history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

1 46センチ砲を撃ったものの
1944年(昭和19)、日本はマリアナ諸島に対するアメリカ軍の攻勢を撃破する「あ号作戦」を発令し、大和ホテル、武蔵御殿と揶揄された大和と武蔵にも活躍の場が与えられます。大和や武蔵が前衛艦隊になり、機動部隊を護衛する役割を果たすことが決められました。しかし、このマリアナ沖海戦も日本の負け戦。のちにマリアナの七面鳥撃ちと呼ばれたこの戦いで日本機動部隊は約480機の艦載機のうち426機も失ってしまいます。大損害です。

大和は、この戦で初めて46センチ主砲を撃つ機会に恵まれます。しかし、これは対空用の三式弾であり、本来の用途である対艦攻撃ではなかったのですね。それどころか大和の所属した前衛艦隊は日本側の攻撃部隊を敵と間違えてしまい、攻撃を仕掛け、うち数機を撃墜するという失態までしてしまう有様だったといいます。

マリアナ海戦以降、事実上日本の空母機動部隊は活動停止を余儀なくされ、続くレイテ沖の海戦では空母は「おとり」として使用されてしまうのです。そして大和と武蔵もレイテ沖海戦を迎えます。

2 レイテ沖海戦
 1944年(昭和19)10月に米上陸隊がフィリピンのレイテ島に上陸。フィリピンまで取られたら、いよいよ日本がやばくなる。海軍も必死になります。これを阻止すべく日本海軍連合艦隊は残る戦力をほど出勤させました。いわゆるレイテ沖海戦です。

戦力が低下し、しかも戦闘機の搭乗員も訓練不足。それで空母機動部隊が「おとり」となってアメリカの艦隊を引きつけ、その合間を縫って大和がレイテ湾に行きアメリカの輸送船団を攻撃するというもの。その空母機動部隊を率いるのが小沢治三郎オザワジサブロウ中将。そして大和の艦隊を率いてレイテ奪還の命を受けたのが栗田健男クリタタケオ中将。

栗田率いる栗田艦隊は、戦艦が、大和、武蔵、長門を含め5隻、巡洋艦12隻(重・軽合わせて)、駆逐艦15隻。旗艦は重巡洋艦の「愛宕アタゴでした。しかし、レイテの戦いの開始から5日間で、武蔵を含む戦艦3隻、空母4隻、巡洋艦9隻、駆逐艦8隻も沈められてしまいます。武蔵は大和ほどの対空装備がなく被弾。アメリカ軍は武蔵に攻撃の的を絞りました。無数の魚雷と空襲を受けながらも武蔵は耐えました。その強靭ぶりにアメリカ軍も驚いたほど。しかし、その武蔵も力尽きて、24日の午前7時半に沈没。大和の乗組員だった人は、「武蔵がなぜ沈むんだろうか」と不安がったとか。いくら浮沈船と言われても数十発の爆撃を受ければ沈んでしまうから。

ちなみに武蔵の艦長だった猪口敏平イノグチトシヒラ中将は俳優の六平直政さんのお母様の親戚だそうです。猪口もまた航空機に対する戦艦の無力さを山本五十六同様訴えていました。また、猪口は砲術の第一人者でもありました。射撃の腕は相当だったといいます。しかし、その腕を発揮するような戦況はなく、レイテ沖の海戦にて、武蔵と運命を共にしたのです・・・


3 小沢艦隊がオトリになって

 それで栗田長官は艦隊を退避させたのです。するとアメリカ艦隊は追撃をしなかったといいます。実は小沢艦隊がおとりになってアメリカ軍を引きつけたのです。小沢は「最後の一発まで撃って打ちまくれ」と命じたとか。自分たちが死んでまでも、おとりの役目を果たそうとしたのです。しかし、その胸中は複雑でした。戦闘機のパイロットたちは訓練を終えたばかりの若者たち。彼らの命を犠牲にしなくてはならないから。小沢は帽子を取って、飛び立つ若者たちを見送ったといいます。

そんな中小沢は大和に電報を打ちます。「敵機動部隊ハ北ニ誘致シタ 本隊ヲ攻撃中ナリ」と。しかし当時の通信環境は非常に悪く、小沢の作戦成功の電報はなんと栗田の元に届いていなかったのです。大和はその時周りの状況がわからない状況だったのです。そして、運命の日がやってきます。そのお話はまた次回。

前回の記事で大和の中は快適だったと書きましたが、もちろん、良いことづくめではなく、辛いこともたくさんあったのです。毎日生きるか死ぬかの不安な気持ちになるのもそうですし、厳しい訓練もそうなのですが、なんと言っても上官や古参兵による制裁です。

同期の兵1人が何か失敗をすると連帯責任になります。失敗した兵1人が罰せられれば良いのに、同期兵が向かい合って並ばされ、お互いにビンタし合うのですね。ちょっとでも手加減をしようものなら、「バカやろう!こうやってやるんだ」って上官が怒鳴り、上官が全員を殴るのです。

また、軍人精神注入棒というもので何かあるとすぐ上官から「歯を食いしばれ!」って殴られたといいます。元乗組員さんのお話によるとそうした制裁は毎日の日課だったそうです。映画「男たちの大和」にもその描写が出てきます。一方で、大和にもいくつかの部署とか持ち場があって、部署とか持ち場によっては、あまり制裁がなかったという話も聞きます。大和の語り部をされていた八杉康夫さんは測距儀測的所に配属されたのですが、八杉さんは一度だけビンタを食らったくらいで殴られることはなかったそうです。だから、他の部署の同年兵から「お前のところはええなあ、殴られんから」って言われたほど。何しろ「あいつらの頭を殴って、バカにしてしまったら、大和の心臓部がやられてしまうから」と。測的所の部員たちは、大事な測距儀を扱う部署ですから。この測距儀を使い、敵の標的を計算し、そのデータを主砲にいき、そのデータをもとに主砲射撃指揮所の射手が引き金を引くのですから。測距儀を扱う人がおかしくなったら、まともに弾を打つことができません。

さて、この制裁に関しては、乗組員の間でも賛否両論なんですね。「辛い経験しかない」っていう人もいれば、「軍人精神を養うには必要だ」という人もいる。「くどくど説教されるより一発殴られた方がスッキリする」とか意見もさまざま。しごきが嫌で逃げ出そうとした人もいたし、逆にあの制裁で強くなった人もいる。体罰とかパワハラもそうなんですが、制裁も劇薬みたいなもので、ものすごく効く人もいれば、効かないどころか逆に副作用で命を落とすものもいる。だから制裁を是とするか非とするかは難しいところです。「殴られるより、くどくど説教された方がマシ」という人とか、落ち込みやすい人には、制裁はやめた方がいいかもしれない。逆に鼻っぱしが強くて、なにくそ!って人だったら殴るのも一つの手かも。

それでも他の船と比べると大和は優しい方だったようですが。


1 初陣を飾ろうとしたが
 真珠湾攻撃を成功させた山本五十六は、ミッドウェー諸島でアメリカを叩き、その勢いでハワイまで進み、それから早期講和に持ち込もうと考えました。そして 1942年(昭和17)5月29日、戦艦大和は出撃をします。アメリカの艦隊を攻撃すべく大和を含む連合艦隊はミッドウェー諸島を目指しました。

しかし、日本の艦隊に敵機が襲い掛かります。実は、この作戦はアメリカに事前に傍受ボウジュされ、暗号も解読されていたのですね。結局、日本は空母や重巡洋艦などを沈められたりと、やられてしまうのですね。

いわゆるミッドウェー海戦です。

一方、大和は先行した機動部隊よりも300海里(約550キロ)も後方にいたので、機動部隊を助けたくても助けられません。大和に乗っていた山本五十六はミッドウェーでの戦いの結果を知り愕然とします。大和艦内は救いようのない空気になったとか。ミッドウェーで日本が失ったものは、空母4隻、重巡洋艦1隻、艦上機322機、戦死者約3000名という散々なものでした。五十六は作戦の中止を決意。いった言葉は「陛下には私がきちんとお詫びをする」

結局、大和は一本の砲弾を撃つことのないまま帰還。この戦いに参加することはなかったのです。1942年(昭和17)8月、ガダルカナル島で激戦が始まり、ソロモン島への支援をすべく出航、ソロモン方面の日本海軍の根拠地だったトラック島に入港しました。しかし、ソロモン方面で大和が活躍することはありませんでした。翌年の1943年(昭和18)2月には武蔵がトラック島に到着。連合艦隊旗艦の役割が大和から武蔵に交換。そして大和の方は一時本土帰還。レーダー装備などの改修を経てその年の8月にトラック島に戻ってきました。その間、山本五十六が亡くなります。

そしてその年の10月にマーシャル方面にアメリカ機動部隊が出現したという情報に武蔵、大和も出撃しますが、、結局4日間行動をするも、敵を発見できずトラック島に戻ってしまうのですね。その後も輸送作戦の支援など小さな作戦に参加するものの、本格的な海戦に出撃する機会がなかったのです。すでに戦闘機の時代となっており、大和のような大型戦艦の出番はしばらくなかったのです。そんな大和の状況に口の悪い一部の兵士からは「大和ホテル」と揶揄されたほど。武蔵は「武蔵御殿」と言われたとか。なぜこのような事態が起きたのか。

2 大和ホテルと言われたわけ
 一説には多大な予算をかけた最新艦の損出を恐れたからだと言われております。高い金をかけた一級の戦艦を失うのは惜しいという気持ちが当時の海軍のお偉いさんにあったのかもしれません。戦艦は戦ってなんぼだと思うのですが・・・また、連合艦隊司令部が大和に置かれているため、やすやすと海戦に出すことができなかったことも理由の一つでしょうし、資源不足のため大量の燃料を食う大型艦を出しにくいという事情もあったのでしょう。

昭和17年における大和の維持費は総額340万5373円と高額です。しかも戦時中の価値で、この金額ですから、現代の価値に換算したら相当なものでしょう。さらに燃料費もプラスしたら404万3373円になってしまうのです。しかも、大和が海洋を海戦で高額な砲弾を何発も発射すればもっと金額が膨れ上がります。また外洋を全力で航海すれば、燃料もさらに食ってしまいます。これでは海に乗り出すのも金がかかります。

じゃあ、大和を港に停泊すればお金もかからないじゃんと思いますが、それでもかかります。一日1750円かかってしまうのです。なんだ、1750円なんて大したことないじゃんっwって思うのは現代の感覚。昭和初期の中流サラリーマンの年収が百円。財閥系の一流企業に勤めるエリートサラリーマンでも年収の最高到達点は1800円ないし2000円です。大和は停泊費だけで結構経費がかかってしまいます。年間だと63万8000円にもなってしまいます。

また、大和には最新の兵器や機器が多数搭載されているのです。それを常に万全の状態に保つためには、こちらもメンテナンスにも費用もかかります。

そして人件費。大和の定員数は2300名。准士官以上が150名、下士官・兵は2150人となっておりますが、実際にはそれらの人たちに加え、理容師、コック、洗濯付といった軍属と呼ばれる人たちも乗艦しておりました。だから、最終的に大和に乗船したのは2500人とも2800人だったと言われております。その具体的な人件費ですが年間59万2694円くらいかかったといいます。


3 快適だった大和の中
 大和が「大和ホテル」と揶揄された理由のもう一つは、大和が実は快適な場所だったから。実際、乗組員だった人が「クーラーも効いているし、住むには快適だった」というくらい。食事事情もよく、有名ホテルで働いていてたコックが腕をふるい、カレーライスとかオムライスも出たし、フルコースさえでたそうです。大和ででた食事のお話は別の機会で詳しくお話しますが、トラック島にいた頃の連合艦隊の司令部のメニューは以下の通り。

(朝食)
 お味噌汁 小皿 生卵もしくは目玉焼き 香の物

(昼食)
 スープ 肉か魚料理 サラダ 果物 コーヒーか紅茶

(夕食) 
 刺身 焼き物 吸い物 煮込み

なかなか豪華です。これはあくまで司令部のメニューですから下っ端はもっと簡素なメニューだったと思われますが、その下っ端でさえ「(食事は)よかったですよ。量も多かった。細かいメニューは覚えていないのですが、炒め物とか魚の煮付けが好きでした」と語るくらい。大和が沈んで、駆逐艦に乗った人は駆逐艦ででた食事と比べ、「食事は大和の方がよかった」と語られたほど。

さらに司令部専属の軍楽隊による演奏が四十分も行われ、その演奏は放送で艦内中に流れたといいます。

大和の冷暖房も完璧で、冷房に関して低くても二十七度程度。あれ、現代の感覚からすれば結構暑いですね。でも、乗組員は「外は猛烈な暑さ。でも艦内は冷房が効いていて、至極快適だった」と回想するほど。暖房もよく効いていて、寒い思いをした乗組員はいなかったと言われるほど。

さらに理容師まで大和にいて、そこらの床屋よりも安い価格で散髪できたのです。海軍は身だしなみにやかましかったこともあり、おしゃれな方が多かったのですね。下っ端の兵でも髪を切ってもらうことはできましたが、いつも混んでいたので、下っ端の兵たちはバリカンを借りて、仲間の髪を切ってあげたとか。

お風呂もありましたが、入浴時間が決められ、階級によって風呂に入れる回数まで決まっていました。下士官以上は毎日入れたのですが、下っ端の兵になると週に2回くらいしか入れなかったといいますから、ちょっとかわいそう。

帝国海軍の戦艦は洋式トイレが主流ですが、仕切りがなかったといいます。しかし、大和の様式トイレには仕切りがあり、洋式だけでなく和式のトイレも設置されていました。

また大和には洗濯室もあり、艦長以下の士官の軍服などは専門に雇われていた洗濯屋にクリーニングされました。しかし、下っ端の兵は洗濯桶に水の配給を受け、甲板カンパンに行っては自分で選択したそうです。




戦艦大和に乗員として乗り組むには、大きく二つのルートに分かれており、士官になるか、下士官になるかのいづれかです。

まず下士官及び兵は、志願か徴兵かのいづれかですが、大和の場合は志願する人が多かったようです。志願兵は15歳から応募でき、現役期間は5年とされました。(徴兵は3年)。徴兵される場合も志願する場合も、海兵団に入って訓練をします。教育期間は志願兵が5ヶ月半、徴兵が4ヶ月半です。そこでは生活面から基礎の学問、軍隊の基本まで厳しく仕込まれます。この訓練期間が終わると兵として、早速働くことになります。その際、配属される艦、部隊が決まり運任せみたいなもののでした。戦艦大和に配属が決まった人は、上官から「お前、よかったな。戦艦大和は沈まないぞ」って言われたとか。そうして兵卒として艦に送り込まれ、艦の中で働きながら、スキルを磨いたのですね。いわゆるOJTですね。


あるいは海兵団で学んだ後、すぐに兵として働かず、学校で勉強して下士官になるというコースもあります。砲術学校や海軍水雷学校などの各術科学校の試験を受け、その学校で高度な知識と技能を学んで、卒業後に下士官任用試験を受け、試験にパスすると下士官として艦に乗り組むことができるのです。

一方の士官はまさにエリートコース。まず海軍兵学校に入校し、最初から士官になるべく教育が行われます。応募条件は中学4年修了、健康で体格的に優秀であることですが、入校はかなりの難関だったそうです。いわゆる文武両道な人じゃないとまず兵学校は受かりません。兵学校では専門の兵科など軍事学だけでなく、理数系学問や歴史、哲学、普通教育も学びます。また基本的なマナーも学んだといいます。そうして4年卒業すると、少尉候補生として初級兵科将校の見習い教育を経て、正式に少尉として任官されます。その後も艦隊の中という実践の場で学んでいきます。

一方で、海軍兵学校で学んで、もっと専門的なことを学びたいということで海軍砲術学校などの各術科学校を出たり、海軍大学に進学する人もいたそうです。現代に例えれば、海軍兵学校→各術科学校が、大学を卒業して専門学校に行くようなものでしょう。また、海軍兵学校→海軍大学校は、大学を卒業して大学院に行くようなものでしょう。海軍大学校を出ると司令官などの要職につけるのです。ただ、大和型の戦艦は大和と武蔵のニ艦しかないので、優秀な士官だからと言ってすぐに大和に乗り込めるわけではないのですね。

戦艦大和は海軍工廠カイグンコウショウ(※1)で建造されました。大和の建造は国家機密とされました。大和の主砲の大きさは46センチでしたが、建造の際は、あえて40センチ砲と名付けられ、作業員にも事実を知られなかったそうです。さらに呉の軍港近くを走る線路には、およそ900メートルにも及ぶ目隠し壁を設置。

作業現場でも、その秘密保持は厳しいものでした。作業員には管理番号と顔つきの身分証明証が渡され、作業場に入る際チェックされたのです。元作業員だった人は、「図面には管理台帳があり、借り出す際にはチェックされる。外に持ち出すことなどもちろんできない。仕事の内容は、家族に話すことも禁じられた」と。また「一つの図面を描くのに、幾つもの関連図がセットになっていた。多い場合は、3〜4つほど。そう言った関連図は毎日、仕事をやるために借りて、今日の仕事が終わった時に関連図も返す」ということを繰り返したそうです。関連図の流出を恐れたのですね。


このように戦艦大和建造の全体像も、海軍工廠で働いている現場の行員ですら見えないようにしたそうです。行員たちは「与えられたことを淡々とこなしていた。日本海軍のプロジェクトに参加していたことに気づいたのは、戦後になってから」というくらい。

海軍工廠カイグンコウショウではの技師Aが機密漏洩キミツロウエイの疑いで捕まったことがあるのです。大和の注排水用のバルブを業者に注文したのですが、かつてない大型のバルブで、しかも納期が迫っている。困惑する業者は何に使うのか説明を求めたのです。すると、その技師Aと業者とは旧知の仲だったので、つい技師Aはしゃべったのです。それで技師Aは逮捕されたのです。


大蔵省への予算要求にさえ、それが表れておりました。正規の予算を要求したら、前代未聞の軍艦を建造していることが推測されてします。このため3万5000トンクラスの戦艦と駆逐艦クチクカン3セキ潜水艦センスイカン1隻を作るから予算をよこせと海軍は行ったようですね。国会ですら、大和の存在は知らされていない状況だったようです。

1987年12月23日に、翌年の1988年度の政府予算大蔵原案の説明会の席上に、当時の大蔵省の田谷広明主計官が、「昭和の3大バカ査定と呼ばれるものがある。それは戦艦大和・武蔵、伊勢湾干拓、青函トンネルだ」と。そして「航空機時代が到来しているのに、大艦隊巨艦主義で大和、武蔵を作った」ともいったとか。大和型の戦艦の製造費は、1億3780万2000円ほど。これは現在の価値に直すと約4000億円!東京スカイツリーの建設費でさえ650億円です。これはすごいことです。しかも大和一隻だけでなく、同じくらいの大きさの武蔵という戦艦も作ったのですから、これは大変な額です。当然、当時の大蔵省がOKなんてするはずがありません。この2隻の予算要求に大蔵省査定において、海軍は「ごまかし」をしたのですね。駆逐艦3隻、潜水艦1隻の予算を架空計上、大和型戦艦の建造費も過小に見積もったのですね。これは予算額から実際の大きさを推察されるのを避けるためだったのです。なんと、味方まで騙すのだから。戦後になって大蔵省の幹部がそのような発言をしたくなるのも、なるほどなあって。


それにしても、なぜ、そこまで隠す必要があるのか?

それは世界最強の船を日本が造っているということを知られたくないから。ことに仮想敵国のアメリカに知られたら大変です。アメリカが同レベルの戦艦建造に着手する可能性がある。そういうこともあって戦艦大和の建造をひた隠ししたのです。

※1 海軍工廠は日本海軍の艦艇・兵器の製造・修理、艤装・兵器の保管・供給、艦営需品の調達・供給、軍器用の製鋼などを担った工場の総称。

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