1 松倉重政マツクラシゲマサ勝家カツイエ親子の圧政
 今日は、島原の乱の元凶となった松倉重政、勝家親子の圧政について触れます。この親子の政治はひどいものがありました。具体的にはこんな感じ。

  • 分不相応ブンフソウオウな壮大な島原城をつくり、城づくりにかり出された領民たちをこきつかった。しかも築城費用は領民負担。


  • 重い年貢を領民たちに課した。島原藩は本来4万石なのに、幕府に良い顔をしたくて10万石の年貢を請け負うと約束した。そのために領民たちが苦労した。自分たちができるキャパ以上の仕事を背負い込んでしまったのでしょう


  • 4万石の大名にしては立派すぎる4層5階の天守を備えた巨大な城を建てた。工事費も莫大だった。そのため重税がかけられ、人々は苦しんだ。秦の始皇帝みたい。 


  • 税金をとりまくった。家を建てれば囲炉裏銭いろりぜに、窓銭、棚銭、戸口銭とぐちせんをとられる。子供が生まれれば頭銭、死人が出れば穴銭という具合に。


  • 年貢を納めないものにはみのおどりの刑にした。これは蓑を頭と胴に結び付け、両手は綱で背後にかたくしばられる。そしてこのワラに火をつける。当然、蓑に火をつけられた領民は、「熱い、熱い」と叫んで苦しみのあまりに踊りだす。最悪の場合は焼死。


  • 反抗するものは逆さ吊りにして、指を切って額に十字の烙印ラクインを押す

  • 年貢を納めないものを「水牢ミズロウ」にとじこめた。これは、おおむね腰の高さほどの水に漬かっている牢屋に閉じ込める刑罰。見た目とは裏腹にかなり残酷な刑罰で、座ったり横になって休むことができず眠ることもできない状態に置かれ、そのうちに皮膚ヒフが水を吸い過ぎてふやけてしまい破れてしまうというもの。女だろうが子供だろうが容赦なし。中には何日も水につけられ死んだ妊婦もいたとか・


  • キリシタンの焼きゴテを顔に押し付ける・指を切断する・ムチうちをした。こどもまで海に投げこんだという・・・


  • 松倉氏がやったもっとも最悪なキリシタン弾圧は雲仙岳ウンゼンダケ拷問ごうもんだ。。雲仙からきだす湯をかけたり、手足をしばって硫黄が煮えたぎる熱湯の中へ投げ込んでは、また引き上げ、またその中へ投げ込む。それは恐ろしい地獄絵図だったという・・・


こうした残酷極まりない悪事は重政&勝家の親子二代にわたって20年間もおこなわれたというからひどい話です。どこかの国みたい。もしかして、松倉親子の今世は北◯鮮のキム親子か?って思います。しかし、松倉重政ははじめからこのような圧政をいたわけじゃありません。それどころか、松倉が島原の地に赴任して間もないころはキリシタンには黙認の姿勢をとっていたのです。


2 何が松倉重政を変えたのか

 松倉重政はもともとは大和国(和歌山県)の筒井家の家臣で、大阪の陣などの活躍で出世した人物です。それで、大和国(奈良県)五條藩ゴジョウハンの領主となりました。そこでは意外にも善政を敷いていたのですね。城下の振興をはかり、商人を集める為に紀州街道沿いに「新町」を開設して商業と交通の要衝となる五條の礎を築いたのです。松倉重政が「豊後守」を名のったことから「豊後様」として高い評価をうけており、彼の功績をたたえた祭りまで行われたというからオドロキです。

それから五條から島原藩へと領地替えをしたのですが、そこで松倉はワルになった。初めは好青年だったアナキン・スカイウォーカーが、ダークサイドに落ちて悪人になったダース・ベイダーのよう。どうして松倉が悪さをするようになったかというと、これは幕府にも責任があるのですね。時の将軍徳川家光が、松倉重政にたいしてキリシタンに対して甘すぎると叱責シッセキをしたのですね。それで松倉はだんだん悪政を行うようになったようです。

また、江戸幕府は参勤交代をはじめました。これは妻子を江戸の屋敷に預け、江戸まで将軍に謁見えっけんをするというものですが、これが大名にとって大きな負担でした。江戸までの旅費が莫大でした。何しろ何日下手すりゃ何週間もかけて、それも家臣をふくめ大ぜいで江戸までいくのですから。それはお金がかかります。大名一人が飛行機か新幹線にのって帰るのとは訳がちがいます。松倉家の治める島原藩は江戸から離れているから大変だったと思いますよ。松倉親子ばかりが悪いのではないのですね。

3 人命が粗末に扱われた時代
 松倉親子に限らず、江戸時代初期のころの大名たちは領民を粗末ソマツにあつかっておりました。もう人権なってあったものじゃない。領民たちは牛馬のようにこき使われており、高い年貢もとられ領民たちは貧しい生活を強いられ、今でいうワーキングプア状態だったようです。当然、反発する領民も出てくるわけです。しかし、これを領主たちが黙認するはずがありません。

たとえば、東北のある大名家が過酷な年貢を農民に課し、え兼ね農民たちが直訴をしたのですね。そのことを藩主が家老に「どうしたものか」とタズねたら、家老は「いざとなったらすべて”なで切り”にしてやるから大丈夫です」と答えたといいます。なで切りとは稲をなぎ倒すように、すべてを切り殺すという意味で、いざとなったら皆殺しにしてやると当時の領主たちは考えていたのです。

また、水戸藩主だった徳川家も自国の領民を皆殺しにしたといいます。水戸藩の領地内に生瀬なませ村という村(いまの茨城県太子だいご町にあった)があって、そこの重い年貢に耐えかねた領民が徒党を組んだが、水戸藩に弾圧され女こどもまで皆殺しにされ、現代でもその村の後は地獄谷とよばれ、地元の人も近寄らないといわれております。いわゆる生瀬の乱です。


※ おまけ
雲仙の地獄の様子を紹介する動画をどうぞ。



※ 参考文献