history日誌

歴史と歌が大好きな私が日本史から世界史まで広く浅く書きます。 歴史の知識は素人レベルで、私が語る歴史の内容が真実かどうかは自信はありませんがw、楽しんでブログを書いていきます。教科書に載ってないようなマイナーな歴史の話もします。

今日は、1896年におきた明治三陸地震のお話です。

1896年といえば、宮沢賢治が生まれた年です。

宮沢賢治が生まれた年に東北で地震が起きていたのですね。


1896年6月15日の午後7時32分、三陸海岸から約200キロの改定でマグニチュード8・2〜8・5の巨大地震が発生しました。マグニチュードの割には、各地の震度は2〜4程度の揺れだったといいます。

しかし、恐ろしいのは地震の揺れそのものではなく、大津波が発生したことでした。

地震が起きて約30分後に大津波が東北沿岸部に押し寄せてきたのです。

岩手県の下閉伊郡田老村(現・山田町船越)では10・5メートル、気仙郡吉浜町(現・大船渡市三陸町吉浜)では22・4メートルの津波が押し寄せたというのです。22・4メートルと言ったらビル七階くらいの高さです。オドロキですね。

津波の犠牲者は溺死だけでなく、漂流物と激突してなくなったケースも多いそうです・・・


震度が大きくないにも関わらず、これほどの巨大な津波が発生したとは信じられないことですが、現実にこうしたケースもあったのです。震度が小さな地震といえども津波が発生することがあるのですね。


※ おまけ

盛岡のおまつり、さんさ踊りの動画です。宮澤賢治は学生時代、盛岡にいたそうです。宮澤賢治もさんさ踊りをみたことがあるのでしょうか?


※ 参考文献


大地震の日本史 (DIA COLLECTION)
大地震の日本史 (DIA COLLECTION) [ムック]

東日本大震災から7年たちますが、1000年以上前にも同じ地域で巨大地震と大津波が発生したというのです。

869年に発生した貞観地震です。

貞観地震では、高さ9メートルの津波が何回も押し寄せたと推定され、仙台平野では内陸数キロメートルにまで達したというから恐ろしい・・・・

被害の様子を歴史書には、このように書かれております。



五月・・・廿六日癸未 陸奧國地大震動 流光如晝隱映 頃之 人民叫呼 伏不能起 或屋仆壓死 或地裂埋殪 馬牛駭奔 或相昇踏 城(郭)倉庫 門櫓墻壁 頽落顛覆 不知其數 海口哮吼 聲似雷霆 驚濤涌潮 泝玳長 忽至城下 去海數十百里 浩々不辨其涯諸 原野道路 惣爲滄溟 乘船不遑 登山難及 溺死者千許 資産苗稼 殆無孑遺焉

現代語訳(意訳)
5月26日20時、陸奥国で大地震が起きた。(空を)流れる光が(夜を)昼のように照らし、人々は叫び声を挙げて身を伏せ、立つことができなかった。ある者は家屋の下敷きとなって圧死し、ある者は地割れに呑まれた。驚いた牛や馬は奔走したり互いに踏みつけ合い、城や倉庫・門櫓・石や土などで築いた塀などが多数崩れ落ちた。雷鳴のような海鳴りが聞こえて潮が湧き上がり、川が逆流し、海嘯が長く連なって押し寄せ、たちまち城下に達した。内陸部まで果ても知れないほど水浸しとなり、野原も道も大海原となった。船で逃げたり山に避難したりすることができずに千人ほどが溺れ死に、後には田畑も人々の財産も、ほとんど何も残らなかった。

(ウィキペディアより)

※ おまけ


今日の一曲は、NHKの復興ソング「花は咲く」です。この曲は紅白だとかで何回も歌われておりますが、あらためていい歌だなと思います。


今年は震災から7年を迎えます。あらためて亡くなった方々のご冥福をお祈りするとともに、復興をお祈りいたします。

日本は地震大国で、歴史を紐解いてみても大きな震災がたびたびおこっているのですね。

今日は江戸時代におこった宝永大地震について語ります。宝永大地震は1707年(宝永4年)におこりました。この地震はわが国で起こった東日本大震災以前となると最大級の震災です。東海道沖から南海道沖(北緯33.2度、東経135.9度 )を震源域として発生した巨大地震で、南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したと推定されております。

津波も房総半島(千葉)から九州まで大津波が襲ったというすさまじい地震だそうです。しかも、太平洋側だけでなく、その津波は瀬戸内海まで押し寄せて、大坂(昔は大阪を大坂といった)まで水びだしになりパニックなったといいます。当時の大坂は「天下の台所」とよばれ物流の中心でしたから、人の被害だけでなく、経済的な面でも大打撃だったと思います。

関東から九州まで震度7以上の地震がおこったというからおそろしい。さらに地震発生から一時間後、巨大な大津波がおしよせたといいます。

徳島県海陽町というところがあります。ここも宝永大地震のときに津波の被害をうけたといいます。津波はおよそ海抜10メートルのところまで押し寄せたといいます。家々の屋根をゆうに超えるたかさだといいます。



丘には小さな観音堂があるそうです。その観音堂は津波で亡くなった人を供養するためにつくられたといいます。その観音堂の堂内にある扁額には当時の震災の様子がかかれているようです。

家々は一軒も残らず、津波によって海底にひきおとされた。老若男女140人余りが溺死した。と。

さらに大津波は大阪の街にもおしよせました。その時の大坂の様子が古文書にもかかれております。

山のような大津波が襲い、船や橋を押し流した。死者の数は数えきれないほどであった。と。

宝永地震と大津波の全国の死者は少なくとも二万人以上、倒壊または流失した家屋は8万戸ともいわれております。


ちなみにこの宝永地震によって甚大な被害を受け、その復旧費用の出費を強いられた紀州藩では藩主の徳川吉宗が質素倹約を徹底した藩政改革を行い、その後将軍に就任した吉宗による幕府財政を立て直すための享保の改革へとつながったといいます。

それと恐ろしい話になりますが、南海トラフ巨大地震はおおよそ100年から200年周期で繰り返されており、次回起こると予想される地震への対策が求められています。。対策は東海地震、東南海・南海地震と個別に行うのではなく、東海・東南海・南海領域で連動して発生した宝永地震をモデルに行うべきとする動きもあるそうです。




(↑もしも、宝永地震があった江戸時代に、TVの地震速報があったら、きっとこんな感じでしょう)





※ 参考サイトおよび参考にした番組


「さかのぼり日本史」(Eテレ。2011年に放送)

ウィキペディア


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