1 母の日にこの歌
 先週の日曜日は母の日でした。わたくしごとになりますが、僕の母は数年前に亡くなっております。今日は母の命日です。もっと親孝行をすればよかったと悔やまれますが、僕がこれから一生懸命生きて、ささやかでも幸せな人生を送れば、母は喜んでくれるかもしれないと僕は思っております。

今日は、母にまつわる歌の中から岸壁がんぺきの母」のお話をします。この曲はもともとは菊池章子さんが歌っておりましたが、昭和47年には二葉百合子さんがセリフ入りでカヴァーされました。菊池章子さんはすでに亡くなられましたが、二葉百合子さんは引退されたものの、最近歌番組でちょくちょく出演され、この「岸壁の母」をお歌いになっております。この間の「うたコン」では80代後半とは思えないほどの素晴らしい歌声を披露されておりました。

第二次世界大戦後、ソ連による抑留から解放され、引揚船ひきあげせんで帰ってくる息子の帰りを待つ母親たちがいました。ソ連からの引揚船が着くたびにいつでも見られた光景でしたが、時間の経過とともに、毎回、同じような顔ぶれの人が桟橋さんばしの脇に立つ姿が見受けられるようになり、これがいつしか人々の目に止まり、マスコミによって「岸壁の母」として取り上げられ、たちまち有名になりました。

毎回のように桟橋に立ち、息子さんの帰りを待った母親の一人が端野いせさんでした。彼女のそうした息子をまつ姿は映画や歌のモデルになりました。


2 岸壁の母のモデル

 端野いせさんは1899年に生まれ、 1981年にお亡くなりになりました。明治32年(1899年)9月15日、石川県に生まれ、青函連絡船せいかんれんらくせんの乗組員の端野清松さんと結婚し、娘とともに函館で暮らしていましたが、昭和5年(1930年)ごろに夫と娘を相次いで亡くしました。家主で函館の資産家であった橋本家から新二さんを養子にもらい昭和6年(1931年)に上京しました。「岸壁の母」のモデルの親子は実の母子ではなかったのですね。僕もウィキペディアで初めて知りました。血のつながりがなくても、大切に新二さんを育てた、いせさんの深い愛を感じます。

新二さんは立教大学を中退し、高等商船学校を目指すのですが、軍人を志し昭和19年(1944年)満洲国に渡り予備士官学校よびしかんがっこうに入学、同年ソ連軍の攻撃を受けて中国牡丹江ぼたんこうにて行方不明となったといいます。

終戦後、いせさんは東京都大森に住みながら、新二さんの生存と復員を信じて昭和25年(1950年)1月の引揚船初入港から以後6年間、ソ連ナホトカ港からの引揚船が入港する度に舞鶴まいづるの岸壁に立つました。昭和29年(1954年)9月には厚生省の死亡理由認定書が発行され、昭和31年には東京都知事が昭和20年(1945年)8月15日牡丹江にて戦死との戦死告知書(舞鶴引揚記念館に保存)を発行しました。

その時のいせさんの悲しみは深いものだったことでしょう・・・

しかしながら、新二さん(1926年 - )は戦後も生存していたのですね。それが明らかになったのは、いせさんが亡くなった1981年より後、平成12年(2000年)8月のことでした。

3 実は生きていた子
 新二さんは、ソ連軍の捕虜となりシベリア抑留、後に満州に移され中国共産党八路軍に従軍しました。その後はレントゲン技師助手として上海に居住。妻子をもうけていました。新二は母が舞鶴で待っていることを知っていましたが、帰ることも連絡することもなかったのです。


理由は様々に推測され語られているがはっきりしておりません。 新二さんを発見した慰霊墓参団のメンバーは平成8年(1996年)以降、新二さんは3度会ったが、新二は「自分は死んだことになっており、今さら帰れない」と帰国を拒んだといいます。

端野いせさんは新人物往来社から「未帰還兵の母」を発表。昭和51年9月以降は高齢と病のため、通院しながらも和裁を続け生計をたてていました。息子の生存を信じながらも昭和56年(1981年)7月1日午前3時55分に享年81で死去。「新二が帰ってきたら、私の手作りのものを一番に食べさせてやりたい」と入院中も話し、一瞬たりとも新二さんのことを忘れたことがなかったそうです・・・

※ この記事はウィキペディアを参考にしました。