history日誌

1 バスチーユ後の混乱
 前回の記事でバスチーユ牢獄の襲撃事件のことを触れました。この事件は、フランス国中に衝撃を与えました。バスチーユ襲撃事件は人々に「世直しは可能だ」という希望を与えたました。

法外な年貢を巻き上げる貴族領主たちに恨みをもっていた農民たちは、ここぞとばかり貴族の館を襲い、年貢台帳を燃やしました。

また、「大恐怖」という現象も農村部で起こっておりました。バスチーユ事件が起こった年は凶作で食糧不足。失業などでホームレスも増えたのです。当然、飢えている人もたくさんいます。「衣食足りて礼節を知る」とはいいますが、人間飢えると何をしでかすかわかりません。

そこへバスチーユ事件の情報がオーバーに農村に伝わりました。農民たちは、「自分たちの村が、そうした失業者だけでなく強盗、ならず者たちが食べ物を強奪しにくるのでは?」と思うようになりました。そうした恐怖心にとらわれた農民たちは農具や銃で武装し、襲撃に備えたといます。しかし、実際にそうした、ならず者たちが農村を襲うことはありませんでした。

また、バスチーユの混乱を機に国外へ亡命した王族や貴族たちもいました。ルイ16世の弟アルトワ伯爵(のちのシャルル10世)も真っ先に逃げ出した一人でした。


2 封建制度廃止
 こうした混乱を鎮めるには、一刻も早く改革をしていかなければいけない、そんなことが国会で話し合われるようになりました。

そして1789年8月4日、ついに聖職者および貴族たちのあらゆる特権を放棄することが決まりました。それまでの身分に基づいた免税特権、領主の年貢徴収権も廃止されました。これによって貴族たちも税金を払わなくてはいけなくなり、農民たちも年貢を納めなくてもよくなったし、貴族たちによる賦役(つまりタダ働き)も無くなりました。しかし、これらは書類上で決まったこと。

実際、こうした取り決めがあったあとも、貧しい農民たちはがめつい貴族たちに年貢を納め続けていたのです。わが国でも議員特権を廃止せよとか議員定数を減らせとか、そういう声はよく聞きますが、その割にはそれが進んでいない。それどころか、議員の給料がUPしたり、かつて野々村議員のように特権を享受する議員もすくなくありません。一度おいしい思いをすると、それにしがみつきたくなる、それが人情というものでしょうかねえ。

こうした動きはジャコバン派の独裁まで続きます。

3 人権宣言
 そして同年8月26日、議会は「人間および市民の権利宣言」。いわゆる「人権宣言」を採択しました。この人権宣言はフランス革命のみならず、世界の歴史においても大変意義深いものです。人権宣言は、あらゆる近代的憲法の源流となり、日本国憲法にも、人権宣言の精神が生きております。フランス革命以前は王様が偉くて、市民は虐げられるだけの存在でしたが、この人権宣言によって人は平等で、国民に主権があることが唱えられるようになったのです。この人権宣言は全部で17条あります。


  1. 自由かつ権利において平等

  2. 国家形成の目的

  3. 国民主権

  4. 自由の定義

  5. 法律の禁止する行為

  6. 法の前の平等・市民の参政権

  7. 人身の安全

  8. 刑罰は法の下で執行

  9. 無実の推定

  10. 思想・信条の自由
  11.  
  12. 言論の自由
  13.  
  14. 市民の権利は公権力が保障

  15. 租税の平等な分担

  16. 租税における市民の権利

  17. 行政の報告を求める権利

  18. 権利の保障と権力の分立

  19. 所有権の不可侵


ただ、人権宣言に書かれている「市民」とは男性のみをさし、女性は対象外でした。さらに女性だけでなく、有色人種には適用されませんでした。たとえば、黒人でしかも女性には、人間扱いしてもらえないって事でしょうねえ。奴隷制度も依然として残ったままです。

しかも人権宣言は法的拘束力はなくスローガン的なものでありました。しかし、それでも当時としては非常に高い理想を掲げたことはすごいことです。21世紀の今では女性の人権も、非西洋人の人権も認められ、北朝鮮とか一部の国をのぞいて国民主権も定着してきております。もし、人権宣言がなければ、21世紀になっても人権も国民主権もなかったかもしれないし、平成の日本においても大日本帝国が続いていたかもわかりません。

※ 参考文献



前回の記事で、テニスコートの誓いのお話をしました。いよいよ第三身分の人たちが立ち上がった瞬間です。かれらは「我々は憲法が制定されるまで、解散しない」と宣言したのです。

その様子をルイ16世はただ黙っていたわけじゃありません。ルイ16世は場合によっては解散もありうることをほめの課しました。実際、ベルサイユには軍隊が集結していました。

しかし、それぐらいのことで彼らは動じませんでした。「われわれは人民の意思にしたがってここにとどまるのだ。われわれをここから動かすことができるのは銃剣のみ」とミラボーは叫んだといいます。

その後、第一身分(聖職者)と第二身分(貴族)の一部が第三身分に同調したのです。実は第一身分は税金を払わなくてよい特権階級でしたが、ほとんどは貧しい生活をしていたのです。だから、貧しい平民たちに同情的だったのですね。そして、ルイ16世は、国民議会を認めざるを得なくなりました。そして7月9日に「憲法制定国民議会」とあらためました。

平民たちの勢いに負けて国民議会を認めた国王側ですが、それを指をくわえて黙っていたわけじゃありません。国王側は武力をもってでも、第三身分たちのこうした動きをつぶそうとしたのです。本来、ルイ16世は国民おもいで貴族たちがブイブイしている世の中はおかしいと思っていました。しかし、宮廷にはこれまでどおりの体制を維持しようとする反改革派の勢力も根強かったのです。

ルイ16世自身も改革の必要性は認めつつも、先祖代々から受け継がれた王制を守らなくてはならないという、ジレンマにおそわれていたのです。結局ルイ16世は全国から王家の軍隊をヴェルサイユに呼び寄せます。軍隊を使って国民議会の有力者な支持者であるパリ市民を軍隊の力でねじ伏せようとしたのです。パリには武装した兵士であふれ、王宮は軍隊に囲まれ、パリも物々しい雰囲気になりました。この状況を見た時の財務長官ネッケルは、これらの政策がむしろ市民の暴動を誘発してしまうと感じ、王に軍の撤退を要求します。しかし、ルイ16世はネッケルを罷免してしまいます。

このネッケル罷免が非常にまずかったんですね。ネッケルは改革派で平民にも人気が高かったのです。今でいえば小泉進次郎議員みたいな感じでしょうか。そのネッケルをクビにするなんて許せんという空気になってきたのです。さらに国王の軍隊がうじゃうじゃパリに集まったことに、民衆たちは「国王軍が我々を殺しに来る」と思ったのでしょうね。


民衆は武器を持って立ち上がろうとしたのです。その武器を手に入れるために7月14日、アンヴァリッド(廃兵院)に押しかけ3万2000丁もの銃と24門の大砲をてにしましたが、まだまだ武器がたりない。それで、民衆たちはバスチーユに乗り込んだのです。

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バスチーユ陥落は、フランス革命の幕開けともいうべき大きな事件でした。バスチーユ要塞に市民や国民衛兵が襲撃をしたのです。バスチーユ要塞は、高さ30メートルの城壁と幅25メートルの堀に守られ、城壁にはいくつもの大砲が備え付けられておりました。そのため難攻不落だといわれていました。

ところが、要塞司令官のローネー侯爵は銃撃戦が交わされたあと、自ら降伏したのです。民衆に銃を向けることが耐えられなかったのでしょう。これでローネーがヒトラーのような男だったら、要塞をせめる民衆を銃で皆殺しにしたでしょう。

ベルサイユの宮廷では、軍隊を派遣し、パリを制圧すべきという意見もありましたが、流血を好まないルイ16世は、和平の道を選びました。7月17日に和解が成立したのです。翌日議場で軍隊を撤退する旨をつげます。人々からは「国王ばんざい」との喚声が上がり、ついでネッケルを再任することも約束しました。

ちなみに、バスチーユ牢獄は、もともとパリ防衛のために14世紀につくられたものでした。その後、パリの街が大きくなるにつれ、首都防衛という軍事的な機能を失い、政治犯を収容する監獄になりました。しかし、革命当時、バスチーユに収監されていたのは政治犯ではなく、普通の犯罪者でした。




紅白歌合戦の司会者が決まりましたね。白組が嵐の櫻井翔さん、紅組が広瀬すずさん、で総合司会が内村光良さん、アナウンサーの桑子真帆さん。個人的には「歴史秘話ヒストリア」の井上あさひさんに紅組の司会やってもらいたかったなあ・・・・ファンには申し訳ないけれどジャニーズの司会もそろそろ飽きてきたし・・・でも、総合司会の内村光良さんを選んだのはGJ。去年は内村さんがいらしたから面白かった。おっと、本題に入りましょうwww

前回の記事で、三部会のことをふれました。第三身分たちが政治的に目覚め、第一身分や第二身分に反発しだしたのです。きょうはテニスコートの誓いについて。教科書にも出てくるお話なので、ご存知な方も多いかと。

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(テニスコートの誓いの絵。中央に立って手をあげているのが国民議会議長バイイ。ロベスピエールやミラボーといった革命の有力人物も描かれている)

三部会で採決の仕方でもめていましたが、第三身分は指をくわえて黙っていたわけじゃありません。第三身分は自分たちに協力してくれそうな貴族や聖職者に接触しました。そして1789年6月17日に、第三身分は「国民議会」を称し、三部会から分離独立をしたのです。こうした第三身分の動き。国王であるルイ16世は第一身分も第三身分も仲良くやろうよという立場でしたが、まさにルイ16世に対する裏切りのようなもの。しかし、第三身分は国王をないがしろにする気持ちはなく、「国民議会」をひらいたあと「国王バンザイ!\(^o^)/」と叫んだそうです。

ルイ16世は、改修工事を口実にして、第三身分が会合を開いていた部屋を閉鎖せました。そりゃ、ルイ16世にとって、第三身分のやり方は看過できるものではありません。しかし、それにくじけないのが第三身分の議員たち。6月20日に、第三身分は室内球戯場きゅうぎじょうに集まって、会議を開いたのです。この会議ではパリ選出のバイイ議員の主導の元「憲法制定までは解散しない」とちかいあったそうです。この誓いによって彼らの心は一つに、そして強固になりました。これが「テニスコートの誓い」という出来事です。

テニスコートといいましたが、当時のテニスとは今のテニスとは違います。この時代は「ジュドポーム」とう遊びで、ラケットを使わず手のひらでボールを打ち合うゲームだったそうです。いわば手打ち野球のテニス版といったところでしょうか。


※ 参考文献





前回の記事で名士会について書かせてもらいましたが、きょうは三部会について。三部会とはいまの国会みたいなものです。三部会は1614年以来ずっと開かれていなかったのでが、ルイ16世は国民の要求に応じて1789年5月5日に開きました。実に100年以上も開かれていなかったのです。フランス全土で議会の代表を選ぶ選挙戦が開かれました。貴族たちが、三部会のテーマは税制問題と貴族たちの特権についてでした。

三部会では第一身分(聖職者)、第二身分(貴族)、そして第三身分(平民)の3つの身分からそれぞれ、議員が選ばれました。議員の数は1200名。そのうち第一身分が約300名、第二身分が約300名、そして第三身分が600人の議員がいました。その第三身分の600人の中に、ミラボーやロベスピエールといった革命の有力者がいました。

単純な多数決だと、第一身分+第二身分の総人数約600人に対して、第三身分が600人ほどだから拮抗しております。しかし、その採決方法が問題がありました。

↓に図をまとめましたので、ご覧になってください。画面がスクロールします。また75パーセントとかかれているところをクリックすると倍率をあげて、画面を大きくすることもできます。

   
(三部会 説明の図)

三部会の採決の仕方について三部会はもめたのです。第三身分は、単純な多数決による議員別採決を主張しました。議員の数だったら第一身分+第二身分の600名、第三身分の600名で同等です。それで第一身分や第二身分にも平民に同情的だったり、貴族の特権に批判的な人もいるので、そういう人たちを味方につければ、第三身分側が有利になります。

しかし、第二身分などの特権身分は身分別採決を主張しました。これは、議員の数でではなく、第三身分が600人いようが、1000人いようが、票の数は一票とカウント。そうなると、第一身分+第二身分で二票、第三身分一票で、身分別採決では第三身分は不利です。これには第三身分の人たちは怒り出しますそれからどうなったかは次回の記事でご説明します。

※ 参考文献




きょうの記事はながいです。

1 火の車だった財政
前回の記事で「アンシャンレジーム」を取り上げました。前回の記事でもかきましたが、フランスは大きく3つの身分に分かれていて、特に第三身分とよばれる平民たちは税金に苦しめられ、大変な思いをしてきたのです。一方の貴族や僧侶は税金も免れたし、王族は贅沢をしていたのです。

ルイ16世の2代前のルイ14世の時代は、豪華なベルサイユ宮殿をつくるなど、お金もじゃぶじゃぶ使ったのです。その次のルイ15世も贅沢をしていました。ルイ16世は、先代と先々代ほどではないが、華やかな宮廷生活をおくっていたようです。

ルイ15世の代はポーランド継承戦争やオーストリア継承戦争といった対外戦争をくりかえし、さらにルイ16世の代になりアメリカ独立戦争を支援しました。そのため財政は悪化していきました。

ルイ16世は財政赤字を改善するために、チュルゴーという人物を財務総監に登用しました。チュルゴーの財政改革の柱は大きく分けて以下の3つ。

  1. 宮廷費の削減(チュルゴーは自らの年俸を下げて、節約に取り組んだ)


  2. ギルト、親方制、地方関税の廃止(農業、工業、商業生産を高め、物品の自由な流通を促進


  3. 身分による特権の廃止(特権階級にも税金を課そうとした)


しかし、これには特権階級も猛反発。とくに貴族の特権に手を付けたことがまずかった。結局チュルゴーは解任されてしまいます。もし財務総監がチュルゴーではなく小泉純一郎元総理だったら、きっと特権階級を抵抗勢力と名指しで批判し、刺客を送り込んで、貴族議員を落選に追いやったかもわかりません。

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(チュルゴーの肖像画。彼はフランス革命の始まりを見ることなく亡くなっています)

改革は進まず赤字はふくらむばかり。革命が勃発する1789年には累積赤字なんと約50億リーブルに達していたといいます。

財政赤字を改善させるにはどうするか?結局、税金をアップさせるしかないのです。それで苦しんだのは農民たち。18世紀には各地で蜂起を繰り返していたといいます。税金は上がる一方だし、食糧もおりからの飢饉などが重なり食糧不足になったのです。

2 啓蒙思想
 しかし、いくら農民たちが暴れても、それで革命が起こるわけじゃありませんん。革命を成功させるには強力なリーダーと、その革命を成功させる思想みたいなものが必要です。日本の明治維新が成功したのは、やはり薩長土肥が中心となり、尊王攘夷というスローガンを掲げて幕府に挑んだことも大きいです。

フランス革命の場合は、前回の記事でも取り上げたブルジョワ層がリーダーシップをとり革命を導いたのです。ブルジョワ層が思想的よりどころにしたのは、啓蒙思想です。とくにフランス革命で大きな影響を与えたのがルソーの「社会契約論」。彼は「生まれながらに自由な人間が、自ら作り出した文化や社会のために自由を失っている」と考えました。自由で平等な社会を作ろう、個人個人が主権者になろう、政治を王様から国民の手に取り戻そうという「主権在民」の思想です。



あと、専制政治を批判し、三権分立を主張したモンテスキューの「法の精神」も忘れてはなりません。

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(ルソーの肖像画)

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(モンテスキューの肖像画)

そうした、啓蒙思想が広まり、国王の批判も堂々と行われるという風潮も生まれました。サロンや居酒屋で行われた政治談議の内容が、当時、整備された道路網、そして新聞や本を通じて各地にもたらされました。


3 貴族の反発 名士会開催

 チュルゴー失脚後、財務総監が変わりましたが、財政赤字はまるで改善されません。ちぇるごーの後任の財務総監も貴族たちにも重い税金をかけようとしたのですが、ロイヤルニートの貴族たちは「冗談じゃねえっ!」て。

ルイ16世は時の財務総監カロンヌと相談して1787年に「名士会議」というものを開いたのです。この会議のテーマはもちろん税制改革です。ルイ16世達も大して働かない貴族たちがのほほんと特権にしがみついている姿を看過できなかったのです。

しかし、貴族たちは、特権階級の課税を拒否。ルイ16世はダメな王様のイメージがありますが、実はそうでもなかったのです。国民のことを非常に考えていて、貧しい国民を救おうと本気で思っていたのです。しかし、国王の理想は当時の貴族たちには全く理解できませんでした。当時の貴族たちは利己心のかたまりでした。こうした貴族の身勝手さや悪意をルイ16世は計算できなかったのです。本当に当時の貴族たちはワルですね。今の日本の悪徳官僚や政治家みたいw

ルイ16世は人が良く、いわゆる性善説論者だったのでしょうね。だから人間の悪い面をみれなかった。政治家は人が好いだけではダメってことでしょうね。また、いくら素晴らしい理想や政策をもった政治家が現れても、それに大勢の人が賛同してくれないと、その政治家は実力を発揮できないまま失脚する羽目になるのですね。

そして、貴族たちは「税制問題は三部会をひらけ」と言い出すのです。その三部会のお話はまた次回に。


※ 参考文献



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