あけましておめでとうございます。今年もよいお年になりますように。

今年は酉年ということで、きょうは鶏にまつわるお話をします。

それでは、鶏インフルエンザの話を。うそうそ、新年早々縁起の悪そうな話はしませんw

鶏といえば英語でチキン、そしてチキンといえば、ケンタッキーフライドチキンのチキンはおいしいですよね。そう今日はケンタッキーフライド・チキンの創業者であるカーネル・サンダースのちょっといい話をします。

1985年、プロ野球で阪神タイガースが優勝したとき、阪神ファンがケンタッキーの店舗の前に飾ってあったカーネルサンダースの像を持ち出し、道頓堀の川に投げ込んだといいます。それから長いこと阪神は低迷して・・・・すみません、新年から変な話をしましたw

本題に入ります。


カーネル・サンダースの本名はハーランド・デーヴィッド・サンダースといいます。というか、僕はそのことを今日ウィキペディアをみて知りましたw


サンダースはケンタッキーの創業者でありますが、彼がケンタッキーをつくったのは、60代をすぎてからです。それまではいろいろな職業を転々としたようです。


サンダースは1890年にインディアナ州で生まれました。サンダースの父親はサンダースが6歳のときに亡くなり]、母親が工場で働きながらサンダースとその弟妹を育てたといいます。サンダースは10歳から農場に働きに出ています。学校は14歳で辞め、農場の手伝いや市電の車掌として働いたといいます。


16歳のときに年齢をごまかして陸軍に入隊し、軍人になり、キューバで勤務しました。彼の軍隊における経歴は一兵卒として終わっており、大佐(カーネル)どころか将校にすらなっていないそうです。1907年に除隊した後は、青年期にかけて様々な職業を渡り歩き、鉄道の機関車修理工、ボイラー係、機関助手、保線区員、保険外交員、フェリーボート、タイヤのセールスなど40種に上る職を転々としたといいます。職を転々とすると何をやらせても長続きしないとマイナスイメージがとられがちですが、たとえば歌手の森進一さんだって歌手になるまでは、いろいろな職業を転々としたわけですから、人生はわかりませんね。

30代後半にはケンタッキー州ニコラスビルでガソリンスタンドを経営するようになりますが、大恐慌のあおりを受けて倒産するなど、多くの波瀾を経験しました。

そしてサンダースは1930年代に再度ガソリンスタンドを経営しはじめ、そのガソリンスタンドにレストランを併設し、そのレストランの経営もするようになります。そのレストランの名前を「サンダース・カフェ」といったそうです。その「サンダース・カフェ」は成功をおさめたらしく、そのレストランの目玉商品がフライド・チキンです。このフライド・チキンがのちのケンタッキー・フライドチキンにつながっていくのです。

戦後になると、サンダースがおこしたレストランの売り上げが激減してしまいます。しかも60代になったサンダースにもらえる年金も微々たるものだったそうです。維持できなくなった店舗を売却しても負債の返済に消え、サンダースの財産はわずかとなってしまいました。現在日本でも下流老人が問題になっておりますが、サンダースもそんな状況になったのです。しかし、それでめげないのがサンダースのすごいところ。

そこでサンダースは、各地のレストランの経営者や従業員にフライドチキンの調理法を教えて歩合を得る(ロイヤリティ)という新しいビジネスモデル(フランチャイズ)を始めました。

しかし、60代のサンダースに相手をしてくれるような人はなかなか現れません。サンダースは売り込みをしても断られるばかり。なんと1009回も断られたといいます。

けれどサンダースはそれでもめげずに売り込みをし続け、少しづつロイヤリティを得ることができるようになったといいます。すごいですね。そんなサンダースが残した言葉がこちら

私がやったことなど、誰にもできる事だ。ポイントはただ一つ。心から『やろう』と思ったかどうかである。心が思わないことは、絶対に実現できない




(サンダースオリジナルのチキンの作り方)

※ こちらの記事はウィキペディアなど様々なサイトを参考にして書きました