男運のない?川島芳子 前編
前編の続きです。今日は芳子が付き合った3人の男を紹介します。田中隆吉と多田駿そして伊東ハンニです。あいにく伊東ハンニの写真だけは見つからなくて、田中と多田の写真だけを紹介します。
(田中隆吉の写真。ウィキペディアより。)
(多田駿の写真。ウィキペディアより)
1 田中隆吉(たなかりゅうきち)との出合い
昭和五年、芳子は上海で田中隆吉と出会いました。田中は、戦後になって軍部の暴露本を出しております。題は『敗因を衝く―軍閥専横の実相』。僕も昔読んだことがあって、へえ田中隆吉って勇気あるなって本を読んで感心したのですが、彼はもともとは東條の茶坊主だっで、いろいろな工作に関わった当事者にもかかわらず、東京裁判の時は他人事のようにかつての上司や同僚たちを糾弾し始めたことををのちに知りました。それから、僕はこの人の評価が変わりました。
事実「田中だけは絶対に許さない!化けて出てやる!」と呪いの言葉を吐いて死んでいった人もいたそうです。そんな調子だから田中は「日本のユダ」とも呼ばれたとか。ともかく評判の悪かった田中でありましたが、一方で戦後になって自殺未遂をしているのですね。その時の遺書にはこのようなことが書かれておりました。
日本の軍閥の一員として大東亜戦争中に死すべき身を今日迄生き長らへたるは小生の素志に反し、何とも申し訳なし。
既往を顧みれば我も亦確かに有力なる戦犯の一人なり。殊に北支、満州においてしかり。免れて晏如たること能はず。
田中も責任は感じていたのですね。
戦時中の田中隆吉の仕事は上海における諜報(※1)活動でした。田中は芳子をスパイとして育て上げる一方で、芳子と田中は男女の関係にまで発展したのです。
諜報活動といえば、芳子と田中が、昭和7年に起きた上海事変(※2)にも関わっていたといいます。なんでも、この事件の脚本を書いたのが田中で、川島が関東軍から渡された軍資金2万円を使って反日中国人をあおって、日本人の坊さんを襲おそ わせたとか。
しかし、芳子と田中の2人の仲はだんだん冷えていき、しばしば口ゲンカするようになったため田中と芳子はとうとう別れてしまいます・・・
2 多田駿(ただはやお)との出合い
お次は多田駿について。多田は陸軍大将にまで上りつめた人物で、日中戦争中は日本と中国が仲良くすることをのぞみ、東条英機(とうじょうひでき)とも対立しました。また、多田は中国における日本人が暴力をふるうことをやめさせる訓示やパンフレットを作るなど中国人からも一目を置かれたような人物でした。
芳子はそんな多田の事をパパとよんだそうです。何しろ50代の多田に20代の川島芳子と親子ほど年の離れた年の差カップルですから。
多田が満州国軍政部最高顧問を務めていたころ、多田は芳子の監督者であり、よきおじさんであったそうです。この時期(昭和7年〜9年ごろ)の芳子にとって多田と芳子は公私にわたるパートナーでした。
多田と芳子の只ならぬ関係に田中隆吉も焼きイモじゃなかったwヤキモチをやいたほど。もっとも、川島芳子に利用価値がないと感じ始めると、多田は「芳子を暗殺せよ」と命令を出したと言われています。
多田もひでえことをするなと思いますが、芳子は芳子でひどいことをしているのです。実は多田と付き合っていた時も、他の男に「ねえ、私のお相手をつとめてくださらない?」って誘惑したそうです。芳子はどうもセックス依存症だったといわれております。
3伊東ハン二
芳子は伊東(いとう)ハンニという男とも付き合っていました。彼の本名は松尾正直(まつおまさなお)。株でもうけた人で、派手なパフォーマンスをやっていました。芳子とハンニは、結婚までウワサされたほどの仲でした。
もっとも芳子はハンニが好きだったというより、ハンニがお金持ちだったから近づいたのです。芳子の養父・川島浪速(かわしまなにわ)の古希(※3)のお祝いにかかったお金もハンニが出したそうです。ハンニが詐欺事件や右翼結社とのつながりが原因で逮捕されてしまうと、芳子はハンニとあっさり縁を切ってしまいます。要するに金の切れ目が縁の切れ目ってやつでしょう
※1 敵情をひそかに探って知らせること。ようするにスパイ
※2 中国にいた日蓮宗の坊さんたちが中国人労働者達におそわれる事件
※3 数え年の七十歳の称。
次回の記事はこちら
http://ehatov1896-rekishi.doorblog.jp/archives/2086998.html
※ 参考文献
評伝 川島芳子―男装のエトランゼ (文春新書)
クチコミを見る
敗因を衝く―軍閥専横の実相 (中公文庫 R 29) [文庫]
前編の続きです。今日は芳子が付き合った3人の男を紹介します。田中隆吉と多田駿そして伊東ハンニです。あいにく伊東ハンニの写真だけは見つからなくて、田中と多田の写真だけを紹介します。
(田中隆吉の写真。ウィキペディアより。)
1 田中隆吉(たなかりゅうきち)との出合い
昭和五年、芳子は上海で田中隆吉と出会いました。田中は、戦後になって軍部の暴露本を出しております。題は『敗因を衝く―軍閥専横の実相』。僕も昔読んだことがあって、へえ田中隆吉って勇気あるなって本を読んで感心したのですが、彼はもともとは東條の茶坊主だっで、いろいろな工作に関わった当事者にもかかわらず、東京裁判の時は他人事のようにかつての上司や同僚たちを糾弾し始めたことををのちに知りました。それから、僕はこの人の評価が変わりました。
事実「田中だけは絶対に許さない!化けて出てやる!」と呪いの言葉を吐いて死んでいった人もいたそうです。そんな調子だから田中は「日本のユダ」とも呼ばれたとか。ともかく評判の悪かった田中でありましたが、一方で戦後になって自殺未遂をしているのですね。その時の遺書にはこのようなことが書かれておりました。
日本の軍閥の一員として大東亜戦争中に死すべき身を今日迄生き長らへたるは小生の素志に反し、何とも申し訳なし。
既往を顧みれば我も亦確かに有力なる戦犯の一人なり。殊に北支、満州においてしかり。免れて晏如たること能はず。
田中も責任は感じていたのですね。
戦時中の田中隆吉の仕事は上海における諜報(※1)活動でした。田中は芳子をスパイとして育て上げる一方で、芳子と田中は男女の関係にまで発展したのです。
諜報活動といえば、芳子と田中が、昭和7年に起きた上海事変(※2)にも関わっていたといいます。なんでも、この事件の脚本を書いたのが田中で、川島が関東軍から渡された軍資金2万円を使って反日中国人をあおって、日本人の坊さんを襲
しかし、芳子と田中の2人の仲はだんだん冷えていき、しばしば口ゲンカするようになったため田中と芳子はとうとう別れてしまいます・・・
2 多田駿(ただはやお)との出合い
お次は多田駿について。多田は陸軍大将にまで上りつめた人物で、日中戦争中は日本と中国が仲良くすることをのぞみ、東条英機(とうじょうひでき)とも対立しました。また、多田は中国における日本人が暴力をふるうことをやめさせる訓示やパンフレットを作るなど中国人からも一目を置かれたような人物でした。
芳子はそんな多田の事をパパとよんだそうです。何しろ50代の多田に20代の川島芳子と親子ほど年の離れた年の差カップルですから。
多田が満州国軍政部最高顧問を務めていたころ、多田は芳子の監督者であり、よきおじさんであったそうです。この時期(昭和7年〜9年ごろ)の芳子にとって多田と芳子は公私にわたるパートナーでした。
多田と芳子の只ならぬ関係に田中隆吉も焼きイモじゃなかったwヤキモチをやいたほど。もっとも、川島芳子に利用価値がないと感じ始めると、多田は「芳子を暗殺せよ」と命令を出したと言われています。
多田もひでえことをするなと思いますが、芳子は芳子でひどいことをしているのです。実は多田と付き合っていた時も、他の男に「ねえ、私のお相手をつとめてくださらない?」って誘惑したそうです。芳子はどうもセックス依存症だったといわれております。
3伊東ハン二
芳子は伊東(いとう)ハンニという男とも付き合っていました。彼の本名は松尾正直(まつおまさなお)。株でもうけた人で、派手なパフォーマンスをやっていました。芳子とハンニは、結婚までウワサされたほどの仲でした。
もっとも芳子はハンニが好きだったというより、ハンニがお金持ちだったから近づいたのです。芳子の養父・川島浪速(かわしまなにわ)の古希(※3)のお祝いにかかったお金もハンニが出したそうです。ハンニが詐欺事件や右翼結社とのつながりが原因で逮捕されてしまうと、芳子はハンニとあっさり縁を切ってしまいます。要するに金の切れ目が縁の切れ目ってやつでしょう
※1 敵情をひそかに探って知らせること。ようするにスパイ
※2 中国にいた日蓮宗の坊さんたちが中国人労働者達におそわれる事件
※3 数え年の七十歳の称。
次回の記事はこちら
http://ehatov1896-rekishi.doorblog.jp/archives/2086998.html
※ 参考文献
評伝 川島芳子―男装のエトランゼ (文春新書)
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敗因を衝く―軍閥専横の実相 (中公文庫 R 29) [文庫]
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