history日誌



「夏の思い出」は日本の唱歌のひとつで、音楽の教科書でも習う名曲です。この歌に出てくる尾瀬は、福島・新潟・群馬の三つの県にわたる盆地状の高原で、湿原にはミズバショウやミズゴケなど貴重な植物が見られます。この尾瀬のほぼ全域が国立公園特別保護地域および特別天然記念物に指定されております。

さきほど唱歌といいましたが、この曲ができたのは戦後です。昭和24年、NHKの「ラジオ歌謡」という番組のためにつくられました。この曲がラジオでながれると、この曲はたちまち多くの日本人の心をつかんだといいます。この歌は夏になるとミズバショウが咲いてると詩に書かれておりますが、実際、尾瀬のミズバショウが咲くのは5月〜6月の開花。ちょうど今が見ごろですね。

これは、この曲を作詞した江間章子さん子供時代にすごした岩手では夏にミズバショウが咲いたのです。そうした記憶のずれが、この曲の歌詞がうまれたのです。

一方作曲をしたのが中田喜直さん。「ちいさい秋みつけた」や「雪の降るまちを」を作曲するなど、日本の四季を題材にした曲を多数つくられました。

尾瀬は、この曲が生まれるまでは、それほど有名なところではなかったのですが、この曲ができてから大勢の観光客が訪れるようになり、昭和30年代までは尾瀬の環境破壊が問題になりました。折からの車社会の到来で林道が峠まで延び、入山者が増えて、湿原が踏み荒らされたり、いろいろ問題がでてきたのです。車道も作ろうという動きがあったのですが、昭和46年に「尾瀬の自然を守る会」が発足。昭和46年8月には、車道工事の中止が国会の閣議で了承されました。いまでも尾瀬ではほぼ全域にわたって現在のように木道がさえ整備されるようになり、 木道以外の場所は歩けないようになりました。

僕は尾瀬には一度も訪れたことがありません。ある人から聞いたのですが、尾瀬は高原地域で5月になっても雪が残っているそうです。それくらい寒いところなのでしょうね。10月中頃〜5月初頭の雪深い冬季の尾瀬への入山は中上級者に限られます。

※ 参考文献






南国土佐を後にして」はペギー葉山さんの名曲です。ペギー葉山さんといえば、僕の世代だと「ひらけポンキッキ」にでてきた、しつけおばさんのイメージが強いです。また、紅白歌合戦にもたびたび出場され、昭和41年の紅白では司会もされました。ペギーさんがお亡くなりになり、一年になるのですね。早いものです。

それでは、「南国土佐を後にして」の曲の説明をします。この曲は武政英策が作詞・作曲しました。もともとこの曲は中国戦線に赴いた兵隊たち(通称くじら部隊といったが、望郷の思いから歌っていた「南国節」あるいは「よさこいと兵隊」という曲名の歌だったそうです。それが戦後になって歌詞が変わったのですね。

空襲で焼け出され、高知県に疎開をしていた武政は、酒の席で元歌の「南国節」or「よさこいと兵隊」を聴き、その望郷の思いに心を動かされたといいます。そして、戦後になって武政は原曲の「南国節」or「よさこい兵隊」を採譜、整理、改編しており、原曲の歌詞にあった「中支ちゅうし」「露営ろえい」など戦時下を連想させる言葉を、集団就職の若者をイメージさせる言葉に置き換えたといいます。

昭和28年(29年?)にレコード化し丘京子さんという歌手がお歌いになり、昭和30年には鈴木三重子さんという歌手がお歌いになったのですが、いづれもヒットしなかったそうです。それが、昭和34年にペギー葉山さんがお歌いになり、この曲は大ヒット。

昭和34年といえば高度成長期。いままで高値だったテレビが一般家庭でも普及しはじめたのです。そして集団就職で都会に出た多くの若者の、望郷の思いを代弁する歌として、100万枚も売れたといいます。戦時中、そして集団就職の時代、どちらの時代においても、遠く離れた故郷を思う人々の心に、この曲が響いたのですね

また、この歌の歌詞に「かんざしを買った坊さん」という言葉が出てくるのですが、そのお坊さんは実在したのですね。五台山竹林寺の純信というお坊さんです。鋳掛屋いかけやの娘、お馬に恋をし、彼女を喜ばせようとかんざしを買ったそうです。むかしは、お層板がそんなことするなんて考えられない時代でした。お坊さんが女性に恋をして、何かをプレゼントするということはとてもハレンチなことだったのですね。そのお坊さんのウワサはたちまち広まり、歌にまでなったのですね。


(原曲を歌われている元兵隊さんの動画)

※ 参考文献

「赤とんぼ」は言わずと知れた日本の唱歌の名曲です。学校でも習うし、EXILEのATSUSHIさんも「赤とんぼ」をカヴァーされたくらいですから日本人なら誰でも知っている。といいたいところですが、知らないという人も少数ですが、いらっしゃるのですね・・・特に若い人。2002年の調査で18人の未成年にアンケートをとったら「赤とんぼ」という曲を全く知らないという子がなんと6人もいたのですね・・・。

ちなみに、ちあきなおみさんに「紅とんぼ」という同名異曲(厳密にいえば「赤」と「紅」の字が違う)があるのですが、こちらは知らない人のほうが多そうですねw

この「赤とんぼ」を三木露風が作詞しました。三木露風の故郷は兵庫県の龍野町たつのちょう(今の兵庫県たつの市)のうまれで、大正10年にこの曲が生まれました。「赤とんぼ」の歌詞は三木露風が北海道・函館のトラピスト修道院内で書いたものです。故郷の龍野で過ごした子供のころの思い出を詩に託したといいます。その後、昭和2年に山田耕筰が曲をつけました。

歌詞の舞台となったたつの市は、かつては龍野藩5万3千石の城下町として発展をし、「播磨はりまの小京都」とよばれるほど美しい街でした。いまでも城下町時代の町割りが残っているそうです。

「赤とんぼ」は、NPO法人「日本童謡の会」が行った「好きな童謡」アンケートで一位をとったそうです。舞台はたつの市ですが、多くの人たちにとって故郷、そして母をこの曲から思い浮かべるそうです。歌詞にはどこにも「母」の文字および「母」を連想させるようなキーワードはないのですが、抒情ただよう曲調が、なんとなく故郷で暮らす自分のお母さんのイメージを浮かべるのでしょう。

しかし、三木露風の母は、彼が幼い時に夫の放蕩ほうとうを嫌い、家を飛び出したのですね。作曲をした山田耕筰も家が貧しかったので、9歳で養子に出され、母のぬくもりを知らずに子供時代をすごしたのですね。母のぬくもりを知らないがゆえに、母への思いが強かったのですね。そんな山田と三木の思いが、この歌に込められているのかもしれません。そう考えると「赤とんぼ」を聴いた人が「母」をイメージする人がいらっしゃるのも、うなずけます。

また、この歌にでてくる「ねえや」とは三木露風のお姉さんのことではありません。子守娘のことだそうです。今でいうベビーシッターですね。むかしは子守娘といって、よその家へ奉公をしている女性がいたのですね。朝ドラの「おしん」でも、主人公のおしんは幼少のころに子守娘として材木商のところへ奉公したのですね。奉公先の材木商では、子守だけでなく、いろいろな雑用を命じられり、そこの女中のボスからもいじめられたりと、おしんはつらい思いをしたのですね。

この「赤とんぼ」に出てくる娘も15歳になり、晴れて嫁に行くことができたというのですね。今ではあんまりいないけれど、昔は15歳でも結婚する人はいたのです。あるサイトでは大正〜昭和初期でも15歳で結婚できた人は極めて少数だったといいますが、それでも結婚できた人はできたのですね。

しかし、15で結婚できたとしても、嫁ぎ先で女中のようにこき使われる人も少なくなかったといいます。今でこそ、愛する二人が結ばれて結婚というのが当たり前で、下手すりゃダンナが仕事の合間に子育てをしたり家事をしたりなんてケースも見受けられます。けれど、昔は農家であれば農作業の手伝い、あるいは商人の家は商売の手伝いという具合に、嫁としての働きだけでなく、労働力として働いてくれることを求められたといいます。

そうした話は戦前の話ではなく、戦後になってもしばらくは続いたようですよ。僕の母親が我が家に嫁いだ初日に祖母に言われた言葉が「あんた、体は丈夫かい?」だったそうですから・・・要するに、家のことをしてもらうのに体が弱いと困るということでしょう。


(「赤とんぼ」の動画)

※ 参考文献



紅とんぼ
ちあきなおみ
テイチクエンタテインメント
1988-10-05





今日は、石川さゆりさんの『天城越え』をご紹介します。カラオケの定番曲の一つで、年配の方から若い人にまで人気のある曲です。紅白でも何回も歌われております。あのイチロー選手もこの曲が好きみたいで、自分がバッターボックスに入ったとき、この曲を流すそうです。それでイチロー選手と石川さゆりさんは交流があって、石川さんも度々渡米し、イチロー選手を応援しているそうです。

『天城越え』の舞台は、静岡県は伊豆半島の中央、修善寺しゅぜんじです。修善寺は川端康成の小説『伊豆の踊子』の舞台にもなりました。天城隧道あまぎずいどう(※1)、寒天橋かんてんばし(※2)や浄蓮の滝じょうれんのたきと天城の名所が出てきます。

浄蓮の滝には、まつわる怖い話があります。女に化けたジョロウグモが男をたぶらかし、滝つぼに引きずり込むという怖いお話です。。僕も浄蓮の滝に実際におとずれてから、この伝説をはじめて知りました。

伝説の内容は、次の通りです。


昔、このあたりにおじいちゃんが住んでいたが、浄蓮の滝の上のほうにある畑で畑仕事をしていた。畑仕事でつかれたのか、手に持っていたクワを置いて一休みしていた。するとおじいちゃんの足に美しい女郎グモが糸をからませていた。おじいちゃんは「ワシの足を木と間違えたのだな」と思い、近くにあるクワの木の株にジョロウグモをそっと置いてやった(おじいちゃんの足にからまった糸も切らないように)。

しばらくすると、さっきジョロウグモを置いたクワの木の株が、めりめりと音をたてて引きぬかれ、そのままおそろしい力で浄蓮の滝の方へ落ちていった。おじいちゃんはびっくりしてげ出した。

「浄蓮の滝の主は美しいジョロウグモだ。女郎グモに糸をまきつけられたら、それこそたいへん。そのまま滝つぼにのみこまれてしまうぞよ!」というウワサは広まり、浄蓮の滝に近寄ちかよる人はいなくなってしまった。

それから、何年かたって、ヨソの国から木こりがやってきた。その木こりが浄蓮の滝の上のほうで木を切っていたら、あやまって手に持っていたおのを滝つぼに落としてしまった。すると、滝つぼから美しい女性が現れた。手には木こりが落とした斧を持っている。そして、このように語った。「あなたの斧をかえしてあげますよ。そのかわりに、ここで私の姿を見たことを、だれにも話してはなりません。もしも約束をやぶったら、そのときは、あなたの生命はもらいます」

そして、木こりは女性から斧を返してもらった。木こりは「これは何かあるぞ」と思い、里の人から話を聞いてみた。すると、里の人たちは「その女は浄蓮の滝の主だ。約束を破ったらおそろしい目にあうぞ」と木こりに語った。木こりはおそろしくなって、女の姿を見た話をだれにも話さなかった。

しかし、「言ってはならぬ」といわれると、話したくなるのが人情というもの。木こりは、里の居酒屋いざかやに入り、木こり仲間たちに、酒にった勢いで浄蓮の滝の女の話をしてしまった。そして、木こりはベロンベロンになりそのまま眠りについてしまった。それから木こりは目をますことのないまま、木こりは永遠のねむりについてしまった。



この伝説は作り話ですが、元になった話はあると思います。この浄蓮の滝あたりで山崩やまくずれが頻繁ひんぱんに起こっていたようです。その山崩れで浄蓮寺じょうれんじというお寺もこわれてしまったようです。山崩れで亡くなった人もいたのかもしれませんし、足をすべらせてがけや滝つぼに落ちて死んでしまった木こりや通行人もいたかもしれません。僕も実際に浄蓮の滝の周辺を歩いたのですが、足場があまりよくないのですね。ましてや昔は今みたいに道路も補修されていませんし、外灯もなければ、レスキュー隊なんていない時代でしたからね。そうして、亡くなった人が多いので、女に化けたジョロウグモが滝つぼに引きずり込むという伝説が生まれたのかもしれません。


「天城越え」といえば、松本清張の同名小説も有名です。この小説は映画化され、田中裕子さんが遊女役を実に色っぽく演じられました。どういう内容かというと、天城峠で男が変死をしてしまいます。それで、その男と関係があった遊女が疑われてしまうのです。そして、その遊女に一人の少年が恋をします。その少年は心に傷をおっておりました。少年の母親が男と不倫をしていたのを目撃し、少年は家を飛び出したのです。そこで、天城峠で遊女と出会ったのです。心優しい遊女に少年は、自分の理想の母親像をオーバーラップさせたのかもしれません。おっと、これ以上お話しするとネタバレになりますので、このくらいにしておきます。

天城越え [DVD]
渡瀬恒彦
松竹
2005-10-29


※1 旧天城トンネルのあたり
※2 寒天橋とは、伊豆の海で採れた海藻・天草(テングサ)を、寒天の製造地・信州へ運んでいたが、その海藻や天草を運ぶ際、この橋をとおったことが由来だそうです。



0
女郎蜘蛛の伝説

(ジョロウグモの伝説の説明版)
定連の滝

(浄蓮の滝)
天城越え歌碑
天城越 歌詞

(いずれも「天城越え」の歌碑)


女郎くも

(女の主の人形 ちなみに人形の横に映っている人影は心霊写真しんれいしゃしんではありませんw 私です。)

女郎蜘蛛の伝説

(女郎グモの伝説が書かれた説明板)


じょうれんの滝 弁財天

(弁財天の説明板。弁天様が滝つぼに入り、山崩れを治めたという伝説もある)


263


260


265


266


267


270

(いずれも天城隧道の写真。トンネルの写真は、『伊豆の踊子』の一説にもでてくる旧天城トンネルです)



1 母の日にこの歌
 先週の日曜日は母の日でした。わたくしごとになりますが、僕の母は数年前に亡くなっております。今日は母の命日です。もっと親孝行をすればよかったと悔やまれますが、僕がこれから一生懸命生きて、ささやかでも幸せな人生を送れば、母は喜んでくれるかもしれないと僕は思っております。

今日は、母にまつわる歌の中から岸壁がんぺきの母」のお話をします。この曲はもともとは菊池章子さんが歌っておりましたが、昭和47年には二葉百合子さんがセリフ入りでカヴァーされました。菊池章子さんはすでに亡くなられましたが、二葉百合子さんは引退されたものの、最近歌番組でちょくちょく出演され、この「岸壁の母」をお歌いになっております。この間の「うたコン」では80代後半とは思えないほどの素晴らしい歌声を披露されておりました。

第二次世界大戦後、ソ連による抑留から解放され、引揚船ひきあげせんで帰ってくる息子の帰りを待つ母親たちがいました。ソ連からの引揚船が着くたびにいつでも見られた光景でしたが、時間の経過とともに、毎回、同じような顔ぶれの人が桟橋さんばしの脇に立つ姿が見受けられるようになり、これがいつしか人々の目に止まり、マスコミによって「岸壁の母」として取り上げられ、たちまち有名になりました。

毎回のように桟橋に立ち、息子さんの帰りを待った母親の一人が端野いせさんでした。彼女のそうした息子をまつ姿は映画や歌のモデルになりました。


2 岸壁の母のモデル

 端野いせさんは1899年に生まれ、 1981年にお亡くなりになりました。明治32年(1899年)9月15日、石川県に生まれ、青函連絡船せいかんれんらくせんの乗組員の端野清松さんと結婚し、娘とともに函館で暮らしていましたが、昭和5年(1930年)ごろに夫と娘を相次いで亡くしました。家主で函館の資産家であった橋本家から新二さんを養子にもらい昭和6年(1931年)に上京しました。「岸壁の母」のモデルの親子は実の母子ではなかったのですね。僕もウィキペディアで初めて知りました。血のつながりがなくても、大切に新二さんを育てた、いせさんの深い愛を感じます。

新二さんは立教大学を中退し、高等商船学校を目指すのですが、軍人を志し昭和19年(1944年)満洲国に渡り予備士官学校よびしかんがっこうに入学、同年ソ連軍の攻撃を受けて中国牡丹江ぼたんこうにて行方不明となったといいます。

終戦後、いせさんは東京都大森に住みながら、新二さんの生存と復員を信じて昭和25年(1950年)1月の引揚船初入港から以後6年間、ソ連ナホトカ港からの引揚船が入港する度に舞鶴まいづるの岸壁に立つました。昭和29年(1954年)9月には厚生省の死亡理由認定書が発行され、昭和31年には東京都知事が昭和20年(1945年)8月15日牡丹江にて戦死との戦死告知書(舞鶴引揚記念館に保存)を発行しました。

その時のいせさんの悲しみは深いものだったことでしょう・・・

しかしながら、新二さん(1926年 - )は戦後も生存していたのですね。それが明らかになったのは、いせさんが亡くなった1981年より後、平成12年(2000年)8月のことでした。

3 実は生きていた子
 新二さんは、ソ連軍の捕虜となりシベリア抑留、後に満州に移され中国共産党八路軍に従軍しました。その後はレントゲン技師助手として上海に居住。妻子をもうけていました。新二は母が舞鶴で待っていることを知っていましたが、帰ることも連絡することもなかったのです。


理由は様々に推測され語られているがはっきりしておりません。 新二さんを発見した慰霊墓参団のメンバーは平成8年(1996年)以降、新二さんは3度会ったが、新二は「自分は死んだことになっており、今さら帰れない」と帰国を拒んだといいます。

端野いせさんは新人物往来社から「未帰還兵の母」を発表。昭和51年9月以降は高齢と病のため、通院しながらも和裁を続け生計をたてていました。息子の生存を信じながらも昭和56年(1981年)7月1日午前3時55分に享年81で死去。「新二が帰ってきたら、私の手作りのものを一番に食べさせてやりたい」と入院中も話し、一瞬たりとも新二さんのことを忘れたことがなかったそうです・・・

※ この記事はウィキペディアを参考にしました。

このページのトップヘ