history日誌

歴史と歌が大好きな私が日本史から世界史まで広く浅く書きます。 歴史の知識は素人レベルで、私が語る歴史の内容が真実かどうかは自信はありませんがw、楽しんでブログを書いていきます。教科書に載ってないようなマイナーな歴史の話もします。

今日の話は震災とは関係ないかもしれませんが、福島のグルメにまつわるお話をします。喜多方といえばラーメンが有名です。僕も喜多方ラーメンが大好きです。というか、喜多方に訪れてから喜多方ラーメンが好きになりました。


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いま喜多方にはたくさんのラーメン屋がありますが、その元祖のお店が「現来軒」。藩欽星が創業しました。中国の浙江省のうまれの藩氏は、若くして両親に先立たれ、1925年(大正14年)、19歳の時に来日しました。長崎と横浜で土木作業員として働いたのち、現在の喜多方市熱塩加納町にあった加納鉱山で働いていた叔父を訪ねて、苦労の末喜多方で叔父と巡り合ったようです。

藩氏はここで祖国の食べ物であるラーメンを打ち、屋台で売り歩くことになります。2年間ほどチャルメラを吹き、屋台を引いて生計を立てた後、1926年(昭和元年)に店舗を構えました。この藩氏がつくったラーメンこそ喜多方ラーメンのはじまりです。

藩氏のラーメンは評判を呼びましたが、中でも出前は注文が絶えないほどでした。というのも、かん水を少量しかつかわず、力をこめて手打ちをする藩氏のつくるラーメンは出前をしてのびても、切れることがなかったのです。さらには出前のラーメンが残っても、その翌日には麺がワンタンのようにふくらみ味がしみこんでうまいという声も聴かれるように。

遠くても出前をとってくれるお客さんや、煮込み料理で二度楽しみたい人の思いにこたえるには、細麺よりも切れにくく、味をたっぷり吸うことで時間がたってもうまい太麺のほうがよいと藩氏はおもったのかもしれません。

当時の日本は中国人の差別がひどかったので、藩氏も相当苦労もしたと思いますが、それでも、日本人においしいラーメンを食べさせてあげたいという真心が、ラーメンが地域に溶け込み時代をこえ、人々に愛されるようになったのですね。

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※ 参考文献


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このブログをご覧になってくださっている皆さんこんにちは。写真に写っているのは何だと思われますか?

わたくしehatov1896の家?違いますよw

これは、福島県の二本松にある安達ケ原の岩屋です。この岩屋になんと人を食べるという鬼婆が住んでいたというから驚きです。この岩屋があるのが観世寺というお寺で、境内には鬼婆が出刃包丁を洗ったという血の池や鬼婆の石像などもあります。


僕がこの安達ケ原に住む鬼婆のことを知ったのは実は小学校の時です。小学校の時に読んだ『日本のミステリー』という怪奇や伝説が子供向けに書かれた本で、安達ケ原の鬼婆を知りました。僕も子供のころから、この岩屋に行きたいと願っておりました。けれど、なかなかその願いがかなわなかったのですが、昨年(2015年)に訪れることができました。長年の願いがかなったのですから、うれしかったですね。

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どういうお話かというと、この鬼婆というのはもともと悪だったわけじゃなく、京都で公家の娘(姫)の乳母だったのです。乳母の名前は岩手といいました。しかし、この姫様が病気がちで、姫の病気をなおすには妊婦の生き肝を飲ますしかないと、ある祈祷師から言われたのです。


その姫の病気を治すために、乳母・岩手は東北まで行ったそうです。なにしろ新幹線も飛行機もなかった時代ですから、女一人で京都から東北まで長い道のりを何日もかけて歩いたのですから、大変な旅だったと思います。ちなみに岩手には幼い娘がいたのですが、娘を京において一人東北まで行ったのです。岩手は二本松に庵をかまえまして、若い妊婦を待ち構えていたのです。それも何年も。

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そこへ、若い夫婦が岩手の庵にやってきたのです。嫁のほうが産気づいていたので、岩手はやったとおもったことでしょう。そして、岩手は快く若夫婦を庵に泊めました。夫が薬を求め外出をしたので、そのスキに若い妊婦を殺したのです。しかし、その岩手が殺した若い妊婦は、岩手の娘だったのです。

生き別れの娘を自らの手で殺してしまった岩手は気がくるってしまいました。それから岩手は鬼のような人間になり、庵に人を誘っては殺すようになったのです。


ある日、紀州の僧・東光坊祐慶が安達ヶ原を旅している途中に日が暮れ、岩木の庵に泊まりました。東光坊祐慶は岩木がニコニコ親切にもてなしたので、そんな恐ろしい女だとははじめは気づかなかったのです。


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ところが、岩木が薪が足りなくなったのでこれから取りに行くと言い、奥の部屋を絶対に見てはいけないと祐慶に言い残して庵から出て行きました。

けれど、見てはいけないといわれるとついつい見たくなるもの。あの女をやってはいけないといわれると余計やりたくなるものw。

祐慶がこっそり戸を開けて奥の部屋をのぞくと、そこには人間の白骨死体が山のように積み上げられていた。びっくりした祐慶は、あの老婆こそ人を食い殺すこと鬼婆だと感付き、その庵から逃げ出したといいます。

祐慶が逃げたことに気づいた岩木は恐ろしい鬼婆の姿となってすごい速さで追いかけて来たのです。祐慶のすぐ後ろまでせまる鬼婆。絶体絶命の中、祐慶は旅の荷物の中から如意輪観世音菩薩の像を取り出して必死に経を唱えました。すると祐慶の菩薩像が空へ舞い上がり、光明を放ちつつ破魔の白真弓に金剛の矢をつがえて射ち、鬼婆を仕留めたといいます。


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そして、鬼婆は観音菩薩の功徳により成仏したといいます。その鬼婆のお墓がいまも残っており、黒塚とよばれております。



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この話は考えさせられます。岩木は姫のために一生懸命頑張ったのに、誤って自分の娘を殺したためにおかしくなり、やがて人を殺す恐ろしい鬼婆になってしまった。やったことはとても悪いけれど岩木も気の毒だなと思いました。また、人間には恐ろしい鬼のような心もまた潜んでいて、何かのきっかけでそれが表に出ることもある、そんなことも考えさせられました。

話はかわりますが、浪江町など原発事故のあった地域の周辺に住んでいる人たちも避難生活を余儀なくされております。そして福島(原発事故のあった地域)の子供たちは避難先でいじめられているともききます。福島出身というだけでいわれもない偏見の目を持たれているのです。これも人間の心に潜む鬼の心だと思います。

※ 参考文献




福島県いわき市の富岡町と大熊町の境に「夜ノ森」という森林地帯があるようです。なんかRPGに出てきそうな地名のように僕には感じられるのですがw、この地名は神話がもとになっております。登場するのはタカミクラノミコトという神様です。


タカミクラノミコトは、伊勢の国にある津から地方の豪族を平定しながら日高見の国(蝦夷地。いまでいう関東・東北地方)に向かいました。長く苦しい旅路の末、関東に出てそこから海路で東北に向かったとされる。ミコトの船団は現在の南相馬市にあたる渋佐の浜に上陸。近隣各地で転戦をしたそうです。自分の土地を守ろうとする地元の豪族も強く抵抗し、ミコトの軍は豪族の軍に囲まれてしまい、絶体絶命のピンチに立たされます。そして、ついに毒矢にあたり、血を吐いて死んだといいます。それでもミコトの軍は奮戦し、豪族たちを打ち破りました。

しかし、ミコトの死が知らされると、豪族たちの士気があがり逆襲される恐れがあるため、急いで大きな塚をつくりミコトを弔ったといいます。

その塚がある場所はいつしか「いち夜の森」と呼ばれるようになりました。おそらく、一夜のうちにできた森(塚)と、いうのが由来かと思われます。

それが転じて「宵の森」、あるいは「夜の森」と呼ばれるようになったのでしょう。

現在、夜の森には「夜の森公園」という公園があり、そこは桜の名所としてしられ、JR夜ノ森駅はツツジの名所として名高いそうです。しかし、2011年の原発事故により現在では帰還困難区域(事故発生当初は警戒区域)で立入禁止区域となっているそうです・・・



(夜ノ森の桜)


(夜ノ森駅。2011年3月11日の東日本大震災および福島第一原子力発電所事故により休止中)

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