history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

1 ドラえもんを見た違和感
アニメ版の「ドラえもん」(テレ朝)が始まったのは1979年(昭和54)です。日テレでも「ドラえもん」は1973年(昭和48)にアニメ化されたのですが、あいにく僕はまだ生まれていないし、大山ドラ世代なので、そちらの方は見たことがありませんし、ようつべでチラッと見た程度なので、日テレ版ドラえもんを多くは語れません。確かドラえもんの役を富田耕生さんが演じられていたのですね。当時のスタッフは、ドラえもんというキャラクターに友達ではなく、「世話好きなおじさん」というイメージを抱いていたようですね。あと途中トチュウで富田さんから野沢雅子さんにバトンタッチされたようですね。

ここからが本題なのですが、最近CSで大山ドラ時代の「ドラえもん」が再放送しているのですね。それも1979年ないし1980年代初頭の「ドラえもん」です。わさドラに変わってはや15年以上経っていますし、ようつべで大山ドラの動画があってもすぐ消されるので、もう大山ドラを見るにはビデオ屋さんに行くしかないのかって思っていただけに、驚いています。ジャイアンのたてかべ和也さんやスネ夫の肝付兼太さんと言ったメインメンバーが鬼籍キセキに入ったこともあり、ますます見たくなったのですね。

久々に見させてもらいましたが、衝撃ショウゲキを受けましたね。声優陣は大山のぶ代さん以下おなじみのメンバーなのですが,ある意味、わさドラを初めて見た時よりも違和感を感じましたね。

例えば、しずかちゃんがドラえもんのことを「ドラえもん」って呼び捨てしているのですね。僕は物心ついた時から、しずかちゃんは「ドラちゃん」っていうものだとばかり思っていたし、わさドラでさえ、しずかちゃんは「ドラちゃん」ですからね。あと、のび太を「のび太さん」ではなく「のび太くん」ってしずかちゃんが呼んでいるのですね。

こうした違いは原作でも見られます。原作ではドラえもんはのび太のことを呼び捨てですし、しずかちゃんのことは皆「しずちゃん」って呼ばれています。

また、セリフも結構過激で、「殺す」とか「頭がおかしい」とか言葉もポンポン出てくるのですね。僕は思わず笑ってしまいました。原作の「ドラえもん」も結構辛辣シンラツな言葉が出てきますから、そういう意味では原作通りなのですが。原作はともかく、アニメ版の「ドラえもん」といえば、汚い言葉が出てこないイメージがあったので、驚きました。というか、僕がリアルタイムで見た時は、あまりに小さかったので、忘れていただけかもしれない。

のび太のママは怖いママだという印象がありますが、改めてみるとヒステリックに怒るだけで、あんまりいいお母さんじゃないなって。成績が悪いんだったら、頭越しに怒らないで、一緒に勉強を見てあげたほうが、お互いのためだと思う。

勉強しろといっておいて、自分はテレビみて、せんべえ食ってたら説得力ないですね。美輪明宏さんの「ヨイトマケの唄」では、かあちゃんが男に混じって懸命に働いている姿をみて、子供は、必死に勉強して、大学をでて、エンジニアになったのですよ?百の説教より、親の姿勢ですね。「ヨイトマケの唄」聴かせてあげたいですね。のびママに。


そして何よりも、ジャイアンとスネ夫にいじめられているのをママは知らないのかって思いましたね。のび太がジャイアンとスネ夫にボロボロにされ傷だらけになったのに、のび太が帰ってきたら、心配するよりも、帰りが遅いとがみがみ怒るばかり。これじゃあ、のび太がママに心を許さないなって。普通親がそこまでいじめられたら、心配するし、学校にもいうでしょ。また、のび太がせっかく貯金してためたゲーム機をあっさりジャイアンにとられても、無視するなんて。こんなの普通だったら親が怒ってジャイアンの家へ押しかけ取り返しに行くでしょ、普通の親なら。

また、のび太は夜更かしをしていないのに、学校でも寝たり、家に帰ったら昼寝。これは、怠けているというより、そもそも体の調子がよくないのではないかって、これは一度医者に見せたほうがいいと、少なくとも僕の母なら思いますね。

まあ、漫画なら仕方がないな。藤子・F・不二雄先生は高度成長期の教育ママをモデルにして、のび太のママを描いたそうです。あの時代は、いい学校、いい会社に入れば絶対幸せになれるって神話が信じられていた時代でしたからね。昔はいい大学に入っていれば、それだけで一流企業に入れた時代でしたからね。昔の日本は、政治の世界では田中角栄、実業界では松下幸之助のような一流の人間がいて、彼らの言うことを黙って従っていればよかった。コクドの堤義明さんなんて「頭の良い奴はいらない。大事なことはすべて俺が決める」とうそぶくほどでしたから。堤さんのいう頭の良いとは勉強のできる人という意味ではなく地頭の良すぎて上司に反発する人間のことです。

で、落ちこぼれは我が子でも冷たくされたのです。だから、家庭内暴力が社会問題になったんですね。あの時代戸○ヨ○トス○ー○が注目されました。あの学校がモデルの「スパルタの海」見たけれど、親も悪いなって。散々冷たくしておいて、子供が言うこと聞かなくなったら、高いお金払って、預けっぱなし。

まあ、そんなのびママも、時には優しい面も見せるので、やはり親だなっておもうこともあります。のび太が帰りが遅くなった時は、うんと叱った後におにぎりをつくってくれたり。時には慰めてくれたり。

ちなみに、最近のわさドラにでてくる、のび太のママはそんなに叱らないんですよね。今の時代の風潮か。

のび太の先生のほうは、完全に成績至上主義。良い成績の生徒は贔屓するが、成績が悪い生徒にはダメ人間扱い。のび太の先生はなにかと学校の成績だけがその子の運命を決めるいうけれど、それって本当に正しいの?そりゃ良い成績をとって、いい大学に行き、国家の官僚になったり、政治家になれば万々歳ですよ。勉強が大事なのは百も承知。学生は勉強することが仕事ですからね。でも、のび太の先生、勉強勉強で、青春期という大事な時期に他社とのかかわり方も満足に学べず、激しい競争社会で、他者への思いやりを忘れた者が、官僚や政治家になって不祥事を起こしたり、汚職をやったりしてますが、どう思いますか。オウム真理教の信者だって成績が悪い子どころか、むしろエリートが多かったのですよ?

のび太の先生が一番ダメというか悪いところは、のび太がいじめられていることに無関心なのですよね。ジャイアンって映画ではいい奴だけれども、買ってきたばかりのバットで試しに殴らせろとかいったり、人のものを無理やり取り上げて「永久に借りておくだけだぞ!」ってうそぶくような奴ですよ?そんなのをきちんと叱らず、のび太ばかり叱るのは非常に良くないなって。ジャイアンをしかるのも成績が悪いとか、そんなのばっかり。たまに、のび太の先生もよい事もいうし、決して悪い先生ではないのですが。

でも、のび太の先生は「キテレツ大百科」にでてくる佐々木先生にはかないませんね。佐々木先生は厳しいけれど、生徒思いだし、絶対えこひいきしない。「キテレツ」に出てくるガキ大将にブタゴリラというのがでてくるのですが、ブタゴリラがいたずらをしたらきちんと叱るし。いじめなんてしようもなら激怒すると思いますよ、佐々木先生は。


まあ、昔は結構多かったのですよね、のび太の先生みたいな人。今でこそ個性が大事って言われてますが、昔は理不尽な体罰もあったし。いわゆる管理教育の時代。そのアンチテーゼとして、「金八先生」とか「熱中時代」、さらには「僕らの7日間戦争」といったドラマや小説がうまれ、いきすぎた成績至上主義や管理教育への反発から校内暴力へと繋がったのですよね。また、尾崎豊さんが「15の夜」や「卒業」といった名曲を生み出したのも、こんな教師たちへの反発が背景にあるのですね。


で、ジャイアンもスネ夫も今見ると結構理不尽ないじめをしているし。実は、1980年代はいじめが社会問題になりまして、自殺も問題になったし、今の若い子は知っているかな?葬式ごっこなんてありまして、その事件は1986年におこった事件で、男子生徒が日常的に暴行を受けるまでになり、さらに、そのいじめグループらの主催によって学校でその男子生徒の「葬式ごっこ」が開かれることとなったのです。その「葬式ごっこ」にはなんと担任教師ら4人が加担し、寄せ書きを添えていたといういうから本当に呆れた話です。

ママは教育ママだし、先生は成績至上主義、ジャイアンとスネ夫は理不尽ないじめをするし、のび太はドラえもんがいるから救いがあるのだなってつくづく思いますね。


僕もいじめに苦しめられたから、ドラえもんのいじめの描写は見てて辛かった。また幸い僕の担任の先生はいじめ問題に熱心な先生が多かったから本当にラッキーだったと、ドラえもんみる度におもいます。いじめって本人もしっかりしなきゃいけないけれど、先生が真面目に取り組まないとなくならないですよ。


藤子先生は、ドラえもんを通していじめや学校の問題などの風刺も描いていたのだなあって。

もっとも、最近のわさドラはソフトな感じになって、ジャイアンも昔ほどのび太をいじめないのですね。昔はのび太みたいなタイプは落第生でダメ人間のレッテルしかはられませんでしたが、最近は割とのび太の優しさとか、そういった面が再評価されていることもあるのかな。

また、子供のころは落ちこぼれだったのに、社会的な成功をおさめている実業家や有名人は少なくないし、むしろ自分の得意な分野を伸ばして成功した人も多いです。かのスティーブ・ジョブズも子供のころは変わり者で、いじめられっ子だったそうですし。のび太もどちらかというと、一芸を伸ばせばすごく成長しそうなタイプだし。


のび太は勉強はダメだが地頭は良いと思う。ドラえもんの道具をいたずらのために悪用する知恵はなかなかのもの。良い方向へ伸ばせば大化けするかもしれない。そういう意味でも、のび太に光が当たり始めたのかもしれない。

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シーボルト 川原慶賀筆
(シーボルトの絵。ウィキペディアより))



きょうはシーボルトの話をします。シーボルトはドイツ人でしたが、オランダ領東インド会社付の医師となり,それから日本に任官することになり,文政6(1823)年8月に長崎出島に入った人物です。そこで医師として活躍するかたわら、医師を養成するための塾、鳴滝塾なるたきじゅくをひらきました。その塾では高野長英たかのちょうえいも勉強しておりました。そのシーボルトが帰国した際に日本からオランダに持ち帰ったものがあります。それはいったい何でしょうか?二つ選んでください。

 

  1. ユリ


  2. 金魚


  3. 遊女


  4. カラオケマイク


  5. 木久蔵ラーメン


  6. ササニシキ


  7. ガンプラ(ガンダムのプラモ)





正解は1番と、2番。4番以降はありえませんねwいづれも昭和以降につくられたものですから。3番の遊女を連れ帰るなんて、いろいろ問題ありですね。シーボルトもそこまで人でなしではないでしょう。では、本題に入りましょう。
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1 ホラ吹きと呼ばれた今村明恒イマムラアキツネ
 以前に「歴史秘話ヒストリア」でという今村明恒イマムラアキツネ人物の事を取り上げていました。彼は、1923年(大正12)の関東大震災カントウダイシンサイの予測を何と18年も前から予測したというからオロドキです。もちろん、当てずっぽうに予測したのではなく、過去の統計トウケイに基づいて地震の予測をしたのです。。

今村は、1870年、鹿児島県鹿児島市に生まれました。1891年に東京帝国大学理科大学(現・東京大学)物理学科に進学、大学院では地震学講座に入り、そのまま講座助教授となります。1896年からは陸軍教授を兼任し、陸地測量部で数学を教えたそうです。

1896年(明治29)に起きた明治三陸地震メイジサンリクジシン発生を期に、今村は津波は海底の地殻変動チカクヘンドウを原因とする説を提唱テイショウしました。さらに今村は、震災予防調査会のまとめた過去の地震の記録から、関東地方では周期的に大地震が起こるものと予想し、1905年に、今後50年以内に東京での大地震が発生することを警告し、震災対策を迫る記事を雑誌に掲載ケイサイしました。

ところが、この記事はマスコミによってセンセーショナルに取り上げられて社会問題になってしまった。この記事を真に受けた人びとはパニくってしまったのです。彼の上司であった大森房吉オオモリフサキチらから「今村は世の中を混乱させている。今村の説はデタラメ」として攻撃。「ホラ吹きの今村」と中傷チュウショウされてしまったのです。

ヒドイヨねえ。上司なんだから、部下の事をカバいなさいヨwと言いたいところですが、大森もやはり責任を感じていたのでしょう。自分の部下が世の中を混乱コンランさせたことに対して。混乱コンラン収拾シュウシュウさせるには今村を悪者にするしか方法はなかったのです。

結局、今村はほら吹きと呼ばれ、辛い思いをしたのですね。この今村の回の「歴史秘話ヒストリア」を放送をしていた時、ツイッターをのぞいてみたら、「ヒストリア」を見ていた人たちが「マスコミが悪い」とツイートしていたっけwあと、「学会(学者達)は今も昔もよくないね」とツイートしていた人もいたっけ。

2 地震の神様になった今村明恒
 しかし、1923年に関東地震(関東大震災)が発生。今村の忠告が現実のものとなりました。これといった地震の対策をしなかった事もあり、被害は拡大。おびただしい数の犠牲者ギセイシャが出た。

今村はたちまち「地震の神様」とよばれ、人びとから尊敬をされるようになりました。自説の正しさを訴え続けた貝じゃなかったw甲斐カイがあったというもの。でも、今村本人は複雑な気持ちだったと思います。結果的に地震から人びとを救う事が出来ず、多くの犠牲者ギセイシャを出すことになったのだから・・・

雑誌にも「地震の神様のコラム」が大人気となり、このコラムがらないとクレームが来るほど。公演の依頼も殺到サットウしました。

また、東京の復興フッコウにもいろいろと提言をしました。広い道路をつくったり、隅田川スミダガワ立派リッパな橋もかけたりした。1911年に今村式強震計イマムラシキキョウシンケイを開発しました。

3 次は南海に地震がくる
1923年に亡くなった大森教授の後を継いで地震学講座の教授に昇進。次の大地震は南海地震と考えた今村は、これを監視するために、1928年に南海地動研究所(現・東京大学地震研究所和歌山地震観測所)を設立。設立費用はなんと今村の自腹じばら。地震から人びとを救いたいという思いで、身銭ミゼニを切ったのだ。出来る事じゃありません。

また、津波被害を防ぐには小学校時代からの教育が重要と考えて『稲むらの火』の国定教科書にのせてほしいと訴えました。

しかし、満州事変以降、日本は戦争一色。今村の事を人びとは忘れ去られるようになりました。戦中も大きな地震が起き、莫大バクダイな被害があったが、その時の政府もマスコミもほとんど黙認モクニン。「地震の復興よりも、お国のために戦え」というのが政府の方針でしたから。

今村の予測どおり、戦後間もない1946年に南海地震が発生しました。そして多くの犠牲者を出してしまった。今村は「またしても人びとを地震から救い出すことが出来なかった」と自責の念にかられたそうです。しかし、昭和の南海地震のとき、今村の言葉を信じて助かった人が今村に感謝の手紙を送ったそうです。


※ 参考サイト等
ウィキペディア
歴史秘話ヒストリア

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ブログネタ
歴史のお話 に参加中!
明日は関東大震災があった日です。今日は関東大震災に関係するお話をします。かつてNHKのEテレで「さかのぼり日本史」という番組をやっていました。平成から弥生時代くらいまでの日本の歴史を未来から過去までさかのぼるという番組。けっこう面白い番組でした。この番組で「中華義荘チュウカギソウ」が出てきました。中華義荘とは日本に住んでいる中国人の共同墓地です。横浜の山の手にあります。中華街からはちょっと遠いです。

明治・大正まで、日本に亡くなった華僑カキョウ(※1)のなきがらは船で中国に運ばれるのですが、中華義荘は仮安置所として使われていました。しかし、関東大震災で多くの犠牲者が出て、この中華義荘にて埋葬まいそうされるようになったそうです。さらに、先の大戦の横浜大空襲で亡くなった在日中国人達もここに眠っているそうです。

「さかのぼり日本史」をみて、横浜の中華義荘に行きたくなりました。2011年に横浜に訪れ、ついでに中華義荘に立ちよろうとしました。事前にグーグルマップで場所を確認したのですが、いざ横浜の山の手に来てみると目的の中華義荘がどこにあるのかわかりません。道端の所々に設置された案内板(地図)を見ながら何とか近くまでこれたのですが、なにせ横浜はめったに行かないところ。

土地カンがないうえに方向オンチなものだから、僕はあっちへウロウロこっちへウロウロ歩いていました。とちゅうで道を歩いている、おばあちゃんに「中華義荘どこですか」と僕がたずねても、「え❓」という返事が返ってきただけでした・・・ 

グーグルマップの地図よりも航空写真で位置関係を調べればよかったなあ。地図は意外と位置関係がつかみにくいんですよね。航空写真のほうが、建物なんかもチェックできるから便利ですから。

しかたがないのでコンビニの店員さんに中華義荘を聞くことにしました。店員のオバさんに「中華偽装中華義荘はどこですか」とたずねたら、オバサンは首をかしげながら「中華義荘?さあ?」と答えるだけでした。それで僕は「中国人の墓地がこの辺にあるらしいのですが」とたずねたところ、オバサンは合点がいった顔をして「ああ、南京墓地ナンキンボチ」と答えたのです。

コンビニを出て、オバサンに言われたとおりに道をさかのぼってみたら、あったあったありました。中華義荘は地元では南京墓地と呼ばれていたのですね。はじめに尋ねたおばあちゃんに「南京墓地どこですか」って聞いたてたら、ちゃんと教えてくれたかもしれない。

中華義荘に来たのですが、やはり墓地ということもあってさみしいところです。日曜日に来たのですが、ここに来たのは僕以外誰もいない。夜来たら怖いかも。同じ横浜の外人墓地とは明らかに雰囲気が違います。外人墓地は観光地化していることもあってか、観光客やアベックが夜でも外人墓地の辺りを歩いています。だから、外人墓地は夜でもそんなにこわいとか、さみしいとかそんな感じはしません。

話を中華義荘の話に戻して、中華義荘には年季の入った中国の建物が建っています。この建物は「地蔵王廟」といって1892年に建設されたようです。敷地シキチに所狭しと立ち並ぶお墓には、「王」だとか「陳」だとか、中国人の名前がきざまれていました。日本なんだけど、日本じゃないような、まるで異国に来たような不思議な雰囲気を味わえる場所です。




※1 中国国籍を保持したままで、海外に移住した中国人およびその子孫。






※この記事は2011年7月16日に書いたものです。
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前回の記事で「オオカミ男」のお話を取り上げましたが、オオカミ男の話をしているうちに「アマラとカマラ」の話を思い出しました。アマラとカマラのことは僕が小学生の時に家庭科の授業で習いました。オオカミに育てられると人間はオオカミのようになる、つまり人間は育った環境がとても大事だという話です。それで、2、3日前にようつべの検索欄ケンサクランに「アマラとカマラ」と検索ケンサクしたら、その関連した動画がいくつも出てきたのですが、僕がびっくりしたのは、実は「アマラとカマラ」の話はウソの可能性が高いという動画です。

もちろん、アマラとカマラは実在はしたようですが、オオカミに育てられたわけではなさそうです。この話をご存知な方には、いまさらなんだみたいな話ですが、本当に2、3日まで知らなかったのです。

でも、僕はなんとなく、このアマラとカマラの話は前々からなんとなく「でも、何かおかしいな」って思っていたのですね。マンガならともかく、現実社会でオオカミが人間を育てることがあるのだろうかって。むしろ人間の子なんてオオカミに喰われちゃうんじゃないかって思っていましたから。

それからオオカミの習性も昨日ネットで調べさせてもらいましたが、人間を育てることはまずありえないそうですね。また、人間の子が必要とする乳の成分とオオカミの乳の成分は違うものであり、オオカミの授乳は2カ月程度ですが、人間の赤ちゃんが2ヶ月程度の授乳では成長できないといいます。

アマラとカマラは1920年にインドで見つかったそうです。二人はキリスト教の牧師夫妻が経営する孤児院に引き取られたといいます。アマラとカマラはオオカミのように四本足で歩いたとか、遠吠えをしたとか暗闇で目が赤く光ったとか、歯がオオカミにようにトガってっていたとか、食事はケモノのようにむさぼり食ったといいますが、本当に二人がそうだったかは疑わしいのですね。実際にアマラとカマラがオオカミのような身体的特徴をしていたと主張するのは、牧師夫妻とその近親者だけだったそうです。それ以外の人はアマラとカマラがオオカミのようだと言っていないのです。

百歩譲ってほんとにオオカミに育てられたとしても身体的特徴までオオカミに似るとはとても思えないのです。仮にオオカミが育てたとしても人間は人間だろうと。

いくつかの写真も残っておりますが、これは牧師が二人にオオカミのように振る舞えと命令した疑いがあるのですね。例えば、ご飯を食べる時もオオカミのように四つんいになって、がつがつ食べろいう具合に。

それにしても、なぜ牧師夫妻ボクシフサイがこんなことをしたのでしょうか。それは牧師夫妻本人に聞かなくてはわかりませんが、孤児院の寄付キフを得るためという説があります。「オオカミに育てられた可哀想な子供を牧師様が保護し、二人の教育をしている、なんて素晴らしい牧師様だ」」って人々は思ったのですね。そんな牧師夫妻の慈悲深ジヒブカい深さ(❓)に感激した人々はこぞって孤児院に寄付をしたといいます。もしも、それが本当の話ならば、まさに偽善者ギゼンシャ。○テレの2○時○テ○ビと同じ手口ですね。と言いたいところですが、孤児院の経営は大変だったらしく、アマラとカマラの他にも孤児がいたわけで。牧師様たちもかわいそうな子供達をのたれ死にさせるわけにはいかないと思ったのかなって。

ただ、アマラもカマラも今でいう知的障害児で言葉が話せなかったのは本当のようでした。おそらく、お世話が大変ということで、両親は二人を捨てた可能性があります。捨てられたところを牧師様に拾われたのかと。野に捨てられた子供で、立ち振る舞いも普通の子とどこか違う、ひょっとしてこの子たちはオオカミの子ではないか?と牧師様は思ったのかもしれません。


1921年になるとアマラとカマラは病気になり、その年の9月21日にアマラが亡くなったのですね。カマラは涙を流したといいます。アマラが死去した9月21日から9月27日までカマラはひとりでずっと部屋の隅でうずくまり、10月になってもカマラは意気消沈イキショウチンしたままだったそうです。

その後、カマラは元気を取り戻しましたが、1928年ごろに体調を崩し、1929年にカマラは亡くなったのですね・・・



(参考にした動画)
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