history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

1945年(昭和20年)8月6日に広島、8月9日に長崎に原爆が投下されました。おびただしい被害がでました。8月8日に防空総本部がこのような声明を発表しました。8月8日といえば長崎に原爆が落とされる前日ですね。


「(広島に落とされた)新型爆弾は現地報告によると落下傘のようなものをつけて投下するもので、大爆音を発し、相当広範囲に被害を及ぼすものであるが、次の諸点に注意すれば被害を最小限にとどめ、かつ有効な措置であるから各人は実行しなければならぬ」とし、「敵機は一機でも油断禁物、待避壕に待避し、待避壕に掩蓋えんがい(※1)がない場合は毛布や布団をかぶって待避する。」と。

翌日の8月9日で発表された対策は「軍服程度の衣類を着用していれヤケドの心配はない。防空頭巾および手袋を着用しておれば手足を完全にヤケドから保護することができる」

さらに「新型爆弾もさほど恐れることはない」とまで言い切っているのです。

防空総本部は広島の原爆のことを知らないのかと思わず思ってしまいます。

さらに防空総本部が11日付で発表したのは

「破壊された建物から火を発することがあるから初期防火に注意する」

「白い下着の類はやけどを防ぐのに有効である」

白い下着がなぜ原爆の爆風に有効なのか謎ですが、ともかく原爆まで大したことがないと言い切る防空総本部の見通しの甘さにあきれてしまいます。

※1 陣地・ざんごうなどに、敵弾の危害を防ぐため、設ける屋根。 

戦時中の防空法ですが、首長の判断が明暗を分けました。今日はそんなお話をします。

1 新潟市の場合
 新潟市は昭和20年(1945年)8月まで大規模な空襲を受けませんでした。そんな新潟にも8月10日、空襲に合いました。死者は47名だったそうです。その日、新潟知事・畠田昌福が知事布告をだしました。「(8月6日に落とされた広島の原発は)従来の民防空対策をもってはよく対抗しえない程度のもので人命被害もまた実に莫大」であり、「この新型爆弾はわが国未被害年新潟に対する爆撃に、近くしようせられる公算極めて大きいのである」と。


そして、畠田知事は「新潟にも原爆が落とされたら大変」ということで市民に「徹底的人員疎開」を命じました。内務省は新潟市民の疎開に不快感を示しましたが、畠田知事は市民の命を守ることを優先したのです。


市内から郊外へ向かう道は人々であふれかえったといいます。当時は車もあまり普及していない時代でしたから、大八車を押して避難した人も少なくなかったそうです。結局新潟市に原爆が落とされることはなかったのですが、避難が禁じられた時代に、その禁を破ってまで市民を守った畠田知事の決断はすばらしいなって。

ちなみに、新潟がアメリカの原爆投下であることが判明したのは戦後のことでした。

2 八戸市の場合
 青森県八戸市は、昭和20年(1945年)7月14日と8月9日に空襲を受けていました。さらに「8月17日に大空襲を実施する」という米軍による予告ビラも撒布されました。八戸市民も恐怖におびえたといいます。こうした予告ビラは八戸だけでなく、日本のあちこちでばらまかれました。目的は日本国民の戦意喪失です。「あなたの街を攻撃します」などと書かれていたら国民はビビるでしょう。とはいえ、空襲をこれから落としますよと、わざわざ教えてくれてるのですから、本来なら予告ビラを受け取ったら貴重品や大切なものを持って一目散に逃げれば、被害を最小限に抑えることができるはずでした。しかし、日本政府は「ビラの内容を信じるな、逃げるな」と訴えました。


昭和20年の『朝日新聞』にはビラについてこのように書かれてした。

「今度敵機が撒布した宣伝ビラの内容は荒唐無稽のもので、これによって一億国民の旺盛な繊維に何等かの影響も及ぼすものではない。しかし、敵は手をかえ品を変え、一億国民の戦意、団結を破壊を計るものと予測する。’(略)国民はゆめにも敵の謀略宣伝に乗ぜられてはならない」(『朝日新聞』昭和20年2月18日)

実際、憲兵隊や隣組の組長が「ビラをひろうな」、持っているものは提出しろ」と厳しく町内を見回ったといいます。しかし、大量にまかれたものを回収するのは大変な作業です。こうした空襲の情報は町から街へとつたわってしまうのです。

それで政府は国民の口封じのために、拾った空襲予告ビラを警察に届けないものを最大三か月の懲役刑に処すると決めたのでした。(昭和20年3月10日発令)

消火設備は一向に整備されず、疎開政策もなかなか進まないなかで、こういう対処は非常に迅速だったのです。ちなみに終戦までにまかれた枚数は458万4000枚にもおよぶといいます。宣伝ビラで警告されたにもかかわらず、逃げられなかった人がたくさんいて、それで余計に被害を大きくしてしまったのです。

では、八戸市の山内亮市長はどうしたのでしょう。なんと彼は防空法の非難禁止をやぶり、8月10日付で市街地からの「総撤退」を命じました。市民はみな避難をし、戸市は「さながら無人の廃墟の街のごとき」と言い伝えられるほど。この時代にネットがあったら山内市長はパヨクと叩かれるでしょうね。

山内市長は、戦時下の市民の食糧確保に奔走したといわれております。法律を守るより多くの人命を救ったのですね。国の法律を破ってまでも、人の命を救うことができるなら、たとえパヨクと呼ばれようと、それはむしろ名誉ですね。悪法も法なりと言いますが時と場合によります。

3 青森空襲
 1945年(昭和20年)7月中旬、青森市内にも空襲予告ビラがまかれました。空襲予告ビラは前の記事でも書かせていただきました。http://ehatov1896rekishi.diary.to/archives/2486477.html

青森市内よりも一足早く、青森港や青函連絡船は猛烈な攻撃を受けていました。当然市民はそのことを知っていましたから、いよいよ市街地にも及んだかと震え上がったといいます。ビラをみた市民は避難をし始めたといいます。そんな状況を青森県知事の金井元彦が黙っていませんでした。金井知事はかつて内務省の検閲課長として言論弾圧と国策流布に剛腕をふるった曰く付きの人物でした。彼はこのような言葉を語っております。



「一部に家を空っぽにして逃げたり、田畑を捨てて山中に小屋を建てて出てこないというものがあるそうだが、もってのほかである。こんなものは防空法によって処罰できるのであるから断固たる処置をとる。勝つには積極的精神、この精神をもって一にも二にも戦力を充実することである。(略)敵が去ったならば直ちに秦らう、どんなことがあっても増産を確保する。この心構えで敢闘する。それを空襲だからと一日も二日も秦からず逃げ回ったりするものがあれば、当然処罰する。(『東奥日報』昭和20年7月18日付)


さらに、金井知事は7月28日までにもどらないと、町会台帳から逃げた人間(家族)の名前を削除すると脅しをかけてきたのです。町内会の台帳から名前が消えるということは、町内会の人たちから非国民のレッテルをはられてしまい、また配給物も止められてしまうということです。配給物は町内台帳に書いている名前をもとに配られるものです。戦時中は配給制でした。食べ物などが配られなくなることは大変なことです。ましてや赤ん坊がいるお母さんにとっては大変です。赤ちゃんのミルクがもらえなくなるのですから。食べ物を買うにしても闇ルートで買うしかない。今みたいに自由にスーパーで買い物ができる時代とえらい違います。

そして多くの市民たちがが、期限とされた7月28日までに青森市に戻ってきました。その夜、約100機のB29が青森市を来襲し、午後10時半から約1時間20分にもわたり574万トンの焼夷弾を投下。しかも悪いことに青森の空襲で使われた焼夷弾は従来型に黄燐を入れ威力を高めた新型焼夷弾で、青森市がその実験場となったのです。人の命を実験台に使うとはアメリカもひどいことをしますね。大火災により死者1018名の大惨事となりました。

4 その後の金井市長
 さて、青森の金井市長は1946年(昭和21年)1月、公職追放処分を受けて知事を免職となりました。公職追放後は民間企業に勤めていたのですが、1948年(昭和23年)に自らの命令で空襲により多くの犠牲者を出したことを悼んで慰霊のため観音像の建立を提唱し、柳町交差点のロータリーに三国慶一作の「平和観音像」が設置されたそうです。

1964年(昭和39年)に道路拡張のため2代目の観音像が10メートルほど北に作られ、金井らが建立した初代の像は青森市文化会館の4階で展示されているそうです。

彼は生涯、青森空襲で人を死なせたことを大変悔やんでおり、その罪滅ぼしに観音像をたてたり、1944年(昭和19年)に金属類回収令で解体された能福寺(神戸市兵庫区)の兵庫大仏再建事業に際して奉賛会会長を務め、1991年(平成3年)5月9日の開眼法要に出席したそうですね。ただ、金井市長は良くも悪くもマジメすぎたのですね。上の人間には忠実に守るし、彼なりに正義感もあったのでしょう。それゆえに自分でも無意識のうちに人を傷つけてしまう。本当は政治家って遊びがあった方が良いのですよね。真面目さも大事だけど、その真面目さがアダになることが政治の世界では多い。あと臨機応変さ。

1 逃げるなと言うけれど
空襲にあったら、最初にすべきことは逃げることです。しかし、戦時中は防空法のため、逃げることを禁じられました。実際に住民が逃げることを阻止しようとした警察もいたといいます。

1945年(昭和20年)5月29日の横浜大空襲では、警察官がサーベルを振りかざしながら「逃げるな!火を消せ!火を消せ!」って一人猛火でわめき散らしたという話があります。一人でわめき散らしたということは、その警察の悲痛な叫びもむなしく、住民たちは我も我もと逃げ回ったということでしょう。

1945年(昭和20年)8月2日未明、169機ものB29が二時間にわたり来襲し市街地の8割を攻撃したといいます。恐ろしいですね。爆撃機一機だけでも怖いのに169機とはすごい数です。戦闘機の爆音もそうとうなものでしょう。しかも、その戦闘機が一斉に爆撃し、死者は約450名にも及んだといいます・・・

猛火から逃れるため、住民たちは市街地から北へむかい、浅川橋という橋から少し進むと山へ避難しようとしました。しかし、その橋のところに長蛇の列ができたといいます。なぜでしょう?その橋の入り口のところで約20人の消防団が道をふさぎ、住民の避難を阻止しようとしていたのです。その消防団の一人から言われた言葉が、

「男のくせになぜ逃げてきた。早く言って火を消せ、消さなければ胴をつく」とか「ぶったたく」とか。

いまならモラハラものですよね。というか、いつの時代にも自粛警察みたいな人はいるのですね。そんなことを言われたものだから、地獄のような猛火にさらされた市街地へ戻ったといいます。

また、ある家族は浅川橋で憲兵(もしくは在郷軍人)に呼びかけられたといいます。そしてサーベルを振り回して「男は戻れ!」と怒鳴ったといいます。その家族の一人が「背負っている老婆を安全な非難させる」といったが、「この非国民が!」と罵られビンタを受けたといいます。

2 通せんぼ
この八王子空襲が起きた同じ日に富山県富山市でも空襲があり、やはり消防団が逃げる人たちの通せんぼをしていたといいます。富山市に神通川という川があって、その川にかかっている橋を避難者が渡ろうとしたら消防団が通せんぼし、空襲で燃えている街に追い返し、消火活動をさせたといいます。空襲の被害が日本のあちこちにも及び、各地は焼け野原が広がっている。いくら、お上が「逃げるな、火を消せ」と騒いだところで、消火の素人である隣組の防空活動、たとえばバケツリレーとかが無意味であることに多くの人がわかるようになりました。空襲が起こる前は、政府やマスコミは「焼夷弾は怖くない」としきりに宣伝していましたが、実際はそうじゃないことが明白になりました。しかし、そうした国民の考えとは逆にマスコミは以前にもまして「逃げるな」「火を消せ」とまくしたてるのです。それだけ、現実に国民の士気が低下していることの表れといえます。そのことに対する政府の焦りも見え隠れします。 


3 空襲下の泥棒
空襲のどさくさにまぎれて泥棒被害も多発していたのです。

よく戦時中の日本には美徳があったという意見をよく聞きます。僕のブログでもたびたび戦前の日本人が必ずしも高いモラルをもっているとは限らないとたびたび書かせてもらいましたが、戦時中も例外ではありません。「火垂るの墓」でも主人公のセイタが畑の野菜を盗んで、とがめられるシーンがでてきますが、実際にあのようなことはありました。物資が窮乏して追い詰められていたからです。

「武士は食わねど高楊枝」ということわざがありますが、人間は食べるものがなければ、モラルもヘチマもあったものではありません。昭和20年4月22日付の『読売新聞』には「火事場泥棒という言葉があるが、最近空襲のどさくさにまぎれて泥棒被害が少なくない。ひどいのになると命からがら持ち出した罹災者(※1)の物品までかすめとる」と書かれておりました。実際、昭和20年の5月から7月までの間だけでも約3500件もの盗難事件が発生し、そのうち3割が食糧だというのです。

*1 空襲の被害にあった人

1 マスコミの罪
 
昭和17年4月18日、B25爆撃機が白昼堂々と東京や川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸などを攻撃しました。死者も約90名もでたのですね。しかも死者はほとんど非戦闘員の一般人です。しかも、死者のなかには幼い子供もいたといいます。これは大変なことです。しかし翌日の新聞の一面は空襲の悲惨さや恐ろしさをほとんど触れず、それどころかこんなことが書かれておりました。

「家族が食卓を囲んで食事をしているところに焼夷弾が落ちた。とっさの機転で老婆がお鉢のふたをかぶせれば、あとの家族が砂やムシロなどを運んできて簡単に火を消し止めた」

「バケツのお尻で焼夷弾の灯をたたき消した」


いづれも『読売新聞』の記事から引用したものですが、呆れた話です。こんな話をまともに信じる人はそうそういないと思います。焼夷弾は3000度の熱があるといいます。僕も実際に焼夷弾を生で見たことがあります。見たことがあるといっても不発弾ですが、不発弾とわかっていても、近づくのが怖いくらいでした。バケツのお尻や砂で火が消せるわけないのです。消せるどころか爆発してしまいます。当時の大マスコミはこんなウソを平気で書いていたのですね。

さらに『朝日新聞』には「爆撃の状況を種々詮索したり、あるいは憶測などによって流言飛語をなすなどは厳に戒めねばならない。作戦上のことに関しては一切軍に信頼して、一般国民はそれぞれ全力をあげてその持ち場を守り、各自の任務を全うすることが必要である」と軍部の談話、まさにDVオヤジの言い訳のような談話を嬉々としてとりあげておりました。その軍部が一番信頼できないのにこの言い方はないですよね。この新聞が戦後になって反戦平和なんていっても説得力がありませんよね、ホント。

こんな与太話ばかりで肝心な犠牲者の数は取り上げておりません。それというのも当時の政府というか軍部が、マスコミに空襲のことは書くなって命令したからです。本土空襲以降、報道規制が強まり、空襲の報道記事はすべて特高課によって検閲されたといいます。



2 うわさ話もするな
 戦時中はSNSはありませんでしたが、東京や神戸、横須賀などこれだけの都市が空襲にあえば、その恐ろしさは嫌でも日本の方々に伝わります。そのことに危機感を感じたのは軍部。国民に厭戦気分が蔓延するのが何よりも恐ろしい。なんたって戦争があっさり終わって困るのは、国民ではなく一部の勝ち組ですからね。で、軍部は、空襲の話を人々に話すのは非国民だとキャンペーンを張ったのです。

政府が刊行した広報誌『週報』にも、このように書かれております。

「(空襲の話を友達や親戚等に)知らせたいのはやまやまです。しかし考えねばならないのは国内に発表すればそれが津津根家に敵国に聞えるということです。先だっての空襲でも米国は空襲の真相がわからず、弱り切っています。そこへ国内発表することは、敵へ真相を教えてやるようなものです。」

「空襲の被害状況を発表できないのは、こういった理由からで、結局、国民を空襲の被害から救おうとしていることができます。」

「ここで特にお願いしたいことは、空襲のことについては、知ったかぶりをして、人から聞いた話など言いふらさぬようにしていただきたいことです。空襲のうわさ話などをしていたら、お互いで相戒め、でたらめな話をすることは非国民的な行為としてお互いに注意していただきたいことです。」

要するに、空襲の話をするなといいたいのでしょう。それにしても、敵に空襲の真相が知られるから、話すとはなんとバカなことを書いているなって。空襲を落としたのはほかでもないアメリカなのですから、空襲の真相なんてあったもんじゃありません。もし、この『週報』をアメリカ軍が読んだら鼻で笑われますよ。当時の政府はこんな態度だったのですね・・・・

うわさ話だけでなく、空襲のことを手紙に書くことも禁じたといいます。昭和16年10月に制定された勅令『臨時郵便取締令』がだされ個人が出した手紙も郵便職員が検閲することが認められました。つまり、空襲のことが手紙に書かれていたら警察にチクることもできたのです。今では考えられないことです。いまでは郵便職員が個人が出したハガキどころか年賀状も読むことを固く禁じられていますし、たとえ警察が犯人が書いたかもしれない手紙を見せろと言われても、郵便職員は通信の秘密を盾にそれを拒むことができますからね。

ちなみに空襲のことでも書いていいのは「どこどの誰かさんの家が焼けました」とか「誰かさんがけがをした」くらいならOKのようです。

3 空襲予測も隠蔽
 政府が隠蔽したのは空襲の被害だけではりません。空襲の予測さえ隠蔽していたのです。アメリカが昭和17年に続いてまたも日本を爆撃するということを事前に予測していたのです。それはガダルカナル島の戦いで日本軍が敗退した翌日(昭和18年2月8日)、政府は「絶対国防圏」を縮小し、次の空襲判断をしめしたのです。

「大東亜戦争は今や長期戦の様相を濃化し、これに伴う空襲は、来年度以降さらに深刻かつ激化すべ趨向すうこうを予想せらるる・・・(中略)小型焼夷弾の多数投下及び焼夷威力が大なる大型焼夷弾の混用投下し、消防活動を困難ならしめんとする公算大なる。(中略)大なる機数をもって反復空襲し一挙壊滅的効果おさめんとする公算大・・・」


なんと政府は昭和18年の時点でアメリカは再び空襲をする、今度は一回目よりもっとひどい爆撃をするだろうと割と正確に予測をしていたのですね。それにもかかわらず、大本営には「大したことがない」「逃げるな火を消せ」と昭和20年の8月15日まで国民に命令していたのですね。空襲がひどくなることが昭和18年の時点でわかっていながら、一般国民には知らされていなかったのです。

※ 参考文献

「逃げるな、火を消せ!」戦時下トンデモ「防空法」: 空襲にも安全神話があった!
「逃げるな、火を消せ!」戦時下トンデモ「防空法」: 空襲にも安全神話があった!

もちろん、防空法の問題点に関しては異論もありました。たとえば

中山議員は、「消防や避難、道路・水道・建築物を改良するなどの策があるのか」と問いました。すると、河原田内務大臣は「これらの問題は、あるいは国民経済、あるいは国家の財政ということも関係いたしますので、今回の防空法案は、とりあえず一般国民の訓練と、かつ最小限度における設備を命ずるというような制度にとめたのであります。」と答えました。この「とりあえず」がやがて国民を苦しめることになるのですが、それはまたのちほど触れておきます。

さらに野中徹也議員も「去年あたり東京市内で行われました防空演習のごときは、子供の悪さであります。ああいうものでは、私どもでいわせるならば、本当の防空というものは完備しない。本当に防空を完全に行おうとするあんらば、すなわち航空事業の発達が絶対条件ではないか」と質問をしました。そりゃそうです。実際に空襲になったら、消火よりもまずは逃げることを優先しなければいけないのに、防空演習のメインはバケツリレーですもの。少しぐらいのボヤだったらバケツリレーでもなんとかなるかもしれませんが、実際の空襲ではほとんど役にたちません。そのことを野中議員も訓練を実際に見て疑問視したのでしょうね。

しかし河原田内相は「ごもっともでありまして、従来のような訓練を実効あらしめるためにこの蜂起を制定したような次第であります・・・」というはぐらかすような発言を言うのみでした。

こうした疑問が出されながらも、昭和12年3月30日に「防空法」は制定されてしまいます。もし、この時代にネットがあったら中山議員や野中議員は「売国奴」か「パヨク」よばわりされていたでしょうね。


昭和16年に防空法が改正され、さらに厳しくなりましたが、その防空法のことで疑問を持つ意見は絶えませんでした。貴族院の水野甚次郎議員は国会で次のように質問しました。

「私は防空演習をみても『お祭り騒ぎ』の感があるのであります。三千度の熱をもった焼夷弾に対して、あのちいさなバケツで水をそばに持っていくような余裕は果たしてあるのか、そばに寄れるものじゃない。あんな状態でどうして火を消しえるのであるか、私ども誠に空恐ろしく感じました。」

まったくもって正論です。しかし、政府のお偉いさんは開き直るような態度だったそうです。

また芦田均議員(戦後総理大臣になる)は、防空施設の不足を指摘しました。ポンプ車や水道整備が立ち遅れていましたから。物資が不足していたとはいえ、空襲に備え防空施設を整えるべきだと思うのは、軍事に素人の僕でさえ思います。しかし、軍のお偉いさんの答えは「施設の足りない分は、精神で補う」というものでした。政府の無策を棚に上げ、各人の精神で乗り切れというまさに「自己責任論」です。僕もこのブログで度々書いておりますが、戦前、戦時中は現代よりも「自己責任論」がまかり通っていたのです。

もちろん軍部のなかにもまともな考え方を持っている人もいました。たとえば室井捨治(海軍少佐)は「空襲の脅威」という座談会でこのように述べております。

「東京全体としては、まず避難させるのが一番よい。いくら施設(整備)をしてもかなわぬから避難させる。むろん根本的な対策は色々ありましょうが、現在差し迫ってどうしたらよいかといえば・・・実際対策はないですね。とりあえず消防力を強化する位の手しかないんじゃないでしょうか」


室井少佐はベルリン駐在の経歴があり、空襲の恐ろしさも見聞していたと思われます。避難すべきというのは率直な実感でしょう。

しかし、ある中佐が「もし市民全部が逃げてしまうと空になって火を消す人がいなくなる」と反論。こうして室井少佐も黙ってしまい、この後「空襲はこわい」「避難させるべき」という論調は姿を消したといいます。怖いですね。至極マトモな意見でさえ、パヨクと罵られ、意見を封じられる怖さ。

* 参考文献

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