今日はイスラエルと戦ったエジプトのナセル大統領のお話をします。かれは1956年の第二次中東戦争と1967年の第三次中東戦争にかかわり、イスラエルと戦いました。戦争の結果を先に申し上げますと、第二次中東戦争はイスラエルに勝利したものの、第三次中東戦争はまけてしまいます。
1 ナセルの登場
エジプトは、戦前からイギリスの意向を受けた立憲君主制のエジプト王国に支配されていましたが、1952年、ナセル達自由将校団による革命が成功し、国王を追い出し、共和制を宣言します。54年、ナセルは首相(のちに大統領)になり、汎アラブ主義(※1)を掲げました。ナセルは他のアラブ諸国と手を組み、イスラエル包囲網をつくろうとしました。
1955年になるとナセルはソ連から武器を購入し、中華人民共和国とも国交を樹立します。こうした社会主義陣営に近づくことで、アメリカなどと対抗しようとナセルは考えたのでしょう。
(ナセル大統領)
さらにナセルはスエズ運河の国有化を宣言しました。それは1956年のできごとです。スエズ運河の株主の大多数はイギリス人、フランス人でした。まさに欧米諸国による植民地政策への挑戦ともいえましょう。
当然、イギリスとフランスはこれを認めず、イスラエルもこれに同調しました。
2 第二次中東戦争と、うまくいかない汎アラブ主義
1956年10月末、イスラエル軍のシナイ半島侵攻をきっかけに、イギリスとフランスもエジプト攻撃をはじめました。いわゆる第二次中東戦争です。アメリカ大統領アイゼンハワーは、アメリカとの打ち合わせもないまま戦争に持ちこんだ英仏に露骨な不信感をしましました。なにしろアイゼンハワーは大統領選挙を目前に控えておりまして、そんな時にソ連がしゃしゃり出てきてソ連が参戦なんてことになっては困ると思っていたのです。そして国連総会でイギリス・フランス・イスラエル軍がエジプトから撤退することを決められてしまいます。
アメリカが助けてくれるだろうと思っていたイギリス・フランス・イスラエルにとってアメリカが協力しないことは誤算だったのです。三国は開戦してまもなくエジプトから撤回してしまいます。このことにナセル大統領は得意満面でした。
この第二次中東戦争で勝利し、ナセルの汎アラブ主義は広まるかと思われました。ところが、国家同士の利害が対立してなかなかことはうまくいきません。たとえば、1963年にイラクとシリアで革命がおこって、両国でバース党という政党が権力を握りました。ちなみに、バースといっても阪神にいたバースと今の日ハムにいるバース投手とは関係ありませんw
両国のバース党は名前だけでなく、アラブ統一という同じ理念をもった政党なのですが、石油資源をもつイラクと持たないシリアの間で対立が起こってしまったのです。そしてお互いに暗殺を繰り返すようになったのです。
3 第三次中東戦争とイスラエルの非道
それでもエジプトはシリアと軍事同盟を結び、イスラエルをけん制しました。シナイ半島には国連緊急軍が配備されていたのですが、それを1967年に国連緊急軍を撤退させ、イスラエルの戦艦を締め出すためにアカバ湾に通ずるチラン海峡を封鎖しました。シリア・ヨルダンもイスラエルの国境に迫り、さらにソ連も無言の圧力をイスラエルに加えております。これだけの軍備力があればイスラエルをねじふせることができるとナセルは思ったのでしょう。
ところが、イスラエルがエジプトおよび、エジプトと組んでいたシリア、ヨルダンを打ち破ってしまいます。この戦争はたったの6日で終わってしまい、イスラエルは、ヨルダン川西側地区、ガザ地区、ゴラン高原、シナイ半島を占領してしまいます。いわゆる第三次中東戦争です。この敗戦はナセルにとってもショックでしたが、パレスチナ人にとってもはてしなくつらく、苦しい歴史に再出発となった戦争でもありました。
こんなことをしたイスラエルに国際的非難はなかったのでしょうか?確かに国連は戦争の解決のために会議を重ねますが、ユダヤ・ロビーを抱えるアメリカのイスラエル寄りの態度のためになかなか結論がでません。戦争終結から半年ちかくかかって、ようやく国連の決議で「イスラエルは占領した領土から軍隊をひきあげなさい」と決められます。ところが、イスラエルはシナイ半島以外の土地をいまだに占領し続けております。
(第三次中東戦争でイスラエルが占領した地域。地図でいえばHELD BYなんちゃらかんちゃらで塗られている部分が第三次中東戦争で占領した地域。いかに広大な地域を占領したかがうかがえます。)
※ おまけ
第三次中東戦争の動画がみつかりました。ナセル大統領の姿もみえます。
※1 中東における国家を超えたアラブ民族の連帯をめざす思想運動。
※ 参考資料
1 ナセルの登場
エジプトは、戦前からイギリスの意向を受けた立憲君主制のエジプト王国に支配されていましたが、1952年、ナセル達自由将校団による革命が成功し、国王を追い出し、共和制を宣言します。54年、ナセルは首相(のちに大統領)になり、汎アラブ主義(※1)を掲げました。ナセルは他のアラブ諸国と手を組み、イスラエル包囲網をつくろうとしました。
1955年になるとナセルはソ連から武器を購入し、中華人民共和国とも国交を樹立します。こうした社会主義陣営に近づくことで、アメリカなどと対抗しようとナセルは考えたのでしょう。
(ナセル大統領)
さらにナセルはスエズ運河の国有化を宣言しました。それは1956年のできごとです。スエズ運河の株主の大多数はイギリス人、フランス人でした。まさに欧米諸国による植民地政策への挑戦ともいえましょう。
当然、イギリスとフランスはこれを認めず、イスラエルもこれに同調しました。
2 第二次中東戦争と、うまくいかない汎アラブ主義
1956年10月末、イスラエル軍のシナイ半島侵攻をきっかけに、イギリスとフランスもエジプト攻撃をはじめました。いわゆる第二次中東戦争です。アメリカ大統領アイゼンハワーは、アメリカとの打ち合わせもないまま戦争に持ちこんだ英仏に露骨な不信感をしましました。なにしろアイゼンハワーは大統領選挙を目前に控えておりまして、そんな時にソ連がしゃしゃり出てきてソ連が参戦なんてことになっては困ると思っていたのです。そして国連総会でイギリス・フランス・イスラエル軍がエジプトから撤退することを決められてしまいます。
アメリカが助けてくれるだろうと思っていたイギリス・フランス・イスラエルにとってアメリカが協力しないことは誤算だったのです。三国は開戦してまもなくエジプトから撤回してしまいます。このことにナセル大統領は得意満面でした。
この第二次中東戦争で勝利し、ナセルの汎アラブ主義は広まるかと思われました。ところが、国家同士の利害が対立してなかなかことはうまくいきません。たとえば、1963年にイラクとシリアで革命がおこって、両国でバース党という政党が権力を握りました。ちなみに、バースといっても阪神にいたバースと今の日ハムにいるバース投手とは関係ありませんw
両国のバース党は名前だけでなく、アラブ統一という同じ理念をもった政党なのですが、石油資源をもつイラクと持たないシリアの間で対立が起こってしまったのです。そしてお互いに暗殺を繰り返すようになったのです。
3 第三次中東戦争とイスラエルの非道
それでもエジプトはシリアと軍事同盟を結び、イスラエルをけん制しました。シナイ半島には国連緊急軍が配備されていたのですが、それを1967年に国連緊急軍を撤退させ、イスラエルの戦艦を締め出すためにアカバ湾に通ずるチラン海峡を封鎖しました。シリア・ヨルダンもイスラエルの国境に迫り、さらにソ連も無言の圧力をイスラエルに加えております。これだけの軍備力があればイスラエルをねじふせることができるとナセルは思ったのでしょう。
ところが、イスラエルがエジプトおよび、エジプトと組んでいたシリア、ヨルダンを打ち破ってしまいます。この戦争はたったの6日で終わってしまい、イスラエルは、ヨルダン川西側地区、ガザ地区、ゴラン高原、シナイ半島を占領してしまいます。いわゆる第三次中東戦争です。この敗戦はナセルにとってもショックでしたが、パレスチナ人にとってもはてしなくつらく、苦しい歴史に再出発となった戦争でもありました。
こんなことをしたイスラエルに国際的非難はなかったのでしょうか?確かに国連は戦争の解決のために会議を重ねますが、ユダヤ・ロビーを抱えるアメリカのイスラエル寄りの態度のためになかなか結論がでません。戦争終結から半年ちかくかかって、ようやく国連の決議で「イスラエルは占領した領土から軍隊をひきあげなさい」と決められます。ところが、イスラエルはシナイ半島以外の土地をいまだに占領し続けております。
(第三次中東戦争でイスラエルが占領した地域。地図でいえばHELD BYなんちゃらかんちゃらで塗られている部分が第三次中東戦争で占領した地域。いかに広大な地域を占領したかがうかがえます。)
※ おまけ
第三次中東戦争の動画がみつかりました。ナセル大統領の姿もみえます。
※1 中東における国家を超えたアラブ民族の連帯をめざす思想運動。
※ 参考資料