history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)




きょうは長野県の民謡「木曽節」。僕の祖母が民謡がすきだったので、この歌は子供のころから知っていました。というか結構有名な民謡なので一度は聴いたことがあるという方もいらっしゃるのではないかと。「♪木曽のな〜、なかのりさん」というフレーズではじまりますが、この「なかのりさん」は何だろうなって疑問に思われます。いろいろ諸説があるそうですが、木曽川で木材を運搬するとき、イカダに3人で乗って、その3人のうちの真ん中に乗った人のことを「中乗り」と呼んだらしいです。船乗り先頭を「舳乗り」(へのり)、後ろを「艫乗り」(とものり)といったそうです。ほかには馬のくらの中央に乗った人を「真ん中に乗る」という意味で「中乗り」といったとか、死者や神のお告げを信者に伝える「中座なかざ」と呼ばれたシャーマンのことを「中乗り」といった説もあるそうです。

ちなみに、「木曽節」は意外と古い歌で、室町時代にも「木曽おどり」の名で登場し、すでに京の都でも知られていたのです。木曽節は、伊勢をはじめ全国各地から来た杣人すまびと(※1)や、木曽川をつかって材木を運ぶ日雇いびとによって即興的に歌われました。大正時代には、伊東淳(いとうすなお)町長が全国的な普及活動をおこない有名になりました。

木曽は僕も何度か行ったところがありますがよいところですよ。自然も豊富だし、奈良井宿(ならいじゅく)とか妻籠宿(つまごじゅく)、馬籠宿(まごめじゅく)といった宿場町があります。江戸の宿場町の風情も今も残していていいところです。




※1  杣木を切ったり運び出したりする人、きこり。杣木とは、 古代・中世の日本で国家・権門(特権階級)が所有した山林のこと。

※ 参考文献








1 横浜よこはまを代表する歌!?「赤いくつ
 
今日の舞台は横浜。横浜の曲といえば、ゆずの「桜木町」、サザンの「LOVE AFFAIR〜秘密のデート〜」、いしだあゆみさんの「ブルーライト・ヨコハマ」、五木ひろしさんの「よこはま・たそがれ」、それから青江三奈さんの「伊勢佐木町ブルース」が僕は思い浮かびますが、横浜といえば童謡どうよう「赤い靴」が一番思いつきますね。この曲はきけばきくほど悲しい気分になる歌です。ちなみに横浜市内では、夕方になると「夕焼けこやけ」の代わりに、この音楽が流れてきます。

この歌が作られたのは大正時代。人買いもあった時代です。家が貧しいと、口減らしに娘を製糸工場などに奉公に出したり、遊郭に売られたり、人買いに買われたりと女性に人権が全くなかった時代があったのですね・・・北朝鮮きたちょうせんによる拉致らちじゃないが、子どもと親がはなればなれになることのつらさは、いつの時代も同じでしょう。「赤い靴」の歌の主人公のモデルの名前は「岩崎きみ」ちゃんといいます。




2 『赤い靴』誕生秘話
 きみちゃんは静岡県しずおかけん清水の生まれ。きみちゃんのお母さんである岩崎かよは夫と離婚りこんをして、鈴木志郎すずきしろう(元TBSのアナウンサーの方とは別人です。あしからずw)という男性と再婚さいこんすることになります。

鈴木志郎とともに北海道ほっかいどう開拓かいたく)に行くことになりました。が、さまざまな事情できみちゃんを北海道に連れて行くことができなくて、泣く泣く外国人神父夫妻に預けることになりました。

北海道にわたった岩崎かよは、(当時北海道にいた)野口雨情(のぐちうじょう)に自分の心境を語りました。かよは、きみちゃんが異国できっと幸せに暮らしていると信じていました。いや、そう信じたかったのでしょう。野口雨情は、岩崎かやときみちゃんの親子を気の毒に思い、歌をつくりあげました。童謡「赤い靴」はこうして生まれました。しかし、赤い靴の女の子の物語は続きがあります。


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豊島区の目白と雑司ヶ谷ぞうしがやの中間あたりに千登世橋(ちとせばし)という橋があります。この橋は西島三重子さんの「千登勢橋」「目白通り」という歌でも歌われております。どちらも名曲だと思います。

http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/chitosebashi.html
(「千登勢橋」の歌詞)

千登勢橋の上に目白通りが通っていて、橋の下には明治通りが通っているという、立体交差の橋です。千登勢橋のすぐ東側に千登世小橋という橋もつながっていて、その千登勢小橋の下には都電荒川線が通っているのです。「千登勢橋」の歌の中に「電車と車が並んで走る♪」とありますが、まさにこの歌の通りの光景でした。

目白通りを歩いていると、途中で学習院大学を通り過ぎ、学生さんとも何度もすれ違います。目白駅に着くと本当に学生さんが目につきます。まさに、「千登勢橋」の歌のとおりでした。目白は学習院大学があるのが有名ですが、大学だけでなく専門学校もいっぱいありますからね。この「千登勢橋」は昭和54年の歌なので古い歌ですが、古さをあんまり感じさせないのですね。

周辺は目白台地と関口台地の境目になり、都電の軌道付近には湧水の流路があったそうです。また高台のため付近には坂も多く、これらの高低差ある地形を活かした設計となっています。

この橋は昭和8年に完成し、幹線道路同士の立体交差としては都内で最初期のものです。戦争をくぐりぬけてきて、平成のいまも現役の貴重な橋なのですね。土木技術的価値も高く「東京都の著名橋」の一つでもあるそうです。 平成2年(1990年)には町の美観と調和させるため親柱や高欄の意匠が改修されました。

千登勢橋には、来島良亮という人物の銅像があります。どういう人物なのかなと、家に帰ってネットで調べたら、千登世橋を架けるのに大きく貢献した人物だそうです。彼は東京府土木部長で関東大震災後の東京の都市計画も考えた人物でもあるそうです。


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(遠くから見た千登世橋)


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(千登世橋。橋の上を通る道路は目白通り。橋の下を通るのが明治通り)




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(千登世小橋。下には都電が走っている)

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(千登勢小橋から見下ろした線路)

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(都電荒川線)

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(来島良亮像)



米津玄師さんの曲「馬と鹿」。かっこいい曲ですよね。ドラマ「ノーサイド・ゲーム」の主題歌で、ラグビーブームの火付け役となったドラマでした。「馬と鹿」のPVは栃木県の宇都宮市にある大谷資料館で撮られました。僕も以前に訪れたことがありますが、すごいところです。まるでエジプトのピラミッドに入ったみたいな不思議なところです。

大谷石という石材が取れるところ柔らかく加工がしやすいことから、古くから外壁や土蔵などの建材として使用されてきたのですね。大谷石が最も古く使われたのは縄文時代といわれ、古墳にも使われました。そ

1922年には、フランク・ロイド・ライト設計による帝国ホテルに大谷石が使用されています。
また、1932年には宇都宮カトリック教会に使用されました。(現存する国内最大の大谷石建造物)。

大谷石の採掘ははじめはツルハシを使った手掘りでした。手掘りによる採掘法では、五十石(5寸×1尺×3尺)の大きさの石を一本掘るのに、つるはしを4,000回も振るったとされています。大変ですね。また1人の1日の採掘量は10本だったとか。このような手掘りによる採掘は、採掘方法が機械化された1960年頃まで行われていたそうです。戦後になっても手掘りだったとは驚きです。

また、手掘り時代には地下の深い採掘場から背負って運び出していたと言います。石塀に使用される石(50石)1本の重さが70kg程あり、重い石では140kgの石まで1人で1本担ぎ出したとされている。外に運び出された石は馬車や人車(トロッコ)、荷船で遠くまで運ばれたというから重労働ですね。

なお、大谷石地下採掘場の広大な空間は、陸軍の地下秘密倉庫として利用されました。

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「夏の思い出」は日本の唱歌のひとつで、音楽の教科書でも習う名曲です。この歌に出てくる尾瀬オゼは、福島フクシマ新潟ニイガタ群馬グンマの三つの県にわたる盆地状の高原で、湿原にはミズバショウやミズゴケなど貴重な植物が見られます。この尾瀬のほぼ全域が国立公園特別保護地域および特別天然記念物に指定されております。

さきほど唱歌といいましたが、この曲ができたのは戦後です。昭和24年、NHKの「ラジオ歌謡」という番組のためにつくられました。この曲がラジオでながれると、この曲はたちまち多くの日本人の心をつかんだといいます。この歌は夏になるとミズバショウが咲いてると詩に書かれておりますが、実際、尾瀬のミズバショウが咲くのは5月〜6月の開花です。

これは、この曲を作詞した江間章子エマショウコさん子供時代にすごした岩手では夏にミズバショウが咲いたのです。そうした記憶のずれが、この曲の歌詞がうまれたのです。

一方作曲をしたのが中田喜直ナカダヨシナオさん。「ちいさい秋みつけた」や「雪の降るまちを」を作曲するなど、日本の四季を題材にした曲を多数つくられました。

尾瀬は、この曲が生まれるまでは、それほど有名なところではなかったのですが、この曲ができてから大勢の観光客が訪れるようになり、昭和30年代までは尾瀬の環境破壊が問題になりました。折からの車社会の到来で林道が峠まで延び、入山者が増えて、湿原が踏み荒らされたり、いろいろ問題がでてきたのです。車道も作ろうという動きがあったのですが、昭和46年に「尾瀬の自然を守る会」が発足。昭和46年8月には、車道工事の中止が国会の閣議で了承されました。いまでも尾瀬ではほぼ全域にわたって現在のように木道がさえ整備されるようになり、 木道以外の場所は歩けないようになりました。

僕は尾瀬には一度も訪れたことがありません。ある人から聞いたのですが、尾瀬は高原地域で5月になっても雪が残っているそうです。それくらい寒いところなのでしょうね。10月中頃〜5月初頭の雪深い冬季の尾瀬への入山は中上級者に限られます。

※ 参考文献



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