history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

かつてチェコスロバキアは、ソ連の衛星国でした。共産党が支配し、市民は自由を奪われていたのです。チェコスロバキアは1989年に民主化をしましたが、その民主化運動に関わったのは一人の劇作家でした。チェコの劇作家だったヴァーツラフ・ハヴェル。のちに大統領になる人物です。政治とは無関係な世界から大統領になるなんてすごいですね。でも、ウクライナ大統領のゼレンスキーも元はコメディアンですし、アメリカのレーガン元大統領だって俳優でしたから。

またハヴェルは、1960年代にアメリカに渡り、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドというバンドのとりこになり、そのレコードを祖国に持ち帰ったのです。このレコードも民主化に一役を買うのです。


お話は1968年にさかのぼります。アレクサンデル・ドゥプチェクが共産党の第一書記に就任。彼は改革派で、プラハの春と呼ばれる民主化運動を目指しました。彼は「人間の顔をした社会主義」を目指しました。社会主義国家でありながら、言論弾圧のない自由な国を目指そうとしたのです。実はドゥプチェクは自由化を進めることで共産主義体制に対する民衆の支持を集めようとしようとしたのであって共産党をぶっこわすことまでは考えていなかったのです。彼が自由化をすすめるほど、民衆はさらなる自由化と民主化を求めるようになりました。それはドゥプチェクの意図を超えており、共産党を守るどころか逆の結果になっていきます。しかし、それを面白く思わないのが、共産党の旧守派とソ連。やがて、ソ連は行動に移すのですが、それは後程。


文化の面では検閲が緩和されたことで、西側の文化や音楽も入っていきました。ハヴェルが持ち帰ったヴェルヴェット・アンダーグラウンドのレコードも大量にコピーされ若者の間でも流行しました。そのヴェルヴェット・アンダーグランドに即発され、プラスティック・ピープル・オブ・ザ・ユニバースというバンドがチェコで生まれました。通称PPU。

そんなプラハの春も長くは続かなかったのです。この年の8月、突然ソ連が軍事介入したのです。チェコの急激な民主化を警戒して軍事行動をしたのです。抵抗したものは容赦なく撃たれ、何人も犠牲になったのです。そんな状況の中、ニューヨークから帰ったばかりのハヴェルも立ち上がり、ラジオでソ連への抗議と民衆への団結を呼びかけたのですが、議会でもソ連の圧力に屈してしまい、軍隊のチェコ駐留も認められ翌年にはソ連の忠実なグスターフ・フサークが第一書記になり、ドゥプチェクが失脚。結局、プラハの春は短い春で、再び言論弾圧がまかり通るような重苦しい社会になったのです。正常化と呼ばれる長く暗い時代の始まりです。ソ連の侵略に反抗したハヴェルも当然、目をつけられてしまいます。ハヴェルは犬と散歩をしている時でさえ、警察に付きまとわれたと言います。さらにPPUのメンバーまで国の秩序を乱したという理由で捕まってしまいます。ハヴェルはそのことを大変憂いました。「PPUは政治的な見解を持ったことがないのに、ただ好きな音楽を歌っただけなのに・・・」と思ったそうです。ハヴェルはPPUの逮捕に抗議したと言います。そしてハヴェルは知識人たちと手を結び、憲章77と呼ばれる政府への抗議文を発表。表現の自由や人権の尊重を求めたと言います。またハヴェルは世界中のジャーナリストたちにも自国の悲惨な状況を訴えたと言います。そんなハヴェルも1979年に逮捕され4年もの実刑判決を受けてしまいます。ハヴェルは1983年に出所。さっそく民主化運動を再開したのです。

そして1989年、隣国のドイツでベルリンの壁が崩壊したことを受け、若者たちもデモを起こしたのです。そんなデモ隊に警察が動いたのです。丸腰の若者に暴力を振るったのです。そんな状況下、ハヴェルは市民に団結を呼びかけたのです。ハヴェルの呼びかけに若者だけでなく、多くの市民たちもデモに参加。しかし、共産党幹部はなおも事態の収集を図ろうとします。当時の共産党の書記長が市民の前で演説をしても、市民は「かえれコール」。そして1989年11月24日、ついに共産党の書記長が失脚。ソビエトの侵攻から20年、市民は諦めなかった。市民がリーダーに選んだのがハヴェルでした。まさに血を流さずに革命が成功したのです。この革命をビロード革命ともヴェルヴェット・レボリューションとも呼ばれました。

のちにハヴェルはこのように語っています。

「1968年、私はニューヨークからヴェルヴェット・アンダーグラウンドのレコードを持ち帰りました。そのレコードはPPUという自由に満ちた若者たちを生み、彼らの逮捕から「憲章77」の人権運動が始まりました。音楽だけでは世界は変わりません。しかし人々の魂を呼び覚ます者として音楽は世界を変えることに大きく貢献できるのです」


大統領になったハヴェルはヴェルヴェット・アンダーグラウンドのルー・リードと交流があったと言います。そしてハヴェルは2011年に亡くなりました。ハヴェルのことをPPUのメンバーが「ハヴェルには人々を団結させる力がありました。それは非暴力的で、友好的で、ささやかなものでした。しかし、その力は時に大きな力よりも強いものになり得るのです。そして、そんな彼を大統領にしたのは、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドでした」と。

*この記事は「映像の世紀」を参考にして書きました。

http://ehatov1896rekishi.diary.to/archives/2535570.html((前編)

前回の続きです。今日もよろしくお願いします。

二人のことがマスコミに取り上げられるようになります。と言っても地方紙ですが。クライドたちのことを知る人も出てきます。例えは悪いけれど、クライドたちはローカルタレントもしくは、知る人ぞ知るYouTuberになったようなものです。それで、彼らに協力する人間まで現れるようになったのです。隠れ家を提供したり、知り合いの家に泊めてあげたり、警察が来たぞってこっそりクライドたちに教えてあげたり。もちろん、クライドが悪いヤツらとは知らないで泊めた人もいたでしょう。それどころか、クライドに憧れ、クライドギャング団に志願するものまで現れたのです。

なぜ、クライドギャング団に協力する人間が現れたのでしょうか、謎ですね。実は4年前の1929年10月、ニューヨークのウォール街で株が大暴落。いわゆる暗黒の木曜日。この日から世界恐慌が起こり、第二次世界大戦の引き金にもなったのです。アメリカ全土が不況になり、失業者も増え、農民も貧しさに苦しんでいたのです。抗議のデモを行えば警察は理不尽に取り締まる。政府の無策さと、警察の理不尽さに人々は不満を持っていたのです。そんな時だからこそ、誰かが行動し、政府や警察に反抗してほしいと言う欲望が大衆にあったんですね。そこに現れたのがクライドギャング団ってわけです。

クライドギャング団はお金というよりも自由を求めていたのですね。そんな彼らの姿に庶民は顔をしかめる一方で、喝采を送ったものもいたのです。また、冷酷さを持っていたり、ものすごくジコチューだったり、そういう毒性の強い人物は一見すると優秀なリーダーに見えることもあるそうです。

特に先の見えないような暮らしをしていると、そういった自己チューな人間が、自分を困難から救ってくれる救世主のように思うこともあると、「ダークサイドミステリー」の番組内で心理学者の先生がおっしゃっていた。だからかァ、不況にあえいでいたドイツがヒトラーを英雄視したのは。またカルト教団にはまる人がいるのも、そうした心理でしょう。


ボニー&クライドのマスコミで取り上げられるようになりましたが、全米での知名度はまだまだ。彼らの知名度が上がったのはこの写真がニューヨークのタフロイド紙に掲載されてから。↓

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ボニーの写真を各地の新聞が掲載、そしてアメリカ全土に広まったのです。まさに知る人ぞ知る存在から、有名YouTuberや大物芸能人になったようなものです。葉巻を吸い、銃を持ったボニーの姿はとても印象的。なにしろ当時のアメリカでは銃も葉巻も男性のイメージですから。というか、今でもタバコを吸う女性は珍しくありませんが、葉巻を吸う女性は見たことがない。本当に衝撃的ですね。まさにジェンダフリー。当時の女性たちにとって、ボニーは憧れの存在になったのですね。その一方で、ボニーを快く思わない意見も少なくなかったのです。芸能人にせよYouTuberにせよ、有名になればなるほど、ファンも増える一方で、やっかんだり、アンチも増えてくる。有名になるのは諸刃の剣なんですね。有名になればよいことも悪い事もどんどん世間に知られるようになるし。ましてや二人は凶悪な犯罪者ですからね。

顔も世間に広く知られるようになったことで、通報されたり、食料を買ったり、宿を取ることも以前より難しくなったのです。だから、ボニーは何日もシャワーを浴びられないってこぼしたことも。野宿をしたり、車の中で過ごしたり、寝れない日々もあったようです。運よく宿を取ることができても、警察に見つかってしまう。ボニーとクライドはアメリカ各地を逃げ回っていたのです。その間に仲間が殺されたり、逃げられたり、次第にボニーとクライドは追い詰められていきます。


そんななか、ボニーはこぼします。「ママに会いたい・・・」

郊外でボニーは母と再会。変わり果てた娘の姿に母は涙をしたと言います。体もやせ、体中傷だらけ、顔も以前より老けた感じになって。母は娘に自首するように勧めましたが、ボニーは「彼を愛している」と言い、母の言いつけを拒否。

そして、ボニーとクライドは、1934年5月23日ルイジアナ州を車で走っていたところ、警察に銃殺されてしまうのです。それも車ごと滅多撃ち。その車体にはたくさんのハチの巣をつついたような無数の銃弾の跡と、二人の死体が転がったのです。二人の遺体が車ごと街に運ばれた時、遺体に人々が群がったのです。髪や服を切り取ったり、クライドの指まで持ち去ろうとした者もいたと言います。二人の葬儀には多くの参列者が集まったと言います。

さて、ボニーがなくなる直前にいった言葉。

「彼らは自分たちが賢いとも絶望的とも思わない。法が常に勝つことを知っていた。いつか二人は共に倒れ並んで葬られる。一握りのものには悲しみ。法律にとっては安堵。それがボニーとクライドにとっての死」と。

ボニーはクライドと並んで葬られたかったようですが、ボニーの母はそれを拒否。二人は離れ離れに葬られたのです。

それにしても、ボニーはなぜここまでクライドに惚れこみ犯罪を犯したのでしょう。クライドは絶対に女を幸せにするタイプでなく、実際クライドと会ってから危ない目にあってばかりで、いいことなんてひとつもないのに。クライドの性格もとても危険で、追ってきた警官を銃殺したあと、心臓に9発も銃を打ち込むような残忍な男なのに。

実はボニーが生前日記に「毎日、同じことの繰り返し。何か刺激的なことが起きないかな」って書いていたのですね。彼女は心理学的に言うと刺激希求性があって、刺激を求める性質が高かったようです。そんなボニーの要求を答えてくれたのがクライドだったのですね。ましてや、この時代は男尊女卑の風潮が強く、女性が抑えられていたのですね。だから、なおさら自分も一旗あげたいみたいな感情があったのかもしれない。

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学生時代に「俺たちに明日はない」という映画を見たことがあります。先輩に勧められ見てみました。カップルのギャングで、銀行強盗と殺人を繰り返し、最後は悲惨な目に会うのですが。そのドラマティックなストーリーなのです。実はこの映画は実話をもとにしたものです。1930年代のアメリカで暴れ回ったボニー&クライド。その凄まじいほどの命懸けの恋でした。その二人の恋は100年近く経った今もミュージシャンの歌詞に登場します。ビョンセさんとか、斉藤和義さん、ジャニーズWESTに宇多田ヒカルさんの歌にも登場します。悪いこともしたけれど、若者たちにとって憧れの存在でもあったのです。

ボニーの本名はボニー・エリザベス・パーカー。1910年生まれ、彼女は大変真面目な少女だったそうです。その少女がなぜ凶悪な犯罪を犯すようになったのか?ボニーは父を幼い時に亡くし、祖母のいるテキサス州ダラス近郊に引っ越します。しかし、そこはスラム街で治安が悪く、ボニーの実家も貧しかったそうです。そんな環境でもボニーの学校の成績はトップクラス。性格も明るく犯罪を犯すタイプではなかったようです。ボニーは16歳で結婚、カフェのウェイトレスの仕事をしたのです。この頃のボニーは活発でよく働き、貧しい客には店のおごりにしたこともあったといいます。そんな最中、夫が銀行強盗の容疑で刑務所に入れられたのですね。それでボニーは離婚を考えたのですが、結局離婚届は出さず、籍はそのまま。法的にはボニーと夫との婚姻は生涯継続、つまり死ぬまでボニーは既婚者だったのですね。NHKの「ダークサイドミステリー」では夫と離婚したとなっているが、実際は違うようですね。

そんなボニーに変化が訪れます。1930年1月、運命の人と出逢います。クライド・チャンピオン・バロウ。小柄でイケメンな男性。しかも若くして高価な服を着て、車を乗り回す。そして何よりもクライドの危険な香りがボニーにとって魅力的だったのです。ボニーは一目惚れしたのです。ボニーはクライドとの出会いを母親にまくしたてました。よほど、惚れたのでしょうね

のちに、母はその時のボニーの様子をこのように回想しています。

「人生を変えるような出来事の多くがそうであるように、あっけないもの。それが運命の出会い」

恋に落ちたボニーはラブラブ。毎日のようにクライドとデートを重ね、愛を深めたのです。。ところが、一か月後、クライドは窃盗容疑で逮捕。実はクライドもスラムの出身で幼い頃から悪さを重ねた悪ガキだったのです。刑期は2年。ボニーはクライドが更生することを信じて手紙をクライド宛に送ったと言います。この頃のボニーはまさか自分がのちにクライドを悪さばかりするようになるとは思っていなかったでしょうね。

しかし、クライドは刑期をおとなしくじっとするような男ではありませんでした。なんとクライドはボニーに銃を持ってくるように要求。脱走したいと言うのです。クライドの更生を願うボニーは拒んだか?とんでもない、ボニーは刑務所にいるクライドに銃を渡したのです。そしてクライドは脱走。しかし、またも逮捕。懲役も14年に延長してしまったのです。

しかし、クライドは恩赦オンシャを受けて刑期が短縮され2年で仮釈放されたのです。しかし、クライドは更生することもなく、刑務所で仲良くなった者と共に再び犯罪に手を染めていたのです。強盗や殺害を繰り返し、ボニーに会う為にダラスに舞い戻ったのです。

ちなみにこの頃のボニーは強盗事件を起こしていたのですね。クライドに会えない寂しさから犯罪を犯したのかも。しかし証拠不十分で釈放になったのです。そして、クライドとボニーは再会。二人は刑務所で知りあった仲間も加えバロウギャングを結成。クライドギャング団は盗んだ車を乗り回し、銀行強盗や追ってきた警官を殺すなどの犯罪を重ねていました。その盗んだ車は1932年型フォードV8。これは時代を超え、今も愛される自動車です。1930年代は最新式の大衆車でした。フォードV8は大衆車の中で最高の速度と加速力を備えており、一味の周到な逃走計画とも相まって、警察の車では容易に追いつけなかったのですね。犯罪を犯しても、隣の州まで逃げ込めば、警察も管轄違いで追っかけることができません。


その後、ボニーとクライドは強盗や殺人を繰り返していくのです。そんな二人の運命は?後半に続来ます。

http://ehatov1896rekishi.diary.to/archives/2535573.html(後編)

今日は母の日。母の日にふさわしいテーマを取り上げます。野村克也さんのお母様のお話です。

野村克也さんがお亡くなりになられて、何年も経つのですね。月日の経つのは早いものです。僕は野球をやるのは苦手ですが、見るのが好きで、野村さんのご著書はけっこう読ませていただきました。でも、野村さんが大変な苦労をされたことを知り大変驚きました。


野村さんは人前で泣いたことがないと言われています。ヤクルトの監督をされ、日本一になった時でさえ、涙を流さなかったと言います。そんなの村さんが人生で一度だけ人前で泣いたことがあるそうです。それは、お母様の葬式の時。荼毘ダビに付される直前、「おっかあ、苦労ばかりの人生だったんじゃないのか?」と言いながら号泣されたとか。


野村克也さんは、京都府竹野郡網野町キョウトフタケノグンアミノチョウ(現: 京丹後市 キョウタンゴシ)に野村家の次男としてお生まれになりました。

野村さんの実家の家業は食料品店。3歳のときに日中戦争に出征シュッセイしたお父様が満州にて戦死したのですね。網野町は丹後ちりめんの産地で周囲は裕福ゆうふくな家庭が多い一方、野村家は貧しく、劣等感レットウカンにさいなまれたのですね。


看護師カンゴシだったお母様は病弱で野村克也さんが小学校2年生と3年生のときに二度もガンわずらいい、非常に大変な生活をされたのですね。野村さんはご著書で「母の幸せそうな顔など見た覚えがない」、「この世に、苦労をするために生まれてきたような母だった」とおっしゃっておりました。

それで、家計を少しでも助けるため、野村克也さんは小学校1年生の頃からお兄様と共に新聞配達やアイスキャンディー売りなどのアルバイトをしたのですね。また、父の戦友の助けやお母様の糸繰りの仕事もあり、何とか生活は出来たそうです。

野村家は借家で、家賃が値上がりする度に、より安い物件を探し、引っ越ししたと言います。しかし、それまでの無理がたたって、お母様はがんになったとか。それでまだ小学生だった野村さん兄弟は知り合いの家に預けられ、そこから学校に通うことになったそうです。しかし知り合いとはいえ、他人の家では気を使います。「お腹すいた」のひと言だって言えなかたっと。自分の家とは勝手が違います。

閑話休題、野村さんは、よく「親孝行の子は伸びる」とおっしゃっていました。親に楽させてあげたいと思う選手は、一生懸命やる、だから伸びるんだと。実は野村さんがプロ野球選手を目指したのも「お母ちゃんを楽させてやりたい」との一心からだそうです。

とはいっても、初めから野村さんは野球選手を目指しのではなく、初めは歌手を目指したそうです。貧乏ビンボウ生活から脱却ダッキャクしたいからだと。それで野村さんは中学校のコーラス部に所属したり、俳優になろうと映画館通いをしたりしていたのですが、当時プロ野球の大スターであった赤バットの川上哲治さんや青バットの大下弘さんのあこがれもあったりで、野球選手を目指すようになったとのこと。




しかし、野球をやるとなるとお金がかかります。野村さんは、短パンでランニングシャツで野球をやり、試合に行く時は、後輩にユニホームを借りたとか。周囲からは「野球なんてやらずに家の仕事を手伝え」と言われたそうですが、野村さんは「兄が野球をやらせてくれた。」と回想されています。

それで本当に野村さんが野球選手の夢をかなえたのだから、すごいなって。

野村さんがプロ野球に入ったとき、お母様は大反対されたそうです。でも、野村さんはプロで大成功。野村さんはお母様に楽をさせたくて、仕送りを欠かさなかったそうです。そんな、お母様が野村さんにいった言葉が、「お前がいくら仕送りをくれても、一番最初に送ってくれた1000円に勝る大金はないよ」。しかし、野村さんが送った仕送りは全て使わず、野村克也さんのために貯金してあったそうです。野村さんがいつか金に困った時のために。

ビートたけしさんのお母様もそうだったとか。芸人になったビートたけしさんに、お母様がやたらとお金を無心するので、たけしさんはしょうがない強欲ババアと思って渡したのです。が、たけしさんのお母様はせびったお金を全く手をつけていなかったのです。たけしさんがお金に困った時のために貯金されたと言います。そんな親の愛情にたけしさんは涙したとか。



そして、お母様がプロで成功した頃、ぽつんと野村さんに言った言葉が

「私は、生まれてきて、いいことはなかった。けれど、いい息子には恵まれた」



お母様は、野村さんがプロ入りして15年目、8年連続でパ・リーグのホームラン王を獲得カクトクした1968年(昭和43)のシーズンオフに帰らぬ人となったそうです。

野村さんは現役時代輝かしい成績を残しましたし、監督としても大変すらばらしい功績を残しましたが、野村さんが一番誇れるものは、野球でもお金でもなく、お母様だそうです。今の自分があるのはたくさんの方のおかげだと前置きした上で、「母が苦労しながら病弱な体で頑張り抜いて支えてくれたから、今の私があります」と野村さんはおっしゃっていました。野村さんのようなすごい親孝行は大変で、できることではありません。野村さんほどではなくても、俺(私)には親孝行したくてもできないよ、という方、ご心配なく。親というのは子が日々を無事に過ごしていることが何よりも幸せとも聞きます。ほんの1秒だけ、お母様の顔を思い浮かべるだけでも、親孝行と言えるのではないでしょうか?






*参考文献及び参考サイト
憎まれ役 (文春文庫)
広務, 野中
文藝春秋
2009-11-10



https://www.dailyshincho.jp/article/2021/03230615/?all=1


https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202002120000327.html

タイタニック (字幕版)
Bill Paxton
2013-05-15



ゴーストバスターズ2
アーニー・ハドソン
2011-10-01



1912年4月14日、タイタニック号が氷山に衝突し沈没しました。亡くなったのは1500人にものぼるとか。全長269メートル、4万6000トン、建造費が220億円もかかったと言います。タイタニック号の事故は何度か映画化され、ディカプリオ主演の映画も素晴らしかったですね。あと「ゴーストバスターズ2」にもタイタニック号が出てくるんですよ。ニューヨークにタイタニック号に乗った乗客の亡霊が登場するのです。

タイタニック号は豪華客船で、船の中にジムやプール、スカッシュコートなどもあって、まさに海に浮かぶ豪華ホテルといったと頃でしょうか。タイタニックは沈まないように、浸水を防ぐための15枚の大きな防水区画や電動防水ドアなどの設備が施されていたのです。だからタイタニックは浮沈船と呼ばれたのです。




しかし、タイタニックは、沈没してしまった。そのため、タイタニックは誰かにわざと沈められたんではないかという陰謀論もあるそうです。タイタニック号には多額の保険金がかけられていて、そのため沈められたと言います。またタイタニック号の運営会社の社長イズメイの行動も怪しいというのです。事故のあった日の夜、タイタニックの無線室に、タイタニック号より先に行っている船から「氷山を見つけた」と言う情報がいくつも届いたのです。こうした警告を船長やイズメイ社長はそれを無視したと言います。確かに怪しいですね。

しかし、その陰謀論も怪しいのですね。タイタニック号の実質的なオーナーであるJ・P・モルガンがタイタニック号の航海に乗るはずだったが、間際でキャンセルしたと。だから、タイタニック号の沈没の黒幕はモルガンじゃないかってウワサもあったのですが、この時、モルガンはスペイン風邪(インフルエンザ)にかかっていたのですね。当時のスペイン風邪は今のコロナと一緒で、治療法もない時代でしたから。しかも、スペイン風邪にかかったら死んでもおかしくないような状況だったのです。それじゃ乗れっこないですよね。

実は、当時は氷山がそれほど恐ろしいものだと思われていなかったのですね。タイタニック号の事故より前に、アリゾナ号(イギリス船)は氷山に正面衝突して、10メートルつぶれたが、死者も出なかったし、沈没もしなかったのです。ノルマニア号(ドイツ)は、氷山にぶつかったものの浸水もしなかったのです。だから、氷山くらいでは船は沈まないという神話があったのです。ましてや、タイタニック号は浮沈船と言われ安全だと言われていたくらいだから、タイタニック号の船長も、タイタニックの会社の社長も油断したのかもしれない。さらに当時は、氷山は見つけてから、対処すれば良いというのが常識でした。だから、氷山を見つけてからスピードを落とせば良いという考えが根強かったのです。

でも、船だって車と同じで、あんまりスピードを出せば急に止まれませんもの。にもかかわらず、タイタニック号は最大速度の24ノット(およそ時速45km)を出していたと言います。

タイタニック号が沈んだ場所は、ニューファンドランド島周辺の海域で、この辺りは北極からの氷山がたくさん海に浮かんでいて、危険な海域だったのです。そんなことは運営会社の社長も船長もわかっていたはず。しかも、この日は曇り空で月の光もなく視界も悪かったのです。そんな状況でスピードを出すのは危険ですね。

それにしても、タイタニック号はなんでそんなにスピードを出していたのでしょう。実は、これは運営会社社長のイズメイの命令でした。イズメイは船長に火曜日に到着するように命じたのです。本来、タイタニック号は水曜日(4月17日)に着く予定だったのです。しかし、イズメイはそれを早めて火曜日(4月16日)にの深夜に到着させろと迫ったのですね。朝の3時までに入港すれば、タイタニック到着のニュースが新聞の朝刊に載るからです。そうなれば宣伝になりますからね。だから、氷山があるからといってスピードを落とすんじゃねえって感じでしょうか。これは完全に営利目的を優先し、乗客のことを考えなかったことが、大きな事故につながりました。近年の知床遊覧船事故と共通するものを感じます。



*この記事は「ダークサイドミステリー」を参考にして書きました。

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