history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。ブログ削除しようとしましたが、やめましたwそのかわりブログをリニューアルしました。コメント欄も久々に開放しましたが、コミ障で、なにぶん心が折れやすい性格なので、コメントの方は何卒お手柔らかにお願いします。

元弘ゲンコウ2年11月、護良親王は吉野にて挙兵しました。護良は吉野城に立て篭もり、幕府軍と戦うことになったのです。城と言いましても、お城を造ったというより、吉野山を城として活用したと言った方が近いかもしれません。蔵王堂ザオウドウ(※1)という吉野山のお寺の建物を本陣としました。

翌年の元弘3年2月16日、二階堂貞藤ニカイドウサダフジ率いる幕府軍が吉野城を包囲したのです。護美の軍勢は3000ほど。幕府軍は6万の大軍でした。普通に考えれば、幕府軍の圧勝です。が、護良たちの奮戦もさることながら、吉野城は難攻不落ナンコウフラクの城。なかなか攻め落とすことができません。幕府軍のいらだちは募るばかり。しかし、幕府軍はしたたか。吉野城の背後にそびえる金峰山キンプサン の守備が手薄であることに気づきます。護良たちは金峰山は険しい山だから、まさかの敵も登ってくることはないと楽観視していたのですね。しかし、油断は禁物というもの。



幕府軍が150人余りに夜中に金峰山に忍び入り、夜明けとともに、護良軍を襲ったのです。さすがの護良軍も総崩ソウクズれ。と思いきや、蔵王堂にいた護良は20人もの精鋭を引き連れ、自らナギナタをふるって戦ったのですね。護良のすさまじい奮戦にさすがの敵も怖気付オジケヅいて逃げ出したとか。すごいですね。

しかし、敵を追い払ったとはいえ、まだまだ幕府軍の方が数が圧倒的に多い。勝てる見込みはありません。さすがの護良も観念したのか、蔵王堂の前で護良たちは酒宴を開いたのです。護良のヨロイには矢が七本も刺さっていて、護良のほおや腕から血がどくどくと流れていたのです。しかし、護良は血が流れても、それをこうとしないのです。すさまじい光景ですね。

護良は、大杯から三度、酒をぐびっと飲み干していたのですね。護良はもう死を覚悟していたのです。そこへ村上彦四郎が駆けつけました。「私が宮の身代わりになりますので、その間、宮は吉野を下り、お逃げください」と村上は護良に言いました。護良は「それはできない」と村上の申し出を拒否します。しかし、村上は護良のきていたヨロイを半ば強引に脱がせたのです。護良は涙ながらに村上の申し出をうけ、「私がもし生き長らえていたら、そなたの後生を弔うだろう。もし死んだらあの世とやらへ一緒に参ろう」と言ったとか。そして護良はわずかな手勢を率いて吉野を降りました。

一方の村上は護良のヨロイを身につけ、敵兵の前で「我は後醍醐天皇の皇子、護良親王である」と名乗り、自害したのです。その死に方が凄まじく、刀で腹をかき切って内臓をつかみ出し、その内臓を投げつけたと言います。そして、口に刀を加え、そのままうつ伏せになって倒れたと。

その村上の死に様に幕府軍は驚いたともに、お尋ねものの護良親王がやっと死んだと安心したと言います。また、村上彦四郎には村上義隆ムラカミヨシタカという息子がいたのですが、彼も護良軍の一員で、護良軍が吉野城から敗走する際、しんがりを務めて存分に戦った後に、切腹をしたのですね。親子二代で護良を守ったのですね。

鎌倉の鎌倉宮は護良親王が祀られておりますが、その一角に村上彦四郎の像があります。村上は鎌倉宮では「身代わりさま」と呼ばれまつられております。死後も護良新王のことを守っているのかもしれませんね。

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(村上彦四郎の像)

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(鎌倉宮)







*1 平安初期に、奈良県の吉野山一帯のに、修験道独自の神、蔵王権現をまつる蔵王堂を本堂として形成された修験道の寺院。平安期や鎌倉期の貴族や将軍の信仰をうけ隆盛を極め、多くの僧兵たちが南朝側について活躍した。

※参考文献




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(このエントリーに出てくる主な登場人物の相関関係)

今回の記事は色々な人物が出てくるので、今日の記事に出てくる主な人物の相関関係を図にしてみました。南北朝の動乱は色々な登場人物が入り乱れるので、ややこしいので、こういった相関関係を把握しないと後でわからなくなるのですね。僕は南北朝の動乱を描いた「太平記」(子供向け)を読んでいるのですが、子供向けの内容でさえ、物語に色々な人が出てきて頭がこんがらがるもの。そういう意味で「太平記」と「Zガンダム」は似ているなって。今日は護良親王が絶体絶命のピンチになってしまうというお話し。昔、山口百恵さんの曲に「絶体絶命」って曲がありましたが。余談はこれくらいにして、本題に入りますw


前回の記事で、護良親王もりよししんのうが奈良の般若寺ハンニャデラで身をひそめたことを触れました。般若寺を後にした護良は山伏ヤマブシに姿を変え、後から護良の元へかけつけた九人の武士たちともに紀伊国熊野キイノクニクマノ方面を目指したのです。その九人というのが光林房玄尊コウリンボウゲンソン赤松則祐アカマツソクユウ木寺相模コデラノサガミ岡本三河房オカモトノミカワボウ武蔵房ムサシボウ片岡八郎カタオカハチロウ矢田彦七ヤダヒコシチ平賀三郎ヒラガノサブロウ村上彦四郎ムラカミヒコシロウです。

この頃、護良は還俗ゲンゾク(*1)をしました。護良はそれまでお坊さんの肩書だったのですが、それを捨ててしまったのですね。

熊野三山は霊山として名高く、参拝する人も少なくなかったのです。それで、護良一行は参拝者に紛れこみ、鎌倉幕府打倒のチャンスを待っていたのですね。ところが、熊野三山の別当(*2)である 定遍僧都ジョウヘンソウズが完全に幕府よりだったので、仕方なく護良一行は十津川トツガワ へ向かったのです。


十津川までの道のりは険しいものでした。何しろ山岳地域に入らなくてはならない上に、道も整備されておりません。さすがの護良一行も疲れ果て、汗はダラダラ流れるし、足はガクガク、ワラジには血がにじむほどでした。しかも食べ物もろくにないから腹は減る。何しろ車も自転車さえもない時代でしたからね。それでもみんな弱音をはかず、互いにこしを押し、足を引っ張り合いながらじゃなかったw、手を引っ張り合いながら、どうにか十津川にたどり着きました。

十津川に入った一行は、現地の武士である戸野兵衛トノヒョウエの妻が病にふしていたので、護良が加持祈祷カジキトウを行い、千手陀羅尼センジュダラニも唱えたと言います。すると、妻の病気はたちまち良くなったと。兵衛は感激し、護良の味方になったのですね。また、兵衛のおじの竹原八郎も護良に協力するようになったにです。それから半年ばかり護良一行は、十津川に滞在していたのです。護良に訪れたつかの間の平和な日々でした。しかし、それから半年たって護良が十津川にいるといううわさが広まったのです。護良をつかまえたものは賞金を与えるというおふれまで出たのです。護良はお尋ね者になったのです。ピンクレディの歌じゃないけれど、ウォンテッドですwこうなると護良は十津川にいられません。護良は十津川を後にしました。

「太平記」には、護良一行が十津川から逃げる途中で、荘園の役人に引き止められ、護良一行が持っていた大事な錦の御旗(※3)を取られてしまうのですが、遅れてやって来た村上彦四郎が、その役人から錦の御旗を取り戻すというお話が出てきます。






護良一行に、またしてもピンチが訪れます。今度は幕府側の玉置浩二さんじゃなかったw玉置荘司タマキショウジの軍勢に囲まれてしまいます。

護良、絶体絶命。護良はもはやこれまでと部下に「自分は自害するから、面の皮を剥ぎ、鼻を切って誰の首かわからなくして捨てよ。」とまで言ったとか。死を覚悟していたのですね。そこへ紀伊国の住人の野長瀬六郎ノナガセロクロウ&七郎兄弟が3000騎を率いて護良を助けたのです。護良は絶体絶命のピンチを切り抜けたのです。よかったですね。

そして護良は吉野入りを果たし、挙兵をしたのです。吉野に立てこもった護良はどうなったか。そのお話はまた次回取り上げます。


*1 度出家した者がもとの俗人に戻ること。法師がえり。
*2 紀州熊野三山(本宮,新宮,那智)を統轄,管理した首長。
*3 この旗は天皇方であることの印であり、これを奉ずることで逆賊(天皇にそむくもの)ではないという証になる。




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(村上彦四郎の像)


* 参考文献






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後醍醐天皇ごだいごてんのうが鎌倉幕府を倒すべく立ち上がりました。元徳3年(1331)4月末、後醍醐天皇はクーデター計画をたてましたが、事前にそのクーデター計画が秘密がもれてしまい失敗してしまいます。そして、その年の8月(※1)に後醍醐天皇を逮捕しようと、幕府が動きました。その情報を護良は事前にキャッチし、父の後醍醐に伝えたといいます。護良は比叡山が持っている独自の情報網を活用して、幕府の動向をつかんだのです。それで、ゴダイゴじゃなかったw後醍醐はその報を受け、自分の家臣を影武者として比叡山ひえいざんに派遣し、護良もそれに同行しました。そして後醍醐一行は南部方面へと向かったといいます。後醍醐は笠置城かさぎやま(※2)にたてこもり、幕府と戦おうとしたのです。

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コロムビアミュージックエンタテイメント株式会社
2008-07-01




そして、鎌倉幕府の出先機関である六波羅探題ろくはらたんだい(※3)が軍勢を派遣し比叡山へ向かったのです。比叡山の僧兵たちは、自分たちの目の前にいる天皇を守るべく立ち上がったのです。その目の前にいる天皇が替え玉だと知らずに。護良も一緒に戦いました。

護良と比叡山の僧兵たちが六波羅軍を引き付けておくすきに、後醍醐は笠置山にたてこもりながら、幕府に不満を持っている武将たちと合流し、軍勢を整えるという戦法です。護良もなかなかの作詞じゃなかったw策士ですね。

比叡山の僧兵たちは、いまの滋賀県大津市の唐崎からさきの浜で六波羅の軍勢を撃破したのですね。すごいですね。六波羅軍といえば武士集団。それに立ち向かったのが僧兵。武士が僧兵に負けたというのだから。逆にいえば、それくらい当時の僧兵たちが強かったということでしょう。もちろん、護良の活躍もあったと思われますが。

勝ったのはよかったものの、そのあとでトラブルになったのですね。実は、比叡山にいるのが後醍醐天皇ではなく、替え玉だってことが、僧兵たちの間にばれてしまったのですね。僧兵たちは「はかられた」と言ってみんな退散してしまいます。護良たちは「これは、やべえ」って比叡山を降りてしまい、後醍醐のいるか笠置山に逃げ延びます。

そして、すぐさま護良は河内かわちの国の楠木正成くすのきまさしげの館に入ったといいます。楠木正成といえば南朝側の名将とされております。『ガンダム』に例えればランバ・ラルのような方でしょうか。大河ドラマの『太平記』では金八先生こと武田鉄矢さんが演じられていたのが印象的でした。そこで護良と楠木の間でどんな会話が交わされたのでしょう。

しかし、ここでも護良はすぐに離れてしまい、奈良の般若寺はんにゃでらにしばらく潜伏せんぷくしたのです。興福寺一条院こうふくじいちじょういんの僧、好専こうせんが500人もの兵を連れ、護良を捜索そうさくしたのですね。なぜ好専が護良を探しているのか僕もよくわからないのですが、坊さんでも護良の味方ではないことは確かでしょう。この時の護良には従者が一人もおらず、一度は自害も覚悟していたといいます。そんな時、護良はひらめきます。仏壇ぶつだんの前のからびつが3つあり、そのうちの一つの中に身を潜め、あえてフタを開けたまま隠れたといいます。その唐びつのなかには経典がいっぱい入っていて、その中に護良はまぎれて隠れたのですね。護良はその時心の中で呪文を唱えていたといいます。

僧兵たちは護良が隠れていそうなところをあれこれ、さがしますが、護良がかくれている唐びつの中を探そうとしません。フタがあいているし、唐びつのなかには経典しかないから、わざわざ探す必要はないと僧兵たちは思って、その場を去ったのですね。

しかし、護良はそれで油断しませんでした。「あいつら、しつこいからまた探しに来る」って。それで護良は唐びつの中から出て、すでに兵が確認した(さっき護良が隠れていたのとは別の)唐びつに身を潜めました。案の定、僧兵たちは戻ってくるなり、今度は護良がさきほどまで隠れていたフタの空いていた唐びつをさがしました。その中には護良はいません。あきらめて僧兵たちは去っていきました。こうして護良は命拾いしたのです。頭いいですね。その時、護良は「神仏の助け」と涙を流して喜んだとか。



一方の父の後醍醐天皇は笠置城に立てこもっていたのですが、幕府軍にあえなく敗れてしまい、後醍醐は隠岐島おきのしまに流されてしまうのです。父が島流しにあい、護良はどう動いたか。当然、護良は父に代わって自分が頑張らなきゃとメラメラと燃えたのですね。




※1 1331年の8月9日に「元弘げんこう」と改元された。
※2  京都府笠置町にあった城
※3 1221年の承久の乱後に置かれた幕府の出先機関。主に朝廷の監視が任務。
  


※ 参考文献   





      
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梶井門跡かじいもんせきに入室した護良親王もりよししんのうは、尊雲法親王そんうんほうしんのうと称されました。護良はそこで承鎮法親王しょうちんほうしんのうの弟子になりました。承鎮は、承久の乱を起こして鎌倉幕府と戦った後鳥羽上皇ごとばじょうこう曽孫ひまごです。つまり承鎮にとって後鳥羽上皇はひいおじいちゃんに当たります。しかも、当然、承鎮のおじいちゃんの順徳天皇ジュントクテンノウ(後鳥羽上皇の息子)という人がモーレツなほどのアンチ幕府。鎌倉幕府に対する憎しみみたいな感情があったのです。

さらに護良が入室した房(※1)の祖師というのが澄覚法親王チョウカクホウシンノウという皇族で、この澄覚というのが後鳥羽上皇の孫なのですね。澄覚もまた鎌倉幕府が嫌いだったはず。護良が梶井門跡に入ったときには、澄覚は亡くなっていたので、直接会ったことはありませんが、澄覚のスピリッツは脈々と受け継がれていったはず。

護良にとって、倒幕に命をかけた後鳥羽上皇の親族たちの影響は大きかった。そうして、幕府への反感や憎しみが芽生えたのではないかと。



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(梶井門跡の関係者の家系図)

閑話休題、亡くなられた野村克也さんは、野球選手はプロ入りして最初に出会った監督の影響を多かれ少なかれ受けると仰ってました。野村克也さんが最初にプロ入りして出会った監督は元南海ホークスの鶴岡一人さんでした。鶴岡さんとノムさんはいろいろ合わないところがあった様ですが、それでもノムさんは、采配の仕方とかで、鶴岡さんの影響は少なからずあると。なんだんだで先輩や師匠の影響というのは大きいってことでしょうね。護良親王も例外ではありませんでした。

野村ノート
野村克也
小学館
2014-12-19



そして、護良が取り組んだのが武芸のけいこでした。仏教の勉強そっちのけで、朝から晩まで僧兵を相手に武芸のけいこをしていたとか。だから、護良は筋骨たくましい体格だったようです。幕府を倒すためには自分が立ち上がらなければだめだと護良は思ったのでしょうね。

実は僕も毎日じゃないけれど数ヶ月前から竹刀の素振りしてるんですよ。あと腕立て数回。大した回数じゃないけれど、いい運動になるんです。素振りはじめてから、鉄棒のケンスイが一回もできなかったのに2回以上できるようになりましたよ。腕も少し太くなったみたいだし。僕みたいにちょっとやっただけで効果が出るくらいだから、朝晩武芸やってりゃ、筋肉つきますよね。

護良は武器の扱い方も免許皆伝めんきょかいでんだったとか。特に弓の得意だったいわれております。また身体能力も高く、7しゃく屏風びょうぶを飛び越えたとか。7尺と言ったら、180センチないしな200センチくらいだといわれております。すごいですね。まさにアスリートです。



また、運動神経だけでなく頭もよく、一を知れば銃じゃなかったw十を知ることができて、特に兵法を熱心に勉強したとか。護良親王はまさに出木杉くんみたいな人だったのですね。勉強もスポーツもできて、しかも護良の顔立ちはやや丸顔で切長の鋭い目。イケメンだったみたい。また人間性も良かったようで比叡山の僧侶からも慕われていたのです。まさに、何をやらせても万能な出木杉くん。勉強ダメ、スポーツダメ、仕事はヘマばっかの、のび太くんのような僕にはうらやましい、てかシットしたくなるw


護良は二十歳の時に天台座主てんだいざすに任命されました。これってすごいことなんですよ。二十歳で比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじのトップってことですから。「比叡山宗教サミット」を主宰するなど、世界が認めた宗教人と言われる山田恵諦やまだえたいさんのような素晴らしい方でさえ天台座主になられたのが70代ですからね。僕が二十歳と言ったら遊んでましたものw










出木杉くんみたいなカンペキ人間な護良親王ですが、、そんな彼にも欠点がありました。なんだと思われます


実は護良親王は気性が激しいところがあったのです。護良が気性が激しいと言っても、皇室の方にしては荒っぽいということで、一般人の我々からみたら、気品もあり、物腰も柔らかく、さすがはプリンスって感じの方だったと思います。とはいえ見た目とは裏腹に心の奥底には熱い炎が燃えているみたいな感じでしょうか。しかし、その気性が後に彼にとって命取りになるのですね

一方で、『太平記』ではいかにも護良が小物みたいな描き方をされておりますが、実際はもっと大物の風格がある人物で人望があったと思います。だからこそ、両雄並び立たずで、のちに足利尊氏と対決するようになるのでしょう。


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護良の像。怖え、メッチャ怒ってるやん。性格がキツそうだw)



天台座主になっても、護良は平和主義者になるどころか相変わらず、武芸に明けくれ、目は炎の様に燃えてました。幕府を倒すために。だから比叡山のお坊さんたちは護良を「不思議な門主」って護良のことを言っていたのですね。



では、護良がまったくお坊さんらしくなく、信仰心もまるでなかったかといえば、そうとも言い切れないのですね。たとえば、後醍醐天皇が比叡山に行幸ぎょうこうしたのですが、その際大講堂供養が行われました。座主の護良親王が、法語をとなえ施主せしゅ(※2)の幸福を祈願する呪願師じゅがんしをつとめたのです。ちなみに、その供養の導師(※3)を護良の異母弟の尊澄法親王そんちょうほうしんのうがつとめました。のちに護良が部下とともにゲリラ戦をしていた時、病人を法力でなおしたり、護良がのちに土牢つちろうに閉じ込められいたときは法華経をよんでいたといいます。



また、護良が修業時代に赤松則祐あかまつそくゆうとの縁がつながったことは大きい。赤松氏は播磨国はりまこく(※4)西部を本拠とし、のちに室町幕府の播磨守護になった武家です。則祐もこのとき出家していて比叡山に入っちたのですね。倒幕の際、護良が機内近国で粘り強いゲリラ戦を展開できたのも、赤松のもっていたネットワークが大きかったといわれております。





*1 お坊さんが寝泊まりをするところ
*2 一周忌や四十九にちなどの法要を行う当主のこと。
*3  法要の際、中心となって儀式をとりしきる僧のこと
*4 いまの兵庫県南西部




※ 参考文献




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本題に入る前にクイズを。昭和60年(1985)、阪神タイガースが日本一になりました。阪神は昭和60年以降何度か優勝しましたが、僕は昭和60年の阪神優勝が一番印象に残っています。バース選手を中心に阪神がバンバン打ちまくったのは本当にすごかった。しかし2年後の昭和62年には最下位になってしまいました。昭和60年の優勝監督だった吉田義男監督は、最下位の責任をとって監督を辞任しました。その当時のコーチたちと親睦会を作りましたが、その親睦会の名前はなんというでしょう?




  1. 猛虎会


  2. 天地会


  3. 元気会


  4. なんか用会


正解は二番です。日本一=天国、最下位=地獄、つまり監督以下ほぼ同じメンバーが天国と地獄を両方体験したという意味から。

当時の阪神じゃないけれど、短い生涯で天国と地獄を両方味わった人物がいます。鎌倉時代末期から南北朝の時代まで活躍した護良親王モリヨシシンノウ。彼はさながらジェットコースターのような生き様で、28歳で亡くなったのですね。今日から数回に渡って護良親王のことを取り上げます。
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