history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

* この記事はNHKの「ダークサイドミステリー」を参考にしてかきました

オオカミ男をご存知でしょうか?普段は人間だが、夜に月を見るとオオカミに変身し、人間を襲い、ズタズタに人間を殺してしまうと。怖いですね。オオカミ男はアニメやゲームにもよく出てきますね。そんな恐ろしい化け物が本当にいたのでしょうか?

オオカミ男は実在するかどうかって話ですが、結論を先に申し上げれば、オオカミ男はいなかったと思います。実際に人間がオオカミに変身する様子を見たという記録はないのですね。ただ、オオカミ男のレッテルをられて、無実の人たちが犠牲ギセイになったのですね・・・以前に魔女狩りのことを書きましたが、魔女狩りの話と通ずる問題であります。

さて、オオカミ男の呼び名は国によって違います。イギリスではウェアウルフ、ドイツではリカントリープ、フランスではルーガルーという具合。それくらいヨーロッパ各地で、その存在がウワサされたのですね。昔はネットも何もなかったからなおさら、そういうものがいると信じられていたのでしょう。

そんな中世ヨーロッパでオオカミ男が人間を襲ったという事件が起こったのですね。16世紀、ドイツのベットブルクという村で事件が発覚したのです。それまで、この村で25年もの間、子供が行方不明になったり、森に入った人がバラバラ死体になって見つかったりと奇妙キミョウなことが続いていたのですね。犯人はダレだろうと不思議がり、そしてこの村にオオカミ男がいるんじゃないかってウワサされるようになったのです。そして1589年に一人の男が容疑ヨウギにかけられました。

容疑をかけられたのがペーター・シュトゥンプという農夫でした。彼は、厳しい拷問ゴウモンをかけられたのですね。ペーターが課された刑というのは車裂クルマザききの刑というもので極めて残酷ザンコクで、重罪人に課されるものでした。ペーターは叫びます。「俺はオオカミ男だ」って。そして、自分は悪魔からベルトをもらい、そのベルトをつけるとオオカミに変身でできると。オオカミに変身し、25年にもわたって、14人の子供と2人の妊婦を殺して食べ、家畜カチクまでもむさぼり食ったと。さらには自分の娘とも寝たと自白したのですね。

意外かもしれませんが、オオカミは滅多なことでは人間を襲わないのですね。あるとしたら狂犬病にかかったとか、人間がオオカミの縄張りに入ったとかありますが、基本的には人間を襲いません。しかし、オオカミ男だったら人間を襲う可能性が高いというので、ペーターはオオカミ男だと疑われたのですね。

もちろん、当時は科学的な調査などあるはずがなく、ペーターはオオカミ男と疑われたまま亡くなったのですね。結局、子供たちを殺したのは誰なのか分からずじまいだったのですね。もちろん、ペーターが本当に犯人だった可能性もありますが、冤罪エンザイっぽいなあ。

さて、オオカミ男についてですが、オオカミ男は16世紀になって突然ウワサされたのではありません。オオカミ男の伝説は古代からありましたし、12世紀の後半には『ビスクラヴレット』(※1)という小説にもオオカミ男が登場するくらいですから、広くその存在がうわさされたのですね。

しかし、『ビスクラヴレット』が出た頃のヨーロッパは、森の開拓が進んだ時期でした。昔は自然にたいする畏敬イケイの念がったのですが、この頃のヨーロッパの人たちは森を畏敬イケイの対象としておらず、征服するものだと考えていたのです。森林を切り拓けば開くほど良くて、森林を壊せば環境破壊になるなんて考えはなかったのですね。今はヨーロッパは環境問題に熱心ですが、この時代は違ったのですね。当然、森林を壊せば、狼の住処スミカを奪ってしまうことになるのです。住処を奪われたオオカミにとって迷惑な話なんです。森林破壊だけでなく、オオカミの獲物のシカやウサギ、イノシシなども人間が狩るので、オオカミは食べ物を求め、家畜を襲ったりするのです。だから人間にオオカミは嫌われてしまったのですね。元はいえば森林破壊をした人間の方が悪いのですが。とはいえ人間も生き抜かなくてはならない。

なんだか、宮崎駿監督の「もののけ姫」と通じるテーマだなって。人間も生きるために森を切り開かなくてはならない、一方のオオカミほか動物たちにとっては人間は自分たちの住処を脅かす悪いヤツらなんでしょうね。

人間ははじめはオオカミをたくましさと理性の象徴として畏敬の念があったのですが、次第に自然を崇拝から支配へという意識に変わりました。そうしてオオカミも人間にとって支配すべきもの、悪いものとみなされるようになるのです。「赤ずきんちゃん」でもオオカミは完全に悪者ですよね。またオオカミ男は、キリスト教と敵対する悪魔の化身だとみなされていました。キリスト教が、自然崇拝だとか土着の信仰を駆逐するためオオカミ男伝説を利用してきたのですね。

そして14世紀に入るとヨーロッパは小氷期になり、気温が寒くなるのです。寒冷による飢饉キキン、ペストの大流行に、戦争。そのため多くの人たちが亡くなったのですね。しかも悪いことにこの頃のヨーロッパは魔女狩りが盛んでした。魔女狩りにあわせて、オオカミ男狩りも行われるようになったのです。それは18世紀ごろまで続いたといいます。

殺人事件や誘拐事件が起こると、「これは悪魔の使いのオオカミ男の仕業に違いない」って人々が思うようになったのですね。当時のヨーロッパは、今のコロナショック以上に人々は不安に駆られていたのですね。そうした不安のはけ口を弱い人間にぶつけたのですね。それは魔女狩りと一緒。魔女狩りもどちらかというと貧しい女性がターゲットになったそうですから。そうしてオオカミ男と噂された人間は裁判にかけられたり、拷問ゴウモンを受けたり、最悪、処刑されたのです。いつの時代も、人間は自分たちが不安になると、誰かをスケープゴートにして攻撃をしたがるのだなって。例えば、緊急事態宣言中に営業していた飲食店やカラオケボックスが自粛警察から嫌がらせを受けたなんて話もそうだし、学校のいじめもそうだなって。

こうしたオオカミ男狩りは、世界を合理的に見ようとする啓蒙主義ケイモウシュギが広まるようになってから、下火になりました。啓蒙主義が広まるとオオカミ男狩りだけでなく、魔女狩りも下火になりました。

* おまけ
車裂きの刑の話が出てきたので、具体的にどんな刑だったのかをご紹介します。この刑罰は非常に残酷で、中世で最も重い刑です。一言でいえば、受刑者の体を打ちクダいてしまうのです。




※1マリー・ド・フランスが書いたもの。フランスで美しい貴公子がいたが、実は彼はオオカミ男だった。夜になると服を脱いで森に向かう。そこでオオカミに変身する。そのことを知りショックを受けた彼の妻は、愛人と共謀し、貴公子が着ていた服を隠してしまう。人間に戻れなくなった貴公子は、オオカミの姿のまま、妻に復讐をするべく、そのチャンスをうかがうというのが、大体のあらすじ。



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1 祭祀の島だった沖ノ島
 今日は、沖ノ島オキノシマのお話。

沖ノ島は九州北端と対馬のほぼ中間、玄界灘げんかいなだに浮かんでおります。周囲約4キロ、面積わずか0・69平方メートルの小さな孤島コトウです。この島には宗像大社沖津宮むなかたたいしゃおきつみやという神社があります。え、宗像大社沖津宮ってなにかって?順を追ってお話ししますと、宗像大社とは福岡県宗像市にある大きな神社で、沖ノ島の沖津宮筑前大島ちくぜんおおしま中津宮なかつみや、宗像市田島の辺津宮へつみや(総社)の3つの神社をひっくるめて宗像大社というそうです。その沖ノ島にある沖津宮とは宗像大社にある3つの神社の一つなのですね。

かつてはこの島で祭祀サイシが行われ(4世紀〜10世紀ごろ)、銅鏡や玉類、武器、中国由来の金銅製品、ササン朝ペルシア製のカットグラスなど様々な宝物が発見されました。これらの宝物はすべて国宝か重要文化財に指定されました。それで、沖ノ島は「海の正倉院ショウソウイン」と呼ばれるようにもなりました。

これらの遺物が出土した背景として、古来、沖ノ島が日本から朝鮮半島や中国にわたる際の要地にあったからです。古代、宗像地方を治めていた豪族・胸方むなかた氏によって宗像大社沖津宮が沖ノ島に置かれたのです。そして、祭祀が行われるようになったのです。何のためかというと、航海コウカイの無事を祈るためです。

昔は造船技術ゾウセンギジュツや航海技術が未熟ミジュクであったため、海難事故カイナンジコが多発したそうです。沖ノ島に住む神様に航海の無事を祈るべく祭祀が行われたのです。



2 沖ノ島に入り込んだ人々

この沖の島は女人禁制ニョニンキンセイむやみに出入りすることもできません。今でもこの島に立ち寄れるのは神職の人一名だけです。そして、この島にあるものは小石や雑草さえも持ち帰ってはいけない。持ち帰ればたたりがあると信じられてきておりました。だから、島内には手つかずの原始林が生い茂っております。


しかし、島のものを持ち帰ったものがいました。福岡藩初代藩主の黒田長政クロダナガマサ。貝原益軒の「 筑前国続諸社縁起 ちくぜんのくにぞくふどき」によると、黒田長政がキリシタンに命じて、島にあった宝を持ち帰ったといいます。その宝を城中に運んだ、その日から建物が振動したり、領内で、猛烈モウレツな豪雨が降ったといい

それで、黒田長政は「これは神様の祟りに違いない!」と思い、その宝を島に戻したといいます。すると、建物も振動しなくなったり、豪雨も止んだといいます。この時、長政が持ち出した神宝の一つが、現在、宗像大社神宝館に所蔵されている金銅製高機(国宝)ではないかと言われております。

幕末になると外国船警備の名目で、福岡藩士が常駐ジョウチュウしたそうです。ちょうど沖ノ島が、日本と朝鮮半島の中間地に位置していましたからね。



そして、昭和に入ると沖ノ島ももはや神聖なる神の島という位置付けではなくなります。1939年(昭和14年)になると陸軍が中継基地にしたのですね。大陸防防衛戦時中には陸海軍合わせて200人ほどの軍人・兵士がこの島に駐屯チュウトンしていたといいます。

3 世界遺産に登録されたが

宗像大社は2017年に世界遺産セカイイサンに登録されましたが、登録されるのに一悶着ありまして、元々この島は女人禁制だったのです。それで女性の権利団体からクレームが来て「女性の入島を認めない限り世界遺産は認めん」と主張。結局ユネスコ側から文化や伝統を尊重すると言うことで、世界遺産になりました。この島が女人禁制なのは女性をバカにしているわけじゃなく、この島の神様が 多紀理毘売命 タギリビメノミコトという女神様で女性が近づくと嫉妬シットするからだと言われております。

また、世界遺産になったことで一般人も入れなくなりました。世界遺産になるまでは、毎年5月に1日だけ男性の一般人200名が沖ノ島に行けたのです。もちろん、島に行くためにはハダカで海に入りミソギをすることが条件ですが。今では宗像大社の神職の人が一名、10日交代で島に派遣されるだけで一般人はまず無理。あと島に入ることが許されるとしたら研究者の人くらいでしょうか。







※ 参考文献および参考にしたもの




あと、『歴史秘話ヒストリア』も参考にしました。




こちらのサイトも参考にしました)


また、youtubeも参考にしました。
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この記事はウィキペディアと「世界ふしぎ発見」を参考にして書きました。

アルプスの少女ハイジ リマスターDVD-BOX
ロッテンマイヤー:麻生美代子
バンダイビジュアル
2010-11-26



『アルプスの少女ハイジ』といえば、Z会のCMいやw、1974年にカルピス劇場で放送されました。1974年というと僕はまだ生まれていないので、リアルタイムでは見たことがないのですが、再放送(再再放送かな?)で見たことがあります。主人公のハイジとクララの友情は感動的なものがありますし、おんじをはじめとした登場人物の優しさ、それとロッテンマイヤーさんが怖いこと、怖いことw

さて、ハイジに登場する、おんじの経歴なんですが、なんと彼は傭兵ヨウヘイだったのです。僕も「世界ふしぎ発見」で知り、大変驚きました。アニメでは、おんじの過去はあまり語られれることがなく、山小屋に住む、気難しいけれど、本当は優しいおじいさんとして描かれていましたからね。ただ、おんじは人々からメッチャ疎まれていて、アニメの第一話でも、おんじのことを良く言う人は誰もおらず、若い頃は人殺しもしたと散々な言われようです。

「アルプスの少女ハイジ」の原作は、1880年に出版された『ハイジの修業時代と遍歴ヘンレキ時代』と翌年ヨクトシの1881年にでた続編『ハイジは習ったことを役立てることができる』の2冊。つまり、ハイジは19世紀後半にものなのですね。ハイジの時代背景もだいたい19世紀ごろのスイスと言って良いでしょう。

スイスは今でこそ観光立国ですが、昔は外国で戦争が起こるたびに若者を戦地に送り込んで外貨をカセいでいたのですね。スイスは15世紀から19世紀にかけて傭兵を各地に送っていました。スイスの傭兵は山岳地域でキタえぬかれた頑強ガンキョウな体の持ち主でした。だからこそ、スイスの傭兵は重宝されたのですね。スイスは国中が山だらけで農業もできない上に、資源もありません。だからこそ、スイスにとっては傭兵稼業は国が生き残るために必要なことだったのですね。また傭兵稼業ヨウヘイカギョウによってスイスは強大な軍事力を保有する事となり、他国にとっては、侵略がとても難しく、侵略してもそれに見合った利益が得られない国だと言われるようになったのですね。20世紀になって『民間防衛』(※1)という本がでましたが、そんな歴史を持つスイスならでは。

そんなスイスが変わったのは、1869年にヴィクトリア女王がスイスに五週間も滞在してから。ヴィクトリア女王はスイスの美しい風景に感動したとか。五週間もいたとうことはよっぽどスイスのことを気に入ったのでしょうね。それ以降、観光客が訪れるようになりました。そうしてスイスが観光立国に生まれ変わったのです。

また、1815年にスイスは永世中立国エイセイチュウリツコク宣言をし、1874年にスイス憲法が改正され傭兵の輸出を禁じるようになり、1927年には自国民の外国軍への参加を禁止したのですね(※2)。このため、スイスの傭兵輸出産業は完全に終了することになったのですね。逆にいえば、輸出禁止により職を失う傭兵も出てくるのですね。要領ヨウリョウよく転職できた人は良いのですが、そうでない人も少なくなかったのですね。

軍人とか傭兵というのは戦争の時は英雄エイユウとして持ち上げられますが、戦争が終わったり、退役すると厄介者ヤッカイモノ扱いされることが多い。映画「ランボー」ではベトナム戦争の英雄が、退役後、厄介者扱いされて警備けいびの仕事すらつけない悲しさが描かれております。

ハイジのおんじが気難キムズカしくなったのも、色々苦労があったんだろうな。また原作では、おんじの若い頃は血気盛んで、ケンカのあげく殺人をしたと書かれております。そんな過去もあって、おんじは嫌われたのだろうな。そこへハイジがやってきて、おんじも心の安らぎを得たのかもしれません。


ちなみに傭兵ヨウヘイの輸出禁止と言っても、傭兵が完全にスイスからいなくなったわけではないし、中世からの伝統をもつバチカン市国のスイス衛兵のみは、ローマ教皇キョウコウを守るために、唯一の例外として認められております。また、スイスは永世中立国といっても軍隊を持ってる上に徴兵制チョウヘイセイまであります(※3)。


* おまけ

ロッシーニの過激じゃなかったw歌劇「ウィリアム・テル」の序曲、「スイス軍の行進」を。1829年に作曲されました。スイス軍はとても強く勇敢でした。曲を聞くと、そんなスイス軍の強さが伝わってきます。僕は世代的に「オレたちひょうきん族」を連想してしまいますw





※1 1969年にスイスで出版され、各家庭に260万部発行・無償ムショウで配布された。発行元はスイス国民保護庁。冊子サッシには戦争の危機に際して必要な準備や心構えなどについて解説されている一方で地震ジシンなどの自然災害への備えに関する記述キジュツは皆無。しかし、この冊子の内容をめぐってスイスでデモが起こった。現在では冷静時代の遺物イブツとみなされ、この本の存在自体がスイスで忘れ去られている。逆に日本人に「民間防衛」のことを質問されて、初めてこの本の存在を知ったスイス人もいるほど。

※2 1936年に勃発したスペイン内戦では、これに参加した自国民に対して禁固刑キンコケイなどの処罰が成された

※3 永世中立国は自前の軍隊を持ち、有事の時は自分たちで国を守らなくてはならないという決まりがある。日本も永世中立国になろうという意見も左の人たちを中心に言われていたが、日本が永世中立国になるとアメリカとの同盟も無くなってしまうし、民間人もそれこそ「民間防衛」を片手に日々の防衛意識を高めなくてはならなくなるから、むしろ大変なことになる。


ランボー3 (字幕版)
ランディ・ラネイ

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24時間テレビをやっておりますね。この番組に関しては厳しい意見も散見しますが、この番組を楽しみにしていたり、募金で救われている人たちもいらっしゃるので一方的に非難すべきかどうか難しい所です。まあ、あんまり障害を持った人たちに対して手荒なことだけはやめていただきたいなと。あと,募金の使い道(内訳)の情報公開もお願いしたいなと。募金のネコババなんてもってのほかですから。

また、まもなくパラリンピックが始まります。頑張って欲しいなって。

歴史上で障害を持った人で有名人と言えば,仙台四郎でしょうか。え、知らない?東京や大阪ではともかく仙台ではめっちゃ知名度高いです。仙台四郎の本名は通説では芳賀 四郎であるが、親族によれば「芳賀 豊孝」だそうです。また、口の悪い者は「バカ四郎」と呼んで痛そうです。

彼は1885年生まれで,1902年に亡くなっております。仙台四郎は知的障害で,会話もままならず,時々出てくる言葉は「バヤン、バヤン」だったとか。また、四郎は、まねごとが好きで、例えば商家の小僧さんが店先で掃除をしていると、小僧さんと一緒になって掃除をするのですね。そんな四郎のことを迷惑がるお店と、逆に喜んで、四郎に食事を食べさせてくれるお店と分かれたのですね。四郎を大切にしたお店は繁盛し、逆に煙たがったお店は経営が悪化したのですね。

それで,四郎自身が選んで訪れる店は繁盛するとの迷信のマスメディアを巻き込んで流布し、売上増を企図する店舗等が四郎の気を引こうと厚遇したのですね。四郎が有名になると、それまで四郎を冷遇したお店も手のひらを返して、四郎の気を引きます。が、不思議なことに、一度四郎を冷遇した店に、四郎は二度と近づかなかったのです。


また、四郎が亡くなった後の大正期に入ると、仙台市内のある写真館が「四郎の写真を飾れば商売繁盛のご利益がある」と謳って写真販売を始めたのです。昭和の戦後恐慌以降、四郎のブームが度々発生し、お稲荷さんやえびすさまを差し置いて、四郎は仙台で信仰され、さらには全国的に知られる福の神として定着したのですね。今でも仙台の商店街やモールのあちこちで仙台四郎の人形などを見かけます。四郎は福の神さまだったのかもしれませんね。





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(仙台四郎の写真。ウィキペディアより)

*この記事はウィキペディアを参考にしました。

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前回は曽我兄弟のお話をしましたが、今日は彼らをめぐる女性たちの話です。まずは曽我兄弟の母親の話から。

母親は、夫の河津佑泰を殺され、悲しみにくれていたのです。夫の亡骸の前で、母は二人の息子に「工藤佑経の首を取ってこの母に見せよ」と言ったそうです。兄は5歳、弟は3歳でした。弟の方は幼さゆえに状況がつかめず、母のヒザの上で手遊びをしていたのです。兄は父の亡骸にしがみつき、敵討ちを誓ったのです。やがて、母は曽我家の当主と結婚し、兄弟も河津家から曽我家に引き取られました。新しい夫のもとで母は幸せな日々を過ごし、いつしか夫の仇討ちなんてどうでも良くなったのです。しかし、兄弟は父の仇討ちを忘れませんでした。

ある時、二人が家の中で弓の練習をしていたら、「敵討なんてもってのほか、それでお前が命を落としたらどうするのですか」と叱ったそうです。

それから月日は流れ、兄の方は元服。曽我十郎祐成ソガノジュウロウスケナリと名乗ります。一方、弟の方は、母に出家を勧められます。亡き父の供養のために寺に入って修行をしなさいと。非業の死を遂げたものの一族が、寺に入り菩提を弔うのは当時の慣例だったのですね。母は弟に敵討ちを諦めさせたかったのですね。こうして弟は箱根権現(今の箱根神社)に預けられたのですが、弟は勝手に山を降りて兄の元へ戻ったのです。兄は温かく迎え入れ、そして弟は兄とともに北条時政の館に向かい、時政に元服親になってもらい、晴れて弟も元服し、曽我五郎時宗ソガゴロウトキムネと名乗ります。

母を喜ばそうと二人は、母の元へ行きましたが、母は障子をピシャリと閉めて、「今日より親がいると思うでない。私も子がいるとは思わぬ」と会ってくれなかったのです。つまり、弟の五郎が勝手に山を降りたから、母は怒ってしまったのです。母はどうしても仇討ちを諦めてもらいたかったのです。

そして、源頼朝が巻狩をする話を聞きつけ、兄弟は討ち入りのチャンスだと思ったのですね。

兄弟は、仇討ちの前に母に会います。弟を許してもらうためと、別れを告げるためでした。母は口も聞こうとしなかったのを、兄が「五郎ほど親孝行なものはいない」と言ったところ、母は涙を流したと言います。そして母は弟の五郎を許したのです。兄弟は、母に狩場に行くとだけ伝えました。今着ている小袖が区度ているから、新しい小袖を母に所望したのです。すると母は「兄弟に曽我殿(夫)の小袖を貸すから、狩場から帰ったら返しなさい」と言ってきたのです。これは親として生きて帰ってこいという意味でしょう。息子たちは「狩場に行く」としか言わないけれど、母はわかっていたのです。息子たちが夫の仇を取ろうとしているのを。

そして兄弟は母からもらった小袖を身につけ仇討ちに向かったのです。兄弟は工藤佑経が潜む館の配置など、情報を探りました。戦にせよ、仇討ちにせよ情報集めが基本ですからね。赤穂浪士だって闇雲に討ち入りしたのではなく、吉良邸近くで情報収集をしていましたから。そして、その仇討ちをすると決めた当日、二人は母に手紙を書きました。

「人の命は儚きもの。私が先に死んでも花や木の葉が散ったと思って諦めてください」と手紙につづ李ました。

そして兄弟は父の仇である工藤佑経をめったぎり。ついに宿願を果たしますが、二人とも敵の手に合い命を落としてしまいます。二人の死後、母の元に兄弟がしたためた手紙と小袖が届きます。母は天を仰ぎ、地に伏して泣きぬれたといいます。涙で手紙を読むこともできなかったとか。


また、兄の曽我十郎には好きな女性がいました。名を虎といい、相模国大磯の遊女でした。恋に落ちた十郎は大磯まで足しげく通ったそうです。親の仇うちに燃えていた十郎に取って、虎との出会いは心休まる、大切なひとときだったのではないでしょうか。十郎の死後、虎は10代で出家。十郎の弔いの旅をしたと言います。十郎が死んだ富士のふもとに着くと泣いたと言います。その後、虎は64歳で亡くなるまで、念仏三昧の日々だったと言います。曽我兄弟の冥福を祈っていたのかもしれません。


*この記事は「にっぽん!歴史検定」を参考に書かせてもらいました。
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