昨日の続きです。江戸時代、琉球王国りゅうきゅうおうこく薩摩さつまの支配を受けながらも、独立国としてのプライドは保ってきました。が、明治時代になってからそれが変わっていく・・・3回目の今日は、琉球王国が明治政府によってほろぼされるという、そんなお話をします。
1 副島との約束

 廃藩置県はいはんちけんの次の年、当時の外務卿がいむきょうだった副島種臣(そえじまたねおみ)が琉球の視察団を東京に呼び寄せたそうです。

「琉球国王を以後、琉球藩王りゅうきゅうはんしゅとする」という政府の方針に琉球の視察団はおどろきました。琉球は中国(清)との関係を保ってきたが、その関係が明治政府によって打ち切られようとしたのだから。これには琉球も困り果てました。

それで、副島は一つの提案をしました。それは「琉球の国体・政体永久に相変わらず」としました。つまり「琉球はこれまでどおり中国(清)と仲良くしてOKですよ」って約束したのです。琉球王国を一気に解体させれば、琉球はもとより、琉球と関係のあった清の強い反発が予想されたからです。明治政府は一気に解体させるのではなく琉球王国を徐々に解体させるつもりだったのです。

2 日本、琉球を日本領と認めさせる
 1871年、那覇ナハから宮古島ミヤコジマに向かう途中の船が台湾に流れ着き、琉球人の乗組員69名のうち54名が地元住民に殺害されるという事件が起こりました。当然、日本は清にその責任を問いただしました。「どうしてくれるんだ!」って。しかし、清は「台湾は未開の地で、清の支配の及ばぬところであるから、俺たちには関係ない」って無視したのですね。清のこうした態度に日本政府は怒りました。

それで、1874年、琉球人殺害を口実に約3600名の軍隊を台湾に出兵させました。日本と清が戦争になる、ヤバイというところをイギリスが調停に入って大事には至らなかったのですが。そして、殺害された琉球人は日本人として認められ、清が50万両支払うことになり、日本軍は撤退しました。日本政府は、この事件によって「やった、琉球は俺たちの日本領土だと清が認めた」と解釈したのですね。それで、日本政府は心置きなく琉球王国の解体に乗り出したのです。しかし、清はそうはとらなかったのです。それが、両国の間でしこりが残ってしまったのですね。



3 明治政府の方向転換ほうこうてんかん 
当時の政府の実力者の大久保利通は琉球を清から切りはなし、日本の一部にしよう(帰属きぞく)と考えました。

1875年、大久保の命を受けて松田道之(まつだみちゆき)という若い,ruby>官僚かんりょうが琉球に訪れました。松田道之は琉球側と色々と交渉こうしょうしましたが、あくまでも清との関係、そして自分達の自立を保ちたい琉球側は首を縦にりません。

はじめは琉球の国体(清との結びつき)を保ってもいいですよと琉球王国と約束したのに、後になってそれはダメだと主張する明治政府。約束をしておいて後になって破るとはムゴイ話です。消費税をあげませんと約束しておいて、選挙が終わったら「消費税を上げる」とうそぶく政治家に似てますw

琉球との交渉は難航なんこうしました。交渉の責任者だった松田は血をいたそうです。琉球と明治政府の板ばさみは苦しいが、かといって手ぶらで帰る訳にはいかない。そりゃストレスたまりますわ。交渉は進まぬまま松田は琉球を去ってしまいます。琉球は明治政府との論戦に勝ったって事でしょう。しかし、「これで勝ったと思うなよ!」と思ったのがエリート官僚の松田道之のしたたかなところ。
 
そしてみなさん、いよいよ今日のその時がやってまいりますw

帰国した松田は、政府に「琉球りゅうきゅうは、はなはだしく無礼で不法である」と報告し、「無礼であるから武力を使ってでも制圧すべき」と進言したのです。ヒドイねえ・・


1879年、松田は琉球処分官という肩書きで、警察や兵士600人を従え、琉球にやってきました。そして琉球国王のいる首里城しゅりじょうを取り囲んだそうです。こうした威圧いあつに軍隊を持たなかった琉球はなすすべもありません。

こうして琉球藩は廃止され沖縄県となり、琉球王国は完全にほろびました・・・いわゆる琉球処分です。琉球という呼称が沖縄に改められたのは、琉球という言葉自体が中国に属する地域という意味合いを持っていたからです。琉球という言葉は中国の古い文献にもあるくらいでしたから。一方の「沖縄」という言葉は、ウチナーという琉球語が語源のようで、「オキナワ」という言葉は「平家物語」にも出てくるとか。それで琉球という呼称をやめましょうということになたtのですね。

琉球王は華族として東京に移り住むことを義務付けられ、代わって日本政府から鍋島直彬ナベシマナオヨシが派遣されたのです。

4 沖縄県が設置されてから
 沖縄県が設置されましたが、それを快く思わなかったのが清です。また沖縄から清へ亡命した人々が盛んに救援を求めていたこともあり、沖縄をめぐって日本と清との対立は深まるばかりでした。そこで清はグラント前アメリカ大統領にこの問題の調停を頼みました。グラントは日本にも訪問し、伊東博文らと会談し、「ちとは清の要求を聞いたほうがいいよ」って提案したのです。そしてグラントは以下のような提案を清に持ちかけました。


  • 沖縄以北を日本領、宮古島や八重山諸島を清国領とする

  •  
  • その代わり、1871年に締結テイケツされた日清修好条規の中に、日本人が
     欧米の商人と同じように清国内d通称ができるような条文を追加する。 





これで清がこの案を受け入れていたら宮古島や八重山諸島が中国の領土になっていた可能性があるのです。すると観光地として人気の高い宮古島に行くのにもパスポートが必要な事態になっていたかもしれません。しかし、清国はこれにNO!と言いました。それでこの問題は棚上げになり、結局、日清戦争で台湾が日本の植民地となると、この問題はたち消えになったのです。

日本は琉球王国を犠牲ぎせいにすることで近代国家の道を歩み続けました。でも、19世紀当時はむごい弱肉強食の国際情勢でした。それで植民地を支配する事が当たり前の時代。明治政府の対応はある意味仕方がなかったとも僕は思います。

一方で、このような明治政府の対応が、沖縄おきなわの人たちの日本国本土(沖縄の方言でいえばヤマトンチュー)に対する不信にもつながっているのだと考えられます。

ちなみに琉球処分で名をあげた?松田道之(まつだみちゆき)は東京府知事になりました。しかし、彼は43さいの若さで亡くなったそうな。

しかし、琉球処分で日本の支配下になった事をなげいた人間も沖縄にいました。そのお話はこちらです。

http://blog.livedoor.jp/seimei1128-rekishi/archives/1445186.html

オマケ 

 暗くて深刻な話が続いたので、琉球の音楽をいて息抜いきぬきに。



* 参考文献




これならわかる沖縄の歴史Q&A〔第2版〕
楳澤 和夫
大月書店
2020-05-25