今年は終戦から70年という節目ふしめの年を迎えます。今年最後のエントリーは戦後70年企画ということで、日系アメリカ人の戦中と戦後について簡単かんたんではありますがお話をします。日系アメリカ人の人たちの苦労はそれは大変なものだったようです。

とくにパールハーバー以降、アメリカ大陸の太平洋岸諸州にいた日系人たちはアメリカ人たちに目のかたきにされてしまいます。日系人は太平洋戦争間もなくして大統領の命令により、臨時の収容所に強制的に移され、やがて山間部や砂ばく地帯につくられた施設に収容しゅうようされました。

収容所内にいた日系二世の若者たちは偏見へんけんの目で見られる一方で、1944年以降、徴兵ちょうへいの対象になったのです。これを日ごろバカにしているアメリカ人たちの見る目を変えるチャンスと思う若者がいる一方で、アメリカ人としての権利がうばわれている状況では徴兵におうじられないと、それを拒否する若者もいました。

一方のハワイにいる日系人は人数が多くハワイでは不可欠の働き者だったので、合衆国はハワイの日系人たちを収容所にいれることはしなかったといいます。そして、ハワイ在住の日系人にも徴兵されるようになります。

日系人の部隊は激戦地であるイタリア戦地に送られました。そのため犠牲ぎせいになった日系人も少なくありませんでした。日系人の部隊はいくつにも分かれていましたが、特に勇敢ゆうかんに戦った部隊は表彰状ひょうしょうじょうおくられました。

戦後になってトルーマン大統領が「あなた方は敵と戦っただけでなく偏見とも戦って勝った」たたえました。

議員として長く活躍かつやくしてきたダニエル・イノウエという人がいたようですが(僕も本を読んではじめてしりましたw)、かれも戦争で奮戦ふんせん負傷ふしょうした勇士でした。

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(陸軍少尉しょうい時代のイノウエ。ウィキペディアより)

日系人が忠誠ちゅうせいなアメリカ人として認められるためには、このような命をかけた戦場での奮戦が必要だったし、あるいはアメリカ人として忠誠をくす必要があったのです。

今年の春先に「紅白が生まれた日」というドラマを放送したのですが、その時ミュージシャンの星野源さん演じる日系人がGHQとして働きつつも、日本人としての心が捨てられず、なやむシーンが描かれておりましたっけ。自分には日本人の血が流れているのにアメリカ人として働かなくてはならない、そんな矛盾むじゅんした心境しんきょうに悩む日系人も多かったと思います。

一方で、食料不足で悩む日本国民のために、食料などの援助物資を送る運動を日系人たちが盛んに送る運動もしていたといいます。


私事になりますが、僕の母が小さいころに、GHQで働く日系人にケーキだとかお菓子かしだとかをいくつももらったという話も聞いたことがあります。

第二次世界大戦後のアメリカでは反日感情がうすくなり、差別のかべは低くなりました。そうして日系二世、三世たちは多くは教育の機会を得て、次第に社会的地位を得るようになりました。

そして戦時中に日系人という理由だけで収容所に強制収容した不当性をアメリカ議会に認めさせ、補償ほしょうを得ることができるようになりました。

議会は日系人強制収容所の根本的不正義をはっきりみとめ、生存する被害者に二万ドルを補償することを定めた日系人補償法が可決し、時の大統領のレーガン大統領の署名も得ました。それは1988年のことです。


※ おまけ

今年もあとわずかになりました。来年もみなさまにとって良いお年になりますように。今年の干支えとであるひつじの動画をどうぞ。



※ 参考文献