history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

1 優遇された山口県出身の工女さん





 富岡製糸場には日本各地から工女さんが働きに来ていました。横田英は信州の松代出身でした。横田を含め松代から来た工女さんは16人でした。松代から来た工女さんは士族の娘だけでなく平民の娘もおりました。山口県からやってきた工女さんたちは上品な雰囲気で着ている着物も高価だったそうです。しかも、横浜から富岡まで人力車できたというからリッチですよね。ですから、山口の工女さんたちは、ほかの工女さん達は羨望せんぼうのまなざしを向けていました。ところが、



「今にも繰場に連れいかれるかと、そののみ待っておりましたが、十二時前まで何のさたもありません。それからはばかりに参る風にてガラスから繰場の中を見ますと、驚きますまいか、待ちに待ったるその人は入場直に糸をとることになりまして、皆々口付の教えを受けて居ります。私共は驚きが通り過ぎて気ぬけのしたようになりまして・・・(略)皆申し合わせたように私の部屋に大勢同行の人々が参りまして、皆泣いて居りました。こんな依怙贔屓えこひいきをされてはこの末とてもどのようなことをされるかわからぬと申すものやら、両親がすすまぬのを無理にきたから罰が当たったとか、いろいろに申しまして、たたみひたいをつけて泣いて居りまして・・・」『富岡日記』(P26〜27より)




山口の工女さんだけ、下積み作業の繭とりをしないで、いきなり糸取りをさせてもらったのです。これは不公平だと、ほかの県の工女さんたちは怒ったのですね。あこがれの存在からねたまれる存在にあっという間に変わってしまいましたね。いや〜怖いですね。嫉妬しっとのこわさは僕もよ〜くしっとるw

レストランに例えれば、新人でありながら、掃除そうじなどの下積みの仕事をしないで、いきなり料理の仕事に任せてもらえるようなものです。このようなことが起こったのは新政府の有力者に山口の人が多かったから。たとえば、伊藤博文とか山形有朋とか。


横田英も不公平だと「山口県の工女さんばかりずるい」と上司に文句を言ったそうです。すると、上司は「このことは西洋人の先生が間違えたのだから仕方がない」と言ってごまかしたそうです。



 

2 イベントでも優遇された山口工女

 
例の盆踊の御催促さいそくがしきりにありますから踊り始めますと、段々沢 山になりまして、他県の人まで加わります。一時実に盛んなことでありましたが、ここに競争者 があらわれました。山口県から参って居ります五十何人の方々でありました。信州の人が盆踊を 盛んにおどるから山口県の者も負けぬように踊るがよろしいと申されまして、毎日毎日休みの時間 に部屋部屋で下稽古したげいこをして居られましたが、その内に十分用意が調いましたと見えまして、夜分 庭に出ますと始めましたが、何を申すも人数が少う御座いますから、とても長野県の人にかないま せん。しかし踊が信州の盆踊と違いまして、何か御座敷で踊るような踊と見えます。中々高尚こうしょうで あります。

『富岡日記』p44より





夏になると工女さんたちは夕涼みをしましたが、そのついでに盆踊りも行われました。上司のすすめで、長野県出身の工女さんたちが盆踊りを皆の前で披露ひろうしたのです。するとほかの県の工女さん達も踊りだしたのです。それに負けじと立ち上がったのが山口県の工女さん達。


で、山口県の工女さんたちが踊りだすと、富岡製糸場の男子伝習生-(※1)らが高張提灯たかはりちょうちんすべてを山口県の工女さん達のところへ持って行って、長野県出身の工女さんたちが踊っている場所が真っ暗になったなんて展開になりました。それには長野県出身の工女さん達もキレてしまいました。





3 盆踊りボイコット事件

初めはいやだと言うのに無理にすす めて置いて、今になって山口県の人々に助力する上に高張まであちらへ二本も持って行くとは実 に依怙贔屓えこひいきだから、長野県の人は明晩から一人も庭に出ぬことにしようと、誰が申出しましたか、 それからそれと伝わりまして、翌晩は一人も出ません。蚊帳かやの中に休んで居ります。(略)(所長たちが出ろと言ったが)皆お腹が痛いの頭痛がするのと申しまして、皆出ません。引出され ましても直に戻って参ります。(略)



しかし私(横田英)は皆に申しました。「どう見ても山口県の踊は高尚でもあり、このようなことでつま らぬ争いをしたところで何の利益も無いことだから、私はこれから見物して、決して国の盆踊は 踊らぬ」と申しました。追々同意者がありまして、これから後、信州の踊は止めました。
『富岡日記』P44〜45まで





あんまり山口県の工女さんばかりひいきするから長野県出身の工女さんが怒って、ボイコットをしたのですね。それで横田英が長野県の工女さんたちをなだめたのですね。





※1 彼らは繰糸業、生糸検査、製糸の細太試験ほか蒸気器械製糸の諸技術などを学びながら、富岡製糸場経営の管理の一端も任された。また、工女さんの取り締まりなどもやったらしい。

1 お花見

「三月末ごろでありました。製糸場一同は一ノ宮へお花見に参りました。役人方・取締とりしまり一同・まかない方、なかなか盛んなことでありました。尾高おだか様をはじめ、その他お出になりました。その前日、北海道から工女が両名入場いたしました。その人も参りまして・・・。(略)その日は三味線もありまして、工女の内でひきます人も中には本手に踊ります人もありまして、 実に面白いことでありました。工女も皆十二三より二十五六歳位までの者が揃って、ふだん日な たに出ず毎日湯気に蒸されて居ますから、かみつや顔の色実に美しいことで、とても市中の婦人と 場内の人では一つになりませぬ。」


『富岡日記』P57より




春といえば、お花見。お花見ちえば、桜。桜といえばケツメイシの「さくら」をボクは連想しますがw、富岡の工女さん達にとってもお花見は楽しみの一つでした。

ちなみに尾高様とは、尾高惇高おだかあつただのことで、富岡製糸場の責任者であり、初代工場長だった人物。
また、富岡の工女さんたちは工場の人たちとともに富岡市にある一之宮貫前神社にも参拝するなど、仕事だけでなくレクリエーションも結構盛んだったのです。 



2 夕涼み

夏は夕涼み。特に富岡製糸場の中はカイコを煮た熱気がむんむんしていて非常に蒸し暑いのです。ましてや昔は冷房れいぼうがなかった時代。中には仕事中に具合が悪くなる人も出てきます。それで、工女さん達は工場の庭で夕涼ゆうすずみをしていました。

 

「だんだん暑気しょきが強くなりますにしたがいまして、病人たくさん出てまいりました。洋医よういの申しますには大勢部屋に閉じこめておくから病気になるのだ。夕方から夜8時半まで、広庭ひろにわにだして運動させるようにと申しましたとのことで、毎夕広庭に出まして遊ぶことになりました。役人・取締りが付きいまして九時ごろまで遊びます。」


『富岡日記』‘p43からP44




3 賄方のお芝居


 


たしか十二月頃かと思いますが、ある日事業済み後部屋長から、今夜おまかないにお芝居があるから 参って見るようにと申されました。大喜びで皆参りました。何個もあります大釜の上に舞台が出 来まして、花道は本式にかかって、賄方の番頭共が皆役者になりまして、かつらをかむり、衣裳 なども皆本物で致します。何と申す芝居か名は忘れましたが、白玉と申すおいらんが恋人と道行 の所で、色々台詞を申して居りますと、花道から製糸場と印のある弓張提灯を持って副取締の相 川と申す方と中山様と申す役人がつかつかと出て参られました。
『富岡日記』p53より





いきなり白玉になって居ります者の領髪えりがみ(※1)取って投げ付け、恋人も 突き飛ばし、蹴倒し、大声でののしっておいでになりましたが、未だ気が付きませぬ。その内に芝居 方は申すまでもなく女の取締の方々から部屋長の人々まで総立ちになりまして逃げ出しました。
『富岡日記』P53〜54より



そしていよいよ年も暮れ。年の暮れになるとクリスマスやら正月やらイベントが盛りだくさんですが、昔はクリスマスなんてありません。その代わり、頑張った工女さんを楽しませようと、工場側がイベントを行いました。賄方まかないかたが役者になって芝居をしたこともあったそうです。それがなんと、役者をしていた賄方同士が芝居の最中にいきなり取っ組み合いのけんかをしてしまったのですね。あとで、ケンカをした賄方たちは上司から大目玉を食らったのは言うまでもありません。のちに横田英は「今思えば笑い話」と言っています。普段は大変な仕事をしていた工女さんたちにとって、こうした賄方の男性のお芝居は、心が休まるひとときだと思います。








4 年末


「もはや一月も間近く成りましたころ、部屋に年中土焼どやき火鉢ひばちがありまして三度三度にまかない方の女中が火を配ります。炭は大箱に出して、はしご段のところに置いてありますから、めいめい持って参りまして(火を)おこしますが、おそくなるとありません。夜具(寝具しんぐ)は一人につき、四布蒲団よのぶとんが二枚わたされておりますが中々寒くあります。」
『富岡日記』p51より




そして、事業も十二月二十八日に終いになりまして、いよいよ三十一日になりますと、今夕はお年取だ 賄では何を出すだろうと申して居ました。いよいよ夕食に参って見ますと、虫のさしたあじの 干物に冷飯と漬物、一同驚きまして、ろくろく御飯も頂きませず、部屋に帰り、皆ぶつぶつ申し て居りました。しかしおかちんだけは渡りました。一升ます位な四角さの薄き物二枚ずつ、今から 考えますと中々大したことであります。(正月の)三ガ日は羽根をつきまたまりをつき、市中へ散歩に参り遊 びまして、たしか四日から事業を致しました。しかし業は進みますだけ楽で面白くなりますから、 少しも退屈致しません。
『富岡日記』p54



年の暮れになると、だんだん寒くなるからつらくなってきます。特に富岡の町は山に囲まれていて寒いところです。ボクも3年くらい前の12月ごろに富岡に訪れたのですが、東京の朝よりもずっと冷えこんでいました。

富岡製糸場の仕事納めは12月28日です。一年間、頑張ったから、ふだんはそまつな食事でも、一年の最後の食事くらいは豪華だろうと思っていたが、普段の食事とあまり変わらずがっかりしたようですね。ただ、おかちんはもらえたようです。おかちんとは、岡村隆史さんのことではありませんw.お餅のこと。正月は3が日が休みで、4日から仕事始めだったようです。






※1首の後ろの部分の髪。







※ 参考文献 





富岡日記 (ちくま文庫)
和田 英
筑摩書房
2014-06-10




※ 参考文献
富岡日記 (ちくま文庫)
和田 英
筑摩書房
2014-06-10

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写真の女性は横田英。横田英は富岡製糸場の工女さんで、富岡で働いてから故郷の松代に帰り、後進こうしん(※1)の指導に当たった人物です。そして横田英は、「富岡日記」を書きました。横田はのちに結婚して和田さんとなります。今日は横田英が残した日記をもとに工女さんたちが一等工女になるためにどんな修業をしたのかを2回にわたってみていきます。






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今日は、富岡製糸場とみおかせいしじょうの工女さんの労働条件について。その話をする前に、の写真ぎょっとしますよね。実は富岡製糸場の塀には鉄条網が張られています。おそらく、これは工女さんに逃げられないようにするためかと思われます。富岡製糸場の労働条件が工女さんが逃げ出すほど悪かったのでしょうか?では、官営時代と民営時代の富岡製糸場について2回にわたってお話します。きょうは公営時代を。






















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