history日誌

歴史と歌が大好きな私が日本史から世界史まで広く浅く書きます。 歴史の知識は素人レベルで、私が語る歴史の内容が真実かどうかは自信はありませんがw、楽しんでブログを書いていきます。教科書に載ってないようなマイナーな歴史の話もします。

今日は北海道の阿寒湖にまつわる悲しい曲をご紹介します。曲名は毬藻まりもの歌」。「毬藻の歌」は昭和28年に発表された曲で、安藤まり子さんという方がお歌いになっております。なにしろ古い歌なので、この曲を知っている方は60歳くらいの人でもそう多くなく(80歳以上のの方だったら大体ご存知かもしれない)、カラオケでこの曲をお歌いになるかたも年々減ってきております。メロディーの美しさといい、短いけれど洗練された歌詞といい、とっても良い歌なのに。僕はまだ40代ですが、この曲すきで度々カラオケで歌いますよ。DAMでこの曲をリクエストすると安藤まり子さんご本人の映像がでてきます。

芹洋子さんもカヴァーされ、阿寒湖の遊覧船にのると、芹洋子さんヴァージョンの「毬藻の歌」が流れるそうですが、オリジナルは安藤まり子さんです。以前にNHKの歌番組に安藤まり子さんがご出演され、80代とは思えない、すばらしい美声を聴かせてくださいました。

この「毬藻の歌」には阿寒湖の伝説が下敷きになっているといいます。なんでも、アイヌの長老の娘セトナが村の若者のマニペに恋をしたと。しかし、セトナには父親が決めた婚約者がいたのです。身分が違うということで、セトナとマニペの二人の恋はかなわなかったと。来世は一緒になろうと願い、セトナとマニペは阿寒湖に身を投げたといいます。そして二人の魂は、阿寒湖のマリモになったといいます。

ちなみに、最近になってこの伝説は作り話だという説も出てきました。あくまでもマリモ伝説は一人の日本人の創作で、実際にその筆者の手記もあるといわれております。

アイヌ民族にそのような悲しい伝説があったかどうかはわかりませんが、アイヌ民族が悲しい思いをしたのは事実です。アイヌ民族は、17世紀から19世紀において東北地方北部から北海道、サハリン、千島列島に及ぶ広い範囲に住んでおりました。それが江戸時代に、アイヌ民族は松前氏という大名からたびたび迫害を受けました。アイヌの人たちをだましたり、漁場や猟場も荒らしたりしたそうです。

1669年にシャクシャインというアイヌの指導者が立ち上がり、松前氏と戦いましたが、シャクシャインはあえなく討ち取られてしまうのです・・・

それ以降松前氏の支配はひどくなり、アイヌの人たちを安い賃金でこきつかいました。それで、たびあびアイヌの人たちは抵抗しましたが、いつも厳しくおさえられ、アイヌの土地もどんどん日本人の侵略をうけ、アイヌの人たちは隅に追いやられてしまったのです・・・

19世紀当初から20世紀後半まで日本の中央政権は、アイヌ民族に対し同化政策を押しつけたそうです。明治から第二次世界大戦敗戦前まで使用された国定教科書にはアイヌを「土人」と表し、アイヌの人たちは差別をされてきたのです。

ちなみに僕は阿寒湖どころか北海道には一度もいったことがありません。僕の親父が仕事でたびたび行っていたいたのですが。機会があれば阿寒湖に行ってみたいですね。実は僕は子供のころに「オホーツクに消ゆ」というゲームにはまり、子供のころから北海道に行きたいなって思いましたもの。「阿寒湖」もこのゲームに出てくるし、阿寒湖はマリモが有名だということもゲームで知りました。僕も父が北海道に出張に行くとき、マリモをねだり、おみやげにマリモを買ってきてもらいました。


また、阿寒湖では毎年夏になると「夏希灯なつきとう」という幻想的なイベントがあるそうですね。







(阿寒湖とマリモの動画)


(夏希灯のようすiv>


※ 参考サイト

https://www.ainu-assn.or.jp/ainupeople/history.html


https://www.tsurugagroup.com/plans/natsukito/

広島県呉市に音戸の瀬戸(おんどのせと)とよばれる海峡があります。海峡自体は比較的狭いのですが、海流がはやく泳いで渡ることができないので、船を使って海峡を渡ったのです。現在の音戸渡船の形は江戸時代からと言われています。

そしていつごろからか急流から舟歌『音戸の舟唄』が作られ歌われました。戦後、渡船は24時間開かれ、4隻で船頭10人以上で運航していたそうです。それが海峡に橋がかかったのですね。

1961(昭和36)年に瀬戸内海初の有料道路橋(現在は無料)として開通した音戸大橋と、2013(平成25)年に開通した第二音戸大橋(愛称:日招き大橋)が架かり、1つの海峡に2つの橋がかかる日本では珍しい景観を作り出しています。

そんなこおもあって渡船のニーズが減っているのですね。しかし、いまでも地元の人は交通手段として渡船を利用したり、観光目的でも渡船は使われております。

この音戸の瀬戸を切り開いたのは平清盛だといわれております。安芸の厳島神社に参拝するための航路の整備のために切り開いたとか、荘園からの租税運搬のため、日宋貿易のための航路として、海賊取り締まりのため、など様々な説が言われております。






DSC_1734


DSC_1728


DSC_1729


DSC_1733
(清盛の塚)

DSC_1731
(清盛の塚)

DSC_1735
(平清盛の人形)

木下惠介生誕100年 喜びも悲しみも幾歳月 [DVD]
佐田啓二
松竹ホームビデオ
2012-08-29



「喜びも悲しみも幾年月」という映画があります。福島県いわき市の塩や岬にある東大じゃなかったw灯台が舞台で、海の安全を守るため、日本各地の辺地に点在する灯台を転々としながら厳しい駐在生活を送る灯台守夫婦の、戦前から戦後に至る25年間を描いた長編ドラマです。

1956年に雑誌掲載された福島県塩屋埼灯台長(当時)田中績(いさお)さんの妻・きよさんの手記から題材を得て、木下恵介監督自身が脚本を執筆しました。全編にわたりカラー映像で撮影され、単なるホームドラマの枠を超えて日本各地の美しく厳しい風景を活写した大作で、公開当時大ヒット作となり、同年の芸術祭賞を受賞しました。この映画の主題歌を歌われたのが若山彰さん。バリトンの素晴らしい歌声の持ち主です。この歌を作詞・作曲されたのが木下忠司さん。木下恵介監督の弟さんで、兄の映画であるこの「喜びも悲しみも幾年月」の劇中曲も作曲されました。木下忠司さんは、今年(2018年)の4月に亡くなったそうです。享年102歳だったそうです。


塩屋岬の灯台は明治32年につくられました。それ以降灯台では田中さんご夫妻のような灯台守が、嵐だろうが何だろうが、灯台に明かりをともし、海の安全を守ってきたのですね。今は灯台も自動化され、灯台守という職業はなくなったそうです。

塩屋岬の灯台および、塩屋岬一帯は先の震災で津波の被害をうけました。僕も去年塩屋岬に訪れました。こんな穏やかな海が、あの3・11の時に荒れ狂い多くの人々の命を奪ったのかと信じられないくらいでした。灯台の近くにはお土産屋さんがあり、そこには震災当時の写真も展示されておりました。おびただしい被害の様子がうつっておりました。僕はもともと海が好きだったのですが、海が一瞬嫌いにもなりました。

このページのトップヘ