history日誌

1 朝令暮改
 空襲から身を護る防空壕をめぐる政策は昭和16年前後では異なります。昭和15年だと、「防空壕は、なるべく各戸に、その敷地内の空き地に設けることを原則とする」とあります。家の空き地、つまり多くの家庭では庭に防空壕をつくりなさいとなっていました。さらに、消防活動を積極的にしなさいといいつつも、「家屋の崩壊、火災などの場合、速やかに安全地帯に脱出しうる一に設けること」、つまり、空襲で家屋が火災に合ったら、防空壕に逃げ込めと言っていたのですね。「逃げるな、火を消せ」といいつつも、まだこの当時の政府は優しかったのですね。


ところが翌年の昭和16年10月になると今度は「勝手に防空壕をつくるな」政府が言い出すのです。なぜでしょう。政権交代したから?違います。それは当時の政府が「全部の家庭に防空壕をつくるとなると、一般に立派なものを作ろうとする傾向があり、そうなると資材が足らなくなる。大きな防空壕だと、なおさら。物資が不足している時代だから、防空壕なんて作る余裕はない」みたいな態度だったそうです。

もちろん、政府は必要になれば造らせるとは言いますが、物資が少なくなっている時代に、頑丈な防空壕はつくるのが困難になります。防空壕をつくるような余裕がないのだったら、さっさと戦争を終わらせろよと思うのですが、当時の政府の高官にはそんな頭はなかったのでしょう。

2 床下につくれ
 本土空襲から3か月後(昭和17年7月)、内務省防空局は新たな指導要領を発表したのです。その内容というのが防空壕を空き地や庭ではなく、『屋内地下』に、小型で簡素なものを既存の資材で作れ」「自分の家に悪化する焼夷弾の監視と応急防火のために、速やかに動ける位置を選ぶ」というものでした。しかも、大きな防空壕は作ってはだめで、せいぜい「避難者4人につき半坪(畳一畳分)程度とする」です。

床下、つまり地下に畳一畳分で、人が入るくらいの大きさの穴を掘って、その中で空襲をやりすごせなんてきついですよね。それでは、爆撃をしのげるどころか、火事どころか爆風で死んでしまうかもしれません。火事どころか火災により発生した有毒物質が防空壕にたまって窒息死するかもしれない。令和2年の今だったら、三密状態になりますね。

さらに防空壕の呼び名を「待避所」と呼ぶようになりました。日本の為政者の大好きな言葉の言いかえです。やっていることは福祉の切り捨てなのに、それを「構造改革」だの「三位一体の改革」と言い換えているだけ。

この指導要領と同じ日に通牒が発表されました。その内容というのが、まさに人命無視のものでした。以下のとおりです。

国民が空襲への恐怖心を起こさない

安全な逃げ場所を与えず消火活動に専念させる

資材物資が不足しているから、無駄に待避所をつくらせない


3 さすがに反対意見が
 昭和17年の8月に内務省防空局が発表した「防雨空待避所のつくりかた」(『週報』304号)には「家の中に待避所をつくるのなら床下のほうが安全で、もし付近に爆弾が落ちても、その衝動でものが落ちてきても床が守ってくれるから大丈夫」と書いてあったそうです。爆弾による火災で家が燃えたら、床下にいる人は助かるはずがありません。かえって危ないです。このほか爆弾の破片を防ぐには、土を80センチ盛り上げるか、100センチくらいの厚さの布団ないし、本や紙を詰めたもの(40センチくらい)があれば防げるとまで言っているのです。

こんなとんでもないことを言いだす政府の姿勢に、一部の議員が疑問を投げかけました。前年の昭和16年11月19日の防空法改正を審議する衆議院防空法改正委員会である議員が、こう発言しました。

「有効なものを作りうるものは、そうたくさんいないと思うのであります。そして、その有効ならざるものを作ると、かえって危険を増すようなことになるのではないか・・・・日本のような木造の家屋においては、待避所(防空壕)はつくらないほうがいい」

この2年後に別の議員が「ベルリンやローマでは防護室が数千か所に設置されているが、わが国には貧弱で素掘りの待避所(防空壕)ばかりだ」と指摘しましたが、政府は聴く耳をもちません。この時代にネットがあれば、この議員はパヨク呼ばわりでしょうな。


実際、穴をほっただけの待避所(防空壕)は役に立たず、空襲のとき、建物の下で圧死したり、火災に巻き込まれそのまま焼死、あるいは窒素死した人が後を絶ちませんでした。恐ろしいことに、戦争が終わるまで、政府は丈夫な防空壕をつくることを認めず、それどころか、死ぬのは自己責任という態度だったようです

※ 参考文献





1 昭和16年防空法改正
 前回の記事で防空法が制定されたことを書かせていただきました(昭和12年3月)。防空法にははじめは避難禁止の条項はありませんでした。ところがその年の7月の盧溝橋事件以降、徐々に避難禁止の方針が姿を現すのです。同年12月17日の内務省が定めた「防空指導一般要領」は「避難については、原則として自衛防空の精神により建物毎に護るべく」として、あんまり避難はしないでねみたいな内容が盛り込まれるようになりました。

高齢の方や病気の人以外は非難を認めない方針になったのです。こんなことは帝国議会では一言も審議されませんでしたし、「防空法」の条文には全く書かれておりません。だから法的根拠はありません。にもかかわらず通牒のみでこのようなことがまかり通ってしまったのです。

昭和14年4月に内務省が刊行した「国民防空読本」にも「我が国の現在の防空の方針としては、原則として非難を認めないこととなっている」と明記されております。昭和16年11月に防空法が改正され、退去禁止を法律上で定められます以下、昭和16年改正の防空法の主な内容を上げます。

  1. 主務大臣は、防空場必要あるときは、勅令に定めるところにより、一定区域内に居住するものに対し、期間を限り、その区域よりの退去を禁止または制限することができる。


  2. 空襲に依り建物に火災の危険が生じたときは、その建物の管理者、所有者、居住者たちに対し、応急防火をさせるべし。また、火災の現場に近くにいるものも防火に協力すべし。


  3. 内務大臣は、(国民が)空襲から逃げることを禁じることができる。ただし、7歳未満の子供、妊婦、65歳以上の高齢者は例外(妊婦や子供、高齢者は逃げてもよい)



平たく言えば、空襲が起きても持ち場を離れるな、火を消せってことです。しかも、自分の命は守れという記載は一切ないのです。


2 無視された異論
 
それにしても戦争を遂行する側からすれば、労働力や兵力を温存する意味でも避難を認めて、人命を守ったほうが合理的だと思うのですが、当時の政府はまったく逆のことをしていたのですね。なぜ、こんな危険な法律が通ってしまったのか。反対意見はなかったのでしょうか。もちろんありました。たとえば、貴族院の水野甚次郎議員は国会で次のように質問しました。

「防空演習をみても『お祭り騒ぎ』の感があるのであります。三千度の熱をもった焼夷弾に対して、あのちいさなバケツで水をそばに持っていくような余裕は果たしてあるのか、そばに寄れるものじゃない。あんな状態でどうして火を消しえるのであるか、私ども誠に空恐ろしく感じました。」(貴族院防空法改正特別委・昭和16年11月17日)

まったくもって正論です。しかし、政府のお偉いさんは開き直るような態度だったそうです。あの当時にネットがあったら、間違いなく水野議員は「パヨク」とたたかれていたでしょうね。

また芦田均議員(戦後総理大臣になる)は、防空施設の不足を指摘しました。ポンプ車や水道整備が立ち遅れていましたから。物資が不足していたとはいえ、空襲に備え防空施設を整えるべきだと思うのは、軍事に素人の僕でさえ思います。しかし、軍のお偉いさんの答えは「施設の足りない分は、精神で補う」というものでした。政府の無策を棚に上げ、各人の精神で乗り切れというまさに「自己責任論」です。今でこそ、自己責任なんて言おうものなら、パワハラだ、ブラック企業の社長みたいだなんて言われるようになりましたが、昔は精神論、根性論がまかり通っていたのです。

もちろん軍部のなかにもまともな考え方を持っている人もいました。たとえば室井捨治(海軍少佐)は「空襲の脅威」という座談会でこのように述べております。

東京全体としては、まず避難させるのが一番よい。いくら施設(整備)をしてもかなわぬから避難させる。むろん根本的な対策は色々ありましょうが、現在差し迫ってどうしたらよいかといえば・・・実際対策はないですね。とりあえず消防力を強化する位の手しかないんじゃないでしょうか」

室井少佐はベルリン駐在の経歴があり、空襲の恐ろしさも見聞していたと思われます。避難すべきというのは率直な実感でしょう。

しかし、ある中佐が「もし市民全部が逃げてしまうと空になって火を消す人がいなくなる」と反論。こうして室井少佐も黙ってしまい、この後「空襲はこわい」「避難させるべき」という論調は姿を消したといいます。


3 昭和18年の防空法改正
防空法は昭和12年に制定されましたが、昭和16年の改正でそれがさらに追い打ちがかけられ、避難の禁止と焼夷弾で火事になったら火を消せといわれるようになったのです。昭和18年以降、空襲がひどくなり、被害も大きくなっていきますが、政府は国民を守るどころか、より一層国民に防火せよというようになりました。昭和18年1月28日に二度目の改正が可決されました。行政の権限や罰則が強化されたのです。

  1. 内務大臣は一定区域内の居住者に、期間を限定して、退去を命令できるようになった。

  2. 建物の改修命令・建築禁止・建物除去命令のほか、新たに建物の強制収用も可能になった。

  3. 一定区域の転入禁止、業務場所の移転命令、営業所の新設禁止、業務の禁止または継続命令が可能になった。

  4. 命令により移転するものへ費用保証をする。



これにより、空襲がくるかもしれないということで、都市部から地方へ引っ越すことも出できなくなったのです。


さらに同年の10月15日の閣議決定「帝都及ビ重要都市二於ケル工場家屋等ノ疎開及ビ人員ノ地方転出二関スル件」は、建物は疎開させるが、人間の疎開は勧奨にとどめるとしました。悪く言えば、人間より建物のほうが大事だという言いっぷりです。当時の政府のお偉いさんは本当に人間の命を軽く見ていたのですね。

戦後になって福田赳夫元総理が「人命は地球より重い」と発言されたのと偉い違いです。この福田さんの発言は赤軍ハイジャックの犯人の要求を呑んでの発言ですから、決して良い文脈で使われたのではないのですが、曲がりなりにも日本の首相の口から、人命の重さを語った点につきましては戦時中と違うなって。

おっと話は脱線しましたね。ともかく、この閣議決定により、幼い子供や妊婦、それから65歳以上の高齢者以外は疎開をすることも禁じられてしまいます。この閣議決定により市民は空襲があっても都市から逃げることができなくなったのです。

東京は1944年11月24日以降、106回の空襲を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模なものでした。3月10日の空襲だけでも、10万人の人が亡くなったといいます。それにもかかわらず、防空法は改正されず、終戦まで、政府は「逃げるな、火を消せ」って態度だったのですね。






※ 参考文献


「逃げるな、火を消せ!」戦時下トンデモ「防空法」: 空襲にも安全神話があった!

「逃げるな、火を消せ!」戦時下トンデモ「防空法」: 空襲にも安全神話があった!

治, 大前

合同出版

2016-11-03



1 防空法
 これまで、戦時中の暮らしについてお話してきましたが、今回から数回にわたって「防空法」のお話をします。三回くらいで「防空法」の話をまとめられるかと思いきや、いざやってみると数回やらないとダメかなとおもいましてね。これから「防空法」の話にしぼってお話をします。
 
昭和12年3月30日、帝国議会で「防空法」が成立しました。この「防空法」というのが欠陥がありましてね・・・この「防空法」を守ったために、空襲の被害がすくなくなるどころか、かえって被害を大きくしたといいます。その辺のお話はまたのちほどお話しします。

「防空」とは本来、敵機への反撃など国家が担う防空体制を意味します。しかし、防空法が定めるのは市民向けのものでした。その第一条は、防空の定義を「陸海軍のおこなう防衛に即応して、陸海軍以外の者の行う灯火管理、相貌、防毒、避難および救護ならびにこれらに関し必要なる監視、通信および警報」とあります。第一次世界大戦以降、航空技術の急速な発展により、戦場だけでなく都市部も狙われるようになりました。敵による空襲の危険があるで、急ごしらえで作られた法律が「防空法」なのですね。

この「防空法」が制定されてから防空訓練の参加が法的義務となったのです。それまでは防空訓練は度々行われていたのですが、強制参加ではなかったのですね。

防空のため必要があるときは、国や市町村が一般市民の土地建物を使用することや、資材等の物件を強制収用が可能となったのです(防空法第9条)。もっとも、実際に土地や建物の強制収用ができるようになったのは昭和18年の防空法改正時ですが。これまで訓練で実施されていた灯火管制(※1)も法律で義務付けられたのです。

制定当初の防空法は、違反者に対して次の三つの罰則を定めました。

  1. 灯火管理違反(300円以下の罰金、 拘留または科料)


  2. 資料提出や立ち入り検査への非協力(罰則は上に同じ)


  3. 特殊技能者の防空従事義務違反(3か月以下の懲役または100円以下の罰金)

灯火管理違反の罰金は、当時の教員の初任給の5か月分にあたるといいます。これは重すぎないかという意見に対し、時の内務大臣河原田稼吉は「一人が灯火管理に従わなかったために、それが目印となって非常に大きな害を及ぼすということもあります」と述べたといいます。違反者のせいで町中が焼け野原になってから処罰するのでは遅い、むしろ「違反者は重く処罰される」と慈善告知することによって国民の防空意識を高めようとしたのでしょう。


2 自信がないとう海軍大臣
 「防空法」が制定される8日前の昭和12年3月22日、「防空法」の制定を審議する衆議院本会議あありました。そのとき当選5年目の中山福蔵議員(民政党)が質問に立ちました。曰く「軍官民一体というのなら、まず軍が海上第一線において防御していただければならぬ」と。そして、「現在の陸海軍のお持ちになっている飛行機の力をもってわが国土を完全に防御しるる自信があるかどうか、この点陸海軍大臣にお尋ねしておきたい」と中山議員は質問しました。

すると米内光政海軍大臣は「敵の一機をもわが国土に近寄らしめない自信をもっておるかといわれますと、遺憾ながらその核心は今日のところありませぬ」という実もふたもない答えだったといいます。国民には空襲がくるかもしれないから、おまえたち防災に協力しろと言っておきながら、海軍のトップが自信がないというのです。要するにお前たちが何とかしろ、空襲で死んでも自己責任だということでしょう。そもそも敵機による爆撃を防ぐのが軍隊のつとめだと思うのです。国を守るためにあるのが軍隊なのに、これでは軍隊の存在意義を否定するかのような問題発言です。

さらに中山議員は、「消防や避難、道路・水道・建築物を改良するなどの策があるのか」と問いました。すると、河原田内務大臣は「これらの問題は、あるいは国民経済、あるいは国家の財政ということも関係いたしますので、今回の防空法案は、とりあえず一般国民の訓練と、かつ最小限度における設備を命ずるというような制度にとめたのであります。」と答えました。この「とりあえず」がやがて国民を苦しめることになるのですが、それはまたのちほど触れておきます。

さらに野中徹也議員も「去年あたり東京市内で行われました防空演習のごときは、子供の悪さであります。ああいうものでは、私どもでいわせるならば、本当の防空というものは完備しない。本当に防空を完全に行おうとするあんらば、すなわち航空事業の発達が絶対条件ではないか」と質問をしました。そりゃそうです。実際に空襲になったら、消火よりもまずは逃げることを優先しなければいけないのに、防空演習のメインはバケツリレーですもの。少しぐらいのボヤだったらバケツリレーでもなんとかなるかもしれませんが、実際の空襲ではほとんど役にたちません。そのことを野中議員も訓練を実際に見て疑問視したのでしょうね。

しかし河原田内相は「ごもっともでありまして、従来のような訓練を実効あらしめるためにこの蜂起を制定したような次第であります・・・」というはぐらかすような発言を言うのみでした。

こうした疑問が出されながらも、昭和12年3月30日に「防空法」は制定されてしまいます。もし、この時代にネットがあったら中山議員や野中議員は「パヨク(※2)」よばわりされていたでしょうね。


3 知らぬ前に制定
 
防空法が成立した昭和12年3月は、満州事変の停戦から4年目で武力衝突は沈静化していました。また昭和12年といえば、淡谷のり子さんの「別れのブルース」がヒットし、映画は嵐寛寿郎さんの「鞍馬天狗」がヒット。松竹や宝塚の少女歌劇のレビュー公演は連日満員。プロ野球では後楽園球場や阪急西宮球場が開場し、第一回オールスター戦がはじまるなど、華やかな時代でした。そうした時代のためか国民は戦争なんて遠い国の話でしかなかったのです。

また前年の昭和11年には2・26事件がありましたが、意外にも国民は青年将校たちに冷ややかな態度だったそうです。なぜなら景気もよくなって、国民からすればむしろなんてことをしてくれたんだって心情だったそうです。景気が悪くなると人々の心も荒んでくるのですが、景気がよいと違ってくるのです。

そんな状況のなか「防空法」が定められるのです。 帝国議会での審議はくわしく報じられず、法案の内容も国民に周知されておりませんでした。ところが10月1日に防空法が施行される際、新聞に「空の護り我らの手で備えよ、各自のとりで」と心構えを説く記事が大きく掲載されました。国民にとってはまさに寝耳に水。

それから悪いことに盧溝橋事件が昭和12年の7月に起きてしまい、国民はいやおうなし戦争と防空法に直面させられたのです。国民の知らぬ間に日本は泥沼の戦争に突き進められ、国民の知らぬ間に「防空法」という悪法が制定されたのですね。

時代はすすんで昭和20年、幣原喜重郎は外出先で玉音放送をきき、電車で帰路に就いたのですが、電車の中で、30代の男性のさけぶ声が聞こえました。「いったい君は、こうまで、日本が追い詰められたのを知っていたのか。なぜ戦争をしなければならなかったのか。・・・おれたちは知らんまに戦争に引き入れられて、知らぬ間に降参する。けしからんのは我々をだまし討ちにした東京の連中だ」と。幣原はこの男性の言葉を真摯に受け止めたといいます。

















※1 夜間に敵機の攻撃目標とならないために、町の灯りをすべてけすこと。しかい、アメリカ空軍はレーダーや照明弾があるので、そんなことをしてもまったく無意味だった。

※2 パヨクとはいわゆる「左翼」を侮蔑・嘲笑の意味を込めて呼ぶ言葉。




1 金属回収
 
日本は今も昔も輸入に頼っていました。だから、諸外国と戦争するとえらいこっちゃになるわけです。輸入が途絶えると食糧だけでなく、武器や航空機、戦艦、大砲をつくる金属も不足してしまいます。特に鉄の不足は深刻です。当時の日本の鉄鉱石はほとんど中国とイギリス領マレーからの輸入でした。アジア・太平洋戦争開始前に、イギリスやアメリカなどによって石油と鉄鉱石の輸入を封鎖されてしまい、鉄鉱石が手に入らなくなったのですね。

それで1941年金属回収令がだされました。翌年の1942年には寺の鐘や仏具、エレベーターなどあらゆる金属が強制的に回収されました。

銅像も、その対象になりました。1930年ごろから、ほとんどの小学校の校庭に建てられていた二宮尊徳像も金属製のものは回収され、石像に作り替えられました。また、東京・渋谷駅前の忠犬ハチ公の銅像も回収されたといいます。ハチ公の銅像って戦時中からあったのですね。驚きです。


公共のものだけでなく、家庭の金属類も回収されるようになりました。家庭にある火ばち、鉄びん、窓ごうし、ネクタイピンや指輪などの装飾品、さらには時計のチェーンまでその対象なりました。「家庭鉱脈」という新語もうまれたほど徹底していました。


そのような取り組みをしても、金属は十分ではなく、おけ、コップ、さじ、フォーク、家具の取っ手まで回収されるようになりました。防火に必要なバケツも布製のものが売り出され、こどものおもちゃも金属製のものは回収されてしまいます。

2 代用品
 
鉄や銅などの金属は、まず軍のために使われました。そのため各家庭にあった金属類は姿を消してしまいます。日用品の多くは陶器や竹などでつくった代用品を使用するようになりました。金属どころか、国民の衣服にかかせない木綿の使用まで政府の管轄下におかれてしまいました。国民は代用品をつかってガマンをするしかなかったのです。

金属の代用品といえば、僕は陶製の湯たんぽを思い出します。僕は母と骨董の仕事をやっていたのですが、骨董市で陶器の湯たんぽをみた覚えがあります。アイロンも陶器をつかっていたそうです。陶器の中に暑いお湯をいれて使っていたそうです。陶器だけでなく、セルロイドやセメント、ガラスなども使われておりました。学生がかぶる学帽につける交渉や制服の金ボタンも代用品がつかわれました。交渉は髪をかさねて圧縮して金粉をふきつけたものをつかっていたそうです。なんだかせこいなあwボタンは陶製やガラス製。

あと、なんと陶製の硬貨も作られたといいます。しかし作られただけで実際には用いられませんでした。そりゃそうですよね。

陶製だけでなく、代用品の材料として脚光を浴びたのがセルロイドです。主にこどものおもちゃなどに使われました。セルロイドとは、化学的につくられたプラスチックの一種です。75度でやわらかくなり、冷やすと固まることから、缶づめの容器、画びょう、こどものおもちゃなど様々な金属製品の代用品として重宝されたといいます。ただ、セルロイドって燃えやすいのですね。そこが難点です。

セルロイドといえば、太田裕美さんの「ドール」って曲にも「セルロイド」ってくだりがでてきます。あ、若い人は知らないかw失礼。




金属だけでなく、革製品も代用品が用いられるようになりました。革靴には牛革が使われておりましたが、底をクジラの川、甲をクジラまたはブタの皮に替えられたそうです。議ほかにも布や紙に塗料をぬった鞄、ハンドバック、クジラの皮でつくったベルト、時計バンド、サイフなど。ランドセルも竹でつくられたそうです。竹をほそく割り、竹かごのようにあんで形をつくったといいます。

綿をつかった繊維製品も代用品が使わました。綿は江戸時代から日本人にとってかかせない繊維です。だから、「綿の流通禁止」が新聞の号外にのったとき、国民は驚いたといいます。綿の代わりにスフとよばれる一種の化学繊維が配給されました。スフは洗うと縮んだり、すぐにきれたりするので評判は悪かったといいます。

3 木炭と松根油
 
1938年5月からガソリンの切符制が実施されました。ガソリンも切符がないと買えなくなったのです。石油の輸入も連合軍によってストップされ、燃料となるガソリンが不足したからです。ガソリンが思うように使えなくなったので。「ガソリンの一滴は血の一滴」といわれるほど、この当時のガソリンは貴重でした。

それで木炭自動車が登場しました。木炭を燃やして発生するガスを燃料して走るものでした。木炭自動車といっても、木炭自動車をわざわざ買う必要はありません。持っている自動車に木炭ガス発生装置を取り付けるだけで改造できたことから、たちまち普及したといいます。

また、ガソリンの代わりに松根油を使おうという動きもありました。松根油は松の木を切り倒し、根っこからにじみ出る白いヤニから作られます。この松根油をとりだす作業は小学生までかりだされたといいます。

しかし、松根油は非常に労力が掛かり収率も悪いため実用化には至らなかったといいます。戦後、進駐軍が未調整のままの松根油をジープに用いてみたところ、「数日でエンジンが止まって使い物にならなかった」という記述がJ. B. コーヘン『戦時戦後の日本経済』にあるそうです。

※ 参考文献
戦争とくらしの事典
ポプラ社
2008-04-01




今では信じられないことですが、太平洋戦争の目的はアジアの開放だって言われていたのです。欧米列強の魔の手からアジアを救い、日本を盟主とした「大東亜共栄圏」をつくろうと。

しかし、これも後付けなんですよね。真珠湾攻撃をしたときは、政府はアジアの開放という見解ではなかったのです。あくまでも自存自衛のためだと。しかし、自衛のためといっても、アメリカと戦争をする大儀がありません。当時のアメリカは中国の利権をめぐって対立をしていたものの、アメリカが日本に侵略しようとは考えておりません。

それが、真珠湾攻撃で中国だけでなくアメリカまで本格的に敵に回してしまったのです。また、アメリカはアジアに植民地を持っておらず、むしろ植民地支配に批判的で、イギリスとフランスとも微妙な立場にありました。イギリスやフランスは世界中に植民地をもっておりましたから。だから、日本がアジアの開放をいうならイギリスやフランスと戦わなければいけなかったのです。

さらに日本は資源とりわけ石油がないので、東南アジアを占領し、石油資源を確保しようと考えたのですね。それで苦し紛れに当時の政府は「アジアの開放」って言いだしたのです。本当のことを言ったら国民はついていきませんからね。

ちなみに、当時の日本人は大東亜共和圏に関しては冷めたものの見方をした人も少なくなかったようです。矢部貞治という東京帝国大学の教授が、真珠湾攻撃の翌年の1942年(昭和17年)に大学で大東亜共和圏の理念を学生たちに語ったところ、学生たちはマジメに聴くどころか、げらげら笑ったといいます。矢部は怒り、日記にも不愉快な思いをしたとつづったほど。しかし、最先端の英語教育を学んだエリートたちにとって、大東亜共和圏なんて絵にかいた餅にしか思えなかったのです。当時のエリートたちは貿易相手のアメリカと戦うことがいかに無謀かわかっていたのですね。また、戦争が悪化すると「どうせ、戦争なんてお偉いさんが喜ぶだけだから、早く戦争を終わらせてほしい」と学生が言ったといいます。学生だけでなく当時の華族たちもみな戦争に反対していたそうです。庶民でもゲンのお父さんのようにわかっている人はわかっていたと思います。

このページのトップヘ