history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

宮崎駿さんが久しぶりに新作映画をつくられるそうですね。「君たちはどう生きるか」。7月14日公開。楽しみですね。さて宮崎駿さんは映画でプロの声優を使わないことで有名です。『ルパン3世、カリオストロの城』だとか『風の谷のナウシカ』など初期の作品はちゃんとプロの声優さんを使っていたのですが。『紅の豚』や『もののけ姫』あたりから本格的に声優ではなく、タレントさんとか歌手、俳優さんを使うようになったのです。これは宮崎駿さんが声優さんを嫌うからだといいます。なんでも声優さんは演技の仕方がオーバーだからだとか。そんな宮崎さんに倣って、ジブリ以外のほかのアニメ映画もプロの声優さんをつかわなくなったのですね。『ドラえもん』の映画すら1997年以降、ゲストにタレントさんとか俳優さん起用しますもん。今でこそ声優さんの知名度もゲームやSNSとかの影響で広まり、今時の俳優は知らなくても声優の名前はわかるって人も少なくありません。が、平成のころは声優さんの知名度も一般的に低く、知名度の高いタレントや俳優を使ったほうが宣伝にもなるので、制作側としてもメリットが大きいのですね。

そのことに対して批判もいろいろあるようです。僕も、え?なんでって思いましたもん。声優使わないのはジブリだけでいいじゃんって。

しかし、アニメの歴史、声優の歴史を学んでいるうちに、そうした僕の憤りも次第に消えましたね。まず声優ですが、そもそも専業声優が登場したのは80年代後半、さらに声優という職業が市民権を完全に得たのは極めて最近のことで、むしろ、声優という職業は昔はなかったのですね。アニメとか洋画で声を吹き込むのはアテレコと言います。このアテレコというのは、本来は舞台俳優さんが舞台がない時、時間が空いているときにアルバイトみたいな感覚でする仕事だったのです。ルパンを長年演じられた山田康夫さんは、ファンの人から「声優の山田康夫さん」と言われたとき、山田さんは「おれはスーパー(西友)じゃねえ」って返したそうです。だから、声優と言われると怒る人も昔は少なくなかったようです。あくまで自分は俳優で、アテレコはあくまで俳優の仕事の一つって感覚の人が昔は多かったようです。

実際、山田康夫さんはドラマや映画にもご出演されていましたし。旧ドラえもんの大山のぶ代さんは声優という枠におさまりません。女優としてドラマにいくつも出ていらっしゃいましたし、「おもいっきりテレビ」ではコメンテーターとして、「嫁と姑の面白クッキング」では大平雅美さんという女子アナと一緒にお料理をされていました。






意外かもしれませんが、「ONE PIECE」のルフィ役でおなじみの田中真弓さんの本職は声優ではなく舞台女優さんです。山田洋次監督の『母べえ』や朝ドラでもご出演されていましたし。

またアニメ映画も初期の初期の出演者を見ると驚きます。たとえば『ノンキナトウサン』という漫画が昔ありまして、アニメ映画化もされました。その映画は大正それから戦後と上映されました。大正時代に上映された『ノンキナトウサン 花見の巻』において主人公のトウサンを演じられたのは曾我廼家五九郎という喜劇俳優。さらに戦後間もない1946年に上映された『のんきな父さん』では、主人公のトウサン役を小杉勇さんという俳優さんが演じられ、ほかにも歌手の轟夕起子さんや灰田勝彦さん、コメディアンの柳家金語楼さん、それからプロ野球選手の川上哲治さんまでアテレコをされていたというから驚きです。80年代においても、『少年ケニヤ』(1984年)というアニメ映画が上映されました。懐かしい!僕も劇場はもとよりビデオで何度も見ましたよ。角川映画ということで、主人公の少年を俳優の高柳良一さん、ヒロイン役を原田知世さんが演じられました。お二人とも角川映画の常連さんです。宮崎駿さんは声優が嫌いというより、こうしたアニメや声優の歴史を当然ご存じで、タレントさんや俳優さんをアニメで使うのに全く抵抗がないのかなって思われました。


少年ケニヤ
柴田秀勝
2019-10-26















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クジラというと日本はクジラを捕りすぎということで海外から非難を浴びているのですね。外国の市民団体が日本の捕鯨に抗議する映像は何度か見たことがあります。中にはシーシェパードのような過激な団体もいて、船ごと日本の調査捕鯨船にぶつけてくることも。国際捕鯨委員会(IWC)というのがあって、日本も加盟していたのですが、2018年に脱退したのですね。それから、日本の捕鯨も復活したのです。

ネットではクジラはおいしいという意見もあれば、まずいって意見が分かれております。僕の母なんて、あんな不味いものはないって言ってたもん。母は学校給食でクジラ肉を食べた口ですが、クジラ肉には良い思いでがないようです。かつてはクジラ肉は戦後の食糧難の時に栄養価が高いということで注目され給食に出たほどなのですが、牛肉や豚肉に押されてしまったのが現状。では、クジラの肉はそんなにまずいかと言えば、答えはNOです。

クジラ料理が食べたくなって都内のあるクジラ料理の「くじらのお宿 一乃谷」という料理屋さんに行ってきました。僕がクジラ料理を食べたのは二回目。初めて食べたのがクジラの竜田揚げ。それがおいしかったので、また食べたくなったのです。注文したのはクジラのステーキ。お味は魚の肉と牛肉の中間くらいで、メッチャおいしかった。僕はクジラというと硬くてまずいイメージがあっただけに、本当に驚きましたね。僕の地元じゃスーパーや魚屋さんにもおいてないのですね。それだけにクジラが食べれて感激でした。クジラの肉を食え!なんて強制はできないし、するもんじゃないと思うけれど、一度食べる価値はあると思う。





ちなみに、日本だけがクジラ漁を非難されているイメージがあり、これは人種差別だってよくいわれておりますが、実はそうでもないのです。やはり捕鯨国のアイスランドやノルウェーもやはりクジラを捕るなって非難されているのですね。捕鯨がここまで非難されるようになったのは、ジャパンバッシングというより、クジラが一度絶滅の危機に追いやられたことが大きいのですね。特に17世紀から19世紀にかけてヨーロッパほか世界各国がクジラが乱獲されたのですね。クジラの肉もそうですが、クジラから出る油は、灯火や洗剤、はてはニトロぐセリン(ダイナマイトの原料)にも使われたのですね。ヨーロッパでクジラが捕られるようになったのは、食肉用というよりクジラの油がメインだったのですね。昔は電気とか石油がない時代でしたから。

それと、クジラのひげ。クジラのひげは弾力があったので重宝されたのです。傘の骨とか、日本では文楽人形にも用いられました。そして何よりもヨーロッパにおいてはコルセットに用いられました。クジラのひげを用いたコルセットがヨーロッパの貴族社会において大流行。それで乱獲に次ぐ乱獲で、とうとう絶滅寸前にまで追いやられてしまったのです。それで、クジラを乱獲しないで、捕るにしても計画的にやりましょうねって作られたのが、IWCなのですが、それがいつの間にか、クジラの漁そのものをやめろと主張する団体になってしまったと。クジラの絶滅と言うけれど、最近はクジラの数が増えすぎてしまって生態系のバランスが崩れているとか、言われておりますね。















 今更ながらですが、CSで再放送されているドラマ『テセウスの船』を見ております。2020年のドラマなので、もう放送から3年たっているのですね。『テセウスの船』は大映が制作にかかわっており、『テセウス』も70年代、80年代に一世を風靡した大映ドラマそのものだとネットで書かれていたので、僕も急に見たくなったのです。大映と言えば『不良少女と呼ばれて』とか『スクール・ウォーズ』それから『スタア誕生』とかを思い出します。展開の早さ、複雑な家庭環境でやや不器用な主人公、そして主人公をとりまく強烈な個性の脇役たち、それからメチャクチャな設定と、まさに大映らしいドラマだなって『テセウス』を見て思いました。



それとドラマには霜降り明星のせいやさんや、小籔千豊さん、仲本工事さんまで、御出演されていたのですね。これだけコメディアンの人が多ければ、ドラマの舞台裏はさぞ賑やかで楽しいだろうなって思いました。仲本工事さんが演じられたのは、元県議会議員の老人役。ドリフで活躍していたころと印象が変わってたので、わからなかったなあ。その仲本さんも最近お亡くなりになられたっけ。それと主役の竹内涼真さん、かっこいいなって。鈴木亮平さんの演技もさすがだなあ。



さて、『テセウスの船』のテーマは加害者家族バッシング、それから冤罪えんざいです。鈴木亮平さん演じる警察官は全くの無実なのに殺人犯と疑われ、本人はおろか、家族まで巻き添えを食らい苦労するのです。


加害者家族バッシングは昔からありましたが、インターネットが普及してからひどくなり、加害者家族の住所や職場が個人情報がネットでさらされ、加害者家族の家に落書きされたり、無言電話やSNSでの嫌がらせ、ひどい場合は放火までされてしまう。そうして追いつめられた家族は自殺までしてしまう。自殺をするほど追いつめたら、もうバッシングするほうも殺人犯ですね。
まして冤罪なら、加害者として疑われた人と家族はこの野郎って思いますヨ。


実際、冤罪えんざいで刑務所に入れられた人でさえも、本人も家族も身に覚えのない犯罪者のレッテルを張られ苦労するのですね。それで、無事に無罪になったとしても、それでめでたしめでたしになるわけじゃないのですね。失われた時間はあまりに大きい。長年、冤罪を疑われ、晴れて無罪になったある人が、人間不信になったと。無罪になった喜びよりも、自分の人生を返してくれという気持ちのほうが大きいと。



ひとたび凶悪犯と疑われると、それが誤解であっても、こんな仕打ちを受けるのかって恐ろしくなります。たとえば、凶悪犯だと疑われた人が無実で、その家族をバッシングし続けた人たちは、責任を取ってくれるのかって話になります。



実際、冤罪が証明された人でも、あいつは刑務所に入った人間だという目で見られてしまうのが現実だそうで、しかも、そうした人は就職口もろくにないともいわれております。


これまで、冤罪事件これまでいくつもあります。古くは戦後まもないころに起こった帝銀事件、名張ぶどう酒事件その他もろもろ。特に名張ぶどう酒事件は、集落で起こった殺人事件で容疑者の家族が村八分にあったという意味では、テセウスと似ているなって。



名張ぶどう酒事件とは1961年3月28日、奈良県と三重県の境目あたりになる小さな村で起きた事件。村の懇親会で、ぶどう酒がふるまわれ、ぶどう酒を飲んだ女性20人のうち、17人が苦しみだし、うち5人が死亡した事件です。ぶどう酒にはテップ剤という有機リン系の農薬が混入されていたのです。ぶどう酒の製造過程で農薬が混入されることは考えられず、何者かが故意に入れたとしか思えないのです。それで容疑者になったのがOという人物。Oが疑われたのは、亡くなった5人の中に、彼の妻と愛人がいて、Oと妻と愛人との間で三角関係になっていて、それが村でも有名になっていたのです。



また会場にぶどう酒を運んだのもOなので、疑われてしまったのです。当時はまともな科学的調査など行われず、自白がメインだったので、Oは容疑にかけられてしまったのです。結局、Oは当初否認していたものの、警察の厳しい取調べにより、結局自白。、その後、否認、自白と変転し、無実を訴え続けたものの2015年に獄中で亡くなったのですね。しかし、大変な思いをしたのはO本人ばかりでありません。Oの家族は近所の人から口もきいてもらえず、Oの自宅にはしばしば石が投げ込まれたといいます。さらに共同墓地にあったO家の家の墓も掘り起こされ、離れた場所に移されてしまいます。罰当たりですね。これは、村の人がO家はこの村から出ていけという意思表示。その後、Oは無罪を訴えますが、無実を訴えれば訴えるほど、人々の火は激しく燃えさかり、Oに理解をしめすものはすべて敵とみなされたのです。村人たちはOや家族の人権よりも村の秩序を守ろうとしたのですね。本当にOが犯人ならともかく、ひどい話です。





バスケットボールは漢字で「篭球」といいます。サッカーは「蹴球」、テニスは「庭球」です。では、ベースボールは?。「塁球」と言いたいところですが、正解は「棒球」です。「棒球」って聞くとエッチな私は、あそこのことを思いだすのですねwぼっ起した、あそこでボールを打つのかってw悪い冗談はともかく、ベースボールは「棒球」。え?ベースボールは野球じゃないの?って声も聞こえてきそうですが、もちろん「野球」も正解です。

僕は学生のころ、正岡子規が「野球」の名付け親だと習いました。正岡子規は「升(のぼる)」と言います。自らの「のぼる」を漢字にあて「のボール」つまり「野球」としたと。実はそれ間違いです。ベースボールを野球と最初に訳したのは中馬庚という人です。

1893年に中馬は第一高等中学校卒業に際し「ベースボール部史」の執筆を依頼されましたが、当時は今の野球のことを「底球」という訳語を使っていました。しかしこれでは「庭球(テニス)」と混同するからというので、1894年の秋、「Ball in the field」という言葉から「野球」という訳語を作ったと。確かに「底」と「庭」では漢字が似ていますからややこしいですね。ちなみに、野球のポジション名の「投手」や「捕手」、「一塁」その他もろもろや、「三振」、「死球」も中馬が翻訳したのです。これ豆知識なw

でも、正岡子規が野球が好きだったことはどうやら本当の様で、「山吹の一枝」という野球小説を書いたり、野球にまつわる短歌も残しております。どんな短歌を残したかは後程。子規は小説や句の題材にしたのみならず、実際に野球をプレイしたといいます。さらに故郷の四国の松山で野球を広め、高浜虚子にも野球を指導したといいます。正岡子規というと病弱で運動が苦手なイメージがあっただけに僕は驚きましたね。実際、子規は子供のころは外で遊ぶのを嫌い、タコ上げもできない。家で本を読むのが好きで、友達から青びょうたんとからわれたほどでしたから。それが野球をやるようになるとは、人間わからないものですね。

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(ユニフォーム姿の正岡子規。結構サマになっている)

子規が野球と出会ったのは、明治17年(1884)9月に大学予備門の予科(のちに一高と改称)に入学したころです。当時、子規は16歳だったそうです。病弱だった子規も野球と出会い丈夫になったといいます。なんでも、子規の握力は明治18年(17歳)ごろは左右ともに握力28グラムだったといいます。ところが明治23年3月(22歳)のころになると右44キログラム、左39キロと大幅にアップしているのですね。これは子規が野球をやるようになったからです。子規はのちに結核にかかってしまいますが、結核にかからなかったら、もっと長生きしていたかもしれないし、好きな野球を思う存分楽しめたかもしれない。
実際、子規は死ぬ間際まで野球をやりたいと言っていたのです。子規はほかのスポーツには目も向けなかったのに、なぜか野球だけ夢中になったのです。
で、子規の野球の腕前ですが、、なかなかうまかったようです。さすがにプロ並みとは言えないものの。子規がいた当時はそもそもプロ野球などあるわけがなく、野球が日本にまだ広まって間もないころでしたから、子規も野球のスターだったのですね。 ポジションはピッチャーをやったり、キャッチャーをやったといいますから。どちらのポジションもヘタでは務まりません。高浜虚子の著作に子規のバッティングについての描写があって「其バッティングは却々なかなかたしかで、其人(正岡子規)も終には単衣の肌を脱いでシャツ一枚になり、鋭いボールを飛ばすようになった」と。
また、明治十六年、虎ノ門の工部大学にベースボール倶楽部が組織されたのですが、子規はそこで名投手として名高かったといいます。
正岡子規は2002年に野球殿堂入りしましたが、その時、僕は、なんでって思いました。が、正岡子規の評伝を読み、彼がただの野球愛好家ではなく、日本にベースボールが伝わり出した頃に、ベースボールを広めた功績を讃えたものだったのですね。




最後に子規が残した野球に関する短歌をいくつか。

「久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも」
「打ち揚ぐるボールは高く雲に入りて又も落ち来る人の手の中に」
「打ちはづす球キャッチャーの手に在りてベースを人の行きがてにする」


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(正岡子規記念球場 東京・上野にある)

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(正岡子規の肖像と説明版)


参考文献




サザエさん 1巻
長谷川町子
朝日新聞出版
2020-01-07



『サザエさん』にでてくるタラちゃんを長年演じられた貴家堂子さんが今年の2月5日にお亡くなりになられました。87歳でした。この場を借りて御冥福をお祈りいたします。

そのタラちゃんがやたらネットで嫌われているんですね。なんで?普通にいい子じゃん。僕はどうしてかなって、一言でいえば、まあネタでしょうね

別にタラちゃんは嫌いじゃないけれど、ネットでは嫌いと言っておこうって人が大半ではないかと。しかし、ガチで嫌いという意見も少なからずあるのですね。でガチでタラちゃんが嫌いという意見をまとめると。




  • 空気が読めない

  • わがまま

  • 平気でひとをばかにする

  • 食べ物に対して執着心がある

  • 何か悪いことをしてもカツオに責任をおしつける



いろいろネットで書かれていますが、集約すると、


なまじかタラちゃんが大人びているだけに生意気だってことでしょうか。


タラちゃんに限らず子供は基本的にわがままだし、食べ物に執着もする。「親ばか」って言葉があるように自分の子だと、ひいき目に見てしまうけれど。ましてタラちゃん、3歳児。タラちゃんは空気が読めないっていうけれど、3歳児で空気が読めたら、そりゃ天才ですわw

でも、普段、タラちゃんは3歳児にしてはしっかりしているし、大人びている。それだけに生意気に思えるし、たまに見せる子供っぽい面が出るとなんだコイツになる。むしろタラちゃんを徹底的に3歳児らしく描けば、ここまで批判されなかったと思います。



実は、サザエさんも初期のころはタラちゃんもすごい悪童で、サザエさんに叱られていたのですね。タラちゃんがいたずらばかりするものだから、サザエさんがタラちゃんをお尻ペンペンしたり、物置に閉じ込めたのですね。それでタラちゃんが「開けろ!子供をいじめるな!」って泣きながら怒るのですね。意外ですね。ぼくもYouTubeでその動画を見たのですが驚きました。わんぱくだったタラちゃんが、今のように大人しくなったのはいつ頃でしょう?

実は1977年頃、『放送九年目のへんな手紙』という放送回がありました。その回は、「最近、タラちゃんが大人しくなった」って苦情の手紙が磯野家に届いたというお話です。その手紙の主は、脚本家の雪村俊一さん。雪村さんは『サザエさん』の脚本を手掛け、その回の脚本も雪村さんが担当されました。

脚本家の雪村さんは、どういう理由か知りませんが、タラちゃんのキャラを70年代半ばあたりから変えたのですね。それで視聴者から、「最近、タラちゃんのキャラが変わったが、どうしたの?」って意見がテレビ局に寄せられたのだと思う。それを受けて雪村さんは『放送九年目のへんな手紙』の脚本を書かれたのかなって僕は想像します。それから、タラちゃんはいまの様なキャラに年を重ねるごとに近づいたのかなって。

ちなみに浪平がタラちゃんを異様にかわいがるって批判はあるが、基本的に祖父母にとって孫はかわいいものみたいですよ。下手すりゃ自分の子供よりも。『ドラえもん』にでてくる、のび太のおじいちゃんは、息子、つまり、のび太のパパには結構厳しい面を見せるが、孫ののび太にはメッチャ甘い。僕の祖母もそうでしたよ、息子であるはずの父にはどこか冷たかったけれど、僕には異様に優しくて、風呂にも入れてくれたり、父に叱られると、祖母がかばってくれたり。


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