history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

江戸時代は鎖国をしていたと習った方は多いと思います。僕もそうでした。そして鎖国が始まったのが1641年とも教わりました。この年はオランダ商館が長崎の出島に移った年でしたから。

鎖国といえば、外国と交流をしない、今で言えば北朝鮮のイメージですが、実は幕府は貿易をしていたのですね。中国、琉球、オランダ、朝鮮とも交流が続いていたのです。交易の拠点は、長崎の出島は中国とオランダの窓口、朝鮮との窓口は対馬、琉球は薩摩藩を通して交流していました。それに田沼意次の時代には、もっと外国、具体的にいえばロシアと交流しようという意見も出たほどですから。幕府は貿易を制限しただけで、今の北朝鮮みたいに外国との交流をしていなかったわけじゃないのです。

幕府が貿易を制限した理由は、二つ。一つはキリスト教が国内で広まることを防ぐため。ポルトガルやスペインはキリスト教の宣教師を送り込み、内乱を起こさせ、それから軍隊を送り込んでアジア諸国を侵略したのですね。そうした手口を知っていた幕府はキリスト教が広まることを懸念したのです。島原の乱なんてまさに内乱です。あれを許したら、外国は日本に侵略していたかもしれない。だからこそ、幕府は徹底的に一揆軍を根絶やしにしたのですね。

もう一つの理由は、外国との交易を独占するため。諸大名が交易を通して力をつけることを幕府が嫌ったのですね。それで貿易港を制限して、その利益を幕府が独り占めしたかったのでしょう。

そもそも鎖国という言葉自体、1641年には使われておりませんでした。「鎖国」という言葉が初めて使われたのが17世紀末にオランダ商館医として日本にやってきたドイツ人医師ケンペルの著書『日本誌』の中にある。ケンペルは「日本は長崎を通じてオランダとのみ交渉を持ち、閉ざされた状態である」としたのですが、これを1801年にオランダ通訳の 志筑 忠雄シヅキタダオが「鎖国」と訳したのです。


だから、現実的には鎖国のイメージと当時の日本の状況は一致していないのですね。それで、将来、教科書から鎖国という言葉が消えるかもしれないのですね。最も、教科書には「鎖国」という言葉は当時の日本をイメージしやすい言葉だし、教える側からすれば「鎖国」という言葉を使った方が便利なので、現代の教科書では一応「鎖国」という言葉はまだ使われております。

* 参考文献





それではクイズです。鎌倉幕府の成立は何年でしょうか?


  1. 1192年

  2. 1180年

  3. 1183年

  4. 1184年

  5. 1185年

  6. 1190年

  7. 4192年



 正解は明らかに違う七番以外は、正しいとも間違いともいえないのです。ちなみに4192年とは「良い国」ですw


僕が習ったのが「いい国つくろう鎌倉幕府」で「1192年」でしたが、現代の教科書では1185年と書かれた教科書が多いのです。もちろん、鎌倉幕府の成立年は諸説があって、どれが正しくて、どれが間違いとはいえないのです。そんな話をしていきたいと思います。続きを読む

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皆さんにクイズです。上の三人の肖像画、それぞれ誰か言ってください。


え、馬鹿にするなって?

上から聖徳太子、源頼朝、足利尊氏だろっ!!


って声が聞こえそうですが、正解はなんとも言えません。実はこの三つの肖像画、本当は誰なのかわからないのです。一番上の聖徳太子の肖像画ですが、僕が高校までの教科書には聖徳太子ってはっきり書いてありましたし、かつての1万円の肖像画もまさにこの絵でした。ところが最近の教科書には「伝聖徳太子」とあるのです。つまり、聖徳太子の肖像画だと言われているが、はっきりはわからないということ。この肖像画は別人の可能性もあるのです。この肖像画は実は本人の死後100年経ってから描かれたもの。つまり、目の前の聖徳太子本人を見て描いたものではないのです。そのため、聖徳太子の風貌を正確に描かれたわけじゃないのです。

二番目は源頼朝だと言われておりますが、これも「伝源頼朝像」とあるのです。それどころか、この肖像画は足利尊氏の弟の足利直義の可能性もあるというのです。

三番目の肖像画は足利尊氏だと言われておりますが、その可能性は低そうなのです。そのポイントはこの武将の絵の上にある花押です。この花押は尊氏の息子の足利義詮のものですが、息子の花押が父の絵の上に描かれることはまずありえないというのです。さらに、この肖像画の武将というのが品がないのです。とても征夷大将軍とは思えない。だらしなくのばした髪、モジャモジャのヒゲ、折れた弓矢を見る限り、これはもっと位が下の武将かもしれないと。もしかしたら尊氏の家臣の高師直の可能性があると。もちろん、この肖像画が尊氏の可能性も低いかもしれないが、ゼロではないのですね。

歴史の教科書で、日本最初の貨幣は「和同開珎ワドウカイチンだと教わった人も多いかと思います。今の歴史教科書では違います。富本銭フホンセンというものが最古の貨幣だと書かれているのです。富本銭の存在は古くから知られておりましたが、それまでは、おまじないとか祭祀に使うものだと考えられていたのです。それが1999年(平成11)に大量に発見され、それまでの常識が覆されたのです。

その発見された場所が奈良県。今の奈良県立万葉文化館のあるところです。僕もコロナ前に奈良に訪れ、万葉文化館に訪れました。そこに何やら発掘現場みたいなのがあって、なんだろうなって思ったのですよ。万葉文化館にも富本銭のことが紹介されていました。僕もそれで富本銭のことを知りました。万葉文化館建設に先立ち1997年に発掘調査を行なったのですね。そして2年後の1999年に富本銭が見つったのですね。

富本銭が鋳造チュウゾウされたのは天武天皇の時代。天武天皇は強力なリーダシップを持っていて、色々と政治改革を行ったのです。それで貨幣制度も取り入れようとしたのですね。当時、アジアで貨幣制度があったのは中国と日本だけでした。すごいですね。この富本銭の直径は2・4センチ、重さが4・3グラム。当時の中国の開元通宝とほぼ同じくらいの大きさなんですね。悪く言えば中国のパクリですが、ただマネをするのではなく日本独自のデザインを加えました。天武天皇は中国の貨幣制度を参考にした上で、中国に引けを取らないような国づくりをしようとしたのですね。

ただ、当時の日本は物々交換がメインで、富本銭はそれほど普及しなかったのですね。



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(富本銭)

日本史の問題で「645年に起きたことといえば?」と問われたら、「大化の改新」だと答える人はおそらく30歳以上の人が多いかと思います。ちなみに僕は年号の問題は非常に弱くて、歴史のテストや歴史検定でも年号問題が答えられず、ヤマカンで解くことが多いのですwだから、645年と言われても、何があったかすぐ出てこないのですね。1896年なら宮沢賢治が生まれた年で、1975年ならベトナムのサイゴンが陥落カンラクした年だとすぐ浮かぶのですがw

それはともかく、「645年=大化の改新」という記述は、現在の歴史教科書から消えております。現在では、645年は乙巳いっしの変が起きた年と記載されているのです。

乙巳の変とは、蘇我入鹿ソガノイルカ中臣鎌足ナカトミノカマタリ中大兄皇子ナカノオオエノオウジがて組んで暗殺し、さらにイルカ🐬じゃなかったw入鹿の父である蘇我蝦夷ソガノエミシが自殺に追い込まれたクーデターのこと。僕らの世代は入鹿が殺されたことが大化の改新みたいな感じで習ったのですが、実際は違うのです。大化の改新とはクーデター後の政治改革のことであって、クーデターそのものではないのですね。中大兄皇子は、カタマリじゃなかったw鎌足と共に、唐から新しい国家体制を学んで帰国した僧や学者らと、天皇中心の中央集権国家を建設しようとしたのです。そうした一連の政治改革を退化の改心じゃなかったw「大化の改新」というのですね。

ちなみに、蘇我入鹿という人物はどのような人物かというと、聖徳太子と共に政治を行った蘇我馬子の孫です。蘇我一族は自分の娘を天皇に嫁がせ、権力を握っていたのです。推古天皇スイコテンノウも蘇我馬子のめいに当たります。そして入鹿は、聖徳太子の血をひく一族を滅ぼし、我がもの顔だったのです。


いわば乙巳の変は大化の改新の幕開けとなった事件だったのですね。

* 参考文献



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