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沖縄おきなわの近世・近代の歴史 その1 尚寧(しょうねい)と琉球王国りゅうきゅうおうこく受難じゅなん

沖縄の近世・近代の歴史 その2 琉球王国から沖縄県おきなわけんへ  


1 沖縄の未来をなげく人たち

 沖縄おきなわの近代の歴史をお話も今日で3回目になります。

前回の記事で琉球処分にて琉球王国はなくなり、沖縄県として日本国の領土の一つとなったと書きました。そして、沖縄は明治政府に支配されます。

そんな沖縄について「これはいかん」なげき、沖縄の自立を目指した人が少なくありません。

2 太田朝敷(おおたちょうふ)について
 その一人が太田朝敷(おおた ちょうふ)。あいにく僕はHK教育テレビの高校講座「日本史」を見て初めてこの人の名前を知りました。

太田朝敷とはどんな人物かというと、主に明治時代から昭和初期にかけて活躍かつやくしたジャーナリストです。明治26年に沖縄最初の新聞「琉球新報りゅうきゅうしんぽう」の創刊に加わったそうです。ちなみに「琉球新報」は「紙ハブ」と呼ばれおそれられていたようです。なかなか過激な論調だったのかな?

昭和5年に「琉球新報」の社長になり、その後、県会議員,首里市長もつとめたそうです。

2 沖縄を自立させるには? 




「他府県」に「我から進んで同化する」こと「若し消極的に同化させやうとすれば・・・、幾多いくたの不利を感じなければならぬようになります」

 『女子教育と沖縄県』(太田朝敷)


これは太田朝敷の言葉です。沖縄の自立のためには、沖縄人だとか変なプライドは捨てて日本人として生きようと言いたかったみたいですね。

下手に本国といがみ合うよりも、現実を受け入れ、日本に従ったほうが被害ひがいが少ないと太田は思ったのかもしれません。そのうえで近代化すれば沖縄の人たちの意識も変わるだろうと。沖縄人の意識も変われば、沖縄自立の道へと進むだろうと太田は思ったのでしょう。

太田は精神面だけでなく経済面でも沖縄の自立を目指そうとしました。沖縄の主要産業はサトウキビ。太田は製糖業の振興しんこうをすることで沖縄の経済発展を進めようとしましたが、沖縄と同じく製糖業せいとうぎょうが盛んな台湾たいわんされてしまい、これはあまりうまくいかなかったようです。

3 太田朝敷の学歴

 太田朝敷は慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがくの出身だったそうです。平成のいまは沖縄出身の学生が東京の大学に入る事はめずらしい事ではありません。僕のいた大学にも沖縄出身の人がいました。

だけど、明治時代の当時はとても珍しい事だったそうです。

慶應義塾大学といえば福沢諭吉(ふくざわゆきち)。

福沢諭吉は国家の自立を説いた人物で、そのためには西洋の文化を取り入れよとも言っていたそうです。後の太田の行動を見ていると、福沢の影響えいきょうを受けたのだろうなとおもいました。


それでは、みなさんぐぶりーさびら!!(沖縄の方言でさようなら)


※ おまけ

喜納昌吉さんの『花』をどうぞ。映らなかったらごめんなさい)


https://www.youtube.com/watch?v=RfCxDaQDskQ


※ 今回の記事は「高校講座 日本史」などを参考にしました。


http://blog.livedoor.jp/seimei1128-rekishi/archives/1458434.html

昨日の続きです。江戸時代、琉球王国りゅうきゅうおうこく薩摩さつまの支配を受けながらも、独立国としてのプライドは保ってきました。が、明治時代になってからそれが変わっていく・・・2回目の今日は、琉球王国が明治政府によってほろぼされるという、そんなお話をします。


1 副島との約束


 廃藩置県はいはんちけんの次の年、当時の外務卿がいむきょうだった副島種臣(そえじまたねおみ)が琉球の視察団を東京に呼び寄せたそうです。

「琉球国王を以後、琉球藩王りゅうきゅうはんしゅとする」という政府の方針に琉球の視察団はおどろきました。琉球は中国(清)との関係を保ってきたが、その関係が明治政府によって打ち切られようとしたのだから。

困った琉球側に副島は一つの提案をしました。それは「琉球の国体・政体永久に相変わらず」としました。つまり「琉球はこれまでどおり中国(清)と仲良くしてOKですよ」って約束したのです。


2 明治政府の方向転換ほうこうてんかん 

 しかし、大久保利通が政治の実権を握ってから琉球の運命は変わってしまいます。大久保は琉球を清から切りはなし、日本の一部にしよう(帰属きぞく)と考えました。

1875年、大久保の命を受けて松田道之(まつだみちゆき)という若い,ruby>官僚かんりょうが琉球に訪れました。松田優作さんじゃなかったw道之は琉球側と色々と交渉こうしょうしましたが、あくまでも清との関係、そして自分達の自立を保ちたい琉球側は首を縦にりません。

はじめは琉球の国体(清との結びつき)を保ってもいいですよと琉球王国と約束したのに、後になってそれはダメだと主張する明治政府。約束をしておいて後になって破るとはムゴイ話です。

消費税をあげませんと約束しておいて、選挙が終わったら「消費税を上げる」とうそぶく政治家に似てますw


3 松田の苦悩くのう

 琉球との交渉は難航なんこうしました。交渉の責任者だった松田は血をいたそうです。琉球と明治政府の板ばさみは苦しいが、かといって手ぶらで帰る訳にはいかない。そりゃストレスたまりますわ。交渉は進まぬまま松田は琉球を去ってしまいます。

琉球は明治政府との論戦に勝ったって事でしょう。しかし、「これで勝ったと思うなよ!」と思ったのがエリート官僚の聖子ちゃん、いやw松田道之のしたたかなところ。
 
そしてみなさん、いよいよ今日のその時がやってまいりますw

4 日本に取りこまれる沖縄

 帰国した松田は、政府に「琉球りゅうきゅうは、はなはだしく無礼で不法である」と報告し、「無礼であるから武力を使ってでも制圧すべき」と進言したのです。ヒドイねえ・・

松田は警察や兵士600人を従え、琉球にやってきました。そして琉球国王のいる首里城しゅりじょうを取り囲んだそうです。こうした威圧いあつに軍隊を持たなかった琉球はなすすべもありません。

こうして琉球は沖縄県となり、琉球王国はほろびました・・・いわゆる琉球処分です。

5 琉球処分になってから
 日本は琉球王国を犠牲ぎせいにすることで近代国家の道を歩み続けました。でも、19世紀当時はむごい弱肉強食の国際情勢でした。それで植民地を支配する事が当たり前の時代。明治政府の対応はある意味仕方がなかったとも僕は思います。

一方で、このような明治政府の対応が、沖縄おきなわの人たちの日本国本土(沖縄の方言でいえばヤマトンチュー)に対する不信にもつながっているのだと考えられます。

ちなみに琉球処分で名をあげた?松田道之(まつだみちゆき)は東京府知事になりました。しかし、彼は43さいの若さで亡くなったそうな。

しかし、琉球処分で日本の支配下になった事をなげいた人間も沖縄にいました。そのお話はこちらです。

http://blog.livedoor.jp/seimei1128-rekishi/archives/1445186.html

オマケ 

 暗くて深刻な話が続いたので、琉球の音楽をいて息抜いきぬきをしましょう。


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今日から沖縄おきなわの明治時代までの歴史を三回にわたってお話します。第一回は沖縄がまだ琉球王国りゅうきゅうおうこくと呼ばれていた時代。豊臣秀吉(とよとみひでよし)や徳川家康(とくがわいえやす)と言った権力者に翻弄ほんろうされるところのお話を始めたいと思います。


1 秀吉VS琉球王国


 琉球王国は、日本と別の国でした。中国や東南アジアとの国と貿易をして大いに栄え、平和に暮らしていました。特に中国と仲が良かったみたいです。琉球が中国に貢物みつぎものを差し出し、その見返りとして琉球が中国と交易をさせてもらうという関係ではありましたが。

その琉球の平和に暗いかげが落ちます。天下を取った豊臣秀吉が琉球に圧力をかけてきたのです。秀吉は琉球の国王である尚寧(しょうねい)に貢物として米を送るようにせまります。当時秀吉は朝鮮ちょうせんと戦争をしていたから、大量の兵糧ひょうろう(※1)が必要でした。

※1 戦争時における軍隊の食糧しょくりょうのこと。 日本においては主食である米であることが多い

2 琉球侵攻しんこう口実こうじつをあたえてしまう・・・

当然、尚寧は秀吉の要求に反発しました。が、秀吉はその後も琉球に圧力をかけ続け、とうとう琉球は「もはや、これまで」と思い、秀吉から要求された米の半分を秀吉に差し出す事になりました・・・

さらに秀吉は、島津しまづ氏に琉球の軍事的指導権をあたえました。つまり、島津氏が「戦争に行け」と言えば、琉球の人たちは戦争にいくハメになるのです。

当然、琉球の人たちは島津氏の要求を「イヤだ」といいました。しかし、このことが江戸時代になって、島津氏による琉球侵攻りゅうきゅうしんこう口実こうじつを与えてしまいます。


3 家康VS琉球王国

 秀吉が亡くなったものの、今度は家康が琉球に圧力をかけてきました。家康は考えていたのでしょう。秀吉の時代に途絶とだえていた明との国交を回復し、交易も再開するには琉球の役割が重要になる。

また、琉球を意のままに動かしたい、そのためには島津氏の仲立なかだちが必要だと家康は考えました。

琉球王国もそういった動きにだまってはいません。尚寧は中国(明)の力を借りて家康に対抗たいこうしようとしました。さらに、中国に留学をしたことがある人物を国政の最高責任者に抜擢ばってきしました。そして、家康や島津氏の提案をことごとく「NO」と言いました。

それになのが家康と島津氏でした。

琉球王国は何度も島津家に和平の交渉をしたのだが、島津家はこれを受け入れず、とうとう1611年、島津軍は沖縄島おきなわとうみました。そして尚寧をらえてしまったそうな・・




4 ヒドイ内容の起請文きそうもん
尚寧たちは島津への起請文きしょうもん(※2)を書かされます。 起請文の内容は

「琉球は昔から薩摩・島津氏さつま・しまづしの属国でした。無礼のために琉球国は破却はきゃくされましたが、島津公のおかがで、島をたまわりました。このごおんわすれられません」というもの。

自分達が攻めておいて「ご恩は忘れられません」はヒドイ話です・・・・。むしろ「よくもオレ達の領土を攻めたな!この野郎!」って言いたいところでしょうか?こんな心にもないことを書かされた尚寧(しょうねい)たちの無念さが感じられます。

※2 今で言う契約書けいやくしょみたいなもの。自分の行動を神仏にちかって守るべきことを守らなかった場合はばつを受けるみたいなことが書かれた文書。




5 琉球りゅうきゅうのその後
この起請文にただ一人、反発する人物がいました。その人物はの名前は謝名親方利山(じやなうえかたりざん)。しかし、彼は処刑しょけいされてしまいましたが・・・

それ以降、琉球王国は表向きは独立国ではありましたが、島津家の役人が琉球に居つくなど、島津家には逆らえない感じでした。

それでも、琉球は島津に気をつかいながらも、中国とは相変あいかわらず仲良しだったそうな(悪く言えば板ばさみ)。そうした関係は明治代まで続きました。また、次回、明治維新以降の近代の歴史を取り上げます。

http://blog.livedoor.jp/seimei1128-rekishi/archives/1459517.html

※ おまけ
沖縄にリザンシーパークホテルという大きなホテルがあるそうですね。このホテルの名前は、謝名親方利山(じやなうえかたりざん)の名にちなんでいるそうです。沖縄では彼は英雄えいゆうなのですね。




※ 参考文献





http://blog.livedoor.jp/seimei1128-rekishi/archives/1517305.html

http://blog.livedoor.jp/seimei1128-rekishi/archives/1519099.html

これまで2回(↑)にわたって諏訪湖すわこの女工さんの話をしてきたけれど、今日で三回目です。今日でとりあえず諏訪湖の女工さんの話はいったん中断します。今日の内容は、諏訪湖の女工の問題が現代にも通じるのではないか?そんな問題提起をしたいと思います。



1 勝ち組の女工さん


 製糸の作業は細かい作業なので向き不向きも当然ありました。今の日本と同じく、明治・大正当時の女工の間でも勝ち組、負け組がいたみたいです。

器用で糸引きが向いていた女工さんは仕事でさほど苦労することなく、いっぱい給料ももらえた上に、表彰ひょうしょうまでされました。なかには田んぼや家を買った女工もいるというからすごいですよね。30年ローン組んで家を買った人から見ればなんともうらやましい限りの話です。

しかも優秀ゆうしゅうな女工さんはアチコチの工場で引く手あまただったそうです。

2 気の毒なのは糸引きが向いていない女工さん

一方、気の毒なのは糸引きが向いていない人。不器用で仕事も失敗ばかり。だから検番から年中どやされました。しかも失敗をすれば罰金ばっきんとして給料からひかれてしまい、年末にはサイフもスッカラカンで故郷に帰れなかった女工さんもいたとか。

新人教育もしていたある女工さんはこうつぶやいております。


「ワシは長年糸ひきをしてみて感じることだが、まず十人のうち本当にいいのは二人か三人で、次に、本人の熱心と努力でまあまあ何とか糸をひけるというものが、三、四人、しかし残りの二、三人というものはいくら教えてもおこってもたたいても、この人たちは糸ひきに向かない人です。怒るほうがだいたいムリです。」


『あゝ野麦峠』(山本茂美) p125より



「2-6-2の法則」(※1)というものを聞いたことがありますが、この女工さんのお話もそれに近いですね。

それから、いくら器用な女工さんでも体が弱い人は、ムリがたたってそのまま死んでしまったそうです・・・

※1 人間が集団を構成すると、 『優秀な人が2割、普通の人が6割、パッとしない人が2割』という構成になりやすいという法則。

3 製糸業も慈善事業じぜんじぎょうではないから
 当時の日本は西洋諸国に追いつけ、追いせという状況じょうきょうでした。資源の少ない日本が外国と張り合う為ためには無理も止むを得なかったのでしょう。企業きぎょう慈善事業じぜんじぎょうでもないから、もうけなくてはつぶれてしまう。まさに食うか食われるかの世界です。

それに生糸は相場の変動が激しく不安定で、もうかる時は儲かるのだが、損をするときは大損をします。だから、製糸業を廃業そうぎょうする会社も少なくなかったそうです。

女工さん達も大変でしたが、企業きぎょうにとっても大変だったのでしょう。

4 現代にも通じる問題
 製糸工場の社長達は社員を低賃金(あるいは無償むしょう)でこき使い自分だけゼイタクをしていた訳ではありません。

朝は女工さん達よりも早く起き、工場の動力である水車がこわれれば、自ら川に飛び込んで水車を修理したり、かまに火をたいたりしたそうです。現場監督げんばかんとくである検番たちはえばってばかりだが、社長はちがっていたみたいです。

人の上に立つような人物は違うのでしょう。(例外もいるがw)

今日の豊かな日本があるのは女工さん達が頑張がんばってくれたおかげでもあると思う半面、その一方で女工さん達の犠牲ぎせいがあった事、それから派遣はけん切りや過労死かろうし(ブラック会社)の問題など今にも通じる様々な問題がある事を考えさせられます。

※ おまけ
野麦峠についてバスガイドさんが語られている動画です。




※ 参考文献

あゝ野麦峠―ある製糸工女哀史 (角川文庫)
あゝ野麦峠―ある製糸工女哀史 (角川文庫)
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今日の東京の夜はすずしい。今夜はゆっくりねむれそうですw

さて、前回の続き。再び女工のお話。今日は工場のお話ではなく野麦峠越のむぎとうげごえの悲劇について。

製糸工場は正月になると休みになります。女工さん達は故郷に帰れるとウキウキするのですが、しかし信州の冬の厳しさは相当なもの。特に飛騨ひだ出身の女工さん達は野麦峠というけわしいとうげえなくてはなりません。それはレミオロメンの「粉雪」に出てくるようなロマンチックな風景ではありません。

ぴゅーぴゅーとやいばの様なするどこおった風、そこを歩いた人間がたちまち雪だるまになるほどの激しい雪。あたりは猛吹雪もうふぶきで視界が悪い。壮絶そうぜつな風景です。

明治時代はパンツもなかったから、女工さん達の腰巻はらまきのすそは凍ってガラスの破片のようになり、女のモモは切れて血が流れ、ワラジをいくら取り替えてもたびは凍り、足は凍傷にふくれ、宿についてもすぐ火にあたることはできなかったそうです。凍死とうしする女工さんも、雪の谷底に落ちる女工さんだっていました。また、妊娠にんしんしている女工さんは寒さのあまりに流産りゅうざんしてしまったとか・・・

一応運び屋と呼ばれる男性(体が弱い女工さんをおぶったりする男性)やお助け茶屋などの休息所や宿屋も峠にあったのですが、それでも女工さん達には冬の峠越えは厳しい。ましてや外灯も舗装道路ほそうどうろもなかった時代だからなおさら大変でした。

政井みねという女工さんは「ああ飛騨が見える」と言って、兄におんぶをされたまま、この峠で亡くなったそうです・・・

いま野麦峠には、「冬の野麦峠を歩いた女工達の事を忘れないでおくれ」と現代の私達に語りかけるように、政井(まさい)みねの像が建っています。

我々現代人は故郷に帰るなんて、さほど難しいことではありません。交通も便利になりましたし。事故さえ気をつければ、命がけの帰郷ききょうなんて無いと思います。しかし、本当に命がけで故郷に帰るような時代があったのです・・・

Nomugi_Pass_Masai_Mine_and_Masai_Tatsujiro_statue

(この画像の出典はウィキペディアです)


http://blog.livedoor.jp/seimei1128-rekishi/archives/1520131.html
(次回の記事)


※ おまけ


野麦峠の動画をご紹介しょうかいします。今でこそ野麦峠はスキーの名所ではありますが、かつては女工さん達の悲劇の現場であった事をご理解いただければと思います。






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