サウンド・オブ・ミュージック 製作45周年記念HDニューマスター版 [DVD]
ジュリー・アンドリュース
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
2012-12-19




1 映画と違った現実の世界


 今日は『サウンド・オブ・ミュージック』について。『サウンド・オブ・ミュージック』といえばアカデミー賞を受賞した映画で、ごらんになられた方もいらっしゃるかと。この映画の主人公であるマリアと、夫のトラップとその子供たちは、オーストリアの豊かな自然の中で歌を楽しみ、楽しく平和にくらしていたが、ナチスが現れ、一家は亡命をしてしまうというストーリーです。あのオーストリアの美しい自然、トラップ一家の温かい家族愛に僕も感動をしました

しかし、この映画の世界観と、当時のオーストリアの現実は異なっていたそうです。

第一次世界大戦後のオーストリアはゴタゴタしていて経済力もダウンしてきました。失業率も20パーセントを、ウヨクっぽい政治家が力をつけてきたのです。議会制(※1)は停止、左翼政党さよくせいとうも解党、労働組合も解散させられたのです。なんと!オーストリアにもナチスが誕生し、非合法(※2)ながら勢力をのばしていたのです。オーストリア・ナチは反乱をおこし首相を暗殺してしまったようです・・・

そしてヒトラー率いるナチスが本格的にオーストリアに進出しました。その時、ほとんどのオーストリア国民は抵抗ていこうするどころか、ヒトラーを歓迎かんげいしたのです。そんなことはこの映画には一切出てきません。それどころか、ナチスの野蛮やばんさばかりが映画では強調されています。僕がオーストリアがナチスを支持したを知ったのはこの映画ではなく、NHKのドキュメンタリー番組の『映像の世紀』でした。

また、意外なことですが『サウンド・オブ・ミュージック』は長らくオーストリア国内で上映されなかったそうです。もっとも2011年になってルツブルグという町にて上映されたようですが。若いオーストリア人は、この『サウンド・オブ・ミュージック』を知らず、年配の人はこの映画を不快がるそうです。年配の方がこの映画を良く思わない理由の一つは、この映画が戦前のオーストリアを擁護ようごする映画とみなされているからでしょう。

それは、映画の中のパーティ―でトラップが着た服装ふくそうの首につけた徽章きしょうは古いファシズムを表す徽章きしょうなのです。そんなファシズムの象徴しょうちょうのようなものを身に着けるなんてとんでもないというのが古いオーストリア人の言い分なのでしょう。日本に例えれば「七生報国(しちしょうほうこく)」と書かれたハチマキをしめた俳優がひんしゅくを買うようなものです。

それに、『サウンド・オブ・ミュージック』がトラップがいい人のようにえがかれています。しかし、オーストリアの年配の人たちからみると、ファシストなトラップを美化しているようにしか見えないのです。日本に例えれば東条英機を美化する映画のような感覚なのでしょう。


この映画はアメリカで作られたものであり、オーストリアの映画ではありません。従いましてオーストリアのプロパガンダ映画ではありません。が、この映画は結果的に「オーストリアはナチスにおどかされたかわいそうな国」だと世界に広めてしまったのです。

戦後、オーストリアは永世中立国になりましたが、同時に「自分達はナチスの犠牲者ぎせいしゃで、今は世界平和のために貢献こうけんしているという認識も持っていたようです。自分達がナチスに協力した事をあいまいにし、悪い事は全てナチスのせいにしてきたのでしょう。もちろん、当時のオーストリア人の中にはナチスに反発する人も少なからずいましたが。






2 トラップとマリア
 この映画に出てくるマリアは実在の人物です。マリアは1905年にオーストリアのチロル地方で生まれました。生まれたところがなんと汽車の中です。それはマリアの母が汽車に乗って病院に行く途中のことでした。しかし、マリアの両親はマリアが幼い時に亡くなります。そして、叔父に引き取られましたが、叔父はマリアに何かと辛く当たり、それこそDVを受けたのです。それでマリアは「こんな家から出て行ってやる」と、必死で勉強し教師になることを目指しました。マリアは14歳で家を飛び出し、アルバイトをしながらウィーンの教員養成学校に通いました。ウィーンは音楽の都。そんな環境の中で、マリアは音楽に慣れ親しんだと言います。教員養成学校を卒業したマリアですが、なぜかマリアは修道女を志します。

マリアはキリスト教に対しては反発していたのですが、音楽が元々好きで、教会のミサに参列しては、ミサで歌われる讃美歌にうっとりしていたのですね。音楽を通して、マリアは信仰の道に入っていたのですね。そしてマリアはノンベルク修道院に入りました。ノンベルク修道院(※3)は厳格で有名でした。しかし、あれもダメ、これもダメという規則ずくめな環境に、自由奔放な性格のマリアにとっては辛いものでした。そんなある日、マリアは修道院長に呼ばれます。それは、ゲオルク・フォン・トラップの娘さんの家庭教師をしてほしいという依頼でした。トラップの娘は病弱で、学校を休んでいたのです。しかし、数年前にトラップは奥さんを亡くしており、さみしい思いをしていました。1926年、マリアはトラップの家に訪れ、家庭教師をしました。マリアは勉強だけでなく、子どもたちに音楽を教えました。それがのちにトラップ一家合唱団になるのです。

ゲオルク・フォン・トラップも実在の人物です。彼は、1880年にオーストリア=ハンガリー帝国に生まれました。幼くして父をなくし、母親に育てられました。成長して海軍に入隊し、潜水艦センスイカンの艦長になりました。中国で起こった義和団事件や第一次世界大戦で活躍し、勲章クンショウをもらったほど。またゲオルクは音楽が好きで、ヴァイオリンが得意でした。トラップ一家合唱団でもトラップはヴァイオリンを弾きました。ゲオルクの先妻のアガーテもピアノが得意でした。ゲオルクの子供たちの音楽センスも両親から受け継がれたものなのですね。そして、ゲオルクはマリアと結婚をします。

そのゲオルクはシュシュニックというオーストリア首相を支持していました。けれど、このシュシュニックという人物はウヨク的な政治をおこなっていたそうです。シュシュニックの写真を見たけれど、いかにも悪いことをしそうな感じのひとだなあw?

トラップ一家が亡命したのは、オーストリア支配をめぐるナチスとの権力闘争けんりょくとうそうに敗れたからだそうです。それで、シュシュニック首相がヒトラーと対立し、シュシュニックは強制収容所に入れられてしまったのです。シュシュニック派だったゲオルクはげるしかなかったのですね。つまりヒトラーもシュシュニックも対立しているけれど、どちらもウヨでファシストであることには違いはないのですね。


もちろん、ゲオルクはヒトラーのやり方に反発していたことは事実。ゲオルクに、ドイツ軍潜水艦の艦長の話が来たのですが、ゲオルクはこれを拒否。また、医者になりたてのゲオルクの長男ルーペルトもナチスのために医者として働けって話が来たのですが、やはりルーペルとは拒否。映画ではゲオルクがナチスのやりかたにさからったのは平和主義者だったからみたいな描き方でしたが実際は違うのですね・・・

また、映画ではゲオルクは厳しい父親として描かれておりますが、実際は優しい人だったそうです。そのため、トラップ一家は映画に不満を持っていたそうです。

3 トラップ一家に冷たかった?祖国の人たち
 1938年の夏、トラップ一家はわずかな荷物を持って、ピクニックに行ったふりをして、イタリアへ向かい、そこからアメリカに渡りました。トラップ一家はオーストリアにいた頃から家族で合唱団をやっており、新天地アメリカでも合唱団をしながら生計を立てていたのです。文化も違うアメリカでトラップ一家合唱団は受け入れてもらえるかどうか?そんな心配をよそに、トラップ合唱団のことは雑誌や新聞で宣伝され、アメリカ各地で知られるようになり、コンサートは大盛況。

順風満帆ジュンプウマンパンのトラップ一家ですが、新たな問題が起こります。ビザの延長が認められず、そしてヨーロッパに戻り、ヨーロッパ各地に転々と渡り歩いたのです。滞在できるのは数ヶ月だけ。その生活は厳しいものでした。そして故郷のオーストリアにも滞在しました。しかし、トラップ一家を見る故郷の人たちの眼差しは冷たいものでした。「何しにきた」「裏切り者」「スパイじゃないのか」って言われる始末。祖国の人たちは冷たく、もはやトラップ一家にとってオーストリアは自分達の居場所ではなくなりました。 

そしてトラップ一家はなんとかアメリカに戻ることができたのです。しかし時代が悪く第二次世界大戦が始まってしまいました。トラップ一家の長男と次男にも招集命令がきてしまいます。残った家族で合唱団を続けました。そして戦争が終わって長男と次男が戻ってきたのです。

そして、マリアは新聞でナチス側についたオーストリアの惨状を知りショックを受けます。オーストリアでは多くの人が家を失い、飢えや寒さで亡くなってしまったのですね。1947年、マリアたちはコンサートや新聞やテレビのインタビューでオーストリアの惨状を訴え、オーストリへの寄付を募りました。そうして集まった物資は合計120トンを超えたとか。そうしてトラップ一家は1948年にアメリカ市民権を得て、一家はついにアメリカ人となりました。

しかし、トラップ一家のそうした善意にも関わらず、祖国の人たちは相変わらず冷たかった。祖国を捨て、アメリカ人になったトラップ一家に対する反発が少なからずオーストリア人の中にあったのではないかと。そうした話はどこの国にもありまして。ある日本人の若者が日本を離れ、アメリカに渡ろうとしたら、「日本を捨てるのか」と嫌味を言われたという話も聞いたことがあります。僕は別にいいじゃんって思うのですが、それと同じようなものでしょうか。『サウンド・オブ・ミュージック』がオーストリアで不人気だったのは、そうしたことも理由のひとつかもしれない。


トラップ大佐x-Georgvontrapp

(トラップ ウィキペディアより)

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(マリア  Wikipediaより)

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(シュシュニック首相。ウィキペディアより)





※ おまけ

ゲオルクは1947年に、マリアは1987年に亡くなりました。そしてゲオルクとマリアの子供たちもどんどん鬼籍に入りました。しかし、トラップ一家のスピリッツは今も生き残っております。トラップ一家の次男の孫たちが「フォン・トラップ・シンガーズ」を結成し、いろいろな国で音楽活動を行なっております。








※1 主権を持った国民から選ばれた代表から構成される議会を中心に行われる民主政治。
※2 法律で決めていることに違反すること。ここでは、当時のオーストリア国内でナチスが活動することが禁止されていた
*3 オーストリアのザルツブルクにある。ベネディクト会と呼ばれるキリスト教の組織によって1300年ほど前に作られた女子修道院。ここの修道院では食事と寝る時間を除いては、4〜5時間ほどの祈りと、6〜7時間の労働が行われ、私語厳禁など色々厳しい決まりがあった。



※ 参考文献