history日誌

(この記事はウィキペディアを参考にしました)
1 ザビエルが石見銀山を狙っていた?

 以前、ある歴史番組で取り上げた話の中で印象に残ったのはザビエルが石見銀山ねらっていたという話です。

石見銀山とは、島根県にあった銀山で、今でこそは銀はとれなくなったようですが、全盛期は世界の銀の産出量の三分の一もめていたとか。

その石見銀山に外国人が目をつけないはずがないということで、ザビエルが銀山をねらっていたという話になったのでしょう。
 
ザビエルのイエズス会はヨーロッパ諸国がアジア諸国を侵略しんりゃくするために使わしたスパイなのだと番組で取り上げられていました。

2 ザビエルは純粋じゅんすいな気持ちで布教?

 でも、イエズス会という組織はともかく、ザビエル個人は本当に純粋じゅんすいな気持ちでキリスト教の尊さを教えようとしたのだとボクは思いますね。

ザビエルは日本の国民の事を大変めていたそうですから。

石見銀山あたりにはかくれキリスタンが多かった事も、ザビエルが石見銀山を狙うという野心をもっていた根拠こんきょの一つのように取り上げていました。

でも、それがどうしてザビエルの野心と結びつくのでしょう?

隠れキリスタンはむしろ九州に多かったのですがw?
100歩ゆずって、ザビエルがアジア侵略しんりゃくをたくらむスパイだったとしても、石見銀山を本当にねらっていたかどうかは、わかりかねます。


(石見銀山の動画)

3 イエスズ会の実態
 そもそもイエスズ会というのは、当時ヨーロッパで勢力をばしつつあるプロテスタントに抵抗するためにつくられたカトリックのグループだそうです。

イエスズ会は「教皇に対して忠実でありたい」というスタンスですが、かといって教皇にペコペコする立場ではありません。また、カトリック教会の改革の必要性をイエスズ会の人たちは理解しておりました。カトリック教会の様々な問題点をイエスズ会は厳しく批判をしています。

また、豊臣秀吉(とよとみひでよし)がバテレン追放令ついほうれいを行ったきっかけは、九州などでヨーロッパ人が人身売買を行っていたからと言われていますが、イエスズ会は奴隷貿易に協力するどころか、むしろイエスズ会はポルトガルに対して日本人を奴隷どれいとして売買するのを「やめてくれ」と呼びかけているのですね。

イエスズ会は外国のスパイどころか、ヨーロッパで弾圧だんあつもされたようです。ヨーロッパ諸国がナショナリズムを強め、王権のもとに国をまとめていこうとしたときにイエスズ会の存在がジャマになったのです。18世紀以降になると、それがひどくなってイエスズ会は弾圧されていきます。


宇喜多秀家 備前物語



1 宇喜多秀家(うきたひでいえ)の没落ぼつらく


 先週の歴史秘話ヒストリアで宇喜多秀家の事が取り上げられました。宇喜多秀家の秘話は八丈島はちじょうじまからなんと泳いで海をわたったというものw

ジョークはこれくらいにしてw宇喜多秀家は、幼少ようしょうのころから豊臣秀吉(とよとみひでよし)にかわいがられました。


豪姫ごうひめ(※1)と秀家が結婚けっこんしたのは恋ではなく秀吉の命令、つまり政略結婚せいりゃくけっこんだったそうですが、二人はまわりの人間がうらやむほどの仲が良かったそうです。

宇喜多秀家は秀吉の5大老に命じられるなど、まさに勝ち組でした。が、そんな秀家にも不幸が訪れます。

※1 前田利家(まえだとしいえ)のむすめ

 2 八丈島に流された秀家

 宇喜多秀家は罪人として八丈島はちじょうじまに流されてしまったのです。なぜ罪人になったかというとワケがあります。

それは秀家は関が原の合戦で西軍として、徳川家康(とくがわいえやす)率いる東軍と戦ったから。それで、西軍が負けてしまいました。家康に歯向はむかったばっかりに、宇喜多秀家は罪人にさせられてしまう・・・・

そんな宇喜多秀家といっしょにいたのは子供と10人くらいの家来だけ。おくさんである豪姫と別れてしまったのです。


3 子どもたちのために

 ある日、八丈島の代官の家で宇喜多秀家は白いご飯をごちそうになり、何度もおかわりをしたそうです。無理もありません。

しかも、宇喜多秀家はいただいた白いお米をフロシキに包んで家に持ち帰ったそうです。家に帰って自分が食べるためじゃありません。家で待っている子ども達にも白いお米を食わすために。

泣かせますねえ。

3 豪姫のおも

 一方、実家の前田家に帰っていた豪姫は八丈島に流されていた夫や子ども達のために食料を死ぬまで送り続けました。遠くはなれていても夫婦のキズナは切れなかったのでしょう。

しかし二人は死ぬまでおたがいに会うことは無かったというから切ない話です。この時代にインターネットや電話があればなあって自分はヒストリアをみて思わず思われました。

そんな二人の事をかわいそうに思って、今から10数年前に八丈島の人たちは秀家と豪姫がツーショットで並んだ石像をつくったそうです。

「今度生まれてくる時はいっしょになれるといいね」という願いをこめて。


※ オマケ


最後に、八丈島の映像を。八丈島には高校生の時に行きました。海もきれいで、お魚もおいしい良いところですよ。(映らなかったらごめんなさい)








昨日は成人式でしたね。ハンカチ王子も成人になりました。僕も昨日は成人式でした。2度目のね(笑)

僕からの新成人へ送る言葉は、

「これからは堂々とお酒が飲めますね」(笑)

今日は、北宋の時代に活躍した政治家の王安石(おうあんせき)のライバル、司馬光(しばこう)の少年時代の逸話を。

司馬光はとても頭の切れる人でしたが、すでに子どものころから才能があったようです。

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※ この記事はウィキペディアとラジオ中国語講座のテキストを参考にして書きました。



1 劉慶邦(リュウ・チンバン)さんのインタビューより

 以前に、ラジオ中国語講座の応用編で『信』(手紙)という小説を題材にして学習をしておりました。この小説の作者は劉慶邦(リュウ・チンバン)さん。

彼は1951年に河南省沈丘(かなんしょうしんきゅう)の農村に生まれ、農民として炭鉱労働者として働いた後、記者・編集者などをやって、そして小説家になったです。

そして、中国語講座のテキストのコラムに劉慶邦さんのインタビューについてふれられていました。

2 木の皮や草まで食べた
 その劉慶邦さんがあるインタビューで木の皮や雑草まで食べてえをしのいだと語りました。賞味期限しょうみきげん切れのコンビニ弁当が山のように捨てられるような今の日本では想像もつきません。それくらいきびしく悲さんな生活を劉慶邦さんはされたのでしょう。

劉慶邦さんがまだ子どものころの中国、だいたい1959年から1961年にかけて、大躍進政策(だいやくしんせいさく)が行われました。

3 失敗しっぱいだった大躍進政策
 大躍進政策とは、アメリカやイギリスに追いつけ、追いこせとばかりに農業や工業の生産力を大幅おおはばにアップさせましょうというものです。

しかし、当時の指導者だった毛沢東(もう・たくとう)が中心になって行われたその政策(計画経済)はムチャクチャなものでした。経済はかえって混乱し、天災もかさなって多数の餓死者がししゃを出したそうです。金正日と同じようなことを毛沢東らはやってきたのでしょう。

餓死した数はおよそ2000万人〜5千万人といわれていますが、はっきりした数字はわかりません。でも、少なくともヒトラーが行ったホロコーストの犠牲者ぎせいしゃ数をはるかに上回るといわれております。

この大躍進政策の失敗の責任を取って毛沢東は失脚しっきゃくしてしまいます。しかし、毛沢東は権力の座をねらっていました。やがて文化大革命(ぶんかだいかくめい)とよばれる混乱の最中に毛沢東は再び表舞台おもてぶだいに現れるのです。


4 評価が分かれる毛沢東

 大躍進政策そして文化大革命などの失態しったいのため、中国では毛沢東は評価は人によって分かれます。英雄だとあがめている人もいる一方で、父のように厳しい人、あるいはおにのような人だとおそれられています。

映画監督の陳凱歌(チェン・カイコー)さんのように、毛沢東をきらっている人も少なくありません。

一方、周恩来(しゅう・おんらい)は母のようにやさしい人だと中国人から尊敬されているそうですね。

学校の歴史の授業などではヒトラーのホロコーストはふれられていましたが、大躍進運動については全くというほどふれられません。そのせいもあってか、僕が大躍進運動のことを知ったのはわりと最近のことです。









今日はケネディ大統領も尊敬していたという上杉鷹山(うえすぎようざん)のお話を。それでは皆さま、ようざんすねw?


1 上杉鷹山(うえすぎようざん)の生い立ちと米沢藩よねざわはんのたいへんさ


 上杉鷹山の本名を上杉治憲(うえすぎ はるのり)といい、もともとは九州の出身であったが、上杉家の養子になりました。

鷹山は、若くして藩主はんしゅになります。彼が藩主になる前の米沢藩は上杉謙信(うえすぎけんしん)いらいの名家でした。

けれど、越後えちご(今の新潟県にいがたけん)から米沢(山形県やまがたけん)に領地を変えられ、領地をへらされた上に、人件費も重なるなど借金はドンドン増えました。


2 鷹山の人材活用


 上杉鷹山は藩改革に当たって優秀ゆうしゅうな人材を活用しました。鷹山は、それまで目立たなかった人でも、優秀ならば重用ちょうようしました。

その一方で、鷹山に反発する重臣達もいました。鷹山は何度も彼らからイヤがらせを受けました。けれど、鷹山もそれにめげません。

鷹山は言うことを聞かなかった重臣達を切腹にしたり、処罰しょばつしたり、また鷹山派の竹俣当綱(たけまた まさつな)でさえ、堕落だらくしたという理由で処罰したそうです・・・。



3 鷹山の改革 
鷹山は、具体的にどんな改革をしたのでしょうか。

家臣団に命じて農業をやらせてみたり、特産品を育てたり、いろいろと改革をやったそうです。



小説 上杉鷹山 全一冊 (集英社文庫)





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