和歌山県あたり)の知行国主チギョウコクシュ(※1)となりました。いづれにしても京の都から近い国です。そこまではよかったのですが、だんだん護良は尊氏だけでなく、父の後醍醐とも確執が生じるのです。

護良は鎌倉幕府滅亡後も令旨レイシを出しました。令旨の内容は所領の充行アテオコナイ(※2)や安堵アンド (※3)、寄進(※4)がメインでした。護良も征夷大将軍になれたので張り切っていたのでしょう。しかし、護良のとは別に後醍醐天皇も土地関係のことで宣旨センジ(※4)を出していたのです。

護良が出した綸旨と後醍醐天皇が出した宣旨の競合が問題になったのです。護良と後醍醐の内容の食い違っていたのです。例えば、護良の令旨に名無しの権兵衛さんという武将に大阪のAという土地をあげるよと書いてあったとします。で、後醍醐が出した宣旨の内容だと、名無しの権兵衛さんが与えられた土地は大阪のAではなく兵庫のBという土地をあげるなんてこともあったのです。名無しの権兵衛さんからすればどっちが本当なのかわかりませんね

だから、後醍醐は護良の出した令旨は無効だと言い出したのですね。そして、護良はたった3ヶ月で征夷大将軍を辞めさせられてしまうのですね。後醍醐からしたら、護良のやったことは、混乱を招くだけでありがた迷惑な話だと思っていたのですね。もちろん征夷大将軍を辞めさせられても兵部卿の地位は残っていたし、知行国主も続けたのですが、それでも護良の勢いは急速に衰えたのです。

2 尊氏暗殺計画
一方で護良のライバルの尊氏は武蔵国や伊豆、駿河、常陸ヒタチ下総シモウサを、弟の直義も遠江の国を知行国として与えられたのです。さらに尊氏は雑訴決断所(※5)に尊氏の重臣を送り込んだり、鎌倉将軍府(※6)の執権として弟の足利直義を任命しました。鎌倉将軍府は後醍醐天皇の皇子成良親王ナリヨシシンノウがリーダーでしたが、まだ幼かったので直義が補佐、というか直義が実権を握ったのですね。これほど足利兄弟が優遇されていたのですね。後醍醐が尊氏をここまで優遇するのは、尊氏を気に入っていたからか、それとも後醍醐は尊氏を警戒してなんとかご機嫌をとるために優遇したのか、理由はわかりません。ただ、尊氏のこうした優遇ぶりに護良は不満をいだきます。護良の嫉妬もあるけれど、護良から見て尊氏は危険な存在に映ったのです。尊氏は世の平和を乱す悪い奴だと。そんな危険な奴をなぜ父は優遇するのだというアセりがあったのかもしれない。


護良はついに実力行使に出たのです。なんと、護良は尊氏暗殺計画をクワダてたのです。護良の軍勢が尊氏の館を秋雨撃するウワサまで立ったのです。そこで尊氏は外出の時は、大勢の軍勢をお供にしていたし、館にも兵をおいて防御を固めていたのです。

また「太平記」には密かに諸国へ尊氏討伐タカウジトウバツを呼びかける令旨を発給していたとも。こうした尊氏暗殺計画は護良の単独行為とも、黒幕は後醍醐とも言われております。僕はおそらく単独行動だと思います。後醍醐としては尊氏は脅威だから、本当は死んでくれた方がありがたいかもしれないが、かといって足利を倒す力もまだないのに、尊氏をいま殺したら大変です。それに尊氏は、地位などのエサを与えれば勝手なことはしないというのが後醍醐の頭にありました。

3 護良逮捕
さらに、そんな護良に大ピンチがおきます。護良がやとっていた私兵がチンピラみたいな連中で、夜な夜な京の街を徘徊ハイカイしては、少年と少女たちを何人も殺害したのです。れはひどいですね。直接手を下していない、部下がやったとはいえ監督責任は護良にあります。少年と少女の親御さんたちの悲しみは深いものでしょう。

度重なる護良のスタンドプレーに後醍醐も流石の我慢の限界。後醍醐も今まで我が子だと思って大目に見てきたが、後醍醐は護良を護良を捕らえようとします。

後醍醐は天皇新政を施行し、摂関政治、院政、幕府政治を否定し、天皇が自ら政治に関わる、天皇独裁、悪くいえば、北朝鮮のような天皇中心の国家体制を作りたかったのです。その構想に、スタンドプレーが目立つ護良の存在は尊氏より厄介だったのです。尊氏は地位さえ与えれば変なことをしないというのが後醍醐の頭にあったのでしょう。

ちなみに『太平記』では後醍醐天皇の愛人の阿野廉子アノレンシ
が自分の子供を天皇にしたくてジャマ者の護良をなき者にすべく阿野廉子は後醍醐に護良の悪いウワサを吹き込んだという話が出て来ます。護良は味方も多かったようですが、敵も少なくなかった。しかもその敵というのが最大権力者である後醍醐のお気に入り。

いくら護良が優秀でも、後ろ盾を失えばただの人。実力者に可愛がられるか、逆らって敵に回るか。

護良を見ていると一昔前の長嶋茂雄監督を僕は思い出します。長嶋監督は巨人の監督を二期監督(一期目は1975から1980年まで。二期目は1993年から2001年まで)を務めましたが、一期目は不本意な形で退団したのですね。これは成績が悪かったというより、当時の巨人のお偉いさん、大物OBに疎まれたことが大きかったとか。


建武元年10月22日、清涼殿セイリョウデンで行われた詩会に護良は参加しました。その護良は後醍醐近臣の結城親光ユウキチカミツ名和長年ナワナガトシに逮捕され、武者所に拘禁されたのです。そして、最終的に護良は鎌倉の直義の所へ護送されたのです。護良はスタンドプレーばかりする上に、家来の仕業とはいえ子供まで殺しました。


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※1 古代、中世の日本において特定の国の知行権を得た皇族、有力貴族、寺社など。
※2 平安時代以後,不動産や動産の給与,譲与,処分,委託行為を指して使用された語。
※3 社寺等に物品や金銭を寄付すること。
※4 昔、天皇のお言葉を下に伝えること。それを書いた文書。それを伝える役目の人。
※5 建武の新政の主要政務機関。もっぱら所領問題などの提訴を採決した。
※6 建武政府が関東10カ国を統治するために鎌倉に作った機関。後醍醐の子、成良親王を将軍とし、足利直義に補佐をさせた。



※ 参考文献



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この頃、護良は幕府が滅亡したにも関わらず、大和国信貴山シギサンに籠城し、戦いの準備をしておりました。そのことに驚いたのが後醍醐天皇。後醍醐は護良のところへ死者じゃなかったw使者を送りました。「護良よ、幕府は滅んだし、戦も終わった。そのようなことはやめて、昔のように比叡山に戻り、み仏に使える坊さんらしい生活をしなさい」と。

それに対して護良はこう返したといいます。

「今、世の中に平和が訪れたのは、天皇の御威光のおかげですが、私の長年の苦労によるものもあるでしょう。しかるに、尊氏は少しばかりの合戦に勝ち、京都を攻め落としたに過ぎません。それなのに、誰よりも恩賞をいただきました。まして尊氏は源氏の嫡流チャクリュウ。このままでは尊氏は幕府を起こし、朝廷に刃向かうことでしょう。今のうちに尊氏を叩いた方が良いと思いまして、私は兵の訓練をしているのです」と後醍醐に言い返したのです。まさに、親への反抗。聞かん坊の護良の返事に後醍醐は困ってしまいます。実はこれが護良の悲劇の始まり。素直に坊さんになればよかったものの。もし、タイムマシーンがあったら、僕は護良に「お父さんの言うことを聞かないと後でとんでもないことになるよ、後悔しても知らないよ」ってアドバイスしたいところ

一方で、尊氏が後醍醐天皇と対立し、南北朝の戦いが始まるのは歴史が証明する通り。そういう意味では護良は先見の目があったともいえます。

そして、護良は自分を征夷大将軍セイイダイショウグン にしろと後醍醐に要求。後醍醐は、なんと、これに応じました。征夷大将軍というのは武官の最高位で、全国の武士を動かしうるほどの権威がある役職です。しかも、護良は、後醍醐から正式に征夷大将軍に任命される前から、無断で将軍を自称していたのです。後醍醐は護良の要求を飲んだというより、護良の言い分を追認したと言った方が近いのです。なんというスタンドプレー。これが「ガンダム」だったら、ブライトさんやウォンさんに修正されても文句が言えません。

機動戦士Zガンダム SPECIAL
鮎川麻弥
キングレコード
1999-03-05



本来は武士の出身じゃないと征夷大将軍になれないのはずなのですが、実は鎌倉幕府では皇室の出身者が4代にわたって征夷大将軍になっているのです。宗尊親王ムネタカシンノウ惟康親王 コレヤスシンノウ久明親王ヒサアキラシンノウ守邦親王モリクニシンノウと。「鎌倉幕府だって皇室出身者が征夷大将軍になれたのだから、私だってなれるはずだ」というのが護良の言い分。しかし、護良が征夷大将軍になったことに反感を持つ人も少なくなかったのです。尊氏も本来は自分がなれると思っていただけにショックも大きかったでしょう。

後醍醐が尊氏に護良に征夷大将軍にしたのはなぜでしょうそうでもしないと、護良がおさまらないというのもありますが、尊氏に征夷大将軍まで任命してしまうと幕府を開いてしまうことを後醍醐が警戒したのも理由の一つなのではないかって僕は考えております。後醍醐が尊氏を優遇したというけれど、全面的に尊氏を信頼したわけじゃないのですね。尊氏は強力な軍事基盤を持っている上に征夷大将軍なんて任命すれば、尊氏が幕府を開く危険性も高い。もちろん、後醍醐が尊氏を信頼していた可能性もありますが、いづれにせよ後醍醐新政にとって尊氏を敵に回しちゃいけない存在であるのは確かです。その護良は尊氏と戦おうとしているのです。「困ったやつだ」と後醍醐は思ったのかしれません。

一方、護良が征夷大将軍を望んだのはなぜでしょう?それは分かりません。ただ、これは僕の憶測でしかないのですが、護良は自分は天皇の息子でありながら、皇太子になれず、父のために必死に戦ったのに、父は足利尊氏ばかり重んじる。自分は血みどろの戦闘に身を投じ、本来なら自分が最大の殊勲者シュクンシャであったはず。それなのに自分は何一つ役職についていない。焦りみたいなものもあったのでしょうし、尊氏に負けたくないという感情もあったのかも。また護良というか、朝廷は、独自の軍事力を持っておらず、いたとしても僧兵か、野武士、ごろつきみたいな人間ばかり。これではいざというときに守れません。だからこそ、護良は自分が征夷大将軍になって、全国の武士を自分の管轄下に置きたかったのでしょう。

護良は元弘3年6月、征夷大将軍に任命され意気揚々。護良は軍を引き連れ我が物顔で京の街を歩いたと言います。その護良一行の有様に人々は驚いたと言います。まずか家臣たちが三千人あまりが行進し、その中をさっそうと護良が美しい見事なヨロイを身にまとい立派な馬に乗って歩いているのです。 華やかな行列だったそうですが、一方で物々しく物騒な気配も満ちていました。人々は護美の行進に驚くと同時に「また、戦争になるんじゃないか?」って不安になってきたのです。

存在感をかき消された護良が、ここぞとばかりに力を盛り返し、武威を誇示して足利へ威圧を加えていたのですねこの時護良は「見たか、尊氏、私はお前がなりたかった征夷大将軍になれたぞ」って思っていたのかも。護良にとっては幸せの絶頂。




しかし、護良は幸せの絶頂の後に恐るべき転落人生が待っていました。それは次回にまた。




* 参考文献






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1 護良たちに起きた奇跡
護良親王モリヨシシンノウ楠木正成クスノキマサシゲたちの奮戦もむなしく幕府は倒れそうにもありません。後醍醐天皇ゴダイゴテンノウも無事隠岐島オキノシマから生還したし、護良側に味方する武将が続々現れたけれど、それでも幕府に到底及びません。その戦力差は明らかでした。千早城に立てこもっている楠木も幕府の猛攻撃に長くはえきれぬ状況だったのです。

護良はあせりました。このままでは幕府に勝てない。幕府の方が勢力が上だ。護美ピンチ。そんな後醍醐や護良たちに奇跡が起こったのです。それは幕府側の有力武将の戦死および裏切りです。

まずは名越高家ナゴエタカイエの戦死です。名越は北条一門の有力だ武将でした。その名越は元弘ゲンコウ3年の4月27日、名越は赤松円心アカマツエンシン久我縄手コガナワテ(京都市伏見区)というところで戦いました。この時名越高家は流れ矢に当たって戦死してしまったのですね。これは幕府軍にとって大きな痛手した。

さらに幕府側だった足利高氏アシカガタカウジ(後の尊氏)が裏切り、後醍醐に味方したのです。それは元弘3年5月7日のこと。高氏が後醍醐側についたことは非常に大きかったのです。足利家も軍事力を持っていましたし、高氏をしたう武将たちはたくさんいましたから。高氏は、京都に攻め寄り幕府の六波羅探題ロクハラタンダイを攻撃。

さらに翌月の5月7日には新田義貞も倒幕のために挙兵。新田は幕府と関東各地で死闘を繰り広げました。新田義貞はその勢いに乗って5月21日に鎌倉に突入。幕府側もついに鎌倉幕府は滅びたのです。



2 ライバル高氏

 ロック原短大じゃなかったw六波羅探題を滅ぼした高氏は京都に奉行所を開設し、全国から京都にやってきた武将たちに着到状チャクトウジョウ (*1)や軍忠状グンチュウジョウ(*2)に承認の判を押す作業をしたり、京都の治安維持も行いました。え?高氏にそんな権限があるのかって?

幕府が滅んでも後醍醐天皇はすぐに京都に戻ったわけじゃなく、まだ鳥取県の船上山センジョウサンにいます。新政府の組織や制度もまだでき上がっておりません。京都は事実上の無政府状態だったのです。後醍醐が京都にもどるまでの間、高氏が仕切ったのは別に不自然なことではないのです。

そんな最中、高氏と護良がぶつかったのです。護良の家来に殿宝印良忠トノノホウインリョウチュウという坊さんがいましたが、その良忠の手のもの二十人が京都の土蔵を打ち破って財宝を運び去ったのですね。これは良忠が悪いというより、良忠の配下の兵は統制が取れておらずチンピラみたいな配下が少なくなかったのです。それで高氏は彼らをとらえ、首をはね、その首を六条河原ロクジョウカワラにさらしたのですね。当然ですね。

しかし、なぜか護良はこのことを激怒。今に例えるなら、市役所の上役がチンピラを雇い、そのチンピラが悪さをしたので、住民が警察に通報したら、市長が逆ギレしたようなもの。そんなことをしたら、市長は連日マスコミに叩かれるし、リコール運動まで起きて市長は辞任に追い込まれるでしょう。それで逆ギレする護良に落ち度大ありです。高氏の方が正しい。しかし、これが護良と高氏の争いの始まりだと言われております。

3 護良の嫉妬シット
実は護良が高氏を嫌ったのは、この一件だけではありません。護良は高氏に対してジェラシーがあったようです。護良は強くて、頭も良くて、しかもイケメンで人間性も良い完璧人間だと思っていたのですが、そんな護良も嫉妬シットをするんだって。高氏に対するコンプレックス。護良にも人間味があるんだなって。

後醍醐は元弘3年6月5日に京都に戻り、新しい体制を作るための準備に入りました。まず後醍醐は、皇太子を阿野廉子アノレンシの産んだ恒良親王ツネヨシシンノウでした。阿野廉子とは後醍醐天皇の愛人で、後醍醐が最も愛した女性でした。愛人って聞くと僕はテレサ・テンさんの歌が思いつきますwそれはともかく、可哀想なのはあんなに父のために戦ったのに、父の跡取りになれなかった護良。自分を差し置いて愛人の子供を後継者にするなんて護良から見たら納得のできない話。

愛人[テレサ・テン][EP盤]
荒木とよひさ
東芝EMI
1985T



さらに後醍醐は高氏に昇殿ショウデンを許し、鎮守府大将軍チンジュフダイショウグンに任命。さらには官位を与えたり(正三位まで与えられた)、名前も高氏から尊氏タカウジと改名をしました。尊氏の「尊」は後醍醐の本名の「尊治」からとったもの。さらに武蔵国(*3)を与えられました。尊氏の活躍がなかったら、鎌倉幕府は倒れなかったでしょうし、後醍醐だって京都に戻れなかったと思います。それを面白く思わなかったのが、護良。「私だって父のために戦ったのに、尊氏殿ばかりヒイキしてひどい」って思ったのでしょうか。

後醍醐が高氏をここまで重んじたのは、高氏を気に入ったというより、高氏の存在を恐れたからだだと僕は思います。いつかはやっつけなければいけない相手だが、かといって今、彼を敵に回すのは危険だ、まずは自分たちの力を蓄えなくては、と後醍醐が考えたと僕は思います。また、護良のことは、「高氏も危険だが、護良も厄介だ。あいつは勝手なことばかりする、今度は何をしでかすかわからん」とある意味、高氏より我が子、護良の方を後醍醐は危険視したのかもしれません。

一方の護良は、父のために一生懸命戦ったのに、跡取りは父の愛人の子、しかも自分はなんの役職もなく、高氏ばかり重んじられる。こりゃ護良も面白くありません。で、護良はどうしたか。それは次回。


※1 合戦などで軍勢催促を受けて、または自主的に参戦した際に所定の場所に到着した旨を上申する文書。合戦における手柄を証明するものだった。
※2 合戦後に参戦したものが自身や一族の戦功などをかきあげて上申した文章。この軍忠状の内容に基づき論功行賞が行われた。
*3 今の東京都と埼玉県と神奈川県の一部

* 参考文献



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前回の記事で、護良は命からがら吉野を脱出し、一方で家来だった村上彦四郎が犠牲になったことを触れました。今日はその続きです。護良は吉野から高野山へ落ち延びました。後日、幕府側の二階堂貞藤ニカイドウサダフジは護良が死んでいないことを知りました。二階堂は高野山に押し寄せ「護良はどこだ出てこい!」と言って尋ねました。






このとき、高野山のお坊さんたちは護良をかくまっていたのですね。護良は高野山の大塔のはりに隠れていたのですね。結局、二階堂たちは護良を探し出すことができませんでした。

実は元々高野山は護良には非協力的だったのです。例えば、元弘 ゲンコウ2年(1332)8月に挙兵を呼びかける令旨リョウジを出し、高野山にも届いたのですが、高野山のお坊さんはそれを拒否ったのですね。しかし、吉野城が落城して以降、高野山は護良に協力的になったのです。

さて、令旨というキーワードが出てきましたが、これは護良を語る上で欠かせない言葉です。令旨とは、親王や皇后などが出す文章で、従者が主人の意思を奉じて従者の署名で発給する形式のものです。
令旨の内容は、護良は武将たちだけでなく、お寺や神社、武装商人にまで呼びかけ、鎌倉幕府をやっつけろという内容がメイン。もちろん幕府と戦えもそうですが、お寺に対しては祈祷や供養をお願いなどもありました。

令旨は護良の直筆ではなく、護良の従者である四条隆貞シジョウタカサダらが護良の意思を奉じて発給する形式を取っています。この時代はパソコンも印刷もコピー機もなかった時代ですからね。手書きの文書を複数書くのは大変だったと思います。

護良の令旨が記録に初めて登場するのが元弘2年6月。内容は「熊野山を頼りにしていますよ」というもの。当時の熊野山は幕府寄りだったので、護良に協力するどころか幕府の京都における出先機関である六波羅探題ロクハラタンダイにチクったのですね。


このように、戦乱の初期には、人はまだ護良の訴えに安易に同調しなかったのです護良に同調したといえば、せいぜい、元弘2年の6月末に護良の令旨を所持する竹原八郎が伊勢国に侵入し、地頭2〜3人殺害し、守護代の屋敷を焼き払ったという話くらい。

幕府に対してみんな不満はあったけれど、かといって幕府を敵に回したところで、ひどい目にあうのは目に見えているし、無駄な犠牲を出したくないですしね。先にも申し上げた通り、高野山もはじめは護良の要請を拒否っていたのです。

令旨に現実の力を持たせるには護良の「武威ブイ」が必要でした。しかし、いくら護良が武術の達人とは言え、部下数名で幕府の大軍と戦うのは無理。「ドラゴンボール」の悟空は一人でレッドリボン軍という軍隊に立ち向かいましたが、あれはマンガの話wせめて護良に一万の兵がいればまだ良かったのですが、それもない。これでは、いくら護良が令旨を出しても誰も乗ってくれません。護良ピンチ。




そんな護良に現実の力を持たせてくれたのが楠木正成クスノキマサシゲ。実は護良は楠木と密かに連携レンケイをしておりました。楠木正成は元弘元年(1331)10月に本拠地の河内国下赤坂城カワチノクニシモアカサカジョウを落とされたものの、翌年の元弘2年11月には下赤坂城を奪還。同じ月に千早城チハヤジョウをつくって幕府の大軍を相手に奮戦したのです。

楠木の戦いぶりをみて、武将たちは「俺たちも幕府と戦えるんじゃないか」って次々と護良の令旨に賛同する武将たちが現れていたのですね。護良の令旨には楠木の恐るべき武威が背景となって護良の令旨の効力が大いに発揮したのです。令旨とブイじゃなかったw武威をセットで押し出す護良の手法は、物理的な腕力がいかにして人の意思を動かすか、ということを護良は知っていたのですね。令和の今では物理的な腕力なんて振りかざしたら、警察に捕まってしまいますが、この時代は腕力がモノを言う時代だったのですね。

護良も翌年の元弘3年になると令旨をたくさん発給するようになり、武将たちに決起を促していたのです。その範囲も機内だけでなく、新潟や九州までほぼ全国にわたったといいます。吉野山を追われても、護良は機内キナイをあちこち転々としながら、ゲリラ活動を行いました。そのゲリラ活動をしながら、護良は令旨を出しまくっていたのです。

後醍醐天皇が隠岐オキに流されどうすることもできなかったから、父の代わりに護良が各地の武将たちに倒幕の呼びかけをしていたのです。

護良の呼びかけに新田義貞や、赤松円心アカマツエンシンも護良の令旨に応じたと言います。赤松円心は、護良の家来だった赤松則祐の父親です。赤松の軍には護良の家臣も一緒に加わりました。赤松も幕府を相手に活躍します。

また、護良自身も十津川トツガワや吉野、宇陀ウダなど地元の野武士を7000人も集めたといます。その野武士たちが、幕府側の兵糧を遮断シャダンしたと言います。そのため幕府軍は食べるものもなくなり、少しづつ退散し始めたと言います。


そして元弘3年 ウルウ二月には後醍醐が隠岐島オキノシマを脱出します。後醍醐は本州に戻るなり、名和長利ナワナガトシに迎えられ、伯耆ホウキ船上山センジョウサンに立て篭もります。後醍醐が戻ってきたところで、これで倒幕運動がさらに盛り上がるかと思いきや、幕府軍はまだまだ圧倒的な強さを持っていました。護良はどうなるのか。それはまた次回。

※ 参考文献


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