history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

あけましておめでとうございます。本年も良いお年になりますように。

今年は寅年なので、プロ野球でも阪神タイガースに頑張ってもらいたいなって。

言っておきますが、わたくしはプロ野球特別どこのチームも応援しておりません。その時その時で応援するチームが違いまして。西武がめちゃくちゃ強かった時(1980年代から90年代にかけて)は、日本シリーズではセリーグの優勝チームを毎回応援して、パリーグ覇者の西武をやっつけろなんて思ってまして。あの時の西武は憎たらしいほど強かったから。今は西武バスや西武鉄道をちょくちょく利用するせいか、西武は嫌いじゃなくなりました。震災の時は楽天を応援していました。ちなみに知り合いや友達は阪神ファンと中日ファンがなぜか多く、巨人ファンの方とは、あまりお会いしたことがありません。東京に住んでいるのにおかしいなwちなみに僕の母親が巨人ファンでした。ともあれ、プロ野球もコロナで色々大変なことになっておりますので、選手のみなさんもお体に気をつけてプレーしてほしいなって。

それでは本題に移ります。今日は演歌のお話、演歌の話をして、ええんか?なんちゃってw




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最近、NHKの「戦艦大和」の元乗組員の証言を紹介したドキュメンタリー番組を見させてもらいました。NHKのスタッフが元乗組員さんのご自宅を訪ね、インタビューをしたものです。僕が見て、印象的だったのが、お部屋(おそらく居間)に戦艦大和の模型や絵が飾っている元乗組員さんが少なくなかったこと。その模型というのも子供だましなチャチなものじゃなく、精巧につくられたものです。模型は、お話をされている元乗組員さんの後ろに置いてあったのですが、遠目からみても、結構、高価そうなものです。中にはガラスケースに模型を入れ大事に保管されている方もいらっしゃいました。それくらい元乗組員さんにとって大和は誇りなんだなあって。

実際、「戦争は好きでも、大和は好き」とか「大和は自分の青春」と、ある乗組員さんはおっしゃっていました。あと、「大和に乗ったことは誇りでした。」とか「人生にとってプラスだった」とか「大和に乗って本当によかった。乗っていなかったら、ぐうたらな月給泥棒になっていたかもしれない」という声も。大和は競争率も高く、成績が優秀じゃないと乗れないのですね。当時の海軍軍人にとって大和は、あこがれだったのです。今で言えば、東大に入って大手企業や官庁に就職するようなものでしょうか。大和で厳しい思いをしたからこそ、少々のことではへこたれない精神力が身についたということでしょう。もちろん、そうした厳しい体験がプラスになった人もいれば、PTSDになった人もいたと思われます。実際、大和の乗組員で「今でも海が怖い」って方もいらっしゃるそうです。

当時は、厳しい訓練や、明日は死ぬかもしれないって気持ちだったと思うのですが、乗組員さんたちは楽しそうに、時には厳しい表情で、大和の話を進んでされているのですね。反戦主義者でもなく、軍国主義者でもない、そこには必死にその時代を生きる生の人間の姿がありました。

もちろん、皆が皆、大和に乗ったことを誇りに思ったわけじゃないし、大和のことを嬉々として語る人ばかりではありません。大和でのくるしい訓練に耐えられず、大和の艦体から海に飛び込んで自殺をした人もいたといいます。また、やむなく大和に残った人もいたと言います。なぜなら、逃げたら自分も厳罰を受ける上に、故郷に残った家族も周りから白い目で見られてしまうから。また、大和のことを思い出すのが辛くて、NHKの取材に応じなかった人も少なからずいらっしゃったと思う。

大和は不沈船と言われながらも沈んでしまいました。多くの人が亡くなり、生き残ったのはわずか。生き残ってよかったって思いたくなりますが、戦後も生きこのった側も複雑でした。ある乗組員さんが子供に言われたそうです。「大和に乗った人はみんな死んだんでしょ」って。子供は思ったことをそのままいっちゃいますからね。別に悪気はないのですが。そんな言葉を聞いた元乗組員さんは「生き残ったことを、なじられているような気がしてね。よく思うんですよ。早くお迎えが来ないかなあ、ってね。」

別の大和の元乗組員さんは、線香をあげるつもりで、亡くなった戦友の遺族の家に尋ねたところ、感謝されるどころか、「なんであんたが生き残ったんだ」みたいな感じで罵られたとか。


仲間がたくさん亡くなったのに、自分だけ生き残ったことの後ろめたさ。これは多くの生き残った人たちの意見だそうです。


一方で、平和な世の中になって「若い頃は苦労もしましたけれど、戦後はいい思いをしてきました。これも平和だからこそ。戦争はたくさんですよ」と感謝する声も。

また、大和はともかく、戦争を始めた人や指導をした人について、どう思うか?そのことを、ある元乗組員さんにぶつけたところ、

「節目はあったはずです。どうしてもっと早く戦争を終わらせることができなかったか」


僕はいつも思うんですね。勇敢に国のために戦った若者たちの勇姿と、無茶な戦争を指揮した指導者たちの失態は別物だなって。このブログでも旧日本軍の組織の問題点とか指導者の質の悪さを度々問題視しましたが、国のために戦った若者たちの意思を無駄にはできないと。

大和の乗組員だった八杉康夫さんの言葉がとても印象に残っています。


「若者よ、君たちが生きる「今日」という日は、死んだ戦友たちが生きたかった未来だ」




本年もお世話になりました。来年も良いお年を。今年の干支の牛の動画を見ながらお別れします。コロナなので、皆様もお体に気をつけて。



戦艦大和は最強の戦艦と言われながら、その能力を生かしきれないまま、沈んでしまいました。これは、大和のスペックがどうというより、人間の使い方、運用面に問題があったように僕には思えます。

僕は一眼レフカメラを持っておりますが、大変スペックが高く、良いカメラです。しかし、僕みたいにカメラの腕が悪いと、そのスペックを活かしきれず、きれいに写りません。それどころか壊してしまう恐れも。腕の悪い人間が一眼レフで撮った写真VSプロが安いバカチョンカメラで撮った写真、比べるまでもありません。やはりカメラはいくら性能が良くても撮る人が大事ですよね。

戦艦大和は当時の日本海軍が、実戦への出し惜しみ、トラックに泊めて、温存ばかりしていたのですね。何しろ戦艦大和は巨費を投じて造られたもので、技術者たちが精魂込めて造られたもの。しかも戦艦大和はデザイン的にもきれいで、かっこいい。だからこそ壊すのが惜しいと思ったのでしょう。しかし、オブジェクトを作った訳じゃなく敵と戦うために造られたのですから、実戦で使わなくては意味がありません。実戦でなかなか使われないものだから、大和は「大和ホテル」と陰口を叩かれるほどでした。

しかし、そうしている間に日本は大和を動かす燃料を確保できなくなります。燃料が少なくなれば艦体を動かすことができません。戦争末期の日本の燃料不足は非常に深刻で、それまでインドネシア周辺などから燃料を輸入していたのですが、戦況の悪化とともに輸送路が寸断スンダンされ輸入量が激減。昭和20年(1945)にはほぼゼロになってしまいます。この影響をもっとも受けたのは大量の燃料を食う大型戦艦です。ましてや大和の艦体は相当でかいですからね。さらに悪いことにレイテ沖海戦の敗北でまとまった艦隊運用がほぼ不可能になってしまい、事実上、戦艦は無用の長物となってしまったのです。

そうなると、本当に大和はオブジェクトになってしまう。それならば、とレイテ沖の海戦後、大和は水上特攻という形で、使わざるを得なかったのです。

* 参考文献
徹底図解 戦艦大和のしくみ (徹底図解シリーズ)
市ヶ谷ハジメ
新星出版社
2012-07-19



アメリカ軍は沖縄も侵攻し、沖縄が陥落すれば、いよいよ本土も危うい状況になりました。昭和20年、当時の連合艦隊司令艦長の豊田副武トヨダソエムは、命令を下します。それは驚くべき指令でした。菊水作戦と言いまして、沖縄に来攻する連合国軍に対し、艦隊に特攻攻撃を実施した日本海軍の作戦です。作戦名の「菊水」は楠木正成の旗印に由来します。戦艦大和を沖縄に突入させ、敵艦隊と応戦し、その後、大和を沖縄の海岸に乗り上げて、陸上砲台となって戦えというもの。大和の乗組員もそのまま陸戦で戦えというもの。

しかも、大和には航空隊の援護もありません。そんな中伊藤整一中将がこの作戦に反対したのです。海軍きってのキレものと言われており、この当時の艦隊司令官だったのです。「これ以上犠牲者を増やして何になる」と呟いたほど。伊藤だけでなく、「大和の能力を超えた愚挙」だとか疑念を抱く声も上がり、豊田司令長官に非難の声まであがったほど。命令と服従が絶対の中で、上官に逆らうような意見が続出したのです。

そんな事態に連合艦隊司令部は、この作戦の説明にあたらせるため、大和に2人の人物を送り込みます。草鹿龍之介クサカリュウノスケ中将と、三上作夫ミカミサクオ中将。この時、三上は伊藤中将から厳しい質問をされたと言います。

伊藤「この作戦の範囲と成功度をどう思うか?」

三上「この作戦は戦利を超えたものです。死ににいけという意味のものなのです」。

すると伊藤はこう言ったと言います。

伊藤「そうか、それが聞きたかった。」

それから、伊藤は草鹿からも説得されます。

草鹿「一億総特攻の魁となって頂きたい」と。そして伊藤は決意。

伊藤「我々は死に場所を与えられた」


こうして、大和は水上特攻をすることになったのです。伊藤も大和にに乗り込みました。

4月6日午後4時45分、大和は3000人の乗組員と共に、帰る見込みのない航海をしたのです。12時34分、大和はアメリカ戦闘機100機による攻撃を受けたのです。この攻撃で多数の戦死者が出ました。大和のレーダーにより敵機(アメリカ)の接近は把握していたが、天候が悪かったために発見できなかったのです。凄まじい攻撃だったそうです。そして、13時30分ごろに、魚雷による攻撃も受け、大和の艦体に穴があき、浸水して大和が傾いたのです。すると反対側の区画にも水が注水され、なんとかバランスを保つことができ傾斜も復元できたのです。

しかし、アメリカ軍の作戦は巧妙でした。13時44分ごろ、大和の左舷さげん側に集中して魚雷攻撃されたため、注排水システムも限界を超え、大和はどんどん傾いてしまいます。伊藤は戦況を見つめながら、微動だにしなかったと言います。は14時17分頃、傾斜が二十度を超えたという知らせを聞くや、伊藤がつぶやいた言葉が「そうか、残念だったね」。

ここで伊藤は命令をします。特攻作戦中止命令です。これは伊藤の独断です。そして伊藤は厳命します。

「すぐ駆逐艦を呼んで移り、艦隊を収拾しろ」。

つまり、お前たちは大和から離れろということでしょう。そして駆逐艦のが大和に横付けされました。伊藤のこの決断が大和の乗組員たちの命を救ったことになります。もちろん、全ての乗組員が救われたわけではないのですが。

特攻作戦中止命令を出した後、伊藤は大和の長官室の扉を固く閉じ、二度と出ることがなかったのです。

傾斜が左三十五度を超え、さらにその直後に弾薬庫に誘爆、巨大な火柱が上がりました。 14時23分、戦艦大和は九州坊ノ岬沖で沈没しました。伊藤は部下を守り、自分は大和と運命を共にしたのですね・・・

大和の生存者は3009名中、269名。全ての命を救うことができなかったものの、伊藤はできる限り、これが伊藤ではなく牟◯口だったら、助かる命も助からなかったでしょう。


また、大和の最後の艦長は有賀工作でした。彼は机上の論理よりも実践を重んじた人物でした。また豪放磊落ゴウホウライラクで、戦上手な指揮官として部下に信頼されていたのですね。彼は大和の最後の艦長でした。彼も伊藤整一と同様、大和と運命を共にしたのです。

その時、羅針盤に自分の体を縛りつけたとも、羅針盤をグッと握りしめたとも言われております。

大和の歴代の艦長は六人いたのですが、有賀が唯一亡くなったのですね・・・・

ちなみに、大和沈没後、「艦長が泳いでいるのを見た」との生存者の証言が残されているが、これは有賀艦長の前任の大和艦長であり、第二艦隊参謀長となっていた森下少将と間違えたのだろうと言われております。



そして25日早朝のこと。前方に敵艦隊発見。攻撃開始攻撃せよと栗田は、命令。そして次々と敵の船を沈めたのです。作戦は成功と思いきや、なんと突然、栗田は反転を命じ、艦隊は北方へと進路を変え帰投したのです。作戦は成功していたのになぜ?もちろん、栗田はレイテ湾に突入する話をわかっていながら、それをしなかった。しかも「天佑ヲ信ジテ突入セヨ」と言われているのも関わらず。

栗田のこの行動は「謎の反転」とされ今も議論の的となっていたのです。結局、大和は小沢艦隊の犠牲にも関わらず、そのまま引き返してしまったのです。こうしてレイテ沖海戦は幕を閉じたのです。本来なら栗田艦隊はレイテ湾に突入すべきだったのですが、それをしなかったのです。あえて、栗田は大和の乗組員を守るために突入しなかったという見方もできます。確かにレイテ湾に突入するということは特攻と同じで、下手すりゃ乗組員がみな死んでしまいます。

あと敵の部隊が突然現れたという電報が急に入って、突撃をやめ反転したという説もあります。しかし、その敵の部隊は結局いなかったので、謎の反転の真相は未だ謎のままです。

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