history日誌

昨年、天皇皇后両陛下がご即位されましたが、その即位の礼も持統天皇が始めたとも言われております。持統天皇は645年、中大兄皇子なかのおうえのおうじの娘として生まれました。幼名を鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)といいました。なんか難しいお名前ですねw

この年、ある大事件が起こります。乙巳いっしの変です。中大兄皇子らが蘇我入鹿を暗殺したのです。中大兄皇子はそれから、自分の権力を強化するために、次々と策を張り巡らします。その一環として、13歳になった娘の鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)と大海人皇子おおあまとのおうじと結婚させます。大海人皇子は中大兄皇子の弟なのですね。すごいですね、自分の娘を自分の弟の嫁にやるのですから。昔は近親結婚が珍しくなかったのですね。こうして中大兄皇子は自らの血筋の人間だけに権力を集中させようとしたのですね。

中大兄皇子がここまで、自分の権力強化にこだわったのが当時の対外情勢にありました。7世紀後半の東アジアは中国には大国唐が治めていて、朝鮮半島では新羅が唐と結び、高句麗や百済といったライバル国を滅ぼしていたのですね。それで、日本は百済復興のために新羅に戦いを挑みました。それが663年に起きた白村江の戦いです。日本は、新羅とその同盟国の唐の連合軍と戦いますが、破れてしまいます。

それで日本は国力を高めなくてはならないと思ったのでしょう。668年には中大兄皇子が天智天皇として即位しました。大海人皇子は兄を助けました。それが671年、天智天皇は病に倒れたのです。病床に伏せていた天智天皇は弟の大海人皇子を呼び、「自分の命は長くないから、後のことはお前に託す」と伝えたといいます。しかし、大海人はそれを拒否。そして「大友王にすべての政務を執り行っていただくのがよいでしょう」と大海人は天智天皇に伝えました。大友皇子は天智天皇の息子でした。

しかし天智天皇の真意は大友王子への譲位があった。そりゃ弟より我が子のほうがかわいいですからね。といいたいところですが、当時の王位継承は、時の天皇が決められるものではなく、群臣が決めるか、みなが納得して承認することが必要なのです。大友王子が次期天皇という声が上がれば、大海人は辞退するしかないのです。それで大海人皇子は出家をし、吉野にこもってしまいます。

671年、天智天皇が崩御すると、大友が兵をあげます。それをきいた大海人は吉野を逃れました。はじめは数名だったのが、次第に大海人に人が集まり、大軍となりました。そして大友と大海人がぶつかかりました。それが672年におきた壬申の乱です。この戦で大海人は勝利を収めました。

この時、宇野じゃなかったw(野球選手だろw)鸕野(うの)は桑名の土地に避難していたといいます。大津皇子、草壁皇子、忍壁皇子の幼子とともに。.

673年、大海人は天武天皇に、鸕野(うの)は皇后になります。天武天皇は中央集権国家の樹立をはかります。一方のウノ皇后も積極的に政治にかかわります。681年、ウノ皇后は天武天皇とともに律令の編纂を命じます。飛鳥浄御原令です。のちの大宝律令につながります。

天武天皇とウノは679年、6人の皇子とともに吉野に訪れ、そこで天武天皇は6人に言いました。「我が子供、おのおの異腹にして生まれたり。しかれども今一母同産のごとく慈しまん」と。壬申の乱のように兄弟が相争ってはいけないという事を6人の皇子に言い聞かせたのでしょうね。6人の皇子は兄弟といっても腹違いでしたから。これがいわゆる吉野の盟約です。そこでは、ウノの実子である草壁皇子を筆頭とし皇位をめぐって争わぬように言い聞かせられます。

しかし、天武がなくなってからウノは天皇の後継者は若すぎるということで、自ら実権を握りましt。いわゆるしかし、そのことに反発した大津皇子(ウノの姉の子)が謀反をおこしました。それでウノは大津が吉野の盟約を破ったという理由で、捕らえて死を命じたといいます。そうして内乱を未然に防ぐことができました。

しかし、悪いことに、それから3年後、ウノの実子の草壁皇子が病死しました。天皇の後継者はだれがつとめるのか。ウノに迫られた選択肢は三つ。

一つは草壁には軽皇子かるのみこという息子を即位させること。血統の面では申し分はありません。しかし、軽皇子は7歳。年長の後継者たちを差し置いて、軽皇子を継がせれば内乱が起きかねない。

二つ目は他の年長の皇子を即位させる。これなら慣例通り。彼らも納得するだろうし。その中でももっとも有力なのは高市皇子たけちのみこ。血統では一段落ちるが壬申の乱でも活躍したし、人望もある。

3つ目は、ウノがみずから即位すること。しかし、ウノが即位したところで豪族たちは従うだろうか。女性の即位に反発する恐れあり。さてどうするか。


次期天皇が誰になるか、それはまた次回。


























  



※ この記事は「歴史秘話ヒストリア」を参考にして書きました。

戦国の世を大きく変えた鉄砲。なにしろ鉄の鎧さえも撃ち抜くのですから。この鉄砲が日本に初めて伝わったのが1543年(天文12)年のこと。この年、種子島に外国の船が漂流してきたのです。その船にポルトガル人が乗船していたのです。

ポルトガル人が持っていたのが鉄砲でした。当時の種子島を治めた領主が種子島時堯でした。時堯は試しに鉄砲を撃ってみると、その威力に驚いたといいます。時堯はポルトガルの証人から2丁の鉄砲を買いました。現在の価値で数千万円ものお金を支払ったともいわれております。時堯は鉄砲の国産化を考えました。島で一番の鍛冶屋に鉄砲を研究させ、作らせようとしましたが、鍛冶屋は制作に行き詰ってしまいます。銃身の後ろをふさぐネジです。当時の日本にはネジというものがありません。鍛冶屋は困り果てました。それが、翌年1544年(天文13年)、ポルトガル人が再びやってきたのです。運がよかったですね。そのポルトガル人にネジのことをきいたそうです。そして、鉄砲は完成。

鉄砲の国産化は種子島だからこそできたといいます。種子島は砂鉄がとれるところでした。だからこそ、中世にも鍛冶屋がいっぱいいて、そこに鉄砲が伝来したら、すぐにそのコピー品をつくることができたといいます。また、当時の領主の時堯が16〜17歳の若く、好奇心も盛んで、こんな便利なものを多くの人に使ってもらいたいという気持ちがあったのも大きい。もし、年取った領主だったら、高い金を払ったものを自分のものとして秘蔵したことでしょう。

また、のちに本能寺の変の舞台でもある本能寺の末寺が種子島にあり、また大坂の堺にも本能寺の末寺があり、堺に刀鍛冶屋がいたので、その刀鍛冶屋を種子島に勉強にいかせたという記録もあるそうです。そうした本能寺ネットワークは京にも鉄砲をもたらしました。細川勝元は本能寺から鉄砲をもらい受けたといいます。


そうして鉄砲の生産は増大。各地に鉄砲鍛冶屋ができました。各地に鉄砲生産の工場ができたといいます。そのひとつは国友村。国友村は滋賀県にあります。国友の鉄砲はひたすら性能を追求し、命中率を追求したといいます。銃身、筒の部分が質実剛健、堅ろうであって、鉄を鍛えぬいて固く強くしてきたといいます。それがほかの火縄銃の産地と違うところだといいます。国友村で鉄砲が造られるようになったのは、この地の大名、浅井氏が意図的に鍛冶集団を集めたのがきっかけではないかといわれております。

それから、浅井家は織田信長に滅ぼされてしまいます。代わりにこの近江の地(国友村も)は信長の支配地になりました。長篠の戦の際は、この国友村産の鉄砲が大いに役立ったそうです。



ポルトガル人の記録によると当時日本には30万丁もの鉄砲があったと書かれております。これはヨーロッパ諸国の鉄砲の数全部を上回るのです。まさに日本は世界一の鉄砲国家となったのです。

時は移って豊臣秀吉が死去し、徳川家康が大阪に攻め込みます。いわゆる大坂の陣です。その時、家康は国友村に大筒(大型の鉄砲)の大量生産を発注したといいます。ところが大誤算。当時の国友村は全国に職人が散らばっており、国友村には職人がほとんどおらず大鉄砲の大量生産ができません。それで家康は鉄砲職人が村を出て他国へ行くことを禁じました。他国に行っていた職人を連れ戻し、さらにその技術を他人にみだりに教えることまで禁じました。

そうして、大筒は完成。当時の鉄砲で敵にダメージを与えられる距離は100メートル。新しく作られた大筒は弾の重さが従来の20倍、最大射程距離が2キロ以上だといわれております。家康はなんと200丁も、大筒をつくらせたといいます。

完成した大筒は家康の陣地に届けられました。届けたのは国友村の職人たち。当時は宅配便もない時代でしたからね。郵送なんてできません。届けられた大量の大筒をみた家康は職人たちの労をねぎらったといいます。そして、家康は2〜3人職人を残したといいます。大筒や鉄砲のメンテナンス、それから外国から輸入した大砲の整備を職人たちはしたといいます。そして大阪城は落城、豊臣家は滅亡。こうした技術的な革新をおこなった家康の勝利でした。

江戸時代になると国友村は幕府の御用鉄砲鍛冶とされてきました。しかし太平の世になり鉄砲のニーズはなくなり、国友は衰退していきます。そんななか国友の技術が再び注目されます。国友一貫斎。彼はすぐれた発明家でした。一貫斎は鉄砲づくりのノウハウを生かして反射望遠鏡をつくったといいます。これで月や星を観測していたといいます。さらに一貫斎には飛行機の設計図も書いていたちいます。ライト兄弟よりも半世紀も前に飛行機が日本で考えられていたのです。

人を殺す武器が、人々を幸せにする技術に応用されたのですね。すごいことです。



(反射望遠鏡)

(本能寺と鉄砲の関係)

今日は織田信長、豊臣秀吉、それから徳川家康の経済政策を取り上げます。彼らの活躍の背景には豊かな経済力がありました。戦国時代を生き抜くためには、やはりお金が必要だったのです。

1 信長の経済政策
 織田信長は革新的な経済政策をとりました。たとえば、商売の独占を禁止する「楽市楽座」。あらゆる業者が自由に商売ができるようになり、商業の活性化がされました。そして、通行税を取り上げる関所の撤廃。これにより商品を自由に流通できるようになりました。そして国際貿易都市の堺を直轄地として支配。海外の珍しい商品が市場に出回るようになりました。こうして得た経済力を以って、強敵たちと立ち向かったのです。特に武田騎馬軍団との戦いは壮絶なものでした。相手は戦国最強といわれている騎馬軍団。まともに戦ったら勝ち目がありません。それで信長が用いたのが鉄砲。長篠の戦では斬新な戦い方で武田軍を打ち破ったのは有名な話です。その合戦で使われた鉄砲の弾丸。この弾丸には鉛が使われておりました。鉛は日本では珍しいもの。

信長軍の弾丸は海外、それも東南アジアのタイの鉱山でとれた鉛を使っていたといいます。

オランダやポルトガルなどのヨーロッパ諸国は当時大航海時代。こうしたヨーロッパ諸国がアジアにも進出してきたのです。

1572年、カブラルという宣教師が信長の館に訪れます。カブラルは信長にキリスト教の布教の許しをもらうと同時に、日本では取れない貴重な鉛の取引を進言しました。信長は布教を許す代わりに、宣教師たちのもつ交易ネットワークを信長が利用したのではないかと考えられております。戦乱が続き、国内で不足しがちだった軍事物資を信長は海外から調達をしたのです。

2 秀吉の経済政策
1582年の本能寺の変で信長が明智光秀に討たれた後、信長の後を継いだのが豊臣秀吉。秀吉の経済センスはすごいものでした。有名なのは太閤検地。それまでばらばらだった測量方法を統一し、全国の領地を調べ上げました。コメの生産高を正確に把握し、効率よく年貢を集めることができたといいます。そうやって秀吉は財政基盤をつくりあげました。秀吉は日本を平定した後、さらなる経済発展のために途方もない計画を立てました。それが明国出兵。明は高価な陶磁器や絹織物があふれる巨大市場。しかし海禁政策のため、貿易は厳しく統制されておりました。秀吉は中国市場をこじあけようとしたのです。秀吉が明国出兵を思いついたのは、中国をわが領土にしたいという意思は初めはありませんでした。明と日本との貿易を再開し、アジア経済の活性化を目指したのです。しかし、明が日本の申し出を拒否。それで力づくで明をねじふせようとして、手始めに朝鮮半島に出兵したのです。

しかし、中国の地を狙っていたのは日本だけでなく、スペインも狙っておりました。スペインを束ねるのは征服王・フェリペ2世。フェリペ2世は世界征服をマジで狙っていて、世界で初めてアジアとヨーロッパを統一する壮大なビジョンを抱いておりました。世界の市場がひとつに統一されれば、より大きな利益を生むはずだと考えました。

フェリペ2世に先んじて、明を支配しておきたい。しかし、戦争をするにしても、ましてや海外進出となると、そのためにはお金がかかります。それで秀吉は日本中の銀山を開発していたのです。いわゆるシルバーラッシュ。日本の銀の産出量は世界の3分の1を占めており、世界でも「日本は銀山王国」だと広く知れ渡っていたほどです。

そして秀吉は明国出兵の足掛かりに朝鮮半島に出兵。さらに秀吉は明の遠征と同時にスペインのアジアにおける拠点、フィリピンへの侵攻も計画していたといいます。もし、秀吉がフィリピンにも進行していたらスペインと日本との激しい争いになり、それが世界を巻き込むような大戦争になる恐れがあったのです。アジアを発火点に「最初の世界大戦」が起きる可能性もあったのです。ところが、1598年にフェリペ2世と秀吉が死去したため、その危機は免れたのです。本当に危なかった。

3 家康の経済政策
 秀吉の死後から2年たって、関ケ原の合戦がおこりました。東軍率いるは徳川家康。西軍率いるは石田三成。総勢20万の人が入り乱れて戦う、すさまじい戦でした。この戦で勝利を収めた家康は、壮大な経済構想をたてました。家康は1603年に江戸に幕府を開きました。しかし、当時の江戸は湿地が広がる小さな田舎町。急ピッチで建物の建築を進めたものの、大都市とは程遠いものでした。当時、日本で最も栄えていたのが豊臣家の本拠地大坂でした。豊臣家は豊臣秀頼が後を継ぎ、秀吉が残した経済力と、秀吉に忠誠を誓った家臣団を抱えており、家康を脅かしておりました。

豊臣家に対抗するには経済力と軍事力が必要。それで家康が目を付けたのが貿易です。特に商人たちが興したオランダは家康に接近してきました。オランダは家康は武器を買うように提案してきました。これは家康にとっては渡りに船でした。オランダの後ろ盾を得た家康は、豊臣家に戦いを挑みます。大坂の陣です。徳川軍は大阪城に攻め込みますが、鉄壁の守りを持つ大坂城を落とせません。それで家康が頼みの綱としたのがオランダです。家康はオランダから最新式の大砲を買います。オランダの大砲を用いて、大坂城を攻撃。砲弾は天守の御殿を直撃。豊臣家をビビらせたといいます。そして、いったん休戦をして、大坂城の堀を埋めてしまいます。堀を埋められたら、さすがの難攻不落の大坂城もたまったものではありません。そして大坂城は落城。豊臣家はほろんだのです。

敵がいなくなった家康は貿易をすすめました。家康はキリスト教には厳しい態度でしたが、貿易には寛容な態度をとってきました。朱印船を送り東南アジアのほうにも貿易をしていたのです。その時の日本の輸出品が、火縄銃やヤリ、日本刀、それから日本人の傭兵など。

そして、家康は貿易を通して経済力を高め、300年近く続く幕府の基礎を築いたのです。

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