今日は「岸壁の母」のお話をします。この曲はもともとは菊池章子さんが歌っておりましたが、昭和47年には二葉百合子さんがセリフ入りでカヴァーされました。菊池章子さんはすでに亡くなられましたが、二葉百合子さんは引退されたものの、最近歌番組でちょくちょく出演され、この「岸壁の母」をお歌いになっております。この間の「うたコン」では80代後半とは思えないほどの素晴らしい歌声を披露されておりました。
第二次世界大戦後、ソ連に抑留よるから解放され、引揚船で帰ってくる息子の帰りを待つ母親たちがいました。ソ連からの引揚船が着くたびにいつでも見られた光景でしたが、時間の経過とともに、毎回、同じような顔ぶれの人が桟橋の脇に立つ姿が見受けられるようになり、これがいつしか人々の目に止まり、マスコミによって「岸壁の母」として取り上げられ、たちまち有名になりました。
毎回のように桟橋に立ち、息子さんの帰りを待った母親の一人が端野いせさんでした。彼女のそうした息子をまつ姿は映画や歌のモデルになりました。
その息子さんと、いせさんは血の繋がりはないのですが、いせさんは我が子当然のように育てたと言います。息子さんは軍人を志し昭和19年(1944年)満洲国に渡り予備士官学校に入学、同年ソ連軍の攻撃を受けて中国牡丹江にて行方不明となったといいます。
終戦後、いせさんは東京都大森に住みながら、息子さんの生存と復員を信じて昭和25年(1950年)1月の引揚船初入港から以後6年間、ソ連ナホトカ港からの引揚船が入港する度に舞鶴の岸壁に立つました。昭和29年(1954年)9月には厚生省の死亡理由認定書が発行され、昭和31年には東京都知事が昭和20年(1945年)8月15日牡丹江にて戦死との戦死告知書(舞鶴引揚記念館に保存)を発行しました。
その時のいせさんの悲しみは深いものだったことでしょう・・・
端野いせさんは新人物往来社から「未帰還兵の母」を発表。昭和51年9月以降は高齢と病のため、通院しながらも和裁を続け生計をたてていました。息子の生存を信じながらも昭和56年(1981年)7月1日午前3時55分に享年81で死去。「息子が帰ってきたら、私の手作りのものを一番に食べさせてやりたい」と入院中も話し、一瞬たりとも息子さんのことを忘れたことがなかったそうです・・・
※ この記事はウィキペディアを参考にしました。
第二次世界大戦後、ソ連に抑留よるから解放され、引揚船で帰ってくる息子の帰りを待つ母親たちがいました。ソ連からの引揚船が着くたびにいつでも見られた光景でしたが、時間の経過とともに、毎回、同じような顔ぶれの人が桟橋の脇に立つ姿が見受けられるようになり、これがいつしか人々の目に止まり、マスコミによって「岸壁の母」として取り上げられ、たちまち有名になりました。
毎回のように桟橋に立ち、息子さんの帰りを待った母親の一人が端野いせさんでした。彼女のそうした息子をまつ姿は映画や歌のモデルになりました。
その息子さんと、いせさんは血の繋がりはないのですが、いせさんは我が子当然のように育てたと言います。息子さんは軍人を志し昭和19年(1944年)満洲国に渡り予備士官学校に入学、同年ソ連軍の攻撃を受けて中国牡丹江にて行方不明となったといいます。
終戦後、いせさんは東京都大森に住みながら、息子さんの生存と復員を信じて昭和25年(1950年)1月の引揚船初入港から以後6年間、ソ連ナホトカ港からの引揚船が入港する度に舞鶴の岸壁に立つました。昭和29年(1954年)9月には厚生省の死亡理由認定書が発行され、昭和31年には東京都知事が昭和20年(1945年)8月15日牡丹江にて戦死との戦死告知書(舞鶴引揚記念館に保存)を発行しました。
その時のいせさんの悲しみは深いものだったことでしょう・・・
端野いせさんは新人物往来社から「未帰還兵の母」を発表。昭和51年9月以降は高齢と病のため、通院しながらも和裁を続け生計をたてていました。息子の生存を信じながらも昭和56年(1981年)7月1日午前3時55分に享年81で死去。「息子が帰ってきたら、私の手作りのものを一番に食べさせてやりたい」と入院中も話し、一瞬たりとも息子さんのことを忘れたことがなかったそうです・・・
※ この記事はウィキペディアを参考にしました。