history日誌

1918年第一次世界大戦中またしても、疫病がはじまるのです。それはスペイン風邪。いまでいえばインフルエンザです。大戦で戦った兵士たちが感染し、そこから世界中に広まったのです。それでワクチンを開発。インフルエンザの原因と思われる細菌を発見。この細菌をもとにワクチンがつくられました。ところが、ワクチンは思ったような効果がでず、患者は増えるばかり。それもそのはず、インフルエンザの原因はウィルスだったのです。ウィルスは最近よりもずっと小さかったので顕微鏡では発見できなかったのです。まさにウィルスは未知の存在だったのです。

その未知なるものに挑んだのがアメリカのサンフランシスコの保健委員会委員長ウィリアム・ハスラー。彼が行ったことは「人の接触を減らす(人が集まりそうな娯楽施設や学校・教会閉鎖」ことと「市民に対するマスクの着用義務付け」。

なんとサンフランシスコの市民99%ちかくがマスクを着けていたといいます。当時アメリカは第一次世界大戦の前線で兵士たちが戦っていました。その兵士たちにインフルエンザを移さないためにも自分たち市民が協力せねばと思ったのですね。

ハスラーは「これはサンフランシスコ市民の持つ注目すべき知識レベルの高さと強調精神の証だ」と。そのハスラーの呼びかけに市民が応えたのですね。1918年10月には8000人の市民がインフルエンザに新規感染したのですが、11月には二けたまで下がったといいます。11月21日にはマスク着用条例が解除。そして閉鎖していたあ娯楽施設や学校や教会も再開させます。ところが、マスク着用条例解除の10日前、第一次世界大戦が休戦したのです。戦争終結の喜びとともに、自粛疲れも手伝って気が緩んだのですね。感染者の数は減ったものの、ウィルスが潜伏していたことは当時の人たちは気づかなかったのです。

そしてマスク条例を解除してから徐々に増え始めました。また悪いことに12月はだんだん寒くて乾燥していますからウィルスにとっては居心地のよい環境です。さらに悪いことに12月といえばクリスマス。ますます市民の気が緩みます。それでハスラーは12月7日、ふたたびマスク着用義務化の再実施を訴えます。しかし、議会ではクリスマスが盛り下がるとかいろいろな理由をつけて反対されます。戦争が終わったので、兵士たちをマスクをつけて守ろうという愛国的な目標が失われてしまったのですね。今日の日本に例えればマスクをして自粛をして医師を守ろうという目標ですね。そのうえ戦争が終わった喜びから市民はクリスマスを楽しみたいという気持ちがあったのです。

インフルエンザでサンフランシスコの死者は3500人でした。そのうち1453人も亡くなりましたが、その1453人はマスク着用解除後の死者だったのです。

疫病という目に見えない恐怖は、時に人間の心を狂わし、病気に感染した人を差別したり、いじめたり、そんなことが繰り返されてきたのです。ハンセン病患者もそうだし、今日のコロナに感染した人が白い眼で見られてしまうのです。人間が自然の一部である限り感染病は必ず起こるといいます。、

肝心なのは、そうした感染症にどう対応していくか。ウィルスや細菌という病原体をいたずらに恐れるのではなく、歴史を振り返っても疫病は我々の社会の弱点を突くような形ででてくるのです。たとえば、今回のコロナを通して社会の問題点がいろいろと浮き彫りになったような気がします。日本であれば、病気でも仕事を休めない日本社会。首都圏に企業や学校が集中しているため、朝はどこも満員列車。これではコロナも感染してしまう。

外国を見ても、貧富の差が激しくて貧しい人たちが狭いところで雑魚寝をしているためにどんどん感染が進む国。医療が遅れているために感染が止まらない国。衛生状況が悪すぎるために感染が進む国。

また、感染症やウィルスがあったときに世の中はかわってきているのですね。それゆえに社会の仕組みも変わってきているのです。それが悪いことばかりではないのです。たとえば、今回のコロナを通して首都圏への集中を見直し、地方にも大学や企業の移転が進むかもしれない。テレワークが進み、働き方改革も進むかもしれない。

たしかにコロナは大変恐ろしいですが、人類は何回も疫病の危機を乗り越えてきたのです。それも今よりも医療の知識がなかった時代に。だから、今回のコロナも必ず乗り越えられると僕は信じております。

今でこそ手洗いが感染予防の基本だといわれていますが、一昔前は手洗いの重要性が理解されないどころか、バカにされたといいます。手には小さな微生物が付着しているから手洗いをすることが大事だとわかったのは17世紀ごろ。

オランダの人文学者のレーウェンフックら科学者たちが当時発明さればかリの顕微鏡をつかって、手には微生物やらバイ菌がいっぱいいることを突き止めたのです。そこで肉眼では見えない微生物が原因じゃないかといわれるようになりました。しかし、当時の科学の主流は悪い空気が人間を病気にすると信じられておりました。それはなんと19世紀まで病気は悪い空気が原因だと信じられていたのです。

19世紀オーストリアウィーンにて。ウィーン大学病院の産婦人科の医師イグナック・ゼンメルワイス。当時のウィーンでは 産褥熱さんちょくねつという病気で妊婦たちは苦しんでいたのです。一か月で208人中36人がこの病気で亡くなったといいます。ゼンメルワイスは患者のデータを診て奇妙なことに気づきました。

ウィーン大学病院にはふたつの産科があり、第一産科には医師や医学生が、第二産科には助産婦が働いていたのです。このうち、第一産科のほうが産褥熱さんちょくねつにかかる人がはるかに多かったのです。なぜこのような結果になったのか。ゼンメルワイスは二つの第一産科と第二産科の気温や温度、食べ物や飲み物まで比較したといいます。しかし、そこには大きな違いはありません。それでゼンメルワイスは第一産科の医師たちの行動と、第二産科の助産婦たちの行動を観察しました。すると決定的な違いがあることが分かったのです。

第一産科の医師たちだけが死亡した患者を解剖していました。医師たちが解剖をする際に死体についている「死体粒子」という物質が彼らの手に付着したのではないか。そして手についた死体粒子が妊婦を診察する際に、彼女たちの産道に付着して病気を起こすのではないかと。

この死体粒子を落とすには手洗いをするとよいと気づいたのです。ゼンメルワイスは、医師たちに手を洗うことはもちろん、医療器具を塩素で洗ったり、爪までも入念にブラシで洗うように指導したといいます。すると第一産科における死亡率が驚くほど下がったのです。

そしてゼンメルワイスは「 産褥熱さんちょくねつの原因と概念およびその予防法」という論文を1861年に発表しました。

産褥熱さんちょくねつは悪い空気からくるものではない。感染で起こるのだ。したがって予防可能な病気であり、この病気が蔓延する積金は予防に努めようとしない者にある」「私たち医師が数世紀にわたり墓場に贈ってしまった犠牲者の数は神のみがご存知だ。こうした認識は医者にとってつらくても秘密にすることは絶対にできない」と。


ところが、ゼンメルワイスの主張にたいし、医学界の権威たちは激怒。なぜ医学界の権威たちが怒ったかというと、患者の死が医者のミスによるものというゼンメルワイスの主張は受け入れがたいものだったのです。また、手洗いが病気をふせぐとか微生物をなくすという発想が当時の医師の権威にはなかったのでしょう。またゼンメルワイスのこだわりの強い性格も災いし、当時の医学界の人たちに受け入れてもらえなかったのでしょう。

こうしてゼンメルワイスの主張は否定されたのです。その後、ゼンメルワイスは精神を病み1865年、46歳で亡くなってしまいます。科学の世界や医学界にも派閥争いみたいなものがあったのですね・・・なんか今の日〇医〇会や東〇医〇会とかととダブるな・・・

ところが1876年、ドイツの医師ロベルト・コッホがコッホの三原則をうちだしたのです。

  • 病気にかかった動物から原因から可能性がある細菌を見つけ出す。


  • 最近を取り出し培養


  • 培養した細菌を健康な動物に接種。同じ症状が現れ場、病気の原因は最近


コッホの三原則により、細菌が悪さをすることが判明。そしてゼンメルワイスが主張した手洗いの重要性も科学的に証明されたのです。

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本題に入る前にの絵をごらんください。なんのコスプレでしょうw?ハロウィンではありません。これは中世のヨーロッパでペストが流行ったときに当時の医療従事者というか医者がこのような衣装をしていたのですね。最近、テレビで医療従事者という言葉ばかり聞いていたので、つい医療従事者って言葉が出てきますw

当時の医者が鳥のようなマスクをつけていたのです。それはマスクのくちばしのところに汚染された空気を浄化するための薬が入っていたのですね。そのマスクの眼の部分にはガラスがはられております。これは悪い空気をふせぐため。当時のヨーロッパでは感染症は悪い空気が引き起こすと考えられていたのです。

現代ではペストの原因はペスト菌だとわかっていますが、当時の人たちは微生物や菌の存在を知りませんでした。そのペストの毒の原因は神の罰だと人々は考えました。

神の罰ということから、己の肉体をムチで痛めつけ、ひたすら神のの許しを求めようとした人間まで現れたのです。そうして個人から次第に団体になり、苦行団は100人ほど集まっては、都市や農村を移動し上半身裸になって、教会の広場に集まったといいます。そこで彼らは自身のムチで売って血を流し、神への謝罪を繰り返したといいます。

ペストの原因は神の罰ではなく、ペスト菌が病原体です。黒死病ともいわれております。ペスト菌の発生源はネズミです。ドラえもんがネズミが嫌いなのは一度ペストにかかったから?うそうそ、そんなことありませんw

もっといえばペスト菌はネズミについているノミから人間に感染するのです。ペスト菌をもっているネズミの血をノミが吸い、そのノミが感染します。さらにそのノミが人間にまとわりついて、人間はペストに感染してしまうのです。一人が感染すると、人から人へと飛沫感染ひまつかんせん、つまり人が話をしたり、セキをしたりして、感染するのですね。そこのところはコロナとおんなじですね。

ペストは症状により何種類かあるようですが、一般的な症状は2〜6日の潜伏期間の後発症するそうです。発熱や吐き気、頭痛、めまい、ゲリ、リンパ節が大きくはれ炎症を起こし激しく痛むなど。一般に死亡は発症後から3〜5日、ひどい時は数時間から一日で死亡するというから恐ろしい。

ペストは中央アジアから広がり、1346年から52年まで流行し、死者が5000万人もいたといいます。墓での埋葬が追い付かず死体がそのまま捨てられるありさまだったそうです。それが雨が降るともっとひどいことになります。ペストで死んだ死体の山に雨水がしみ、それが地表へしみます。それが地下水や川、井戸水に流れたら、その水を飲んだ者がやはりペストにかかってしまうのです。昔は抗生物質もなかったし、衛生観念もなかったから、余計ひどいことになったそうです。

ペスト菌は比較的熱に弱かったそうです。その適性のためかアフリカのサハラ砂漠より南の地方が直接ペストが侵入しなかったのです。一方でコロナはサハラ砂漠より南でも広まっているところをみると、コロナは熱にも強そうです。そういう意味ではコロナはペストよりやっかいかもしれません。

ペストはその恐ろしい症状だけでなく、人間を不安と恐怖のどん底に陥れました。そして、それから逃れるために行われたのがうさ晴らし、逃亡、他者への迫害です。

どんちゃん騒ぎや酒を食らったりして現実逃避をしたり、他の都市に逃亡したり。

一部の富裕層は郊外へ逃げ、今でいうステイホームをしたそうです。その中でも作家のボッカチオは『デカメロン』という著作からこのようなことを書いております。初めに言っておきますが、でかいメロンのことではありませんからw

「この疫病がひどい有様になったのは火との接触によって病人から健康な人へと感染していったからです。」「病人を時々訪ねるだけでも感染してしまい」「衣服をはじめ病人が触ったりつかったしたものは何でもひとたび触るとたちまち感染してしまうのです」


そして、黒死病が流行って弱いものがどんどん迫害されるようになります。その標的になったのがユダヤ人。「ユダヤ人が井戸や泉に毒物を入れ、ペストの原因となる瘴気しょうきを発生させた」と。まったくの濡れ衣ですが、当時のヨーロッパ人はペストはユダヤ人の陰謀だと信じていたのです。1348年3月スペインのバルセロナでペストが大流行すると、ユダヤ人が疑われ、大勢殺されたといいます。

そうやってスペインからスイスやフランスへと広まっていくとさらにユダヤ人に対するまなざしは厳しくなります。ひどかったのが1349年2月、フランス北東部のストラスブールで起きた悲劇です。この街ではまだペストがひろまっていないに被害を未然に防ごうと約900人のユダヤ人が共同墓地に掘った大穴で焼き殺されたといいます。

その後もユダヤ人迫害はヨーロッパ中で広がり、一万人以上が犠牲になったといいます。ユダヤ人大量殺害というとヒトラーを連想しますが、すでにこの時代から始まっていたのですね・・・・また、ユダヤ人だけでなくロマやハンセン病の人までも迫害を受けたといいます。

恐怖の原因を自分たちと異なるものに原因を求めて、恐怖のはけ口にしていたのですね。デマを信じて、これほどの被害が起こるというのは現代でもないとは言えないのです。

情報が発達した現代においてもありえるのです。実際SNSでもデマの書き込みが随分ありましたし、自粛警察と呼ばれる人たちが、非常事態宣言のさなか営業中のお店に張り紙を貼ったり、嫌がらせ電話をしたとか。大量の情報があふれるからこそかって混乱が生じるという事があるのです。それを「インフォデミック」というそうです。

おしまいに、ノストラダムスのお話をします。ノストラダムスは予言者として有名ですが、本職は医師だったのです。ノストラダムスはどうやってペストに取り組んだのでしょう。

ノストラダムスは過去の経験から学んだペスト駆逐法を次から次へと実行していきました。死者を埋葬したあと、石灰石で覆うように命じ、道を洗浄し、ネズミを集めて焼き捨てたりしました。残った人々には、手や顔を洗うようにすすめました。患者に対しては、風通しのよいベッドに寝かせ、またハーブを調合した薬を与えたりしました。こうしたノストラダムスの努力も実り、ノストラダムスがいた街はペストが収まったといいます。ノストラダムスは、ペスト治療の功労者としてフランス医療史に名を残したのです。

※ 参考文献
予言者 (Truth In Fantasy)
第666部隊
新紀元社
1998-10-01



ペストの歴史
宮崎 揚弘
山川出版社
2015-05-22

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