history日誌

歴史と歌が大好きな私が日本史から世界史まで広く浅く書きます。 歴史の知識は素人レベルで、私が語る歴史の内容が真実かどうかは自信はありませんがw、楽しんでブログを書いていきます。教科書に載ってないようなマイナーな歴史の話もします。

今日は、石川さゆりさんの『天城越え』をご紹介します。カラオケの定番曲の一つで、年配の方から若い人にまで人気のある曲です。紅白でも何回も歌われております。あのイチロー選手もこの曲が好きみたいで、自分がバッターボックスに入ったとき、この曲を流すそうです。それでイチロー選手と石川さゆりさんは交流があって、石川さんも度々渡米し、イチロー選手を応援しているそうです。

『天城越え』の舞台は、静岡県は伊豆半島の中央、修善寺しゅぜんじです。修善寺は川端康成の小説『伊豆の踊子』の舞台にもなりました。天城隧道あまぎずいどう(※1)、寒天橋かんてんばし(※2)や浄蓮の滝じょうれんのたきと天城の名所が出てきます。

浄蓮の滝には、まつわる怖い話があります。女に化けたジョロウグモが男をたぶらかし、滝つぼに引きずり込むという怖いお話です。。僕も浄蓮の滝に実際におとずれてから、この伝説をはじめて知りました。

伝説の内容は、次の通りです。


昔、このあたりにおじいちゃんが住んでいたが、浄蓮の滝の上のほうにある畑で畑仕事をしていた。畑仕事でつかれたのか、手に持っていたクワを置いて一休みしていた。するとおじいちゃんの足に美しい女郎グモが糸をからませていた。おじいちゃんは「ワシの足を木と間違えたのだな」と思い、近くにあるクワの木の株にジョロウグモをそっと置いてやった(おじいちゃんの足にからまった糸も切らないように)。

しばらくすると、さっきジョロウグモを置いたクワの木の株が、めりめりと音をたてて引きぬかれ、そのままおそろしい力で浄蓮の滝の方へ落ちていった。おじいちゃんはびっくりしてげ出した。

「浄蓮の滝の主は美しいジョロウグモだ。女郎グモに糸をまきつけられたら、それこそたいへん。そのまま滝つぼにのみこまれてしまうぞよ!」というウワサは広まり、浄蓮の滝に近寄ちかよる人はいなくなってしまった。

それから、何年かたって、ヨソの国から木こりがやってきた。その木こりが浄蓮の滝の上のほうで木を切っていたら、あやまって手に持っていたおのを滝つぼに落としてしまった。すると、滝つぼから美しい女性が現れた。手には木こりが落とした斧を持っている。そして、このように語った。「あなたの斧をかえしてあげますよ。そのかわりに、ここで私の姿を見たことを、だれにも話してはなりません。もしも約束をやぶったら、そのときは、あなたの生命はもらいます」

そして、木こりは女性から斧を返してもらった。木こりは「これは何かあるぞ」と思い、里の人から話を聞いてみた。すると、里の人たちは「その女は浄蓮の滝の主だ。約束を破ったらおそろしい目にあうぞ」と木こりに語った。木こりはおそろしくなって、女の姿を見た話をだれにも話さなかった。

しかし、「言ってはならぬ」といわれると、話したくなるのが人情というもの。木こりは、里の居酒屋いざかやに入り、木こり仲間たちに、酒にった勢いで浄蓮の滝の女の話をしてしまった。そして、木こりはベロンベロンになりそのまま眠りについてしまった。それから木こりは目をますことのないまま、木こりは永遠のねむりについてしまった。



この伝説は作り話ですが、元になった話はあると思います。この浄蓮の滝あたりで山崩やまくずれが頻繁ひんぱんに起こっていたようです。その山崩れで浄蓮寺じょうれんじというお寺もこわれてしまったようです。山崩れで亡くなった人もいたのかもしれませんし、足をすべらせてがけや滝つぼに落ちて死んでしまった木こりや通行人もいたかもしれません。僕も実際に浄蓮の滝の周辺を歩いたのですが、足場があまりよくないのですね。ましてや昔は今みたいに道路も補修されていませんし、外灯もなければ、レスキュー隊なんていない時代でしたからね。そうして、亡くなった人が多いので、女に化けたジョロウグモが滝つぼに引きずり込むという伝説が生まれたのかもしれません。


「天城越え」といえば、松本清張の同名小説も有名です。この小説は映画化され、田中裕子さんが遊女役を実に色っぽく演じられました。どういう内容かというと、天城峠で男が変死をしてしまいます。それで、その男と関係があった遊女が疑われてしまうのです。そして、その遊女に一人の少年が恋をします。その少年は心に傷をおっておりました。少年の母親が男と不倫をしていたのを目撃し、少年は家を飛び出したのです。そこで、天城峠で遊女と出会ったのです。心優しい遊女に少年は、自分の理想の母親像をオーバーラップさせたのかもしれません。おっと、これ以上お話しするとネタバレになりますので、このくらいにしておきます。

天城越え [DVD]
渡瀬恒彦
松竹
2005-10-29


※1 旧天城トンネルのあたり
※2 寒天橋とは、伊豆の海で採れた海藻・天草(テングサ)を、寒天の製造地・信州へ運んでいたが、その海藻や天草を運ぶ際、この橋をとおったことが由来だそうです。



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女郎蜘蛛の伝説

(ジョロウグモの伝説の説明版)
定連の滝

(浄蓮の滝)
天城越え歌碑
天城越 歌詞

(いずれも「天城越え」の歌碑)


女郎くも

(女の主の人形 ちなみに人形の横に映っている人影は心霊写真しんれいしゃしんではありませんw 私です。)

女郎蜘蛛の伝説

(女郎グモの伝説が書かれた説明板)


じょうれんの滝 弁財天

(弁財天の説明板。弁天様が滝つぼに入り、山崩れを治めたという伝説もある)


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(いずれも天城隧道の写真。トンネルの写真は、『伊豆の踊子』の一説にもでてくる旧天城トンネルです)



1 母の日にこの歌
 先週の日曜日は母の日でした。わたくしごとになりますが、僕の母は数年前に亡くなっております。今日は母の命日です。もっと親孝行をすればよかったと悔やまれますが、僕がこれから一生懸命生きて、ささやかでも幸せな人生を送れば、母は喜んでくれるかもしれないと僕は思っております。

今日は、母にまつわる歌の中から岸壁がんぺきの母」のお話をします。この曲はもともとは菊池章子さんが歌っておりましたが、昭和47年には二葉百合子さんがセリフ入りでカヴァーされました。菊池章子さんはすでに亡くなられましたが、二葉百合子さんは引退されたものの、最近歌番組でちょくちょく出演され、この「岸壁の母」をお歌いになっております。この間の「うたコン」では80代後半とは思えないほどの素晴らしい歌声を披露されておりました。

第二次世界大戦後、ソ連による抑留から解放され、引揚船ひきあげせんで帰ってくる息子の帰りを待つ母親たちがいました。ソ連からの引揚船が着くたびにいつでも見られた光景でしたが、時間の経過とともに、毎回、同じような顔ぶれの人が桟橋さんばしの脇に立つ姿が見受けられるようになり、これがいつしか人々の目に止まり、マスコミによって「岸壁の母」として取り上げられ、たちまち有名になりました。

毎回のように桟橋に立ち、息子さんの帰りを待った母親の一人が端野いせさんでした。彼女のそうした息子をまつ姿は映画や歌のモデルになりました。


2 岸壁の母のモデル

 端野いせさんは1899年に生まれ、 1981年にお亡くなりになりました。明治32年(1899年)9月15日、石川県に生まれ、青函連絡船せいかんれんらくせんの乗組員の端野清松さんと結婚し、娘とともに函館で暮らしていましたが、昭和5年(1930年)ごろに夫と娘を相次いで亡くしました。家主で函館の資産家であった橋本家から新二さんを養子にもらい昭和6年(1931年)に上京しました。「岸壁の母」のモデルの親子は実の母子ではなかったのですね。僕もウィキペディアで初めて知りました。血のつながりがなくても、大切に新二さんを育てた、いせさんの深い愛を感じます。

新二さんは立教大学を中退し、高等商船学校を目指すのですが、軍人を志し昭和19年(1944年)満洲国に渡り予備士官学校よびしかんがっこうに入学、同年ソ連軍の攻撃を受けて中国牡丹江ぼたんこうにて行方不明となったといいます。

終戦後、いせさんは東京都大森に住みながら、新二さんの生存と復員を信じて昭和25年(1950年)1月の引揚船初入港から以後6年間、ソ連ナホトカ港からの引揚船が入港する度に舞鶴まいづるの岸壁に立つました。昭和29年(1954年)9月には厚生省の死亡理由認定書が発行され、昭和31年には東京都知事が昭和20年(1945年)8月15日牡丹江にて戦死との戦死告知書(舞鶴引揚記念館に保存)を発行しました。

その時のいせさんの悲しみは深いものだったことでしょう・・・

しかしながら、新二さん(1926年 - )は戦後も生存していたのですね。それが明らかになったのは、いせさんが亡くなった1981年より後、平成12年(2000年)8月のことでした。

3 実は生きていた子
 新二さんは、ソ連軍の捕虜となりシベリア抑留、後に満州に移され中国共産党八路軍に従軍しました。その後はレントゲン技師助手として上海に居住。妻子をもうけていました。新二は母が舞鶴で待っていることを知っていましたが、帰ることも連絡することもなかったのです。


理由は様々に推測され語られているがはっきりしておりません。 新二さんを発見した慰霊墓参団のメンバーは平成8年(1996年)以降、新二さんは3度会ったが、新二は「自分は死んだことになっており、今さら帰れない」と帰国を拒んだといいます。

端野いせさんは新人物往来社から「未帰還兵の母」を発表。昭和51年9月以降は高齢と病のため、通院しながらも和裁を続け生計をたてていました。息子の生存を信じながらも昭和56年(1981年)7月1日午前3時55分に享年81で死去。「新二が帰ってきたら、私の手作りのものを一番に食べさせてやりたい」と入院中も話し、一瞬たりとも新二さんのことを忘れたことがなかったそうです・・・

※ この記事はウィキペディアを参考にしました。

豊島区の目白と雑司ヶ谷ぞうしがやの中間あたりに千登世橋(ちとせばし)という橋があります。この橋は西島三重子さんの「千登勢橋」「目白通り」という歌でも歌われております。どちらも名曲だと思いますが、あいにくどちらもあまりヒットしなかったのですね。僕は西島さんの歌では「目白通り」が一番好きなのですが、なにしろマイナーな曲でして。「目白通り」はカラオケのLIVEDAMにもジョイサウンドにもないのです。彼女のヒット曲「池上線」なら間違いなくあるのですが。(「池上線」をLIVEDAMで歌うとご本人がカラオケの映像に登場します)

http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/chitosebashi.html
(「千登勢橋」の歌詞)

僕も雑司ヶ谷に用事があってついでに千登勢橋も見てきました。この橋の上に目白通りが通っていて、橋の下には明治通りが通っているという、立体交差の橋です。千登勢橋のすぐ東側に千登世小橋という橋もつながっていて、その千登勢小橋の下には都電荒川線が通っているのです。「千登勢橋」の歌の中に「電車と車が並んで走る♪」とありますが、まさにこの歌の通りの光景でした。この曲では、歌の主人公の女性が、恋に破れ、悲しみのあまりに橋の上から白いハンカチを落としたのですが、僕はさすがにそんなことをしませんw

この橋から目白通りを歩いて目白駅まで行ったのですが、途中で学習院大学を通り過ぎ、学生さんとも何度もすれ違います。目白駅に着くと本当に学生さんが目につきます。まさに、「千登勢橋」の歌のとおりでした。目白は学習院大学があるのが有名ですが、大学だけでなく専門学校もいっぱいありますからね。学生さんを見ていると、僕も学生の頃に戻りたいな〜って思いますね。この「千登勢橋」は昭和54年の歌なので、僕の青春時代よりずっと古い歌ですが、歌を聴いていると、「ああ、俺にもこんな時があったなあ」って共感をもちました。

周辺は目白台地と関口台地の境目になり、都電の軌道付近には湧水の流路があったそうです。また高台のため付近には坂も多く、これらの高低差ある地形を活かした設計となっています。

この橋は昭和8年に完成し、幹線道路同士の立体交差としては都内で最初期のものです。戦争をくぐりぬけてきて、平成のいまも現役の貴重な橋なのですね。土木技術的価値も高く「東京都の著名橋」の一つでもあるそうです。 平成2年(1990年)には町の美観と調和させるため親柱や高欄の意匠が改修されました。

千登勢橋には、来島良亮という人物の銅像があります。どういう人物なのかなと、家に帰ってネットで調べたら、千登世橋を架けるのに大きく貢献した人物だそうです。彼は東京府土木部長で関東大震災後の東京の都市計画も考えた人物でもあるそうです。


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(遠くから見た千登世橋)


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(千登世橋。橋の上を通る道路は目白通り。橋の下を通るのが明治通り)




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(千登世小橋。下には都電が走っている)

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(千登勢小橋から見下ろした線路)

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(都電荒川線)

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(来島良亮像)

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