history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

ヘレン・ケラー (おもしろくてやくにたつ子どもの伝記)
ヘレン・ケラー (おもしろくてやくにたつ子どもの伝記)


1 知っているようで知らなかったヘレン・ケラー
 ヘレン・ケラーは三重苦を克服こくふくし、障害者しょうがいしゃ福祉ふくし向上に貢献こうけんした人物です。が、彼女が婦人の解放、死刑しけいにも反対、平和と反戦を唱えていたことはNHKの「その時、歴史が動いた」を見るまで僕も知りませんでした。また、ヘレンが社会主義者(反戦主義者)ということで、FBIや日本の憲兵けんぺいからにらまれていた事も知りませんでした。

ヘレン・ケラーは三度来日した事があります。初めての来日が昭和12年(1937年)、二度目が昭和23年(1948年)、三度目が昭和30年(1955年)です。

特に、最初の来日の目的が政治的な意味合いがあったことを「その時歴史が動いた」で知りおどろきました。

それは、ヘレンが日本にきた最大の目的というのが日米親善にちべいしんぜん(※1)でというのです。昭和12年ごろといったら、日本とアメリカが中国大陸の利権をめぐって対立していましたからね。もちろん、ヘレンが日本に来た目的は、それだけでなく日本の障害者の福祉向上という意味合いがあったことは言うまでもありませんが。


2 日本に訪れるなり事件が
 それでは、ヘレンが日本に訪れた経緯いきさつをお話いたします。ヘレン・ケラーを日本にまねいたのは岩橋武夫いわはしたけおです。岩橋は昭和期の社会事業家で、彼もまた目が不自由だったそうです。

アメリカのヘレンのもとに岩橋が訪ねてきました。岩橋はヘレンに日本に来るようにお願いしました。しかし、ヘレンは気が進みませんでした。なぜなら、ヘレンの恩師おんしであるサリヴァン先生が重い病気にかかっていたからです。

しかし、サリヴァン先生は「日本にいってあげなさい」と言ったそうです。それで、ヘレンは日本に行く決心をしたのです。それから間もなくしてサリヴァン先生は亡くなるのです。

サリヴァン先生の励ましの言葉を胸にヘレンは日本にやってきました。時の大統領ルーズベルトの親書を携えて。

日本に滞在中のヘレンに事件が起こります。なんとヘレンのサイフが何者かにぬすまれたのです。ヘレンは、「どこの国でもある事」とあきらめていたそうです。ところが、この盗難とうなん事件が報道されるやいやな、日本各地から、お金や(おわびの)手紙が殺到さっとうしたのです。手紙には「同じ日本人としてはずかしい」「日本をこんな国だと思わないでください」と書かれていたそうです。

ヘレンはその事にいたく感激し、もらったお金をそのまま寄付きふをしたそうです。そして、このような談話をします。

「私は盗んだ人の事情に同情しこそすれ、その人をにくんだり、日本を誤解するような事はまったくありません。むしろこの出来事によって、日本全国の方々から大きな思いやりを寄せられ、また国民がおたがいに助け合うという日本人独特の精神を見る事が出来て本当にうれしく思います。」と。

以前のエントリーでヘレンが日本びいきだと書かせていただきましたが、ヘレンが日本を好きになったのは、こういう日本人の礼儀正しさ、誠実さに感激したことも理由の一つだと僕は思います。


3 忍び寄る戦争そして再来日

 しかし、ヘレンの来日から3ヶ月後の1937年(昭和12年)7月7日、日中戦争がおこります。日米関係もますます悪くなります。ヘレンも憲兵から「アメリカのスパイじゃないか」とにらまれてしまいます。そんなヘレンを見かねて、岩橋はアメリカにすぐに帰国をさせます。

その後もヘレンと岩橋は文通を続けたそうです。しかし、日米関係がこじれるにつれて、二人の手紙を通した交流も次第に途絶とだえてしまいます。当時はケータイもメールもなかった時代でしたから・・・

それでも1941年(昭和16年)6月19日、日米開戦前にヘレンは岩橋に手紙を送りました。

「親愛なるタケオへ。世界はいかりとなみだの場になりつつあります。おたがいの国をどのような不幸がおそっても、私たちはそのわざわいの中から美と力を生み出しましょう」と手紙に書かれていたそうです。

1941年12月8日、真珠湾攻撃しんじゅわんこうげきがはじまり、いよいよ日本とアメリカの戦争が始まりました。ヘレンと岩橋の二人のやりとりはなくなりました。そして、岩橋も戦争協力をする羽目になります。あの時代は言論の自由などなく、戦争に反対すれば大変な目にあうような時代ですからね・・・

1945年に終戦。岩橋はさっそくヘレンに「広島・長崎のためにも、ぜひ日本に来て欲しい」と手紙を書きました。するとヘレンはOKしました。ヘレンは昭和23年、再び日本に訪れます。

そしてヘレンと岩橋は11年ぶりに再会を果たします。ヘレンは岩橋に会うなり「タケオ」と呼び、涙を流しながらふたりはだきあったようです。ヘレンは広島、長崎に訪れました。広島に訪れたヘレンはこのように述べています。

「それは本当にショッキングな光景でした。人々は苦しみにもがきながらも、自分たちの傷については何も言いませんでした。これほどまでにたましいをゆさぶられたことはありません」

ヘレンは昭和30年にも日本に訪れましたが、この時も日本人から大変な歓迎かんげいを受けたそうです。その時のニュース動画があるのです。ありがたいことに、このブログをご覧になってくださっている方から教えていただきました。ありがとうございます!


https://www.youtube.com/watch?v=l3ok8H4LBRE



※1 日本とアメリカがおたがいに知りあって仲良くすること

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※ おまけ


今年もお世話になりました。来年もどうぞよろしくお願いします。来年も良いお年を。ワンちゃんの動画をみて2018年にお別れします。





※ 参考
この記事は、「その時歴史が動いた」と「歴史秘話ヒストリア」の両番組のヘレン・ケラーの回を参考にして書きました。


その時歴史が動いた〈14〉
その時歴史が動いた〈14〉


(この記事はウィキペディアとヤフー知恵袋を参考にしました。)

前回のエントリで『勧進帳』かんじんちょうのお話をしましたが、今日は12月14日ということで『忠臣蔵』ちゅうしんぐらにまつわるお話しをします。

大石内蔵助おおいしくらのすけが、吉良邸討きらていうち入りのために江戸に向かいました。



大石内蔵助は垣見五郎兵衛(かきみ ごろべえ)というニセの名前を使っていました。


ところが、東海道にある宿で大石は本物の垣見五郎兵衛とばったり出くわします。

当然、本物の垣見はおこります。「オレの名前を勝手に使うんじゃねえ!」

一方で、大石も負けていません。「何言っていやがる。オレこそ本物の垣見五郎兵衛だ!」と。

垣見は「お前が本当に垣見五郎兵衛なら、通行許可書(手形)をみせよ」と大石にせまります。

そこで、大石は『勧進帳』の故事こじにならって白紙の通行許可書(通行手形)を見せます。白紙の許可書をみた垣見は「『勧進帳』のマネをして許してもらおうなんてそうはいかねえぜ!」って思った事でしょう。

で、垣見が長持(通行許可書を入れる木箱)をみたところ、長持に浅野家の家紋かもんがありました。その家紋をみた垣見は大石の気持ちをおもって、目になみだかべながら「これを使ってください。そして、本望を成し遂げてください。」といって自分の許可書をわたしてしまいます。

あだ討ちをして、主君の無念を晴らそうとしている大石らの心意気に垣見は感動したのでしょう。

これが『忠臣蔵』の「東くだり」のエピソードです。垣見五郎兵衛の男意気に感動しますね。

と言いたいところですが、実は「大石の東くだり」のエピソードは史実ではありません。「大石の東くだり」は映画や歌舞伎かぶきに出てくる作り話だそうです。垣見五郎兵衛は実在の人物のようですが。

大石が垣見五郎兵衛と名乗って江戸へ向かった可能性は考えられますが、本物の垣見五郎兵衛と大石がかちあったことを裏付ける資料はないのです。






みなさんは、歌舞伎かぶきの「勧進帳かんじんちょう」という演目をご存じでしょうか。平家を倒した後、源頼朝みなもとのよりとも源義経みなもとのよしつねは対立をするようになります。源頼朝に追われた源義経たち一行が山伏の姿をして(※1)東北の平泉へ向かいました。その途中とちゅう、今の石川県にあった安宅あたかの関を守っていた富樫 泰家とがし やすいえ「ちょっと待て!お前は義経じゃないのか!?」と足止めされてしまいます。

それで、義経の家来だった弁慶べんけい機転きてんかせ、勧進帳(※2)の巻物を読み上げるのです。その巻物は白紙なのですが、弁慶は勧進帳の内容を暗記していたので、すらすらと読み上げるのです。しかし、富樫はまだ怪しみます。


それで弁慶はなんと義経をぼうでひっぱだくのです。「お前が義経に似ているから疑われたじゃないか!」って。それで富樫が「もうよい、そなたたちが義経ではない事はようわかった」と、疑いの目が晴れて義経一行は通ることができたと言うのです。もちろん、弁慶は義経に対して、棒でたたいた事を泣いてわびたそうです。普通だったら怒りますよね。でも、義経はそんな弁慶のとっさの機転と彼の忠義をねぎらったそうです。

一方の富樫は、山伏の一行の正体が義経達だと知っていながら、弁慶の主君を思う心に感服して関所を通ることを許したというのが、「安宅の関」のエピソードです。感動的なエピソードですね。といいたいところですが、この話は作り話みたいです。

でも、義経が割とスムーズに東北へ行けたのはまぎれもない事実。当時は関所なんてなかったという意見もあれば、義経一行は船で東北に行ったという説もあります。それどころか、頼朝はわざと義経を東北へ行かせるために、義経の東北行きを見逃したのではないかって仮説をたてる人もいるくらい。 義経が藤原家に,げ延びれば、義経をつこともできるし、奥州の地も手に入れることができるという、頼朝にとってまさに一石二鳥な話ですしね。

※1 修験道しゅげんどうの行者。金剛づえ・ほら貝などを持ち、特定の山に登って修行するひとたちのこと。
※2 お寺に寄付をつのるお願いが書いてある巻物。弁慶が読み上げた勧進帳の内容は、奈良の大仏再建するための寄付のお願い

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1 映画と違った現実の世界


 今日は『サウンド・オブ・ミュージック』について。『サウンド・オブ・ミュージック』といえばアカデミー賞を受賞した映画で、ごらんになられた方もいらっしゃるかと。この映画の主人公であるマリアと、夫のトラップとその子供たちは、オーストリアの豊かな自然の中で歌を楽しみ、楽しく平和にくらしていたが、ナチスが現れ、一家は亡命をしてしまうというストーリーです。あのオーストリアの美しい自然、トラップ一家の温かい家族愛に僕も感動をしました

しかし、この映画の世界観と、当時のオーストリアの現実は異なっていたそうです。

第一次世界大戦後のオーストリアはゴタゴタしていて経済力もダウンしてきました。失業率も20パーセントを、ウヨクっぽい政治家が力をつけてきたのです。議会制(※1)は停止、左翼政党さよくせいとうも解党、労働組合も解散させられたのです。なんと!オーストリアにもナチスが誕生し、非合法(※2)ながら勢力をのばしていたのです。オーストリア・ナチは反乱をおこし首相を暗殺してしまったようです・・・

そしてヒトラー率いるナチスが本格的にオーストリアに進出しました。その時、ほとんどのオーストリア国民は抵抗ていこうするどころか、ヒトラーを歓迎かんげいしたのです。そんなことはこの映画には一切出てきません。それどころか、ナチスの野蛮やばんさばかりが映画では強調されています。僕がオーストリアがナチスを支持したを知ったのはこの映画ではなく、NHKのドキュメンタリー番組の『映像の世紀』でした。

また、意外なことですが『サウンド・オブ・ミュージック』は長らくオーストリア国内で上映されなかったそうです。もっとも2011年になってルツブルグという町にて上映されたようですが。若いオーストリア人は、この『サウンド・オブ・ミュージック』を知らず、年配の人はこの映画を不快がるそうです。年配の方がこの映画を良く思わない理由の一つは、この映画が戦前のオーストリアを擁護ようごする映画とみなされているからでしょう。

それは、映画の中のパーティ―でトラップが着た服装ふくそうの首につけた徽章きしょうは古いファシズムを表す徽章きしょうなのです。そんなファシズムの象徴しょうちょうのようなものを身に着けるなんてとんでもないというのが古いオーストリア人の言い分なのでしょう。日本に例えれば「七生報国(しちしょうほうこく)」と書かれたハチマキをしめた俳優がひんしゅくを買うようなものです。

それに、『サウンド・オブ・ミュージック』がトラップがいい人のようにえがかれています。しかし、オーストリアの年配の人たちからみると、ファシストなトラップを美化しているようにしか見えないのです。日本に例えれば東条英機を美化する映画のような感覚なのでしょう。


この映画はアメリカで作られたものであり、オーストリアの映画ではありません。従いましてオーストリアのプロパガンダ映画ではありません。が、この映画は結果的に「オーストリアはナチスにおどかされたかわいそうな国」だと世界に広めてしまったのです。

戦後、オーストリアは永世中立国になりましたが、同時に「自分達はナチスの犠牲者ぎせいしゃで、今は世界平和のために貢献こうけんしているという認識も持っていたようです。自分達がナチスに協力した事をあいまいにし、悪い事は全てナチスのせいにしてきたのでしょう。もちろん、当時のオーストリア人の中にはナチスに反発する人も少なからずいましたが。






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1 大統領選をひかえ
 前回まで数回にわたってイスラエルとパレスチナの歴史を振り返ってみましたが、今日はアメリカとイスラエルの関係にふれます。今年はアメリカの大統領選があります。

ちなみに、今回の大統領選挙の共和党候補こうほ者のトランプ氏はかつてイスラエルを「アメリカの最も信頼できる友」としており、「我々は100%、イスラエルのために戦う。1000%戦う。」と大変おそろしいことをいってました。

じゃあ民主党候補こうほのヒラリー氏なら安心かと思うと油断は禁物です。歴代のアメリカ大統領は概ねイスラエルに肩入れしましたし。結局どっちが勝っても中東に住むアラブ人にとっては厳しい状況になるかもしれません。

それにしても歴代のアメリカ大統領がなぜここまでイスラエルに対して肩入れするのでしょう?それはアメリカに住んでいるユダヤ人たちの圧力団体が、イスラエルに不利なことに対しては公共・民間をとわず猛烈もうれつなロビー活動や糾弾きゅうだん運動を展開するからです。実際イスラエルを批判して政治生命を絶たれた政治家もいたといいます。また、大統領選挙においてユダヤ系団体のまとめる組織票も無視できないのですよね。

2 アメリカにわたったユダヤ人
 ユダヤ人がアメリカに初めて渡ったのは16世紀後半だといわれております。そのアメリカに初めてわたったユダヤ人はオランダからきたといいます。オランダからユダヤ人がはじめて渡ったところがニューアムステルダム、いまのニューヨークです。

その後、東ヨーロッパやドイツ出身のユダヤ人の大陸移住がすすみ、1880年以降はロシアなどからユダヤ人がアメリカにやってきます。ロシアでポグラムというユダヤ人弾圧がひどくなって、それを逃れてアメリカにやってきたのでしょう。

そうして現在アメリカに住むユダヤ人は500万人とも600万人ともいわれておりますが、アメリカの人口3億1905万人ということを考えると、そんなに多いわけじゃないのですね。けれど、アメリカに住んでいるユダヤ人の3分の1がニューヨーク州に住み、さらにニューヨーク市民の4人に一人がユダヤ人だといわれております。ニューヨーク市といえば、アメリカいや世界の経済の中心です。ユダヤ人は金融きんゆうに強い人が多いですから、当然ニューヨーク(特にウォール街)でも大きな力を持てるのでしょう。

3 ネオコンについて
 ここでネオコンの話に切り替えます。ネオコンとイスラエルは大きな関係があるのです。ネオコンとは寝言・オナニー・コンプレックスの略ネオ・コンサーバティブ(新保守主義)の略です。彼らの多くはユダヤ系アメリカ人で、第二次世界大戦から戦後にかけては過激左派だったのですが、1967年、第三次中東戦争でイスラエルが全パレスチナを占領していたのを、国連安保理こくれんあんぽりが「占領地からでていきなさい」と勧告かんこくしてからネオコンは変わったのです。

そのことにブチ切れたネオコンたちは反国連主義になり、イスラエルが全パレスチナを支配するためなら、戦争をおそれず、全世界を「アメリカ型民主主義」に変えなければいけないと主張しはじめたのです。イスラエルの近隣諸国きんりんしょこくに、「少しでもイスラエルとアメリカにさからう国家を許しては世界の平和はない」というのです。

ネオコンとイスラエルの関係をもっともはっきり表している文書が『完全な断絶・イスラエルの領土保全のための新戦略』(1996年に発表)というレポートです。その内容は、オスロ合意を完全に破棄はきし、パレスチナ人を徹底的に屈服させる「力による平和」以外にイスラエル国家の選ぶ道はないとうものです。このレポートは在米シオニストのリチャード・パールなどのネオコンが起草し、イスラエルの首相だったシャロンもパールの方針に従って、ネオコン路線をつきすすんだのです。

4 利権
 『完全な断絶』が発表された翌年の1997年、このレポートの起草者であるリチャード・パールなどのネオコンが中心になって共和党保守派とともに「アメリカ新世紀プロジェクト(PNAC)」というシンクタンクを結成し、「軍事力を増強し、先制攻撃をさずにアメリカの国益と価値観を世界に広げるべし」と主張しております。

PNACのメンバーにはチェイニー元副大統領やラムズフェルド元国防長官、ジェブ・ブッシュ(ブッシュ元大統領の弟で今回の大統領選挙の候補に名乗りを上げたが撤退)やアフガニスタン戦争で石油利権をめぐって暗躍あんやくした人物などが名を連ねています。

アメリカがイラクに攻め込んだのも、フセインを倒し、アメリカに忠実な傀儡政府かいらいせいふ(※1)をつくれば、石油資源支配のためにも、中東の中心部に米軍基地がおいてアメリカ・イスラエルに批判的ひはんてきな国や勢力ににらみを利かせることもできるという点でも、イスラエルとアメリカにとってこれほどうまい話はありません。

※1 表面上は独立した政権であるが、影で他国など他の勢力に操られ、それらの強い支配や統制に置かれている政権のこと。


※参考文献

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