きょうは、前回の記事にもちょろっと出てきた『往生要集おうじょうようしゅう』の内容についてお話します。これは源信とうお坊さんが、寛和元年(985年)に、浄土教の観点より、多くの仏教の経典や論書などから、極楽往生に関する重要な文章を集めた仏教書で、1部3巻からなるそうです。


この本には死んでから極楽に行くためには一心に仏を想い念仏の行をあげる以外に方法はないと説かれております。また、この書物で説かれた、地獄・極楽の観念、厭離穢土おんりえど欣求浄土ごんぐじょうどの精神は、貴族・庶民らにも普及し、後の文学思想にも大きな影響を与えたといいます。

ところで、厭離穢土おんりえど欣求浄土ごんぐじょうどなんて難しい言葉がでてきましたが、どういう意味でしょうか。僕もさっきウィキペディアで『往生要集』のことを調べて初めて知ったキーワードなのですがwww

厭離穢土おんりえどとは、「ONLYエド(はるみ)」とはイヤなことやつらいことが多いこのけが れたこの娑婆世界しゃばせかいを離れたいと願うことです。

欣求浄土ごんぐじょうどとは、このけがれた現実世界を離れて極楽浄土,すなわち仏の世界を,心から喜んで願い求めるという意味だそうです。

この二つのキーワードは対句でつかわれることが多いそうです。つまり、この世は嫌な世の中だから、さっさとこの世から離れ極楽浄土へ向かいましょうということで、この言葉をスローガンに集団自殺を奨励する人間が出てくるのではないか、そんなことを僕は心配しちゃうのですが、それはともかくとして。

実はこの「厭離穢土、欣求浄土」は戦国時代、徳川家康の馬印に用いられていたんですってね。僕もウィキペディアで知りましたwww


松平元康(後の徳川家康)は、桶狭間の戦いで今川義元討死の後、菩提寺である三河国大樹寺へと逃げのびたんですね。

「ああ、オレの人生真っ暗だ」と元康は嘆いて松平家の墓前で自害を試みるのですね。すると、13代住職の登誉とうよが「厭離穢土欣求浄土」と説き、切腹を思いとどまらせたと言われています。

つまり、戦国の世は、誰もが自己の欲望のためにつまらない戦ばかりしているから、国土が汚れまくっている。その穢土えんどを離れ、永遠に平和な浄土をねがい求めるならば、必ず仏の加護を得て事を成すと登誉とうよが家康にいったのですね。つまり、家康に己の欲望をギラギラさせて無益な殺りくがはびこるような世の中を終わらせ、平和な世の中をつくりなさいと登誉とうよは語ったのですね。

戦国時代というと「かっこいい」イメージがどうしてもあるのですが、その戦国時代をリアルに生きていた人間にとってはまさに生き地獄、本当にいやな時代だったのですね。だからこそ徳川家康は平和な世の中をつくろうと思ったのでしょう。「え、徳川家康だって戦争しまくったじゃん」という意見も出てきましたが、確かに家康もひどいことをしました。たとえば、1569年の遠江堀川城攻めで、家康は気賀一揆を老若男女撫で斬りにしたといいます。後で捕らえられ首をはねられた農民も合わせて千七百名が殺されています。

一方で家康は戦争で亡くなった人たち(自分が殺した人間)の供養も欠かさなかったともいいます。

おっと、『往生要集』の話からずれてしまいましたね、失礼。『往生要集』は,念仏の要旨と功徳を示しており、この本に書かれた地獄の描写は庶民の間にも影響を与えました。ちょっと『往生要集』に書かれた地獄については次回に語ります。