今日の記事は長いです。

今日の記事で言いたいことをざっくり言うと、「旧日本軍は兵たん(※1)を軽視している」、「物資の調達は、現地調達という考えが根強い」「それは人命軽視につながっている」です。


1 日本軍の戯れ歌

だれが歌いだしたのか不明ですが日本陸軍には、このような戯れ歌がありました。

輜重しちょう、輸卒が兵隊ならば、蝶々ちょうちょう蜻蛉とんぼも鳥のうち」


「輜重」とは、軍隊が必要とする兵器・糧食・被服などの総称のことで、輜重兵といえば、輸送に従事する部隊、兵士のことをいうそうです。「輸卒」もほぼ輸送に従事する兵隊という意味で間違いないでしょう。さきにあげたこの歌は陸軍が輸送を低く見ているということを揶揄やゆしたうたなのです。戦争において後方支援、物資輸送が勝敗を決定した例が多く、というかかのナポレオンが「作戦は兵たんに依存する」といったほど。

戦闘に必要な補給品は、武器、弾薬、食料、馬糧、医薬品、衛生材料、被服、自動車や飛行機に戦車などの修理に必要な部品などの資材が必要です。こうした資材を、第一線に必要なものを、必要なときに、必要な量を滞りなくおこなわければいけません。

しかし、日本陸軍には創設当初から、補給を軽視しておりました。戦闘が少しでも長引けば、弾薬や食料などが不足してしまうことは、戦争を知らない僕でさえわかることなのですが、残念ながら日本陸軍は輸送任務をもっとも下にみてしまったのです。

大東亜戦争で軍人・軍属の戦死者は約140万人いたそうですが、戦死者のうちじつに60パーセントが広義の餓死者だといわれているのです。そうした輸送軽視あるいは輸送を失敗した例は日清戦争や日露戦争、ガダルカナルの戦いでもみられたのですが、もっともひどかったのが悪名高きインパール作戦でしょう。

2 悪名高きインパール作戦
 「インド独立の志士チャンドラ・ボースに協力して在印英軍を駆逐する」、「援蒋えんしょうルートの遮断をする」とうのが目的だったようですが、この目的を達成することは大変無謀なことでした。なにしろビルマからインドのインパールまでは川幅600メートルのチンドゥイン河(しかも橋がない)や標高2000メートル級の山々がならぶアラカン山系をこえなければいけません。しかもわずか十数万の兵力とわずかな食料品では足りません。

ちなみに、インパール作戦を実行した第15軍には三つの師団があったのですが、この三つの師団(第15師団、第31師団、第33師団)を一か月動かすには食料、燃料、弾薬をあわせて一万5千トンくらいの補給物資が必要だったようです。しかし15軍が持っているトラックや馬の数では10分の1しか運べないのです。

補給ルートも問題でした。15軍の司令部はビルマ北部のメイミョウという所にありました。ビルマの港のラングーンからメイミョウに物資を運ぶには鉄道を使ったのですが、その鉄道も一本しかありません。またメイミョウからインパールにいけるルートも問題。トラックで通れる道も一本だけ。しかも雨が降れば道もぬかるんでしまいますし、インパールまで川や高い山、それからジャングルを通らなきゃいけません。

兵士たちは、もてるだけの弾薬、わずかに一、二週間分の食料だけでジャングルの奥地に入っていったのです。重火器、戦車などはないに等しく、武器といえば追撃砲、歩兵砲、重機関銃くらいのもので、それもほとんどがトラックではなく、人の肩や馬の背で運ばれていたのです。しかも、食料は補給ではなく、現地で調達するというもの。

3 上層部の反対もごり押し
日本軍がインパールを目指して動き始めると、イギリスの軍隊が激しく反撃をしました。最初のうちは日本軍も善戦し、英印第一軍を圧倒しましたが、次第に日本も不利になってきました。イギリス、オーストラリア、アメリカ軍が大量の輸送機を投入し、物資の空輸、空中投下をしたからです。これ以降、余裕がでてきた連合軍は、日本軍の後方を爆撃しただけでなく、小部隊を落下傘降下させ、もともと小規模だった日本軍補給部隊を攻撃しました。

日本の補給手段は人力と馬、あるいは牛を使っていただけでしたから、細々としたものでした。戦闘も2か月たつと、第一線で戦う兵士たちは、食料も弾薬も不足しはじめ、次第に英印軍におされてしまいます。そして10数万の日本軍兵士は、食料もないまま密林のなかをさまよい歩く状況に置かれてしまい、補給は完全にたえ、餓死する兵士も続出したのです。

広大なジャングル、100%ちかい湿度、数日間も降り続く雨、無数の毒ヘビや毒虫などが、食料も体力もない日本兵を襲ったのです。結局、日本は5万3000人の死傷者が出たといいます。

当然、このようなムチャな作戦に陸軍の上層部でも反対意見がでましたが、「わたしには神さまがついている」とのたまう牟田口廉也の熱弁に押される形で、この作戦は実行されてしまったのです。牟田口は無能といっても過言ではないのですが、口がうまく、上層部にゴマをすって出世したのです。こうした人物は上におべっかをつかい、下には高圧的に出る人が多いのです。

4 日清戦争でもみられた補給軽視
 しかし、これは牟田口に限ったことではなく、日本陸軍はどうも「兵隊がいて、小銃と弾さえあれば戦争ができる」という考え方と「糧は敵にる」という考え方が根強かったようです。

事実、日清戦争においても補給が軽んじられ、食料や衣類、薬品は現地調達で、牛や馬などの輸送手段も現地調達したのです。そのため、日清戦争で、朝鮮半島で日本軍が最初にやったことは、民衆から人手や物を強制的にとりあげでした。とつぜんやってきた外国の軍が、家畜や労働力、食料を奪われれば、地元の人も怒るわけです。こうした日本軍の態度が朝鮮人の反日感情を高めていったともいわれております。

しかし、補給、支援がままならない状況の中で、日本軍も食料不足からくる栄養失調、病気、脚気、そして衛生設備、病院施設、薬品の不足。これらの理由で多くの兵士が犠牲になったのです。日清戦争に関していえば、戦死したのが1130名に対し、病死したのがなんと1万1900名だというのだから驚きです。

また日露戦争後、1909年に刊行された『歩兵操点』には「兵たん(兵糧)が欠乏するのは当たり前である。後方からの推進補給がなくても、戦わなければならない」と書かれており、つまり「補給に頼るな!甘えるな!根性があれば何とかなる」と。







※1 戦場で後方に位置して、前線の部隊のために、軍需品・食糧・馬などの供給・補充や、後方連絡線の確保などを任務とする機関。その任務。



※ 参考文献









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