1 イギリスの委任統治領となったパレスチナ

 第一次世界大戦後、パレスチナはイギリスの支配する地域となりました。具体的にはイギリスの委任統治領いにんとうちりょうです。だれの委任を受けているといえば、それは国際連盟でした。連盟の委任を受けてのイギリスは、パレスチナの人々が独り立ちできるようになるまでの間、この土地を統治する形になりました。あからさまな植民地支配をするわけにはいかないので、委任統治という名目でイギリスはパレスチナを支配したのです。つまり、アラブ人とシオニストとの約束を守らずに、イギリスはパレスチナの地を自分のものにしてしまいました。

しかし、それでだまっていないのはシオニストたち。シオニストたちはバルフォア宣言を根拠に、ユダヤ人のパレスチナの移民を許可するようにイギリスに働きかけました。イギリスもしぶしぶそれにOKしました。またヨーロッパ諸国も自国のユダヤ人たちを追い出す良いチャンスだと思ったに違いありません。

そうやってユダヤ人たちが少しづつパレスチナにやってくるようになったのです。とはいってもヨーロッパに住むユダヤ人たちがみなパレスチナに行ったわけではないのです。多くのユダヤ人たちはヨーロッパでの生活を捨ててまでパレスチナに行きたいとは思いませんでした。

そりゃそうです。たとえば、僕は生まれも育ちも東京ですが、ひいおじいちゃんは北陸の出身です。で、いきなり役所から今の生活を捨てご先祖様のいる北陸に帰りなさいなんて言われたら困りますもの。



2 なげきのかべ事件とアラブの大蜂起だいほうき
 パレスチナにはすでにアラブ人たちがおりましたが、そこへユダヤ人たちが押し寄せるようになり、パレスチナ人とヨーロッパから移り住んできたユダヤ人との間で次第にもめごとが起こるようになります。1920年、パレスチナ人はエルサレムでユダヤ人に暴行を加え、これに対してユダヤ人が自警団じけいだんをつくって反撃し、双方で10人近い死者を含む数百人の負傷者を出す事件が起こりました。

これをきっかけにパレスチナ人とユダヤ人の争いが全土に広がり、ユダヤ人もパレスチナ人それぞれ100人くらいが死亡し、双方で数百人の重軽傷を負ったのです。

嘆きの壁事件から数年後の1936年に、「アラブの大蜂起」とよばれる激しい闘争とうそうが起こりました。パレスチナ人3000人、ユダヤ人100人あまり、取り押さえようとしたイギリス人の警官けいかんたち150人ちかくが犠牲ぎせいとなったのです。

こうもユダヤ人とパレスチナ人同士がもめごとを起こすので、イギリスは共存政策をあきらめ、パレスチナの土地を分割し、パレスチナ全土の20パーセントをユダヤの植民地区として分与する案をだします。

これにパレスチナ人たちは大反対です。さらに、1933年に政権をとったヒトラーによるユダヤ人迫害によってたくさんのユダヤ人たちがパレスチナに押し寄せます。1933年から1939年にパレスチナに移住したユダヤ人は44万に達したといいます。

3 マクドナルド白書
 ユダヤ人たちが次々とパレスチナに入植していくことにイギリス政府もさすがに困りました。ユダヤ人の入植制限にゅうしょくせいげんをもっと厳しくしなければダメだと思うようになりました。

1939年、イギリス政府は「マクドナルド白書」を発表しました。これは大手ファーストフードのマクドナルドの白書ではありませんよw、この白書はパレスチナ人の総人口の3分の1を上限としてユダヤ人のパレスチナ移住を制限するということが書かれたものです。

これにユダヤ人たちはイギリスのバルフォア宣言を無にするものだと激しく反発しました。とくにシオニストの活動家の強硬派きょうこうはたちは、暴力に訴えてでもパレスチナの土地をわがものにしようと、各地からユダヤ人をよびよせテロ組織を作ります。その辺のお話はまた次回に。


※ おまけ

今日は中東のゴタゴタの原点のような話をしました。人間生きていくうえである程度の欲望は必要かもしれないけれど、度をこした欲望は結局わが身をほろぼしてしまう、そんなことをパレスチナの歴史を調べているうちに改めて考えさせられました。今日は中村天風先生の言葉がつまった動画を。当時のパレスチナやイギリス政府に天風先生みたいな人がいたらなあって考えさせれれます。



※ 参考文献




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