history日誌

1 ピルニッツ宣言
 ヴァレンヌ逃亡事件の失敗により王制廃止の声が高まる中、オーストリアではアントワネットの兄レオポルト2世が芋生たちの身を案じておりました。「大変なことになった。妹がころされてしまうかもしれない・・・」って感じで。アントワネットらフランス王室を守るために、レオポルト2世はヨーロッパ各国の王様たちに協力を求めますが、色よい返事はかえってきません。そんななか、プロイセン王フリードリヒ・ヴェルヘルム2世がおうじてくれたため、1791年7月25日にオーストリアとプロセンは軍事同盟を結びます。

そして同年8月27日、「フランス国王を守るために、軍事行動を起こすこともできる」という旨のピルニッツ宣言をしました。この宣言が出たのはアントワネットを守るためともとれますが、これは革命の波が自国に及ぶことを恐れ、「革命をつぶさなければ、この先大変なことになる」とプロイセンとオーストリアの王様が思ったからでしょう。

革命をつぶそうとするオーストリアとプロイセン。これに怒ったのがフランスの人たち。国中が開戦へと傾きました。議会でも開戦すべき!という意見が多数を占めました。反対したのはわずか7人(750人中)だけ。ちなみにロベスピエールははじめは戦争に反対していました。「戦争よりも国内の革命闘争のほうが大事だ」という考えから。しかし、開戦が国会で決定されたあとは戦争に協力するようになったのです。1792年4月20日にオーストリア・プロイセン連合軍に、フランスは宣戦布告をします。


2 革命戦争勃発と8月10日事件

 勇ましくフランスは戦争に挑んだものの、連戦連敗でした。プロイセンだけでなく、翌年にはイギリス、オランダ、スペインも参戦したのです。フランス軍が負け続けたのは、アントワネットが祖国オーストリアに情報を流したことも理由の一つですが、それだけではありません。やはり、ヨーロッパ全土を敵に回してしまったことが大きい。太平洋戦争の日本と同じです。また、フランスも旧来の貴族を主体とした指揮官に率いられた軍隊は戦意に乏しく、また準備も十分ではありませんでした。軍服や軍靴さえそろっていないありさまでしたし。

そして、アントワネットの要請でプロイセン軍が「国王(ルイ16世)に少しでも危害を加えれば、パリを全面的に破壊する」旨の宣言をすると、平民たちはますます怒り、そして外部との連絡が一切取れないように、国王一家をさらに厳しい監視下に置くことになりました。敵国に情報を流したことといい、こうしたアントワネットの行動は平民たちにとって許し難いことでした。いままで国王一家に敬愛していた平民たちも、可愛さあまって憎さ百倍、裏切り者の国王一家を殺せみたいな意見もチラホラ出てきます。

さらに悪いことにルイ16世の行動がまずかった。国会が戦時体制強化のため法案をふたつ採択していました。一つは革命に敵対的な聖職者を国外に追放する法案。もう一つは地方から2万人の国民衛兵隊を呼び寄せパリに駐屯させる法令。この二つの法令をルイ16世は拒否権を発動したのです。プロイセンとオーストリアが革命をつぶしてくれることをルイ16世は期待していました。そのため、拒否権をだしたのです。しかし、これが民衆たちの怒りを買ってしまったのです。

そして1792年8月10日、民衆たちは国王一家のいるテュイルリー宮へ進撃。宮殿を守る兵隊たちと民衆は激しい戦いが繰り広げられ、死傷者は1000人以上に及びました。国王一家はいっさいの権利が奪われ、ティイルリー宮からタンプル塔へと幽閉されました。これを8月10日事件といいます。それだけでなく国王の家来たちも次々と牢屋へ入れられた挙句に民衆たちに虐殺されたといいます・・・

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        (テュイルリー宮殿)

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        ( タンプル塔)


3 ヴァルミーの戦い

 負け続きのフランス軍。しかし、フランスの人たちは強かった。負けてしょんぼりするどころか、「祖国を守れ!」と意気込むのです。そして続々と義勇軍に参加するのです。革命政府も身分、学歴、年齢を問わず、能力のあるものを将軍として登用しました。士気の高い兵を優秀な将軍が指揮すれば、装備が不利でも十分に補えます。しかも働き次第ではいくらでも出世できますから、そりゃ兵士たちも張り切ります。いくら兵士の士気が高くても将軍が無能だと負けてしまいます。旧日本軍は物資の足りなさもそうですが、将の無能さが致命傷でした。

初めはプロイセン軍に負け続きだったフランス軍でしたが、9月20日、フランスの国境から90キロのところにあるヴァルミーでフランス軍がプロイセン軍をやっつけるのです。野球でいえば9回裏の逆転サヨナラホームランが出たようなものです。

ヴァルミーの戦場で、フランス軍は帽子をサーベルや銃剣の先につけて振り回しながら「国民バンザイ!」と叫びました。フランス軍は3万人でしたが、その3万個の帽子が大きく揺れ動きました。プロイセン軍の兵士たちには、それが敵の軍勢が急に増えたかのように見えたのです。この異様な光景にプロイセン軍の隊列に動揺が走ったのです。プロイセン軍の総司令官は「これは狂信者か殉教者の軍隊だ」と思ったそうです。

そして、フランス軍のすさまじい戦意。その迫力にプロイセン軍も押されたのです。プロイセン軍は貴族中心の軍隊。かたやフランス軍は、貴族もいただろうけれど、ある意味野武士の軍隊。プロイセン軍総司令官は退却を命じます。フランス軍は辛うじて勝つことができたのです。この戦いをヴァルミーの戦いといいます。プロイセン軍は、フランス軍をはじめは弱いとバカにしていたのでしょう。しかし、その油断が仇となったのですね。幕末の日本も同じですね。圧倒的な軍事力を誇った幕府軍が、薩長土肥を甘くみていたのですね。それも、戊辰戦争における幕府軍の敗北の原因の一つでした。

文豪ゲーテはプロイセン軍に同行し、この戦いの一部始終をみてました。おっとゲーテとは雑誌の名前ではありませんよwそして、ゲーテはこう言いました。


「この日、この場所から、世界史の新しい時代が始まる」



ゲーテとの対話(完全版)
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
古典教養文庫
2017-12-31




※ 参考文献








 

バスチーユ事件以降、革命はちゃくちゃくと進んでいきましたが、国民議会の中から革命側から王党派(国王に味方する側)に寝返った人物も出てきました。穏健派議員のミラボーのその一人でした。しかし、ミラボーは1791年4月に亡くなりました。彼は王室とも革命側とも親しく、いわば両者の橋渡し役的な役割を果たしていました。ミラボーの急死は王家に暗い影を落としました。

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(ミラボーの肖像画。なんか僕の知り合いに似ているw)

ミラボーは生前、国王一家に国外逃亡を進めており、最後の最後まで自分が責任をもって国王を逃がしてあげますと語っていたそうです。その一方でミラボーは議会にも顔が利き、議員の中には「王を殺せ」という人間も少なくありません。そんな過激な人間をミラボーは「まあまあ、少しは餅つけじゃなかったw落ち着け」となだめることができたのです。

議会だけでなく、国民の王室に対する不満は高まっている状況でした。前回の記事でも書きましたが、王様の部屋に忍び込んだ輩も出てくるほどですから。また、ルイ16世は今まで住んでいたヴェルサイユ宮殿を追われ、ティイルリー宮に引っ込む羽目になりました。このままではいつか自分たちも命を狙われてしまう。そんな危機感がルイ16世にもあったのかもわかりません。

すでに一部の貴族たちは革命を恐れ国外逃亡をしました。しかし一国の王様が国をすて逃げるとなると大ごとになります。このまま国に残るか、それとも逃げるか。ルイ16世は悩みます。そんな時フェルゼンという人物が、「王様お逃げください」と勧めました。フェルゼンはマリーアントワネットの愛人でありました。実はルイ16世ってマリーアントワネット一人を妃にしていて、側室(愛人)が一人もいなかったのです。歴代のフランス国王は何人も側室(愛人)を抱え、いわば一夫多妻制みたいな感じだったのに、ルイ16世は違いました。ルイ16世はアントワネットを愛していたのに、アントワネットには愛人がいるとは不届きだなと僕は思うのですが、それは置いておきましょう。

ファルゼンの助力により、国王一家は国外逃亡を決意。逃亡先は、アントワネットの故郷オーストリア。国境まで無事にたどりつけば、アントワネットの兄レオポルド二世が守ってくれる。そんなことをアントワネットは考えていたのです。逃亡の予定日が1791年6月20日の夜。ルイ16世とアントワネットは馬車に乗り込み、ティイルリー宮を脱出しました。

しかし、アントワネットの強い要望で、逃げる途中で、質素な馬車から豪華な馬車に乗り換えました。そんな豪華な馬車に乗れば、人目につくし、ましてや逃げるとなると不都合です。そんなこともアントワネットはわからなかったのです。しかも、その逃げる道中ものんびりしたもので、途中でピクニックを楽しんだりしたそうです。本当に逃げるのならもっと急がなければならないのですが、ルイ16世達は「大丈夫、見つからない」と楽観視していたのでしょうね。

そしてとうとう、ルイ16世一家は、小さな町ヴァレンヌで捕まってしまいます。豪華な馬車に乗ってしまったのが仇となったのです。

そして、国王一家はパリに帰ってきましたが、聴こえてくるのは民衆の罵声。もともとルイ16世やアントワネットを嫌っていた人たちはもちろん、かつて国王を慕った人たちまでも、国をすてたルイ16世一家に怒りを覚えたのです。このヴァレンヌ逃亡事件は、のちの国王一家の惨殺につながっていたのです。もし、ルイ16世が逃げなければ、王制は廃止されても少なくとも惨殺は免れ、(いまの)日本の天皇陛下のようなポジションになれたかもしれない。実は議会でも「国王を殺すべきではない」という意見のほうがまだ強かったのです。すくなくともヴァレンヌ逃亡事件までは。むしろ立憲君主制を敷くべきだという意見もあったのです。ロベスピエールでさえ、王様殺しには反対していたのですから。その意味ではルイ16世は逃げるべきではなかったと僕は思います。




※ 参考文献



主婦が動くと歴史が動くといわれております。たとえば、原水爆禁止運動。これは1950年代後半にビキニ沖での水爆実験で第五福竜丸の乗組員が被爆したことを受け、立ち上がり署名運動を行ったのは主婦たちでした。主婦たちが行った行為がやがて、全国いや世界にまで広がりをみせたのですから、すごいことです。l

大正時代にも主婦たちが立ち上がった事件がありました。それは米騒動です。第一次世界大戦後、日本の景気が良くなりましたが、物価も上がってしまったのです。そして、コメの値段も高騰したのです。それは政府の米価調整政策の失敗と、悪徳なコメ商人がシベリア出兵に備えコメの買い占めを行ったことが原因でした。それで富山県の主婦たちが立ちあがった事件です。ただでさえコメが買えなくて困っているのに、コメが海外(シベリア)に流れては困る。それを主婦たちは阻止しようとしたのです。こうした動きはやがて日本中に広まりました。

実は、その米騒動に似た事件がフランスで起きました。それが、1789年10月5日におきたのです。その日、パリの8000人の女性たちが雨の中をヴェルサイユに行進しました。女性たちはなんとヤリやサーベルなどで武装し、大砲まで引いていたというからすごいですねw

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このころのパリではパンが不足していて、台所をあずかる女たちは先行きを不安に感じていました。そんなに人々は食うに困っていたのに、王宮では連日のようにパーティーが開かれていたそうです。それには女たちも激怒。王様になんとかしてもらいたいとおもって女たちはヴェルサイユにやってきたのです。

女性たちの代表が国会議長ムニエの仲立ちで国王に会見し、ルイ16世はパンと麦をパリに送り届けることを約束しました。しかし、結局騒動は収まらず、群衆がマリーアントワネットの寝室まで迫ってきたため、アントワネットは手近の衣類を羽織って国王の部屋へ逃げたといいます。もはや国王といえども民衆たちに怒りは納められそうにもありません。こうして、国王一家は慣れ親しんだヴェルサイユ宮殿をはなれ、パリのチュイルリー宮殿にうつりました。

この時代は女性は低く見られていたのですが、こうして女性が立ち上がって、自分たちの訴えを国王に届けようとしたのは歴史的にも大きなことだと思います。

※ 参考文献
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1 バスチーユ後の混乱
 前回の記事でバスチーユ牢獄の襲撃事件のことを触れました。この事件は、フランス国中に衝撃を与えました。バスチーユ襲撃事件は人々に「世直しは可能だ」という希望を与えたました。

法外な年貢を巻き上げる貴族領主たちに恨みをもっていた農民たちは、ここぞとばかり貴族の館を襲い、年貢台帳を燃やしました。

また、「大恐怖」という現象も農村部で起こっておりました。バスチーユ事件が起こった年は凶作で食糧不足。失業などでホームレスも増えたのです。当然、飢えている人もたくさんいます。「衣食足りて礼節を知る」とはいいますが、人間飢えると何をしでかすかわかりません。

そこへバスチーユ事件の情報がオーバーに農村に伝わりました。農民たちは、「自分たちの村が、そうした失業者だけでなく強盗、ならず者たちが食べ物を強奪しにくるのでは?」と思うようになりました。そうした恐怖心にとらわれた農民たちは農具や銃で武装し、襲撃に備えたといます。しかし、実際にそうした、ならず者たちが農村を襲うことはありませんでした。

また、バスチーユの混乱を機に国外へ亡命した王族や貴族たちもいました。ルイ16世の弟アルトワ伯爵(のちのシャルル10世)も真っ先に逃げ出した一人でした。


2 封建制度廃止
 こうした混乱を鎮めるには、一刻も早く改革をしていかなければいけない、そんなことが国会で話し合われるようになりました。

そして1789年8月4日、ついに聖職者および貴族たちのあらゆる特権を放棄することが決まりました。それまでの身分に基づいた免税特権、領主の年貢徴収権も廃止されました。これによって貴族たちも税金を払わなくてはいけなくなり、農民たちも年貢を納めなくてもよくなったし、貴族たちによる賦役(つまりタダ働き)も無くなりました。しかし、これらは書類上で決まったこと。

実際、こうした取り決めがあったあとも、貧しい農民たちはがめつい貴族たちに年貢を納め続けていたのです。わが国でも議員特権を廃止せよとか議員定数を減らせとか、そういう声はよく聞きますが、その割にはそれが進んでいない。それどころか、議員の給料がUPしたり、かつて野々村議員のように特権を享受する議員もすくなくありません。一度おいしい思いをすると、それにしがみつきたくなる、それが人情というものでしょうかねえ。

こうした動きはジャコバン派の独裁まで続きます。

3 人権宣言
 そして同年8月26日、議会は「人間および市民の権利宣言」。いわゆる「人権宣言」を採択しました。この人権宣言はフランス革命のみならず、世界の歴史においても大変意義深いものです。人権宣言は、あらゆる近代的憲法の源流となり、日本国憲法にも、人権宣言の精神が生きております。フランス革命以前は王様が偉くて、市民は虐げられるだけの存在でしたが、この人権宣言によって人は平等で、国民に主権があることが唱えられるようになったのです。この人権宣言は全部で17条あります。


  1. 自由かつ権利において平等

  2. 国家形成の目的

  3. 国民主権

  4. 自由の定義

  5. 法律の禁止する行為

  6. 法の前の平等・市民の参政権

  7. 人身の安全

  8. 刑罰は法の下で執行

  9. 無実の推定

  10. 思想・信条の自由
  11.  
  12. 言論の自由
  13.  
  14. 市民の権利は公権力が保障

  15. 租税の平等な分担

  16. 租税における市民の権利

  17. 行政の報告を求める権利

  18. 権利の保障と権力の分立

  19. 所有権の不可侵


ただ、人権宣言に書かれている「市民」とは男性のみをさし、女性は対象外でした。さらに女性だけでなく、有色人種には適用されませんでした。たとえば、黒人でしかも女性には、人間扱いしてもらえないって事でしょうねえ。奴隷制度も依然として残ったままです。

しかも人権宣言は法的拘束力はなくスローガン的なものでありました。しかし、それでも当時としては非常に高い理想を掲げたことはすごいことです。21世紀の今では女性の人権も、非西洋人の人権も認められ、北朝鮮とか一部の国をのぞいて国民主権も定着してきております。もし、人権宣言がなければ、21世紀になっても人権も国民主権もなかったかもしれないし、平成の日本においても大日本帝国が続いていたかもわかりません。

※ 参考文献



前回の記事で、テニスコートの誓いのお話をしました。いよいよ第三身分の人たちが立ち上がった瞬間です。かれらは「我々は憲法が制定されるまで、解散しない」と宣言したのです。

その様子をルイ16世はただ黙っていたわけじゃありません。ルイ16世は場合によっては解散もありうることをほめの課しました。実際、ベルサイユには軍隊が集結していました。

しかし、それぐらいのことで彼らは動じませんでした。「われわれは人民の意思にしたがってここにとどまるのだ。われわれをここから動かすことができるのは銃剣のみ」とミラボーは叫んだといいます。

その後、第一身分(聖職者)と第二身分(貴族)の一部が第三身分に同調したのです。実は第一身分は税金を払わなくてよい特権階級でしたが、ほとんどは貧しい生活をしていたのです。だから、貧しい平民たちに同情的だったのですね。そして、ルイ16世は、国民議会を認めざるを得なくなりました。そして7月9日に「憲法制定国民議会」とあらためました。

平民たちの勢いに負けて国民議会を認めた国王側ですが、それを指をくわえて黙っていたわけじゃありません。国王側は武力をもってでも、第三身分たちのこうした動きをつぶそうとしたのです。本来、ルイ16世は国民おもいで貴族たちがブイブイしている世の中はおかしいと思っていました。しかし、宮廷にはこれまでどおりの体制を維持しようとする反改革派の勢力も根強かったのです。

ルイ16世自身も改革の必要性は認めつつも、先祖代々から受け継がれた王制を守らなくてはならないという、ジレンマにおそわれていたのです。結局ルイ16世は全国から王家の軍隊をヴェルサイユに呼び寄せます。軍隊を使って国民議会の有力者な支持者であるパリ市民を軍隊の力でねじ伏せようとしたのです。パリには武装した兵士であふれ、王宮は軍隊に囲まれ、パリも物々しい雰囲気になりました。この状況を見た時の財務長官ネッケルは、これらの政策がむしろ市民の暴動を誘発してしまうと感じ、王に軍の撤退を要求します。しかし、ルイ16世はネッケルを罷免してしまいます。

このネッケル罷免が非常にまずかったんですね。ネッケルは改革派で平民にも人気が高かったのです。今でいえば小泉進次郎議員みたいな感じでしょうか。そのネッケルをクビにするなんて許せんという空気になってきたのです。さらに国王の軍隊がうじゃうじゃパリに集まったことに、民衆たちは「国王軍が我々を殺しに来る」と思ったのでしょうね。


民衆は武器を持って立ち上がろうとしたのです。その武器を手に入れるために7月14日、アンヴァリッド(廃兵院)に押しかけ3万2000丁もの銃と24門の大砲をてにしましたが、まだまだ武器がたりない。それで、民衆たちはバスチーユに乗り込んだのです。

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バスチーユ陥落は、フランス革命の幕開けともいうべき大きな事件でした。バスチーユ要塞に市民や国民衛兵が襲撃をしたのです。バスチーユ要塞は、高さ30メートルの城壁と幅25メートルの堀に守られ、城壁にはいくつもの大砲が備え付けられておりました。そのため難攻不落だといわれていました。

ところが、要塞司令官のローネー侯爵は銃撃戦が交わされたあと、自ら降伏したのです。民衆に銃を向けることが耐えられなかったのでしょう。これでローネーがヒトラーのような男だったら、要塞をせめる民衆を銃で皆殺しにしたでしょう。

ベルサイユの宮廷では、軍隊を派遣し、パリを制圧すべきという意見もありましたが、流血を好まないルイ16世は、和平の道を選びました。7月17日に和解が成立したのです。翌日議場で軍隊を撤退する旨をつげます。人々からは「国王ばんざい」との喚声が上がり、ついでネッケルを再任することも約束しました。

ちなみに、バスチーユ牢獄は、もともとパリ防衛のために14世紀につくられたものでした。その後、パリの街が大きくなるにつれ、首都防衛という軍事的な機能を失い、政治犯を収容する監獄になりました。しかし、革命当時、バスチーユに収監されていたのは政治犯ではなく、普通の犯罪者でした。




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