history日誌

1 アメとムチ
これまで防空法がいかにひどい法律であるかを見てきました。僕は憤りを覚えると同時に逆に言えばなぜ、ここまで政府は国民に無理強いをさせてきたのか疑問で仕方がなかったのです。空襲があっても逃げるなということは、ある意味国民をみすみす殺すようなものです。空襲で街が炎で包まれていたとしても逃げてはいけないというんですから。日本は戦争をする以上少しでも戦力を温存したほうがいいに決まっている。国民をみすみす空襲で殺すより、安全なところに逃がしてやり、それで健康なものは徴兵にかけるなり、労働力として働いてもらったほうが国にとっては本来はありがたいはず。 

しかも、政府はアメリカが空襲をすることを事前に察知していたし、焼夷弾の恐ろしさもよく理解していた。それなにになぜ?

実は日本政府は、ただ空襲にあっても火を消せと言っていたわけではないのです。「アメとムチ」という言葉がありますが、空襲で被害を受けたものは政府から補償を受けることができたといいます。それも戦後の旧生活保護法にもみられないような多様な被災者援護の措置があったといいます。 

昭和17年の2月に戦時災害保護法が制定されました。

具体的には空襲で被害を受けた者や家族及び遺族が保護対象で、空襲で直接被害にあっただけでなく、避難時に群衆殺到により負傷した場合も補償の対象になりました。また、橋を渡っている最中に、その橋がおんぼろで壊れてしまい、それでけがをした場合も補償の対象になったそうです


小泉親彦厚生大臣は衆院本会議でつぎのように災害保護法の趣旨を説明したといいます。

今後戦局の推移に伴い、敵国飛行機の来襲などの場合、これによって生ずる戦時災害のために危害をうけました者を保護し、戦時災害に対し何らの不安もなからしめ、戦時下における国民生活の安定を図るとともに、その士気の昂揚および民心の安定を期することは極めて肝要であると存ずるものであります。


国民の生活を守るとともに、士気を高めるために保護法が制定されたのですね。なんの見返りもないのに、いたずらに「火を消せ」、「逃げるな」といっていたのではないのですね。

2 戦後災害保護法の具体的な内容
戦時災害保護法による補償は具体的には以下の通りです。


  • 救助 
     収容施設の供与、炊き出し、食品の給付、被服・寝具・生活必需品の給付や貸与、医療、埋葬


  • 扶助 
     生活扶助(金銭給付)、医療扶助、出産扶助、生業扶助


  • 給与金の支給
     遺族給与500円、終身雇用が不可能な場合は損害給与金700円など



このうち、戦時災害保護法による生活扶助は一日60銭もらえたそうです。救護法(※1)の生活扶助費が一日50銭ということを考えると、手厚い補償といえます。いま竹中平蔵さんがぶちまけてるベーシックインカムみたいなものですね。最も大変な被害を受けたのだから、そのくらいもらわないと生きていけません。

また、給与金の支給には、年間7千円以下という所得制限があったそうですが、当時の巡査の初任給が月45円(45円×12か月=540円)ということを考えてみても厳しい制限でありません。かなり手厚い補償です。だからこそ、政府はこれだけ厚い補償をしてやったのだから、「逃げずに火を消せ、金をだしてやっているのだから、お国にのために働け」と思ったのかも。まさに鎌倉時代の御恩と奉公の発想ですね。

ましては、当時は食べ物や生活必需品の配給もしていましたからね。この時代の日本はは社会主義みたいな国だったのですね。国が国民に対して何でもしてやるということは、高い税金とか、最悪の場合、強制労働や徴兵という形で国が国民に見返りを求めるんですよね。実際、高い福祉の北欧は税金が高いみたいですし、旧社会主義国家は強制労働もあったし、秘密警察が国民を監視してました。国家というのはマザー・テレサのように無償の奉仕などしてくれないのです。かといって最低限の社会保障は、しないとまずいのですが。アメリカさえ生活保護があるくらいだし。

高い税金も嫌だ、国の干渉も嫌だとなったら、小さな政府をめざし、NPOや宗教団体、あるいはマザー・テレサやヘレン・ケラーのような方が貧しい人たちに手をさしのべるという形になるんです。アメリカは、NPOだけでなく、企業や勝ち組が慈善活動に熱心で、貧しい人の為の無料食堂の運営もしてたりしているそうですよ。日本の左派政党がよく「安い税金で、手厚い福祉」といいますが、これは無茶な話なんですよ。 おっと僕は、社会保障を否定してませんよ。むしろ必要。ただ、左派政党の言っていることが無理だと言っているだけ。あと、日本の宗教団体も、もっと人助けしなさいと言ってるまで。それと議員さんも無駄な議員特権を削減すると、なおよい 。


3 戦時災害保護法で救われた

 けれど、実際、この被災者援護のおかげで救われた人も多かったことも事実です。今日のコロナの支給金みたいに一時だけではなく、毎月もらえたというのだからおいしいですよね。僕の家族、といっても祖父母がまだ30代〜40代、僕の父が子供のころの話ですが、家が空襲に合い全焼してしまったのですね。祖父も体が弱くバリバリ働けたわけじゃなかったのに、一家の暮らしがなんとかなったのは、おそらく戦時災害保護法のおかげだったのでしょうね。僕もこの法律のことを知るまで、うちの一家は戦時中、大して収入もないのにどうやって生活ができたのか不思議でしょうがなかったのです。


戦時災害保護法による援護が昭和17年は1469件だったのに対し、昭和20年になると15,977,704件にも上ったといいます。かかった費用も昭和17年が263,255円だったのに対し、昭和20年になると785,598,755円に上ったといいます。8億ちかくにも上ったのですね。8億といいましても当時のお金の価値ですから、今の価値に直したら、もっとすごい金額でしょうね。

なお傷痍軍人と軍人遺族への保障額を合わせると、昭和18年は1億円、昭和20年は約2億2千万円ということを考えると、いかに戦時災害保護法による支出額がおおかったことがうかがえます。

それだけ被害が大きくなったということでしょう。しかし、これだけ費用が重なると国の財政がアップアップになります。ただでさえ軍事費がかかるのに、このまま戦争が続けば国の財政が破綻してしまう。だから、一刻も早く戦争を終わらせたほうがいいと思った官僚や政治家もいたのではないかと思われます。

この戦時災害保護法は終戦とともに終わってしまいました。いわば、予告もなくいきなりベーシックインカムが終わってしまったようなものです。このため戦後困った人がたくさん出てきたのですね。


※1 当時の生活保護のようなもの


※ 参考文献



「悪法も法」という言葉がありますが、「防空法」は悪法もいいところ。これまで10回にわたって書かせていただいたのですが、憤りさえおぼえました。いくらお上が決めたことでも、悪法であれば従う必要はないとおもうんですよね。
戦時中、敢えて政府や軍部の意向に逆らい、多数の命を救った良識派もいました。今日はその良識派の人たちを取り上げます。

1 新潟市の場合
 新潟市は昭和20年(1945年)8月まで大規模な空襲を受けませんでした。そんな新潟にも8月10日、空襲に合いました。死者は47名だったそうです。その日、新潟知事・畠田昌福が知事布告をだしました。「(8月6日に落とされた広島の原発は)従来の民防空対策をもってはよく対抗しえない程度のもので人命被害もまた実に莫大」であり、「この新型爆弾はわが国未被害年新潟に対する爆撃に、近くしようせられる公算極めて大きいのである」と。


そして、畠田知事は「新潟にも原爆が落とされたら大変」ということで市民に「徹底的人員疎開」を命じました。内務省は新潟市民の疎開に不快感を示しましたが、畠田知事は市民の命を守ることを優先したのです。


市内から郊外へ向かう道は人々であふれかえったといいます。当時は車もあまり普及していない時代でしたから、大八車を押して避難した人も少なくなかったそうです。結局新潟市に原爆が落とされることはなかったのですが、避難が禁じられた時代に、その禁を破ってまで市民を守った畠田知事の決断はすばらしいなって。

ちなみに、新潟がアメリカの原爆投下であることが判明したのは戦後のことでした。

2 八戸市の場合
 青森県八戸市は、昭和20年(1945年)7月14日と8月9日に空襲を受けていました。さらに「8月17日に大空襲を実施する」という米軍による予告ビラも撒布されました。八戸市民も恐怖におびえたといいます。

そこで八戸市の山内亮市長は、8月10日付で市街地からの「総撤退」を命じました。市民はみな避難をし、戸市は「さながら無人の廃墟の街のごとき」と言い伝えられるほど。

山内市長は、戦時下の市民の食糧確保に奔走したといわれております


                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              
 ※ 参考文献




1945年(昭和20年)8月6日に広島、8月9日に長崎に原爆が投下されました。おびただしい被害がでました。8月8日に防空総本部がこのような声明を発表しました。8月8日といえば長崎に原爆が落とされる前日ですね。


「(広島に落とされた)新型爆弾は現地報告によると落下傘のようなものをつけて投下するもので、大爆音を発し、相当広範囲に被害を及ぼすものであるが、次の諸点に注意すれば被害を最小限にとどめ、かつ有効な措置であるから各人は実行しなければならぬ」とし、「敵機は一機でも油断禁物、待避壕に待避し、待避壕に掩蓋えんがい(※1)がない場合は毛布や布団をかぶって待避する。」と。

翌日の8月9日で発表された対策は「軍服程度の衣類を着用していれヤケドの心配はない。防空頭巾および手袋を着用しておれば手足を完全にヤケドから保護することができる」

さらに「新型爆弾もさほど恐れることはない」とまで言い切っているのです。

防空総本部は広島の原爆のことを知らないのかと思わず思ってしまいます。

さらに防空総本部が11日付で発表したのは

「破壊された建物から火を発することがあるから初期防火に注意する」

「白い下着の類はやけどを防ぐのに有効である」


白い下着がなぜ原爆の爆風に有効なのか謎ですが、ともかく原爆まで大したことがないと言い切る防空総本部の見通しの甘さにあきれてしまいます。現代に例えるなら「コロナはただの風邪だ。マスクなんてするな。じゃんじゃん外に出て経済活動をしろ」と官房長官が言うようなものです。

※1 陣地・ざんごうなどに、敵弾の危害を防ぐため、設ける屋根。 



※ 参考文献








1 通せんぼ
空襲にあったら、最初にすべきことは逃げることです。しかし、戦時中は防空法のため、逃げることを禁じられました。実際に住民が逃げることを阻止しようとした警察もいたといいます。

1945年(昭和20年)5月29日の横浜大空襲では、警察官がサーベルを振りかざしながら「逃げるな!火を消せ!火を消せ!」って一人猛火でわめき散らしたという話があります。一人でわめき散らしたということは、その警察の悲痛な叫びもむなしく、住民たちは我も我もと逃げ回ったということでしょう。

1945年(昭和20年)8月2日未明、169機ものB29が二時間にわたり来襲し市街地の8割を攻撃したといいます。恐ろしいですね。爆撃機一機だけでも怖いのに169機とはすごい数です。戦闘機の爆音もそうとうなものでしょう。しかも、その戦闘機が一斉に爆撃し、死者は約450名にも及んだといいます・・・

猛火から逃れるため、住民たちは市街地から北へむかい、浅川橋という橋から少し進むと山へ避難しようとしました。しかし、その橋のところに長蛇の列ができたといいます。なぜでしょう?その橋の入り口のところで約20人の消防団が道をふさぎ、住民の避難を阻止しようとしていたのです。その消防団の一人から言われた言葉が、

「男のくせになぜ逃げてきた。早く言って火を消せ、消さなければ胴をつく」とか「ぶったたく」とか。

いまならモラハラものですよね。というか、いつの時代にも自粛警察みたいな人はいるのですね。そんなことを言われたものだから、地獄のような猛火にさらされた市街地へ戻ったといいます。

また、ある家族は浅川橋で憲兵(もしくは在郷軍人)に呼びかけられたといいます。そしてサーベルを振り回して「男は戻れ!」と怒鳴ったといいます。その家族の一人が「背負っている老婆を安全な非難させる」といったが、「この非国民が!」と罵られビンタを受けたといいます。

この八王子空襲が起きた同じ日に富山県富山市でも空襲があり、やはり消防団が逃げる人たちの通せんぼをしていたといいます。富山市に神通川という川があって、その川にかかっている橋を避難者が渡ろうとしたら消防団が通せんぼし、空襲で燃えている街に追い返し、消火活動をさせたといいます。


2 青森空襲
 1945年(昭和20年)7月中旬、青森市内にも空襲予告ビラがまかれました。空襲予告ビラは前の記事でも書かせていただきました。http://ehatov1896rekishi.diary.to/archives/2486477.html

青森市内よりも一足早く、青森港や青函連絡船は猛烈な攻撃を受けていました。当然市民はそのことを知っていましたから、いよいよ市街地にも及んだかと震え上がったといいます。ビラをみた市民は避難をし始めたといいます。そんな状況を青森県知事の金井元彦が黙っていませんでした。金井知事はかつて内務省の検閲課長として言論弾圧と国策流布に剛腕をふるった曰く付きの人物でした。彼はこのような言葉を語っております。

一部に家を空っぽにして逃げたり、田畑を捨てて山中に小屋を建てて出てこないというものがあるそうだが、もってのほかである。こんなものは防空法によって処罰できるのであるから断固たる処置をとる。勝つには積極的精神、この精神をもって一にも二にも戦力を充実することである。(略)敵が去ったならば直ちに秦らう、どんなことがあっても増産を確保する。この心構えで敢闘する。それを空襲だからと一日も二日も秦からず逃げ回ったりするものがあれば、当然処罰する。(『東奥日報』昭和20年7月18日付)
さらに、金井知事は7月28日までにもどらないと、町会台帳から逃げた人間(家族)の名前を削除すると脅しをかけてきたのです。町内会の台帳から名前が消えるということは、町内会の人たちから非国民のレッテルをはられてしまい、また配給物も止められてしまうということです。配給物は町内台帳に書いている名前をもとに配られるものです。戦時中は配給制でした。食べ物などが配られなくなることは大変なことです。ましてや赤ん坊がいるお母さんにとっては大変です。赤ちゃんのミルクがもらえなくなるのですから。食べ物を買うにしても闇ルートで買うしかない。今みたいに自由にスーパーで買い物ができる時代とえらい違います。

そして多くの市民たちがが、期限とされた7月28日までに青森市に戻ってきました。その夜、約100機のB29が青森市を来襲し、午後10時半から約1時間20分にもわたり574万トンの焼夷弾を投下。しかも悪いことに青森の空襲で使われた焼夷弾は従来型に黄燐を入れ威力を高めた新型焼夷弾で、青森市がその実験場となったのです。人の命を実験台に使うとはアメリカもひどいことをしますね。大火災により死者1018名の大惨事となりました。

3 どさくさに紛れての火事場泥棒
 空襲の被害が日本のあちこちにも及び、各地は焼け野原が広がっている。いくら、お上が「逃げるな、火を消せ」と騒いだところで、消火の素人である隣組の防空活動、たとえばバケツリレーとかが無意味であることに多くの人がわかるようになりました。空襲が起こる前は、政府やマスコミは「焼夷弾は怖くない」としきりに宣伝していましたが、実際はそうじゃないことが明白になりました。しかし、そうした国民の考えとは逆にマスコミは以前にもまして「逃げるな」「火を消せ」とまくしたてるのです。それだけ、現実に国民の士気が低下していることの表れといえます。そのことに対する政府の焦りも見え隠れします。 

それだけではありません。空襲のどさくさにまぎれて泥棒被害も多発していたのです。

よく戦時中の日本には美徳があったという意見をよく聞きます。僕のブログでもたびたび戦前の日本人が必ずしも高いモラルをもっているとは限らないとたびたび書かせてもらいましたが、戦時中も例外ではありません。「火垂るの墓」でも主人公のセイタが畑の野菜を盗んで、とがめられるシーンがでてきますが、実際にあのようなことはありました。物資が窮乏してみながみな追い詰められていたからです。

「武士は食わねど高楊枝」ということわざがありますが、僕は半分は本当ですが、半分はウソだと思います。やはり人間は食べるものがなければ、モラルもヘチマもあったものではありません。昭和20年4月22日付の『読売新聞』には「火事場泥棒という言葉があるが、最近空襲のどさくさにまぎれて泥棒被害が少なくない。ひどいのになると命からがら持ち出した罹災者(※1)の物品までかすめとる」と書かれておりました。実際、昭和20年の5月から7月までの間だけでも約3500件もの盗難事件が発生し、そのうち3割が食糧だというのです。

4 その後の金井市長
 さて、青森の金井市長のお話に戻ります。彼は1946年(昭和21年)1月、公職追放処分を受けて知事を免職となりました。公職追放後は民間企業に勤めていたのですが、1948年(昭和23年)に自らの命令で空襲により多くの犠牲者を出したことを悼んで慰霊のため観音像の建立を提唱し、柳町交差点のロータリーに三国慶一作の「平和観音像」が設置されたそうです。

1964年(昭和39年)に道路拡張のため2代目の観音像が10メートルほど北に作られ、金井らが建立した初代の像は青森市文化会館の4階で展示されているそうです。

彼は生涯、青森空襲で人を死なせたことを大変悔やんでおり、その罪滅ぼしに観音像をたてたり、1944年(昭和19年)に金属類回収令で解体された能福寺(神戸市兵庫区)の兵庫大仏再建事業に際して奉賛会会長を務め、1991年(平成3年)5月9日の開眼法要に出席したそうですね。罪滅ぼしをしたかったのでしょうね。戦後になってもインパールの責任をとるどころか、部下たちに責任転嫁をした牟田口廉也よりはずっといいと思いました。ただ、金井市長は良くも悪くもマジメすぎたのですね。上の人間には忠実に守るし、彼なりに正義感もあったのでしょう。それゆえに自分でも無意識のうちに人を傷つけてしまう。そういう人はナチスにもいたみたいですよ。金井市長が戦後になって一人の人間に戻り、人間としての良心をとりもどしたのでしょう。

 
※1 災害にあった人(人々)のことである。


※ 参考文献






米軍は、空襲をする前に予告ビラを上空からばらまいたといいます。目的は日本国民の戦意喪失です。空襲に依る大量虐殺はまさに国際法違反ですが、米軍はおかまいなし。米軍からすれば「予告をしてやったのに逃げないほうが悪い」という言い分なのでしょう。ひどい話です。

では米軍の人たちには良心の呵責がないのでしょうか。ある軍人は「日本国民を人間として扱われる権利を失ったと確信するに至ったのは、日本軍の(捕虜虐待という)残虐行為のせい」「戦争が短縮されて何千というアメリカ人の生命が救われるのだから日本の年をできるだけ早急に焼夷弾で徹底破壊するべきである」など。つまり日本軍は捕虜虐待(あとは真珠湾攻撃)などひどいことをしたのだから空襲にあっても因果応報だ、あるいは米国民を守るためには仕方がないという認識があったようです。これも、ひどい話です。

で、終戦までにまかれた枚数は458万4000枚にもおよぶといいます。「あなたの街を攻撃します」などと書かれていたら国民はビビるでしょう。当然、日本政府は「ビラの内容を信じるな、逃げるな」と訴えました。

昭和20年の『朝日新聞』にはこのように書かれてました。

「今度敵機が撒布した宣伝ビラの内容は荒唐無稽のもので、これによって一億国民の旺盛な繊維に何等かの影響も及ぼすものではない。しかし、敵は手をかえ品を変え、一億国民の戦意、団結を破壊を計るものと予測する。’(略)国民はゆめにも敵の謀略宣伝に乗ぜられてはならない」(『朝日新聞』昭和20年2月18日)

実際、憲兵隊や隣組の組長が「ビラをひろうな」、持っているものは提出しろ」と厳しく町内を見回ったといいます。しかし、大量にまかれたものを回収するのは大変な作業です。こうした空襲の情報は町から街へとつたわってしまうのです。

昭和20年3月の東京大空襲で10万人が死亡しました。それからすぐに内務省が決定したのは、拾った空襲予告ビラを警察に届けないものを最大三か月の懲役刑に処するという内務省令(昭和20年3月10日発令)でした。大空襲の惨劇を目の当たりにして、まず決めたのが空襲予告ビラの徹底回収と国民の口封じでした。消火設備は一向に整備されず、疎開政策もなかなか進まないなかで、こういう対処は非常に迅速だったのです。

僕は空襲をするアメリカもひどいけれど、逃げることを認めなかった日本政府も問題だなって思いました。当時の日本政府がビラなんてただの脅しだとマジで思っていたのなら話は分かりますが、アメリカが空襲をすることを日本政府はきちんと予測していたのですね。それだけに質が悪い。







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