history日誌

歴史と歌が大好きな私が日本史から世界史まで広く浅く書きます。 歴史の知識は素人レベルで、私が語る歴史の内容が真実かどうかは自信はありませんがw、楽しんでブログを書いていきます。教科書に載ってないようなマイナーな歴史の話もします。

今日は医療の観点から日本の失敗を考えます。あいにく僕は医学の知識はないのであんまり専門的なことはかけないのですが、僕の母方の親せきに軍医として戦地に赴いた人物がいたこともあって、先の大戦における医療の話は個人的に無視できないなと思い書かせていただきます。

米軍は日本の医学について「軍事作戦の圧力にともなう日本軍医療の崩壊は、医療の崩壊を日本軍敗退の一因」と指摘していたようです。

たとえばガダルカナルの戦いにおいて、日本兵は病気に悩まされました。脚気、腸炎、マラリヤ等。戦時中ガダルカナルには4万2000人の日本軍がいたといいますが、その半分以上が病気や飢餓で死亡し、負傷者の80%以上が不適切な治療、医療材料の不足、後送こうそうする意思と能力の欠如により死亡されたとアメリカ側が説明しております。

なんでも、防虫剤はなく、蚊帳はわずかで、アクブリン、キニーネによる有効な薬剤医療体制がなかったといいます。ガダルカナルの戦いにおいて日本兵を苦しめた病気のひとつマラリヤは蚊から伝染するのですが、蚊の対策もなされず、治療する薬剤もわずか。しかも、負傷した兵が治療をうけるために(自分たちの陣地に)もどることは奨励されなかったといいます。大した治療も受けられず、ちょっとでもよくなると「大和魂をみせてみよ!」と危険な戦地にまた送られてしまう。

それから日本軍は円滑に機能する野戦病院をつくることもできず、病人の扱いは敷物か地面上に寝かせ、ときにわずかなヤシの葉ぶきの小屋を与えるというものだったといいます。野外診療室の衛生状況はひどいもので、病人はとくに夜間、壕内の便所にいくのをいやがったため排泄物が敷物のすぐちかくに積み重ねられ、雨が降ると、差し掛け屋根の壕のすぐ近くまで、その排泄物が流れてきたといいます。不衛生なのはそれだけでなく、傷口にまきつける包帯は常に雨が染みていたといいます。

ちなみに日本軍のマラリヤ被害は「日本軍の全員が島への上陸後4〜6週間以内にマラリヤに苦しみ、非常に悪性だった結果、死亡率はすさまじいものとなり、ガダルカナル島の作戦終了までに舞台全体の4分の1を超えたかもしれない」と言われております。


さらに、病兵は食塩水不足のために代わりにココナツミルクを注射されたこともあったようです。食料は極度に不足し、ヤシ、草、野生のイモ、シダ、タケノコ、そしてワニやトカゲまでもが非常食として食べられたといいます。そんな風に食料が不足しておりましたから、脚気や腸炎が日本兵たちの間で多発したといいます。さらに悪いことに前線部隊におくる食料の盗みや荷抜きが多発したため、第一線で戦った前線部隊はとくに、ひもじい思いをしたといいます。そりゃそうです。自分たちが食べるつもりだった食料が運ぶ途中で盗まれたりするのですから。

そんな状況ですから、ガダルカナル島で死んだ日本兵のうち三分の二が病気や飢餓で死んだといいます。恐ろしい話です。

一方のアメリカはそうじゃなく、病人はジャングルからよく整備された野戦病院に送られ、休息と適切な治療を受け、状況が許せばすみやかに後送されたそうです。

※ 参考文献

戦時中、陸軍と海軍は仲が悪かったといいます。これも日本が負けた理由の一つとして挙げられます。

たとえば、大日本兵器という会社の工場にいってみると、同じ工場に門が二つ並んでいたといいます。工場の当事者にきいてみると、片方が陸軍、もう片方が海軍が通る門だそうです。門でさえそうなのだから、工場も別。別にするだけでなく、陸軍と海軍の工場の間に高い塀をつくって、陸軍の工場から海軍の工場のほう(あるいはその逆)に一人の工員も融通しない。同じ会社の中でも互いに往復できないし、たとえ片っ方の工場が非常な手空きになって工員が仮に遊んでいても、片っ方の忙しいほうへの工場の援助なんてもってのほか。仮にちょっとでも手伝いをすると、あたかもスパイ行為、利敵行為、敵国の工場の手助けでもしたような目つきで見られたり、言われたり、しまいにゃ憲兵にひどい目にあわされたといいます。


それから資材でも、海軍(あるいは陸軍)が資材がほしいといっても、陸軍(あるいは海軍)はそれに応じない。そうしてお互いに資材難に悩むようになる。

また戦時中、飛行機の燃料になるからということで、松根油(※1)をとるために松の根をせっせと国民は掘ったのですが、これも陸軍と海軍とで縄張りがあって、陸軍地区で掘ったところは陸軍だけが、逆に海軍地区で掘ったところは海軍だけが使うなんてこともあったようです。

近畿地方の海軍地区のある村が、松根油をストックして保管していたところを、陸軍の船舶兵の暁部隊がやってきて、その松根をトラックで持ち去ってしまったという事件まで発生したといいます。海軍はこれを非常に怒ったそうです。しかし、暁部隊が性懲りもなくまた略奪にやってきたので、待ち伏せをしていた海軍が暁部隊を襲い、大乱闘になったといいます。それを村民たちは非常に嘆き悲しんだといいます。近畿地方のある知事は「陸軍海軍が帷幄いあくのあとでかみあうのは仕方がないが、どうか白昼国民のまでかみあうことはやめてくれ」と陸軍、海軍にそれぞれ申し込んだといいます。

戦争資材に関する縄張り争いもありました。たとえば鉄。海軍は日鉄の古くから関係が深く、一方の陸軍は日本鋼管と関係を結んだといいます。海軍は日鉄の製鉄工場、陸軍は日本鋼管の製鉄工場という具合に、一種のセクショナリズムがおきていたのです。

鉄材のみならず、どんな材料でも陸軍と海軍がそれぞれ先陣争いで資材をおさえてしまうのです。自分がいるから押さえるのではなく、もたもたしていると海軍(あるいは陸軍)に資材がとられてしまうのがいやだから、必要、不必要関係なく資材を押さえたといいます。すず、銅、アルミニウム、ニッケル、その他薬や食料品まで、陸軍と海軍がとりあいをしたといいます。

ほかにも同じ用途のねじをつくるにしても、陸軍が右ねじにすれば、海軍は左ねじにするという具合に、どんな部品でも陸軍と海軍のものが共有できないのです。みかねた軍需省がこれらは陸海軍の生産競争を調停するためにできたもので、せめて資材の片面だけでも統一するようにと希望が出されました。しかし、それは終戦まで変わらなかったといいます。

こういった陸軍と海軍の不一致は戦いにおいても現れました。たとえば、沖縄の戦闘において、海軍は「沖縄こそ最後の防衛線」ということで、沖縄決戦のために根こそぎの兵力を注ぎ込みました。ところが、陸軍は沖縄決戦の直前に、精鋭の金沢師団を台湾に移したといいます。おそらく陸軍は「台湾こそ防衛線だ」と考えていたのです。

もちろん、戦場によっては陸軍と海軍が協力したケースもなくはないとはいいますが、ミッドウェーをはじめとした損害戦果についても陸軍に本当のことを教えなかったなど、いろいろと協力しないケースも多々見られたのです。

陸軍と海軍が仲が悪いのは何も日本だけの話ではないそうですね。外国でもよくある話だそうです。しかし、日本の場合はそれが深刻なレベルだったのが問題だったようです。

これは戦争に限った話ではないと思いまいます。会社はもとより学校のPTAだって同じだと思います。普段は仲が悪くても、いざとなったら協力できれば強いと思います。

個人的な話になりますが、僕が高校のころ、いじめにあいました。けれど、僕のいじめの問題には学年の先生(7人)がみな協力し合い、真剣に取り組んでくださいました。

実は7人の先生方普段は仲が悪いんですねw厳密にいえばAグループ(2人)とBグループ(4人)がいて、お互いにいがみ合っている。夜になるとAグループの先生お二人はBグループの中心人物であるX先生の悪口を仕事帰りの飲み屋でいつも言っているwそして残りの一人の先生Y先生が中立派なのです。そんな話をPTAの役員をしていた母からききましたw

けれど、いじめとか生徒の進路の問題だとか学校の重要な問題には7人の先生方はものすごく協力しあうのですね。



※ 参考文献

敗戦真相記
永野 護
バジリコ
2012-08-10








※1 マツの伐根(切り株)を乾溜することで得られる油状液体である。松根テレビン油と呼ばれることもある。太平洋戦争中の日本では航空ガソリンの原料としての利用が試みられたが、非常に労力が掛かり収率も悪いため実用化には至らなかった。

先の大戦において、日本とアメリカの差を分けたものの一つとしてマネージメントがあげられます。残念ながら我が国は、いわゆるサイエンティフィック(科学的)マネージメントというものがほとんどゼロに等しかったといいます。たとえば日本の鉄の生産量というものを全部有効に使っても、アメリカの5パーセントしかないのに、この5パーセントの鉄量すら使えなかったので、実際は2パーセントの生産量ぐらいしかならなかったようです。

たとえば、軍の動員計画なんかも非常に非科学的で、その技術者がいなければ工場が一遍にとまるような重要な者を引っ張っていって、その技術者に戦場で馬を洗わせたり、壕を掘らせたりする。もっとひどいのは工場から熟練工を招集したために、その工場の能率が落ちると応援の兵隊さんを今度は軍から派遣されるのです。工場からやってきた熟練工は新兵となって壕を掘ったりするなど慣れない作業を上官に怒鳴られながら、やる羽目になる。一方壕堀のうまい古参兵が、ズブの素人となって向上に応援にくる。さらに、男たちが戦場に駆り出されたものだから、学生までも工場ではたらくことになる。いわゆる学徒勤労動員ですね。

たしか、中島飛行機の元エンジニアの方の本を読んだのですが、せっかく天塩を育てた部下が一枚の赤紙で連れされてしまったことに対して、「ただ軍から割り当てたら人数を赤い紙に書いていく、こういう実に粗暴な召集令状の発行システムは、農本主義時代の遺物で、技術戦争である太平洋戦争では通用しない」と憤っておられました。




日本の軍部の上官や官僚は一生懸命仕事を忙しくやるのだけれども、効率が悪く、実は何もしていない、仕事のための仕事をしていることもある。けれどアメリカはチューインガムをかんだり、ポケットを手に入れたりして遊んでいるように見えて、実際は仕事のスピードが早いと『敗戦真相記』を書いた永野護さんは指摘しております。

たとえばアッツ島の戦い(※1)のときもそうだったようです。アッツ島とは北太平洋のアリューシャン列島のほぼ西端に位置する小さい島です。このアッツ島に日本軍は何か月も占領したが、その間、ウサギが通うような小道しかつくらず、電灯線も引かずにローソクで岩窟の生活をしていた。ところが米軍が上陸すると三日のうちに、トラックが通るようなアスファルトの道路があちこちにできたといいます。

ちなみにアッツ島の日本軍は、皇軍軍人精神の名の下に自決全滅をしたのですが、彼らがそのような道を選んだのが、糧食、兵器の後援が続かなかったことやロクに道路を作れないことに見られるマネージメントの欠乏が原因の一つだったと思われます。


たとえば、こういうことです。川に橋を10本かけようという状況を考えてみます。日本は漫然と10本の橋を架けようとするけれど、どの橋も資材が途中で足りなくなって途中で切れてしまい、結局まともに渡れる橋は一本もなかったなんてことをやらかしてしまったのです。マネージメントがうまくいけば10本かけられなければ、5本だけかけよう、一本だけでもいい、早く架ければ人が通れるようになる。要は橋を10本かけることが重要なのではなく、たとえ一本でも向こう岸に一人でも多くの人が渡れればよいのです。これは極端なたとえですが、戦時中の日本はこのようなことをしてしまい、多くの人を犠牲にしてしまったのです・・・

※1 
1943年(昭和18年)5月12日にアメリカ軍のアッツ島上陸によって開始された日本軍とアメリカ軍との戦闘である。



※ 参考文献
敗戦真相記
永野 護
バジリコ
2012-08-10



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