今日から、4回にわたって五日市憲法いつかいちけんぽうのお話をします。
五日市憲法とは、東京の五日市(※1)の民権家みんけんかたちがつくった憲法草案けんぽうそうあん(憲法の下書き、原案)のことです。今日は憲法のお話を続けましょう。




1889年に出来た(施行しこうされたのは1890年)「大日本帝国憲法」は今の憲法とちがって、天皇が主権で、立法・行政・司法の三権が、すべて(形のうえでは)天皇に集中しており、国民の人権もあまり重んじられていなかったそうですね。

1889年といえば明治22年。明治政府が誕生たんじょうしたのは1868年ですから、明治政府が出来てからすぐに憲法が出来たわけではないのですね。そんな時代の中で、明治政府は次々と近代化政策を打ち出します。

しかし、近代化政策を行うにしても、お金がかかります。お金がかかるという事は、庶民しょみんにしわせがきます。重税じゅうぜいと言う形で。

ご一新で生活がラクになると期待していたが、庶民しょみんのくらしは一向にラクにならない。さらに薩長土肥さっちょうどひによる藩閥政権はんばつせいけん専制せんせいにウンザリする人も出てきました。今で言えば、自民党に見切りを付けて、民主党に投票したが、民主党は体たらくで、「なんだ自民党と代わらないジャン」とか「自民よりヒドイ」とガッカリしたような感じでしょうか。

で、「国を何とかしたい!」と立ち上がったのが民権家と呼ばれる熱い人たちがいました。今じゃ考えられないことですが、明治時代の初期は国会などありませんでした。

「だから、国会を開かなきゃダメだ」と思う人も少なくなかったのです。

しかし、国会を開くには憲法が必要。民権家たちは外国の憲法を学び、いろいろと憲法の草案を作ったそうです。その草案の数は日本に40以上あるとか。そういった、一般人がつくった憲法草案の事を私擬憲法しぎけんぽうというそうです。五日市憲法もそんな私擬憲法の一つ。この五日市憲法作成は千葉卓三郎(ちばたくざぶろう)という人物が中心になって行われました。千葉卓三郎とはどのような人物か?それは次回にとりあげます。



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※1 現在の東京都あきる野市五日市地域あたりのこと。明治のはじめころは神奈川県の管轄かんかつだったが、1893年以降は東京府に編入へんにゅうれ、そして1943年に東京都制が施行しこう(東京府と東京市が統合)され、東京都西多摩郡五日市町とうきょうとにしたまぐんいつかいちちょうとなる。1995年に、東京都秋川市とうきょうとあきかわし合併がっぺいし、現在の東京都あきる野市となる。


※ オマケ

あきる野市(旧五日市市)は温泉もあり、秋川渓谷あきかわけいこく渓谷美けいこくびもありと、東京とは思えない豊かな自然に恵まれたところです。

今日は、五日市のお祭りの動画を。


(五日市憲法碑文)