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奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝 (新潮文庫)
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ヘレン・ケラーの偉大いだいさは知っていましたが、彼女が大変な親日家しんにちかだったことは最近まで知らなかったです。

自分の家の中を日本風にしたり、庭にとうろうを置いたり、日本犬までったりしたそうです。ほかにも温泉も好きだし、さしみも日本酒も愛したそうです。

へレンを日本にまねいたのは岩橋武夫。岩橋は長くヘレンと交流をした人物です。その岩橋とともに厳島神社(いくつしまじんじゃ)にもおとずれたそうです。それは恩師のサリヴァン先生を亡くして間もないころだったそうです。

厳島神社いくつしまじんじゃで思い出しましたが、僕も厳島神社いくつしまじんじゃに訪れたことがあります。よいところですよ。まるで竜宮城みたい。



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さて、厳島神社いくつしまじんじゃのそばの宿舎についた岩橋は、ヘレンに「ヘレン、今日はサリヴァン先生をおまつりしましょう。」といったそうです。

夜になって、厳島神社いくつしまじんじゃにはたくさんの数の灯ろうに灯が灯りました。その光景が、秘書の通訳によって手を通して伝えられるとヘレンはなみだを流して、亡きサリヴァン先生への感謝の意をこめて追悼(ついとう)をしたそうです。

ヘレンには肉眼にくがんでは、とうろうやの厳島神社いくつしまじんじゃ風景は見えなくても、心の目でみることができたのです。

彼女は人一倍感性が豊かな人でした。だからこそ、「私は見えないためにかえって、強く日本の精神にふれることができた」と語ったのかもしれません。





※参考文献

『そのとき歴史が動いた』(NHK取材班編)


「添了麻煩」

どういう意味でしょう?

実は「添了麻煩」の言葉が出てきたのは、1972年の中国交正常交渉のときです。この言葉を日本側の通訳が周恩来に語った途端に、周恩来は血相を変えて怒りました。場の空気もその一言で一瞬で凍ってしまったそうです。

どうしてでしょう?

交渉に臨んだ田中角栄が「先の大戦で中国に日本は大変な迷惑をかけた」と述べ、その「迷惑をかけた」を「添了麻煩」と通訳は訳したそうです。

周恩来が激怒した理由は「添了麻煩」では、お詫びの言葉としては非常に軽いから。僕はまだ中国語初心者だから、あんまり中国語のニュアンスの違いについては良くわからないのですが、そんなにお詫びの言葉としては軽い表現なのでしょうか?

日本語の「迷惑」という漢字をそのまま中国語にすると「正気をうしなう、迷う」って意味になるそうです。「日本は中国を迷わせました」じゃおかしいですしw

でも、「添了麻煩」という言葉が軽いお詫びの意味であると日本側の通訳が知らなかったわけではないそうです。これは、日本の親台派の反発を恐れて、このような表現を用いたそうです。親台派とは中国大陸よりも台湾を支持する政治家のこと。親台派の政治家といえば、元総理の岸信介さん、福田赳夫さん等がそうでした。最近では石原慎太郎さんも親台派の政治家といえそうです。

先の大戦で「日本は中国に対して本当に悪い事をした、ごめんなさい!!」という気持ちはある。けれど、あんまりへりくだった言い回しをすれば、今度は国内の親台派から「土下座外交」と批判をされてしまう。

何回も何回も原稿を推敲して、角栄や外務省の官僚が考えに考え抜いてやっと出てきたのがこの表現なのだといわれています。

中国側は「添了麻煩」という言葉に「日本の戦争に対する歴史認識が現れている」と不快感を示し、日本側は「言葉尻を捉えた言いがかりではないか?」と困惑するばかり。言葉の使い方は、難しいですね。

ともあれ、この交渉で日中国交正常化はされたのは、歴史が示すとおりです。


(参考文献)

日・中・台 視えざる絆―中国首脳通訳のみた外交秘録
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氷川清話 (講談社学術文庫)
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1 中国との戦争に反対した勝海舟

明治のころは、朝鮮半島ちょうせんはんとうをめぐって日本と中国(しん)がはげしく対立し、両国は戦争になってしまいました。。でも、勝海舟(かつかいしゅう)は日清戦争を反対していたそうです。(日清戦争)。


2 氷川情話より


 ”かちうみぶね”じゃなかったw勝海舟がどんな事を言っていたか?それは、『氷川清話』(ひかわせいわ)に書いてあります。以下「『氷川清話』より引用します。


「日清戦争はおれは大反対だったよ。なぜかって、兄弟ケンカだもの。犬もはないヂやないか。たとえ日本が勝ってもドーなる。支那はやはりスフィンクスとして外国のやつらが分からぬに限る。支那しなの実力が分かったら最後、欧米おうべいからドシドシしかけてくる。ツマリ欧米が分からないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。」


「一体支那5億の民衆は日本に取っては最大の顧客こきゃくサ。また支那は昔時から日本の師ではないか。それで東洋のことは東洋だけでやるに限るよ。」


3 勝が心配していたことが現実に


 勝海舟が心配していたことは、日清戦争後に現実のものになります。日清戦争(下関条約しものせきじょうやく)で手に入れた遼東半島りゃおとんはんとうはけっきょくロシア・ドイツ・フランスが間に入って中国に返すようになったし、ロシアも朝鮮半島のちかくまで南下してしまいます。

昭和に入ってからも、日中両国の関係は悪化するばかり。そうしておきたのが日中戦争です。日本は「中国なんて弱い、ラクショーじゃんw」と思っていたようですが、実際は戦争はドロぬま化します。元日本兵だった男性は中国兵のことを「強かったですわ」と語っております。

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日清講和記念館。ここで下関条約が行われた。山口県下関の春帆楼(しゅんぱんろう)という旅館にある。

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日清講和記念館の中。実際に条約が行われたところ。


オマケ
 
今日は日本だけでなく、中国の人にも人気のある谷村新司さんの歌を。曲は「すばる」。中国では「星」という題で親しまれています。

谷村新司さんは、中国の人にとても尊敬されていて、「日中友好の使者」だと絶賛ぜっさんされています。




http://www.youtube.com/watch?v=4_UXWMwq03Q
(映らなかったらごめんなさい)

また、こちらの記事もよろしかったらどうぞ。 

意味深な勝海舟の言葉

氷川清話 (講談社学術文庫)
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今年もあとわずか。今日取り上げるのは勝海舟(かつかいしゅう)。

”かちうみぶね”じゃありませんよw、”かつかいしゅう”ですから。

NHKの「歴史秘話ヒストリア」で勝海舟の事を取り上げられました。勝海舟の功績は西郷隆盛(さいごうたかもり)と会談し、江戸の町を戦火から救った事です。明治維新めいじいしん後も勝海舟は、旧幕臣ばくしん面倒めんどうを見たり、ご意見番ごいけんばんとして活やくしたそうです。

勝海舟は21世紀の現代に通じるような?事を言っていました。その言葉の数々を取り上げます。





  • 「行政改革という言葉。よく気をつけないと弱いものいじめになるよ。全体改革という言葉公平でなくてはいけない」


  • 「大きいものからはじめて小さいものを後にするといいよ。言いかえれば改革者が一番に自分を改革するのさ」


  • 「帰り道に裏店社会うらだなしゃかい(※1)へ立ち寄って不景気の実情を聞いたが、この先四、五日の生活が続こうかと心配している者があちこちにあったよ。今の政治家には、こんなささいな所まで注意する人はあるまい」



  • 御前ごぜんとか閣下かっかとか、そんなおべっかばかり聞いておらずに、大臣なども少しは江戸えどっ子のかざり気のない巻き舌でも聞いてみるが薬だよ」



『氷川清話』(ひかわせいわ)より



なんだか、今の菅直人(かんなおと)首相や民主党の政治家たちに聞かせてやりたい言葉ですなあw

改革、カイカクといいながら、権力におぼれ堕落だらくしていく政治家は明治時代にもいたことがわかります。

明治時代というとすごくはなやかなイメージがありますが、庶民しょみんが苦しい思いをしました。それに足尾鉱毒事件(あしおどうざんこうどくじけん)など公害事件もありましたし、製糸工場の女工さんも苛酷かこくな労働を強いられていました。そうした庶民の犠牲ぎせいの上に成り立っていたのが明治という時代でした。明治政府の政治のあり方や社会のムジュンを勝海舟は苦々しく思ったわけです。

そういったムジュンを抱えたまま、明治、大正、昭和へと時は流れ、やがて日本は戦争の道を進んでんでいきます・・・






1 中国にもいた独眼竜(どくがんりゅう)
 先週の歴史秘話ヒストリアで伊達政宗の話を取り上げていました。伊達政宗(だてまさむね)といえば「独眼竜どくがんりゅう」だけれども、なんと伊達政宗よりも以前に、それも中国に「独眼竜」とよばれた武将がいました。

その名を李克用(り こくよう)

唐代末期とうだいまっきの武将で、生まれつき片目が不自由だったそうです。


2 李克用(り こくよう)の話に励まされた伊達政宗(だてまさむね)
 
 伊達政宗はおさないころ、天然痘てんねんとうで片目が不自由になり、それでコンプレックスを持っていました。が、自分の教育係であるおぼうさんにこの李克用の話を聞かされ、はげまされたそうです。

で、李克用が率いる軍隊は鴉軍(あぐん)と呼ばれていたそうです。その鴉軍は黒い衣装を着ていて、とても勇猛ゆうもうで戦にも強かったそうです。だから、周囲からおそれられたそうです。

僕にも経験があるなあ。中学のとき偏差値へんさちが低く、どこの高校にもいけないと担任の先生から言われた事があります。ボクもその時はどうすればよいのかわかりませんでした。

その時、ボクの家庭教師を引き受けた人がおりました。その人はやはり偏差値が低かったのだが、冬休みで偏差値を10以上上げて見事に高校に合格したそうです。その人の話をきかされボクも、はげまされましたね。


3 李克用と三本の矢

 さて、伊達政宗の軍隊のヨロイの色も黒だったそうですが、李克用の鴉軍(あぐん)にあやかったのでしょう。

唐代末期に起きた黄巣の乱こうそうのらんを平定し、名声を得た李克用は朱全忠(しゅ ぜんちゅう)という武将と合い争う事になります。この朱全忠という武将ははじめは黄巣(こうそう)についていましたが、のちにとうに裏切り功績をあげた人物です。

李克用はこの朱全忠にライバル意識をいだき戦いをいどみましたが、53才の若さで亡くなりました。自分の果たせなかった事を息子にたくしたのです。その息子の名前が李存勗(り そんきょく)。息子に三本の矢をわたし、それで自分の代わりに朱全忠をてと言い残し、息を引き取りました・・・


中国にもあった三本の矢(その時のエピソードは、こちらの記事に掲載けいさいしております)

三本の矢のエピソードといい独眼竜のエピソードといい日本の戦国時代とかぶる話が多いなと思いました。もっとも、三本の矢のエピソードは作り話というウワサもあるそうですが。

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