history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。ブログ削除しようとしましたが、やめましたwそのかわりブログをリニューアルしました。コメント欄も久々に開放しましたが、コミ障で、なにぶん心が折れやすい性格なので、コメントの方は何卒お手柔らかにお願いします。

細川ガラシャは1563年(永禄えいろく6)に生まれました。本名はたま。猫ちゃんの名前みたいですねw僕の世代だとバンドを思い出しますね。「さよなら人類」はやったなあ。あ、若い人は知らないかw

たま
たま
パイオニアLDC
1996-09-25



1 謀反人の娘として
父は明智光秀。幼少時代は光秀の地位も低いこともあって貧しい暮らしでした。ただ美人でことや横笛などいろいろな教養を身に着けた才女でした。そんな明智たまも1578年に名門細川家の嫡男細川忠興のもとにとつぎます。その時ガラシャ16歳。これは政略結婚でした。当時光秀は信長に仕えていて、細川家とともに丹波・丹後地方の侵略をするように命じられていました。そのためにも明智家と細川家が結束する必要があったのですね。いまでこそ恋愛結婚が当たり前ですが、この当時は好きでも一緒になれることが非常に困難で、ましてや武将の娘に生まれると、女の幸せをあきらめてもよいくらい・・・ひどい時代だったのですね。


政略結婚で結ばれた二人でしたが、子宝にもめぐまれ、二人は幸せな日々をおくっていました。忠興の父親もたまを最高の嫁と絶賛するほどでした。


しかし、父光秀が起こした本能寺の変でたまの人生も一変。明智の家臣が細川のもとにやってきて、自分たちと協力して信長をとうと呼びかけます。しかし、信長を慕っていた細川忠興は激高。また、忠興は「謀反人の娘とともに暮らすことができぬ!」といい、たまに離縁を宣言。さらにたまを山奥に幽閉。しかも子供たちとも引き離されてしまいます。かわいそうに・・・

その時、たまが読んだ詩があります。

「身を隠す、里は吉野の奥ながら、花無き峰に 呼子鳥なく」

山奥に閉じ込められて、さみしい思いをしている、たまの心情が伝わってきます。また、たまは細川家が父である明智の助けを断り、見殺しにしたことが心残りで、そのことがわだかまりとして残っていたのですね。

しかし、この山奥に幽閉ゆうへいしたのも、忠興がたまを嫌いになったのではなく、謀反人むほんにんの娘であるたまを守るために山奥に隠してあげたという説もあります。僕も多分そうだと思います。

2 冷え切った夫婦仲
 そして、1584年(天正12)年、忠興はたまと復縁をします。幽閉生活も終わりを告げます。ガラシャは大阪にある細川家の屋敷に入りました。しかし、たまが戻ってきても外出もままならない生活、今で言えば不要不急の外出も禁じられる自粛じしゅく生活を送っていました。


この当時のたまはたびたび忠興と夫婦ゲンカもしていたそうです。ある時下働きの男がたまのもとにやってきます。怒った忠興はその場で下男を切り捨てます。その下男を切った刀は血で汚れています。すると忠興はなんとたまの着物のそでで血の付いた刀をぬぐったといいます。

普通だったらキレますよね。夫がそんなことをしたら。しかし、たまはキレるどころか、なんと何も言わず、その着物を何日も着続けたといいます。忠興はたまに「お前はへびのような女だ」とののりします。するとたまは冷静に「鬼のような夫には蛇がお似合いです」と言い返します。怖え…それくらい、このころの二人の仲はギクシャクしていたのですね。

3 ガラシャと名乗るようになる
 そんなたまを救ったのがキリスト教でした。きっかけは侍女の清原いとでした。たまはいとの話を聞いているうちにキリストの教えに興味を持ったのです。夫の忠興が九州まで遠征えんせいをしている間に、たまもひそかに教会に通うようになります。それまで受け身だった、たまですが、次第に積極的に自分の人生を変えようと頑張ってきたのです。

しかし、秀吉は次第にキリスト教を弾圧するようになり、大阪にあった教会も取り壊されます。宣教師たちも大阪から九州へ逃げていきます。それでも、たまは信仰を捨てず、洗礼をうけました。この時ガラシャという名前をいただいたのです。ガラシャの意味は「神の恵み」。

ガラシャは冷え切った夫婦関係に悩み、それから自分の父を見殺しにしたことへの罪悪感ざいあくかんにさいなまれていましたが、そんなガラシャを信仰が変えていったのです。ガラシャは怒りっぽい性格だったのですが、それが忍耐にんたい強く穏やかになり、顔にいつも喜びがたたえていたといいます。ガラシャは屋敷の人間にもキリスト教の教えを説いたといいます。しかし、忠興は秀吉と同じでキリスト教に対して厳しい態度でした。たとえば、キリシタンの侍女がささいな失敗をしたというので、怒った忠興は鼻と耳を切って追い出したとか。そうやって忠興はクリスチャンを屋敷から追い出したのです


もし、ガラシャがキリスト教を信仰していることがばれたら自分も無事じゃすまない、そう思ったガラシャは九州にいる宣教者に手紙を送り、「もはや夫と一緒に暮らしていけない。私も九州に行きたいと」。しかし、宣教師たちはガラシャを手紙でなだめます。むしろ、「夫を敬いなさい、離婚はやめなさい」とさとしたのです。

長い葛藤かっとうの末、ガラシャは忠興に自分の信仰をしていると白状したのです。そうしたら忠興は意外にも信仰を認めたのです。むしろ忠興はガラシャのために礼拝堂れいはいどうまで作ってくれたのです。そして二人の関係も次第に変わっていきます。信仰を通して穏やかな性格になったガラシャは夫にねぎらいの言葉をかけるようになったのです。

ガラシャはこれまで流される人生、長いものにまかれよみたいな人生だったのですが、自分で行動する女性へと変わっていったのです。

4 ガラシャの壮絶な死
ガラシャはキリストの教えによって心の安寧あんねいを得たかにおもえました。しかし、激動の時代はまたしてもガラシャをほんろうします。関ケ原の合戦です。徳川家康と石田三成が相争う天下分け目の戦いです。忠興は家康側についたのです。加藤清正など本来は秀吉側の武将たちも家康側につきました。

一方、石田三成も家康に負けじと、家康側についた武将の妻を人質にとり、それでおどかして、寝返ねがえらせようとしたのです。ガラシャのもとにも石田三成の使いが来て、人質になれと迫ります。ガラシャは一度はきっぱりと断ります。しかし、今度は武力でもって細川家をつぶすと脅かされ、さすがのガラシャも覚悟を決めます。細川の屋敷を三成側の軍が囲みます。そしてガラシャは自害をするのです・・・家臣たちはガラシャの亡骸なきがらを敵に奪われないように屋敷に火を放ちました。ガラシャは38歳で生涯を終えました。

「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ



ガラシャの辞世の句です。

また、ガラシャは亡くなる3か月前に友人宛に手紙を書いたといいます。そこには「もうすぐ落ち着きますので、近いうちに豊後に参ります」と書いてあったそうです。豊後は今の大分県で、忠興の新しい領地でした。ガラシャは新たな地で夫婦水入らずの穏やかな生活をゆめみていたのかもしれません・・・・

合戦が終わり、夫の忠興は領内に教会をたてたといいます。その教会でガラシャの一周忌いっしゅうきを忠興は行ったといいます。その途中、忠興は泣きくずれたといいます。

※ この記事は歴史秘話ヒストリアを参考にして書きました。



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以前の『歴史秘話ヒストリア』で宇喜多秀家の事が取り上げられました。秀家の秘話といえば、「八丈島より泳いで参った!!!」。ウソウソ、冗談ですわw宇喜多秀家は、幼少ようしょうのころから豊臣秀吉(とよとみひでよし)にかわいがられました。

豪姫ごうひめ(※1)と秀家が結婚けっこんしたのは恋ではなく秀吉の命令、つまり政略結婚せいりゃくけっこんだったそうですが、二人はまわりの人間がうらやむほどの仲が良かったそうです。宇喜多秀家は秀吉の5大老に命じられるなど、まさに勝ち組でした。が、そんな秀家にも不幸が訪れます。

宇喜多秀家は罪人として八丈島はちじょうじまに流されてしまったのです。なぜ罪人になったかというとワケがあります。

それは秀家は関が原の合戦で西軍として、徳川家康(とくがわいえやす)率いる東軍と戦ったから。それで、西軍が負けてしまいました。家康に歯向はむかったばっかりに、宇喜多秀家は罪人にさせられてしまう・・・・

そんな宇喜多秀家といっしょにいたのは子供と10人くらいの家来だけ。おくさんである豪姫と別れてしまったのです。

ある日、八丈島の代官の家で宇喜多秀家は白いご飯をごちそうになり、何度もおかわりをしたそうです。無理もありません。しかも、宇喜多秀家はいただいた白いお米をフロシキに包んで家に持ち帰ったそうです。家に帰って自分が食べるためじゃありません。家で待っている子ども達にも白いお米を食わすために。

泣かせますねえ。

宇喜多秀家、その子供と家来たちは努力して、島の暮らしに溶け込んでいったのですね。その証は今日も残っております。たとえば、八丈島のあるい家は宇喜多家から紫と緑色の鉱物を譲り受けて、それを糸の染色に使ったという、言い伝えもあるようです。

秀家は島の暮らしに慣れると、島民の役に立ちたいと、新田開発をおこなったり、薬草の知識などを村人に伝えたり、いつの間にか秀家は島民から「殿様」と慕われるようになったといいます。その後、秀家の子供も成長し妻をもうけたといいます。その後も秀家の子孫は八丈島に生き残り、明治のころにも秀家の子孫が八丈島がいたといいます。

一方、実家の前田家に帰っていた豪姫は八丈島に流されていた夫や子ども達のために食糧を死ぬまで送り続けました。はじめは幕府に遠慮しながら細々とやっていたのですが、正式な許可をもらってからは、一年おきに前田家から食糧が送られるようになったのです。前田家から(八丈の)宇喜多への援助はなんと明治時代まで続いたといいます。豪姫が「島のもののこと、くれぐれもお頼み申します」という遺言さえ残したほど。

遠くはなれていても夫婦のキズナは切れなかったのでしょう。泣かせますねえ。僕の頭の脳内にスキマスイッチの『奏』が流れてくるようですw二人は死ぬまでおたがいに会うことは無かったというから切ない話です。この時代にインターネットや電話があればなあって自分は『ヒストリア』をみて思わず思われました。


そんな二人の事をかわいそうに思って、今から10数年前に八丈島の人たちは秀家と豪姫がツーショットで並んだ石像をつくったそうです。「今度生まれてくる時はいっしょになれるといいね」という願いをこめて。


※1 前田利家(まえだとしいえ)のむすめ



※ オマケ


最後に、八丈島の映像を。八丈島には高校生の時に行きました。海もきれいで、お魚もおいしい良いところですよ。一応、「八丈島」の観光協会の公式チャンネルの動画ですから、削除される可能性は低いとは思いますが、それでも、もし映らなかったらごめんなさい。(削除したら怒りますよw観光協会さん)



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今日のお話は長いです。校長先生の朝の訓話よりも長いかもしれませんw


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わが夫、溥儀―ラストエンペラーとの日々


前回の記事で取り上げた溥傑ふけつのお兄さんである溥儀ふぎにまつわるお話をします。溥儀ふぎには奥さんがいました。その人の名前を李淑賢り しゅくけん。といいましても溥儀は初婚ではありません。バツイチです。溥儀が満州の皇帝だったころ、婉容えんようというお妃がいました。そして、もう一人側室がいたそうです。で、婉容えんようと溥儀の二人の生活は最悪で、夫婦のすれ違いや自由のない生活のストレスが重なり婉容えんようもアヘン中毒にかかって、最後は狂人になって39歳の若さで亡くなってしまうのです。

で、李淑賢り しゅくけん の書いた本を読ませてもらいましたが、夫である溥儀ふぎに負けないくらい波乱に満ちた半生だったようです。

二人は結婚けっこんしてから大変な思いをしましたが、それでも夫との夫婦生活はとても充実じゅうじつしていて幸せだったことを知りました。そして溥儀ふぎが子供のような純粋な心を持ったやさしい人だということも理解できました。

李淑賢り しゅくけん は大変まずしい家庭に生まれ、少女時代は苦労をしたそうです。いちど結婚けっこんをしたが、最初の結婚はうまくいかず離婚りこんしたそうです。身分が違いすぎるとはいえ、最初の結婚生活がうまく行かなったところは溥儀と同じでした。

それから、バツイチの彼女の元に縁談えんだんが持ち上がりました。そのときの相手がラストエンペラーことruby>溥儀ふぎだったのです。

さいしょ、李淑賢り しゅくけんは最初の結婚生活でりている上に、「相手が自分とは身分がちがう人だから、結婚なんてとてもとても」と思っていたようです。


結局、元皇帝の溥儀ふぎと一般人である、李淑賢り しゅくけんは結婚をすることになりました。溥儀ふぎ皇帝こうていだったので、人にやってもらうことはあっても、自分で何かをするなんてことはありませんでした。だから、炊事すいじ(※1)だとか縫い物ぬいもの身支度みじたくなどが満足にできません。顔を洗うときも周りを水だらけにして、上着までびしょぬれにしちゃうほどだったとか。ご飯を食べるときもボロボロこぼしたといいます。

そんな溥儀ふぎを妻の李淑賢り しゅくけんはがんばって彼をサポートしました。まるでダメ亭主ていしゅとしっかり者の女房にょうぼうのようですが、それでも二人は幸せだったようです。

溥儀ふぎは妻の李淑賢り しゅくけんことを死ぬまで気づかったようです。溥儀ふぎ何不自由のない皇帝の生活よりも、平民で決して豊かとはいえないが、今の結婚生活のほうが幸せだと語っていたそうです。

しかし、そうした二人の幸せな生活も長くは続きません溥儀ふぎもガンにかかってしまったのです。しかも、溥儀ふぎが病気になった時期というのが、悪いことにちょうど文化大革命の真っ最中でした。昔、皇帝だったという理由と満州国皇帝として日本に協力したという理由で、満足な治療が受けられなかったそうです。

文化大革命というのは、毛沢東が党内で権力闘争をおこし、その余波が中国国民にも及んだ出来事です。それは、1965年から10年間続きました。この時期、先生だとか親だとかともかくエライ人がきらわれた時代でした。紅衛兵こうえいへい(※2)と呼ばれる若者達は、先生だとかエライ人たちをリンチしたのです。

https://www.youtube.com/watch?v=9DjOrC_PGWI&feature=youtube_gdata_player
(紅衛兵のことが出てくる動画)




※1 食物を煮たきして調理すること
※2 中華人民共和国の文化大革命時期に台頭した全国的な青年学生運動。毛沢東を支持し、教師だとか親だとか権威的なものを攻撃した。

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星野源さんとガッキーこと新垣結衣さんがご結婚されるそうですね。おめでとうございます!まさか「逃げ恥」でドラマ共演をされ、本当に夫婦になられるとは思いもよりませんでした。夫婦を超えてほしいです。コロナが流行る不穏な時代だからこそ、明るいニュースはよいものですね。いつまでもお幸せに。

僕のブログでも、著名な夫婦のお話をしたいと思います。僕はまだ独り身ですが、記事を書いて少しでも、あやかれるようにと願いと、こういう先行き不安な時代だからこそ家族の絆が問われるんじゃないかとおもいましてね。今日は愛新覚羅溥傑あいしんかくらふけつひろのカップルです。続きを読む
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