history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

徳川家茂のことは前回の記事で書きましたが、今日は家茂の苦労話を。家茂は上洛し、孝明天皇に謁見。孝明天皇は攘夷を命令します。家茂は困惑します。アメリカなどの諸外国とは条約を結んでいる上に、武力も圧倒的に向こうのほうが上。戦争を仕掛けるわけにはいかない。かといって、天皇の命に背くわけにもいかない。家茂がトランプのような人だったら、孝明天皇の要望も「条約を結んだんだからしょうがないだろ!ガタガタ言うな!」ってキッパリ断るのでしょうが、家茂は心優しい人。悩んだ末に、孝明天皇と攘夷の約束をしてしまいます。その時の家茂は、ストレスも溜まりまくりだろうな。ましてや家茂はいい人だから、自分の心の中にあるモヤモヤを出すタイプではなさそうだし。

そんな折、1863年5月10日、長州藩が下関の関門海峡にて勝手にアメリカの商船を攻撃してしまうのですね。そうしたら報復父してアメリカの軍艦が長州を攻撃、長州藩はボロ負けしてしまいます。世にいう下関戦争です。長州戦争での負け戦の情報を孝明天皇は知ったのでしょうね。それから孝明天皇は無理な攘夷は危険だと感じたのです。家茂は再び上洛します。その時、孝明天皇が家茂に行った言葉が、

「汝は朕が赤子。朕、汝を愛すること子の如し 汝 朕を親しむこと父の如くせよ その親睦の厚薄コウハク 天下挽回の成否に関係す。」


孝明天皇は家茂に「自分を父と思え」といったのですね。家茂と孝明天皇は義理の兄弟の関係なのに、父と思えと言う言葉を賜っている。それくらい、家茂を孝明天皇は信頼しているだなって。同時に攘夷もしなくて良いといってくれたのです。その慈愛に満ちた孝明天皇の言葉に家茂もほっとしたことでしょう。家茂は一旦将軍職をやめようとしたのですね。何があったのでしょう?結論から申し上げれば、内乱と諸外国の圧力に加え、幕府内の対立が重なり、家茂の神経はすり減らし、将軍の辞職を望んだのですね。内憂外患な状況はもはや家茂のキャパを超えてしまったのですね。同じ将軍でも北の将軍様だったら、こんな状況でも図々しくふんぞり返っていたでしょうが、家茂は心優しい人物だったから余計に悩んだでしょう。

当時は、倒幕運動も盛んで、諸外国の外圧も相当なものでした。幕府は諸外国より兵庫(神戸)の開港と通商条約締結を結ぶよう強く求められていたのです。幕府内ではこのことに意見が分かれていたのです。開港やむなしという意見と、開港はダメという意見。開港やむなしと言うのは幕府の幹部たち。開港はダメというのが当時の将軍後見人だった一橋慶喜。慶喜は将軍を凌ぐほどの力を持っていて、一会桑というグループを作っていたのです。一橋家、会津藩、桑名藩からなる一大勢力で、京都を拠点としておりました。一会桑は朝廷と強く結びついていたのです。幕府の幹部連中は朝廷をコントロールしようという考え方。つまり幕府は朝廷を下に見ていたのですね。一方の一会桑は朝廷の意向を第一に考えておりました。幕府の幹部連中と一桑会の対立に、家茂は板挟みになって心を痛めました。その時、家茂がいった言葉が、

「なんとも致呉候」

どうにでもしてくれ、という意味。とうとう朝廷に辞表を出し、将軍職に慶喜を譲ろうとしたのです。しかし、慶喜は家茂を説得し、家茂の将軍辞職を思い止まらせたのです。慶喜はこの一番の難局に将軍となって火中の栗を拾う必要はないと考えたのでしょうね。

そして長州藩が幕府に立ち向います。家茂は大阪城に行き総大将として迎え討ちますが、突然、喉の痛みと胃腸の異常、そして足が腫れるのです。脚気です。家茂は虫歯が30本もあったくらい、甘いものが好きでした。家茂出陣の際にも甘いものが届けられたのです。糖分は脚気の原因であるビタミンB1の消費を加速させるのですね。それで症状が悪化したのです。孝明天皇は家茂の治療に自らの御典医を送ったものの、家茂は慶応2年(1866)7月20日に大阪城にて死去。将軍在位は8年9ヶ月、21歳の若さでした。家茂は若くしてなくなりましたが、幅広い人たちの信頼を得て、幕府の内紛や事件を未然に防いだのですね。バランスが良く、人との信頼関係を上手に築ける人物でした。逆に言えば調整型の人物。こういう人との信頼関係を作りつつ、ことに当たる政治家は平時はともかく激動の世には向かないのですね。戦後の政治家で言えば、竹下登元首相や羽田孜元総理みたいな方でしょうか。特に羽田元首相は金丸信から「平時の羽田」(*1)と言われたくらいですから。激動の世には吉田茂のような強いリーダーシップが必要なのですね。しかし、大変慕われていたリーダーであることは間違いなく、勝海舟は、家茂の死を持って「幕府の終わり」とつぶやいたほど。

*1 ちなみに金丸は「平時は羽田、乱世は小沢(一郎)、大乱世は梶山(静六)」といった

徳川家茂は14代将軍です。徳川将軍の中では知名度は高い方ではありません。和宮の夫といった方がわかりやすいくらい。和宮は有名ですからね。しかし、家茂はなかなかの名君で、かの徳川吉宗の再来だと言われたほどで、「天授の君」とも言われました。天授とは天がこの世に授けた人という意味。すごい絶賛ですよね。また、勝海舟は滅多に人を褒めない人ですが、家茂のことはベタ褒め。徳川家茂が将軍に就任したのは、わずか13歳。

家茂は子供の頃から、好人物だったと言います。家茂は弘化こうか三年(1846)
に紀州藩朱の嫡男として生まれます。幼名を菊千代と言いました。が、父の死去で、わずか菊千代は4歳で紀州藩主になります。菊千代には浪江という教育係の女がいました。浪江は厳しくも、優しく菊千代を育てたと言います。彼女の教育があって菊千代のリーダーとしての資質が磨かれたのですね。6歳になった菊千代は12代将軍徳川家慶へ謁見えっけんすることになったのです。江戸城登城の際、浪江は菊千代に「謁見の際、お泣きになられてはなりませぬ」と言ったのです。しかし、謁見の場の重々しい雰囲気に菊千代は号泣。無理もありません。菊千代は藩主とはいえ、まだ6歳ですから。見かねた家慶は「好きなものでなだめすかし、遊ばせよ」と言い、小鳥を菊千代のために将軍自らプレゼントしてくれたのです。菊千代は鳥や虫が大好きだったのです。そして、江戸の紀州藩の屋敷に戻った菊千代は浪江の顔を見るなり「浪江、泣いたよ」と正直に答えたと言います。誠実な人柄がうかがえます。

菊千代は将軍の家慶から「慶」の名をたまわり、徳川慶福トクガワヨシトミと改めました。そして藩主として恥じないよう、毎日手習のため筆をとり、論語などを素読、剣術の稽古も熱心にやったと言います。慶福は将軍になって名前を家茂と改めてからも、こうした真面目さは変わらなかったと言います。

将軍になった家茂は、学問を好み、養賢閣ヨウケンカクという学問所を作りました。これは小姓や役人たちが学問を学ぶための施設です。自ら学ぶだけでなく、周辺の人材のレベルアップも図ろうとしたのですね。

また、家茂の良い人のエピソードといえば、こんな話があります。家茂は戸川安清トガワヤスズミに書道を習っていたのですが、ある日、家茂がいきなり戸川の頭に水をかぶせ、手を打って笑い出すと、その場を去ってしまったのですね。いたずら好きな将軍様だと思うでしょ?違うんですね。その場にいた家臣が戸川を心配すると、戸川は「私のために」と泣き出してしまったのです。いぶかる家臣。実は戸川は高齢で、今風にいえばトイレが近くなっていたのですね。この日もがまん出来ず、その場で失禁をしてしまったのですね。失禁とはおもらしのこと。将軍の前で粗相をしたら大変です。それこそ流罪か切腹かというレベル。それを察した家茂は、機転をきかせ戸川の失禁を隠すために水をかけ、イタズラをするフリをしたのですね。将軍様が自ら戸川を庇えば、家臣だって処罰したくても手出しができませんね。いい人ですね。

そして、元服した家茂は和宮と結婚する運びになりました。これは政略結婚です。当時の幕府は、外は欧米の圧力、そして内は倒幕運動の盛り上がりと、内憂外患ナイユウガイカンでした。その状況を打破しようと、幕府は皇女との婚礼を画策。いわゆる公武合体です。家茂と年齢が近いということで孝明天皇の妹の和宮が選ばれました。和宮はすでに有栖川宮熾仁親王アリスガワノミヤタルヒトシンノウというフィアンセがいたのですね。さらに当時の江戸は、鬼のような外国人がウジャウジャいる怖いところと信じられていたのです。だから和宮はこの婚約話を当初は強く拒否。しかし、

「惜しまじな 君と民とのためならば 身は武蔵野の露と消ゆとも」



という句を残しました。これは兄のため、民衆のため、この婚約を受け入れるという意味の句です。文久元年(1861)、和宮は京を発ちます。その輿入れ行列は総勢1万人以上だったというから、かなり大掛かりな行列だったことがうかがえます。翌年の文久2年に家茂と和宮の婚礼の儀がおこなわれます。この時二人の年齢は17歳。しかし和宮の苦難は始まったばかり。和宮は大奥に入ることになりました。大奥はよく言えば女の園。悪く言えば伏魔殿。しかも、武家のしきたりと皇族のしきたりは全然違います。和宮が大奥の人間から意地悪をされるのは火を見るより明らかでした。しかも和宮が京から連れてきた女官と、大奥の古株連中がバトルをする有様。和宮にとって辛い毎日です。そんな和宮に寄り添ったのが夫の家茂。家茂は、和宮に優しい声をかけたり、公務の合間に金魚バチなどさまざまな贈り物をあげたり、いろいろと配慮したのですね。優しいですね。これは家茂が和宮を大事にすることで幕府と朝廷の関係をよくしようという思いもあったかもしれませんが、家茂自身が和宮を愛していたからだと思います。そうした家茂の優しさに次第に和宮の心を開かせたのです。

しかし、世は幕末。動乱の時代。二人の平和な日々を脅かしていくのです。1863年、家茂は上洛をします。当時の京都は、現在みたいな観光地ではなく、尊王攘夷派が暴れ回る大変危険な場所でした。そんな危ないところをあえて出向いたのですね。将軍の上洛は三代将軍家光以来229年ぶり。それくらい幕府はあせっていたのでしょうね。そして家茂は義理の兄である孝明天皇にも謁見。孝明天皇は和宮の様子を訪ねたり、外国船を打ち払えと攘夷を命じたり。そんな最中、京にいる家茂のもとに和宮から手紙が来たと言います。

「寒さ厳しい中、無事着いたとのことを聞き、安堵しております。私は一時期、痘瘡トウソウができ困ってしまいました」と。

すると家茂は返礼を出しました。

「贈ってくれた見事な菓子を慰めとし、鬱情ウツジョウを晴らしております。痘瘡ができたのこと、難儀であったこととお察しします」

と和宮の病気を気遣う様子も伺えます。実は家茂は甘党でお菓子が大好き。和宮は家茂のために、そうした配慮もしたのですね。仲の良さが伺えます。家茂は21歳の若さで亡くなるのですが、その亡骸は和宮の元に届きます。一緒に届けられたのが、西陣織の反物。かつて和宮が家茂におねだりしたものです。家茂は買ってくれたのですね。悲しみに暮れる和宮が読んだ句がこちら。


「空蝉の 唐織衣 何かせむ 綾も錦も 君ありてこそ」



和宮は立派な着物も、君(家茂)がいてこそと読んだのですね。夫を失った悲しみが伝わります。夫を失った和宮は京に戻らず、そのまま江戸に止まり、徳川の女として幕府を守ったのです。幕府を滅ぼそうと、朝廷の総大将になんと元フィアンセの有栖川宮熾仁親王アリスガワノミヤタルヒトシンノウ。和宮は熾仁親王に手紙を何度も書き、幕府攻撃を思い止まらせたと言います。そして、明治10(1877)8月に和宮は亡くなります。和宮の亡骸は増上寺に葬られ、夫の家茂の隣に和宮の墓があります。和宮は亡くなる時写真を抱いておりまして、その写真がぼやけて誰だかわからないのですね。熾仁親王という説もありますが、家茂の可能性の方が遥かに高いと思われます。

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(いづれも関門海峡あたりにある大砲。奇しくも壇ノ浦の合戦のあった場所と同じ場所。関門海峡辺りは争いごとがおこる因縁なのかな?)

* この記事は「にっぽん!歴史鑑定」を参考にして書きました。

1 反中共だった岸信介
明日は天安門事件です。早いものでもう三十年以上経つのですね。痛ましい事件でした。当時、僕は中学生したが、一般市民に銃を向ける当時の中国の恐ろしさにゾッとしたものです。中国当局は犠牲者は三百人くらいだと発表しておりますが、実際はもっといただろうと。下手すりゃ一万人くらいいたんじゃないかって説もあるほど。あれから中国はめざましい経済発展を続けておりますが、今なお中国共産党による独裁政治を続けております。

また台湾を巡って中国との緊張も高まり、日本でも中国の脅威を訴え、憲法を改正しようという声も上がっております。今の岸田総理が中国に対して宥和的ユウワテキな態度なので、対中強硬派の安倍晋三元総理が今なお根強い人気があるようです。では、安倍晋三元総理の祖父である岸信介は中国との関係について、どのように考えていたのでしょう?

岸信介が総理だった頃の中国は、大陸とは国交がなく、蒋介石率いる台湾と国交を結んでおりました。岸信介は台湾との関係を非常に重視していましたから、岸内閣時代は日中関係が最悪だったと言います。ちなみに、岸の次の池田勇人内閣では台湾との間でギクシャクします。池田内閣は中国との関係を持とうとする一方で、台湾と距離を置こうとした。そのことで蒋介石を怒らせてしまったとか。この池田内閣での中国に対する取り組みが、のちの田中角栄内閣による日中国交回復につながるのですが。

ともあれ、中国共産党は、岸に対して敵視していたのですね。中国が「岸内閣が米国と結託し、中国人民を敵視している陰謀に対して、極めて憤慨をおぼえずに居られない」(1958年11月19日、当時の中国の外交部長の声明)。それに対し岸信介は「トンと身に覚えのない話」と切って捨てております。さらに岸は「だいたい共産党員というものは、人間の誠実さとか善意の通用しない、我々の頭の中にある“人間“には当てはまらない連中だとは思っていたが、中共首脳の発言は全く理解に苦しむものであった」(※1)と断じていました。

2 政経分離
一方で岸信介といえども中国との関係を全く無視することができず、「政経分離」を考えていたのです。政治上では付き合いたくないが、経済の面ではお付き合いしましょうということでしょう。また岸も経済だけでなく、「文化的にも過去に日本と密接な関係を持ってきたから、そこの人民と友好を図るのは望ましい」という考えを持っていたのです。つまり、岸は中共は嫌いだが、人民には罪はないということでしょう。

経済的な結びつきの一環として昭和30年(1955)10月に大阪で中国の見本市が行われましたが、そこで揉め事があったのですね。見本市は二ヶ月以内との約束でしたが、中共関係者は開催前の準備と終了後の残務整理があるから、「二ヶ月では短い、さらに三週間延長してほしい」と要求したのですね。それで日本政府は関係者の指紋の押印を頼んだが、中共はそれを拒否。

当時の日本の法律(外国人登録法)では、政府の公務員及び国際間の公務を帯びる者を除き、外国人の滞在が二ヶ月を超える場合は指紋の捺印を押さなければならない決まりになっております。それは、どこの国であっても例外ではありません。当時の政府は苦慮しましたが、結局、政府は見本市の関係者は指紋の押印をしなくて良いと判断したのです。

見本市は各国政府が援助している国際的な組織とみなすべきで、国際貿易の増大に寄与しており、その行事の国際的意義も認めたれている。従って、見本市の関係者は、我が国の外国人登録法の適用外だから、押印は必要ないとのことです。もちろん、こうした特権を与えたことに対し、批判の声も上がったのですね。ましてや中国とは国交がなかったので。このような特権を上げればますます中共はつけあがるし、台湾も怒ってしまうと。しかし、そのようなリスクを踏まえた上で、見本市なら指紋の押印しなくて良いと岸内閣においても閣議で認められたのですね。


昭和三十年代はまだ中国と正式な国交はなかったのですが、自民党のイケショウこと池田正之輔イケダマサノスケが中心になって中国との貿易交渉に当たっていたのですね。1953年以来、訪中団を率いて数度も中国に訪れたそうです。1958年に第四次通商協定を結ぶなど、日中貿易にも貢献したのですね。こうして政治的にはともかく、経済の面では着々と交流が進んだのですね。とはいえ、国交がなかったので、民間レベルの細々とした貿易でしたが。政治では台湾、経済では中国と付き合うという、どっちつかずな態度を取れば、台湾と中共の双方の反発を招いてしまうと岸は考えました。それで岸は、日本の立場を誠実に訴えたと言いますが、なかなか納得してもらえず苦労したのとこと。

特に台湾の蒋介石は、大陸反抗政策をとっており、中共と激しく対立していたから余計です。蒋介石はマジで中国に攻め込もうとしていたのですね。今も台湾との関係に緊張が走っておりますが、この時代も中台関係はやばかったのです。岸が蒋介石にあった時、「軍事行動は不可能に近いから、それより台湾に理想的な国家を作るべき。そうすれば蒋介石の政治が宣伝となって、大陸を追い詰めることができる」と持ちかけたと言います。すごいですね。かつての李登輝や今の蔡英文総統がやっていることを先駆けてやりなさいと提案しているのだから。すると蒋介石は「そんな生やさしいやり方ではダメだ」と反発したとか。

3 長崎国旗事件
さて、岸が総理の時に事件がありました。長崎国旗事件です。1958年の5月2日に長崎で起きた事件です。長崎にあるデパートの催事会場で、日中友好協会長崎支部の主催により、「中国切手、切り絵展示会」が開かれていたのです。会場の入り口には中国側の国旗が飾られていたのです。中国政府の国旗🇨🇳が飾られてたこと対して、台湾側は怒ったそうです。台湾の領事館も「日本と国府(台湾)との友好関係に悪影響を与える」と警告。


そして事件が起こりました。右翼団体に所属する日本人の青年が会場に展示された中国国旗を引きずり下ろして毀損キソンしたといいます。一応、警察は青年を逮捕しましたが、すぐ釈放されました。中国側は、警察の処理の仕方がけしからんと激怒したと言います。岸信介もそのことで中国から批判されましたが、岸は「法律的にアレを国旗として認めるわけじゃないから、釈放させるしかなかった」と回想しております。確かに刑法に外国国章損壊罪という罪があるのですが、その保護すべき国旗とはその国を象徴するものとして掲げられた公式の国旗のみなんですね。引きずり降ろされた旗は会場の装飾品であり、いわば運動会で使う万国旗みたいなもの。中国政府の正式な国旗ではないのですね。さらに中国とは国交もなかったので尚更でしょう。

さらに中国政府はこの事件が起こってすぐさま、社会党を選挙支援しただけでなく、日中貿易を全面的に停止する処置を取ったのです。第四次通商協定も破棄されたのです。この事件のすぐ後に総選挙(1958年5月22日)があったのですが、長崎国旗事件の影響はなく、自民党は大勝しました。

*1 『岸信介回顧録』(p365)より

* 参考文献
岸信介回顧録―保守合同と安保改定
岸 信介
広済堂出版
1983-01-01



岸信介証言録 (中公文庫)
中央公論新社
2014-11-21

安倍寛という人をご存知でしょうか。え、「トリック」、「ドラゴン桜」?言っておきますが俳優さんではありませんよw?あちらは阿部寛さん。勘違いならぬアベ違いですね。安倍寛は安倍晋三さんの父方のおじいさまです。安倍晋三さんの祖父といえば岸信介元総理を連想する方も多いかと思われますが、岸さんは母方のおじいさま。安倍寛は反戦の政治家で、大政翼賛会に入らず、軍部に抵抗した、気骨の政治家でした。

安倍寛は、山口県の日置村の出身で、安倍家は代々、醤油などの醸造業を営み、田畑や山林を多く持つ大地主だったそうです。安部寛のおじも県議を務めたと言います。今も安倍家のお墓が日置村にあり、近隣の住民がボランティアが墓を守っています。安倍寛は幼くして両親を亡くし、母の実姉が親代わりになったと言います。寛は勉学につとめ、東京帝国大学に入学。そして、日置村の村長を経て、おじが果たせなかった代議士になったのです。ちなみに村長さんになる前に、東京で会社を起こしたが、そちらはあまりうまくいかなった模様。

その人柄は「真面目で信念がある人。それと清廉潔癖。人望もあった。頭も良かったが、俺が俺がというタイプではなかった」とのこと。また美男子で、当時は高価だった三越製の背広や帽子を愛用するダンディーな人だったとのこと。また、地元の人が「安倍寛さんが、もし90歳まで生きていたら日本の政治が変わったくらいの方だった」というほど。それほど地元の人に慕われていたのです。


阿部寛は東京で結婚をしたが、子供を一人残して妻と離縁をしてしまいます・・・その子供というのが、のちの安倍晋太郎さん。一人息子と共に郷里に帰って以降、寛は生涯独身を貫いたと言います。

山口に戻り、1928年(昭和3年)に「金権腐敗打破」を叫んで普通選挙に立候補しましたが、落選。選挙の後、寛は学生時代に患った結核の再発。さらに結核も再発した上に、脊椎カリエスまで併発。当時の医療では脊椎カリエスは治せなかったと言います。寛は元々体が丈夫ではなく、学生時代には結核を患い、その後おたびたび寛の体を蝕んだのですね。

そんな状況の中、寛に村長になってくれと地元の住民が頼み込みます。日置村はその当時の村長、村議会が真っ二つに割れて抗争を繰り返す無政府状態だったのですね。そんな状況を変えたいということで、寛に村長になってほしいと。寛は言いました。「病床のままで良いか?」と。村民はもちろんOK。こうして寛は村長になったのです。それは1933年(昭和8)のこと。その時寛は33歳。安倍寛は日置村で療養生活をしながら村長の仕事をこなしました。しかし、その頃の日本は戦争の道を進んでいました。そして日本がゆっくりと破滅の道を歩んでいる。そんな状況に寛は耐えられなかったのでしょう。寛は1935年(昭和10)、村長をやりながら、山口県議選挙に出馬。見事当選。そして国政に出ようと思い、1937年(昭和12)の衆議院議員選挙に山口1区から無所属で出馬。貧富の格差への憤り、失業者対策の必要性や、農村の復興、大資本の批判を訴えたと言います。さらに軍部の暴走と、それに有効な手立ても打てない既成政党も批判したのです。そして見事初当選。

1942年(昭和十七)の衆議院銀選挙は、とても選挙と呼べないひどいものでした。大政翼賛会の時代で、軍部の横やりも入り、軍部に批判的な候補者は推薦をもらえない。逆に大政翼賛会の推薦をもらえた候補者は、官民あげての手厚い選挙支援され、軍事費から選挙資金が横流しされる有様。警察や特高による執拗な弾圧や嫌がらせがあったと言います。そんな状況で安倍寛は出馬。彼は軍部におもねることもなく戦争や時の東条内閣を批判したとので、非推薦の上、嫌がらせも受けたと言います。警察は24時間、寛をマークし、当時17歳だった息子の晋太郎まで執拗な質問をされたと言います。それで定数4の山口1区で四番目の滑り込み当選。

寛は地元の人に慕われた上に、理屈に合わないカネは突き返すような人でした。だからこそ地元の人たちは寛をなお尊敬し、逆境の中でも、寛を応援したのです。選挙で戦っている寛のために地元の人たちがおむすびを作ったなんて話もあったほど。

それにしてもなぜ、ここまで寛は自分の危険を顧みないで、戦争反対を訴えたのでしょう。地元の人がいうには、当時の軍部は下っ端の将校までが「日本を背負うのは俺だ。庶民は黙って俺たちについて来い」という雰囲気だったと。よくいえばリーダシップがあるといえますが、悪くいえば、思い上がりとも取れます。そんな状況に寛は我慢できなかったのでしょうね。そして終戦を迎えます。しかし、寛はこれまでの無理がたたり、体調を崩していたのです。そんな寛を意外な人物が見舞いに来たのです。岸信介元総理です。なぜ?安倍寛は三木武夫元総理と親しかったようですが、思想的に似ている三木ではなく、なぜ岸が?岸と安倍寛は思想的には正反対だし、接点もあまりないのに。

岸信介は国粋主義者のイメージがありますが、非常にマキャベリストであり、イデオロギーで人を判断する人間ではなかったのです。寛の主義主張はともかく、その高潔な人柄に惚れ込んでいたのかもしれません。のちに寛の息子の晋太郎と、岸信介の娘の洋子さんが結婚。晋太郎さんと洋子さんの間に生まれたのが、のちの安倍晋三さんというわけです。二人の結婚話が持ち上がった時、岸信介は「大津聖人(安倍寛)の息子なら心配ない」と述べたとか。

寛は戦後は日本進歩党に加入し1946年(昭和21年)4月の第22回総選挙に向けて準備していたが、直前に心臓麻痺で急死しました。惜しい人を無くしたなって。彼が病気せずにそのまま政治家になっていたら、本当に日本は変わっていたかもしれませんね。

*参考文献
安倍三代 (朝日文庫)
青木 理
朝日新聞出版
2019-04-05

選挙が近くなり、選挙カーをあちこち見かけるようになりました。日頃から熱心に駅前で演説をしている議員さんも、普段は演説やらない議員さんも、どちらも頑張っています。僕が見たところ、普段演説をやらない人ほど一生懸命頑張っている感じがするw、そりゃ「“あの人は選挙の時だけお願いします“だから」なんて思われたくないから。いい方は悪いが、選挙は議員さんの就活みたいなものですからね。

さて、世襲議員はとりわけ悪く言われます。苦労を知らないからだとか、無能だとか、ひ弱だとか、庶民の気持ちがわからないとか。戦後まもない頃の議員さんは生粋の叩き上げが多く、そうした人たちが日本を立て直したと言っても過言ではありません。昔の議員さんは本当に迫力というか威厳がありました。田中角栄元総理にせよ、岸信介元総理にせよ、後藤田正晴さんにせよ、すごかった。国会議員どころか市議クラスですら、威厳というか、古武士のような風格が感じられる人が多かった。また苦労をしているせいか人の気持ちがわかる面もあった。実は僕の親戚にも市議さんがいたのですが、気さくでいい感じの人でした。でも、人生の甘いも酸いも知っている苦労人で人の気持ちがわかる人でした。

野中広務さんも、ネットとかでメッチャ叩かれているが、よくも悪くも迫力を感じる人でした。また苦労人だけあって、弱者にも目を向けている面もあった。野中さんの著作もよませてもらいました。彼はネットでは売国奴と叩かれているけれど、日本のことを彼なりに一生懸命考えていたんだなって思いましたよ。議員を引退してから、野中さんは、地元を散歩することを日課としていたそうです。そして公園のホームレスと会話していたのだそうです。ある日、あるホームレスに説教をした後、ホームレスにポケットマネーを渡したと言います。「その日から公園にきていない。やっと故郷に帰ったんだろう」と、自分のことのように喜んだとか。

さて、世襲議員についてですが、これは一概に悪いとは僕は思いません。元自民党の大物議員だった古賀誠さんは「親に勝る政治家もいる」と言ったほど。あと、ある保守系言論人が「世襲議員の方が、幼い頃から、陳情に聞いている人を見ていたりしているから意識が高い」と言っていましたっけ。幼い頃から政治の世界を肌で感じていることは大きいということでしょう。また、その人は「世襲を批判したところで、市民活動上がりだとかタレント議員が増えても困る」みたいなこともおっしゃっていたなあ。歴史上、古くは藤原不比等、戦国武将、たとえば武田信玄、織田信長、北条氏康etc、江戸時代の徳川家光はもちろん、徳川吉宗だって世襲と言えば世襲。さらに大正や昭和に活躍した牧野伸顕は大久保利通の子。牧野の娘の夫が吉田茂。吉田茂も世襲議員みたいなものですね。世襲が悪いわけじゃないです。

ただ、古賀誠さんは世襲議員を一概に悪いとは思わないが、近年の世襲議員は「故郷をもっていない」とおっしゃっております。「世襲議員というのは、大体、都会の生まれ(とりわけ東京生まれ)が多く、郷土の土とか、郷土の風を知らない、おじいちゃんや父ちゃんの地盤があって、本人はそこの土と水で育っていない」と古賀さんおっしゃるのです。例えば、公共事業って何かと叩かれるけれど、あれも地方を活性化させる一環なのですね。河川を整備しなければ、増水や氾濫で災害に遭う。道路もなければ救急車も間に合わない。まさに命に関わる問題ですよね。僕も日本の各地をちょくちょく旅行に行くけれど、荒れ果てた田畑や地方のシャッター街とか見るたびに、地元の政治家は何やっているんだって思いますもの。また僕は以前に某世襲議員の地元に旅行しまして、タクシーの運ちゃんにその政治家の名前を出したら急に不機嫌になったっけ。地元に帰るのは選挙くらいで何もしないって。「憲法改正する・しない」も大事かもしれないが、その前に地元のことをもっと見てほしいと。李登輝元総統も同じこと言ってたなあ。「日本の政治家は東京しか見ていない」って。つまり、東京の生まれのためにどうしても東京を視点にして日本を見るところがあると。東京がどんどん発展する一方で他の都市や地方が疲弊していく。そんな状況が続いているのです。



また今の議員さんって世襲関係なく、どこか軽い感じの人が目立つんだよなあ。みんながみんなそうではないが。これは申し訳ないが、マスコミにも責任がると思うんですよね。マスコミって良くも悪くも軽薄な人が好き。記事にしやすいから。だから、そういう候補者をどんどん取り上げる。口が重かったり、古武士風の人は記事やネタにしづらいから嫌われやすい。だから普段から地道にコツコツやって地元に慕われている人でも派手さがないとマスコミはまともに取り上げてくれない。議員さんだって、当選したいから、実績を訴えるよりもマスコミに取り上げてもらって有名になった方が票を取りやすい。地道にコツコツやるよりも、ちょっと変わったことをしたり、パフォーマンスに走ったりする。もちろんパフォーマンスも優れた政治家の才覚という意見もあるから、一概に批判はできませんが。

※1『安倍三代』(青木理著 P174)

*参考文献及び参考サイト

安倍三代 (朝日文庫)
青木 理
朝日新聞出版
2019-04-05



https://diamond.jp/articles/-/249108?page=4

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