※ この記事は、「青木村に見る義民の伝統」および「青木村歴史文化資料館」のパンフレットを参考にしました。
1 五つの一揆があった青木村
江戸時代の百姓一揆を、全国的な統計数字でみると、国別の第一位はなんと信濃だそうです。信濃の中で藩別一位はなんと上田藩だそうです。一位といいましても、何ともありがたくない一位ではあります。
え?なんでもいいから一位になることはいいことだってw?う〜ん、昔どこかの雑誌で「明日にも消えそうなお笑い芸人」という読者アンケートで惜しくも?二位になってしまった芸人さんが少し悔しそうにそのようなことを言っていましたねw
それはともかくw、その上田藩の領地の中で特に百姓一揆が多かったのが、現在の青木村に入っている村々なのです。(※1)
そのため「夕立と騒動は青木から」という言葉が言い伝えられております。
同じ村で五つも一揆がおこることは大珍しいことだそうです。
※1 奈良本村・沓掛村(くつかけむら)・夫神村(おかみむら)・殿戸村(とのどむら)・田沢村(たざわむら)などなど
2 5つの農民一揆のあらまし
天和2年(1682年)、作物が実らない年が3年も続いたのにもかかわらず、庄屋は年貢を多く取り立てて、横領したり役人へのワイロに使ったそうです。増田与兵衛は庄屋のやりたい放題を藩主の仙石政明に越訴(※2)しました。役人の調べで訴えが事実であることが証明され、多く取り立てられた年貢は百姓に返されたそうです。しかし、掟によって増田与兵衛は子供とともに処刑されました。
享保の義民 平林新七
中挟村(なかばさみむら)の西上というところは古くから検地が入らないところだったのですが、しきたりを無視した役人が検地を強行したので組頭の新七は、止めるように願いでました。
しかし、役人には聞き入れようとせず、新七は役人をカマで切り殺そうとしました。もちろん処罰をされることを覚悟の上で。藩主は役人の無法を認め、中挟村には年額45俵の減免が言い渡されました。それは享保6年(1721年)の出来事です。
宝暦義民(上田騒動)
上田騒動につきましては前編で書かせていただいたので説明を省略させていただきますが、宝暦11年(1761年)におこった大規模な一揆です。
http://ehatov1896-rekishi.doorblog.jp/archives/2195532.html
(上田騒動について 前編)
文化の義民 堀内勇吉
文化6年(1809年)、入奈良本の百姓が訴願するため上田城下にやってきました。なぜかって?庄屋が悪いことばかりしているからです。
城下町の問屋や庄屋と話し合いの結果、願書を奉行所に差し出すことになりました。問屋や庄屋は表ざたにならないよう、うちうちに終わらせようと努力しました。しかし、勇吉以下の数名の百姓は納得しませんでした。
奉行所で約一年にわたる吟味の結果、百姓たちの願いはとおりましたが、百姓たちにも重い刑罰が下り、勇吉は永牢の罪(※3)になり、勇吉は牢屋の中で亡くなったそうです・・・
明治2年騒動
なんと、一揆は明治時代にもおこったのです。
一揆というと室町〜江戸時代のイメージがありますが、明治にもあったのですね。明治二年(1869年)、入奈良本から百姓一揆が起こりました。その一揆勢の数は数千人にもおよぶといいます。
一揆勢は、上田城下に乱入しました。一揆勢は藩当局に強訴するとともに、商店まで打ち壊しました。
上田藩は一揆勢の要求を受け入れるとともに、一揆を主導した6人を処分しました。その中に九朗右衛門という人物がいたのですが、彼が主犯としてさらし首にされたそうです。
この打ちこわしの嵐は上田のみならず、お隣の松本領や松代領にもおよび、ドミノ式に打ちこわしがおこったといわれております。
※2 江戸時代、管轄の役所・役人を越えて上級の官司に提訴したこと。今でいう直談判
※3 死ぬまで牢屋に閉じ込められること。今でいう無期懲役
3 受け継がれる一揆の歴史
これらの一揆はそれぞれが無関係におこったわけではありません。先祖たちのスピリッツを受け継ぎ、悪政と戦おうという伝統が青木村にあったのでしょう。
つまり「オレたちが領主様たちにひどい目にあわされたら、泣き寝入りをしてはいけない」「そういう時こそ、力を合わせて戦おう」という精神です。
上からひどい目にあわされても黙って耐え忍ぶべきとか、時が解決してくれるからガマンしようとか、いわゆる「長いものにまかれよ」ではなく、悪に立ちむかう人だっていたのです。今でいう倍返しをやっていたのでしょうか。
でも、一揆をおこすということは、農民たちにとってとてもリスクの高いことです。そんなことをすれば、首謀者は殺されてしまいます。しかし、ここの農民たちは、みんながよりよい生活ができることを願って、不正に立ち向かったのです。自らの命を犠牲にしてまで、みんなの幸せのために戦う。これはなかなかできることではありません。
1 五つの一揆があった青木村
江戸時代の百姓一揆を、全国的な統計数字でみると、国別の第一位はなんと信濃だそうです。信濃の中で藩別一位はなんと上田藩だそうです。一位といいましても、何ともありがたくない一位ではあります。
え?なんでもいいから一位になることはいいことだってw?う〜ん、昔どこかの雑誌で「明日にも消えそうなお笑い芸人」という読者アンケートで惜しくも?二位になってしまった芸人さんが少し悔しそうにそのようなことを言っていましたねw
それはともかくw、その上田藩の領地の中で特に百姓一揆が多かったのが、現在の青木村に入っている村々なのです。(※1)
そのため「夕立と騒動は青木から」という言葉が言い伝えられております。
同じ村で五つも一揆がおこることは大珍しいことだそうです。
※1 奈良本村・沓掛村(くつかけむら)・夫神村(おかみむら)・殿戸村(とのどむら)・田沢村(たざわむら)などなど
2 5つの農民一揆のあらまし
- 天和の義民 増田与兵衛
天和2年(1682年)、作物が実らない年が3年も続いたのにもかかわらず、庄屋は年貢を多く取り立てて、横領したり役人へのワイロに使ったそうです。増田与兵衛は庄屋のやりたい放題を藩主の仙石政明に越訴(※2)しました。役人の調べで訴えが事実であることが証明され、多く取り立てられた年貢は百姓に返されたそうです。しかし、掟によって増田与兵衛は子供とともに処刑されました。
中挟村(なかばさみむら)の西上というところは古くから検地が入らないところだったのですが、しきたりを無視した役人が検地を強行したので組頭の新七は、止めるように願いでました。
しかし、役人には聞き入れようとせず、新七は役人をカマで切り殺そうとしました。もちろん処罰をされることを覚悟の上で。藩主は役人の無法を認め、中挟村には年額45俵の減免が言い渡されました。それは享保6年(1721年)の出来事です。
上田騒動につきましては前編で書かせていただいたので説明を省略させていただきますが、宝暦11年(1761年)におこった大規模な一揆です。
http://ehatov1896-rekishi.doorblog.jp/archives/2195532.html
(上田騒動について 前編)
文化6年(1809年)、入奈良本の百姓が訴願するため上田城下にやってきました。なぜかって?庄屋が悪いことばかりしているからです。
城下町の問屋や庄屋と話し合いの結果、願書を奉行所に差し出すことになりました。問屋や庄屋は表ざたにならないよう、うちうちに終わらせようと努力しました。しかし、勇吉以下の数名の百姓は納得しませんでした。
奉行所で約一年にわたる吟味の結果、百姓たちの願いはとおりましたが、百姓たちにも重い刑罰が下り、勇吉は永牢の罪(※3)になり、勇吉は牢屋の中で亡くなったそうです・・・
なんと、一揆は明治時代にもおこったのです。
一揆というと室町〜江戸時代のイメージがありますが、明治にもあったのですね。明治二年(1869年)、入奈良本から百姓一揆が起こりました。その一揆勢の数は数千人にもおよぶといいます。
一揆勢は、上田城下に乱入しました。一揆勢は藩当局に強訴するとともに、商店まで打ち壊しました。
上田藩は一揆勢の要求を受け入れるとともに、一揆を主導した6人を処分しました。その中に九朗右衛門という人物がいたのですが、彼が主犯としてさらし首にされたそうです。
この打ちこわしの嵐は上田のみならず、お隣の松本領や松代領にもおよび、ドミノ式に打ちこわしがおこったといわれております。
※2 江戸時代、管轄の役所・役人を越えて上級の官司に提訴したこと。今でいう直談判
※3 死ぬまで牢屋に閉じ込められること。今でいう無期懲役
3 受け継がれる一揆の歴史
これらの一揆はそれぞれが無関係におこったわけではありません。先祖たちのスピリッツを受け継ぎ、悪政と戦おうという伝統が青木村にあったのでしょう。
つまり「オレたちが領主様たちにひどい目にあわされたら、泣き寝入りをしてはいけない」「そういう時こそ、力を合わせて戦おう」という精神です。
上からひどい目にあわされても黙って耐え忍ぶべきとか、時が解決してくれるからガマンしようとか、いわゆる「長いものにまかれよ」ではなく、悪に立ちむかう人だっていたのです。今でいう倍返しをやっていたのでしょうか。
でも、一揆をおこすということは、農民たちにとってとてもリスクの高いことです。そんなことをすれば、首謀者は殺されてしまいます。しかし、ここの農民たちは、みんながよりよい生活ができることを願って、不正に立ち向かったのです。自らの命を犠牲にしてまで、みんなの幸せのために戦う。これはなかなかできることではありません。
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