history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。ブログ削除しようとしましたが、やめましたwそのかわりブログをリニューアルしました。コメント欄も久々に開放しましたが、コミ障で、なにぶん心が折れやすい性格なので、コメントの方は何卒お手柔らかにお願いします。

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1 端午の節句と屈原

 今日はタンゴの節句いやw、端午たんごの節句です。きょうは端午の節句ということで、我が家でも、柏餅かしわもちをいただいております。でも、柏餅を食べるのは関東で、関西では5月5日に、チマキを食べるようですね。チマキの話はまた後で出てきます。また、きょうは「子供の日」でもあります。僕が小さい頃は、今の時期に家の居間いまに五月人形(ヨロイかぶと)、その五月人形もすでに処分してしまいましたが。さて、今日は丹後たんごのじゃなかったw端午の節句にまつわるお話をします。もともとは中国の伝統行事です。

それは屈原くつげんという政治家の悲しいお話からはじまりました。屈原はという国の政治家でした。生まれたのが、紀元前340年1月21日頃で亡くなったのが 紀元前278年の5月5日です。つまり屈原は5月5日の今日亡くなったのですね。

屈原は家柄もさることながら、頭の良く、また詩文の才能もありました。楚の王様だったカイオウじゃなかったw懐王かいおうの信頼も厚かったのです。カイオウといえば『北斗の拳』のキャラですよねw

当時、楚の国をしんという国が脅かしていました。その秦という国は軍事力が強く、その国とどのような態度をとるか、楚の重臣たちの間で意見が割れていたのです。。秦と友好の立場をとるか、それとも楚の同盟国のさいとともに、楚を対抗するか。今日の中国と日本の関係に似た状況です。屈原は「秦は信用できない」という立場をとっていました。

しかし、屈原は優秀な政治家ですが、あまりに剛直ごうちょくな性格のため、時にズケズケ言うこともあって、うとまれていたのですね。それだけでなく、優秀な性格のゆえに、周りの人がおろかに見えて、つい上から目線の態度をとってしまったのかもしれない?僕の職場にもこういう人いるなあ。すごく優秀なんだけど、とっつきづらいというか。また、懐王の信頼も厚いうえに、嫉妬しっとされていたようです。中には、懐王に屈原の悪口をあることないこと吹き込んでいたやからもいたとか。

2 張儀の策略
 そうして、屈原の意見はだんだん退けられ、「秦と仲よくしよう」という声が重臣たちの間でも強まり、懐王も次第にそっちのほうへかたむいてしまったのですね。屈原の心配は強まるばかり。

案の定、秦の謀略家ぼうりゃくか張儀ちょうぎという人物の策略に懐王が引っかかるのですね・・・

張儀は対楚工作にしました。楚に対して秦の土地、六百里四方を分けてあげるから、斉との同盟を破棄はきして欲しいと申し入れを張儀はしたのです。楚の懐王は喜んでこれに応じ、斉との同盟を破棄してしますのですね。しかし、うまい話にはウラがあります。

将軍に秦に土地を受け取りに行かせたが、張儀は約束よりものずっと狭い六里四方の土地をあげると言い出したのです。これに楚の将軍は約束は六百里だとめっちゃ抗議こうぎするが張儀はとぼけて相手にしなかったのです。懐王は大いに怒り、秦に対し出兵したが、大敗するのですね。

それから、秦から楚に土地を割譲かつじょうする事で和睦しようという交渉が持ちかけられたが、懐王は「土地などいらぬ。張儀の命が欲しい」と言いました。さすがの界王じゃなかったw懐王も自分をだました張儀のことが許せなかったのですね。界王は『ドラゴンボール』でしたね。


これに答えて張儀は楚に行ったのです。これでは張儀は殺されに行くようなものです。けれど、したたかな張儀には生還する策がありました。。懐王の寵姫ちょうき(※1)に人を使って「秦は張儀の命を救うために懐王に財宝と美女を贈るつもりです。もしそうなったらあなたへの寵愛ちょうあいはどうなるでしょうな」と言わせ、不安に思った寵姫は懐王に張儀を助けてあげてと願ったので懐王は張儀を殺すどころか釈放しゃくほうしたのですね。懐王は女に甘かったのですネ・・


3 屈原の最後
 さらに、秦は懐王に縁談を持ちかけ秦に来るように申し入れたのですね。当然、屈原は秦は信用がならない、先年だまされたことを忘れたのかといさめたが懐王は聞き入れません。結局、親秦派の重臣に勧められて秦に行きました。そして、懐王は、まさに飛んで火にいる夏の虫、秦に監禁かんきんされてしまったのです。これが懐王が『北斗の拳』のカイオウ様みたいに強かったら、秦の兵士を振り切り、楚にもどってこれたかもしれませんがw

懐王も屈原の言うことを聞いていれば、こんなことにならなかったのです。それから、楚の国は懐王の息子があとを継ぎましたが、屈原にとって悪いことに、宰相さいしょうに屈原がもっとも嫌いな人物が就任してしまったのです。当然、屈原は左遷させんさせられてしまいます。屈原が、頭は良かったが、権謀術数けんぼうじゅつすうがうずまく政治の世界を泳ぎ渡るしたたかさがなかったのですね。

その後、秦により楚の首都が陥落かんらくしたことで楚の将来に絶望して、石を抱いて川に入って自殺したのですね。かわいそうに・・・

彼の死後、屈原は愛国者ということで持ち上げられ、彼の命日にチマキを川に投げ入れ、屈原のことをしのんだといいます。彼の命日にチマキが食べるようになったのは、彼のことをしのぶためだったのですね。屈原は生きているうちは報われなかったけれど、亡くなってから彼の評価がうなぎ上り。しかし、僕は複雑ですね。こういう実直な人が評価されず、口がうまいズルい人間が得するみたいな。なんだか、まじめに生きているとバカをみるようで、なんとも後味の悪い話です。

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不明 - 清宫殿藏画本. 北京: 故宫博物馆出版社. 1994., パブリック・ドメイン, リンクによる


(屈原の絵。ウィキペディアより)



※1君主の寵愛ちょうあいする侍女。めかけ


この記事はWikipediaを参考にして書きました。

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本日で疫病のお話はいったん終わります。まだまだコロナが終息しそうにもありませんが、一刻も早い終息を祈りつつ、皆さまの幸せをこころよりお祈りします。それでは本題にはいります。


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1 緒方洪庵と適塾

 江戸時代後期から幕末にかけて活躍した医師の緒方洪庵おがたこうあんは、疫病から人々を救いたいと立ち上がりました。緒方洪庵は幼少のころは体が弱く、武芸の稽古けいこもままならず。若き日の緒方洪庵は悩みました。

自分に何ができるだろう。考え抜いた末、緒方洪庵は医師になろうとしたのです。1836年(天保7)、洪庵が27歳の時長崎に向かいました。長崎で海外の医療を学ぼうとしたのです。西洋医学は当時日本の医師が避けていた人体解剖じんたいかいぼうを積極的に行い、病の原因を探っていました。迷信や俗説ではなく科学に基づいた医学を洪庵はまなびました。そして2年後の1838年(天保9)年、洪庵29歳の時に大阪にうつり、ここで開業医として働き始めました。



この時同時に開いたのが西洋医学を勉強する場所、適塾てきじゅくです。そこに集まった若者たちは、今の医学生とは違います。今でこそ医学生になるにはお金がかかり、金持ちじゃないと厳しいですが、適塾に集まったのは、貧乏な者が多く、汚いということを気に留めず、真っ裸だったそうです。当時の医者は今と違って誰でもなれる職業でした。そのため志のある若者が多く集まりました。決して品行方正とはいいがたいのですが、西洋医学を学ぼうという意欲は相当なものでした。

適塾で学んだものは1000人以上だといわれております。その適塾で学んだ卒業生がなんと、福沢諭吉や日本赤十字社創設者の佐野常民さのつねたみ、さらに橋本佐内や大村益次郎も適塾出身です。


2 天然痘に取り組んだ緒方洪庵
 天然痘てんねんとうがはやっていました。天然痘は子供がかかりやすく発症したら4割が死亡するという恐ろしい病気でした。しかし、ヨーロッパではすでに予防法が見つかっており、種痘しゅとう、つまりワクチンをつかって天然痘を予防するのです。そのワクチンは牛から取れるのですが、当時の人たちは強い抵抗感を持っていました。当時の日本は牛を食べる習慣がなく、なかには種痘をしたら牛になるとまで言われたほどでした。しかし、種痘をみんながためらう一方で、子供の命がどんどん失われていきます。今でいえばアビガンが使われず、コロナの感染者、重傷者が増えるような感覚ですね。



洪庵は悩みましたが、ある日妙案が浮かびました。洪庵は錦絵にしきえに目を付けました。白い牛に乗った子供が悪いオニを退治している錦絵です。その悪いオニが天然痘。天然痘には牛の種痘が効くんだよとわかりやすくビジュアル化しているのですね。さらに実際に種痘を受けた子供にはお菓子を配ったり、貧しい人には無料で接種したそうです。種痘への恐怖を少しでも減らそうとしました。



そうして、少しづつ種痘しゅとうが受け入れられ、幕府も公認したのです。種痘は全国に広まり、天然痘が収まったのです。これで、めでたしめでたりと思っていた矢先に未知の病が日本にやってくるのです。


3 コレラに立ち向かった緒方洪庵

 洪庵は大阪で悲惨な状況を目にします。なんと人々がコレラにかかって倒れていたのです。治療法もなく、洪庵は焦るばかりでした。そんな中、長崎にいたオランダ人医師、ポンぺがコレラの特効薬があると言い出します。それはキニーネという植物で、マラリアの治療などに使われておりました。洪庵はキニーネを患者に煎じて飲ませました。ところが目立った効果はありません。洪庵はキニーネの効果に疑いを持ちます。しかし、他にめぼしい治療薬がありません。それで人々はこぞってキニーネを買い求め、在庫が尽きたといいます。



しかも悪いことに多くの医師たちがコレラの治療をあきらめてしまったといいます。



しかし、洪庵はあきらめませんでした。西洋の本を読んではコレラの研究を続け、その一方で患者たちに解熱剤などを投与し、コメや麦の煮汁を飲ませたといいます。やがて洪庵は一冊の本を書きあげます。「虎狼痢治準ころりちじゅん」。その本の中で、キニーネだけに頼るだけではダメと書きました。今でいえばアビガンやレムデシビルだけに頼るなというようなものです。他にも洪庵が行った対処法や、臨床経験りんじゅうけいけんも書き残したといいます。



そして洪庵は全国の医師に「虎狼痢治準ころりちじゅん」を配ったといいます。ところが、思いがけないことが起こります。ある医者から反論の手紙が来たのです。曰く「キニーネの効果は西洋では支持されている」と。



洪庵はすぐに動きます。なんとその反論に対する答えを「虎狼痢治準ころりちじゅん」に追記したのです。自分の意見を否定されて悔しい気持ちを抑え、必要な情報は届けようとしたのでしょう。洪庵は自らの恥よりも人々を救うための情報を多くの人たちに伝えようとしたのでしょう。病気の治し方がわからない以上は少しでも多くの情報を集めようとしたのでしょう。



やがて、コレラは終息するのです。天然痘もコレラも未知の病気でしたが、それでもあきらめずに治療に取り組んだ洪庵の功績は今も光りを放っております。最後に洪庵の言葉をご紹介します。





「医の道は己のためにあらず。人のためのみ。たとえ救うことができない病であっても患者の心をいやすのが仁術というものです」



※ この記事は「歴史秘話ヒストリア」と「ダークサイドミステリー」を参考にして書きました。

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1 100年前にもあった医療崩壊
 スペイン風邪(インフルエンザ)は日本にもやってきました。日本におけるスペイン風邪の流行の波は三度ありました。一度目は大正7年(1918)11月、二度目は大正9年(1920)1月、そして三度目は大正10年(1921)3月です。死者数も50万人、感染率は43パーセントと高い数値です。

初めて日本にスペイン風邪の病原体がやってきたのは大正7年9月、病原体は神戸や門司もじや大阪などの港から貨物や乗客を通してやってきて、その後、鉄道によって地方都市にも運ばれてしまったのです。しかも、当時は炭坑たんこうや製糸工場などいわゆる三密の職場が多く、それでクラスターが続出したのですね。都市部の病院には患者かんじゃが殺到。看護婦かんごふや医師が足らず、入院を断るケースも出てきたのです。いわゆる医療崩壊です。

医療崩壊といえば、農村は大変でした。大正から昭和の初めのころまで農村と都市部の医療格差が非常に大きかったのです。農村では現金収入がないから、医療費を払えません。昔は国民皆保険こくみんかいほけんもありませんからね。医者は農村では食えないと、都会に流れてしまいます。そうなると医者がいない、つまり無医村の村も増えてくるのです。だから患者がインフルにかかっても、なかなか医者が呼べない、基本的に家族や親せきが面倒をみるしかないのです。そして、患者から家族、それから親せきにまでインフルがうつってしまうのです。



2 ワクチン 開発競争

 第一波が収まったと思いきや第二波が大正9年(1920)にやってきます。死亡者は第一波の5倍とも。それでワクチン開発が急がれたのです。いち早く動いたのが北里柴三郎率いる民間の北里研究所。北里研究所はスペイン風邪の原因はインフルエンザ菌と断定。このインフルエンザ菌はインフルエンザのウィルスとは全く違うものです(というか、僕もネットでそのことを知りましたw)。インフルエンザ菌は人間の鼻の中にいて、中耳炎ちゅうじえんや肺炎などを起こすことがあるといいます。これをもとにワクチン開発に乗り出そうとしました。

その北里の主張を真っ向から批判したのが国立伝染病研究所の所長・長与又郎ながよまたろう教授。長与は菌以外のものが作用しているのではないかと。しかし、それが何かはわからないという立場。スペイン風邪の原因がインフルエンザウィルスの仕業だと判明するのはまだ先のこと。大正9年当時の顕微鏡けんびきょうでは菌よりもさらに小さいウィルスなど発見することができなかったのです。

北里はインフルエンザ菌をもとにワクチンを開発。長与たちもインフルエンザ菌ワクチンに肺炎の予防ワクチンを加えた混合ワクチンを世に送り出します。相変わらずスペイン風邪の病原体はわからないものの、かといって「北里達に後れを取って国は何をやっているんだ」と言われるのが嫌なので、長与たちもワクチンを出さざるを得なくなったのです。

しかも悪いことにこの開発競争が国会でも取り上げられてしまいます。つまり医療の知識のない政治家たちが口出しをしだしたのです。ワクチンを開発したらまずは副作用だとか安全性を確認する必要があり、あんまりワクチンを世に送り出すことを急いではいけないのですね。それを政治家が国民が望んでいるのだから、政府は早くワクチンを出せと言い出す。本来、政治家はワクチン開発を急がせるより、ワクチンを打って死人がでたとか、まずいことが起きたときのセーフティーネットをつくることが大事なのですが。

現在から当時の状況を見れば、北里のワクチンも長与のワクチンも効果がないのは明白ですし、当時からワクチンの効果を疑問視する声もあったのです。でも、当時の人たちはワクチンに期待を寄せたのです。この辺も令和の日本の状況と同じだなって。最終的には500万人のワクチンを接種せっしゅしたのです。

3 政府や地方自治体が行った感染症対策
 スペイン風邪かぜが流行った時の内閣総理大臣は平民宰相とよばれる原敬はらたかしでした。原自身もスペイン風邪に感染した総理大臣でした。さて、腹がおこなった感染症対策について国民の国民に強制させるやり方ではなく、国民一人一人に呼びかける方法をとりました。明治のころ、コレラやチフスが流行ったときに、感染した人間を警察が強引に隔離かくりしたり、商店の閉鎖へいさを強制したら、国民の反発は必至です。

まず政府が行ったのは全国に予防ポスターを配布です。病原体をユニークな妖怪ようかいの姿で描き、せきエチケットやマスクの着用やうがいの奨励しょうれいがポスターに書かれておりました。ポスターの文面も「〜しましょう」という柔らかい口調です。イラストを使って高圧的な印象を与えないように工夫がされているのですね。

また、政府だけでなく、全国の自治体も独自の方法で疫病えきびょう対策を行いました。埼玉県では陸軍飛行所から飛行機を飛ばし、上空から感染の対策のビラを配ったといいます。北海道では女学生にマスクづくりの協力を要請。出来上がったマスクを寄席よせや劇場で無料配布したといいます。

東京ではワクチンを受けられない低所得者のため夜間無料注射所を設置し、医療格差の是正にも取り組んだといいます。それぞれの自治体が地域にあった方法で感染症対策に取り組んだのですね。しかし、東京が低所得者のために医療格差是正に取り組んだ点には僕も非常に驚きましたね。戦前といえば、自己責任論が強く、基本的に国は弱者を助けないという風潮ふうちょうだっただけに。

国や警察による一方的な介入ではなく、地域が率先して感染症に取り組むムーブメントは、やがて昭和12年(1937)の保健所法成立にもつながっていくのです。この法律がつくられてから全国に保健所がつくられ、保健所は地域の公衆衛生の最前線となったのです。



※ この記事は「英雄たちの決断」を参考にして書きました。
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1 スペイン風邪とは
 1918年第一次世界大戦中またしても、疫病えきびょうがはやります。それはスペイン風邪かぜ。風邪というと大したことがないイメージがありますが、これは新型のインフルエンザのことです。いまでこそインフルエンザはワクチンがあり、治療薬はありますが、この当時は未知の病で、致死率も高く、大変恐れられていたのです。個人的な話になりますが、僕も5年前にインフルエンザにかかったことがあります。幸い、タミフルが効いたので大事には至らなかったのですが。治療薬やワクチンがある現在でさえインフルエンザで亡くなる人がいるのです。当時のインフルエンザが人々に与えた恐怖と言ったら、それは大変なものでしょう。

また、スペイン風邪というから、スペインから発祥したイメージがありますが、実際はアメリカが発祥です。アメリカの軍事基地で48人の肺炎患者はいえんかんじゃがでたことから始まりました。当時は大戦中ですから、どこの国もインフルエンザが流行っていたことを隠蔽いんぺいしたのですね。それが当時のスペインだけは中立国で、インフルエンザが流行っていることを世に発表していたのですね。それで、あたかもスペインではやっているように思われていたのですね。スペインにとって風評被害もよいところなのです。

大戦で戦った兵士たちがどんどん感染しました。戦争が終わってからも、自分たちの母国に帰り、水際を通り越しして、市中感染につながったのです。まさに戦争による被害拡大です。それからインフルエンザの原因と思われる細菌さいきんを発見され、この細菌をもとにワクチンがつくられました。ところが、ワクチンは思ったような効果がでず、患者は増えるばかり。それもそのはず、インフルエンザの原因は最近じゃなかったw細菌ではなく、ウィルスだったのです。ウィルスは細菌よりもずっと小さかったのでふつうの顕微鏡けんびきょうでは発見できなかったのです。まさにウィルスは未知の存在だったのです。ウィルスを発見できるようになったのは電子顕微鏡が発明された1932年以降です。

2 ハスラーの挑戦
その未知なるものに挑んだのがアメリカのサンフランシスコの保健委員会委員長ウィリアム・ハスラー。彼が行ったことは「人の接触せっしょくを減らす(人が集まりそうな娯楽施設ごらくしせつや学校・教会閉鎖」ことと「市民に対するマスクの着用義務付け」。

なんとサンフランシスコの市民99%ちかくがマスクを着けていたといいます。当時アメリカは第一次世界大戦の前線で兵士たちが戦っていました。その兵士たちにインフルエンザをうつさないためにも自分たち市民が協力せねばと思ったのですね。

ハスラーは「これはサンフランシスコ市民の持つ注目すべき知識レベルの高さと強調精神の証だ」と。そのハスラーの呼びかけに市民が応えたのですね。1918年10月には8000人の市民がインフルエンザに新規感染したのですが、11月には100人以下まで下がったといいます。11月21日にはマスク着用条例が解除。そして閉鎖していた娯楽施設や学校や教会も再開させます。

3 またしても流行りだした
 ところが、マスク着用条例解除の10日前、第一次世界大戦が休戦したのです。戦争終結の喜びとともに、自粛疲じしゅくづかれも手伝って気がゆるんだのですね。感染者の数は減ったものの、ウィルスが潜伏せんぷくしていたことは当時の人たちは気づかなかったのです。

そしてマスク条例を解除してから徐々に増え始めました。また悪いことに12月はだんだん寒くて乾燥していますからウィルスにとっては居心地のよい環境です。さらに悪いことに12月といえばクリスマス。ますます市民の気が緩みます。それでハスラーは12月7日、ふたたびマスク着用義務化の再実施を訴えます。

しかし、議会ではクリスマスが盛り下がるとかいろいろな理由をつけて反対されます。戦争が終わったので、兵士たちをマスクをつけて守ろうという愛国的な目標が失われてしまったのですね。今日の日本に例えればマスクをして自粛をして医師を守ろうという目標ですね。そのうえ戦争が終わった喜びから市民はクリスマスを楽しみたいという気持ちがあったのです。

インフルエンザでサンフランシスコの死者は3500人でした。そのうち1453人も亡くなりましたが、その1453人はマスク着用解除後の死者だったのです。

※ この記事はNHKの「ダークサイド・ミステリー」を参考にして書きました。
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