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※ この記事は適切ではないことが書かれていましたので、2015年1月18日に訂正をさせていただきました。
この記事はウィキペディアと「歴史秘話ヒストリア」(NHKの歴史番組)を参考にして書きました。

この間のヒストリアで忠臣蔵(ちゅうしんぐら)の事が取り上げられ、赤穂浪士のかっこよさと、彼らを支えた家族の愛に感動させられました。

四十七士の話をしたいところですが、今日は忠臣蔵にチラッとでてくる 上杉綱憲(うえすぎ つなのり)のお話をします。上杉綱憲は吉良上野介(きらこうずけのすけ)の息子で、吉良家から上杉謙信(うえすぎけんしん)以来の名門・上杉家に養子ようしとしてむかえられました。彼は初代の上杉景勝(うえすぎかげかつ)から数えて4代目になります。

1 上杉家について 

 上杉家4代目の上杉綱憲の話をする前に上杉家のお話をします。 江戸時代の上杉家の領土は、山形県の米沢よねざわ周辺。初めは新潟にいがた越後えちごの国)にいたのですが、東北の山形の米沢に移りました。その理由は秀吉や家康といった権力者の意向によるものです。

豊臣秀吉によって会津(福島県)に移されました。秀吉の死後、関が原の合戦で家康に歯向かった事もあり、米沢(山形)に移されてしまったそうです。

それまでよりも領土もせまい領地に移る羽目になったのですから、上杉家も大変だったことでしょう。そこへ大河ドラマ「天地人」でも有名になった直江兼続(なおえかねつぐ)がいろいろと良い政治をしてくれたので米沢藩よねざわはん藩政はんせいの基礎ができました。

2 綱憲のいい面と悪い面

 綱憲の時代になってから、綱憲の実家である吉良家へ援助えんじょをするようになったといわれております。吉良家の借金の返済もそうですが、吉良上野介は上杉家の金を使って贅沢ぜいたくをしたというウワサもあるほどでした。そのため赤穂浪士の討ち入りで吉良上野介が死んだとき、上杉家の人たちは内心喜んだというウワサもあるようです。

ウィキペディアで知ったのですが、綱憲自身もキラびやかな性格で、参勤交代の行列の身なりも豪華ごうかだったそうですね。そんな綱憲が特に好きだったのはのうだったといいます。上杉家のお城である米沢城二の丸では、能楽がよく行われたそうです。米沢に住む人々は米沢城の広場で行われた能楽のうがくを楽しんだとか。

また、ハコモノを作ってしまったため、米沢藩の出費も重なったそうです。

一方で、綱憲も風俗をとりしまったり、歴史を編纂へんさんや学問をすすめたりと良い事もしたようです。

米沢藩の財政は苦しくなりました。米沢藩の財政が悪くなったのは、綱憲にも責任があったのかもしれませんが、人件費やいろいろな出費が重なったのと、領地がえ(新潟から山形の米沢)で領地を減らされたことで収入が減ってしまったのではないかと思われます。

米沢藩は上杉鷹山うえすぎようざんが現れるまで、苦難の道を歩むことになります。

※ 参考記事 上杉鷹山


3 綱憲は父を助けたか?

 赤穂浪士あこうろうしによる吉良邸討きらていうち入りの際、綱憲は父を助けようと立ち上がるのですが、家老に止められてしまうというエピソードがあります。

実の父親が殺されそうだというのに何もしようとしないのは薄情はくじょうだなって思うのですが、幕府の意向も聞かずに上杉家が勝手に動けば大変なことになります。つまりお取りつぶし。今でいえば、国が無理やり会社を倒産させるようなものです。

江戸時代は何かと決まり事が多く、諸大名も何かあれば幕府の指示がなきゃいけません。いくら父を助けたいという気持ちがあっても、大人しくするしか方法がなかったのです。

と僕は思っていたのですが、最近読んだ本によるとそればかりが理由ではないのです。




この本によりますと、綱憲は吉良邸きらていに赤穂浪士が討ち入りをしたと聞いて、頭に血がのぼり「浅野の浪人ろうにんどもを討ち取れ!」とやはり命令したといいます。


4 討ち入りの人数をまちがえた

 けれど、できなかったのが綱憲が赤穂浪士の正確な人数をまちがえたことも大きいというのです。赤穂浪士は46人で吉良邸に討ち入りしたのですが、綱憲はどういうわけか150人だと思っていたのです。それで150人と戦うためには200人以上必要だということで、兵をあつめたり、武器や馬を集めようとしているうちに、時間がかかってしまったそうです。

そのうち幕府からの使者が上杉の屋敷にやってきて「いま、あなたがたが兵を出したら、喧嘩両成敗けんかりょうせいばい(※1)で上杉家もお取りつぶしになりますぞ」と言われ、上杉家は兵を出すのをあきらめたといいます。

どういうことかというと、赤穂浪士の討ち入りをいち早く知ったのが吉良邸の近所の豆腐屋とうふやさんだったそうです。豆腐屋さんは朝が早いですからね。豆腐屋さんは両国りょうごくの吉良邸から、上杉の屋敷やしき(いまの日比谷ひびやあたりにあった)まで走りました。豆腐屋さんが上杉の屋敷についたのは朝の5時前だったそうです。

そのとき、豆腐屋さんが「今、吉良邸に150人ばかりの赤穂の浪人が討ち入りしました」と報告したのです。それを聞いて綱憲は「おのれ、赤穂の浪人どもめ!」と兵を集めようとしたのだが、後の祭りというわけです。

豆腐屋が人数をまちがえたのが、赤穂浪士が討ち入る際に、人数を多く見せかけるように大声で「〇〇隊50名は、表門を守れ、〇〇隊50名は表門より突入とつにゅう・・・」とさけんだために、豆腐屋さんがそれを信じてしまったとのこと。


上杉綱憲は討ち入りから2年後の1704年に42才でなくなってしまいます。

※1 けんかや争いをした者同士を、どちらにも責任があるということで両者とも処罰しょばつすること。

※ オマケ

最後に、能の一場面をどうぞ。能が好きだったとは綱憲も風流ふうりゅうなこと。こうした日本の文化は大切にしていきたいものです。

僕は能のことはくわしくありませんが、機会があれば生でみてみたいですね。




(映らなかったらごめんなさい)



奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝 (新潮文庫)
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ヘレン・ケラーの偉大いだいさは知っていましたが、彼女が大変な親日家しんにちかだったことは最近まで知らなかったです。

自分の家の中を日本風にしたり、庭にとうろうを置いたり、日本犬までったりしたそうです。ほかにも温泉も好きだし、さしみも日本酒も愛したそうです。

へレンを日本にまねいたのは岩橋武夫。岩橋は長くヘレンと交流をした人物です。その岩橋とともに厳島神社(いくつしまじんじゃ)にもおとずれたそうです。それは恩師のサリヴァン先生を亡くして間もないころだったそうです。

厳島神社いくつしまじんじゃで思い出しましたが、僕も厳島神社いくつしまじんじゃに訪れたことがあります。よいところですよ。まるで竜宮城みたい。



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さて、厳島神社いくつしまじんじゃのそばの宿舎についた岩橋は、ヘレンに「ヘレン、今日はサリヴァン先生をおまつりしましょう。」といったそうです。

夜になって、厳島神社いくつしまじんじゃにはたくさんの数の灯ろうに灯が灯りました。その光景が、秘書の通訳によって手を通して伝えられるとヘレンはなみだを流して、亡きサリヴァン先生への感謝の意をこめて追悼(ついとう)をしたそうです。

ヘレンには肉眼にくがんでは、とうろうやの厳島神社いくつしまじんじゃ風景は見えなくても、心の目でみることができたのです。

彼女は人一倍感性が豊かな人でした。だからこそ、「私は見えないためにかえって、強く日本の精神にふれることができた」と語ったのかもしれません。





※参考文献

『そのとき歴史が動いた』(NHK取材班編)


「添了麻煩」

どういう意味でしょう?

実は「添了麻煩」の言葉が出てきたのは、1972年の中国交正常交渉のときです。この言葉を日本側の通訳が周恩来に語った途端に、周恩来は血相を変えて怒りました。場の空気もその一言で一瞬で凍ってしまったそうです。

どうしてでしょう?

交渉に臨んだ田中角栄が「先の大戦で中国に日本は大変な迷惑をかけた」と述べ、その「迷惑をかけた」を「添了麻煩」と通訳は訳したそうです。

周恩来が激怒した理由は「添了麻煩」では、お詫びの言葉としては非常に軽いから。僕はまだ中国語初心者だから、あんまり中国語のニュアンスの違いについては良くわからないのですが、そんなにお詫びの言葉としては軽い表現なのでしょうか?

日本語の「迷惑」という漢字をそのまま中国語にすると「正気をうしなう、迷う」って意味になるそうです。「日本は中国を迷わせました」じゃおかしいですしw

でも、「添了麻煩」という言葉が軽いお詫びの意味であると日本側の通訳が知らなかったわけではないそうです。これは、日本の親台派の反発を恐れて、このような表現を用いたそうです。親台派とは中国大陸よりも台湾を支持する政治家のこと。親台派の政治家といえば、元総理の岸信介さん、福田赳夫さん等がそうでした。最近では石原慎太郎さんも親台派の政治家といえそうです。

先の大戦で「日本は中国に対して本当に悪い事をした、ごめんなさい!!」という気持ちはある。けれど、あんまりへりくだった言い回しをすれば、今度は国内の親台派から「土下座外交」と批判をされてしまう。

何回も何回も原稿を推敲して、角栄や外務省の官僚が考えに考え抜いてやっと出てきたのがこの表現なのだといわれています。

中国側は「添了麻煩」という言葉に「日本の戦争に対する歴史認識が現れている」と不快感を示し、日本側は「言葉尻を捉えた言いがかりではないか?」と困惑するばかり。言葉の使い方は、難しいですね。

ともあれ、この交渉で日中国交正常化はされたのは、歴史が示すとおりです。


(参考文献)

日・中・台 視えざる絆―中国首脳通訳のみた外交秘録
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氷川清話 (講談社学術文庫)
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1 中国との戦争に反対した勝海舟

明治のころは、朝鮮半島ちょうせんはんとうをめぐって日本と中国(しん)がはげしく対立し、両国は戦争になってしまいました。。でも、勝海舟(かつかいしゅう)は日清戦争を反対していたそうです。(日清戦争)。


2 氷川情話より


 ”かちうみぶね”じゃなかったw勝海舟がどんな事を言っていたか?それは、『氷川清話』(ひかわせいわ)に書いてあります。以下「『氷川清話』より引用します。


「日清戦争はおれは大反対だったよ。なぜかって、兄弟ケンカだもの。犬もはないヂやないか。たとえ日本が勝ってもドーなる。支那はやはりスフィンクスとして外国のやつらが分からぬに限る。支那しなの実力が分かったら最後、欧米おうべいからドシドシしかけてくる。ツマリ欧米が分からないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。」


「一体支那5億の民衆は日本に取っては最大の顧客こきゃくサ。また支那は昔時から日本の師ではないか。それで東洋のことは東洋だけでやるに限るよ。」


3 勝が心配していたことが現実に


 勝海舟が心配していたことは、日清戦争後に現実のものになります。日清戦争(下関条約しものせきじょうやく)で手に入れた遼東半島りゃおとんはんとうはけっきょくロシア・ドイツ・フランスが間に入って中国に返すようになったし、ロシアも朝鮮半島のちかくまで南下してしまいます。

昭和に入ってからも、日中両国の関係は悪化するばかり。そうしておきたのが日中戦争です。日本は「中国なんて弱い、ラクショーじゃんw」と思っていたようですが、実際は戦争はドロぬま化します。元日本兵だった男性は中国兵のことを「強かったですわ」と語っております。

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日清講和記念館。ここで下関条約が行われた。山口県下関の春帆楼(しゅんぱんろう)という旅館にある。

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日清講和記念館の中。実際に条約が行われたところ。


オマケ
 
今日は日本だけでなく、中国の人にも人気のある谷村新司さんの歌を。曲は「すばる」。中国では「星」という題で親しまれています。

谷村新司さんは、中国の人にとても尊敬されていて、「日中友好の使者」だと絶賛ぜっさんされています。




http://www.youtube.com/watch?v=4_UXWMwq03Q
(映らなかったらごめんなさい)

また、こちらの記事もよろしかったらどうぞ。 

意味深な勝海舟の言葉

氷川清話 (講談社学術文庫)
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今年もあとわずか。今日取り上げるのは勝海舟(かつかいしゅう)。

”かちうみぶね”じゃありませんよw、”かつかいしゅう”ですから。

NHKの「歴史秘話ヒストリア」で勝海舟の事を取り上げられました。勝海舟の功績は西郷隆盛(さいごうたかもり)と会談し、江戸の町を戦火から救った事です。明治維新めいじいしん後も勝海舟は、旧幕臣ばくしん面倒めんどうを見たり、ご意見番ごいけんばんとして活やくしたそうです。

勝海舟は21世紀の現代に通じるような?事を言っていました。その言葉の数々を取り上げます。





  • 「行政改革という言葉。よく気をつけないと弱いものいじめになるよ。全体改革という言葉公平でなくてはいけない」


  • 「大きいものからはじめて小さいものを後にするといいよ。言いかえれば改革者が一番に自分を改革するのさ」


  • 「帰り道に裏店社会うらだなしゃかい(※1)へ立ち寄って不景気の実情を聞いたが、この先四、五日の生活が続こうかと心配している者があちこちにあったよ。今の政治家には、こんなささいな所まで注意する人はあるまい」



  • 御前ごぜんとか閣下かっかとか、そんなおべっかばかり聞いておらずに、大臣なども少しは江戸えどっ子のかざり気のない巻き舌でも聞いてみるが薬だよ」



『氷川清話』(ひかわせいわ)より



なんだか、今の菅直人(かんなおと)首相や民主党の政治家たちに聞かせてやりたい言葉ですなあw

改革、カイカクといいながら、権力におぼれ堕落だらくしていく政治家は明治時代にもいたことがわかります。

明治時代というとすごくはなやかなイメージがありますが、庶民しょみんが苦しい思いをしました。それに足尾鉱毒事件(あしおどうざんこうどくじけん)など公害事件もありましたし、製糸工場の女工さんも苛酷かこくな労働を強いられていました。そうした庶民の犠牲ぎせいの上に成り立っていたのが明治という時代でした。明治政府の政治のあり方や社会のムジュンを勝海舟は苦々しく思ったわけです。

そういったムジュンを抱えたまま、明治、大正、昭和へと時は流れ、やがて日本は戦争の道を進んでんでいきます・・・






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