history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

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今、ゴールデンウィーク。どこを行っても、人、人、人。ここ2年はコロナで自粛ムードだったから、静かだったけれど、今年は少しはコロナがおさまったせいか、今までの自粛のうっぷんを晴らすかのような人だかり。かくいう僕も、浅草に行ったのですが、驚きましたよ。島倉千代子さんのうたじゃないですが、お祭りみたいににぎやかでした。観音様にお参りに行くことは良いことですが、去年のGWに行った時は比較的少なかっただけに驚いています。100年前のスペイン風邪が収束するのに3年かかったと言いますが、コロナも3年目、そろそろマジで収束してほしいなって。

さて、そのスペイン風邪とはインフルエンザのことです、スペイン風邪は世界で5億人が感染、4000万人も死亡したと言われ、亡くなった人もたくさんいました。電子顕微鏡が発明されるまで、ウィルスの存在が知られておらず、スペイン風邪の原因は菌の仕業だと思われていたのですね。スペイン風邪はウィルスの仕業なのに、菌を殺したところで、ウィルスを殺すことができません。そんなんじゃスペイン風邪はいつまで経っても治りっこないのですね。電子顕微鏡が発明されてから、ウィルスが発見。それをもとにワクチンも発明されたのですね。

さて、このスペイン風邪が第一世界大戦を終わらせたと言われております。第一次世界大戦は、泥沼化したのですが、スペイン風邪が兵士たちの間で大流行して、戦争どころじゃなくなったのです。一方でスペイン風邪が第二次世界大戦の引き金でもあったと聞いて驚かれる方もいらっしゃるんじゃないでしょうか。

1919年1月、フランスのパリ、ベルサイユ宮殿で、ベルサイユ講和会議が開かれました。この会議は戦争の後始末について話し合われました。焦点は敗戦国ドイツについて。イギリスとフランスは多額の賠償金を課そうとしました。それに対しアメリカの大統領ウィルソンは大反対。過酷な要求は恨みを残し、次の戦争の火種になると考えたから。会議は長引き3月になっても続きました。この頃、フランスのパリでもスペイン風邪が流行り、イギリスのロイド・ジョージ首相、フランスのクレマンソー首相、そしてウィルソン大統領も感染してしまったのです。特にウィルソン大統領は症状はひどかったと言います。

僕も昔インフルエンザにかかったことが何度かありますが、あれは苦しいですよ。熱は出るし、頭もガンガン痛いし、体がすごくだるくなるの。僕はゲームが好きなのですが、インフルの時は好きなゲームどころか、何もしたくない状況でしたもの。おそらくウィルソンも同じ状況で、立っているだけでもつらかったと思いますよ。


本来のウィルソンはいつも俊敏で、すぐに結論を出す人物だったのですが、この時のウィルソンは、覇気がなく、決断を迫られても、のらりくらりとはっきりしない感じだったのです。そりゃインフルにかかれば、そうなりますよね。そして1919年6月、パリ講和条約の調印式が行われました。結局、イギリスとフランスの言い分が通り、ドイツに巨額の賠償金が課されるようになったのです。その金額はドイツの国家予算の20年分に相当すると言うから驚きです。ウィルソンが元気だったら、断固として反対していただろうけれど、スペイン風邪にスタミナと判断力を奪われたウィルソンに、自らの信念を語る力もありませんでした。講和会議でそんなムチャが通ったことで、ウィルソンは「私がドイツ人なら、何があっても署名しないだろう」と吐き捨てました。


むちゃくちゃな賠償金はドイツ経済を圧迫、人々は苦しみ、フランスやイギリスといった連合国への恨みはどんどん強くなったのです。そんな中で、登場したのが、あのアドルフ・ヒトラーです。ある意味、スペイン風邪がヒトラーを生み出したようなものです。もし、ウィルソン大統領がスペイン風邪に感染していなかったら歴史は変わっていたかもしれない。

今年、コロナ禍のなか、ロシアがウクライナに侵攻しました。コロナ禍でヨーロッパ各国が苦しんでいる、そのスキをぬうかのように侵攻しました。プーチンの暴走を見るたびに、ヒトラーとダブってしまい、恐ろしいなって思いました。

※この記事は「映像の世紀」を参考にして書きました。

ウクライナ情勢はいまだに解決する見込みがありません(2022年5月3日現在)。一日も早い平和的解決をお祈りします。本当にプーチンの恐ろしいなって。ウクライナ侵攻とこれだけ悪いことをしているのだから、さぞ支持率も下がっているかと思いきや、なんとプーチンの支持率は上昇してて支持率82%。さらにウクライナ侵攻を支持する意見も70%を超えると言います。僕も非常に驚きましたね。

プーチンに反対したりデモを起こす人もいることはいるのですが、まだ少数派のようです。実はロシアではプーチンの人気は高いのですね。経済を立て直した実績もあるし、意外と国民の意見を割と聞いてくれるところがあるので。僕はてっきりドラえもんの「のび太の宇宙小戦争」に出てくる独裁者のように国民から恐れられ、嫌われ、革命を起こそうにも秘密警察に弾圧されているのかとばかり思っていたのです。


プーチンのことを知れば知るほど、ヒトラーに似ているなって。ヒトラーは、国民から嫌われるどころか、ナチスドイツ時代大変な支持を受けておりました。実際、ナチスドイツ時代を回想し、あの時代はよかったっていう高齢者も少なくないのですね・・・

しかし、そんな中でもヒトラーを恐れ、ヒトラーを暗殺しようと考えた人も少なくなかったのです。ヒトラーの暗殺計画は実行されなかったものも含め40以上。このようにヒトラーの独裁体制に不満を持つ人も結構いたのです。しかし「何かを思案ければならない」と頭でわかっていても、怖くてそれを行動に移せず、計画だけで終わってしまう人たちの方が多かったのです。

例えばモーリス・バヴァーという25歳の青年は、1938年11月にパレードの群衆に紛れて、ピストルでヒトラーを暗殺しようと企てたものの失敗。彼はナチスは許せないという感情から動いたのですね。

それで実際に行動に移したのがゲオルク・エルザー。彼は一介の労働者で、ドイツ共産党を支持していたのです。とは言いましてもゲオルクは共産主義者ではなく、労働者の見方を指定くれるだろうと思ってドイツ共産党に投票していたのです。そのため当初からナチスには批判的だったのですね。周りの人がナチス式の敬礼をしても、エルザーはそれを無視。ゲオルクは時限爆弾を作り、ヒトラーを暗殺しようと考えたのです。それもたった一人で。

ヒトラーがミュンヘン一揆の舞台となったビアホールで、ミュンヘン一揆の起きた11月8日の夜に毎年必ず記念演説を行なっていました。それを知ったゲオルクは、この日に行動しようと決めました。ゲオルクは、その日の一ヶ月前くらいから準備し、前日の深夜にビアホールに忍び込み、時限爆弾を仕掛けました。そして1938年11月8日。爆発。死者8人、負傷者63人も出す、惨事でした。犠牲者の多くはナチ党員でした。しかし、ヒトラーは死ななかったのです。それどころか、この事件をナチスは、ナチス党員に犠牲者が出たと宣伝し、世間の同情さえ買ったのです。なぜヒトラーが無事だったかというと予定よりも30分早く講演を終わらせたからです。ヒトラーは悪運が強いですね。

そしてゲオルク・エルザーは逮捕。新聞は「悪質で残虐な人殺し」と非難。確かにゲオルクのやったことは残忍で良くないが、のちのヒトラーたちがやることを考えたら、人のこと言えないじゃんって思うのですが。一方でヒトラーのことは「総統の奇跡的脱出」と賛美。そしてゲオルクは1945年4月9日に銃殺されてしまいます。そしてゲオロクの事件以降、ヒトラーの警備は厳しくなり、一般人がヒトラーを暗殺するのは不可能に近くなったのです。

しかし、絶望的な戦争を続けるヒトラーへの不満が国防軍内部にも広がったのです。特にロシア派兵は無謀そのもの。ソビエト軍の反撃にあっても、ドイツ軍の撤退を認めず。寒さとソビエト軍の猛攻で、たくさんの兵士が犠牲になりました。無謀な作戦ばかりのヒトラーに対して現場の将校たちは不信感を抱いたのです。さらに捕虜や民間人の虐殺。そんな残虐行為に加担するのは、もう嫌だという声も上がってきたのです。

その中心人物がヘニング・フォン・トレスコウ。彼の言葉を引用します。

この残虐行為は100年経っても悪影響を残すだろう。責めを負うべきはヒトラーだけでなく、むしろ君や私であり、君の子供や私の子供でもあり、通りを横切っているあの女性でもあり、あそこでボールを蹴っている若者でもある。


ヒトラーの残虐行為に加担したら、それこそ後の世でドイツの恥であると。例え、小さな力でも、ヒトラーの暴挙に反対する人間がいたことを後の世に示したいと思ったのでしょう。

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(ヘニング・フォン・トレスコウ)

しかし、ヒトラーは用心深く、自分の周りには信頼できる側近しか置かず、



毒見役を12人も並べるほど。移動の際は、同じ型の飛行機を2機飛ばし、どちらにヒトラーが乗っているかわかりにく。

それでもトレスコウは諦めません。1943年3月13日、ヒトラーが東部戦線視察を行った際に爆殺を企て、ヒトラーの側近にお酒の瓶が入った荷物を渡しました。その荷物は爆弾も入っていたのです。その酒の入った荷物をヒトラーの乗っている飛行機に持ち込ませました。しかし、爆弾は不発。失敗、数日後にはルドルフ=クリストフ・フォン・ゲルスドルフという人物を説得してヒトラーに対する自爆攻撃を企図しましたが、直前になって中止になりました。

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(ルドルフ=クリストフ・フォン・ゲルスドルフ)


このように暗殺未遂事件が起きましたが、巻き添いを食って犠牲になる人も少なくありません。もっと穏健なやり方がなかったのかって思うのですが、ナチスは独裁的な政治を行い、民主的な手法での政権交代は不可能な状況でした。暴力がまかり通り、暴力に対抗するには暴力で行くしかないという空気が合ったのですね。

今日は、宮本武蔵と佐々木小次郎が戦ったという巌流島ガンリュウジマ巌流島のお話。実は、言い伝えられている巌流島の決闘ケットウは結構ウソがあるのです。今日はその辺のお話をします。まず、武蔵が書いた「五輪書」。名著ですね。兵法だとか勝つための極意が書かれた名著で日本だけでなく、世界でも読まれております。僕もチラッと読んだことがあります。この五輪書にはなんと、巌流島の戦いのことが全く書かれていないのですよ。不思議ですね。もしかしたら巌流島の戦い自体がなかったのか???流石にそれはありません。なぜ、書かれていないのか、それはのちに話します。



  1. 佐々木小次郎は若くてイケメンだった?
    佐々木小次郎役といえば、若くてイケメンのイメージがあります。僕のなかで記憶に残っている佐々木小次郎役といえばTOKIOの松岡昌宏さんでしょうか。

    佐々木小次郎は有名な剣士で、ツバメ返しという技を使っていたと。巌流島にある武蔵と小次郎の銅像を見ても、確かに小次郎はイケメンでかっこいいです。しかし、巌流島の戦いが、いつ行われたか、はっきりしないのです。また、佐々木小次郎は小倉藩コグラハンの剣術師範だったといいますが、小倉藩には佐々木小次郎という名前の人物はいなかったといわれております。言い伝えでは、この決闘は小倉藩公認で、小倉藩の役人が見守る中、二人の決闘が行われたといいますが、実際は違うそうです。また巌流島は小倉藩の領地ではありません。

    武蔵の決闘のことを書き記した小倉碑文コクラヒブンには、武蔵の対戦相手は「兵術の達人、巌流」とあるだけ。「佐々木」と書いていないのです。『沼田家記』という文献には「小次郎」とあります。武蔵の死後130年経った1776年に書かれた『二天記』という本のの注釈には「岩流小次郎」とあります。他の文献には苗字ミョウジが佐々木ではなく、津田だったり、渡辺だったり。それどころか、多田市郎という名前だったという文献まであるとか。いづれにせよ、武蔵の対戦相手の名前はよくわかっていないのです。

    ともあれ、僕のブログでは武蔵の対戦相手は、小次郎とさせていただきます。また、小次郎が、若くてイケメンではなく、おじいちゃんだったという説まであるとか。小次郎が若くてイケメンのイメージがついたのは吉川英治の小説の影響が大きいとか。


  2. 宮本武蔵は遅刻した?
    伝説では宮本武蔵は約束の時間から2時間たってやっと武蔵がやってくりなり、小次郎は怒り出したと。実は武蔵は、わざと遅刻して、小次郎をイライラさせて冷静さを失わせたと。これも一つの策ですね。といいたいところですが、これは真っ赤なウソですwあれは物語を面白くさせるための作り話。武蔵はちゃんと約束の時間を守ったといいます。

    しびれを切らした小次郎が、刀のサヤを投げ捨てて、それを見た武蔵が「小次郎、敗れたり」といったそうです。なぜ、武蔵が「小次郎敗れたり」というセリフを言ったかというと、それは「勝つつもりならば大事なサヤを捨てはしないはず」だから。

    けれど、小次郎が本当に刀のサヤを捨てたか、どうか、これも史実かどうか怪しいところ。作り話である可能性の方が高そうです。
  3. 船のカイで刀を作った?
     はい、これも作り話w船の櫂から木刀を作ったといいますが、それはありません。武蔵はちゃんと事前に木刀を用意しておりました。対戦する小次郎は真剣だったのです。真剣とはここではマジメという意味ではありません。本物の刀です。小次郎が刀なのに、武蔵は木刀。武蔵の方が不利ですよね。しかし、これも武蔵の計算があります。

    一つは軽いから。木刀は真剣に比べると軽いそうです。軽くて動きやすいというメリットがあるのです。真剣は持ったことがないのですが、見た目よりずっと重いそうです。

    二つめの理由は小次郎を殺したくないから。武蔵は小次郎の頭をごつんと木刀で叩きました。小次郎は倒れてしまいましたが、幸いにして小次郎は息を吹き返したのです。武蔵から見たら、勝負に勝てればそれで良い、小次郎ほどの剣士を殺すのは惜しいというのがあったのでしょう。

    その小次郎ですが、武蔵に敗れた後、武蔵の弟子たちにボコボコにされ死んでしまうのですね。これは武蔵の命令か?違います。これは武蔵の父親が差し向けだといいます。晩年、武蔵が書いた「五輪書」に決闘のことが書かれていないのは、自分は小次郎と正々堂々と戦いたかったのに、結果的にダマシうちみたいになったことを恥じているのかもしれないと?なぜ、決闘のことを「五輪書」に書かなかったのか武蔵本人じゃないとわからないですけれど、武蔵にとっては苦い経験だったと思います。




*この記事はBS・TBSの「にっぽん歴史鑑定」を参考にして書きました。

最近、「ドラゴン桜2」を見ました。去年放送したものですが、リアルタイムでは見ていないので、CSでやった再放送を今更ながら見させていただきました。阿部寛さんの演技もすごかったけれど、こども店長だった加藤清史郎さんが生徒役としてご出演されたことに驚きました。ちょっと前までかわいらし子供だったと思っていたのに、今ではイケメンの好青年に。月日の流れの早いこと。自分も歳をとるわけだw個人的には、江口のり子さんが演じられた学園の理事長が印象に残りました。ちょっと怖いけれど、生徒思いで根は優しい理事長を見事に演じられました。理事長の「大人の都合で、子供を振り回すことは絶対に許さない」というセリフにはしびれました。僕も見ているうちに、この歳で東大受験しようかなw?なんて思ったほどw影響されやすいんですねw

しかし、東大といえば、最難関。入学試験も大変難しいです。僕もためしに図書館で、東大の日本史を借りて、問題にチャレンジしたのですが、チンプンカンプン。受験生も大変な思いで勉強しているかと思います。受験といえば、昔の中国でも大変でした。

昔の中国には科挙という役人の任用試験がありました。科挙の出題科目は、四書五経。それから美しい詩や名文を書くことまで求められたのです。役人に詩や文学のスキルまで本当に必要なのかって思うのですが、その点の問題点は後でお話しします。


四書とは「大学」「中庸」「論語」「孟子」。五経とは、「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」で儒教で一番大切な五つの経典です。試験は宋代は論文が中心でしたが、明や清の時代になると、四書五経に書かれた一字一句を正確に答えることが求められました。そのため、下着に儒教の経典の文字を細かい字でびっしり書いた受験生もいたようです。いわゆるカンニングですねw

では具体的に科挙はどのように行われたのでしょうか。宋代の科挙を例にとると、科挙は三段階に分かれていました。まずは地方で第一次試験がおこわなれ、それに合格したものが都の開封で第二次試験、その試験に合格すると、皇帝自らが出題するペーパーテスト。これに合格するとはれて役人になれるのです。皇帝自らというぐらいだから面接かと思われがちですが、違うようです。でも、皇帝が見ている前で試験を受けるなんて緊張しますよね。

しかし、こうした科挙の制度は、時代が下るにつれて大きくなっていったのです。科挙に合格した役人のたちは、文章や詩文のうまさといった教養のみを君子の条件として貴び、現実の社会問題を軽視していたのですね。そのため、治山治水など政治や経済の実務や人民の生活には無能・無関心であることを自慢する始末であった。これを象徴する詞として「ただ読書のみが崇く、それ以外は全て卑しい」と。しかし、役人になると現実のいろいろな難しい問題が出てくるんです。いくら美しい詩が作れても、計算ができなかったり、災害が起こったときに有効な手段が取れなくては意味がありません。実際、宋の時代は度々他国から攻められたのですが、その度に有効な手段が取れず、宋はどんどん弱体化していったのですね。




今日は、ユナボマーことセアドア・カジンスキーの生い立ちを見て行きます。生い立ちを通して、彼が犯行におよんだ過程カテイを見ていこうと。

セアドアは幼い頃から社会に適合テキゴウできないことに苦しんでいたのです。父親は彼が幼い時に突然自殺。つらかったろうな・・・セアドアは友達とも軽い雑談ザツダンもできず、小難こむずかしい話ばかりしていたと。クラスメイトがつけたあだ名は「歩く脳みそ」。

おそらく知能も高く、勉強ばかりしていた分、同年代の友達と遊んだり触れ合うこともしなかったのかと。勉強ばかりといえば、のび太のママは、すぐ「勉強しろ」とうるさい。一昔前の日本の団塊ダンカイママもそういう教育ママが多かった。でも、勉強も大事かもしれないが、友達と遊ぶことを通してコミニュケーションを学ぶことはとても大事なんですよ?のび太はドラえもんや仲間たちのふれあいを通して勉強よりもっと大事なものを学んだと思う。

藤子不二雄A先生も、人は人間と交わることで成長するとおっしゃってました。本当にその通りだなって。人間関係ってめんどくさいけれど、そこから逃げると成長もできないばかりか、変なことばっか考えるようになりやすい。


そしてセアドアは16歳で名門ハーバード大学を飛び級入学。数学を専攻センコウしたのです。が、飛び級入学したがゆえに周りは年上ばかりで、いじめさえ受けたと言います。彼の孤独コドクは深まるばかり。そんなセアドアも、20代の若さでカルフォルニア大学の助教授に就任シュウニンしたのです。IQも167もあって、論文の内容もすばらしく、将来を嘱望ショクボウされたのです。しかし、セアドアは生徒から嫌われ、結局大学を2年で退職。


なんか頭が良いこと以外は僕とセアドアは似ているな・・僕も子供のころは、暗くて、友達もいなくて、テレビゲームが遊び相手。スポーツや歌が苦手で、野球やカラオケにさそわれても断ってばかりいた。しかもどもりがひどくて、自分の思うことがなかなか話せない。だから友達なんてできっこないですよね。そんな調子だから、大人になっても、まともな人間関係を築けず苦労しましたもの。人間関係ってわずらわしいかもしれないが、人間に生まれてきた以上は、人間とうまくやっていくしかないのだろうなって。今でこそ僕は、カラオケが好きで、誘われたら二つ返事で行くようになりましたが、横のつながりって大事なんだなって、この歳になってやっと気づきましたよ。せめて20代の時に気づいていれば、今頃オレはなんて時々考えてしまいます。

そうして世の中がイヤになった彼は、自然を求めて、モンタナの山里に小屋をたて一人暮らしを始めたのです。山小屋で一人静かに暮らしていたセオドアですが、その小屋の周囲の原野は不動産開発と工業化によって破壊ハカイされ、彼の怒りは頂点に達したと。静かな生活が壊されたことに怒りを覚えたのでしょう。

彼を犯行に駆り立てたのは、みじめな自分への苛立いらだちも理由の一つと考えられます。コンプレックスですね。彼が最初の犯行で大学教授をターゲットにしたのは、自分と同じ大学教授でありながら、成功して幸せな人生を送っている人物が気に入らなかったのでしょう。嫉妬シットですね。そして、彼は一人でなやみ、苦しんだ挙句あげくに、俺がこんなになったのは社会が悪いと思うようになったのかなあ・・・

良い方向へ持っていけば、セアドア・カジンスキーはすばらしい学者になれたかもしれないのに残念だなって。

それにしても、セアドアを理解してくれる人が周りにいなかったのかと、僕は考えてしまいます。例え一人でも理解者が周りにいるとだいぶ違うと僕は思います。ノーベル賞を受賞したジョン・ナッシュ博士も数学学者で、ひどい変わり者で人付き合いが苦手。だから世間からうとまれていたのです。が、そんな彼を献身的ケンシンテキに支えたのが妻でした。映画『ビューティフル・マインド』でも、そんな二人の夫婦愛が描かれております。ジョン・ナッシュ博士の奥様のような人が、セアドア・カジンスキーのそばにいたら、セアドアはユナボマーにならなかったかもしれない。野村克也さんが「人間は『人の間』と書く」とおっしゃる通り、人は決して1人では生きられないんだなって。


ビューティフル・マインド(吹替版)
ヴィヴィエン カーダン
2017-07-01




※この記事は「ダークサイドミステリー」を参考にして書きました。

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