history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

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1 大和の概要
今日から数回にわたって戦艦大和のお話をします。あいにくメカニック的なことは僕はわからないので、戦艦大和をめぐる人間模様をお話しできたらなって。僕も戦艦大和の本を読ませていただいたのですが、色々数字が出てきて頭がこんがりました。軍事を語るにはある程度数学がわからないときついなって。僕は子供の頃から数学が苦手でして・・・とは言いましても、ある程度は戦艦大和がどんな戦艦だったかを語る必要があると思いして、今日が乏しい知識ながら語らせていただこうかなと。

戦艦大和の全長は263メートル、排水量は6400トン、最大幅38・9メートル、高さも十八階建のビルに相当するなど、当時の戦艦では世界最大と言われております。と言いましても、僕は実際に大和の現物を見たわけじゃないので、どれくらい大きいのか見当がつきません。ですが、以前に広島県の大和ミュージアムに訪れたら、びっくりしましたね、戦艦大和の模型があって、それがでかいこと、でかいこと。この模型は実物の10分の1だそうです10分の1でもこのデカさなのですから、いかに大きいかがわかります。

戦艦大和で目を引くのは主砲です。大和の主砲は、46センチ砲で、その長さは25メートル、重さは160トン、その主砲が砲塔に3門ずつあり、さらに砲塔が3基あって、合計主砲が9門あるのです。ちなみに砲塔一基の重さが2700トン。弾丸を積むと3000トンの重さになったそうです。これは当時の大型駆逐艦一隻分の重さに相当するそうです。そんな重いものが3基もあるのだから、いわば大和は大型駆逐艦を3隻も乗せているようなものです。

主砲が放つ砲弾の飛距離は42キロです。42キロと言ったら大坂から京都までの距離に匹敵します。結構すごいですね。アメリカ艦隊の主砲が放つ砲弾の飛距離が38キロですから、飛距離もアメリカのそれよりもスゴいのです。飛距離だけでなく威力もすごいのですね。40センチを超える装甲を打ち破るほどの威力だそうです。砲弾を放った時の爆風でさえ、戦闘機を壊してしまうほどの威力。爆風に当たらないように、大和の戦闘機の格納スペースは戦艦大和の艦内にあるのですね。普通の戦艦の戦闘機収納スペースは外にあるのですが、それだけ爆風がすごかったのです。

また防御も完璧で、ちょっとやそっとの攻撃にも耐えられるし、艦内に1147の防水区画があり、魚雷で攻撃されてもすぐには沈まないように設計されております。タイタニック号の防水区画はたったの17区画しかないのですから、いかに大和がすごいかが分かります。また、大和には注水設備があって、左右のうち、片方が攻撃されて穴が開いても、反対側に海水を入れて艦の水平を保つことができたのです。

大和に配属されることになった乗組員は、その時上官にこう言われたそうです。「大和は絶対沈没しない、あれが沈没したら日本は沈没する」と。それくらい、大和は不沈艦だと信じられていたのです。しかし、どんなに素晴らしい艦体であっても、人間が作ったものである以上、絶対に壊れないという保証はありません。その乗組員が大和に乗った数日後に大和は悲壮な最後を告げるのです・・・


そして、その戦艦大和は現在、九州沖の北緯三十度、東経百二十八度四分、水深345メートルの地点に沈んでおります。北緯だとか水深なんとかメートルと言われてもピンとこない頭の悪い私でありますがw、今も海に沈む艦体、そして大和に乗り込んで亡くなった人たちを偲ばずにいられません。

2 福田啓二
 戦艦大和が建造された経緯は、第一次世界大戦後、1922年(大正11)に開かれたワシントン海軍軍縮条約までさかのぼります。この条約で軍拡競争に歯止めをかける為、各国の戦艦と航空母艦の保有比率を決められました。例えば、アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアのそれぞれの割合が、5、5、3、1・67、1・67とされました。さらに10年間の建造中止も決まりました。この条約が不公平だと国内で不満が高まったのです。数値だけ見ていると、日本だけが特別不平等な条件を飲まされたわけではないのですが。

それから1931年(昭和6)には満州事変が勃発ボッパツ。領土拡大を目指す、日本は軍備拡大を目指したのです。軍部の間でも、「屈辱的クツジョクテキな不平等条約を破棄ハキすべし」という声が高まったのです。

そして1934年(昭和9)に、ある極秘の指令がある男に下されたのです。福田啓二。当時の造船大佐でした。その指令は世界最大の46センチ砲を搭載した不沈戦艦を設計しろというもの。つまり大和です。福田は高ぶる気持ちを抑えられなかったのです。軍縮条約以来、新たな船を造ることができず、仕事といったら船の修理とかでしたから。だからこそ、この国家プロジェクトに福田は乗ったのです。その時の福田の言葉が、

「我々はこの瞬間こそ鶴首カクシュして待ちわびていた」


福田にとって、頭を抱えたのは、その大和の重量です。主砲9門(3砲塔)の重さだけでも重量1万トン以上。これだけの主砲を搭載するには、どれくらいの大きさが必要か。福田にとっては未知の領域。それでも、福田は部下たちともに来る日も計算をし続け、最終的に6万5千トン必要だということがわかった。それは当時最大の軍艦だった長門の2倍の大きさでした。

それから福田は大和の模型を作り、様々な実験を行いました。東京目黒にある防衛省技術研究本部がありますが、ここでは当時、海軍の造船研究が行われおり、福田が実験に使った研究施設が今も残っております。大水槽と名付けられた実験用プール(全長およそ250メートル)があり、このプールに福田は模型を浮かべては、抵抗測定などを繰り返していたのです。そうして福田たちが基本的な大和の設計をし終えました。その時福田は「建造可能の最も優れた船になるだろう」と思ったそうです。そんな福田の元に1人の男がやってきます。山本五十六です。

3 山本五十六
山本はこういいます。

「どうも水を指すようですまんがね。君たちは一生懸命やっているが、いずれ近いうちに失職するぜ。これからは海軍も空が大事で大艦巨砲(※1)はいらなくなるんだから」


山本は巨大戦艦は無用の長物となると言いたかったのでしょう。戦争の主役は戦闘機になると見抜いていたのです。実際、大和はアメリカの戦闘機の攻撃になすすべもなかったのですから・・・

そして1934年(昭和9)はワシントン海軍軍縮条約を脱退。アメリカと日本はお互いに仮想敵国とみなし、せっせと戦艦建造を始めたのです。そんな軍拡競争を1人の男が憂いていたのです。山本五十六です。山本は、2年間アメリカに滞在していたので、アメリカの工業力をよく知っていのです。

「デトロイトの自動車工業とテキサスの油田を見ただけでも、アメリカ相手に無制限な建艦競争など始めて、日本の国力で到底やりぬけるものではない」と思ったそうです。


山本の心配をよそに、1940年(昭和15)8月8日、戦艦大和は完成。極秘で進水式が行われました。音楽隊の演奏もない密やかなものだったそうです。本来なら天皇の臨席もあったはずなのですが、それもなし。関係者だけの寂しいものだったそうです。その時、呉海軍造船部長だった庭田尚三は秘密裏に行われた進水式になってしまったことを悔んだと言います。

「人の子の誕生は、その一生の幸多かれと、できるかぎりの祝福をしてやるのが親たるものへの愛情である。艦船の進水式もこれと全く同じで、盛大に行われるのが普通である」とし、「大和の生みの親として不憫でならない」と戦後、庭田は振り返ったとか。

大和が完成した時、大和を設計した福田啓二は「私はとめどなく涙が出て仕方がなかった。それは大和建造に従事したものでなければわからない激情だ」と語ったとか。最初は大和建造に冷ややかだった山本五十六も完成した大和に乗ったところ、「これならやれるかもしれない」といったそうです。それくらい大和の能力を高く評価したのですね。


一方で、この大和を見て喜ぶどころか不安に思う人も少なからずいました。ある大和の元乗組員は「デカすぎる。大丈夫だろうか。敵からみたら、いい的だ。」と逆に大和の大きさに不安を抱いたと言います。事実、大和と同じタイプの大型戦艦は敵から見たら的を当てやすかったようです。レイテ沖海戦で、武蔵(大和型戦艦)に攻撃を仕掛けた電撃機体の隊長アントワープはのちに「そのとき私の心を捕らえたものは、あの艦の長さだった。実に長くて、およそ的を外しようにもなかった」と回想しています。




*1 海軍の主力は戦艦であるという考え方。その思想に基づき、戦艦と主砲が巨大化した。





1 最近、「忠臣蔵」をやらなくなった理由
 最近、「忠臣蔵チュウシングラ」のドラマ化されませんね。僕が学生この頃は毎年、12月になると「忠臣蔵」のドラマをどこかしらで放送していたのですね。それが最近はパタリ。最近、映画で「決算忠臣蔵」をやったのですが、それくらいですかね。でも、CSの時代劇チャンネルとかをみていると「忠臣蔵」のドラマ(再放送)や映画をやっております。テレビではともかく歌舞伎カブキでは「仮名手本忠臣蔵カナデホンチュウシングラ」という題で、今でも上演しております。ただコロナ禍で、なかなか上演が厳しい状況みたいですが。ともあれ、今も「忠臣蔵」は人気があります。毎年、12月15日に泉岳寺に行くと、参拝客がいっぱいで、おハカにささげる線香センコウけむりがすごくて、目が痛くなるくらい。

それにしても、「忠臣蔵」のドラマをやらなくなったのはなぜでしょう?理由がネットに載っていて、謎が全て解けました。(金田一少年かw)


その理由はとてもシンプル。お金がかかるから。

セットもお金がかかるし、とにかく人数が必要ですからね。あの広い吉良邸キラテイのセットを作るだけでも、お金がかかりそうですし。吉良邸だけでなく、松の廊下とかのセットとか、大石内蔵助オオシクラノスケが遊んだ祇園ギオン遊郭ユウカク、それから東下りで内蔵助が 瑤泉院 ヨウゼンインの屋敷も必要ですしね。戦国時代なら、見せ場が合戦なので屋外が多いですが、「忠臣蔵」の見せ場は屋内が多いです。

また出演者もやたら多いのも「忠臣蔵」です。四十七士もそうですが、浅野内匠頭アサノタクミノカミ、瑤泉院ほか赤穂方アコウガタ、徳川綱吉や柳沢吉保ヤナギサワヨシヤスら幕府側、吉良方、上杉方などたくさん出てきます。キャストの数も多くなるのも「忠臣蔵」の特徴です。俳優さんをたくさん集めるのですから、それなりの政治力も必要です。特にこれまでの「忠臣蔵」のドラマのキャスティングを見ても、本当に豪華キャストですからね。例えば、これまで大石内蔵助役を演じたのは、松本幸四郎さんとか、松平健さんとか、仲代達矢さんとか、この間お亡くなりになられた中村吉右衛門さんとか、そうそうたるメンバー。脇を固める俳優さんもこれまた豪華。ギャラも相当でしょう。

それでなくても時代劇はお金がかかるのに、「忠臣蔵」はとりわけかかるそうです。「忠臣蔵」のドラマを作ること自体が一つのプロジェクトですね。かつては「忠臣蔵」のドラマを作ることがテレビ局のステータスみたいなものでした。それが、テレビ局も今はあんまり予算がないから、作りたくても作れないのですね。


2 愛国心が薄れたからではない

 よく、ネットでは「最近の日本人は愛国心を失ったから『忠臣蔵』が作れなくなった」とか「義理人情や忠義心が薄れたことの象徴だ」なんてコメントも見かけますが、とんでもない間違いであり、5回じゃなかったw誤解です。

そりゃ確かに戦後間もない頃は、「忠臣蔵」の歌舞伎の上演やテレビがGHQから禁じられたことがありました。当時、軍国主義に関する本や芝居などが弾圧されたのですが、特に「忠臣蔵」は、その浪士たちの忠義心が非常に危険視されたのですね。しかし、「忠臣蔵」の人気は高く「忠臣蔵」をみたいという意見も少なくなかったのです。そして、昭和22年(1947年)7月その禁は解かれ、同年11月には空襲の難を逃れていた東京劇場で『仮名手本忠臣蔵』は上演されました。

最も、GHQの肩を持つわけじゃないが、忠義心も一歩間違えると危険な面もあるのですね。本来の忠誠心は、盲目的モウモクテキに主君に従うことではないと思います。別に浅野内匠頭のことを言っているわけじゃないですが、主君が悪いことや間違ったことをして、一緒になって家臣が悪いことをしたり、主君のまちがいを正せなければ、かえって武士道に反する可能性もある。

もちろん、忠誠心を否定するつもりはありません。日産の社長だったカルロル・ゴーンは「私は数々の組織や国の中で仕事をしてきたが、すべての日本企業のすべての社長がうらやましい。」と日本の社員が企業や社長に対して一種の忠誠心を持って仕事に励んでいることを称賛したのです。そのある種の忠誠心があるからこそ、大きなこともできたし、日本の発展に繋がったことも事実。しかし、それも限度があると。

島原の乱における、松倉家なんて典型ですね。苛烈カレツとも言えるキリスタン弾圧をしましたが、主君を意見を言う家臣はいなかったのかって。結局、家臣たちも同じように弾圧をしたり、農民をいじめたから、かえって一揆軍イッキグンの団結を招き、最終的に松倉家はお家断絶になりましたからね。現代でも、社長の周りにイエスマンばかりで、不祥事を起こした企業や、倒産したブラック企業だってありましたし。

実際に、討ち入りを手放しでマンセーするのは危険じゃないかって意見は江戸時代にもあったようですね。明治の頃、この事件を検証しようという動きがあったそうです。しかし、赤穂浪士を手放しでほめ、逆に「赤穂浪士の悪口を言う奴を許さない!」って空気があったようですね。

最も戦時中は、軍部当局でも、赤穂浪士の仇討ちは一封建的領主に対する忠義すなわち「小義」であり、日本古来の皇室に対する忠義である「大義」とは異なるものなので、これを推奨スイショウするのは好ましくないという意見が強く、国定歴史教科書でも赤穂事件の記述は縮小されたそうですが。

いづれにせよ、赤穂浪士の検証もまともにできないまま、吉良の子孫たちも、後ろ指を刺されながらも耐えに耐えてきたそうです。

3 上杉家の子孫たちの思い
 え?吉良に子孫がいるの?って意見が聞こえそうですが、もちろんいらっしゃいます。吉良家は確かに断絶しましたが、吉良上野介の息子が上杉家に養子に入った上杉憲綱ウエスギノリツナ。「忠臣蔵」では、討ち入りの際、父を助けようと武器を取るのですが、それを家老の色部に止められてしまいます。と言っても、その辺のお話はあくまで物語。史実は違います。上杉家には討ち入り直後の報告文書が残っており、それによれば「殿はお顔色も変えず『そうか』とおっしゃるのみだった」とあるようですが。

ちなみに、名君で有名な上杉鷹山も吉良の血が入っているのですね。

そして現在の上杉家の当主が、宇宙工学者で「はやぶさ」のプロジェクトでも指揮をとられた上杉邦憲博士。上杉さんは、「忠臣蔵」では吉良上野介が一方的に悪者になっていることに疑問を抱かれておりまして、ご専門の宇宙のお話だけでなく、吉良にまつわる講演もたびたびされております。邦憲さんは討ち入りを「テロそのもの」と断じております。赤穂浪士は完全武装しているが、吉良はほとんど丸腰、しかも浪士が吉良邸を襲ったのは夜中というので。

もちろん、当時の価値観と今の価値観は違うので、現代の価値観でもって、赤穂浪士をテロ集団だと断じるのも難しい側面もありますが、それを割り引いても、吉良義周キラヨシチカ処遇しょぐうはひどいなと。義周は、罪人として、鳥かごに入れられて信州に運ばれたのです。当時17歳で、病気になって20歳で亡くなったのですから。何も悪いことをしていないのに、かわいそうだなって。

一度、吉良や上杉家の立場から描いた映画やドラマを作るのも良いのではないかって思います。

4 NHKの大河では
ちなみにNHKの大河ドラマで「忠臣蔵」が扱われたのは4回です。1回目は1964年(昭和39)の「赤穂浪士」。2回目は1975年(昭和50)の「元禄太平記」、3回目は1982年(昭和57)の「峠の群像」、4回目は1999年の「元禄繚乱」(平成11)です。ちなみに、1995年(平成7)の「吉宗」にもちらっと忠臣蔵の話が出てきます。

1964年の「赤穂浪士」のテーマ曲はとても有名で、あの曲を聴くと「ああ、忠臣蔵だ」って思いますものね。大石内蔵助を演じられたのは長谷川一夫さん。吉良上野介を演じたのが滝沢修さん。長谷川さんを筆頭に豪華キャストをそろえたことは、当時の芸能マスコミやテレビ・映画業界からは「受信料でスターを集めた」というバッシングの対象にもなったそうですが、この「赤穂浪士」は高い視聴率により大きなダメージには至らなかったそうです。その視聴率というのが、優に30%を超え、浪士の討入りが放送された回には視聴率53.0%という大河ドラマ史上最高視聴率記録をも打ち立てたのですね。

1975年の「元禄太平記」は大石内蔵助が主人公ではなく、柳沢吉保が主人公。柳沢吉保視点で見た忠臣蔵という位置付けです。「忠臣蔵」では大石が討ち入りの際、山鹿流陣太鼓を叩くシーンが出てきますが、史実では太鼓なんて叩かないのですね。それで、本作品の討ち入りシーンでは陣太鼓が使われていません。柳沢吉保を石坂浩二さんが、内蔵助を江守徹さん、吉良を小沢栄太郎さんが演じられました。「元禄太平記」は実際に討ち入りがあった12月14日に、討ち入りの回をやったことでも話題になりました。

1982年の「峠の群像」は原作者の堺屋太一さんの観点を軸に、赤穂事件を現代的に描いたドラマです。赤穂藩断絶を現代の企業倒産になぞらえ、サラリーマンつまり赤穂の藩士たちがいかに行動したかを再考する作品となっております。内蔵助を緒形拳さん、吉良をなんと伊丹十三さんが演じられております。伊丹さんといえば「マルサの女」とか「ミンボーの女」とか映画監督のイメージが強いのですが、本職は俳優さんです。

1999年の「元禄繚乱」では内蔵助を中村勘三郎(当時は中村勘九郎)さんが、吉良を石坂浩二さんが演じられました。特に万年青年のイメージがある石坂さんが吉良をやるのも驚きだなって。「元禄繚乱」はリアルタイムで見てましたが、所々にコミカルなシーンがあって、ある意味異色作だなって思いました。「忠臣蔵」はどちらかというとシリアスな展開ですから。

最近の大河は戦国か幕末ばかりなので、そろそろ江戸時代もやってほしいなって。



1 有名な事件
 高度成長期の真っ只中、ある有名な事件が起こりました。いわゆる三億円事件。3億円事件はドラマ化もされましたし、『金田一少年の事件簿』でも事件をモチーフにした話も出てきます。それくらい有名な事件。警察はのべ17万人の警察をつぎ込んで、大捜査を行いましたが、犯人は見つからず。そして時効を迎えてしまいました。

事件のあらましは、昭和43年(1968)12月10日、場所は東京、府中刑務所前。その時、東京はバケツをひっくり返したような大雨。日本信託銀行の行員たちが、東芝府中工場で働く4523人分の社員のボーナスを車で運んでいたのです。そのボーナスは現在の価値で3億円の現金です。現金は三つのジェラルミンケースに入っていました。当時の3億円といえば現在の価値に直すと20億円に相当します。すごい大金ですね。ちなみに現金輸送車の車種は黒色のセドリック。

その日の9時15分、日本信託銀行国分寺支店からボーナスを運んだ輸送車は、府中工場へ向かいました。9時20分、府中工場からほど近い府中刑務所に近づいた時、警察官(❓)が白バイに乗ってやってきました。警官は、「巣鴨支店長宅が爆破された、この車にもダイナマイトがしかけられている」と。行員たちはいぶかしがりながらも、警官の指示に従い、車を降りました。すると警官は車の中を調べ出しました。そして、警官は「(ダイナマイトが)あった車が爆発するぞ!」と叫びました。白い煙がモクモクと車のしたから出てきます。あわてて行員たちは避難しました。そのスキを見て警官は車に乗り込み、車ごとボーナスを盗んだのです。この犯行時間はわずか3分。

しかも、ダイナマイトだと思っていたものは発煙筒。白バイも白いペンキを塗っただけのニセモノ。行員たちはまんまと犯人にだまされたのです。

「現金を運ぶなんてあぶねえな、だから盗まれるんだよ」って思うのは現代っ子の感覚。当時は今みたいに現金振込ではなく、給料もボーナスも手渡しだったのです。むしろ、この三億円事件がきっかけでk給料を現金振込にする会社が増え、今ではすっかり現金振り込みが定着したのです。

2 知能犯だった犯人
 それにしても、行員たちがあっさり騙されたのはなぜでしょう。実は3億円事件は突発的な犯行ではなく、事前に脅迫状が日本信託銀行支店長宛に届いていたのですね。それは事件発生の四日前。昭和43年12月6日のことでした。その脅迫状には支店長宅を爆破するってあるのですね。だから、行員たちは怖がっていたのですね。逆に言えば、事前に恐怖を植え付けられたことで行員たちは、白バイ警官に扮した犯人の言葉を信じてしまったのですね。ましてや行員たちは犯行予告を知っていたからこそ、警官が来たから安全だと逆に思ったのですね。

ましてや、昭和43年といえば学生運動や左翼の過激派の活動が盛んで、学生が火炎ビンを持って暴れる時代でした。有名な安田講堂事件もこの頃。だから、支店長自宅爆破が起こっても不思議じゃない雰囲気だったのです。だから、行員もびびってしまったのでしょう。

現金が盗まれという知らせをうけ、警察庁は現金輸送車発見のため、都内900ヶ所に検問を敷きました。しかし、それだけ大掛かりな検問をしても黒色のセドリックは見つからず。そして事件発生後から50分後に現金輸送車は発見されます。それは犯行現場から程近い、武蔵国分寺跡のやぶのなか。しかし、車内にはジェラルミンケースはなし。犯人は別の車に乗り換えたのです。その別の車というのが紺色のカローラだったことも後にわかったのです。だから、検問をやっても引っ掛からなかったのですね。こうしてみると犯人は知能犯ですね。

三億円事件の犯人はニセの白バイや発煙筒をはじめ多くの遺留品を残しました。さらに犯人が送った脅迫状の切手に唾液がついていて、その唾液から犯人がB型だと割り出すこともできたのです。そういうこともあって、警察は油断したのですね。「正月はゆっくりできる」と楽観ムード。

3 警察のミス
 しかし、警察はさまざまなミスをしたのです。まず現場から犯人のものと思われるハンチング帽。実は犯行に使われたバイクは、事件現場までボディカバーを引きずって走っていたことがわかったのですが、そのカバーの中から「ハンチング帽」が見つかりました。ハンチング帽に付着した汗などを調べれば犯人特定できたのですが、鑑定前に複数の刑事がふざけて、この帽子を被ってしまったのですね。これでは、鑑定不能にしてしまいます。

また警察は、事件当時に盗まれた紙幣ナンバーを公表してしまったのですね。犯人がこの紙幣を使えば足がつくと踏んだのですが、それが裏目に出たのです。

盗まれた、お札の枚数は4万506枚でした。内訳は、一万円札が2万7千369枚。5千円札が2千161枚、千円札が8千785枚、500円札が2千191枚です。昔は五百円玉ではなく、500円札なんてあったのですね。また普通、銀行は仕分けが終わってから、お札の札番号を控えておくのですが、控えてあったのは、なぜか500円札のぶんだけ。だから、それ以外のお札の番号が控えていないのです。で、警察はその500円札およそ二千枚分の紙幣ナンバーを公表してしまったのです。しかし、三億円を手に入れた犯人からすれば500円札を使わなければいいじゃん♪って思うわけです。だからナンバーが公表された500円札は未だに一枚も見つかっておりません。

そして警察が血眼になって探したのが、犯人が逃走に使った車です。その車というのが紺色のカローラ。盗難車でナンバーは「多摩5 ろ 35ー19」。その車は「多摩五郎」というニックネームがつけられました。そして警察は、三多摩地区に土地勘があり、その盗難者は小平市にある多摩霊園に隠したと睨んだのす。しかし、それは何の根拠もないのです。犯人が土地勘があるからと言って、多摩地域に隠したら逆に足がついてしまいます。結局、多摩霊園から逃走車が見つからず。時間と労力を無駄にしただけでした。

結局、多摩五郎は事件の現場からほど近い集合住宅の駐車場でした。車内からは空のジェラルミンケースが出てきました。

そして昭和44年(1969)に捜査の神様と言える平塚八兵衛が投入したものの、結局時効を迎えてしまうのです。

4 怪しい少年
 実は警察は犯人だと目星をつけていた人物がいたのです。 少年S。少年Sは19歳。事件発生直後から捜査線上に上がっていて、立川の非行少年グループのリーダー格だったのです。父親が白バイ隊員でした。その少年がお札のようなものを燃やしていたという近所からの情報があったのです。少年がお札らしきものを燃やしたのは警察が盗まれた紙幣ナンバーを公表した日の翌日です。捜査員たちが、早速捜査に向かった矢先、少年Sはその年の12月15日に服毒自殺をしたのです。

そして三億円事件といえば、あのモンタージュ写真。あの写真は少年Sにそっくりなのですね。警察はなんと自殺した少年Sに似た顔写真を使ってモンタージュ写真を作成していたのです。その写真を公表し、町の至るところに貼られました。効果は絶大。モンタージュ写真と似た顔の人物を見たという問い合わせもたくさん来たのですが、結局犯人は見つからず。

ちなみに平塚八兵衛は、少年Sをシロと思っていたのですね。脅迫状についた唾液から犯人はB型のはずなのに、少年SはA型、さらに脅迫状と少年Sの筆跡は違うと。

それからたくさんの人が容疑にかけられ、尋問もされましたが、結局犯人は見つからず。

この事件は、政府の自作自演だという説があります。当時、学生運動や左翼の活動家に政府は非常に手を焼いていたのですね。左翼の活動家は三多摩地域に拠点を置いており、また大学はそうした左翼の活動家の隠れ家でした。なぜなら当時は大学の中に警察が入ることができなかったのです。ところが、三億円事件のおかげで、警察は大学校内に入って、大学の中を調べることができたのです。そうして、あれほど酷かった学生運動や左翼の活動は沈静化したのですから。

自作自演とは言わなくても、政府はある意味三億円事件を利用して、学生運動の沈静化を狙ったのかもしれない。学生運動を根絶やしにするために、あえて事件解決をさせず、政府は末端の警察に圧力をかけた可能性も考えられます。

また、最近コメントをいただいた方からの情報なのですが、犯人は中野学校出身の人間じゃないかって
説もあるようです。中野学校出身者なら、昭和43年当時は中年くらい。10代の少年には無理でも、中年くらいで、かつ中野学校の出身者なら、この犯行は可能かもしれない。

いづれにせよ、真相は半世紀経ったい今も謎のままです。

* この記事は、「にっぽん歴史鑑定」を参考にして書きました。

1 知っていた黒船の来航
 かつての歴史の教科書には、幕府がペリーに圧力にひれ伏して開国をしたみたいな感じで書かれていて、当時の幕府の役人たちは弱腰だったと。しかし、それはのちの明治政府が幕府を貶めるために広めた話。実際は幕府はしたたかな交渉をしたのです。

ペリーが4隻の艦隊をひきつれて(1853年)、国内は大パニックになりました。が、近年の研究では、黒船の来航を幕府は知っていたことがわかっております。1852年(嘉永5年)、幕府はオランダから「黒船がくる」という情報を得ていたのです。しかも来航する船の名前から、ペリー提督の名前まで知らされていたのです。しかし、当時の幕府はそのオランダからの情報を甘くみていたのです。「どうせデマだろ」って。だから、大した準備もしなかったのですね。それがアダとなったのです。

黒船の来航に慌てた、幕府はペリーとの交渉役に林復斎ハヤシフクサイを任命しました。林は多くの資料を読み過去の幕府の対外政策を調べ上げたのです。また、林は海外情勢に詳しい識者に相談もしたといいます。そして、林は「アメリカは補給が一切ないから戦う意図はないだろうと」と理解しました。ペリーの艦隊は大西洋を渡りアフリカ大陸の南を回って日本に来たのですが、長い航海で食料や(燃料の)石炭も不足して病人や死者まで出る始末でした。こうしたアメリカ側の弱みを林は見抜いたのです。

2 ペリーの要求
で、ペリーが要求したのは「漂流民の保護」「石炭や食糧の提供」「貿易」の三つでした。「漂流民の保護」」と「石炭と食糧の提供」については林はOKをあっさり出しました。問題は三つ目の「貿易」でした。いきなり開国をし、貿易を認めれば国内の混乱は避けられません。幕府は「貿易」に関してはNOという考え方でした。それでペリーは渋々帰国したのです。

そして翌年の1854年の正月、ふたたびペリーが来日しました。今度は9隻です。2月にペリー一行は横浜に上陸し、500人もの士官を並べ、交渉にあたったのです。おそらく、アメリカはこれだけの兵力があるぞ、いうことをきかないともっと大勢連れてくるぞと脅しをかけているのですね。それから幕府とペリーとの会談が再開しました。

ペリーは交渉の席で言いました。「我がアメリカは人命を重んじる。ところが貴国は人命を重んじるどころか、漂流民を大事にせず、海岸にくれば大砲を打ってくる。貴国がそのような態度をとるのなら戦争も辞さないと。

そして林はこう切り出します。「戦も致し方なし」。すごいでしょ。今までの歴史では幕府は弱腰なんて教えられたけれど、それはウソです。林がこう言ったのは、アメリカとマジで戦争をしたかったのではありません。むしろ、アメリカは戦争を仕掛けてこないことを見抜いていたから言えたのです。

さらに林はペリーの「人命を大事にする」という発言を逆手に取り、「さきほど人命がが第一と仰せられた。交易は利と関するもの。人命と交易は関係ない。遭難救助ソウナンキュウジョならすでに我が国はやっているし、(昔はともかく今は)大砲など打ってはいないから、それでよしとする。」

ペリーも自分の言葉を逆手に取られるとは思いませんでした。ペリーは痛いところを突かれてしまい、しばらく沈黙します。そしてペリーは、交易の話を撤回すると言い出したのです。これはペリーが交易をあきらめたというより、外交のカードを切り間違えたということでしょう。林から人命救助というのなら、交易は関係ないでしょと言われたら、ペリーもグウの声も出ません。

また、ペリーが軍人で、貿易が重要だとはあんまり思わなかったことも幸いでした。これが、ペリーではなく交易の重要性がよくわかっている優秀なネゴシエイターだったらこうはいかなかったかも。ペリーとしては港が開かれればOKと思ったのかもしれません。ともあれ、日本はピンチを免れたのです。


3 二回目の交渉でピンチに

ところが、一回目の交渉から9日目の第二回目の交渉。日本は一転してピンチになります。ペリーはこんどは「横浜のほかに5、6か所の港を定めていただきたい、さもなければ、こっちが勝手に上陸する」と切り出したのです。このペリーの発言に内心、林は驚きます。あちこち港を開いてしまえば意味がありません。これでは交易をしたのと同じこと。

しかし、林は動揺をかくし、「これまで通り長崎で行う」と主張。ペリーは「話にならない。もっと開いてほしい。」と。

しかし、林の記憶の中に、読み込んでいたアメリカの国書の一節が浮かんできました。その国書には「南に一港」とあるだけで、長崎とか横浜とか具体的な港の名前も書かれておりません。林はこの点をつきます。「長崎のほかに別の港といわれるならば、なにゆえ、貴国の国書の中に地名を一言も示さなかったのか、国書にあれば、我らもそれなりの返答もできた。さほど重大なることならば、まずは国書にて、どこそこの港、いくつ開いてほしいかを申し上げるべきかと存ずる」と。

ペリーは答えにつまります。ぺリーは「たしかに地名は書かなかった。できるだけ早く答えは欲しい。2、3日お待ちしよう。」と。

4 日米和親条約
その2回目の交渉が終わった後、林は幕府の考えをまとめ上げ、3回目の交渉の日にのぞみました。林はペリーに「伊豆の下田港、函館港の2港の欠乏の品を給与する」と伝えました。北海道の函館と伊豆の下田は幕府のある江戸から離れているため、国内の混乱を最小限に抑えることができます。そして、条約が調印されました。「日米和親条約」です。しかも「日米和親条約」が調印された日には懇親会のようなものが開かれるほど、日米両国の距離は縮まったのです。しかもペリーは「もしも日本が外国と戦争になれば、軍艦を差し向け加勢しよう」といったほど。ペリーのリップサービスかもしれないけれど、すごいことですよね。

ここまでペリーのゴリ押しに動ずることなく、冷静に対応した林の能力に驚かされます。


帰国後、ぺリーは日本人の印象をこう書き残しております。


「日本人は教育が普及しており、何にでも非常な好奇心を示す。また手先の技術について非常に器用で驚いた。日本人が西洋の技術を習得したら、機械技術の成功を目指すうえで強力なライバルになるであろう」。このペリーの予言は、明治以降現実のものとなります。

また、ペリーが見た林の印象は「立派な風采」「物腰は極めて丁重」と非常に好印象だったそうです。そして、「表情は重々しく、感情を表に出さない」と油断ができない切れ物だと評しておりました。

※ この記事は「歴史秘話ヒストリア」を参考にして書きました。

「士農工商」という言葉は、江戸時代の身分制度のことです。武士を表す「士」が一番えらく、その次が百姓を表す「農」。年貢を収めたり作物を作る大事な人たちだから序列としては武士の次。そして職人を表す「工」がきて、金もうけをする卑しい人たちだから「商」が一番ペケと。僕らはそう教わりました。ところが、近年の教科書では、「士農工商」という言葉が出てこないのです。江戸時代にはそのような明確な身分の区別がなかったというのが新しい常識になりつつあるのです。


もともと、士農工商という言葉は中国の古典の中に出てきて、しかも身分の上下関係を示すのではなく、あくまで士農工商は並列としてとらえられておりました。それを江戸時代の儒学者の中江藤樹ナカエトウジュがこれを引用し、支配者としての「士」と被支配者の「農工商」と区別したのです。しかし、それもあくまで一つの考え方でしかありません。


確かに「士」は別格の身分でしたが、農工商の間にとくに序列はなかったのです。あくまで職能の違いでしかないのです。また、当の本人らもこれらの身分に縛られておらず、百姓から職人になることもあったし、商人が百姓を始めることだってあったのです。極端な話、百姓だったものが武士に抜擢バッテキされることもあったのです。結婚も自由で、商人の娘が百姓の息子と結婚することもアリでした。それに、幕府がこれらの身分制度を強要したこともありませんし。ちなみに百姓という言葉ですが、これは農業従事者だけではありません。漁業や林業に携わったものも、百姓と言われました。

このように士農工商が厳しい身分制度だと言われるようになったのは明治時代。明治政府は江戸時代を身分制度が厳しい悪い時代、明治は四民平等の良い時代だと言いたかったのですね。

* 参考にしたもの
「にっぽん歴史鑑定」(BS TBS)


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