(直江兼続のヨロイの写真。ウィキペディアより)
直江兼続(なおえかねつぐ)といって連想されるのは、ヨロイカブトのでっかい「愛」の字です。この「愛」は民を愛する「愛民の精神」の「愛」を意味するのでしょうか?
それは直江兼続本人に聞いて見なきゃわかりませんがw、どうもこの「愛」の字は「愛民」の愛というよりも、軍神である愛宕権現あるいは愛染明王の一字から取った可能性が大きいそうですね。
なにしろ戦国時代ですからねえ。戦国武将は、カブトの前立てに神仏の像や神号・仏号を用いた例が多いそうです。戦に勝つためのゲンかつぎorお守りみたいなものでしょうか?
といっても、直江兼続が血もナミダも無い人物だったわけじゃありません。直江兼続は米沢にてよい政治をおこなったそうですね。暮らしむきの安定と生産性の向上を図る治水事業も行いました。武士達には、掘っ立て小屋に住まわせながら荒地を開いてソバや豆を植え、野菜をつくるという生活を直江兼続はすすめました。
また、直江兼続は米沢の地にウコギを持ちこんだ人物で知られています。
ウコギの葉は乾かせば茶の代用になり、その根を乾かして煎じれば薬となり、幹にはするどいトゲがあるからドロボーよけにもなるという便利な植物です。
そのウコギを武士の家々の垣根にウコギを植えさせる事をすすめました。
さらに武士の屋敷の庭にはクリ、かき、あんず、イチジクなども植えさせました。他にも染料となるベニバナなどの栽培もすすめました。
直江兼続は文化人でもありました。豊臣秀吉(とよとみひでよし)の朝鮮出兵の際には多くの本を集めたり、印刷技術も朝鮮から持ち込んだそうです。
直江兼続は米沢に禅林寺(宝泉寺)というお寺もつくりました。そのお寺に禅林文庫というものをつくりました。
そこには直江兼続が集めた本がいくつもあります。禅林文庫は藩士の教育に役立てるためにつくったものですが、これが後の藩校「興譲館」設立にもつながったそうですね。他にも直江兼続は連歌や漢詩にも通じていたようですね。
※ 写真はウィキペディアより引用しました。
※参考文献
直江兼続のすべて
直江兼続の生涯―義に生きた天下の智将 (別冊歴史読本 23)
コメント
コメント一覧 (2)
直江兼続、彼のすごさは関ヶ原で敗れた後にありますね。
潰れてもおかしくなかった上杉家を守り、そのために直江の家も潰した。
主家を窮地に追い込んだという意味では軍師としては失格かもしれませんが、その後の身の処し方や活躍は見事です。
やはり、兜の愛の字は、愛宕地蔵や愛染明王から取ったと考える方が自然でしょうか?
直江兼続は、確か長男が若くして亡くなったそうですね。かといって養子をもらったりせず、そのために直江家は断絶してしまいましたが、上杉家を守った事、米沢を豊かにしました。桃源児様が仰るとおり、彼の功績は素晴らしいと思います。
またのお越しを心よりお待ち申し上げます。