history日誌


日帝時代、わが家は


韓国かんこくの女性英文学者である羅英均(ナ・ヨンギュン)氏の父親と叔母おばの(主に父親)生涯しょうがいをつづった本を読んだのは一週間前です。韓国が日本の植民地だった時代から朝鮮戦争ちょうせんせんそうまでの歴史を筆者の一家の視点を通してえがかれています。

筆者は、屈辱的くつじょくてきともいえる日韓併合にっかんへいごうの歴史は、今日の自分達の否定ひていできない一部分を形作っていると述べています。韓国の歴史を語る上で、日本の植民地時代は良い面も悪い面もふくめて欠かせないという事なのでしょうか。

この本で語られている筆者の父親はなんと14さいのときに無理やり結婚けっこんさせられて、その束縛そくばくからげるように日本に留学して、大杉栄(おおすぎさかえ)に出会い社会主義に目覚め、三・一運動にも参加しました。が、彼は教条的きょうじょうてきなマルキストにはなれなかったのです。それでも、韓国の現状をなげき、韓国の明るい未来を築くための情熱は後年まで変わらなかったそうです。

当時の韓国は日本の植民地であったが日本人の迫害はくがいのみならず、中国人の略奪りゃくだつや暴力、ロシア人の横暴おうぼうと無法地帯だったそうです。

僕は日本は韓国にひどいことをしたと習ったが、韓国の地をらしたのは日本人だけではなかったとは知らなかったようです。

筆者の父親は「わたしたち朝鮮人は不幸を経験するたびに他人をうらみ、状況じょうきょうのせいにしてきた。このことはほとんどわたしたちの悪いクセだ。朝鮮人ちょうせんじんが貧しくなったのは、日本人や中国人よりも朝鮮人自身にもっと大きな責任がある」と考えたそうです。

筆者の父親は反日主義者でありましたが、日本や日本人に対してむやみに非難するような人ではなかったそうです。そんな父親に育てられた筆者だからこそ、日本の統治時代を冷静に語ることが出来るのでしょう。例えば、彼女の担任だった日本人の先生は、民族差別を全くしない人もいれば、韓国人を偏見へんけんの目で見ている先生もいたと語る具合に。

日本人を侵略者しんりゃくしゃという目で相手をみないで、血の通った人間として見るべきだ、そして韓国人は日本を永遠の敵だと思うないでおくれと彼女は述べております。


注文の多い料理店 (新潮文庫)
宮沢 賢治
新潮社
1990-05-29



(この記事は2015年2月28日に加筆修正をしました)





1 注文の多い料理店のあらすじ

 『注文の多い料理店』は高校の国語の授業で習いました。宮沢賢治(みやざわけんじ)はたくさんの優れた童話を書いていますが、宮沢賢治は短編が多く、さっと読みやすいです。

物語のあらすじは、二人の若い猟師りょうしが二ひきの犬をつれて山でりをしにいったが、道に迷ってしまう。

山が険しいせいか、二匹の犬はめまいをおこして死んでしまいました。

そのときの猟師の言葉が「じつにぼくは、二千四百円の損失だ。」と言ってのけます。

2千4百円なんて今の感覚だとたいした額では無いのですが、当時は大変な額です。(参考 大正時代の物価基準

若い猟師たちにとっては、犬がかわいそうというよりも、大金をどぶに捨てたという感覚なのでしょう。

さっぱり獲物えものが取れない上に道に迷った猟師の一人は「帰りに、山鳥を10円で買って帰ればいい」といってしまう。金で解決しようというキャラのように感じられました。

2 成金たちのいた時代
 話は脱線だっせんしますが、大正(特に初期)は成金、ホリエモンの元祖みたいな人たちがウヨウヨと登場しました。

もっともそうした成金たちは第一次世界大戦、その後の不況ふきょう関東大震災かんとうだいしんさいでほとんど落ちぶれてしまうのですが。

もちろん立派な人もいましたが、中にはお札に火をつけて、明かりの代わりにしたというイヤ味な成金もいたそうです。

二人の猟師はどこか、その成金達とどこか重なるように感じられました。

3 山猫軒
 若い猟師二人は不思議なレストランを見つけます。店の名前は「西洋料理店 山猫軒やまねこけん」。

おなかをすかせた二人はこの不思議なレストランに入ってしまいます。

この小説のあらすじを続けたいところなのですが、ネタバレになるので、今宵こよいはここまでにしとうございますw(大河ドラマ『武田信玄』にでてきた名文句w今の若い子はわかるかな〜、わかんねえだろうなあ。)

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(花巻はなまきにある山猫軒やまねこけん。店員さんはヤマネコではありませんw)

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(山猫軒の入口。お店の中はレストランだけでなく、おみやげコーナーもあります。そこには宮澤賢治グッズがたくさんありました。)

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(山猫軒のお料理。結構けっこうおいしいんですよ

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(ケーキ。こちらもおいしかったです。




※ オマケ


『注文の多い料理店』の朗読ろうどうくの動画(序文じょぶんのみ)を見つけましたので、ご紹介します。


(映らなかったらごめんなさい)

(この記事は2014年に加筆修正をしました)

下田に行ったとき、僕がどうしても訪れたかったスポットが今日ご紹介する玉泉寺(ぎょくせんじ)です。このお寺は我が国最初のアメリカ総領事館でした。




(玉泉寺の門)




(玉泉寺のお堂)




(アメリカの領事館跡だと書かれた石碑)




(アメリカ元大統領のジミー・カーターも、玉泉寺をおとずれた)

1 日本最初の領事館&屠殺場(とさつじょう)

 玉泉寺は領事館として利用されていましたが、我が国初の屠殺場とさつじょうがあったところだそうです。

ちなみに、屠殺場とさつじょうとは牛やブタを殺して、食肉にするところです。

おそらく、ハリスをはじめとしたアメリカ人たちのために作ったのでしょう。当時の日本人は肉を食べるなんて習慣は無かったのですから。

このお寺は黒船の乗組員のお墓やロシア船ディアナ号の乗組員のお墓もあります。横浜にも外人墓地があるけれど、ここの寺の外人のお墓のほうが古いようです。(まちがっていたらごめんなさい)



さて、このお寺の境内にハリスが残した言葉が書かれた碑文ひぶん(※1)がありました。その碑文には、

※1 石碑(せきひ)に刻みこまれた文章


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1 てやの大出世
 「歴史秘話ヒストリア」で大奥おおおくの事が取り上げられていました。とても興味深い内容でした。

大奥で出世する方法や幕末の大奥御年寄おとしより瀧山たきやま(※1)の話も良かったのですが、大奥の女中じょちゅうだった桂川rt>かつらがわてやの話が特に印象に残りました。今日は”桂川てや”の話を。

桂川てやは御典医ごてんい(※2)のむすめでした。じゃあ金には困っていないジャンと思うかもしれませんが、父は年をとっていて、息子も医者ではあったが、まだ半人前でした。

今で言う研修医けんしゅういみたいな感じでした。だから、てやの家はお金の余裕よゆうがあまりなかったのです。

それで、”てや”は家族を養うためになんと12才で大奥で女中として働く事になります。12才といったらまだ小学校6年生です!?

”てや”は一生懸命いっしょうけんめい働き、花町という奥女中の先輩せんぱい広大院(※3)にも認められ、なんと13歳で御中籠(おちゅうろう)に出世しました。中学生1年生位でこれだけ出世するとは大変なことです。

え?御中臈(おちゅうろう)って何かって?ええと、毎年7月ごろにお世話になった人に菓子よりだとかビールだとかを送る・・・それはお中元w

調べによると、御中臈とは御台所みだいどころ(※4)の身辺のお世話をする人のことだそうです。


※1 ,16才で江戸城大奥にあがる。徳川家慶(いえよし)の侍女となり,のち年寄。家慶から慶喜(よしのぶ)まで4代の将軍につかえ,江戸開城まで大奥につとめた。明治9年1月4日死去。71才。ちなみに御年寄とは大奥の役職で大奥で一番の実力者で、老中ろうじゅうにも匹敵ろうじゅうするほど

※2 将軍かかりつけの医者

※3 徳川11代将軍徳川家斉とくがわいえなりの正室(奥さん)。島津重豪しまづしげひでの娘。島津重豪は薩摩藩さつまはん(鹿児島県)の藩主。
※4 将軍の奥さん。正室。




2 てやが望んでいた事。

 順調に出世をしていった”てや”ではありましたが、彼女が望んでいたのは実家に帰ることでした。

てやは、医者であるお兄さんが一人前になった時に大奥の女中をやめようと考えました。幼いころから親兄弟とはなれて暮らしたんだもの、無理もありません。それに、”てや”も年ごろで、こいだってしたい年ごろですし。

やがて月日が流れ、”てや”が16歳になった時、”てや”に不幸が訪れます。皆さん、いよいよ今日のその時がやってまいりますw

3 てやに降りかかる悲劇
 江戸城は火事になってしまいました。当然大奥も被害ひがいを受けました。あたりが火の中で、”てや”は何とか上司の広大院を探しだします。しかし、今度は花町という大奥の仲間が見当たりません。”てや”にとって花町は自分を引き立ててくれた恩人でもありました。

広大院は花町を助けよと”てや”に命じました。

”てや”は花町を助けるべく、燃え盛る火の中へ飛びこんでいきます。「この行灯を持っている死体があったらそれは私です」という言葉を近くにいた女中に言い残して。

火が治まったのち、行灯を強くにぎった死体がみつかります。その死体はてやだという事がわかったのです。16才の短い命でした。かわいそうに・・・

自分の主のため、世話になった人間のために命を投げ打つなんて「忠臣蔵ちゅうしんぐら」のようです・・・

最愛の娘の死を知った父は、亡き娘の絵をいたそうです。その絵は今も残されています。ヒストリアでも、その絵が紹介しょうかいされましたが、本当にきれいな人だなって思いました。


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「大地の子」を前に見たことがあります。中国残留孤児ちゅうごくざんりゅうこじの主人公と主人公の実の父親が中国と日本の戦後の歴史に翻弄ほんろうされながらも生きていくという名作です。

この作品はなみだなしでは見れなかった作品ですが、中国人の養父ようふ役を演じた朱旭(チュウ・シュイ)さんの演技がとても印象に残っていました。日本人の子供を、戦争でいがみ合ったことを乗り越えて、まるで実の子供のように優しく献身的に育てる父親を見事に演じていました。

朱旭さんの足跡そくせきについて調べてみたのですが、彼が映画デビューをしたのは意外に遅かったようです。彼が映画デビューしたのは彼が50さいの時だそうです(1984年)。

それまでは舞台俳優ぶたいはいゆうだったそうです。シロウトくささを感じさせないのは、舞台ぶたいでのキャリアが生きていたからかもしれません?

舞台と映画では勝手がちがうから、朱旭さんも初めはとまどったそうです。劇場に入るお客さんの数は知れているし、回数も少ない。しかし映画に出るようになってから多くの人に知られるようになっておどろいたとか。

有名になれば、人によっては「オレはえらいんだぞ」っていきがる人も出てきます。が、彼は「少し人気が出たり顔が知られても、それを意識せず、おごりたかぶるな」ということを自分に言い聞かせてきたのです。彼の最近の写真を見たことがあるのですが、本当に人柄ひとがらがよいおじさまに見えます。

ちなみに、文化大革命ぶんかだいかくめいのときは朱旭さんの所属していた北京人民芸術劇院ぺきんじんみんげいじゅつげきいんもヒドイ目にあったそうです。朱旭さんだけでなく、同じ劇団員で彼のおくさんもやはりヒドイ目にあったとか。

「大地の子」で主人公の実の父親役を演じた仲代達也(なかだいたつや)さんと朱旭(チュウ・シュイ)さんは、戦争の話をふくめていろいろな話をしたそうです。

後に朱旭さんはこう語っています。

『大地の子』に出演できてよかったと思っています。仲代達也さんと出会えて、仲代さんの戦争時代の話をきいて、戦争で苦しんだ日本人も大勢いたということがわかったからです



※参考文献 


中国映画の明星 朱旭・姜文・張藝謀・張國榮


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