history日誌

歴史と歌が大好きな私が日本史から世界史まで広く浅く書きます。 歴史の知識は素人レベルで、私が語る歴史の内容が真実かどうかは自信はありませんがw、楽しんでブログを書いていきます。教科書に載ってないようなマイナーな歴史の話もします。

孫子のことばに「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」というのがあります。先の大戦におけるミッドウェー海戦(1942年6月)は敵を知らなかったことが敗北の原因となったのです。帝国海軍は、アメリカ太平洋艦隊の動向をつかめないまま戦いにのぞんでしまったのです。

よく、当時のアメリカと日本の戦力差や国力の差は歴然としていて日本は全く勝ち目がないといわれておりますが、ミッドウェー海戦に限定すれば、日本のほうが有利だったのです。

ミッドウェー海戦に投入された戦力は日本が空母4隻をはじめとする大艦隊だったのに対し、アメリカ軍は空母が3隻(しかも一隻は修理中)。また、航空機の数も日本のほうが多かったのです。


それにも関わらず日本が負けてしまったのは、アメリカが日本の暗号を解読したり、レーダーを完成させたりするなど、アメリカ側が情報を活用したことも大きいのです。アメリカ太平洋艦隊司令長官・チェスター・ニミッツは、自らの情報戦の指揮をとり、連合艦隊の動きを逐次追っていました。その結果、帝国海軍はまさに、手の内を完全に読まれていたのです。

ミッドウェー攻略作戦の立案者は山本五十六。五十六はミッドウェー島の攻略に加え、ミッドウェー周辺海域にアメリカ軍の空母を呼び寄せ壊滅させようという目的を考えておりました。五十六は真珠湾でうち漏らしたアメリカの空母を叩くことに執念をもやしていたのです。

一方の海軍の軍令部は、たとえミッドウェー島を攻略できても、すぐに敵に奪還されるのではないかと思っており、そのため、軍令部は五十六の作戦に大反対しました。が、五十六は連合艦隊司令長官の辞任をちらつかせて無理やり、五十六の意見を承認させてしまったのです。

そして、この作戦を遂行することを内定した二週間後、アメリカの爆撃機が日本本土に上陸し、空爆を行ったのです。損害はまだ軽微だったのですが、アメリカの侵入を許してしまったということで、軍の上層部も驚いたのです。「敵機機動部隊を放置していてゃ、またいつ帝都が空襲されるかもしれない」と危機感をいだいた上層部は、ミッドウェーの作戦を正式に決め、渋っていた陸軍も同意して、陸軍部隊の派遣も決まりました。

しかし、これで海軍が一枚岩になったわけじゃなく、軍司令部と五十六の思惑の食い違いが悪い結果を招いてしまったのです。

それでも1942年の5月におこった「珊瑚海海戦」(ミッドウェー海戦の前哨戦と位置付けられることも)において、日本はアメリカの空母を撃沈させるなど、戦いも順調だったのです。しかし、それが日本軍の慢心を招いてしまったのです。初戦の連勝で「アメリカなんて大したことがない」という空気が生まれてしまったのです。軍司令部も、作戦開始直後からはやくも祝勝会の準備を始めていたといいます。

しかも、日本は珊瑚海海戦でアメリカ海軍のレキシントンとヨークタウンのふたつの空母を撃沈させたと思っていたのですが、ヨークタウンのほうは実際は大した損害ではなく、アメリカはヨークタウンをハワイに戻し応急修理を行っていたのです。

そして1942年6月にミッドウェー海戦ははじまりました。しかし、日本側はミスを犯しました。ミッドウェーの占領と米機機動部隊の撃破を目的としながら、日本側は敵の機動部隊が現段階では現れないだろうと踏んでいたのです。 

一方の米軍側は、ミッドウェー島の防備を固めると同時に、スプルーアンス少将が指揮する第16任務部隊とフレッチャー少将指揮の17任務部隊をミッドウェー島北方に待機させ、日本艦隊を待ち構えていました。

日本側は珊瑚海海戦でアメリカの空母を撃沈させていたので、太平洋には米空母は2隻しかおらず、ほかはオーストラリアかサモア諸島にいると判断し、ミッドウェーの付近にはいないだろうと踏んでいたのです。

6月5日朝、日本の機動部隊は北方から接近し、ミッドウェー島に航空攻撃をします。攻撃中に米空母の存在を知り、第一機動部隊はあわてて攻撃目標を切り替えようとしますが、米空母の急降下爆撃機の集中攻撃にあい、「赤城」「加賀」「蒼龍」、午後には「飛龍」の空母4隻と重巡洋艦1隻、航空機を285機失います。人的被害は約3500人くらい。アメリカ側も「ヨークタウン」を失いました。

5日夜、ミッドウェー作戦は中止されます。主力空母と熟練搭乗員多数(121人)を失うという、日本にとっては大打撃でした。

ちなみにミッドウェーで日本の空母が攻撃を受けているときに山本五十六はミッドウェーからはるか離れた戦艦大和にいて将棋を指していました。そのとき部下の報告を受けて言った言葉が「ほう、またやられたか」でした。そして将棋をつづけたといいます。


※ 参考文献




ガダルカナルの戦いでは、多くの犠牲が出ました。今日はこのガダルカナルの戦いを通して日本軍の失敗を考えてみましょう。

昭和17年7月6日、日本海軍は南東方面の最前線基地であったラバウルから約千キロはなれたガダルカナル島に飛行場を建設するため、設営隊と護衛の陸戦隊を送り込みました。ちょうど一か月後の8月5日に第1期工事が完成し、航空隊の派遣を要請した直後の7日に、アメリカ軍がガダルカナル島に上陸したのです

アメリカ軍上陸の報をうけた大本営は、きゅうきょ海軍航空隊の攻撃機を派遣します。

このとき、攻撃機を護衛していたゼロ戦パイロットの一人がこのように述べました。

「みよ、海上を埋めて真っ黒に密集している敵の大船団。数は数えきれない。その船団の周りを10数隻の駆逐艦らしきものが、真っ白い弓型の航跡をきながら走り回っている。日本の潜水艦を警戒しているのだろう。その停泊している船団と海岸の海面が数百条、数千条の白いシマ模様でおりなされている。海岸との間を、アリのように往復している無数の上陸舟艇しゅうていの曳く航跡だ。これをみた瞬間、私は戦争は負けだと直感した」と。

ところが、こうした情報を得ていながら大本営は、

「敵上陸兵力は2000人程度、目的は偵察で本格的反攻ではない。したがって奪回は難事ではない」と簡単にかたづけてしまいます。

当時、ラバウルにはニューギニア方面担当の第17軍司令部がおかれており、この17軍にガダルカナルシマ奪回が命じられました。奪回作戦検討の中で軍参謀長の二見秋三郎少将は、「船団規模からみて1個師団くらいは来ているのではないか」と正確に見積もっていたのですが、当時の軍の幹部は「「そんなことはあるまい」と思っていたようです。

第17軍の兵力は当時1万人くらしかななく、ニューギニア作戦で手いっぱいだったため、大本営は敵が二千人程度なら、こちらもそのくらいで十分だというので、ミッドウェー占領のために派遣されていた一木清直大佐が指揮する一木支隊(2000人)を差し向けたといいます。

その後、軍司令部から「どうも敵兵力は予想以上より多そうだ」という意見がでましたが、参謀本部は「上陸さえすれば精強な一木支隊なら奪還できる。とにかく急げ」でした。陸軍内部にも補給困難なガダルカナル島のような孤島に兵力をおくりだすことはノモンハンの二の舞になりやしないかという慎重な意見もありましたが、こうした意見は消極意見として顧みることはありません。おそらく「大和魂があればなんとかなる、お前ら根性が足りない!」みたいなことを上層部が言ったのかもしれません。

ガダルカナル島に派遣された一木支隊は、輸送の都合で千人ずつの二梯団にわかれて出発し、まず支援長が先遣隊をひきいて8月18日にガ島に上陸しました。

支隊長の一木は「夜襲をもってすれば米軍の撃破も容易である」と信じていたようです。そして、一木支隊は、後続の到着を待つことなく、各兵わずか250発の小銃弾と七日分の食料をもっただけで、「行軍即捜索、捜索即戦闘」を合言葉に十分な偵察もしないで、8月21日未明、陣地を構築して待ち構えていた米軍に銃剣突撃を敢行しましたが、戦車や重火器に阻まれ壊滅しました。

つまりアメリカ軍をなめてかかって、ろくに情報を活用しなかったことが、裏目にでてしまったのですね・・・

一木支隊壊滅のため、大本営はあわてて追加の兵力を投入します。川口清健少将指揮する川口支隊(一戸旅団約5千人)です。この川口支隊も駆逐艦や上陸用舟艇による輸送のため、重砲や戦車などが輸送できず、食料も二週間分しか持っていませんでした。

8月31日から9月7日にかけてガ島に上陸した川口支隊は、9月12日夜から攻撃を開始しましたが、さらに兵力を増強して待ち構えていた米軍の前に、またしても攻撃は失敗してしまいました。

このころから17軍司令部内でも、二見参謀長などから補給問題やガ島とニューギニアの二方面作戦の困難性を理由にガ島撤退論が出ましたが、若手参謀の強硬論や、陸軍から先に撤退するわけにはいかないというメンツ論が勝って、結局さらに増援を要請することになり、さらに泥沼にはまってしまいます。

そこで大本営はジャワ島にいた第二師団(約一万二千人)を投入し、さらに第38師団主力にガ島進出を命じました。大本営から派遣されて指導にきていた辻政信参謀は「軍は敵殲滅のため最善の努力中であり、戦捷せんしょうすでに我にあり」と楽館的な電報を大本営あてに打電しております。

さらに総攻撃指揮官の第二師団長の丸山政男中将はつぎのような攻撃命令をしております。

「一天祐神助と将兵の辛苦により、師団はその企図をまったく秘匿ひとくし、敵の側背に進出することを得たり。二予は神明の加護により、既定計画に基づき攻撃をおこない、一挙飛行場付近一帯の敵をせん滅せんとす」


日本軍の作戦命令には「天祐神助てんゆう-しんじょ」とか神明の加護だとか、神がかりな表現がたびたび見受けられるそうですが、この丸山の攻撃命令にもそれが見られます。一種の精神論ですね。

そうして10月に第二師団は一万人以上の兵力でもって、攻撃を開始しました。その攻撃は夜襲による一斉攻撃の予定でしたが、準備不足のために密林や豪雨に阻まれ各隊の終結がおくれ、相互の連携を欠いたために日本軍は敵軍に撃破され、夜明けとともに日本軍の攻撃は失敗。

こうして8月の一木支隊、9月の川口支隊、そして10月の一万の兵力を用いた第二師団による攻撃も、いづれも失敗に終わります。

兵学上「攻者3倍の法則」というのがありまして、陣地にこもっている敵をこうりゃくするには、攻撃側は守備側の3倍の兵力が必要だそうです。しかし、一木支隊が1000名なのに対し米軍が一万人、川口支隊が5千人のときは米軍は1万8000名、第二師団が1万2000人のときは米軍は2万2000人以上と常に米軍は日本を上回る兵力で対応しておりました。

また、兵学上最も忌むべきである「戦力の逐次投入」も文字通り日本軍は実行し、失敗しております。

昭和天皇陛下は「日本は兵法の研究が不十分だった」とおっしゃっておりますが、ガダルカナル島の戦いを振りかえるとそう思わずにいられません。

しかし、こんな状況にもかかわらず大本営はまたしてもガ島奪回計画を考え、さらに増援部隊を送ろうとしますが、制空権はすでにアメリカにうばわれ、補給もまったく途絶え、全軍餓死寸前だったといいます。ここにきてやっと大本営は12月31日の御前会議でガ島撤退を発表。しかし実際に撤退したのは翌年の昭和18年2月初旬です。その間にも多数の餓死者がでたといいます。

ガ島で約2万人がなくなったといいますが、この死者のうち純粋な戦死者は5〜6千人で、のこりは飢餓による戦病死者だといいます。

対して米軍は6万の兵を投入しして、戦死者はわずか1千名だといいます。

いくら戦争で死ぬことが名誉だとはいえ、餓死だとは英霊も浮かばれないでしょう・・・・

日本軍のガダルカナル島撤退について、昭和18年2月9日の大本営発表は「敵軍を追い詰めたりすることはできたが、目的を達成したので、二月上旬にガ島をはなれ、ほかに転進した」と。つまり完全な負け戦なのに、「軽進」というセリフでごまかしたのです。


日本軍も敵兵力が一個師団以上いると初めから知っていれば、こんなことにはならなかったのです。当時の日本軍が情報を軽視していたと思わずにはいられません。にもかかわらず失敗をごまかそうとした。

戦争ではミスや指揮官の誤認はつきものだと思うのですが、その間違いやミスから何を学び取るかが大事で、その同じミスを繰り返さないためにはどうしたらよいかを考えることが大切なのではと思うです。同じミスを繰り返さないためには、少数意見やマイナスの情報の尊重も重要になってきます。

しかし、日本軍はそれをしなかった。たとえば、海軍相だった嶋田繁太郎は都合の悪い報告をきくと、とにかく激怒したといいます。だから部下たちは彼が怒らないような報告ばかりをしたといいます。

会社でたとえるなら、些細なことで怒鳴るようなおっかない上司がいて、部下がミスの報告やマイナスの情報を伝えるのも恐れ、部下は上司にとって心地よい話しばかりする。仮に部下がちゃんと報告したとしても、「根性が足りない!」といって全く聞く耳をもたない。社長は社長でワンマンで周りにいるのはイエスマンばかり。結果的にその会社はとんでもない不祥事が起こってしまい、会社はつぶれてしまったと。そんな状況に日本軍は陥ってしまったのでしょうか?

※ 参考文献


今日の記事は長いです。

今日の記事で言いたいことをざっくり言うと、「旧日本軍は兵たん(※1)を軽視している」、「物資の調達は、現地調達という考えが根強い」「それは人命軽視につながっている」です。


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