history日誌









これまで、空襲がきても「逃げるな、火を消せ」という対応をしてきた当時の日本政府を批判してきましたが、実政府は、決して米国産の焼夷弾の知らなかったわけではないのです。政府が委嘱していた科学実験により、焼夷弾の消火が不可能であるという見解は政府部内で周知されていた。

大阪帝国大学の浅田常三郎教授(物理学)は、著書『防空科学』(積善館・昭和18年5月)のなかで、第一次世界大戦で使用された焼夷弾の性能調査を発表し、「いかなる消防でも、あるいはそれらの補助員も、一度にこれらの家事をけすということは非常に困難」、「約15〜20秒で燃えつくしてしまう」といい、焼夷弾を消せというのは無理だと結論付けたそうです。

テルミット焼夷弾(※1)については、水をかけるとマグネシウム反応により爆発が起こることから「消すことは不可能どころか、水をかけたら危険」と指摘しました。

黄燐おうりん焼夷弾(※2)についても「黄燐は非常に有毒なるゆえ、決して皮ふにつかないように」と注意を喚起したといいます。

ある陸軍技師も、黄燐焼夷弾の落下時は「消火に従事するものはマスクをかけるか、防塵メガネをかけ、口や鼻を濡れ手で覆う必要がある」と述べていました。黄燐を吸引すると急性中毒症状を起こし意識障害や肝臓や腎臓の障害を招くそうです。現在では黄燐は毒物劇物取締法により毒物と指定をされているのです。そんなキケンな有害物質に近づいて火を消せというのが無謀というか無茶なのです。

それにも関わらず、政府はこれらの忠告を無視したのです。『週報・336号』(1943年3月24日)には「黄燐焼夷弾は猛烈な白煙をだしますが、この煙は5分や10分すっても、生理的にはほとんど無害ですから、人命救助等で、特に濃い煙のなかで長い時間活動する場合は各別として、普通は防毒マスクをつけないで、恐れず突入し敢闘することです」と書かれていたそうです。

科学者は黄燐は危ないといっているのに、政府はほとんど無害とまったく逆のことをいっているのですね。


このほか政府は、第一次世界大戦後のヨーロッパの空襲防護技術についても研究をしておりました。一例として、スペイン内戦下のバルセロナ空襲(1938年3月)の被害状況について、内務省計画局は英国人技師の報告書「バルセロナにおける空襲に依る被害と防空施設」を和訳して冊子化しました。建物下の地下室は危険であること、地下駅は避難所として有効だったことが書かれておりました。日本の政府はこれらの情報を生かしていた
かどうか疑問です。

実はナチスドイツ軍によるロンドン空襲の際、地下鉄駅が避難場所として役立ったという報告があったのです。それで、日本もそうすべきだという議員さんもいました。昭和16年(1942年)の春ごろ、貴族院の委員会で小川郷太郎鉄道大臣が「地下鉄がある程度、防空壕の作用を一部なしうることがある」と発言しました。ところが、最終的に政府が決めたのは「地下鉄道の施設は、これを待避または避難の場所として使用せしめざるものとす」、つまり地下鉄を避難場所として使わないよという方針です。この方針に従って、空襲時には地下鉄の入り口が閉鎖されてしまいました。

もちろん、すべての地下鉄が閉鎖されたわけではなく、大阪市営地下鉄は、防空要員輸送のために10分間隔で運行されたようです。しかし、優先されるのは軍隊や警察、公務員、それから消防団員と続いて、一般人は後回しにされました。昭和20年の6月以降の空襲時は地下鉄の入り口は固く閉ざされていたといいます。


また、日本も日本で1938年12月から中国の重慶を爆撃したのですね。重慶爆撃は非戦闘員を含む無差別攻撃だったといいます。だから、空襲の恐ろしさを日本政府が知らないなんてありえないんですね。この爆撃について大本営海軍報道部長は「我が空襲部隊は厳に軍事施設を唯一の空襲目標としていることはもちろんであるが、たまには爆弾炸裂の余勢で市民も犠牲をまぬがれないこともありうると覚悟するのが常識である」と述べたそうです。戦争だから非戦闘員が多少死ぬのは仕方がないという一種の開き直りともいえる発言でありますが、爆弾の被害は決して軽いものではないということも、この発言からうかがえます。

また、日本による投下弾が防空壕を直撃し、数千人の窒息死者がでたといいます。蒋介石が防空壕を整備したが、かえって、その防空壕で死者がでたのですね。それで1940年(昭和16年)6月22日付けの『読売新聞』には、「防空壕内での窒息事件は本年が最初ではなく、昨年のわが連続空襲に際しても同様事件が惹起じゃっきし、その時も、当局(蒋介石率いる国民党軍)は言論機関を圧迫して真相を伝えず、対策をとらず今次の惨劇を招いた。(中略)わが防空設備の万全を期する上においても、他山の石以上のものがあるように思われる」と報道されました。が、これを日本の政府は他山の石としなかったのですね。蒋介石が、空襲において対策をとらないから余計被害が大きくなったこと、しかも言論弾圧をしたことも失敗だったことも含め、日本が蒋介石を反面教師にすべきでした。

それどころか東京大空襲の前夜には「待避所(防空壕)の安全度は今のままでよい、居心地よくせよ」といったほど。この『読売新聞』の報道も政府は知らないはずはないのに。


知らなかったのあれば、仕方がないことなのですが、「知っていながら」というのが一番質が悪いのです。僕はそういうの一番嫌いです。




※1 テルミット(サーマイト)とはアルミニウム粉末と他の金属化物の粉末を混合したものである。
テルミットに着火を行うと
アルミニウム金属化物の間でしい酸化還元反応が起き、その結果還元された金属アルミニウムが生成する。この反応をテルミット反応・テルミット法と言う。

また、この反応は膨大な熱の発生を伴うもので、たとえばとの反応では約3000℃もの高温になる。テルミット焼夷弾とはテルミット反応を応用して兵器として使われたもの。

※2 
黄燐自然発火利用したもの









昭和17年ミッドウェー海戦で負け、翌年の昭和18年2月にガダルカナル島からの敗退によって、日本の敗退は決定的となり、米軍機による日本への空襲も現実のものとなりました。この時点で政府は降伏をすべきだと思うのですが、対応が後手後手になってしまい、ずるずると昭和20年8月15日まで戦争がつづいてしまったのですね・・・


ガダルカナル島の敗退からしばらくして、国民向けの『時局防空必携」が改訂されました。『時局防空必携』は、空襲にあっても逃げるなと書かれていたのですが、改訂により、以前にもまして根性論が強くなり、相変わらず焼夷弾の実際の威力を甘くみている内容でした。

「(敵の)飛行機の性能はだんだんよくなり数もどんどん増えている。今度は相当大規模の空襲を繰り返し受ける恐れが多い」と書いておきながら、それでも命を投げ出しても焼夷弾の火を消せという恐ろしい内容です。焼夷弾といいましても種類がありまして、「エレクトロン」「油脂」「黄燐おうりん 」の三つの種類の焼夷弾があるそうです。以下、それぞれの焼夷弾の対処法をご紹介します。


エレクトロン   
破裂の瞬間、煌々こうこうたる白銀の光を放ち、一面に火まつを飛ばす。弾体へぬれむしろ数枚をかぶせ、
上からどんどん水を浴びせる

        
油脂
真っ赤なほのおと3〜5メートルに及ぶ黒煙をあげる。これを消すには弾体に砂、泥をかけ、
その上からむしろをかぶせる。少量の水をかけるとかえって拡がって危険だ。
隣組防火群は、水をつかわぬほうがいい
。 

黄燐おうりん    
落ちた時大きな爆音がし、濛々もうもうたる白煙をあげ無数の鱗片りんぺんを飛散させ、100メートルに達するこ        とがある。退治法は大体油脂と同様だが、火力は前二者に比していささか弱いが、破壊力が
強大
で、爆風、弾片の危険もある。
 

さらに戦況がひどくなると、焼夷弾を手でつかめなんて意見さえでてきます。

焼夷弾は水に浸した手袋などでその元部(火がでていないところ)を両手で持ち安全な場所に投げ出して処置すること(『朝日新聞』昭和19年12月1日付)


手で焼夷弾をつかめるくらいだったら、都市が焼け野原になるはずがありません。

さらに昭和20年3月7日の『週報』には「武士道とは死ぬことを見つけたり、これ真個の日本人の悟りである」と書いてあったそうです。武士道、武士道というけれど、ほとんどの日本の国民は武士ではありません。武士でもない人間に「武士道」を押し付けることは絶対無理だと僕は思います。これは戦時中の話ではなく、現代の日本『正論』に出てくる言論人にもいたりするから困ったもんです。それに武士は主君に奉公する際、それに見合った御恩を主君はしなくてはならないのです。御恩もロクに与えずに、奉公だけせよというのは、それこそ武士の道に反しているのですね。


それはともかく、このように政府やマスコミは「逃げるな」とか「手で火を消せ」というけれど、実際人々は空襲がくると逃げ回ったといいます。たとえば、「火垂るの墓」は神戸の空襲のお話ですが、1942年6月5日の空襲だけでも、死者3453人、重軽傷者6000人という甚大な被害が起きているのですね。政府は「逃げるな、火を消せ」というけれど、一部を除いて、ほとんどの人が消火道具やバケツなどには目もくれず、われもわれもと逃げたそうです。「火垂るの墓」にもその描写が描かれております。

また昭和20年の5月29日の横浜大空襲の時は、10人ほどの隣組がバケツリレーをして火を食い止めようとしたが、まったく無駄で、「とても駄目だ。やめよう」とみな口々に避難することを思ったときは、火はさらに四方に広がっていたといいます。



この記事、終戦記念日の昨日書きたかったのですが、夏バテになってしまいまして、きょう書かせていただきます。熱くなっておりますので、みなさまも夏バテや熱中症におきをつけてください。コロナが猛威をふるい大変なことになっておりますが、熱中症も油断できませんから。

さて、きょうは防空法の話から少しずれて、空襲の2曲の歌のお話をします。

ひとつは「空襲なんぞ恐るべき」そして「なんだ空襲」。二曲とも空襲なんて大したことがないと歌っております。この曲が作られたのは昭和16年。まだ、国民のだれもが、東京いや日本のあちこちの都市が空襲で焼け野原になるなんて夢にも思わなかった頃につくられた歌です。著作権の関係もあって掲載することができないのですが、ようつべの検索欄で「空襲なんぞ恐るべき」もしくは「なんだ空襲」と検索すれば、歌の動画が出てくると思います。(消されている可能性もありますが)

「空襲なんぞ恐るべき」は、防空総司令部が東京日日、大阪毎日両新聞社の協力を得て制定した曲です。曲名が「恐るべき」とあるから現代人の感覚からすれば、空襲はとっても怖いよと歌っているのかなって思いますが、実際の歌詞は全く逆。ここでいう「恐るべき」の「べき」は「〜だね」って意味ではなく、「〜する必要はない」って意味なんですね。歌詞だけでなく曲調も勇ましい感じの歌です。

「なんだ空襲」を作詞したのが当時売れっ子の詩人大木淳夫、作曲は大御所山田耕筰です。山田耕筰といえば「赤とんぼ」とか唱歌をたくさん作っておりますが、軍歌や戦時歌謡も結構作ってきたのですね。歌詞をみると敵機も蚊やトンボと同じだとか、焼夷弾の火なら砂で消せだの、空襲より流言のほうが怖いだの書かれております。曲調も調子のよい音頭調です。実際の焼夷弾の威力と全く異なっておりますが、昭和16年当時の人々は、この歌の通り空襲なんて大したことないと思っていたのです。今でいえばコロナなんてただの風邪って思うような感覚ですね。

しかし、3年後の昭和19年以降、東京をはじめ、大阪や名古屋さらに福島県の郡山や新潟県の長岡、兵庫県の神戸、九州は熊本市内など日本のほとんどの都市が空襲にあったのです。僕も「東京大空襲」という本を読んで、日本の空襲にあった被災地がまとめられた表をみて本当に驚きましたね。その空襲の被災地の表が4ページにわたって書かれているのですから。具体的な都市名が書かれてるのですが、その空襲にあった都市や街を数えるのが大変です。1944年から45年の2年間にかけてこんなにあったのかって、僕も驚きました。空襲というと僕は東京や大阪、神戸など都市部だけかと思っていましたから。まさに日本中が空襲にあったのです。

僕も本を見ていて暗澹たる気分になりました。それだけ多くの人が亡くなったり、負傷をされたりと甚大な被害を受けたのだなあって…

ちょっと脱線しますが、僕の父親は千葉の木更津のほうに疎開しましてね。当時幼かった父が田んぼを一人で歩いていたら、後ろのほうから敵機がやってきて、幼い父に向ってバババッと銃を放ったのですね。父は命からがら逃げのびることができました。父はあの時危うく死ぬところだったと語っておりました。おそろしいですね。幼い子供まで攻撃してくるのですから。疎開で都市部から逃れたとしても、父のように攻撃されることもある。

先に挙げた二曲の歌はとうとう誰も歌わなくなったそうです。それはそうですね。空襲が大したことがないなんて、そんなものウソだって、みんな誰しも思うようになったのだから。





東京も雷がゴロゴロなって、ツユじゃなかったw梅雨がもうすぎ明けて、本格的な夏を迎えようとしております。めんツユが明けてもしょうがないですよねwめんツユといえば、冷や麦が食べたくなる季節になってきましたね。(なんのこっちゃw)それでは今日も前回に引き続き防空法のお話をします。今日は政府がいかに空襲の情報を禁じたかというお話。


1 マスコミの罪

 昭和17年4月18日、B25爆撃機が白昼堂々と東京や川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸などを攻撃しました。死者も約90名もでたのですね。しかも死者はほとんど非戦闘員の一般人です。しかも、死者のなかには幼い子供もいたといいます。これは大変なことです。コロナが東京で200名以上でたことも衝撃ですが、これはもっと衝撃的なニュースですね。

しかし翌日の新聞の一面は空襲の悲惨さや恐ろしさをほとんど触れず、それどころかこんなことが書かれておりました。

「家族が食卓を囲んで食事をしているところに焼夷弾が落ちた。とっさの機転で老婆がお鉢のふたをかぶせれば、あとの家族が砂やムシロなどを運んできて簡単に火を消し止めた」

「バケツのお尻で焼夷弾の灯をたたき消した」


いづれも『読売新聞』の記事から引用したものですが、呆れた話です。こんな話をまともに信じる人はそうそういないと思います。焼夷弾は3000度の熱があるといいます。僕も実際に焼夷弾を生で見たことがあります。見たことがあるといっても不発弾ですが、不発弾とわかっていても、近づくのが怖いくらいでした。バケツのお尻や砂で火が消せるわけないのです。消せるどころか爆発してしまいます。当時の大マスコミはこんなウソを平気で書いていたのですね。

さらに『朝日新聞』には「爆撃の状況を種々詮索したり、あるいは憶測などによって流言飛語をなすなどは厳に戒めねばならない。作戦上のことに関しては一切軍に信頼して、一般国民はそれぞれ全力をあげてその持ち場を守り、各自の任務を全うすることが必要である」と軍部の談話、まさにDVオヤジの言い訳のような談話を嬉々としてとりあげておりました。その軍部が一番信頼できないのにこの言い方はないですよね。この新聞が戦後になって反戦平和なんていっても説得力がありませんよね、ホント。

こんな与太話ばかりで肝心な犠牲者の数は取り上げておりません。それというのも当時の政府というか軍部が、マスコミに空襲のことは書くなって命令したからです。本土空襲以降、報道規制が強まり、空襲の報道記事はすべて特高課によって検閲されたといいます。



2 うわさ話もするな
 戦時中はSNSはありませんでしたが、東京や神戸、横須賀などこれだけの都市が空襲にあえば、その恐ろしさは嫌でも日本の方々に伝わります。そのことに危機感を感じたのは軍部。国民に厭戦気分が蔓延するのが何よりも恐ろしい。なんたって戦争があっさり終わって困るのは、国民ではなく一部の勝ち組ですからね。で、軍部は、空襲の話を人々に話すのは非国民だとキャンペーンを張ったのです。

政府が刊行した広報誌『週報』にも、このように書かれております。

「(空襲の話を友達や親戚等に)知らせたいのはやまやまです。しかし考えねばならないのは国内に発表すればそれが津津根家に敵国に聞えるということです。先だっての空襲でも米国は空襲の真相がわからず、弱り切っています。そこへ国内発表することは、敵へ真相を教えてやるようなものです。」

「空襲の被害状況を発表できないのは、こういった理由からで、結局、国民を空襲の被害から救おうとしていることができます。」

「ここで特にお願いしたいことは、空襲のことについては、知ったかぶりをして、人から聞いた話など言いふらさぬようにしていただきたいことです。空襲のうわさ話などをしていたら、お互いで相戒め、でたらめな話をすることは非国民的な行為としてお互いに注意していただきたいことです。」

要するに、空襲の話をするなといいたいのでしょう。それにしても、敵に空襲の真相が知られるから、話すとはなんとバカなことを書いているなって。空襲を落としたのはほかでもないアメリカなのですから、空襲の真相なんてあったもんじゃありません。もし、この『週報』をアメリカ軍が読んだら鼻で笑われますよ。当時の政府はこんな態度だったのですね・・・・

うわさ話だけでなく、空襲のことを手紙に書くことも禁じたといいます。昭和16年10月に制定された勅令『臨時郵便取締令』がだされ個人が出した手紙も郵便職員が検閲することが認められました。つまり、空襲のことが手紙に書かれていたら警察にチクることもできたのです。今では考えられないことです。いまでは郵便職員が個人が出したハガキどころか年賀状も読むことを固く禁じられていますし、たとえ警察が犯人が書いたかもしれない手紙を見せろと言われても、郵便職員は通信の秘密を盾にそれを拒むことができますからね。

ちなみに空襲のことでも書いていいのは「どこどの誰かさんの家が焼けました」とか「誰かさんがけがをした」くらいならOKのようです。

3 空襲予測も隠蔽
 政府が隠蔽したのは空襲の被害だけではりません。空襲の予測さえ隠蔽していたのです。アメリカが昭和17年に続いてまたも日本を爆撃するということを事前に予測していたのです。それはガダルカナル島の戦いで日本軍が敗退した翌日(昭和18年2月8日)、政府は「絶対国防圏」を縮小し、次の空襲判断をしめしたのです。

「大東亜戦争は今や長期戦の様相を濃化し、これに伴う空襲は、来年度以降さらに深刻かつ激化すべ趨向すうこうを予想せらるる・・・(中略)小型焼夷弾の多数投下及び焼夷威力が大なる大型焼夷弾の混用投下し、消防活動を困難ならしめんとする公算大なる。(中略)大なる機数をもって反復空襲し一挙壊滅的効果おさめんとする公算大・・・」


なんと政府は昭和18年の時点でアメリカは再び空襲をする、今度は一回目よりもっとひどい爆撃をするだろうと割と正確に予測をしていたのですね。それにもかかわらず、大本営には「大したことがない」「逃げるな火を消せ」と昭和20年の8月15日まで国民に命令していたのですね。おそらく、軍部のお偉いさんや一部の勝ち組にはこうした正確な情報が伝わっていたが、一般国民には知らされていなかったのです。空襲がひどくなることが昭和18年の時点でわかっていたなら、その時点で戦争をやめるべきでした。

時々ネットで「日本も優秀な人間が独裁的な政治をやったほうがいいのでは」という意見がありますが、戦時中の空襲の対応を見るにつけ、その考え方は非常に危険であると思いたくなります。

※ 参考文献















1 退去禁止を違反した者
 防空法に加えられた退去禁止。その違反者への処罰は最大で懲役6か月または罰金500円でした。消火義務に違反したものは懲役こそはなかったものの最大罰金500円とられたといいます。500円なんてワンコインでマックのバリューセットより安いじゃんと思うのは現代人の感覚。当時の教員の初任給が月55円でしたから、500円なんてその10倍。当時の500円がいかに大金かわかります。

また、灯火管制(家やオフィスの電気を消して真っ暗にすること)をしているときにドロボウをしたり、物資の買い占めや売り惜しみをした場合も処罰されたそうです。東日本大震災それから今回のコロナのときも買い占めが問題となりましたが、世が世なら処罰されていた行為です。

とはいえ、実際にこの規定で処罰された例は、現存の公文書などから見つかっていないことから、処罰された人は極めて少なかったのではないかと。しかし、罰則の存在自体が市民への脅しにもなるわけです。昭和17年4月18日に初めて日本が空襲をうけましたが、それ以降空襲はひどくなっていきます。その処罰規定も空襲がはげしくなるほど、市民にとって重いものになっていきます。 

2 逃げるものは非国民
 法律による処罰だけでは、退去禁止を義務付けるのは手ぬるいと政府は考えました。だって「空襲で死ぬくらいなら、逃げた後で処罰されたほうがましだ」と思う人も出てくるかも。はっきり言って、刑務所の中のほうが安全かもしれませんよねw?それで政府は精神主義的なキャンペーンを重視しました。

昭和16年9月3日発行の政府広告誌『週報』256号の記事にこのように書かれております。


「関東大震災では地震そのものがもたらす惨害を食い止めることができずに、その何十倍もの惨害を引き起こしたのは、当時の人たちに大多数が太平の夢に慣れ、士気がたるんでいたからで、激震に逆上して周章狼狽し、自分一人の安全を願って逃げだし、ついに大火となり、そのうえ荒唐無稽な流言飛語に迷って混乱に混乱を重ねたからです」

つまり関東大震災の被害が大きくなったのは地震そのものではなく、逃げた人間が悪いという無茶苦茶な論法です。これを書いた人は東日本大震災のとき「天罰」発言をした某知事と同じ頭の構造だなって。それにしても、当時の政府のお偉いさんはマジでこのような発想をしたのですね。江戸時代の政治家のほうが何十倍も偉かったですね。知恵伊豆こと松平信綱公は江戸の大火の際、逃げ場をつくるために広小路(広場)をつくったり、墨田川を渡れずに多くの人が火で焼かれてしまったので、墨田川に橋を架けたりしたのですよ。この記事で納得できるとすれば「荒唐無稽な流言飛語」のくだりだけですね。さらに続けます。

「問題は、どうすれば犠牲を少なくすることができるかを考え、それを実行することです。その最良の方法は、国民各自が一死奉公(※1)の精神をもって協力に団結し、なんどきでも敵機御座んなされという決意をもつことです。一死奉公の精神を持つためには、先づ第一に利己主義、個人主義を清算し、とかく陥りやすい人情の弱点である自分ひとり、自分一家だけの安泰を願ふことがあってはなりません。いふまでもなく個人は国家と運命を共にすべきもので、たとひ、自分一人が助かっても、万一国家が一大損害をこうむれば、個人の幸福等は到底望めないことです」

昔の日本は個人よりも国家の都合が最優先されたのですね。しかし、そうした考えがかえって国家の大損害につながったのは本当に皮肉だなって。震災とか災害の時は、消防とかそういう仕事についている人はともかく、誰それかまわずとにかく逃げたほうがいいといいます。東日本大震災の時、津波がくるぞ逃げろといって、一目散に逃げた人は助かったといいます。

空襲のときも逃げた人のほうが、生き延びて戦後の復興のために働き、一方で防空法をかたくなに守ったほうが尊い命を落としたのですから・・・

「富んだ者も貧しいものもすべてのものが、大なり小なり都市の恩恵や利益を受けているのです。それが平素恩恵だけを受けて、いったん風雲急になると、都市を放棄して退去することは、日本の武士道、帝国の国民道徳からいっても許されないことです」


逃げることは武士道の国民の道徳にも反しているなんて言われたら返す言葉もないですね。ちなみに『武士道』の話がでてきたので、『武士道』のお話を少し。『武士道』といえば「武士とは死ぬことを見つけたり」というセリフを連想しますが、そもそも戦国時代の武士たちは生き残るためなら、だまし討ちや裏切りもOKだったそうですよ。江戸時代になって、戦争がなくなってから『武士道』の本質も変わってきて、平時の武士たるものの心構えに代わっていきました。そうして江戸時代に出来上がった武士の価値観が明治になって新渡戸稲造が『武士道』にまとめたのですね。しかも、そもそも「死ぬことを見つけたり」の本来の意味は、単に死ぬことを美化したことではなく、何事も死ぬ気でやれというのが本意だそうです。それが、戦時中になって「武士道」の意味が捻じ曲げられてしまったのですね。







3 隣組の組織化
 政府は防空法実施にあたって「ご近所づきあい」を重視しました。国民が逃げずに火を消す方針を守らせるには、監視役が必要だと。それで国民同士を監視させるためにつくられたのが「隣組」です。 隣組とは10戸前後の家庭から構成され、防災訓練だとか、配給される食糧の分配などを行っていました。隣組は今でいう町内会や団地の自治会をパワーアップさせたものでしょうか。

隣組にはいくつもの決まりごとがありますが、そのなかでも焼夷弾が落下したときの心構えも決められていました。

「焼夷弾が落下してきたら、防空壕のなかに待避している人も家の中にいる人も一斉に飛び出して、直ちに防火に努めねばなりません。防火にあたるのは単に防空責任者だけでなく、隣組全員の責任です」
政府広告誌『週報』256号(昭和16年9月3日)より引用

「国を守れ」と政府のお偉いさんが言うよりも、顔なじみの人に言われたほうが恐ろしいです。政府のお偉いさんなんて一般国民にとっては遠い存在ですが、隣近所の人を敵に回すと、あとで報復があるかもしれない。


それ以前に日本の各地では、逃げようとする人たちを「非国民」と非難する人間がいたのです。現代でいえば、自粛警察ですね。漫画家の水木しげるさんの自伝には、太平洋戦争中の大阪で、故郷の鳥取から移り住んだ両親とともに暮らした時の体験が書かれています。

戦時下の大阪では、町内会主催の防空演習がますます頻繁になり、バケツリレーや穴掘りをさせられるのですが、まだ空襲もないころで、のんびり構えていると町内会長が「非国民」だとふれ歩いたため、水木一家はしかたなく、家の床下に穴を掘ったりして「非常時下の国民のふり」をしていたそうです。この町内会長はバケツリレーや穴掘りをマジで「お国のため」になると信じていたのでしょう。実際の焼夷弾の威力がすごくて、穴をほったりバケツリレーどころではないのですが・・・

これは、「はだしのゲン」にでてくる鮫島伝次郎にもいえることなのですが、おそらく戦争中でなければ、それなりにいい人だったのかもしれない。正義感のあるひとなのかもしれない。しかし、そのような善意や正義感にもとづく大衆の協力があったからこそ、日本は戦争を遂行することができたのではないかと。「地獄への道は善意で敷き詰められている」という言葉がありますが、これを地で行く形です。



 ※1 戦争で死んで奉公すること

※ 参考文献 

























   


  
  


このページのトップヘ