history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

柳家金語樓―泣き笑い五十年 (人間の記録 (120))
柳家 金語楼
日本図書センター
1999-12-25


政府は庶民が天皇マンセーして、戦争に協力してほしいと願っていました。そうして作られたのが国策落語です。 とはいえ、国策落語は、戦争場面がずばり出てきたり、戦意高揚をするような噺は意外と少ないのです。それもそのはず、本来落語は庶民の生活をネタにしたり、時に権力者をからかってみたり、そういうものですから。それより戦争遂行のために銃後の国民はどのように暮らすべきかというテーマが多かったのです。だから、戦争とか、権力マンセーは落語とは水と油なのです。
国策落語はいくつもの演目がありますが、その中でも「緊めろ銃後」という演目についてお話しします。この演目には大家さん、熊さん、八っつぁんがドイツの欧州での戦争ぶり、日本の戦争、銃後について語られております。この演目の最後のオチの部分を紹介します。 『いづれにしても、銃後はいま一段の緊張が絶対必要だよ。そうして、いざとなれば、法律で臨む。私は国策違反はこの際反逆罪と認めてもいいと思っているくらいだ」 「国賊ですからな。へえ、日本時とは言わされねえ。蒋介石の間者(スパイ)も同じだ。だから罰金ぐらいじゃすまされねえ」 「罰金以上とすると・・どうするか」 「日本から追い払ってしまおう」 「国外追放は厳罰だな。どこへ追い出す」 「そいうやつは重刑(中国の重慶)でいい」 この落語は政府の立場からすれば、よくできた落語といえます。国策落語はほかにもいろいろな演目があります。「隣組の運動会」、「産めよ殖やせよ」、「防空演習」、「スパイご用心」、「出征祝」など。あと「債権万歳」というものもあります。これは戦費を調達するために国民に国債を買わせるためにつくられた演目です。このように国家権力べったりの落語が戦時中につくられました。
かつて柳家金語楼という噺家がいました。彼は戦後になってテレビタレントとしても、俳優としても活躍しました。その彼は戦時中は、国策落語を通して戦争協力をしたのです。しかし、彼が戦争協力をしたのは本心からではありません。太平洋戦争がはじまる前までは兵隊落語とよばれる新作落語を演じておりました。ちなみに新作落語とは大正以降につくられた落語で主に現代が舞台となっております。江戸時代から存在し、お話の舞台も江戸時代の落語が古典落語です。

柳家金語楼は新作落語の名手でした。その中でも兵隊落語は人気がありました。これは金語楼が大正時代に軍隊に入隊し、そのときの体験をもとにして作った落語です。兵隊落語と聞くと、「兵隊さんえらい」みたいな落語のように思えますが、厳しい軍隊生活を笑いにしてしまう、時に軍隊批判もあるようなそんな内容だったのです。たとえば、「兵隊落語」に兵隊検査のシーンなんか象徴的です。


検査官「おい、山下、お前は甲種合格だぞ」
山下「え、合格、しまったッ」
検査官「なに、しまった?」
山下「いえ、家の表のカギはしめてきたはずで・・・」
検査官「軍人になれてうれしかろう」
山下「あー、ん〜。う、れ、し、い。・・・」
検査官「なんだ、お前、泣いとるのか?」
山下「はい、うれしなきです」


噺にでてくる山下とは山下達郎さんのことではありませんw柳家金語楼の本名です。それはともかくとして、こういう兵隊落語を当局は黙っているわけではありませんでした。金語楼は憲兵本部から出頭を命じられ、「兵隊モノを遠慮してほしい」といわれてしまいます。そして太平洋戦争が勃発して、戦争ムードが広がると、金語楼の落語も変化をしていきます。ほのぼのとした金語楼の落語も次第に国策落語の性格を帯びてくるのです。同じ兵隊検査のシーンでも、太平洋戦争前とでは異なります。こんな感じです。

検査官「いい体をしている」
山下「じゃあ兵隊になれますか」
検査官「その体なら大丈夫だろう」
山下「ありがたい、ありがたい」(話に出てくる山下はこの時裸体のまま跳ね上がって喜んだと)


太平洋戦争前とは180度オチが違いますね。それまでは、兵隊になったことを内心嫌だなって描写だったのに、太平洋戦争が始まってからは、表面的とはいえ喜んでいる描写なのです。

金語楼は兵隊落語だけでなく、国策落語も演じました。彼が演じた演目の中で「産めよ育てよ」というのがあります。内容亜はこうです。はじめは主人公と親友が男同士で酒を飲みながら、子供ができないことを嘆くことから始まります。途中で、主人公の友達の奥さんが三か月とわかり、怒った主人公が家に帰ると、自分の女房も三か月とわかります。すると主人公は「マッチより重たいものを持っちゃダメ」と大騒ぎ。それで子供が生まれると、翌年には二人目、また今度は三人目ときて、最終的に子供の数も十人を超えてしまい、まさに主人公はビックダディーになってしまったというお話。

まさに当時の政府の方針である「産めよ、育てよ」に忠実な内容の噺です。さらに、この噺には、子供を産めない奥さんも登場します。その奥さんに対して「兵隊さんになるような男の子を、一日でも早く産むことが、お国のために尽くす仕事だとしたら、子を産めない女なんか意義がないぞ。さてはお前は敵国のスパイだな、憲兵に訴えるぞ」みたいなセリフがでてくるのです。今のご時世だったら確実にモラハラ、セクハラですよね。こんなセリフ当時の政府のお偉いさんとか右翼は涙を流して喜んだでしょうが、こんな話が出てくるようでは笑いたくても笑えません。

金語楼の国策落語は戦況が悪化すれば、悪化するほど一層権力マンセー、戦争バンザイの内容の噺をしました。さぞ、当時の政府のお偉いさんたちやウヨは金語楼のことを、ほめたことでしょう。しかし、昭和17年に政府は金語楼に対して、噺家をやめ、俳優になるように強要されます。この非常時に人を笑わせている場合か!まじめにやれという言い分でしょう。金語楼はしぶしぶ噺家の看板を下ろす羽目になったのです。

もちろん、金語楼が国策落語をしたのは、彼ひとりがわるいのではなく、当時の時代の要請でしたからね・・・
※ 参考文献


桂歌丸 名席集 CD-BOX
桂歌丸
ポニーキャニオン
2018-03-07



桂歌丸師匠が亡くなって、もう1年たつのですね。月日のたつのも早いものです。「笑点」では時事問題を得意とし、時に厳しい政治批判を回答者時代よくされておりました。たとえば、「説得力のないセリフは?」というお題に対し「政治家の"日本を変えてみせる"」と答えておりました。

そういう彼のピリリと辛い風刺は定評がありました。司会者になってからも、政治批判だとか風刺がらみの回答を好み、そういう回答をした人には(たとえば三遊亭円楽さんとか)座布団を気前よく上げていたのを覚えております。そんな調子ですから、歌丸さんはある政治家から圧力があったそうです。ある政治家が「あんまり政治家の悪口を言うなよ」というと、歌丸さんは得意のとんちをきかし「悪口言われるような政治家になるな」と言い返したそうです。すごいですね。その歌丸さんの言葉に政治家はぐうの声も出さなかったそうです。歌丸さん、かっこいいですね!

歌丸さんが亡くなってからも、政治批判する回答がちょくちょくでてきます。すると、炎上をしたり、保守系言論人から批判もされるそうです。そもそも、落語とは庶民のためのもの。庶民が噺家たちの風刺をきいて、留飲をさげるのです。「自分たちが言いたいことを代弁してくれてありがとう」って。逆に言えば、噺家が権力マンセーになったら面白くありません。権力への批判精神を失い、弱者や庶民を切り捨てるようになったら落語はおしまいだと僕は思います。

戦時中はまさに噺家が政治批判をできない時代でした。

1940年9月に、当時の講談落語協会などは「磁極柄ふさわしくない」として、遊郭にまつわったお話や、恋物語、残酷な話を自粛したのです。これは上からの圧力ではなく、自主的な行為です。そして、ただ自粛しますと宣言しただけではダメと思い、記念碑をたてることにしました。翌年の1941年に浅草の本法寺に「はなし塚」を建立し、その塚に禁じた落語の台本、せんすや手ぬぐいを奉納したといいます。その「はなし塚」は今もあるそうですよ。



そして戦況が悪化し、いくつもの演目が時節柄ふさわしくないとして演じられなくなりました。禁演落語といいまして、53種あったといいます。しかし、戦時中に演じらるのが太平洋戦争に突入し、戦況が悪化していくなかでも庶民は笑いを求めていました。その庶民が心から楽しんでいた落語は、古典落語(江戸時代にできたもの)で、平和で明るく、実にのんきでほのぼのとしたお話ばかりです。しかし、政府はそんな落語さえも目の敵にしたのです。

噺家が寄席でそうした禁演落語をやろうものなら、警察がやってきて「中止」と声がかかってしまいます。禁演落語だけでなく、歌丸さんみたいに権力者を批判したり、戦争をちょっとでも批判すると厳しく取り締まりをされたといいます。

ただ、禁演となった53種の落語は、戦前、表むきは寄席で演じられなくなりました。が、噺家が軍の慰問にいくとそうでもなかったそうです。一般の兵隊には基本的に演じなかったそうですが、こっそり女郎買いの噺をしたら、一般兵たちから喜ばれたといいます。さらに将校には、逆に禁演落語をやってくれと言われたといいます。軍の上層部では禁演落語どころか、もっとエッチな噺もしたといいます。

ある噺家は「兵隊の前じゃいけないが、将校の前ならば会食の時なんかに演じると喜ばれるんです」と証言しております。戦争でいつも締め付けられるのは、一般国民と下っ端の兵隊だけ。上層部や勝ち組はそんな時代でもおいしい思いをするのですね・・・

※ 参考文献





1 金属回収
 
日本は今も昔も輸入に頼っていました。だから、諸外国と戦争して、貿易がシャットアウトされると、えらいこっちゃになるわけです。輸入が途絶えると食糧だけでなく、武器や航空機、戦艦、大砲をつくる金属も不足してしまいます。特に鉄の不足は深刻です。当時の日本の鉄鉱石はほとんど中国とイギリス領マレーからの輸入でした。アジア・太平洋戦争開始前に、イギリスやアメリカなどによって石油と鉄鉱石の輸入を封鎖されてしまい、鉄鉱石が手に入らなくなったのですね。

それで1941年金属回収令がだされました。翌年の1942年には寺の鐘や仏具、エレベーターなどあらゆる金属が強制的に回収されました。

銅像も、その対象になりました。1930年ごろから、ほとんどの小学校の校庭に建てられていた二宮尊徳像も金属製のものは回収され、石像に作り替えられました。また、東京・渋谷駅前の忠犬ハチ公の銅像も回収されたといいます。ハチ公の銅像って戦時中からあったのですね。


公共のものだけでなく、家庭の金属類も回収されるようになりました。家庭にある火ばち、鉄びん、窓ごうし、ネクタイピンや指輪などの装飾品、さらには時計のチェーンまでその対象なりました。「家庭鉱脈」という新語もうまれたほど徹底していました。


そのような取り組みをしても、金属は十分ではなく、おけ、コップ、さじ、フォーク、家具の取っ手まで回収されるようになりました。防火に必要なバケツも布製のものが売り出され、こどものおもちゃも金属製のものは回収されてしまいます。

2 代用品
 
鉄や銅などの金属は、まず軍のために使われました。そのため各家庭にあった金属類は姿を消してしまいます。日用品の多くは陶器や竹などでつくった代用品を使用するようになりました。金属どころか、国民の衣服にかかせない木綿の使用まで政府の管轄下におかれてしまいました。国民は代用品をつかってガマンをするしかなかったのです。

金属の代用品といえば、僕は陶製の湯たんぽを思い出します。僕は母と骨董の仕事をやっていたのですが、骨董市で陶器の湯たんぽをみた覚えがあります。アイロンも陶器をつかっていたそうです。陶器の中に暑いお湯をいれて使っていたそうです。陶器だけでなく、セルロイドやセメント、ガラスなども使われておりました。学生がかぶる学帽につける交渉や制服の金ボタンも代用品がつかわれました。校章も金属がないので紙をかさねて圧縮して金粉をふきつけたものをつかっていたそうです。紙で作られた校章なんて雨の日はぐちゃぐちゃになりますね。

あと、なんと陶製の硬貨も作られたといいます。硬貨に金属がつかわれなくなったのですね。しかし作られただけで実際には陶器の硬貨は用いられませんでした。

陶製だけでなく、代用品の材料として脚光を浴びたのがセルロイドです。主にこどものおもちゃなどに使われました。セルロイドとは、化学的につくられたプラスチックの一種です。缶づめの容器、画びょう、こどものおもちゃなど様々な金属製品の代用品として重宝されたといいます。ただ、セルロイドって燃えやすいのですね。そこが難点です。

金属だけでなく、革製品も代用品が用いられるようになりました。革靴には牛革が使われておりました。ほかにも布や紙に塗料をぬった鞄、ハンドバック、クジラの皮でつくったベルト、時計バンド、サイフなど。ランドセルも竹でつくられたそうです。竹をほそく割り、竹かごのようにあんで形をつくったといいます。

綿をつかった繊維製品も代用品が使わました。綿は江戸時代から日本人にとってかかせない繊維です。だから、「綿の流通禁止」が新聞の号外にのったとき、国民は驚いたといいます。綿の代わりにスフとよばれる一種の化学繊維が配給されました。スフは洗うと縮んだり、すぐにきれたりするので評判は悪かったといいます。

3 木炭と松根油
 
1938年5月からガソリンの切符制が実施されました。ガソリンも切符がないと買えなくなったのです。石油の輸入も連合軍によってストップされ、燃料となるガソリンが不足したからです。恐ろしい話ですね。我々はガソリンがあることが当たり前のような生活を送っておりますが、ガソリンがないとどれだけ厳しい生活になるか。 「ガソリンの一滴は血の一滴」といわれるほど、この当時のガソリンは貴重でした。

それで木炭自動車が登場しました。木炭を燃やして発生するガスを燃料して走るものでした。木炭自動車といっても、木炭自動車をわざわざ買う必要はありません。持っている自動車に木炭ガス発生装置を取り付けるだけで改造できたことから、たちまち普及したといいます。

また、ガソリンの代わりに松根油を使おうという動きもありました。松根油は松の木を切り倒し、根っこからにじみ出る白いヤニから作られます。この松根油をとりだす作業は小学生までかりだされたといいます。

しかし、松根油は非常に労力が掛かり収率も悪いため実用化には至らなかったといいます。戦後、進駐軍が未調整のままの松根油をジープに用いてみたところ、「数日でエンジンが止まって使い物にならなかった」という記述がJ. B. コーヘン『戦時戦後の日本経済』にあるそうです。

※ 参考文献
戦争とくらしの事典
ポプラ社
2008-04-01



1 標語や合言葉
戦争がはじまると、国民は、自分を犠牲にして、国家のために戦うことを求められました。国民精神総動員運動が繰り広げられ、戦地で戦う兵士だけでなく、国内に残っている人たちも挙国一致(国をあげて一つの目標にむかうこと)で戦争に立ち向かうように仕向けたのです。

そのような状況で生まれたのが、勇ましいスローガン(標語)や節約を訴える合言葉でした。

代表的なのは、「欲しがりません勝つまでは」「ぜいたくは敵だ」「進め一億火の玉だ」でしょうか。今の感覚ではむなしいけれど、当時の人たちは必死だったのです。一概に言えませんが、標語それも精神論が書かれた紙がやたらと社内にペタペタ貼られている会社はブラックで倒産のリスクも高いといわれております。逆に言えば、倒産しそうなくらいヤバイ状況だから社員にハッパをかけているのでしょう。そう考えると戦時中の日本はそれくらい経済的にもやばく、国民を標語であおらないとやっていけない状況だったのでしょうね。

2 「欲しがりません勝つまでは」の秘話
「欲しがりません勝つまでは」は1942年(昭和17年)、大政翼賛会と新聞社が戦意を高揚するような標語を募集し、たくさんの応募の中から選ばれました。この標語は国民学校5年の少女が作ったとされております。みんな口には出さないけれど少女は恨まれただろうな。「ただでさえ苦しいのに余計なこと言いやがって」とか「大人の苦労のわからない子供の言葉になんでみんな言うことをきくんだ」みたいな。しかし、こちらのサイトをみて驚きました。

https://withnews.jp/article/f0150731000qq000000000000000G0010401qq000012294A

この標語は少女ではなく、少女の父親が考えたものだそうです。父親だろうが娘だろうが僕にとってはどうでもいいのですが、この標語は独り歩きをしてしまい、国民は厳しい倹約生活を強いられる、つまり同調圧力が産まれたのです。ちょっとでも贅沢をした人は非国民と罵られる、とても息の詰まった状況になったのです。言葉って恐ろしいですね。

もちろんすべての国民が戦争に協力したわけじゃありません。もともと戦争に疑問を持っていたり、長引く我慢、我慢の生活にくたびれて嫌になった人もいたはず。こんな風に国民が厳しい生活を送る一方で軍部のお偉いさんが芸者遊びをしていたといいます。
 
3 鈴木庫三
 戦時下の出版史もしくは出版弾圧史に必ず出てくる男がいます。その男の名前は情報局情報官の鈴木庫三といいます。検閲と用紙統制によって出版社の首根っこをおさえて出版・マスコミ統制をおこない、大変な権勢をほこったといいます。そんな彼が「主婦の友」昭和17年1月号に登場して「新しい生活の建設」という文章を書いています。その文章を引用します。

シナ事変とともに燃え上がった国民の精神運動で、いろいろな標語が流れてきました。そのなかで面白いのは『贅沢は敵』といふ標語で(略)、この標語は、我が国や日本民族について真理だけでなく、広く全世界にとっても、全人類にとってもまた真理でなければなりません。そこにこの標語が面白いおところがあるのです。(略)

今度の世界大動乱にはいろいろな原因がありますが、その中の大きな要因の一つは世界の経済的な行き詰まりであります。世界を経済的に行き詰らせた主たる原因が右のように英米人の贅沢極まりない生活にあるのですから、この点から見て、英米人は世界人類の敵だというふことになります」


なんとも、トンデモな人だなって思いましたねwこの戦争の目的が贅沢と戦うためだといわんばかりの内容です。ともあれ、「ぜいたくは敵」という言葉は独り歩きしてしまったのですね。

4 アジアの解放
 太平洋戦争の目的は「アジアの開放」で、欧米列強の魔の手からアジアを救い、日本を盟主とした「大東亜共栄圏」をつくろうと。しかし、「アジアの解放」は後付けの話で、真珠湾攻撃をしたときは、政府はまだそういう見解ではなかったのです。

さらに日本は資源とりわけ石油がないのとコメが不足していたこともあって、東南アジアを占領し、資源や食料を確保しようと考えたのですね。それで苦し紛れに当時の政府は「アジアの開放」って言いだしたのです。要するにアメリカと戦争したり、東南アジアを占領する大義名分として「アジアの解放」がうたわれたのですね。

アメリカが大量破壊兵器の放棄を大義名分にイラクに戦争を仕掛けましたが、結局、大量破壊兵器は出てこなかった。古くは聖地エルサレム奪還のために十字軍が結成されたが、無惨な戦争が延々と続いた。人間は同じことを繰り返すんだなって・・・

ちなみに、当時の日本人は大東亜共和圏やアジアの解放に関しては冷めたものの見方をした人も少なくなかったようです。矢部貞治という東京帝国大学の教授が、真珠湾攻撃の翌年の1942年(昭和17年)に大学で大東亜共和圏の理念を学生たちに熱っぽく語ったところ、学生たちはマジメに聴くどころか、げらげら笑ったといいます。矢部は怒り、日記にも不愉快な思いをしたとつづったほど。しかし、最先端の英語教育を学んだエリートたちにとって、大東亜共和圏なんて絵にかいた餅にしか思えなかったのです。



* 2020年追記

現在、コロナがひどいことになっております。自粛が叫ばれておりますが、コロナを広めてはいけないことは理解できます。が、自粛警察の行き過ぎた行動は考えものでした。正義感から来た行動だと思われますが、行き過ぎた正義感は考えもの。戦時中も記事に書いたように、おかしな言葉が一人歩きしましたが、それはコロナ禍でも考えられるのです。バカな人間が変なツイートをして、それが拡散して、その言葉が独り歩きすると。例えば、「家から出るやつは非国民」とか。やがて国民自身が自らが自らの首を絞めるようなことになりかねません。怖いです。


※ 参考文献








1 学童疎開とは
戦争中は、今とは比べ物にならないほど大変なものでした。太平洋戦争の末期、日本各地は度重なる空襲にまみれました。とくに東京、横浜、大阪、名古屋、くべなどの大都市への空襲は、日を追うごとに激しさをましてきました。

1944年(昭和19年)6月、政府は、都市部の国民学校初等科(※1)に通う児童を対象にして、空襲の恐れのない地方の農村部へ移住させることを決定します。それが学童疎開です。はじめは、親戚や知人を頼った「縁故疎開」がメインでした。僕の父親は縁故疎開でした。僕の父は昭和11年生まれですから、戦争をリアルに体験しているのですね。僕の祖母の実家が千葉県なのですが、僕の父も戦争中は千葉に疎開をしたそうです。やがて学校や学年ごとにまともって疎開をする「集団疎開」が行われるようになりました。全国で約40万〜60万人の児童が集団疎開したといいます。

2 学童疎開の現実
集団疎開の主な受け入れ先は、お寺や旅館など。子供たちは、そこで規律の厳しい集団生活を送らなければなりませんでした。なれない田舎暮らし、少ない食事、子供同士のいじめ。都会から来た子供たちが田舎の子供たちにいじめられるケースもあったそうです。僕だったらいやだな。あと、「ドラえもん」の「白ゆりのような女の子」にも、教官に怒鳴られながら農作業をする場面もでてきましたっけ。農作業なんて都会育ちの子供たちには大変だったのではないでしょうか。

そんなこともあって疎開先から脱走する子供たちも多くいたといいます。藤子・F・不二雄先生の「エスパー魔美」にも魔美の父親がクオーターということが理由でいじめにあい疎開先から脱走したなんて話も出てきます。藤子先生は昭和8年生まれで、実際に学童疎開を体験している世代です。だから、作品に出てくる学童疎開の話はご自身の体験に基づいているのでしょう。








僕の父親は縁故疎開だったので、そういったいじめの話はなかったようですが、そのかわり大変なおもいをしたそうです。なんと田んぼのあたりを歩いていたら、空から爆撃機がやってきて父をめがけてババババっと攻撃したそうです。命からがら父は逃げられたといいますが、父は今思い出しても恐ろしいと語っていました。

さて、都市部のこどもたちがすべて疎開できたわけではありませんでした。学童疎開は、原則として保護者の申し込みによるものです。保護者が疎開費用を負担できない子供や病弱なこどもなどは疎開できませんでした。疎開できなかったこどもたちは「残留組」と呼ばれ、激しくなる空襲におびえながら暮らしていたそうです。

3 日本のタイタニック 対馬丸
疎開といえば悲劇的なことがありました。対馬丸です。1944年8月21日、沖縄から集団疎開する児童や、一般の疎開する人たちを乗せた貨物船「対馬丸」が那覇港から長崎に向けて出港しました。日本の護衛艦に守られながらの主公開でしたが、その対馬丸の背後にアメリカの潜水艦ボーフィン号に追跡されていたのです。翌日の夜、対馬丸はトカラ列島悪石島付近の海で魚雷をうけて沈没。1500人以上の命を失ったといいます・・・

僕が対馬丸のことをしったのは小学校のころ。とうじ対馬丸の事件がアニメ映画化され、そのアニメ映画のパンフレットが学校でも配られたのです。僕はいかなかったけれど、そのアニメ映画は近所の公会堂で上映されました。僕も親にねだって見に行けばよかったなあ。

対馬丸の生存者もいらっしゃて、その動画もYouTubeであがっております。その方は元引率教師で、対馬丸に沈没して、海に投げ出されたが、漁船に拾われ一命をとりとめたそうです。沈没したときは大変で、船がものすごい音を立てて徐々に沈んだといいます。水がどんどん船に入ってきたといいます。怖かったろうな・・・小さなボートに数名の人が助かろうと群がったとか。僕はその人の動画をみて映画「タイタニック」の場面とかぶりました。一命をとりとめた人たちは、対馬丸の事件のことは一切言うなと口止めされたといいます。当時の日本は非常事態で、もしそんな事件があったとしたら、騒ぎになる、戦意が消失すると軍の上層部は思ったのかもしれません。


※1 国民学校初等科とは6年制で、現在の小学校に相当。





※ 参考文献


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