history日誌

1 佐々木道誉の悪行
 暦応りゃくおう3年(1340)秋、佐々木道誉が寺を焼いたというのです。ことのいきさつはこうです。道誉が派手ないでたちで鷹狩をした帰り道、ふと通りかかった寺の紅葉の美しさに目を奪われ、道誉は「おい、あの枝を折ってこい」と家来に命令します。

実はこの寺、上皇の弟が住職をしていた由緒ある寺。境内にいた僧兵たちは、枝を折った家来をリンチしたそうです。それに怒った道誉。その晩のうちに300の兵を率い、その寺を焼きうち。それに比叡山も怒り、道誉親子を処刑せよと幕府に迫るほどでした。

ところが、上総の国へ配流という軽い処分だそうです。上総に向かう道誉の姿は一族郎党、遊女たちもたずさえ、まるで罪人とは思えないありさまだったとか。そのうえ道誉一行は全員サルの毛皮を腰にまいていたといいます。実はサルは神の使いとしてあがめられ、比叡山もサルを大切にしていたのです。そのサルを腰に巻くとは、道誉は神など信ぜず、比叡山もバカにしていたということがうかがえます。

その後、道誉は許され、「申詞もうしことば」という役職に就きます。これは幕府と朝廷のパイプ役。具体的には武家の所領安堵しょりょうあんど、官位推挙、公家の官職任免の要請、寺社に対する政策など幕府が決めたことを朝廷に伝えたのです。なぜ、道誉は許されたのでしょう。これは彼が文化人としての才能があったからです。

2 文化人だった道誉
 延文えんぶん2年に准勅撰連歌集「菟玖波集つくばしゅう」が完成します。この連歌集に公家や僧侶たちの句があるなかで、道誉の句もあるのです。道誉の屋敷ではたびたび連歌会が行われ、公家や僧侶たちも集まったといい、道誉も酒などでもてなしたといいます。そして、おもてなしを通して色々な情報を得ることもできたのです。ある公家は道誉を「道誉が連歌に熱中していたころは、だれもが道誉の風情をまねた」と評価しました。

道誉は朝廷の人間にも顔がきいたのです。この時代は和歌や詩文が重要な接待ツールだったのです。道誉は教養もありましたし、社交術もあったのですが、他の武将はこうした教養や社交術が乏しかったのです。だからこそ、道誉が重んじられたのですね。確かに寺を焼き討ちしたことは良くないけれど、当時の武将たちは比叡山に不満を持っている人間が少なくなかったのですね。むしろ、権威をおそれない道誉の行動に内心拍手したのかもしれないです。

そんな道誉にも危機がやってきます。足利尊氏と弟の足利直義が対立し、諸国の武将たちも、尊氏側についたり、直義側についたり、日本中が2分されてしまいました。いわゆる観応の擾乱かんのうのじょうらん(1350〜1352)です。僕は観応の擾乱を「菅野の冗談」って覚えました。

これは僕が通っていた日本史講師に菅野先生という方がいらして、その先生から教わったゴロです。僕は菅野先生に習ったので、すっと頭に入りましたが、このブログをご覧になられている方は菅野先生のこと御存じないでしょうから、「菅野(美穂)の冗談」って覚えたほうが頭にはいるかもしれませんねw?

直義は南朝を味方につけましたが、道誉は尊氏に南朝と和睦するように説得。南朝と和睦した尊氏は直義をうちやぶりました。しかし、動乱はまだおさまりません。足利尊氏が54歳で病死。二代目の義詮よしあきらが2代目将軍になりました。しかし義詮は人の言うことに左右されやすい優柔不断なところがあったようです。そんな義詮を補佐するのが評定衆ひょううじょうしゅう。足利一門や有力守護が名を連ね、佐々木道誉も評定衆に名を連ねておりました。評定衆の間で、勢力争いも起こっていたのです。そんな中でも道誉は影響力を持ち続けていたのです。

3 道誉の最大の敵
 そんな道誉のまえに最大の敵があらわれます。斯波高経しばたかつねの登場です。斯波は足利一門で、新田義貞を討つなど大きな功績があった武将です。道誉は、高経の3男に娘を嫁がせるなど、関係はもともと悪くはなかったのです。しかし、高経は幕府内で自分の立場を強化。4男を幕府のナンバー2の執事につけたり、次男を九州探題につけたりと自分の子供たちを幕府の重役につけたのです。それだけでなく彼はトランプ元大統領ばりのw?強権的な政治を行ったのです。

貞治5年(1366)佐々木道誉に一通の招待状が届きます。公家や守護などを集めて盛大な花見の誘いです。送り主は安倍晋三元首相じゃありませんよw斯波高経。

盛大な花見を行い斯波家の権勢を見せつけようとしたのです。この時道誉も花見に参加すると返答。京都の大原野にある勝持寺しょうじじにて、道誉は斯波が花見をする日と同じ日に盛大な花見を行ったといいます。花見の会場には香炉をおいたり、茶や生け花も行われ、道誉主催の花見会は盛大に行われ、一方斯波の花見会はガラガラだったそうです。メンツをつぶされた斯波は怒って、道誉から摂津守護職を召し上げたといいます。そりゃ、お偉いさんばかりが集まる花見会なんて気を使いますものね。それよりも気楽に楽しめる花見のほうが行きたいですよね。

すると道誉は主だった守護を味方につけて、私情を幕政に挟むような人物を置いておくわけにはいかないと義詮にも進言。そうして義詮は斯波は失脚させたのです。その後、道誉は義詮だけでなく、3代将軍義満にも仕えのです。

バサラ大名といわれた道誉ですが、彼の本拠地である近江では善政を敷いていたといいます。荒れ地を整備したり、ため池をつくったり、領民の安全も守ったとも言われております。道誉の善政は長く伝えらえ、戦国時代、信長が勝持寺を焼き討ちしたさいは、そこのご本尊の大日如来を領民は隠し持っていて、土の中にうめたといいます。道誉は晩年、こう述べております。

「浮き沈みの激しい、いろいろなことがあった人生だった。しかし、私は世間の噂などきにしない。私のすることは理解されなくていい。」

※ この記事は「英雄たちの選択」を参考にして書きました。




今日から数回にわたって「太平記」の登場人物を取り上げます。第一回目は佐々木道誉ささきどうよで、どうよw?バサラ大名として有名で、大河ドラマ「太平記」では陣内孝則さんが好演されていました。佐々木道誉は鎌倉幕府については裏切り、後醍醐天皇についてはまた裏切りと「三国志」にでてくる呂布のような人物ですが、一方で、茶の湯や生け花など文化人としての顔ももっていました。佐々木道誉は1296年にうまれ、1373年に亡くなりました。彼はまさに南北朝という時代の

まずバサラ大名の意味ですが、バサラとは本来ダイヤモンドというインドの言葉なのですが、それが転じて強い、固いとなり、それが次第に今でいうヤンキーみたいな意味合いになったのです。

佐々木道誉は近江の国に生まれ、北条家に仕えました。27歳に検非違使に任じられ都の警備という重要な仕事も任せられたほどのエリートでした。そんな道誉に転機がおとずれます。元弘元年(1331)、後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵しました。笠置山にこもるが、幕府軍に敗北、隠岐島おきのしまにゴダイゴ天皇じゃなかったw(ガンダーラ歌うのかいw)、後醍醐天皇は流されてしまうのです。その時、道誉は後醍醐天皇の沖ノ島への護送役に任じられます。この時、道誉は後醍醐天皇から幕府を倒す理由を聞いたといいます。道誉は鎌倉幕府側の人間でしたが、当時の幕府の姿勢に不満を持っていました。

道誉だけでなく、鎌倉幕府に不満を持った人間も少なくありませんでした。それで、後醍醐天皇は各地の武将たちに決起を促したといいます。たとえば、河内では楠木正成が挙兵をしました。楠木だけでなくほかの武将たちも挙兵しました。また、後醍醐天皇も隠岐島を脱出。これに対し鎌倉幕府は足利高氏を大将にして鎮圧にあたろうとします。

佐々木道誉は高氏と近江であい、そこでもてなしたといいます。そこで、道誉は討幕の綸旨を受けたと高氏に伝えたといいます。やがて高氏も次第に討幕へと心が変わったともいわれています。高氏は、幕府の京における拠点である六波羅探題を襲いました。また、道誉も六波羅探題から逃げる北条群を追い込んだといいます。そして元弘3年(1333)、鎌倉幕府は滅亡します。

同じ年の6月、後醍醐天皇のもと建武の新政がはじまりました。道誉も活躍を認められ、雑訴決断所の幹部に抜擢ばってきされました。しかし、建武の新政は早くも暗礁に乗り上げます。後醍醐天皇は皇族や貴族、お気に入りの武将をひいきし、ほとんどの武将は冷遇されたのです。それでも高氏はまだよいほうで、広大な土地を与えられたり、御名の「尊」も与えられ、高氏から尊氏と名乗るようになりました。

そんななか建武2年(1335)、北条氏の残党が信濃で蜂起ほうきし、鎌倉を占拠しました。道誉は高氏とともに鎌倉にいき、北条軍を鎮圧します。そこで足利尊氏は京に戻らず、鎌倉で功績のあった武将たちに恩賞を天皇の許可なく与えたといいます。それに怒った後醍醐天皇は尊氏を朝敵とし、討伐とうばつ軍を派遣しました。このとき道誉は尊氏に天皇家と戦うことを強く勧めます。建武2年12月、道誉は天皇の討伐軍と駿河で激戦。道誉の弟は戦死、自らも深手を負ってしまいます。その時、道誉はなんと天皇側に寝返ります。

そして、それまで味方だった尊氏軍と対峙します。ところが、足利のほうに味方が多いと知るや否や、またも足利に寝返り、天皇軍とたたかったといいます。すごい人ですねw、強いものにすぐ寝返るという、スネ夫のような人。ある意味、この時代だから許されたのですね。この時代は現代と比べると裏切りが恥という感覚が希薄だったからです。むしろ、無能な主君を裏切ることは逆にいいことだという観念すらあったといいます。主君が無能でも忠義を果たすべきだという価値観はまだそれほど強くなかったのです。生き残るためには裏切りも恥ではないということでしょう。

そして、天皇軍は敗走、後醍醐天皇は吉野に逃れます。そこで後醍醐は南朝をつくります。尊氏は建武3年(1336)11月、京に足利幕府を開きます。道誉は近江や若狭などの守護に任じられます。


道誉がバサラだといわれるエピソードがほかにもあります。続きは次回に。






鑑真は日本にわたることを決心しますが、当時の唐は一種の鎖国政策みたいなものをとっていて、唐の人間が国外にでることを禁じられました。それで鑑真がとった方法は密航でした。鑑真はたびたび、日本に渡ろうとしましたが、何度も失敗をしてしまいます。一度目の渡航を計画したのは743年。地元の有力者にお金を出してもらい、船をつくりますが、密告により失敗。同じ年に今度は鑑真自らが費用を工面し船を調達し、その年の暮に出航しましたが、船は嵐にあい座礁ざしょう。一応断っておきますが、ここでいう嵐とはアイドルグループのことではありませんからねw嵐といえば活動休止しましたが。おっと、すみません。本題w本題w

二度目の渡航も失敗。三度目も四度目も、鑑真来日に反対する弟子による密告により失敗。しかし、それでも鑑真は日本行きをあきらめませんでした。748年、鑑真は5度目の渡航に挑みます。当時鑑真は61歳。しかし、無事出航したのもつかの間、また嵐にあい漂流。荒れ狂う大波で、乗組員はみな船酔いし、苦しみもがいたといいます。船には飲み水もなくなるなど苦しい思いをするばかりでした。そして船は海南島に漂着します。海南島はいまでこそ中国のハワイとよばれ観光地となっておりますが、当時はジャングルだらけで、この世の果てと恐れられていたところでした。鑑真一行はこの海南島で一年を過ごしたといいます。それから揚州に戻ろうとしましたが、途中で栄叡ようえいが病に倒れ、亡くなるのです。さらに普照ふしょうも鑑真の元を離れます。鑑真とケンカしたから?のん、のん、のん。外国人である自分がこれ以上鑑真についていくと迷惑をかけると思ったからです。泣く泣く普照ふしょうも鑑真の元を離れます。

そして、鑑真自身にも異変が起こります。疲れがたまっているのにかかわらず炎天下のなかで歩き回ったせいか、失明をしてしまうのです。

753年、揚州に帰った鑑真は日本から来た遣唐使に会います。遣唐使たちは自分たちの船に乗って日本に来てほしいと頼みます。鑑真は日本への渡航を決心したのです。しかし、いざ乗船というその時、遣唐使の大使が急に反対を言い出すのです。もし、鑑真の密航が発見されると、唐との外交問題になりかねないと恐れだしたのです。鑑真があきらめかけると、大使の次にエライ副士が声を掛けます。「私の船に乗ってください。」副士は、自分が搭乗する第二船にひそかに鑑真を乗せたのです。おそらく、副士はひそかに大使を説得したのかもしれませんね。日本を救うためには鑑真がどうしても必要だと。かくして鑑真と弟子たちはようやく日本にたどり着きます。

753年、鑑真は日本に到着。鑑真66歳でした。754年2月、平城京にやってきた鑑真は盛大な歓迎を受けました。そして、聖武太上天皇(当時の天皇は孝謙天皇。聖武の娘)は、このように喜びの意を示しました。

「鑑真和上は遠く大海を渡り、この国へ入られた。喜ばしきたとえようがない。」

こうして鑑真による授戒が行われ、聖武太上天皇、お后の光明皇太后、そして孝謙天皇が鑑真より戒律を授かったといいます。その後鑑真は、東大寺に戒壇院かいだんいんをつくり、ここで出家した者にたいし戒律を与えたといいます。ここで戒律を受けた者のみが僧侶になることが許されたといいます。鑑真がもたらした授戒制度により、脱税目当ての出家に歯止めをかけることができたといいます。

そして、鑑真は758年、71歳で大和上という称号をもらい引退をしたといいます。翌年、唐招提寺をひらき、一般の人にも仏教を説いたといいます。763年、鑑真はこの世を去りました。享年76歳。鑑真が弟子たちに残した言葉です。

「憂ううことを もちいざれ よろしく方便を求めて必ず本願 遂ぐべし」(心配しなくていい、願いは必ずかなえられる)

※ この記事はNHKの「英雄たちの選択」を参考にして書きました。

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