history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

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世界遺産といえば富岡製糸場の建物もそうですが、世界遺産の対象になったのは富岡製糸場だけではありません。「富岡製糸場と絹産業遺産群」の一つとして、群馬県下仁田に荒船風穴も世界遺産になっております。下仁田といばこんにゃくが有名です。ぼくも下仁田のこんにゃく食べたことがありますが、おいしいですよ。あまりのおいしさに鳥肌が立ってショウガがすれるくらいw



さて、僕も荒船風穴に訪れたことがあったのですが、下仁田から車で一時間くらい山を登ってやっとたどり着くところにあります。この荒船風穴は、自然にできた岩穴に人間が石垣をつくったりして加工をしたものです。



冬の間、荒船風穴は、雪におおわれ、その冷気が夏にも残って、岩の隙間から冷たい風が吹くそうです。そこの風穴に蚕種と呼ばれるカイコの卵を保存したのです。





カイコというのは、春にしか繭をつくりません。それでカイコの卵を、この荒船風穴で冷やし、卵から幼虫がかえる時期をずらして、年に数回、春以外の季節にも繭をつくらせるようにしたのです。また、カイコを冷やして保存するためにも荒船風穴が使われたのです。



昔は電気冷蔵庫がなかったので、蚕種を冷やすのに、わざわざ山を登って、この荒船風穴まで蚕種を運んだのですね。今は荒船風穴までの道も舗装され車も通れるようになりましたが、昔は道も舗装ほそうされていなかっただろうし、車を走らせることもできなかっただろうから、不便だったろうなって。





話がちょっとずれますが、『クレヨンしんちゃん』の原作者の臼井儀人さんが荒船山(長野県と群馬県の境。下仁田にある)でなくなっているのですね。なんでも臼井さんが登山をしていて、それで滑落かつらくし亡くなったそうです。僕はタクシーで荒船風穴にいったのですが、その時タクシーの運転手さんが教えてくれたのですね。登山って結構危険なスポーツですからね。僕の高校時代の登山部の顧問の先生もやはり滑落事故で亡くなっていたのですね。高校の時登山部に入ればよかったと今も時々思うこともあるけれど、僕は運動神経もよくないし、体も堅いからかえって良かったかも。話を戻します。



ここの荒船風穴には日本全国はもとより外国の蚕種が運ばれたそうです。そのため、風穴の横にあった管理棟と、山のふもとにあった事務所の間には、そのころ珍しかった電話がひかれ、注文に応じていたといいます。



また、今はありませんが昔は風穴の中に建物があって、さらにその建物中でカイコを保存した居たのですね。





※ 参考文献



明治5年10月〜明治8年6月 収入 487,111円797銭 支出 707,345円541銭 損益 ▲220,233円744銭
明治9年7月〜明治10年6月 収入 290,866.360  支出 188,208.940 損益 102,657.420
明治10年7月〜明治11年6月 収入 212,120.230   支出 223,811.813  損益 ▲11,691.583
明治11年7月〜明治12年6月 収入 200,790.440  支出 203,124.710 損益 ▲2,334.270
明治12年7月〜明治14年6月 収入 278,547.119  支出 262,053.538  損益 16,493.661


結構赤字を出しているのですね。特にブリュナがいたころ(明治5年〜8年)の富岡は大変な赤字を出していて、内務省も心配したといいます。明治5年から8年の4年間の間で220,233円744銭の赤字を出したと言いますが、現在の価値に直すとなんと44億円の大赤字!

こりゃ、内務省も心配しますね。製糸技術者の速水堅曹はやみけんそうに富岡製糸場の経営診断にあたらせたといいます。速水はこのような内容の報告書をまとめ、損失の多い理由をいくつか列挙しております。

  1. 原料繭を高い価格で仕入れている

  2. 短期間でやめる工女さんが多く、工女さんたちが未熟練

  3. 経費が多額である

  4. 地方に建てたための不便さと物価の高さ

  5. 官業ということもあり、役人の非能率性と士気不足な傾向あり。

  6. 外国人への好待遇。例えば、ある外国人の教師は月に56円(※1)もらっていた



「外国人技師を解雇し、民間に早く払い下げるべき」という意見も政府の間で出てきたのですね。

工場長だった尾高敦忠は、赤字を解消するために経費削減に勤めます。まず、外国人技師へ支払う給料。これが結構な出費でした。工場運営の予算内訳でなんと34・8パーセントが九人のお雇い外国人の給料などに使われていたのです。ちなみに工女五百人分の給料などに占める予算の割合が43・8パーセントですから、たった九人のお雇い外国人の給料の総額と500人分の工女の給料の総額が9%ぐらいしか違わないというのもすごいなって。それでブリュナと政府との契約が切れたのを機に、お雇い外国人たちも帰国。それから富岡は外国人を雇わなかったのですね。

さらに、明治9年(1876年)に尾高は例年の2倍の量の繭を安く購入しました。尾高は繭の相場が上がることを踏んで大量に購入したのです。実はこの年、日本では繭は豊作で例年より相場が安かったのです。ところが海外では不作。その影響でやがて繭の価格は上がるだろうと尾高は考えたのです。そして、尾高の思った通り、繭の価格は高騰します。尾高は高値で繭を売りさばいたのです。そうやって尾高の努力で、明治9年は黒字になったものの翌年以降たびたび赤字を出してしまいます。

しかし、それでも富岡の赤字体質は変わりません。

2 採算を無視したからこそ
明治13年7月〜明治14年6月 収入 285,185.556  支出285,828.884  損益 26,356.762
明治14年7月〜明治15年6月 収入 212,478.391 支出 211,257.557  損益 1,220.834
明治15年7月〜明治16年6月 収入 184,627.626  支出 232,374.528  損益 ▲ 47,746.902
明治16年7月〜明治17年6月 収入 158,738.903   支出 200,494.977 損益 ▲ 41,756.072
明治17年7月〜明治18年6月 収入 345,788.516  支出 361,203.026  損益 ▲ 15,414.510


いくら経営者が頑張っても、赤字体質は改まりません。東京から群馬に物資を運ぶための費用や不便さゆえの物価の高さでコストがあがり、フランスの糸価格下落もあったり、借入金の返済もままならぬ状況で、経営は悪くなる一方。また悪いことに操業当初からそびえていた煙突が大風で倒れ、新たな煙突の建設費もかさんでしまいました。

富岡製糸場建設に尽力じんりょくした渋沢栄一シブサワエイイチは、後年になって「富岡の製糸は官による経営で採算性さいさんせいを無視できたから成功した側面もあり、日本の製糸の近代化に真に貢献こうけんしたのは、富岡に刺激しげきされて近代化を志した民間の人々である」(ウィキペディアより引用)と書き記しています。「採算性を無視できた」、つまりもうけを無視したという言うくらいだから、富岡製糸場は赤字が多かったのです。しかし、採算を無視してよいなんていつまでも言っていられません。

そんなさなか、明治13年の11月政府は「官営工場払下概則」を発表し、政府が設立した工場は民間の工場にわたしましょうよという話になりました。いよいよ富岡の民営化に拍車がかかるのです。

3 移り変わる経営母体
富岡製糸場は官営から始まったものの、うまく行かず、民営化しました。が、何度も経営母体が変わったのです。三井、原、片倉という具合に。しかし、民営化されても赤字体質はあまり変わらずだったのです。

官営時代(明治5年〜明治26年)
三井みつい時代(明治26年10月〜明治35年)
合名会社ごうめいがいしゃの時代(明治35年9月〜昭和13年)
株式会社富岡製糸場(昭和13年 片倉に経営を委託いたく
片倉かたくらの時代(昭和13年〜平成17年9月)

(以下 ガイドブックより引用)


これだけ経営母体が変わるのは、製糸業は、もうかる時はすごく儲かるけれど、そうでない時は大損をしてしまう。そんなに、製糸業の経営が不安定だったのは糸の価格が不安定だったから。その辺のお話は次項で詳しくお話しします。


4 もうかる時は儲かるが・・・・


 『あゝ野麦峠』にも書いてありますが、製糸業は「生死業(せいしぎょう)」と呼ばれていました。製糸業は糸の相場にものすごく左右されるといたそうです。糸相場は国内の製糸業者の意思ではどうにもなりません。糸生産出高の70パーセント前後を輸出する製糸業にあっては、横浜よこはまにいる外国商館やアメリカの絹織物業者きぬおりものぎょうしゃの側に糸価しか決定権があったそうです。富岡製糸場は民営化されましたが、民営化されても、糸価ばかりはどうすることもできません。

横浜の生糸相場せいしそうばは「あばれ馬」のように、暴落ぼうらく高騰こうとうり返しました。何しろ最盛期(大正8年・1919年)に一梱ひとこり4000円以上した糸価しかが昭和5年(1930年)にはたったの500円にまで暴落したというからおそろしい。

大正九年の戦後恐慌せんごきょうこうのときは、製糸業者も大変だったみたいです。大正八年の生糸ブームのときの莫大ばくだいもうけを次の年でスッカラカンになることもありました。この恐慌で気がくるった経営者もいたとか。もうこりゃバクチですね。

明治初年に長野県の下諏訪しもすわに製糸工場が82も工場できたが、明治末まで維持いじできたのは、三井組の工場だけで、あとはことごとく破産はさんしたそうです。下諏訪の製糸業者で唯一ゆいいつ生き残った三井組も昭和6年(1931年)の糸値大暴落しかだいぼうらくで姿を消したといわれています。富岡も民営化しましたが、その影響は大きかったようです。その年(昭和6年)に富岡製糸場は大型の設備投資をおこなったこと、レーヨンの急速な発展で蚕糸業が大打撃を受けたこと、大きな輸出先のアメリカの大恐慌、満州事変などの国際情勢の悪化で、経営が悪化したのですね。

糸価を安定させなきゃ工場も大変ですし、そのしわ寄せが工女さん達にもおよんできます。工女さんたちを安い賃金でこき使わないと採算が取れないのです。それでもダメなら、工場の閉鎖もやむをえなくなります。それは富岡も例外じゃありません。富岡の場合は潰すわけにも行かないので工場の身売りをしたのだと。

それで、糸価安定を目的として、糸価安定施設法しかあんていしせつほうが出来たましたが、その法律が出来たのは何と1937年(昭和12年)。おそいちゅうねんw

明治〜昭和初期も国会で政治家達がアホみたいな権力闘争けんりょくとうそうをしていたそうですが、そんなヒマがあったら、もっと早く糸価安定の対策を取り組むべきだったと僕は思います。近代日本の主要産業の生糸もだんだん売れなくなり、日本で製糸業をやる工場もどんどん少なくなっていきます。








※ 参考文献
あゝ野麦峠 ある製糸工女哀史 (角川文庫)
山本 茂実
KADOKAWA/角川学芸出版
1977-04-01


富岡製糸場と絹産業遺産群 (ベスト新書)
今井 幹夫
ベストセラーズ
2014-03-08



明治6年(1873年)の6月24日に明治天皇の皇后・美子(のちの昭憲皇太后)と、明治天皇の母親である英照皇太后の両陛下が富岡製糸場に女官たちも引き連れ、行啓したのですね。この時、製糸場をみた皇后が詠んだ短歌があります。



いと車 とくもめくりて 御御代の 富雄をたすくる 道ひらけつつ



この短歌の大意は「繰糸機が早い勢いで回っている。これによって我が国の富や豊かさを盛り上げる道がひらけつつある」とのこと。富岡製糸場に対し、皇后が大きな期待を寄せていることがうかがえます。また、横田英も『富岡日記』に皇后・皇太后両陛下が女官たちとともに富岡にやってきたことの喜びが書かれております。


(両陛下の)神々こうごうしき竜顔を拝し奉り、自然に頭が下りました。(略)さて両陛下の御衣は、藤色に菊びしの織出しのある錦、御一方様は萌黄に同じ織出しのように 拝しました。(略)私はその頃未だ業も未熟でありましたが、一生懸命に切らさぬように 気を付けて居りました。初めは手が震えて困りましたが、心を静めましてようよう常の通りにな りましたから、私は実にもったいないことながら、この時竜顔を拝さねば生涯拝すことは出来ぬ と存じましたから、能く顔を上げぬようにして拝しました。この時の有難さ、只今まで一日も忘 れたことはありませぬ。私はこの時、もはや神様とより外思いませんでした。


『富岡日記』(P39〜40)



目の前に皇后・皇太后両陛下がいるのだから、それは横田英でなくても、一生忘れない経験だと思います。そして皇后・皇太后陛下は富岡製糸場にお酒を賜ったとのことです。



この行啓の前の明治4年(1871年)に、それまで長らく途絶えていた宮中での養蚕(ご養蚕)を皇后が吹上御苑内にて復活させました。



その養蚕の行事はいまも受け継がれております。皇居の中にも蚕室があるそうです。春から初夏にかけて、歴代の皇后陛下が掃きたて(※1)や給桑きゅうそう(※2)や上蔟じょうぞく(※3)、繭かき(※4)など、いろいろな養蚕の作業をされます。皇居でつくられた絹糸は、正倉院の絹織物の復元や、宮中祭祀や外国元首へのおくりものなどにつかわれます。



明治4年に養蚕は再開しましたが、再開する際、皇后・美子は「養蚕を再開するには養蚕の知識がある人物が必要」ということで、当時大蔵省の役人だった渋沢栄一に白羽の矢が立ったのです。しかし、渋沢は辞退。かわりに田島武平という人物を推薦します。その田島武平の親類にあたる人物が田島弥平で、田島弥平の旧宅が「富岡製糸場と絹産業遺産群」(世界遺産)の構成資産の一つに数えられております。



戦後になってから、幾度も皇室の方が訪れました。例えば、昭和42年には浩宮さま(いまの天皇陛下)、昭和44年には皇太子殿下と妃殿下(今の上皇さまと美智子皇太后さま)がお見えになりました。平成に入ってからも、今の上皇さまと皇太后さま(当時は平成天皇・皇后両陛下)が平成11年にお見えになられております。












※1 ふ化したばかりのカイコを桑の上にうつすこと。

※2 桑をあげること

※3 繭をつくる場所にカイコをうつすこと。

※4 繭をあつめること






※ 参考文献




富岡製糸場と絹産業遺産群 (ベスト新書)
今井 幹夫
ベストセラーズ
2014-03-08






1 病気になった工女さん

 富岡製糸場の繰糸場の中は、顔が見えなくなるほど蒸気が立ち込め、蒸気の音もすさまじく、大変蒸し暑く、冷房もありません。しかも労働時間は官営時代でさえ8時間弱。だから、病気になる工女さんも多かったのです。特に夏になると、病人が増えたのです。



ある日、河原鶴子さんが急に不快だと 申されまして、驚きました。その日は部屋に休んで居られましたが、急に足がひょろひょろする と申されましたから、翌朝病院に参られまして、診察を受けられますと、脚気かっけ(※1)だとのことで、そ の日頃から足は立たぬようになられましたから直に入院致されましたが、追々様子が宜しくあり ません。私は休みの時間ごとに見に参りましたが、二日目頃はよほど悪いように見受けました時、 私の驚きはとても筆にも詫葉にも尽されません。(略)



その内段々快方に向われまして、つかまり立ちの出来るようになられました頃、父君がおいで になりまして、ついに帰国致されましたが、互に泣別れを致しました。そのお鶴さんは只今では お雪さんと申されまして、耶蘇やそ(※2)の伝道師になって居らるるように承りました


『富岡日記』P46〜P49まで



幸い、河原鶴子は一命をとりとめましたが、そのまま亡くなった工女さんも少なくないのです。官営時代に亡くなった工女さんの数は52人。意外と多いです。そのうち15歳以下で亡くなった工女さんが4人いたというからかわいそうだなって。医師が工場内に常にいて、健康管理に気を付けていた官営時代でさえ死者がでたのに、労働時間が長くなり、医師も工場内にいなくなった民営化時代は、官営時代のそれよりも多かったのではないかと。


2 工女さんがねむるお寺

富岡製糸場とみおかせしじょうの近くに龍光寺りゅうこうじというお寺があります。このお寺には工女さんのお墓があります。明治6年(官営時代)から明治34年(民営化後)の28年間の間に、60人もの工女さんが亡くなり、その60人のお墓が、ここ龍光寺と海源寺かいげんじというお寺にあるそうです。



ここ龍光寺には工女さんのお墓が30ほどありまして、お墓に埋葬まいそうされているのは工女さんたちだけでなく、製糸場の役人などもいるそうです。また、明治26年の民営化の際、当時の所長が建立した連名のお墓もあります。

で、工女さん達のお墓は、思っていたより質素だなあって思いました。コケがはえている墓もありました。墓が古いから仕方がないといえば仕方がないのですが、なんかむなしいなって。




3 かわいそうな工女さんたちのこと


 3年位前に富岡にいったのですが、その際、工女さんたちをなぐさめるために、お墓にお線香とお花をささげました。墓を見て虚しい気持ちになりましたね。国の繁栄はんえいのために必死に働いて、亡くなったら小さなお墓に入れられて、雨ざらしにされ、しかも墓にコケが生えるような有様ではかわいそうだなっておもいました。


掃除もしたかったが、お墓も古くて、ちょっと触っただけで崩れそうな感じです。かといって、お墓をきれいに作り直すのは大変ですし、お金もかかるし。

ちなみにこのお寺の参拝客は僕のほかにもいらして、初老の男性が線香を上げてました。お参りしてくださる方も少なくないようで、救われた気分になりました。


最後に富岡製糸所で初期に亡くなった工女さんである照井多計の辞世の歌をご紹介します。



「夏の夜の 夢路をさそう時鳥 我が名をあげて 雲の上まで」



この辞世の句は照井多計の墓に刻まれているそうですが、長い年月が経っているため読めなくなっているとのこと。
照井多計は岩手の出身で21歳で異郷の地で亡くなったのですね。彼女はどんな思いでこの辞世の句を詠んだのでしょう。


※1 ビタミンB1の欠乏のために、末梢(まっしょう)神経がおかされ、足がしびれたりむくんだりする症状。下手すると死亡する。明治のころは不治の病と恐れられていた

※2 キリスト教徒のこと


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(龍光寺の入口)

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(説明版)



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工女さんのお墓たち。本当はお墓の写真なんてとるのは趣味じゃないのですが



※ 参考文献及びサイト







http://www.silkmill.iihana.com/ryukouji.php


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富岡製糸場とみおかせいしじょうの近くに大正時代から続いている中華料理屋ちゅうかりょうりやさんがあります。こちらのお店では中華ちゅうかそばやおだんごなども出してくれる昔ながらのお店です。

僕が食べたのは中華そば。昔ながらのまろやかな味でおいしかったです。

お値段も安いのもうれしいです。

店員のおばあちゃんも、感じがよく、また行きたくなるお店です。

富岡旅行から帰ってきて、雑誌やネットで分かったのですが、こちらのお店は富岡製糸場の工女さんたちにも愛されたそうですね。

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