history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

おはようございます。前回の続きです。壇ノ浦の戦いですが、兵士の数だけなら源氏の方が優勢です。さらに義経には策がありました。海の戦いで平家を数の力で追い詰め、陸上から兄の源範頼が平家の背後から弓矢で攻撃するという挟み撃ち作戦を立てました。完璧な作戦ですね。これなら源氏圧勝のはず。しかし、世の中なかなか、うまくはいかないものでして。

合戦を次の日に控えた日の夜、梶原景時と総大将の源義経がもめたのですね。戦の先陣を巡って、二人がバトルをしたのです。まず、景時は「総大将が先陣を切るなんて聞いたことがない」と言いました。すると、義経は「これまでの戦いで勝てたのはわしのおかげ」といったのですね。先陣を切って手柄を立てたかった景時は怒ってしまいます。景時は「義経殿は主君の器ではない」と言ったら、義経は激ってしまい「そなたこそ、日の本一の愚か者じゃ!」って、まさに売り言葉に買い言葉でバトルになったのです。平家と戦う前に身内で争ってしまってはダメでしょう。見かねた家臣たちも、義経をなだめたほど。ちなみに景時と義経は屋島の戦いの時でもバトルをしていたのですね。壇ノ浦の合戦の後、頼朝と義経の兄弟仲がさらに悪くなるのですが、それも景時も一枚かんでいたのですね。

そして運命の元暦二年(1185)3月24日早朝、義経率いる海軍800隻が東側に、平家の船500隻が西側に対峙。そしていよいよ戦いの火ぶたが切って落とされたのです。兵の数では源氏の方が上ですが、得意の海上戦で、戦いを有利に進めたのですね。しかも関門海峡は潮の流れが速く、干満の潮の流れの変化を熟知していたのです。まさに地の利を知っているものは強いですね。その潮の流れに乗って一気に源氏を追い詰めようとしたのです。その潮の流れは西から東へと流れていました。平家は潮の流れに乗って、どんどん船が進む。一方の源氏は潮の流れと逆方向にいますから船もなかなか進まない。うごく歩道の逆方向で歩いたら、なかなか前に進めないのと同じですね。

さらに清盛の四男、平知盛は、源氏が三種の神器と安徳天皇を狙っていると考え、安徳天皇ら身分の高い人たちを小さな船に乗せ、造兵たちを御座船という大きな船に乗せオトリにしたのですね。本来なら天皇は御座船に乗るはずなので。源氏の兵が御座船を攻撃しているところを平家の軍勢が包囲し攻撃をしたのです。しかも平家側も死に物狂いで戦ってくる。そうして、戦は平家軍優勢になったのです。義経危うし。


そんな時、二千頭のイルカの群れが現れたのです。可愛らしいですね。清盛の三男の平宗盛はそれを神のお告げだと思い喜んだのです。そして陰陽師の安倍晴信(あべのはるのぶ)に占いをさせました。晴信は「イルカの進む方向にいる軍が負ける」と予言します。平宗盛もイルカたちの様子を見ていたのです。するとイルカたちは源氏の方へ向かわずUターンして、平家の元へ行ったのです。イルカ占いで悪い結果が出てしまい、平宗盛もショックがったと言います。



占いの結果はどうあれ、源氏が不利であることには変わりがありません。それで義経がとった策は、なんと敵の兵士ではなく、船の漕ぎ手を攻撃しろと言ったのです。これは「鎌倉殿の十三人」にも出てきましたが、当時の武士たちにとって大変恥なことだったのです。あくまで戦争は武士同士の戦いであり、非戦闘員に手を出してはいけないというルールがあったので。漕ぎ手というのは非戦闘員ですからね。この頃すでに敵の兵士が乗っている馬を攻撃するというのはありましたが、漕ぎ手を攻撃する人なんていなかったのですね。漕ぎ手を失い、船を動かす人間が居なくなって平家は大混乱。

また平家軍についていた阿波水軍も裏切ってしまったのですね。阿波水軍のボスは御座船に天皇は乗っていないことまで源氏側に教えてしまったのですね。阿波水軍だでなく、四国や九州の兵たちも平家側から次々離反。実は阿波水軍が裏切ったのは、田口成良タグチシゲヤスの息子が源氏側に捕まったからなのですね。そのことを知っていた知盛は、裏切る可能性のある田口を斬ってしまえと総大将の平宗盛に進言するが、認められなかったのですね。平知盛は、「あの時、田口を斬っておけば」と悔やんだことでしょう。

こうして義経の漕ぎ手攻撃という奇策と味方の裏切りで平家は負けてしまいます。

負け戦に、一門の者たちそして二位尼と安徳天皇が次々と入水する中で、清盛の甥っ子の平教経はなおもひとり戦い続けたのです。さんざんに矢を射て源氏の武者たちを射落とし、敵を散々斬ったのです。これを見た知盛は人を使いして「罪つくりなことをするな、よき敵でもあるまい」と伝えたほど。

「ならば、敵の大将と刺し違えん」と意を決した教経は舟から舟へ乗り移り、敵をなぎ払いつつ義経を探したのです。そして、ようやく義経の舟を見つけて飛び移り、組みかからんとするが、義経はゆらりと飛び上がるや、義経は、「これは叶わぬ」とピョーンとジャンプして八艘ハッソウもの船を飛び移って逃げたという伝説がありますが、おそらくただの伝説でしょうwでも、義経が逃げたのは事実でしょう。

義経を逃した、もはやこれまでと思った教経は源氏の大男二人を両脇に抱えて飛び込み道連れにしたと言います。武士らしい最後でした。

一方の総大将の平宗盛は船の上をオロオロするばかり。その姿に家臣は呆れて、宗盛を海へ突き落としたと言います。宗盛はおもりをつけておらず、沈まないでバタバタとおぼれてしまい、あろうことか敵方の源氏に助けてもらったと言います。平宗盛は生き恥をさらしてしまったのです。その後、宗盛は源氏の手にかかり殺されたと言いますが、引き回しの時、周囲のものたちが、嘲笑ったと言います。

平知盛は、生き恥をさらした宗盛に呆れつつも、武士らしく最後まで戦い続け「見届けるべきものは全て見届けた」と言いました。平知盛はヨロイを二つ重ねて海に飛び込み自害したと言います・・


*この記事は「にっぽん!歴史鑑定」を参考にして書きました。

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(源義経)

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(平知盛)

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(赤間神社)
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(耳なし芳一の銅像。耳なし芳一の話はまた別の機会にお話します)

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(安徳天皇の御所)

今、大河ドラマで「鎌倉殿の十三人」で放送されております。この間は壇ノ浦の合戦も出てきましたね。源義経役の菅田将暉さんが熱演されていましたね。壇ノ浦といえば八年くらい前に行ったことがあります。あれは12月の初めだったかなあ。壇ノ浦に訪れて真っ先に行ったのが山口県の下関にある赤間神社。この神社には安徳天皇が祀られております。安徳天皇は当時まだ幼く、二位尼ニイノアマ(平時子)と共に入水自殺をしたのですね。ちなみに、三種の神器もその時に海に投げ込まれたのですね。壇ノ浦の合戦の後、三種の神器のうち、鏡と玉を見つけたのですが、剣が見つからないまま。それで源頼朝が義経のことを「平家がほろんでも三種の神器三つ揃わなくては意味がない!」って怒ってしまうのですね。義経のおかげで平家に勝てたのに、義経がかわいそうだなって

そして神社の境内には平家一門のお墓があるのですね。神社の境内にお墓があるのは珍しい。お墓のすぐそばに耳なし芳一の像があります。お墓の写真は撮りませんでした。呪われそうだからw?。ともかく、お墓は異様な雰囲気でしたよ。何か怨念みたいなものを感じました。実は僕はここで怖い経験があるのですね。僕がお墓をお参りしていて、「まさか、幽霊なんているわけないよな」って心の中で思った瞬間、お墓のところにあった落ち葉がチラリと動いたのですね。びっくりしましたよ。海がすぐ近くだから海風だとは思うのですが、今まで動かなかった落ち葉が急に動いたのだから怖いなって。

それくらい平家一門の無念を感じ取ることができました。それから壇ノ浦に行きました。壇ノ浦には下関から九州まで関門橋がかかっていて、その景色はとても美しかった。八百年以上も前にここで激しい戦があったとは思えないような光景でした。また壇ノ浦のところから九州まで海中トンネルで繋がっていて、徒歩で九州まで行くことができます。僕もトンネルを歩いて九州まで行きましたが、なんか怖かったなあ。トンネルが壊れたら、どうしようって思ったほど。僕は泳げないからおぼれて死んじゃうよって。源平の兵士たちも海に落ちて苦しみながら死んだんだろうなって思わせてもらいました。

ここで平家は滅亡したのですが、平家の滅亡の始まりは平清盛の死からです。「平家にあらずんば人にあらず」と言われるほどの栄華を誇った平家も坂道を降りるかのようにガラガラと崩れていったのです。芸能界やスポーツの世界でもそうですが、すごい人気が出たり、輝かしい成績を残すと、かえって怖いんですよね。あとは落ちていくしかないから。源平の合戦で特に活躍したのが源頼朝の弟の源義経。奇抜な戦術で次々と勝利を収めたのです。

一方、迎え撃つ平家側の総大将は清盛の三男の平宗盛。しかし宗盛は将の器ではなく、実権は四男の平知盛が握っておりました。平家は源氏との緒戦に次々敗れ、西へ西へと追い詰められたのです。そして平家は本陣を下関の彦島に移しました。彦島を拠点にし、九州で体制を立て直そうとしたのでしょうね。ところが、頼朝の弟の源範頼ミナモトノノリヨリが一足早く九州を抑えてしまったのですね。平家はまさに袋のネズミ状態でした。野球に例えるなら、9回裏のツーアウトという状況でしょうか。一発逆転ホームランを打つには、平家が得意とする海上戦に持ち込むしかない。

一方の源氏は船も不足している上に、海上戦も苦手。義経自身も陸上での戦は強いのですが、海上戦は未経験だったのです。かといって源氏の兵士たちに海上戦の訓練をするとなると時間もかかるし、ノウハウもあまりない。それでまず源義経は、平家に味方している海賊衆に協力を求めたのです。もちろん、タダというわけには行きませんから源氏が勝ったあかつきには俸禄を与えると約束したのです。海賊なら海の戦いに慣れていますからね。例えは良くないが、会社で英語の社内公用語化を行い、社員の英語のレベルをアップさせるよりも、優れた通訳や日本語ペラペラの外国人を雇った方が早いみたいな、そんなところでしょうか。

しかし、中には平家を裏切ることに躊躇チュウチョする海賊もいたのです。和歌山の熊野を拠点とする熊野水軍が典型。平家は瀬戸内海に勢力があり、熊野水軍とも親しかったのです。熊野水軍のボスだった 湛増 タンゾウは、悩んだ末に熊野権現に祈ったところ、白旗につけというお告げが出たのです。白旗というのは降参しろという意味ではありませんよw。源氏につけという意味です。赤が平家、白が源氏です。それでも湛増は決断できず、赤いニワトリ🐔と白いニワトリ🐓をそれぞれ七羽を一羽ずつ出し合って神前にて戦わせたのですね。なんと白いニワトリが完勝。赤いニワトリはみんな負け。これで湛増の心は決まり、源氏につくことにしたのです。こうして、義経は熊野水軍、渡部水軍、伊予水軍といった海賊たちを味方につけ、四国の屋島の戦いで見事勝利。そして、戦争の舞台は壇ノ浦に移ったのです。

そして、元暦ゲンリャク二年(1185)の3月23日、戦闘開始の時刻を双方相談の上、翌日の朝6時ごろに矢合わせ(戦闘開始)しようと取り決めたのです。この頃の合戦は、プーチンみたいにいきなりウクライナに侵攻したのではなく、双方が相談してルールに則って戦争をしていたのですね。

前もって双方の使者を交換して戦争の日時と場所を決め、決められた日にちに集まり、戦争を始めていたのですね。ちなみに義経のこれまでの戦いはほとんど奇襲だったのですね。義経のこれまでの勝因はある意味、ルール違反をしていたこともあるのですね。勝つためには手段を選ばないというか。最も戦争のルールというのも時代と共に変わっている面もあり、義経ばかりを非難できないのですね。

また、この時代、戦う前に代表が「やあやあ我こそは、○○なり!」って自己紹介してから、相手の悪口を言ったり、自分を功績を自画自賛したり、そういうやりとりもあったのですね。だから、戦争の時間がやたら長引いたのです。それがのちに元寇の戦いの時に裏目に出たのですが、その辺のお話は別の機会に。

それから矢合わせというのがあり、片方の総大将が敵の陣地に鏑矢という矢を打ちます。先端がカブのような形をしていることから、そういう名前がつきました。しかも音が鳴るので、何かを知らせるにはよいものです。鏑矢が打たれると、これは戦争を始めようという合図。相手側からも鏑矢が打たれます。これは返し矢と言い、わかったという合図。今ならLINEを使って瞬時に意思の疎通もできますが、昔は、そんなものがなかったから戦にもエラく時間がかかったのでしょうね。

ところが決戦前夜に源氏の中でうちわもめが起こるのですね。その辺のお話はまた次回。


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(壇ノ浦)

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(壇ノ浦)

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(壇ノ浦)

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(壇ノ浦にかかる関門橋のアップ)

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(大砲。幕末の下関戦争でも、壇ノ浦が戦場になった。列強と長州藩が戦ったが、長州藩の大敗に終わった。この負け戦が長州藩にとってのターニングポイントで、この敗戦をきっかけに倒幕運動に長州藩は傾いた)

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(源義経の像)

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(かつて大河で源義経を演じられた滝沢秀明さん、共演された小泉孝太郎さん、松坂慶子さんの手形)

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(説明板)

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(フェルメールの「牛乳を注ぐ女」Wikipediaより)

ヨハネス・フェルメールをご存知でしょうか?バロック期を代表する、オランダの著名な画家です。彼の作品で有名な作品はいくつもあるのですが、「牛乳を注ぐ女」は知名度が高い方でしょうか。他にもたくさんの絵があります。しかし、フェルメールの絵は1970年代以降に度々盗難にあいます。

アイルランドでもフェルメールの絵画盗難事件がありました。1986年5月21日深夜2時、アイルランド・ダブリン郊外にある貴族の館でフェルメールの傑作を含む18点の絵画が盗まれたのです。被害総額は70億円。その盗難事件は大きく取り上げられました。

そのニュースを見てほくそ笑む人物がいました。マーティン・カーヒル。アイランド1のギャングのボスです。強盗、恐喝、誘拐、ありとあらゆる悪事に手を伸ばし、部下からは将軍と呼ばれておりました。その犯行の手口は非常にあざやかで、信頼できる部下を率い、慎重かつ大胆に計画通りに素早く犯罪を実行したと言います。まさにリアル怪人20面相といったところでしょうか。一方では裏切り者は絶対許さない冷酷さも併せ持っていたのです。顔写真をテレビで見たが、すげー人相悪いの。そりゃ悪いことばっかしていればね。そのカーヒルのプライベートは意外と地味で酒もギャンブルもやらない、普段は子煩悩で、子供と一緒に並んでいる写真を見た限りでは、優しそうだった。


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(フェルメールの「手紙を書く婦人と召使い」Wikipediaより。この絵がカーヒルに盗まれた)


アイルランドは非常に複雑な事情があるところです。かつて北アイルランドの領有を巡って、イギリスとアイルランドが長らく対立していたのですね。紛争はもとより、テロ組織による爆弾テロも多かったのです。そして貧困もすごかったのです。マーティン・カーヒルが生まれ育った場所は、アイルランドの中でも非常に貧しいスラム街だったそうです。しかも治安も最悪。そんな環境で育てば、グレてしまいます。

で、盗難事件があった1986年5月21日の数日前から、カーヒル一味はフェルメールの絵を盗むべく貴族の館に下見をしたのですね。侵入経路、赤外線警報装置などを入念にチェックしたのです。そしてカーヒルたちは館に忍び込んだのです。館の中は赤外線警報装置がはり回らされていたのですが、なんとカーヒルは堂々と中を歩き、いきなりダンスまでしたというから驚きです。そして警報が鳴り出すや、すぐ逃げたと言います。カーヒルが逃げた後、警察と管理人が駆けつけたのですが、そこには誰もいないし、絵画も無事。警察や管理人も安心。しかし誰もいないはずなのに警報がピーピー鳴り止まず、うるさい。それで、警報装置の誤作動と思って、警報装置を切ってしまったのです。警察が引き上げた後、再びカーヒルたちは館に忍び込み、18点の絵画を盗むことに成功したのです。警報が鳴り止まなかったのは、部下が警報装置に細工をしたからです。

「カーヒルは手強いやつだ」と感じたアイルランド警察は、ロンドンの警察はもちろんオランダの警察やインターポール、アメリカのFBIの力まで借りました。警察は美術商になりすましたりして、カーヒルの尻尾をつかもうとするが、なかなか捕まえられず。警察は焦るばかり。しかし焦っているのはカーヒルも同じでした。フェルメールの絵画を盗んだのはいいが、その絵画を人質?(モノ質かなw?)にして、持ち主に身代金を要求しても、身代金は払ってもらえない、絵を売ろうとしても買い手なかなか現れない。しかも、有名な作品だけに下手に売ってしまうと情報がもれ、逮捕されるリスクも高くなる。一向に絵が売れないものだから、分け前もはらえず、部下たちから不満が出てきます。

今までカーヒルは、お金だとか貴金属などをターゲットにしてきましたが、美術品を盗んだことがなかった。美術業界の特殊な実情を、盗んで初めてカーヒルは知ったのですね。

将軍と呼ばれたカーヒルも次第に追い詰められていきます。部下が次々逮捕され、警察のマークもどんどん厳しくなります。さらにカーヒルのことが、マスコミにどんどん取り上げられるようになります。マスコミに取り上げられると、地下活動をしていたカーヒルも白昼夜にさらされます。普段は、毎週のように役場の窓口に並んで失業手当をもらうなど、表向きは無職のおじさんと見せかけていたのですが、そんな彼も世間にどんどん知られていきます。

とうとうカーヒルは危険なカケに出ます。なんと北アイルランド独立運動をおこなっているテロ組織のIRAと、それに敵対するアルスター義勇軍(独立反対派)に接近。両者に絵を買ってくれと頼みます。アルスター義勇軍側が色よい返事をしますが、アルスター義勇軍に逮捕者が出て、その話は無かったことに。

そんなカーヒルにも救いの手が差し伸べられます。ベルギー人の大物ギャングがフェルメールの絵を含む絵画を8点を買いたいと言ってくれたのです。しかし払ってくれたのは、前金だけで、ほとんど後金はすぐに払ってくれない。しかも、そのベルギー人のギャングは逮捕。こうしてフェルメールの「手紙を書く婦人と召使い」の絵も回収できたのです。

こうしてカーヒルもいよいよ王手をかけられてしまうのです。カーヒル自身も、持病の糖尿病の悪化で体調も悪くなり、自宅でギャング映画のビデオを見て過ごす日々。もはや、かつての将軍の面影もありません。そして、1991年8月18日、カーヒルはレンタルビデオを返却し、家を出るところをテロ組織IRAの構成員に撃たれ死亡。享年45歳。カーヒルがIRAと敵対するアルスター義勇軍と関わっていたことが災いしたのですね。また、カーヒルが貴金属工場を襲撃し7億円を強奪した後、IRAから「俺たちが先に目をつけたから、分け前よこせ」って言ってきたのですね。それをやめりゃいいのにカーヒルが拒否ったのですね。それも IRAを怒らせた原因の一つ。しかも悪いことにIRAは単なるテロ組織ではなく、地の金曜日事件という恐ろしい事件も起こしている恐ろしい組織ですから。


カーヒルがフェルメールの絵を盗んでから、カーヒルにとって良くないことばかり。NHKの「ダークサイド・ミステリー」ではフェルエールの絵は呪いの絵じゃないか?って言っていましたが、僕はバチが当たったのだと思う。元々悪いことをしていたのに、名画を盗んだのだから、これは呪いじゃなくて天罰のような気がする。僕はフェルメールの絵を生で見たことがないが、なんとも神々しいものを感じるし、人々の心を和ませるような魂も感じられる。現在、「手紙を書く婦人と召使い」の絵画は無事返還され、ダブリンにあるアイルランド国立美術館に大事に保管されています。

※この記事は「ダークサイド・ミステリー」を参考にして書きました。

1945年第二次世界大戦は終結。アメリカとソ連は、ナチスの研究者達の争奪戦をしたと言います。ナチスは憎むべき存在だが、その研究者達の頭脳を高く買っていたのですね。フォン・ブラウンは臆面オクメンもなくアメリカにつきました。しかし、アメリカに渡ったフォン・ブラウンは思うような仕事につけませんでした。ナチスに協力した研究者への警戒心は根強かったのです。そんな彼に転機が訪れたのです。1950年の朝鮮戦争です。この戦争でフォン・ブラウンは兵器開発の第一線に返り咲き、ミサイル開発を進めたのです。

また1954年にはウォルト・ディズニーと会っていたのです。これは当時建設中だったディズニーランドの宣伝活動にフォン・ブラウンが協力したのです。ディズニーランドに宇宙を題材にしたエリア(おそらくトゥモローランドでしょうね)を設けようとう計画があったので、フォン・ブラウンにも、ディズニーは協力を求めたのでしょうね。そしてフォン・ブラウンはすっかり有名人になりました。しかし、そんなフォン・ブラウンを快く思わない人も少なくありませんでした。敵国のナチスドイツから、いつの間にかアメリカに忠誠を誓っている変わり身の早いフォン・ブラウンを皮肉るものも出てきます。例えば、歌手のトム・レーラーはフォン・ブラウンの歌を作って批判をしたほど。



しかし肝心の宇宙開発は思うように進まず。フォン・ブラウンはヤキモキしたことでしょう。そんな最中、ソ連がいち早くスプートニクを打ち上げます。宇宙開発にソ連の遅れをとってしまったのです。アメリカは慌てます。いわゆるスプートニク・ショックです。フォン・ブラウンは上官に不満を打ちまけます。「ソ連がやることはわかっていた。この大混乱をみてください。許可さえ下りれば、私は60日で人口衛星を打ち上げてみせる」と言ったとか。フォン・ブラウンは知名度が上がっても、なかなか思うような仕事をさせてもらえなかったのですね。

そしてアメリカは1958年にNASAを設立。目標にかかげたのは有人宇宙飛行。しかし、これもソ連に先を越されてしまうのです。いわゆるガガーリンの宇宙飛行です。ガガーリンは宇宙を飛行し、無事に生還。一躍、ソ連のいや世界の英雄となったのです。そのことを苦々しく思っていたのが、時の大統領のジョン・f・ケネディ。ケネディはフォン・ブラウンに宇宙開発のことで訪ねました。フォン・ブラウンが進言したのが、

「月に人間を着陸させましょう」


当時としてはドキモを抜くようなことですが、ケネディは、人類を月面に着陸させる計画、つまりアポロ計画をぶちまけます。フォン・ブラウンは当時としては史上最大のロケットサターンVを開発。さらに月面着陸船も開発。そしてコンピューター技師としてマーガレット・ハミルトンも抜擢。アポロ計画で使われた宇宙船には当時としては最新鋭のコンピューターがつみ込まれました。その性能はファミコン以下だという都市伝説と、そもそもアポロ計画自体が捏造ネツゾウだという都市伝説がありますが、信じるか信じないかは、あなた次第w?

そして、1969年。有人ロケットが月に向け発射されます。フォン・ブラウンは管制室からロケット打ち上げを見守ったと言います。途中、トラブルがあったものの無事にイーグルは月面に到着。

フォン・ブラウンの夢が実現した瞬間です。そして宇宙飛行士達は帰還。そのことを誰よりも喜んだのはフォン・ブラウン。かれは次なる目標として宇宙基地を作り、火星に人類を送りたいと。

しかし、アポロ計画をピークにアメリカの宇宙開発は停滞。ベトナム戦争が泥沼化し、インフレ不況。ロケットよりパンをという世論が強まったからです。そしてフォン・ブラウンも1977年に亡くなります。65歳。悪魔に魂を売り渡してでも月に行きたいと思ったフォン・ブラウンの最後でした。

そのフォン・ブラウンの言葉。「子供の頃に夢見たことを一生かけて取り組めた人が世の中にどれくらいいるだろうか。私は明日死ぬとしても満足してゆくことができる。子供の頃、夢見たことの多くを自分で実現できるのだ。他に望むものは何もない」

フォン・ブラウンの火星移住計画は、今アメリカが実現を目指しています。中国も負けじと宇宙開発をおこなっております。火星をめぐって下手すりゃ戦争になる恐れだってある。科学の進歩は素晴らしい反面、悲劇を生む可能性もあります。

ジュール・ヴェルヌ「科学の進歩は一個人、一企業、一国家のものではない。秘密にされることなく、全人類がその恩恵に預かれるように努めるべきだ。必要なのは、人類の未来への進歩を確かなものとすることだ。進歩は真理、正義、美に向かって魂を高めない限りその名に値しない」

※ この記事は「映像の世紀」を参考にして書きました。

* この記事は「映像の世紀 バタフライ」を参考にして書きました。

ジュール・ヴェルヌの「月世界旅行」は、多くの影響を与えた小説です。この小説は1900年代初頭にも映画化されました。人類に宇宙への憧れを駆り立てたのです。そして1927年にドイツで宇宙旅行協会が設立されました。ここには宇宙旅行をマジで夢みる研究者達が集まったのです。当初は七人だったのですが、一年で五百人も人数が増えたのです。すごいですね。研究者と言っても、アマチュアの研究者が多かったようですが。彼らの中に一際ロケット開発に情熱を燃やす大学生がいました。ヴェルナー・フォン・ブラウン。彼もヴェルヌの「月世界旅行」を読んでいたのです。フォン・ブラウンは数学が苦手で、留年するほどだったが、宇宙ロケット作るためには数学や物理の知識が必要だということで、彼は猛勉強したそうです。それくらい、彼の宇宙に行きたいという情熱があったのでしょう。

また、1929年に上映されたSF映画「月世界の女」もフォン・ブラウンを熱狂させたと言います。この映画はドイツで封切られ、この映画になんと発射前のカウントダウン、多段式ロケット、宇宙服までと登場するのです。この時代に未来を先駆けるような内容のものが作れるとはすごいなって。

1930年代ナチスが台頭します。ナチスドイツは新技術のミサイルに目をつけました。ドイツ陸軍は宇宙旅行協会に「ミサイルを開発してくれ」と資金援助を申し出ます。だが、メンバーは兵器開発を拒否。元々は宇宙旅行がしたくて作った団体なのに、人を殺す兵器をつくるなんてとんでもないと思ったのでしょう。しかし、フォン・ブラウンだけがただ一人、その申し出を受けます。ロケット開発には莫大な資金が必要です。しかもミサイルもロケットも原理は同じ。宇宙空間をそのまま飛ぶか、敵地に落とすかの違いだけ。ミサイルの研究でロケッツ開発のノウハウも蓄積できるし、お金ももらえるし、美味しい話じゃんwっとファン・ブラウンは乗ってしまったのですね・・・そしてフォン・ブラウンは25歳の若さで技術責任者に就任。

フォン・ブラウン達はミサイル開発を進めますが、実験ではほとんど打ち上げ失敗ばかり。とうとう開発資金の削減まで検討されてしまいます。一計を案じたフォン・ブラウンはヒトラーに直談判。当時のドイツは何事もヒトラーのツルの一声で決まってしまう時代でしたからね。失敗した時の映像を伏せ、実験が成功した時の映像ばかりを見せ、開発の継続を訴えたのです。この映像を見たヒトラーは興奮したと言います。ヒトラーは「なぜ私は君の仕事の成功が信じられなかったのだろう」と言ったとか。そしてミサイル開発は継続。

そして、フォン・ブラウン達はV2ロケットを完成。そのロケットの胴体にイラストが描かれております。月とロケットと女性のイラスト。これはフォン・ブラウンに影響を与えた「月世界の女」をモチーフにして描かれたイラストです。到達高度は100キロを超えたとか。

その時、フォン・ブラウンが言った言葉が「私は月まで届くロケットを、どんなことがあっても一生のうちに作りたかった。私は月にいくためには、悪魔に魂を売り渡してもいいと思った」

V2ロケットは3000発も発射され、ロンドンやパリが被害を受けたといいます。そのロケットは9000の命を奪ったと言います・・・・

そして1945年終戦。ドイツは負けてしまいます。フォン・ブラウンはどうなるのか?次回はフォン・ブラウンの戦後を追っていきます。

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