history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

徳川11代将軍、徳川家斉は健康オタクだったと言います。家斉は生まれながらに体が丈夫で、一年中薄着だったそうです。カゼで寝込んだことも一生で数回程度だったそうです。家斉の健康の秘訣は散歩。毎朝、江戸城内の散歩を欠かさなかったそうです。歩くのは健康に良いそうですよ。

運動不足からジョギングをするのも良いけれど、それより合理的なのは比較的近いところなら自転車か、散歩で行き来することって話を昔誰かから聞いたことがある。


体を温めるということで、毎日ショウガを食べていたと言います。ショウガはカゼにも良いと聞きますね。僕もちょくちょくショウガ湯飲んでますよ。僕はノドが弱いので。ショウガ湯は飲みにくいけれど、体によいから、しょうがなくw飲んでます。実際、僕も昔はカゼを引くとすぐ37度以上の熱が出て寝込んじゃうのですが、最近はあまりカゼを引かなくなりましたし、引いても熱も出なくなりました。コロナの影響で手洗いなどを徹底するようになったのも理由の一つかもしれませんが。

そして家斉が好んだものは、白牛酪ハクギュウウラク。これは何かと言うと、一言で言えばチーズみたいなものです。白牛酪は、精力減退や疲労衰弱ヒロウスイジャクに効くそうです。白牛酪は牛乳を煮詰めて作ったものです。

牛は吉宗の時代にインドから日本に輸入され、その時は3頭で、牧場で飼育したと良い亜ぼうhす。家斉の時代になると70頭以上も増えたと言います。

そんな家斉も天保12年(1841)に 疝癪 センシャクという病気にかかります。症状は胸や腹などが差し込んで痛む病気です。今でいう急性腹膜炎キュウセイフクマクエンではないかと言われております。そのまま家斉は亡くなりました。69歳でした。69歳というと現在の価値観だと早死にですが、平均寿命も今より短く、医療が発展していない当時の状況から考えたら十分長生きだったのです。健康に気を使い長生きをしたことも家斉が長期政権を担えた理由の一つだと言えます。

1 最も長く在位した将軍
 冬季オリンピック盛り上がってますね。今回の北京オリンピックの開会式みましたが、素晴らしかったですね。演出は中国映画の巨匠チャン•イーモウ(※1)でした。彼の映画は何本か見ましたが、色の使い方とかさすがだなって。 2008年にも北京でオリンピックをやりましたが、あの時の開会式は、やたら長く、人海作戦でただ同じことの繰り返しだったからウンザリ😩したのを覚えています。今回はコンパクトで洗練されていてよかったです。さて、長いといえば、この人の話題を触れたいなって。徳川幕府は250年以上続き、その間15人もの将軍がおりました。

では、クイズです。徳川15代将軍の中で、最も在位期間が長かったのでは誰でしょう?



  1. 徳川家康

  2. 徳川吉宗

  3. 徳川家斉

  4. 徳川慶喜





正解は、徳川家斉トクガワイエナリ。その在位期間はなんと50年。半世紀も将軍の座に着いたのです。しかも鎌倉幕府、室町幕府、徳川幕府と歴代の武家政権を振り返ってみても、家斉の将軍在位期間は最長。最も長く武家の頂点に立ち続けた男といえそうです。そんな家斉の人となりについて、このような記録が残っております。

遊王ユウオウとなりて数年を楽しみたまふ 嗚呼ああ 福徳王と申したてまつるべきかな

家斉は派手な性格で贅沢ぜいたくをしていたのです。だから遊王と言われたのかも。あと家斉といえば、オットセイ将軍と言われました。オットセイの粉末を飲んで精力をつけていたから、そう呼ばれたそうです。実際、家斉は側室も多く、子供もたくさんいて、男子は25人、女子は27人と計52人。まさに大家族のお父さん。ダイナミック・パパという称号を与えたいくらいw二人の側室が同時に子供を産んだというエピソードもあったほど。家斉は好色家コウショクカとしても有名(※2)でした。家斉は健康で病気もあまりしなかったと言いますが、あそこも結構盛んだったのかもw?

2 家斉が将軍になれた経緯
 家斉は、一橋家の出身。一橋治済ヒトツバシハルナリ嫡男ちゃくなんで、徳川吉宗のひ孫にあたります。一橋家は、徳川吉宗が設立した御三卿ゴサンキョウの一つ。御三卿は、清水家、田安家、一橋家といづれも吉宗の血筋です。幕府は将軍の跡取りがいなくなったら、水戸、尾張、紀伊と御三家から将軍を出すことになっておりましたが、吉宗は御三家とは別に、御三卿というものを作って、御三家だけでなく御三卿からも将軍を輩出ハイシュツすることができたのです。

家斉もすんなり将軍になれたわけじゃありません。10代将軍徳川家治の後継者は家治の嫡男、徳川家基トクガワイエモトと決まっていたのです。もし家基に何かあった場合に備え、次期将軍の候補も決められました。それが吉宗の孫の賢丸マサマル(のちの松平定信)と、家斉でした。しかし、筆頭ヒットウはあくまで家基イエモト。二番目が賢丸。家斉は第三候補でした。

しかし、時期将軍候補の家基は18歳の若さで急死。あまりに家基が早く亡くなったので毒殺されたのではないかってウワサもあったほど。賢丸は田沼意次らの陰謀で、白河松平家に養子に出されてしまうのです。田沼は10代将軍家治に仕え権力を握っておりましたが、将軍が変われば自分の地位が危うくなる。ましてや、日頃から田沼を「ワイロ政治」と批判していた賢丸(松平定信)が将軍になったら余計です。


そして家斉は天明テンメイ7年(1787)に晴れて将軍になります。将軍が変わっても田沼は権力を握ろうとしました。しかし、家斉が将軍になって早々、浅間山アサマヤマ噴火フンカし、飢饉キキンも起きたのです。しかも悪いことに米屋も米を買い占めたために米の価格は高騰コウトウ。それに怒った江戸の町人たちは暴動ボウドウを起こしたほど。責任を取らされる形で、田沼とその取り巻きは失脚シッキャクしたのです。田沼の代わりに松平定信が老中に就任しました。かっては将軍職の座を争っていたもの同士が協力し合う形になったのですね。幕末にも一橋慶喜ヒトツバシヨシノブ(徳川慶喜)が14代将軍の徳川家茂トクガワイエモチをサポートしましたが、何か因縁みたいなものを感じます。

3 ひょっとして名君かもしれない家斉
 松平定信は家斉の元で理想の政治を行おうとしました。それは祖父の吉宗に倣う政治改革で、のちに寛政の改革と呼ばれました。また家斉も定信の能力を高く評価し、彼に政治改革を一任したのです。定信は質素倹約シッソケンヤクを命じ、ワイロも否定。江戸城の人間だけでなく、町民の隅々すみずみにまで質素倹約を進めたのですね。その結果、町は活気が消え、経済は停滞。あんまり政府が倹約だの、欲しがりません勝つまでは、だの言うとロクなことにならないのですね。

定信は失業者に仕事を教えて社会復帰を促したり、七分積金シチブツミキンといって町人や商人に町内費を積立をさせる(※3)など良いこともたくさんしたのですが・・・彼の努力も空しく「白河シラカワの清き流れに魚住まず、にごれる田沼、今は恋しき」なんて揶揄ヤユされたほど不人気だったのです。

戦時中とか、今日のコロナもそうですが、あんまりアレもするな、コレもするなって言われると人間はかえって反発するもの。家斉も定信を次第にうとましく思うようになります。実際、怒った家斉は故障コショウじゃなかったw小姓コショウから刀をとり、定信に斬りかかろうとしたくらい。そして定信と家斉の仲が悪くなる決定的な出来事が起こります。家斉は父の治斉に大御所の号を与えようとします。それを定信は「先例がない」と猛反発。そして二人の仲は決定的に悪くなり、家斉は寛政カンセイ5年(1793)に定信を罷免ひめんしてしまいます。

最も晩年の家斉も「(自分のために意見してくれたのに)あの時、罷免したのは申し訳なかった」って反省しているのですね。また、金ピカ好きの家斉があんまり古そうな硯箱すずりばこを大事に使っていたので、小姓が気を効かせて「処分しましょうか」と尋ねたら、家斉は「これは定信からもらったもの」と大切にしていたのですね。

家斉の良い話はこれだけではありません。家斉はある時、家臣に「お前たち、この菊を育ててみせよ」と家臣に菊の苗を渡したのですね。それから時が経って、家斉は「お前たちが育てた菊を見せよ」とチェックしたのですね。家臣たちはそれぞれ育てた菊を用意したのですが、一人だけ貧相だったのですね。家斉はその家臣をしかりつけた?とんでもない、逆に「菊は貧相ヒンソウだが、この男は自分で一生懸命、菊を育てた」って言ったのですね。他の家臣たちは庭師とか専門家に菊を育ててるのを任せていたのですね。その貧相な菊の持ち主こそ、水野忠邦ミズノタダクニだったのです。のちに老中として天保の改革を推進します。

手伝いの者が掃除の際、誤って家斉が大切にしていた牡丹ボタンの枝を折ったと言います。周囲のものは慌てふためきました。「こりゃ、手打ちモノだぞ」と。しかし、家斉は怒るどころか、「おお、枝が折れたら、かえって枝ぶりがよくなったのう」と言って全くとがめなかったと言います。器が大きい人だったのですね。

家斉は毎年初夏に飛鳥山(東京の北区)に訪れていました。ある日家臣の一人が「飛鳥山に行くなら春に行きましょう」って言ったのですが、「確かに桜は美しかろう。だが、飛鳥山の桜は、多くの庶民が楽しむところだ。わしが行けば、二〜三日前から人の往来を禁じたりして、庶民の楽しみを奪う事になる。これは隅田川でも御殿山でも同じ事だぞ」と家斉は答え、家臣は感心したと言います。


また、家斉は『三国志』が好きで、劉備玄徳リュウビゲントクの軍師だった諸葛孔明ショカツコウメイの絵を自ら描くほど。そして家斉はいったのです。「なぜ(諸葛孔明のような)幕臣がいないのか」と。その場にいた幕臣たちは申し訳なさそうに固まってしまったと。すると家斉は「上に劉備玄徳のような立派な君主もいないのだからなあ」と笑ったと言います。その場にいた家臣たちの心も和んだと言います。

よく、家斉は家臣に政治を任せっぱなしの無能な人物ってイメージがありますが、実際はそうでもなさそうですね。家斉は良い幕臣を見つけて、適材適所テキザイテキショに当てる能力に長けていたのです。

4 幕府を傾かせた?将軍
 定信が失脚してから、タカがはずれたかのように贅沢をするようになります。東京の汐留シオドメ浜離宮ハマリキュウを造り、度々幕臣や大奥の女性を招いて宴会を開いたと言います。他にも釣りをしたり、なんと巨大なクジラを運んで見物までさせたと言いますから驚きです。他にも寺社を建て替えたり、その出費もバカにならなかったようです。有名どころでは、東京は雑司ヶ谷ゾウシガヤ鬼子母神堂キシボジンドウ。家斉の寵愛チョウアイを受けた、お美代みよの方という側室がいたのですが、彼女の父親に頼まれて造ったとも。

その贅沢ぜいたくぶりは大奥にも波及ハキュウ。家斉時代の大奥は3000にも及ぶ大所帯だったそうです。そのため出費も余計重なったと言います。例えば家斉の正室の 寔子ただこ(※4)の小遣いは年間5千両+銀百貫。現在の価値でなんと8億円!奥さんに8億の小遣いなんて太っ腹ですね。そして大奥の年間経費は側室の小遣いも含め30万両から40万両。これは現代に直すと、約300〜400億!!。天文学的な経費がかかったのですね。これだけのお金があれば庶民を救えますね。幕府の年間経費が140万両の4分の1を大奥が使っていたと言うから、いかに当時の大奥が贅沢をしていたかが伺えます。

また家斉の50人以上の子供たちを養子縁組に出したために、結婚の費用も重なったのですね。 家斉の女が他の大名に嫁いだ際、化粧料ケショウリョウとして一万両それプラス手当も一万両でした。一万両は今の価値でなんと約10億円。結婚費用に現在の価値で20億はくだらなかったそうです。他にも50人ないし60人もの女中も姫の嫁ぎ先について行ったため、女中の人件費も幕府が負担したから大変だった。嫁ぎ先の大名に幕府が貸していた借金返済を免除メンジョしたり、そうして幕府の財政は傾いたのですね。

そうして幕府の蓄えもどんどん減ったのですね。それを幕閣ばっかくが、ただ指をくわえて黙って見たわけじゃなく、貨幣の改鋳カイチュウを行なったのですね。市中に出回っている貨幣を一度回収し金と銀の含有量をかえ新たな貨幣を作ったのです。もっと言えば金の含有量(品位)を減らして流通させたのです。それをまた市中に流通させたのです。しかも家斉の在位中、貨幣改鋳を8回も行われたのです。吉宗の時代に改鋳された元文小判ゲンブンコバンの金品位は65%でしたが、家斉の時代の文政小判ブンセイコバンの金品位は56%と落としているのですね。


しかし、品位の落ちる貨幣が大量に流通するとお金の価値が下がります。するとインフラになったのです。インフラになって物価も上昇し、庶民は困り果てたのですね。しかし、悪いことばかりではなく家斉の時代は浮世絵ウキヨエだとか歌舞伎カブキだとか江戸の文化が花開いた時代でもあったのですね。文化だけでなく庶民たちにとって大変自由な時代だったのです。

家斉は贅沢をしたかもしれないが、それだけ庶民の方にお金を落としてくれたという側面があったのですね。よく政治家が贅沢をしているってマスコミが叩きますが、悪いことばかりじゃないんです。現代は、先行きの不安から、お金があっても使いたくないor貧困でお金が使えない、という家庭が多いと思います。ましてやコロナ禍ですから。そんな時に政治家がお金を使ってくれるとありがたいのです。経済ってある程度贅沢をする人がいないと回りませんので。

そういう意味で、家斉の時代はある意味、江戸時代の最盛期だと言われております。しかし、頂点を極めると後は下り落ちていくだけ。頂点を極めることは良いことばかりではないのです。中国映画の巨匠、チェン・カイコー(※5)の映画のセリフにもあったなあ。「私にはお前の成功の裏に潜む危機が見える」って。絶大だと思われていた幕府の力も次第に衰えて行ったのです。家斉の死後、30年近く経って幕府は滅んでしまうのです。








※1 「中国第五世代」と呼ばれる世代の映画監督。代表作は、「紅いコーリャン」「HERO」「活きる」など。
※2最も将軍家の血筋を守るために、子供をたくさん作ったという見方もできる。実際、先の将軍家治は子供が少なくなった上に早く亡くなった。

※3この積立金が明治の世になって役立った。インフラを整備したり、今でいうホームレスを収容する養育院の原資ともなった。

※4父は薩摩藩主・ 島津 重豪 シマヅシゲヒデ。のちに広大院と呼ばれる。

※5 「中国第五世代」と呼ばれる世代の映画監督。代表作は、「北京ヴァイオリン」、「さらば、わが愛 覇王別姫」、「黄色い大地」など。

※この記事は「にっぽん!歴史鑑定」を参考にしました。








明日から、いよいよ冬季オリンピック始まりますね。本題に入る前に羽生結弦はにゅうゆづる選手の動画を


すごいですねえ〜。羽生選手の演技は本当に美しい。すごく動きがしなやか。そして何よりオーラがすごい。テレビやネット越しからでも伝わってくるくらいだから、実際会ったらすごいんだろうなあ。あと羽生弓弦さんといえば、紅白歌合戦の審査員をつとめたこともあり、「千本桜」を口ずさんだり「女々しくて」を楽しそうに踊ったりしていたのも印象的でした。結構、お茶目な一面もあるんだなって。
あと映画の「殿、利息でござる!」で、お殿さま役をされました。ちょんまげが似合うなって思わず思ってしまいました。映画で共演した俳優さんたちにスケートを勧めたとか。


さて、羽生さんは宮城は仙台のご出身。羽生さんだけでなく、2006年のトリノオリンピックで金メダルをとった荒川静香さんも幼いころから仙台で過ごしたといいます。もっとも荒川さんは東京のご出身ですが。



仙台市はフィギュアスケートが盛んな土地なのです。というか仙台市は日本のフィギュアスケート発祥はっしょうの地でもあるのですね。仙台城跡に整備された青葉山公園内に五色沼ごしきぬまという池があります。仙台城の堀の一部が五色沼と呼ばれるようになり、その五色沼こそ日本ではじめてフィギュアスケートが行われた場所だといわれております。


1890年(明治23年)頃、仙台市在住の外国人が五色沼でスケートを滑ったことが始まり。1897年(明治30年)頃にアメリカ人宣教師のデビソンが子供達にフィギュアスケートの手ほどきを始めました。1909年(明治42年)頃に旧制第二高等学校(今の東北大学の前身)の学生が「俺たちもスケートすべりたいな」と思うようになったのです。ここの生徒たちは学校でドイツ語を教えているウェルヘル氏に滑り方をならい、五色沼ですべりました。



その旧制二高の学生のメンバーに、のちに日本スケート界の指導者として大きな功績をのこす田代三郎や佐藤幸三、「日本スケート会」を設立した川久保子朗しろうらがいました。



彼らは滑り方や、スケート靴も独自に工夫し、スケートを発展させていきました。また、彼らは遠方にまで滑りに行き、各地にスケートを広めていきました。そして、1931年(昭和6年)には、五色沼でフィギュアスケート選手権が行われました。五色沼はこれほど由緒あるスケート場だったのですが、いまでは五色沼は現在はまったくスケート場として使われておりません。



なぜでしょう?





それは、ずばり温暖化です。温暖化のために五色沼で厚い氷が張らなくなったのです。凍ったとしても薄い氷しかはらないので、スケートどころか人が乗ることさえ無理になりました。今では五色沼でスケートができなくなったのです。残念な話です。ちなみに、五色沼の近くに荒川静香・羽生結弦両選手のモニュメントが設置されたそうです。







(現代の五色沼の様子)



※ 参考文献および参考サイト





http://www.news-postseven.com/archives/20151218_371477.html?PAGE=2








殿、利息でござる! [Blu-ray]
橋本一郎
松竹
2016-10-05









1 おんな太閤記
 橋田壽賀子さんは昨年の4月4日にお亡くなりになられました。早いもんですね。もうすぐ一年たつのですね。橋田壽賀子さんは、「おしん」や「渡る世間は鬼ばかり」をはじめ数多くのドラマ脚本を書かれました。特に「おしん」が叩き出した62・9という視聴率はいまだに破られていない記録です。しかも、近年NHK・BSプレミアムで「おしん」を再放送したら、リアルでは知らない若い世代にも支持されました。Twitterには「おしんチャレンジ」のタグがつき、トレンドに何度も入ったとか。良いドラマというのはいつの時代にも支持されるのだなって。

NHKの博物館で、橋田壽賀子さん直筆の脚本も展示されていたのですが、びっくりするくらい達筆。綺麗な字でした。橋田さんのドラマの特徴といえば、セリフの長さ。セリフを覚えるのが大変で、俳優さんたちは苦労しますが、見ている方にとっては、ストーリーがわかりやすいのですね。あと、橋田さんのドラマのナレーターのセリフに「〜であった。が、〜」という具合に「。が、」という言い回しがよく出てきます。これも橋田ドラマならではの言い回しです。橋田さんのドラマのナレーターといえば奈良岡朋子さんを僕は連想しますが、「おんな太閤記」ではNHKの山田誠浩アナウンサーがナレーターをされていました。

さて、今年の4月3日に橋田壽賀子さん脚本の「おんな太閤記」がNHK・BSプレミアムにて再放送されます。「おんな太閤記」は、1981年(昭和56)に放送されましたが、主演の、ねね役を佐久間良子さん、豊臣秀吉役を西田敏行さんが演じられました。僕は豊臣秀吉といえば竹中直人さんをすぐ連想してしまうしw、西田さんといえば浜崎伝助じゃなかったw西郷隆盛のイメージがあるので。西田さんは、あんまり秀吉のイメージがないのですが、いざドラマを見てみると結構、西田さんは秀吉役も合うなって。ねね役を演じれた佐久間良子さんは淑やかなイメージがありますが、実生活では「ひょうきん」な性格だそうです。その佐久間さんに人柄のよい西田と「コンビを組んだら面白い」という点でNHK側がキャスティングしたそうです。実際、お二人はとても息がピッタリで、本当の夫婦のようでした。

「おんな太閤記」には泉ピン子さんや赤木春恵さん、中村雅俊さん、ガッツ石松さんetc「おしん」にもご出演されている方々も結構多いのですね。おそらく「おんな太閤記」の成功が、「おしん」にもつながったのかなって。「おんな太閤記」も平均視聴率31.8%で、最高視聴率36.8%を記録したといいますからね。戦国ファンの男性のみならず、主婦層の支持も得たことが大きかったようです。西田さん演じる秀吉が、ねねのことを「おかか」って言っていましたが、この「おかか」はこの年の流行語にもなりました。

大河ドラマの戦国ものと言ったら、合戦のシーンがつきものですが、「おんな太閤記」には合戦のシーンよりも家庭の場面が多く、いわば戦国ホームドラマのような感じなんですね。普通なら単調でつまらない話になりそうですが、それでも面白いと思わせるのは橋田さんの脚本の力と、出演者の演技力だと思います。

「おんな太閤記」を企画したプロデューサーは「おんな、子供でも平和に暮らせる社会を作りたい」と反戦をテーマに打ち出したのです。そして脚本を書いた橋田さんもプロデューサーに共感したそうです。橋田さんは戦争を体験しているので、戦争の辛さをよく知っているのですね。反戦のテーマは1989年(平成元)の「春日局」でも貫かれております。

2 いのち
 橋田さんが大河ドラマの脚本を再び書いたのは1986年(昭和61)。題は「いのち」。三田佳子さん演じる女医が主人公で、青森(弘前)と東京を舞台に戦後の日本を描いた作品です。 この作品だけでなくNHKは大河で現代ものを取り扱っていた時期があったのですね(※1)。1984年(昭和59年)の「山河燃ゆ」、1985年(昭和60年)の「春の波濤」。どちらも低視聴率でした。ヒットメーカーの橋田さんに白羽の矢が立ったのでしょう。はじめNHKは司馬遼太郎原作の明治ものに橋田さんが脚色をしてほしいと依頼したのです。それを橋田さんは難色を示したのですね。で、橋田さんがオリジナル作品を書きたいということで、この作品が生まれたのです。「いのち」は長い大河ドラマの歴史の中で、最も新しい時代を取り扱っております(2022年1月現在)。大河としては異色の作品ですが、視聴率も平均視聴率は29.3%、最高視聴率は36.7%と上々でした。

さて、現代物って本当に難しいのですね。事実、「山河燃ゆ」は、ドラマのモデルと思われる人物の家族からクレームが来たそうです。戦国時代とか幕末だとかだったら、その時代を知らない人の方が圧倒的に多いから、多少はごまかしが効くんですよね。ところが現代を舞台にすると、自分らの生きている時代だけに各方面からクレームが来やすいのですね。ましてやNHKは影響力が大きいから。


「いのち」に出てくる人物は全て架空の人物で、実在の人物の名前が出たのはナレーションや登場人物の台詞でもマッカーサー、池田勇人(内閣総理大臣)などごくわずかです。登場人物を全て架空にしたのは、クレームを恐れたのかも。

しかし、農地改革とこれに伴う地主の没落、高度経済成長下の農村、集団就職、オイルショック、核家族化など昭和20-50年代の社会的事象や事件は多数描かれており、戦後の歴史を学ぶにはいいドラマです。

「いのち」には「おしん」にも登場した俳優さんが結構ご出演されております。泉ピン子さん、小林綾子さん、赤木春恵さんetc。あと「おしん」とは関係ないけれど、吉幾三さんもこのドラマにご出演され、この年の紅白にも初出場されました。吉さんは青森のご出身でした。

また、「いのち」は高視聴率で、地元青森でも「いのち」というお菓子が作られたほど。番組が終わって30年以上経ちますが、今でも「いのち」というお菓子はあります。僕も食べたことがありますが、りんごの味がして結構美味しいです。

女医さんが主人公なので、コロナ禍の今だからこそ再放送の意義があると思うのですよ。本当は「おんな太閤記」より「いのち」の再放送やってほしかったな・・・また、「いのち」のOPの曲も素晴らしいのですね。個人的に大河のテーマ曲で一番好きです。作曲は坂田晃一さん。実は坂田さんは「おしん」、「おんな太閤記」、それから「春日局」の音楽を担当されているのですが、僕はやっぱり「いのち」かな。旋律がきれいなんですよ。

3 春日局
 平成最初の大河が「春日局」でした。1989年(平成元)放送です。三代将軍・徳川家光の乳母である春日局にスポットを当てた作品です。家光は有名ですが、春日局は、それほど知られた存在ではなかったのです。それが、このドラマを通じて広く知られるようになり、このドラマから「お局様」という言葉も生まれました。それくらい影響力があったのですね。また、春日局を“強い女”“烈女”のイメージではなく、平和な世を希求し家光・徳川家を支え献身的に生きた女性として描いたのもこの作品の特徴です。

春日局の本名は斉藤福(おふく)で、おふくが明智家臣の娘であることから本能寺の変と山崎の戦いは明智側の立場で、夫稲葉正成が小早川秀秋家臣となったことから関ヶ原の戦いは小早川側の立場で、というように他の作品とは違った視点で描かれているのも特徴のひとつです。

あと家光が紫という吉原の遊女におぼれ、お忍びで吉原に通ったなんてオリジナルストーリーも印象に残っております。紫という女性は徳川に改易された宇喜多家の関係者という設定になっております。もちろん、こんな話はフィクションで、滅亡したとはいえ、大名の娘が遊郭に売られるなんて話はないそうです。物語としては面白いですが。

昭和天皇崩御による放送延期、番組放送中に出演者が亡くなるといったアクシデントが重なるスタートとなったが、平均視聴率は大河ドラマの歴代3位の32.4%、最高視聴率は39.4%を記録しました。

春日局を演じられたのは大原麗子さん。他、長山藍子さんや藤岡琢也さん、中田嘉子さん、東てる美さんといった橋田ファミリー、それから江口洋介さんとか中村雅俊さん、丹波哲郎さん、香川照之さんと豪華な顔ぶれです。あとバイクの事故でお亡くなりになられた高橋良明さんも、ご出演されていたのですね・・・とても爽やかな感じのする人で、人気もすごかった。高橋さんがご出演された「オヨビでない奴!」とか面白かったなあ。『春日局』の「総集編」放送では、高橋さんの出演シーンの全てがカットされているのですね。無免許でバイクを運転したことが原因だとか・・・いづれにせよ、惜しい人を失ったなあって。


※1 現代ものといえば、2019年(平成31/令和元)にも「いだてん」をやっていました。宮藤官九郎さん脚本で、オリンピックがテーマ。視聴率は低迷していましたが、評判は良かった模様。

平安時代に役所に勤める平安貴族は朝は早く、午前3時遅くとも4時に起床します。朝起きて貴族に最初にすることは、自分の属星の名前を7回唱えます。属星とは陰陽道で定められたもので、北斗七星の7つの星がそれぞれ自分の生まれた年の干支で振り分けられているのです。例えば、ネズミ年(子年)であれば、貧狼星ドンロウセイ、ウシ年(丑年)とイノシシ年(亥年)であれば巨門星キョモンセイという具合に決まっているようです。

自分の星を7回唱えることで、自分の行いの正しさを星に伝えるのです。それが終わると暦で今日の吉凶を決めるのです。もし、運勢が悪ければ仕事にも行かなくて良いのです。そのように災いから逃れることを物忌モノイミと言い、その日は一日家にこもっていいのです。欠勤の正当な理由にもなったのです。現代じゃ考えられませんね。運勢が悪いからと言って会社を休んだら、怒られるくらいじゃすまないですよネw

でも、どうしても仕事に行かなくてはならないこともあります。その場合は覆推フクスイといいまして、もう一度占いをし直すのです。それでちょっとでも良い運勢が出たら、出勤するのです。

仕事に行くとなると、まずは房楊枝で歯を磨き、手と顔を洗います。それから自分が崇拝する神に手を合わせます。例えば八幡様を信仰していれば八幡様を念じるという具合。それから昨日の出来事を日記にしたため、やっと朝食。その朝食もお粥が多かったそうです。貴族でも食事は割と質素なんですね。ちなみに、平安の時代の1日の食事は二食。今みたいに三食食べなかったのですね。それが済んだら髪を洗ったり、沐浴をして体を洗ったりしたそうです。とは言いましても、髪を洗ったり、お風呂に入るのは毎日じゃなかったみたいです。

髪をとかすのはは3日に一度。
爪を切るのは12日に一度。
沐浴は5日に一度。


その沐浴も毎月、1日と18日は入ってはいけないのです。1日にお風呂に入ると寿命が縮み、18日に入ると盗賊に入られると言われていたのです。長生きしたい人は毎月1日はお風呂に入らない方がいいですよw?なんてネw

しかし、毎日お風呂に入らないのは不潔だし、体臭が出そう。特に夏はきついものがありますね。それで、お風呂に入れない時は、お香を炊いたのです。きている着物に、お香の匂いをつけたのですね。

それからやっと着替え。


そして5時半くらいに役人は内裏に出勤するのです。貴族の収入は官職が高ければ上がっていきます。例えば、貴族の最高位である太政官の大臣クラスだと現在の価値で年収2億円もの収入(※1)があったというから驚きです。

さて、役人の仕事は部署や仕事の量によってまちまちで、夕方まで勤務したり、宿直とのいという冶金の仕事もありますが、基本的に1日の勤務は午前中の4時間で終わるそうです。現代の感覚からすれば羨ましいですね。

勤めを終えると、その後は遊びの時間。けまりをしたり、競射キョウシャ(※2)や囲碁、将棋、楽器を奏でたり、和歌を詠んだりしていたそうです。なんとも優雅で羨ましい話です。
しかし、これらの遊びも実は自分を磨くためのものだったので、単なる遊びではないのです。当時の貴族たちは漢詩、和歌、楽器の演奏を公的な行事などで披露されることがありました。そのため、日頃から、そういう教養を身につけ、自分を磨く必要があったのです。特に和歌は出世をするために必要なものでした。今に例えれば、接待のためにマージャンやゴルフを覚えたり、ヒトカラで上司が喜びそうな懐メロを練習をするようなものです。


また貴族の家には池があって、その池に舟を浮かべていたそうです。春は桜を見て、月の出ている夜は月見をしていたとのこと。なんとも優雅ですね。

一方の庶民は大変でした。貧しいアバラ長屋に住んでいたと言います。それで租庸調という今でいう税金を納めなくてはならないから大変だったのです。

※1 当時の貴族の収入はお金ではなく、主に年貢や作物、布など。
※2 射撃(弓)で勝者を競う。

このページのトップヘ