history日誌

ジャコバン派が権力を握るようになったものの、国内では内乱、そしてヨーロッパの国々と戦わなければいけない状況。そんな状況を打破するには、強力な権力をもった政府が必要になってきます。それでジャコバン派がとったのが恐怖政治。

意外なことかもしれませんが、恐怖政治を望んだのは民衆でした。民衆は長い間自分たちを苦しめてきた、貴族や強欲な商人たちをこらしめたかったのです。小泉政権のときだったか、民主党政権の時代だったか忘れましたが、ある若者が「戦争になってほしい」とつぶやきました。なんともおそろしい発言ですが、その真意は議員や勝ち組が苦しんだり、地位をうしなったりするのならいっそのこと戦争になったほうがよいということです。当時のフランス人はその若者と同じ心境だったのでしょう。

本来、合法性の人だったロベスピエールは、民衆のそうした動きをできるだけ抑えようとしました。しかし、そんな民衆の動きにのる気になったのは、あまりにも反革命派勢力の態度が頑強だったからです。そのことにロベスピエールはキレてしまったのでしょうね。ロベスピエールははじめは死刑に反対していました。しかし、次第に革命に反対するものは処刑にしてもかまわないと思うようになったのです・・・・

恐怖政治がはじまったのは1793年秋でした。そのきっかけになったのはその年の9月におこった民衆蜂起でした。食糧問題や外国との戦争などいろいろなことでいらだった民衆たちの蜂起でした。国会は生活必需品の「最高価格法」とともに「疑わしいものたちに関する法令」を可決しました。

この「疑わしいものに関する法令」の「疑わしいもの」についての定義があいまいだったため、ほとんどだれでも「疑わしいもの」として逮捕したり、処刑にすることができたのです・・・






※ 参考文献


1 マラーの暗殺
 ジャコバン派とジロンド派は対立は深まるばかりでした。両派は激しく主導権争いをしていましたが、その決着をつけたのは民衆でした。1793年6月2日、武装した民衆が国会を包囲したのです。8万の民衆がなんと60門の大砲をひいてやってきたのです。「革命がおこったが、一向におれたちの生活はよくならない!」と民衆は怒ったのです。ジロンド派は民衆の味方というよりもブルジョワつまり勝ち組のための政治を行おうとしていましたから、農民の暮らしもよくなりません。民衆にとっては敵でしかありません。民衆の敵といえば、そんな名前のドラマがありましたねw


また、ジロンド派とジャコバン派の間には中間派というグループもいました。はじめは中間派もジロンド派についていたのですが、次第にジャコバン派になびいたのです。そんなこともあって、ジロンド派の主だった議員は国会から追放されました。そうしてジャコバン派は権力を握るようになったのです。

そんな政府がゴタゴタしているなか、フランス各地の地方都市で内乱が起こりました。日本の室町時代末期〜戦国時代もそうですが、為政者がゴタゴタと権力争いをしていると、国内は乱れるもの。

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そんな状況の中で、事件がおこりました。ジャコバン派の中心的人物の一人だったマラwマラーが殺されたのです。マラーを殺したのはシャルロッテ・コルデという女性です。シャルロットはマラーのマラを切ってw、マラーを浴室で刺したのです。

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        (マラー暗殺の絵)

ジロンド派の幹部が国会から追放されたのは、シャルロットの目には混乱の極みと映りました。これはマラーのせいだ、マラーさえいなくなればフランスは平和になると彼女はかたく信じておりました
たしかに、マラーはひごろから過激な発言が目立ち、ロベスピエールさえも顔をしかめるほどでした。マラーは日本でいえば、政見放送で「NHKをぶっこわす」とのたまう議員さんみたいなものですw


シャルロットは、俗世間的なさまざまなしがらみとは無縁の純な女性だったといいますが、純粋すぎるゆえに残酷な一面もあったのでしょうね。そのシャルロットは事件の4日後に、革命裁判所で死刑判決をうけ、即日処刑されたといいます・・・

2 ユートピアのような社会を
 ジャコバン派が議会で力をつけていきました。その中心人物はロベスピエール。しかし、国内では革命のゴタゴタが収まらない状況の中、外国と戦わなければいけないという厳しい状況でした。そこで革命政府は、1793年8月23日に「大徴用令」を発令し、戦争のために民衆を総動員できる体制を整えました。そして、1793年10月10日には「フランス政府は和平達成時まで革命的である」と宣言し、強権的な態度を政府はとるようになりました。中央集権化も強化され、内乱の鎮圧と、外国との戦争も勝利しなければいけない、そんな難しいかじ取りを革命政府はおこないました。

内乱鎮圧と戦争遂行をする一方で、革命政府は内政もしっかりやりました。1793年7月17日に封建制度の無償廃止が宣言されました。これにより、貴族の土地の所有権が農民に譲渡されました。ただ、貧しい階層にはいきわたりませんでしたが。また、「1793年憲法」では「労働権」「教育を受ける権利」なども明記されるなど国民生活のためにさまざまな権利も保障されたのです。

また、民衆のために様々な食料政策をおこないました。悪徳商人を取り締まったり、生産者の食糧隠匿を摘発し、流通を促したり、公営の倉庫を設置し、食糧不足に備えたり。


3 ヴァントーズ法
 また革命政府は「ヴァントーズ法」という法令を採択しました。この法令は1794年2月末から3月はじめにかけて採択されました。これによって、貧しい人たちにも最低限の財産を分け与えようとしたのです。この法令をすすめたサン・ジュストは「国家の中に、ただひとりの不幸な人も、ただひとりの貧しい人も存在してはならない」といいました。すばらしいですね。

しかし、この法案の中身をよくよく吟味すると、結構ひどいものでして・・・ これは反革命容疑者の財産を没収して貧しい国民に分配するというもの。このヴァントーズ法でもわかるようにジャコバン派による徹底した反革命者にたいする対応はいつしか恐怖政治とよばれるようになり、犠牲者が次々にでてくるのです・・・
 
革命政府のリーダーであるロベスピエールは理論的にはこの法律を支持しましたが、実施するための支援を欠くことが明らかになり、法律を施行するための努力は数カ月のうちに終了しました。

※ 参考文献






1 イノシシ年なのに豚のお話
あけましておめでとうございます。今年も皆様にとって良い年になりますように。ことしは亥年です。つまりイノシシ年ですね。しかし、十二支の本場中国では亥年の亥はイノシシのことではないそうです。亥年の亥はブタだそうです。つまり、本場中国では亥年はブタ年なんですね。中華料理にはブタ肉を使う料理がたくさんありますね。餃子もそうですし、春巻、麻婆豆腐もそう。あと回鍋肉とか。



ブタはイノシシが家畜化された動物ですが、その歴史は意外に古く、紀元前6000年くらいからブタは存在しておりました。日本でも弥生時代にブタが飼われていたという文献があるようですが、ブタが飼育される風習は日本では長らくなくて、日本人はイノシシをとって食べていました。今でこそ肉屋やスーパーに行けば豚肉が買えますが、大昔はブタなんて非常に珍しく、日本人にとってブタよりもイノシシのほうが身近な動物だったんですね。

さて、今日はブタの話を続けたいところですが、去年の終わりからフランス革命のことを書き続け、まだフランス革命のお話は終わっていないので、そのまま話を続けます。かといってブタの話にまつわるお話ももうちょっとしたいのでw、フランス革命とブタを結び付けるような話、たとえばルイ16世が豚肉がすきだったとか、そんな秘話はないかとぐぐってみました。

そしたら、ありました。ブタにまつわる話が二つありました。一つは、ルイ16世が革命から逃れ逃亡をしているときに、豚足料理を食べたというエピソード。もう一つは、フランス革命期にルイ16世がブタに描かれている風刺画がはやったこと。ちなみにアントワネットは蛇でした。つまり、国民の血税をむさぼり、うまいものばかり食っているヒドイ王様だといいたいのでしょう。


2 本当に嫌われていたか?

 それではルイ16世は本当に国民から嫌われていたのでしょうか?ルイ16世を嫌っていた国民は「ざまあ」と思ったかもしれません。しかし、ルイ16世とアントワネット夫妻を日本の天皇皇后両陛下のように慕う国民もすくなくなかったのです。ルイ16世ファンの女性は王が処刑されたと聞き、セーヌ川に身を投げ、ある本屋は発狂し、昔役人をしていた男はショックのあまり死亡したといいます。

ルイ16世は「無能な王」だとか「でくのぼう」といわれていますが、実際はそうでもなかったのです。むしろ英明で、時代がもっと平和な時代だったら、名君とよばれていたかもしれないのです。

彼は1754年、ブルボン朝にルイ15世の孫として誕生します。幼少のころから自分の容姿に自信がもてず、 口下手で引っ込み思案な性格でした。一方彼の兄であるブルゴーニュ公は、活発で両親からも愛され、将来は王家を継ぐはずでした。しかし、ブルゴーニュ公は結核で死去。それで王位はルイ16世にまわってくるのです。 ルイ16世も「自分に王位はつとまるだろうか」と不安がるのです。しかしルイ16世は幼いころから勤勉で、帝王学も学んでいました。 そして何よりも優しい性格で、国民のことも第一に考えていました。歴代の王様は国民のことを考えないで身勝手な人が多かったのですが、ルイ16世は違ったのです。

3 錠前づくりは家訓のひとつ
 ルイ16世の趣味は狩猟と錠前づくりした。狩猟は当時の貴族や王様にとっては当然たしなむものでした。貴族と付き合うためにも王は狩猟を覚えておく必要があったのです。接待ゴルフならぬ接待狩猟ですね。

ルイ16世が扉の錠前づくりをするようになったのか、彼の趣味というより、ブルボン朝の伝統にのっとっただけでした。実はブルボン朝の人間がなんでもいから手作業を何か一つ覚えて、それを趣味にしなさいという家訓があるのです。面白い家訓ですね。伺った見方をすれば、手に職をつけておけば、王家が滅ぼされたとしても、王家の人間が食うに困らないだろうということかもしれません。

趣味の錠前づくりばかりしているアホな王様というイメージが世間にはあるのですが、実際はちがうのです。むしろ国民思いで改革にも熱心だったのです。国王が熱心に改革を行おうとしたからからこそ、三部会開催など物事がポンポン進み、それが皮肉にも革命の糸口を開いてしまったという専門家もいるほど。

フランス革命がおこったとき、ルイ16世は事の成り行きを楽観視していました。軍隊をだせば何とかなると思っていたのです。もし、ルイ16世が革命の芽を早めにつぶしていれば、フランス革命は怒っていなかったかもしれません。しかし、これはルイ16世が無能というより、当時の人たちが革命が起こるなんて想定外のことなのです。たとえは悪いけれど革命は「シンゴジラ」みたいなものです。いきなり東京湾からゴジラがあらわれ、東京の街を襲撃したようなものです。それくらいショッキングで想像もできないようなことが起こったので、当時の王家や貴族たちは右往左往したことでしょう。

また、ルイ16世は気が弱い面もあって、周りの人の意見に振り回されやすいところもありました。良くも悪くもルイ16世は調整役みたいな人で、トランプ大統領みたいに強力なリーダーシップなどありません。そういう彼の性格もまた災いしたのかなって思いました。

※ 参考文献







1 買った覚えのない首飾り
 今年も残すところ、あと1日となりましたね。月日が経つのも早いものです。僕のブログも来年で10周年を迎えます。飽きっぽい僕がよくも10年ちかく続けたと我ながら感心してしまいますww

今年最後のエントリーは、「マリーアントワネットの首飾り事件」です。前回はルイ16世が処刑(1793年1月)されるお話をしましたが、きょうのお話はそれよりも前にさかのぼります。この事件が起きたのは1785年です。この事件によってアントワネットの評判を下がり、国民の反感も買ってしまったのです。

事件の発端は、ルイ16世の先帝ルイ15世の時代です。ルイ15世が生前デュ・バリー夫人に贈るために注文したという、ダイヤモンドの首飾りでした。しかし、ルイ15世が亡くなったために、この首飾りの買い手がいなくなったのです。それで、宝石商ベメールは、マリーアントワネットのところにセールスにやってきます。

アントワネットは首飾りの輝きに目を奪われますが、その値段が160万リーブルだときくと思わず仰天。それもそのはず、160万リーブルは日本円にして約192億円にも上る金額。さすがのアントワネットも、その場で購入を拒みました。

しかし、後日アントワネットの元へベメールから首飾りの代金の支払い催促状が届きます。おかしいですね、買った覚えのないのに、代金を払えなんて。アントワネットはそのベメールからの催促状を燃やしてしまったといいます。そりゃそうですよね。しかし、のちにアントワネットに恐ろしい災難が降りかかるとは、そのときのアントワネットは思わなかったでしょう。

2 大司教ローアン
 1785年8月15日、事件は明るみに出ます。宝石商ベメールがアントワネットに首飾りの代金支払いを求め、直接訪ねてきたのです。不審に思うアントワネット。しかし、アントワットが知らぬ間に、アントワネットの名をかたった別の人物が契約をし、首飾りを購入していたのが判明したのです。

そして、逮捕者もでました。初めの逮捕者はローアン大司教。かれは大司教でありながら女好きで、アントワネットも嫌っていました。しかし、ローアンはアントワネットをものにしようと狙っていて、しつこくすり寄っていたのです。

ローアンが逮捕されたのは、首飾り購入の契約書に保証人のサインをしていたからです。当初はローアンがアントワネットの署名を偽装し、ベメールに契約書を渡したものと思われていました。が、実際には、ローアンは保証人としてサインするように即され、彼もまた騙されていただけだったのです。

3 事件の黒幕
 この事件には黒幕がいました。それがジャンヌ・ド・ラ・モット伯爵夫人です。ジャンヌは貴族バロア家における最後の当主と女中の間にうまれた不義の子でした。彼女こそが、アントワネットが首飾りを欲しがっているとローアンに吹き込み、彼を保証人にたて、まんまと首飾りを手に入れた犯人だったのです。

宝石商ベメールがアントワネットに首飾りを売りたがっているのを知ったジャンヌは、ローアンに契約のことを持ち掛けます。ローアンはアントワネットに近づきたかったから。ジャンヌはローアンを利用し、より高い地位と財産を手に入れようと、かねてよりアントワネットを騙ったニセのラブレターをローアンに渡したり、アントワネットのそっくりさんの女性をローアンに会わせたり、いろいろやっていました。ローアンはアントワネットが自分に気があると思い込むようになりました。

しかし、首飾り購入の件は、すべてジャンヌの仕組んだ詐欺事件であることが発覚。アントワネットは事の真相をしり、大激怒。ローアンそしてジャンヌを裁判にかけたのです。そして翌年の1786年に判決がくだります。なんとローアンは無罪。

一方のジャンヌは、「証拠がない」と反論し続けました。でも、ジャンヌはすでに首飾りの540粒のダイヤをばらばらにし、ヨーロッパ各地に売りさばいていたのです。たちが悪いですね。ジャンヌの判決は終身禁固が命じられた上に、ジャンヌの両肩にドロボウの頭文字であるVの烙印を押されることになりました。フランス語でドロボウを「voleur」(ヴォルール)というそうです。その後、ジャンヌは何者かの助けで脱獄し、亡命先で回想録を何冊も書きました。そこには事件のすべての犯人は王妃であるという事実無根の事柄が書き連ねてあったのです。その回想録こそ「アントワネット醜聞伝」です。まさに逆恨みもいいところですね。


しかし、一般国民たちはジャンヌのことを信じてしまうのです。ジャンヌよりむしろアントワネットのほうが悪者になってしまったのです。「俺たちだって食うに困っているのに、アントワネットは高い首飾りを買って贅沢をしている」と反感を買っていたのです。なんだかアントワネットがかわいそうです。この事件が、アントワネット処刑になった理由の一つだと思うと、やるせません・・・

4 今年もお世話になりました
 僕は10月くらいからフランス革命のことを書かせていただきましたが、今年ほどフランスが話題になった年はないですね、悪い意味で・・・僕が安全な日本でフランス革命のことを書いているときに、フランスで大きな動きが起こっている。なんか複雑な気分です。

フランス全国で繰り広げられているマクロン政権に抗議するデモの動画を見せていただきましたが、かなり大規模で、僕もショックを受けました。日本の原発反対デモなんてかわいいものですね。

また、日産のゴーン会長の逮捕も衝撃を受けましたね。彼が日産の改革をしたときは、みんな天まで持ち上げたのですが、逮捕になったとたんに大悪人になってしまった。僕もゴーンはがめつい奴だとは思いますが、この手のひら返しは何?っておもいましたね。

ともあれ、今年もお世話になりました。最後に今年の干支のワンちゃんのかわいらしい動画をみてお別れしましょう。来年もよいお年を。




※ これらの本を参考にしました







1 サン・ジュストの演説
 ジロンド派とジャコバン派は、ことあることに対立してきましたが、そんな状況の中、11月のルイ16世の裁判がはじまったのです。ジロンド派は共和制には賛成だが、国王の処刑には反対。一方のジャコバン派はルイ16世処刑を訴えます。ジロンド派もジャコバン派もどちらも共和制には賛成でしたが、国王をどうするかについては意見が激しく対立したのです。

ジャコバン派のサン・ジュストは演説の国王処刑を訴えました。サン・ジュストはそのとき25歳、最年少議員で、議会で演説するのははじめてだったそうです。しかし、議会の演説が初めてとは思えないくらい、その演説は歴史に残るものだといわれております。サン・ジュストいわく、

「いかなる幻想、いかなる習慣を身にまとっていようとも、王政はそれ自体が永遠の犯罪であり・・・一国民全体の無知蒙昧むちもうまいさによっても正当化され得ない不法行為のひとつである。・・・秘湯は罪亡くして国王たり得ない・・・国王というものは、すべて反逆者であり、簒奪者さんだつしゃである。]


この演説に議員たちはぐうの声も出なかったといいます。サン・ジュストは日本でいえば田中角栄さんや小泉純一郎さん、ガンダムでいえばギレン・ザビのように演説がうまかったのでしょうね。

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(サン・ジュスト)

2 ガマンの告白
 サン・ジュストの演説によって議員たちの心は動かされましたが、それだけでは国王処刑になりません。議会が国王処刑に傾いたのは、国王の機密文書が見つかったからです。その秘密文書には、国王が反革命派と連絡を取り合っていたことが書かれておりました。その秘密文書は宮廷の隠し戸棚に入っていたのですが、フランソワ・ガマンという人物の告白により、その文書が見つかってしまうのです。ガマンとは、錠前づくりが趣味のルイ16世の師匠でした。ガマンの家は祖父の代から宮廷御用達の錠前屋をしていたのです。1792年の8月10日の政変以降、ガマンはもんもんとしていたのです。

もし隠し戸棚がみつかったら、自分はいったいどうなるのだろう?重要機密文書を隠すのに手を貸した自分は逮捕され、最悪の場合は処刑されるだろうと。しかし、国王を裏切りたくない。そんなことを考えていたガマンは夜も眠れなかったといいます。ガマンは機密文書のことを議会に言うか、ずいぶん迷ったといいます。そして、我慢wができなくなったガマンは11月20日に内務大臣ロランに面会し、すべてを告白しました。

そして、ガマンの言う通り、戸棚から機密文書がみつかったのです。書類が見つかったのはサン・ジュストの演説から一週間後のことです。この秘密文書は国王がフランスを裏切った重要な証拠となりました。


3 国王の死刑決まる

 1792年12月11日に国王の裁判がはじまりました。被告人のルイ16世も二度議会にきて発言しました。ルイ16世は「自分の良心は一点のくもりもない」と言い切り、終始一貫して落ち着きを払っていたといいます。年をこした1793年1月15日、審理が終わり採決に移りました。

全会一致でルイ16世は有罪となりましたが、どんな刑にするかはまだ決まりません。

その刑をめぐり、16日夜から17日夜までまるまる一昼夜をかけて行われ、結果は死刑387票(ただ執行猶予つきが26票含まれる)、追放・幽閉が334票でした。そのため国王の死刑が決まりました。意外にも大差で国王の処刑が決まったわけではなかったのです。

そして1793年1月21日、処刑場の革命広場(現在のコンコルド広場)にルイ16世は連行され、ギロチンの前に立たされます。その様子を多くの人々が見ております。そして、ルイ16世はみんなに語り掛けました。


「フランス人よ、あなた方の国王は、今まさにあなた方のために死のうとしている。私の血が、あなた方の幸福を確固としたものにしますように、私は罪なくして死ぬ」


そして、ルイ16世がギロチンにかけられ無残になくなったといいます・・・

ルイ16世は最後まで平静な態度だったといいます。それはルイ16世が信仰心があつかったからだといわれております。自分はあの世では正しい裁きを受けられるからだと思ったといいます。ルイ16世は来世の存在を固く信じて死んでいったのかもしれません・・・


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