history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

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世界遺産といえば富岡製糸場の建物もそうですが、世界遺産の対象になったのは富岡製糸場だけではありません。「富岡製糸場と絹産業遺産群」の一つとして、群馬県下仁田に荒船風穴も世界遺産になっております。下仁田といばこんにゃくが有名です。ぼくも下仁田のこんにゃく食べたことがありますが、おいしいですよ。あまりのおいしさに鳥肌が立ってショウガがすれるくらいw



さて、僕も荒船風穴に訪れたことがあったのですが、下仁田から車で一時間くらい山を登ってやっとたどり着くところにあります。この荒船風穴は、自然にできた岩穴に人間が石垣をつくったりして加工をしたものです。



冬の間、荒船風穴は、雪におおわれ、その冷気が夏にも残って、岩の隙間から冷たい風が吹くそうです。そこの風穴に蚕種と呼ばれるカイコの卵を保存したのです。





カイコというのは、春にしか繭をつくりません。それでカイコの卵を、この荒船風穴で冷やし、卵から幼虫がかえる時期をずらして、年に数回、春以外の季節にも繭をつくらせるようにしたのです。また、カイコを冷やして保存するためにも荒船風穴が使われたのです。



昔は電気冷蔵庫がなかったので、蚕種を冷やすのに、わざわざ山を登って、この荒船風穴まで蚕種を運んだのですね。今は荒船風穴までの道も舗装され車も通れるようになりましたが、昔は道も舗装ほそうされていなかっただろうし、車を走らせることもできなかっただろうから、不便だったろうなって。





話がちょっとずれますが、『クレヨンしんちゃん』の原作者の臼井儀人さんが荒船山(長野県と群馬県の境。下仁田にある)でなくなっているのですね。なんでも臼井さんが登山をしていて、それで滑落かつらくし亡くなったそうです。僕はタクシーで荒船風穴にいったのですが、その時タクシーの運転手さんが教えてくれたのですね。登山って結構危険なスポーツですからね。僕の高校時代の登山部の顧問の先生もやはり滑落事故で亡くなっていたのですね。高校の時登山部に入ればよかったと今も時々思うこともあるけれど、僕は運動神経もよくないし、体も堅いからかえって良かったかも。話を戻します。



ここの荒船風穴には日本全国はもとより外国の蚕種が運ばれたそうです。そのため、風穴の横にあった管理棟と、山のふもとにあった事務所の間には、そのころ珍しかった電話がひかれ、注文に応じていたといいます。



また、今はありませんが昔は風穴の中に建物があって、さらにその建物中でカイコを保存した居たのですね。





※ 参考文献


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きょうは富岡製糸場が経営母体が次々と変わったお話をします。

官営時代(明治5年〜明治26年)
三井みつい時代(明治26年10月〜明治35年)
合名会社ごうめいがいしゃの時代(明治35年9月〜昭和13年)
株式会社富岡製糸場(昭和13年 片倉に経営を委託いたく

片倉かたくらの時代(昭和13年〜平成17年9月)

(以下 ガイドブックより引用)

ちょくちょく変わっていますね。では、なぜ、こんなに経営母体が変わったのでしょうか?続きを読む
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明治6年(1873年)の6月24日に明治天皇の皇后・美子(のちの昭憲皇太后)と、明治天皇の母親である英照皇太后の両陛下が富岡製糸場に女官たちも引き連れ、行啓したのですね。この時、製糸場をみた皇后が詠んだ短歌があります。



いと車 とくもめくりて 御御代の 富雄をたすくる 道ひらけつつ



この短歌の大意は「繰糸機が早い勢いで回っている。これによって我が国の富や豊かさを盛り上げる道がひらけつつある」とのこと。富岡製糸場に対し、皇后が大きな期待を寄せていることがうかがえます。また、横田英も『富岡日記』に皇后・皇太后両陛下が女官たちとともに富岡にやってきたことの喜びが書かれております。


(両陛下の)神々こうごうしき竜顔を拝し奉り、自然に頭が下りました。(略)さて両陛下の御衣は、藤色に菊びしの織出しのある錦、御一方様は萌黄に同じ織出しのように 拝しました。(略)私はその頃未だ業も未熟でありましたが、一生懸命に切らさぬように 気を付けて居りました。初めは手が震えて困りましたが、心を静めましてようよう常の通りにな りましたから、私は実にもったいないことながら、この時竜顔を拝さねば生涯拝すことは出来ぬ と存じましたから、能く顔を上げぬようにして拝しました。この時の有難さ、只今まで一日も忘 れたことはありませぬ。私はこの時、もはや神様とより外思いませんでした。


『富岡日記』(P39〜40)



目の前に皇后・皇太后両陛下がいるのだから、それは横田英でなくても、一生忘れない経験だと思います。そして皇后・皇太后陛下は富岡製糸場にお酒を賜ったとのことです。



この行啓の前の明治4年(1871年)に、それまで長らく途絶えていた宮中での養蚕(ご養蚕)を皇后が吹上御苑内にて復活させました。



その養蚕の行事はいまも受け継がれております。皇居の中にも蚕室があるそうです。春から初夏にかけて、歴代の皇后陛下が掃きたて(※1)や給桑きゅうそう(※2)や上蔟じょうぞく(※3)、繭かき(※4)など、いろいろな養蚕の作業をされます。皇居でつくられた絹糸は、正倉院の絹織物の復元や、宮中祭祀や外国元首へのおくりものなどにつかわれます。



明治4年に養蚕は再開しましたが、再開する際、皇后・美子は「養蚕を再開するには養蚕の知識がある人物が必要」ということで、当時大蔵省の役人だった渋沢栄一に白羽の矢が立ったのです。しかし、渋沢は辞退。かわりに田島武平という人物を推薦します。その田島武平の親類にあたる人物が田島弥平で、田島弥平の旧宅が「富岡製糸場と絹産業遺産群」(世界遺産)の構成資産の一つに数えられております。



戦後になってから、幾度も皇室の方が訪れました。例えば、昭和42年には浩宮さま(いまの天皇陛下)、昭和44年には皇太子殿下と妃殿下(今の上皇さまと美智子皇太后さま)がお見えになりました。平成に入ってからも、今の上皇さまと皇太后さま(当時は平成天皇・皇后両陛下)が平成11年にお見えになられております。












※1 ふ化したばかりのカイコを桑の上にうつすこと。

※2 桑をあげること

※3 繭をつくる場所にカイコをうつすこと。

※4 繭をあつめること






※ 参考文献




富岡製糸場と絹産業遺産群 (ベスト新書)
今井 幹夫
ベストセラーズ
2014-03-08






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1 病気になった女工さん

 富岡製糸場の繰糸場の中は、顔が見えなくなるほど蒸気が立ち込め、蒸気の音もすさまじく、大変蒸し暑く、冷房もありません。しかも労働時間は官営時代でさえ8時間弱。だから、病気になる女工さんも多かったのです。特に夏になると、病人が増えたのです。



ある日、河原鶴子さんが急に不快だと 申されまして、驚きました。その日は部屋に休んで居られましたが、急に足がひょろひょろする と申されましたから、翌朝病院に参られまして、診察を受けられますと、脚気かっけ(※1)だとのことで、そ の日頃から足は立たぬようになられましたから直に入院致されましたが、追々様子が宜しくあり ません。私は休みの時間ごとに見に参りましたが、二日目頃はよほど悪いように見受けました時、 私の驚きはとても筆にも詫葉にも尽されません。(略)



その内段々快方に向われまして、つかまり立ちの出来るようになられました頃、父君がおいで になりまして、ついに帰国致されましたが、互に泣別れを致しました。そのお鶴さんは只今では お雪さんと申されまして、耶蘇やそ(※2)の伝道師になって居らるるように承りました


『富岡日記』P46〜P49まで



幸い、河原鶴子は一命をとりとめましたが、そのまま亡くなった女工さんも少なくないのです。官営時代に亡くなった女工さんの数は52人。意外と多いです。そのうち15歳以下で亡くなった女工さんが4人いたというからかわいそうだなって。医師が工場内に常にいて、健康管理に気を付けていた官営時代でさえ死者がでたのに、労働時間が長くなり、医師も工場内にいなくなった民営化時代は、官営時代のそれよりも多かったのではないかと。


2 女工さんがねむるお寺

富岡製糸場とみおかせしじょうの近くに龍光寺りゅうこうじというお寺があります。このお寺には女工さんのお墓があります。明治6年(官営時代)から明治34年(民営化後)の28年間の間に、60人もの女工さんが亡くなり、その60人のお墓が、ここ龍光寺と海源寺かいげんじというお寺にあるそうです。



ここ龍光寺には女工さんのお墓が30ほどありまして、お墓に埋葬まいそうされているのは女工さんたちだけでなく、製糸場の役人などもいるそうです。また、明治26年の民営化の際、当時の所長が建立した連名のお墓もあります。

で、女工さん達のお墓は、思っていたより質素だなあって思いました。コケがはえている墓もありました。墓が古いから仕方がないといえば仕方がないのですが、なんかむなしいなって。




3 わすれちゃならない女工さんたちのこと


  日本の繁栄はんえいのために必死に働いて、亡くなったら小さなお墓に入れられて、雨ざらしにされ、しかも墓にコケが生えるような有様ではかわいそうだなっておもいました。


かといって、お墓をきれいに作り直すのは大変だし、きれいにしたからといってお参りをする人がいなければ、女工さんだってよろこばないでしょう。富岡製糸場が世界遺産になったことで、富岡製糸場の建物ばかりがクローズアップされていますが、そこで働いていた女工さんたちのこともわすれてはいけないなと思いました。

最後に富岡製糸所で初期に亡くなった女工さんである照井多計の辞世の歌をご紹介します。



「夏の夜の 夢路をさそう時鳥 我が名をあげて 雲の上まで」



この辞世の句は照井多計の墓に刻まれているそうですが、長い年月が経っているため読めなくなっているとのこと。
照井多計は岩手の出身で21歳で異郷の地で亡くなったのですね。彼女はどんな思いでこの辞世の句を詠んだのでしょう。


※1 ビタミンB1の欠乏のために、末梢(まっしょう)神経がおかされ、足がしびれたりむくんだりする症状。下手すると死亡する。明治のころは不治の病と恐れられていた

※2 キリスト教徒のこと


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(龍光寺の入口)

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(説明版)


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女工さんのお墓たち。本当はお墓の写真なんてとるのは趣味じゃないのですが。3年位前に富岡にいったのですが、その際、女工さんたちをなぐさめるために、お墓にお花をささげました。)



※ 参考文献





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富岡製糸場とみおかせいしじょうの近くに大正時代から続いている中華料理屋ちゅうかりょうりやさんがあります。こちらのお店では中華ちゅうかそばやおだんごなども出してくれる昔ながらのお店です。

僕が食べたのは中華そば。昔ながらのまろやかな味でおいしかったです。

お値段も安いのもうれしいです。

店員のおばあちゃんも、感じがよく、また行きたくなるお店です。

富岡旅行から帰ってきて、雑誌やネットで分かったのですが、こちらのお店は富岡製糸場の女工さんたちにも愛されたそうですね。

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