history日誌

歴史と歌が大好きな私が日本史から世界史まで広く浅く書きます。 歴史の知識は素人レベルで、私が語る歴史の内容が真実かどうかは自信はありませんがw、楽しんでブログを書いていきます。教科書に載ってないようなマイナーな歴史の話もします。

  


  
  7年前の今日、東日本大震災がありました。年々、震災のことは風化しつつありますが、忘れてはいけない日です。僕も震災後からたびたび被災地に訪れたことがありますが、まだまだ復興は道半ば。特に原発事故のあった浪江町あたりはいまだ人も住めない状況で、7年前からずっと時計がとまったままのようでした。原発の事故で避難をした人たちもいまだに故郷に住めず、避難先でいじめにあっているという話も伺っております。僕の遠い親戚も福島県の小高町に住んでいましたが、原発事故以降住み慣れた故郷を離れ、いまも避難生活を余儀なくされていると聞いております。

改めて震災で亡くなった人たちのご冥福をお祈りいたします。

さて、震災直後台湾から200億円を超える義援金が届いたといいます。すごいですね!謝謝ですね。ほかにも韓国からも義援金が届いたといいます。「冬ソナ」で人気になったペ・ヨンジュンさんも10億ウォン(約7000万円)を寄付したのを筆頭に多くの韓国の芸能人が寄付をされたそうです。

このように台湾や韓国の人たちは隣人が困ったら助けてあげるという倫理観があるようですね。それと、台湾の人たちが日本人の勤勉さ、まじめさに敬意を称もっていること、哈日族(ハーリージュー)とよばれる人たちが多いこともあげられます。哈日族とは、日本の文化、たとえばアニメだとかゲームだとかファッションだとか、歌舞伎だとか能だとか伝統文化に興味をもったりするような人のことです。また、テレサ・テンさんをはじめ、ジュディ・オングさんやオーヤン・フィーフィーさん、僕の世代には懐かしいブラック・ビスケッツのビビアン・スーさんたちの日本でのご活躍も台湾の人たちには励みでもあり、誇りでもあるのではないでしょうか。



また、テレサ・テンさんのお兄さまのフランク・テンさんも280万円も震災後寄付をされたそうです。
フランク・テンさんは「被災者の方々が早く困難を克服し、災害に打ち勝ち、住まいを建て直されるようお祈りしています」とコメントされたそうです。フランクさんは妹が日本でお世話になったから、その日本に何か恩返しをしようと思われたのかもしれません。すばらしいことです。

震災といえば、僕がテレサ・テンさんの記事を書き始めてから数日後に台湾で大きな地震がありました。2月6日の出来事です。


  

この地震で17人が亡くなられたそうです・・・・花蓮市内では、7階建てのマーシャルホテル(統帥大飯店)や、12階建てのビル、そのほかに民家41棟が倒壊する被害が発生したといいます。ライフラインでは停電1,336戸、断水100戸の被害となっているとのことです・・・

日本からは、安倍総理が動画で手書きで応援メッセージを寄せ、激励する動画を公開した他、外国で唯一、国際緊急援助隊専門家チームを派遣したそうです。2月12日に行われた世論調査では、台湾に最も思いを寄せた国はどこだと思うかという設問で、日本との回答が75.8%に達し、2位の中国(同1.8%)を大きく引き離したといいます。また、阿部寛さんをはじめ多くの芸能人や著名人の方々も台湾の支援をされたそうです。



また、東北でも台湾の人たちを支援しようという動きがありました。以下、新聞の記事から引用します。

6日に発生した台湾東部の地震を受け、東日本大震災で被災し台湾から多額の支援を受けた宮城県南三陸町と、町内の復興商店街は8日、地震被災地の支援に役立ててもらおうと募金活動を始めた。

町は震災で被災し2015年12月に再建された町立南三陸病院の建設費として、台湾紅十字組織から約22億円を寄付を受けた。復興支援をきっかけに台湾から400人以上の高校生が町へ教育旅行に訪れたり、大学生が町内の観光施設でインターンシップを行ったりして交流を深めている。(略)

町内では16年2月に起きた台湾南部の地震の際にも学校や企業が募金活動を行い、約614万円の義援金を送った。
『河北新報』

また、ある方は「自宅が津波で被災した経験があり、今回の地震(2018年2月6日の台湾地震)の被害を知ってとても心配している。寄付金を現地で必要なものに使ってほしい」とコメントされております。

僕は「情けは人のためならず」ということわざを思い出します。この言葉は「人に情けをかけると相手は甘えたり、つけあがったりするからダメだ」と誤解する方が非常に多いですが、全く違います。本来の意味は「情けは人の為だけではなく、いずれ巡り巡って自分に恩恵が返ってくるのだから、誰にでも親切にせよ」です。むしろ、人に親切にすることを奨励していることわざなのですね。

今回の台湾震災で亡くなられた人たちのご冥福をお祈りするとともに、東北や台湾の復興をお祈りいたします。そして、日本と台湾の友好に多大な貢献をされたテレサ・テンさんに敬意を表します。


※ おまけ
テレサ・テンさんの歌を聴きながらお別れしましょう。曲は「月亮代表我的心」。すべて中国語(北京語)で歌われております。

https://www.youtube.com/watch?v=hj4bnnek9MU
(↑クリックすると動画がでてきます)

1 「香港」を歌唱中に泣いたテレサ
   テレサ・テンさんの歌で「香港」という歌があります。1989年につくられた曲で、エキゾチックな曲調の歌です。個人的な話になりますが、この「香港」は、テレサ・テンさんの歌のなかで僕が一番好きな歌で時々カラオケで歌います。でも、カラオケでこの歌をDAMの精密採点で採点してもらっても毎回60点台と低い点数なんですwちゃんと音程通りに歌ったつもりなんだけどw、「つもり」ではダメなんですねw(「時の流れに身をまかせ」を歌ったほうが点数が高く、80点台をだせるのに) 1989年といえば中国に香港が返還されることが決まった年です(実際に返還されたのが1997年)。

その香港返還を記念して作られた曲らしいのです。この年に放映された日本の歌謡番組にテレサさんは香港からの中継でご出演されました。1989年当時のテレサさんは香港を拠点にしておりました。そして、「香港」を歌ったのですが、歌っている最中に泣き出してしまうのです。彼女はなぜ泣いたのでしょう? それは本人に聞いてみないとわかりません。けれど、彼女が泣いたのは1989年6月4日におきた天安門事件と何らかの関係がありそうです。

2 天安門事件
 
  この事件は胡耀邦こようほう総書記の死をきっかけに、北京の天安門広場にあつまった数万の学生たちが「独裁打倒、官僚主義反対」をさけびました。すると、共産党は、こうした事態が全国に広がることを恐れて、「動乱」として徹底的に弾圧することを決めました。人民解放軍は民主化を要求する学生や市民たちに発砲をしたのです。人民を守るはずの人民解放軍が罪のない市民に銃口を向けたのです。

当時中学生だった僕もこの事件はショックでしたね。 そもそも、学生や市民たちは一昔前の学生運動みたいに火炎ビンをもって暴れたりしませんでした。むしろ穏健なデモでした。それにもかかわらず人民解放軍の装甲車が市民をひき殺したことで、大きな動乱になったのです。テレサさんは天安門事件のことで、ひどく心を痛めておりました。テレサさんは中国の民主化をかねてから願っておりました。しかし、香港が中国に返還されたとしても、香港で政府による弾圧が起こるかもわからない。果たして香港返還は、香港で暮らしている人々にとって果たして幸せなことなのか?そんなことがテレサさんの脳裏に浮かんだのかもしれない・・・

3 私の家は山の向こう
 
 天安門事件がおこる一週間前の5月27日。香港のハッピーヴァレー競馬場で中国の民主化を支援するコンサートが開かれました。ジャッキー・チェンも出演するなど豪華な顔ぶれでした。そのコンサートには30万人もの市民がつめかけました。そこにテレサさんも出演されました。テレサさんは「民主万歳」と書いたハチマキをしめ、表には「反対軍管」、裏には「我愛民主」と書かれたゼッケンを身に着けておりました。軍事独裁を許さない、私は民主主義を愛するというテレサさんの強い意志が伝わります。

テレサさんはマジで中国の民主化を願っていたのですね。実際、テレサさんは「歌で中国人の心をひとつにしたいんです」と親しい知人に語られていたそうですから。 僕はテレサさんというと穏やかなイメージしかなかったのですが、ここまで強い人で政治色の強い方だったとは思いませんでした。今の日本に、ここまで政治的なメッセージをいう人はいないでしょう。いたとしても、そんな人が出たら、たちまち、その歌手のツイッターやブログは炎上し、下手すりゃ右翼団体に目をつけられますからね。


そしてテレサさんが歌ったのが「私の家は山の向こう」でした。「松花江上」という歌をもとに、大陸から台湾に逃げてきた兵士たちが1960年代に歌詞をかえて歌った歌でした。 その後、テレサさんは香港を去り、フランスのパリに移住をします。まさに「香港」の歌詞のとおり、銀色の翼にのって異国に旅立ったのですね。

4 恋人との出会いそしてテレサの死
 
  そしてフランスに移り住んだテレサさんですが、そこで、フランス人男性出会います。彼とは亡くなるまで交際を続けたといいます。もちろん二人は価値観や生活習慣の違いからしばしばケンカもしたそうです。が、ケンカするほど仲が良いという事か、二人の関係はテレサさんがなくなるまで続きました。

まもなくテレサさんはタイのチェンマイで生活するようになります。1993年には「あなたと共に生きてゆく」をリリースします。この歌の作詞はZARDの坂井泉水さん、作曲は織田哲郎さんという豪華なメンバーです。ヒットしませんでしたが、とてもいい歌です。この曲はテレサさんのオリジナル楽曲としては生前最後のシングルとなりました。


そして、テレサさんも次第に体調をくずし、この歌をリリースした2年後の1995年5月8日にテレサ・テンんさんはなくなります。テレサさんの死は多くの人に衝撃を与えました。テレサさんの死は世界中で報じられ、一時はテレサさんの歌声を禁じた中国のマスコミでも大きく取り上げられ、北京大学でもテレサさんを追悼する看板が立てられたそうです。 台湾でも日本でいう国民栄誉賞のような賞が与えられました。芸能人でこの賞を授与されたのはテレサさんがはじめてだそうです。


テレサさんは、台湾、日本、香港、フランス、アメリカ、タイと世界のあちこちを飛び回りましたが、インタビューではいつも「わたしはチャイニーズです。世界のどこにいても、どこで生活しても私はチャイニーズです」と答えていたそうです。波乱に満ちた人生でしたが、彼女が残した歌は今も多くの人々に親しまれております。


※ 参考文献
これならわかる台湾の歴史Q&A
三橋 広夫
大月書店
2012-05-01



 前回はテレサさんが日本でのご活躍をお話ししましたが、今日は時代を少しさかのぼります。日本に再来日する前のテレサさんのお話からはじめます。1980年にアメリカから台湾に帰国したテレサ・テンさんは、まっさきに中国との国境の島、金門島きんもんとうを訪れました。そして兵士たちと歌を合唱し、大陸にむかって「『何日君再来』をいっしょに歌ってください」とよびかけました。台湾の国民政府は、中国でも人気を博していたテレサさんを利用したのでした。

この「何日君再来」は1937年に映画の挿入歌としてつくられました。酒場の踊り子が、一人の抗日青年に思いを寄せつつ、その青年が作戦を成功させて次の任地に移っていくときに歌う、別れの歌でした。それを日本のレコード会社が日本語の歌詞をつけて発売し、広く知られました。しかし、日本軍は中国の抗日ソングだということで、この歌を歌うことを禁じました。戦争後は台湾の国民政府が、この歌の「君」は日本軍のことで、日本軍を懐かしむ歌だということで歌うことが禁じられました。

中国では文化大革命の混乱が収拾にむかい、改革開放政策がおしすすめられました。改革開放政策とは、中国は社会主義の国でありながら、資本主義の良いところも取り入れていこう政策です。海外の情報や文化も様々なルートから入ってくるようになりました。当時の中国人たちは、文化大革命の混乱でほとほと疲れていたので、平和におだやかにすごしたいという気持ちを強くおもっていました。そんなときにテレサさんの「何日君再来」のやさしい歌が当時の中国人たちに響いたのでしょう。

中国共産党は、これほど親しまれたこの歌を、革命精神を堕落させる歌だとして禁止しました。しかし、人々はそれでも、平気でこの歌を歌ったり聴いたりしていました。「小圧倒老」(かわいいが年老いたを負かした)などという人もいました。小平とうしょうへいによって、この歌は禁じられても、みんなテレサのことを愛し、逆に小平のことを煙たがっていたということでしょう。

その後、中国も胡耀邦こようほうが実験をにぎると、テレサの名誉も回復され「何日君再来」も愛国の歌とされました。そればかりか、北京などでコンサートを開くようにひそかに招待されました。

「何日君再来」は日本軍にも、台湾の国民政府にも、そして中国共産党の幹部にも疎まれたいわくつきの歌ですが、この歌もやっと日の目をみるようになるのですね。そして、この曲はテレサさんの代表曲でもあり、現在も数多くの歌手や音楽家によって歌われたり、演奏されたりしております。




※ 参考文献

これならわかる台湾の歴史Q&A
三橋 広夫
大月書店
2012-05-01





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