history日誌

歴史と歌が大好きな私が日本史から世界史まで広く浅く書きます。 歴史の知識は素人レベルで、私が語る歴史の内容が真実かどうかは自信はありませんがw、楽しんでブログを書いていきます。教科書に載ってないようなマイナーな歴史の話もします。





1 子供を敵方に預けた幸村
去年(2016年)は大河ドラマ「真田丸」が好評だったようですね。あいにく僕は一回も「真田丸」をみたことがないのですがw、このドラマの主人公が半沢直樹じゃなかったw真田幸村だってことくらいは知っておりますwさて、真田幸村は伊達政宗と戦ったといいます。大阪夏の陣でも両者は激しいバトルをしたといいます。大阪夏の陣とは徳川家VS豊臣家のバトルで、両家の存亡をかけた戦いでした。政宗は徳川方に、幸村は豊臣方についておりました。

しかし、男同士の争いで泣く思いをするのはいつの時代も女と子供。大阪夏の陣の決戦前夜、真田幸村も自分の娘の阿梅おうめを伊達政宗の家臣である片倉小十郎の陣所に送っていました。かわいい愛娘の保護を片倉にお願いしたのですね。実はこのとき、幸村は阿梅のほかに、阿菖蒲おしょうぶ、おかね、そして当時4歳だった大八らも保護されました。子供たちの保護を頼むとはいっても戦の真っ最中、これは事実上の投降にちかく幸村の子供たちを生かすか殺すかは相手側の片倉小十郎というか伊達家にかかっておりました。保護をお願いしても、なにせ相手は敵。下手すりゃ子供たちは殺されるリスクがある、いやそのリスクが高いのです。

そんなリスクを冒してまでなぜ幸村は敵将である片倉に自分の子供たちを預けたのでしょう?

こればかりは本人に聞いてみないとわかりませんw

いろいろな理由が考えられますが、幸村と片倉が同郷だったことも無視できないと思います。実は片倉家はもともと信州諏訪の出身で、幸村と同じ信州人なのですね。また伊達政宗も真田幸村ももともとは豊臣秀吉につかえていたので、伊達と真田がお互いに旧知の間柄であったことも理由として考えられます。豊臣と徳川が戦わなければ、案外幸村と政宗はよい友達になれたのかもしれない・・・・


2 幕府の目をあざむき幸村の子供を守った

 大阪の陣後、伊達家は真田の子供たちを片倉の居城・白石城にて保護し、養育をしたといいます。その後、阿海は片倉小十郎の後室に、阿菖蒲は伊達家の家臣・田村定広の妻になっております。おかねはその後どうなったかはわかりませんが、男の子である大八ともに大切に育てられました。この大八という子供も大切にした伊達家は太っ腹だなと思いました。なぜなら幸村といえば大阪の夏の陣で奮戦し徳川を苦しめました。その幸村の子供ましてや男の子が生きていたとなると大変です。男の子はやがて家督を継ぎます。家督をついだ男子は殺された父の敵をうつために徳川に歯向かうことだって考えられます。もし大八が生きていたと知れば、徳川家は黙っていないでしょう。下手すりゃ殺されてしまいます。

伊達政宗の後を継いだ伊達忠宗の時代。大八は真田守信と名をかえ、伊達家(仙台藩)に300石で召し出されるようになりました。守信の出自を怪しみ、幕府は守信の家系調査を仙台藩に命じましたが、仙台藩は幕府の詮議に対してニセの家系図を渡したといいます。真田広之さんじゃなかったw真田政信という架空の人物をつくり、守信がその子供であるとしたうえ、真田姓を片倉姓にして幕府の面目を立てたといいます。

その後、守重は1657年(明暦3年)に江戸留守居役に任じられるも、当時の幕閣・松平信綱たちが守重の出自を怪しんでいたため、仙台藩の人たちは守重の役を辞めさせます。守重は1670年(寛文10年)に59歳で死去。守重の亡骸は白石市の当信寺に葬られ、墓碑には六文銭ではなく、一文銭が刻まれておりました。六文銭といえば、歌のグループ名ではありませんw真田家の家紋です。それくらい伊達家は、守重の出自が怪しまれないように気をつかったのですね。ちなみに、この当信寺には幸村の娘である阿梅も葬られております。

3 真田家のその後
 守重の死後、守重の子孫たちは片倉と名乗りながら伊達家を幕末まで支え続けまし。そして、守信より8代後、幕末期の子孫真田幸歓ゆきよしにおいて真田姓に戻ることができたのです。仙台真田家として現在も続いています。

それにしても伊達家はよく真田家の人を守ったと思います。先にも述べましたが、徳川家にとって真田家は不倶戴天の敵。当然生かしておくわけにはいかない存在です。その子孫が伊達家に仕えているとなれば、当然幕府は許さないだろうし、家康の時代であれば伊達政宗を討つために東北に軍隊を派遣することだって十分考えられるわけです。そんなリスクをおかしてまで、政宗は幸村との男の約束を守り、子孫の代になってもそれを守り続け、幕末まで真田家が存続できたのだからすごいと思います。

※ おまけ

信州といって思い出したのですが、信州でも大きな地震がありました。2011年3月12日。長野県の栄村も震災にあい被害がありました。この震災も東日本大震災に誘発されて起きた震災だといわれております。3・11ばかりがクローズアップされ信州のこの地震のことはつい忘れがちになります。しかし、震度6強の大きな地震でこの震災でも死者や負傷した方もいらっしゃるし、一時約1700名余の方々が避難されたといいます。この地震も風化させてはいけないなと思いました。



※ 参考文献





福島県に「伊達市」という地名があるのをご存知でしょうか。実はこの地こそ仙台の伊達氏の発祥の地なのです。僕は伊達氏には訪れたことがありませんが、福島の観光案内で伊達市に伊達家ゆかりのお寺があり、伊達政宗のコスプレをした人やゆるキャラのまめっち(後で動画でご紹介します)もおもてなしをしてくれるそうです。

伊達家というと仙台のイメージがあったのですが、もともとは福島出身なのですね。ちなみにサンドイッチマンの伊達みきおさんは宮城県ご出身で、伊達家の末裔だそうです。

さて、伊達家といえば独眼竜政宗こと伊達政宗が有名ですが、実は歴史上もうひとりの「伊達政宗」がいることをご存知な方はいらっしゃるでしょうか?というか、僕も本を読むまで知りませんでしたwwww


もう一人の伊達政宗が生きていたのは室町時代前期(1353年〜1405年)です。実は戦国時代の伊達政宗の名前も、この室町時代の伊達政宗にあやかってつけられた名前なのです。それくらい室町の伊達政宗も大人物だったということでしょう。何をしたかというと、室町の伊達政宗も東国を管轄した鎌倉府に反旗を翻したといいます。

きっかけは1391年のことでした。当時の東北は室町幕府の奥州管領が統治していました。しかし、室町時代の初期の内乱の影響が東北にも及び、奥州管領の統治機構は機能不全におちいりました。困った室町幕府は、関東をおさめる鎌倉府に東北の管理をさせようとしました。しかし、その鎌倉府は東北に代官を派遣しては、強引に土地調査を行ったり、徴税も行ったりしたため、地元住民の強い反発を招いてしまったのです。

当時の鎌倉公方(鎌倉府のトップ)だった足利満兼(あしかがみつかね)は1399年、反乱に対処するため弟の満直(みつなお)、満貞(みつさだ)を奥羽に派遣。だが、これが新たな火種になりました。満直と満貞のふたりは南東北の実力者伊達政宗に領土の献上を強要しました。それに政宗は反発。翌年の1340年3月、地元の豪族たちと手を結んで鎌倉府に反逆。500騎あまりの軍勢を率いて福島の白河まで攻め上ったといいます。

しかし、鎌倉方の結城満朝(ゆうきみつとも)の奮戦もあり、伊達家の反乱も鎮圧されてしまいます。が、鎌倉府と伊達家の緊張はさらに続きました。

1402年、ふたたび反乱を起こした政宗に対し、足利満兼は上杉氏率いる7000騎の討伐軍を奥羽に派遣しました。政宗本拠地である赤館を包囲しました。赤館は圧倒的な兵力をほこる上杉軍に負けてしまいます。が、政宗はそれでも見事な奮戦をし、敵である上杉軍に多大な損害を与えたといいます。

鎌倉府は伊達家には勝ちましたが、幕府とつながりの深い伊達氏を討伐することはできませんでした。実は政宗の妻と時の将軍足利義満の母親は姉妹で、政宗は乱が始まる前に、京都におとずれ義満と交流をしていたといいます。義満と政宗は親密な関係だったのです。むしろ義満は同じ足利氏がおさめる鎌倉府と仲が悪かったのです。だから、義満は政宗に反乱をしむけ、鎌倉府と戦わせたという説もうまれるほど。

それはともかく、この戦いで政宗は男をあげ、伊達家中興の祖とまでいわれるようになりました。なお、政宗は武勇だけでなく文化人としてもすぐれておりました。このような和歌も残しております。

山間の霧はさながら海に似て波かと聞けば松風の音」

※ おまけ



(伊達市の観光動画です。ゆるキャラのまめっちも登場します)



※ 参考文献


 今日は7月7日。七夕の日です。たなぼたじゃないですよww彦星と織姫が年に一回会う日です。年に一回会えない分、彦星と織姫はLINEとかで連絡とりあっているのかなw?そんなことはさておき、宮城県の仙台でも七夕まつりが行われます。七夕祭りといいましても7月7日にやるのではなく、仙台の七夕祭りは毎年8月の上旬に三日にわたって行われます。その様子はこちらの動画を。



きれいですねえ。僕も東京杉並区にある阿佐ヶ谷で毎年8月上旬に行われる七夕まつりに何度も言ったことがあるのですが、ぜひ仙台の七夕祭りもいってみたいですね。

さて、七夕まつりというのは平安の昔、宮中の清涼殿で行われていた貴族の遊びの一つでした。それが江戸時代になって民衆にも普及し、女の子は技芸の上達を、男の子は字がうまくなることを願ったといいます。

仙台で七夕祭りが始まったのは伊達政宗の時代です。政宗が七夕について歌を詠んでいるのです。それがこちらの二首。


「まれにあふ こよひはいかに七夕の そらさへはるる あまの川かせ」

「七夕は としに一たひ あふときく さりてかへらぬ 人のゆくすえ」


政宗ってなんとなく合理主義的なイメージが僕にはあったのですが、結構ロマンティストだったのですね。

また、政宗が歌に詠むくらいですから、このころからすでに七夕祭りも盛大に行われていたのですね。

政宗亡き後も仙台では七夕まつりは続けられました。しかし、明治維新後、全国的に七夕行事が衰退していき、仙台も大正末期ごろには往時の華やかさはなくなったといいます。1927年(昭和二年)には、商家の有志たちが華やかな七夕祭りを復活させたものの、戦争がはじまり戦況が悪化すると、七夕飾りは町から消えていきました・・・・

そして終戦の翌年、1946年(昭和21年)。仙台空襲で焼けた一番町通りに、52本の七夕飾りが飾られました。仙台の人々は涙がでるほど喜んだといいます。まさに仙台の七夕まつりは終戦後の復興のシンボルだったのですね。そして2011年の震災で仙台七夕まつりは中止にしようかという意見もあったようですが、「震災の年に七夕まつりをやらなかったら、復興は今より遅れていたんじゃないかな」という声に仙台の人たちも同調し、この年も例年通りに七夕まつりが行われました。 

避難所暮らしを余儀なくされたある女性は「犠牲者の中には毎年楽しみにしていた人もいる。供養のためにも祭りができてよかった」と語られたそうです。




※ 参考文献および参考サイト




http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0601C_W1A800C1CR0000/

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