前回の記事で、テニスコートの誓いのお話をしました。いよいよ第三身分の人たちが立ち上がった瞬間です。かれらは「我々は憲法が制定されるまで、解散しない」と宣言したのです。

その様子をルイ16世はただ黙っていたわけじゃありません。ルイ16世は場合によっては解散もありうることをほめの課しました。実際、ベルサイユには軍隊が集結していました。

しかし、それぐらいのことで彼らは動じませんでした。「われわれは人民の意思にしたがってここにとどまるのだ。われわれをここから動かすことができるのは銃剣のみ」とミラボーは叫んだといいます。

その後、第一身分(聖職者)と第二身分(貴族)の一部が第三身分に同調したのです。実は第一身分は税金を払わなくてよい特権階級でしたが、ほとんどは貧しい生活をしていたのです。だから、貧しい平民たちに同情的だったのですね。そして、ルイ16世は、国民議会を認めざるを得なくなりました。そして7月9日に「憲法制定国民議会」とあらためました。

平民たちの勢いに負けて国民議会を認めた国王側ですが、それを指をくわえて黙っていたわけじゃありません。国王側は武力をもってでも、第三身分たちのこうした動きをつぶそうとしたのです。本来、ルイ16世は国民おもいで貴族たちがブイブイしている世の中はおかしいと思っていました。しかし、宮廷にはこれまでどおりの体制を維持しようとする反改革派の勢力も根強かったのです。

ルイ16世自身も改革の必要性は認めつつも、先祖代々から受け継がれた王制を守らなくてはならないという、ジレンマにおそわれていたのです。結局ルイ16世は全国から王家の軍隊をヴェルサイユに呼び寄せます。軍隊を使って国民議会の有力者な支持者であるパリ市民を軍隊の力でねじ伏せようとしたのです。パリには武装した兵士であふれ、王宮は軍隊に囲まれ、パリも物々しい雰囲気になりました。この状況を見た時の財務長官ネッケルは、これらの政策がむしろ市民の暴動を誘発してしまうと感じ、王に軍の撤退を要求します。しかし、ルイ16世はネッケルを罷免してしまいます。

このネッケル罷免が非常にまずかったんですね。ネッケルは改革派で平民にも人気が高かったのです。今でいえば小泉進次郎議員みたいな感じでしょうか。そのネッケルをクビにするなんて許せんという空気になってきたのです。さらに国王の軍隊がうじゃうじゃパリに集まったことに、民衆たちは「国王軍が我々を殺しに来る」と思ったのでしょうね。


民衆は武器を持って立ち上がろうとしたのです。その武器を手に入れるために7月14日、アンヴァリッド(廃兵院)に押しかけ3万2000丁もの銃と24門の大砲をてにしましたが、まだまだ武器がたりない。それで、民衆たちはバスチーユに乗り込んだのです。

800px-Prise_de_la_Bastille


バスチーユ陥落は、フランス革命の幕開けともいうべき大きな事件でした。バスチーユ要塞に市民や国民衛兵が襲撃をしたのです。バスチーユ要塞は、高さ30メートルの城壁と幅25メートルの堀に守られ、城壁にはいくつもの大砲が備え付けられておりました。そのため難攻不落だといわれていました。

ところが、要塞司令官のローネー侯爵は銃撃戦が交わされたあと、自ら降伏したのです。民衆に銃を向けることが耐えられなかったのでしょう。これでローネーがヒトラーのような男だったら、要塞をせめる民衆を銃で皆殺しにしたでしょう。

ベルサイユの宮廷では、軍隊を派遣し、パリを制圧すべきという意見もありましたが、流血を好まないルイ16世は、和平の道を選びました。7月17日に和解が成立したのです。翌日議場で軍隊を撤退する旨をつげます。人々からは「国王ばんざい」との喚声が上がり、ついでネッケルを再任することも約束しました。

ちなみに、バスチーユ牢獄は、もともとパリ防衛のために14世紀につくられたものでした。その後、パリの街が大きくなるにつれ、首都防衛という軍事的な機能を失い、政治犯を収容する監獄になりました。しかし、革命当時、バスチーユに収監されていたのは政治犯ではなく、普通の犯罪者でした。