バスチーユ事件以降、革命はちゃくちゃくと進んでいきましたが、国民議会の中から革命側から王党派(国王に味方する側)に寝返った人物も出てきました。穏健派議員のミラボーのその一人でした。しかし、ミラボーは1791年4月に亡くなりました。彼は王室とも革命側とも親しく、いわば両者の橋渡し役的な役割を果たしていました。ミラボーの急死は王家に暗い影を落としました。

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(ミラボーの肖像画。なんか僕の知り合いに似ているw)

ミラボーは生前、国王一家に国外逃亡を進めており、最後の最後まで自分が責任をもって国王を逃がしてあげますと語っていたそうです。その一方でミラボーは議会にも顔が利き、議員の中には「王を殺せ」という人間も少なくありません。そんな過激な人間をミラボーは「まあまあ、少しは餅つけじゃなかったw落ち着け」となだめることができたのです。

議会だけでなく、国民の王室に対する不満は高まっている状況でした。前回の記事でも書きましたが、王様の部屋に忍び込んだ輩も出てくるほどですから。また、ルイ16世は今まで住んでいたヴェルサイユ宮殿を追われ、ティイルリー宮に引っ込む羽目になりました。このままではいつか自分たちも命を狙われてしまう。そんな危機感がルイ16世にもあったのかもわかりません。

すでに一部の貴族たちは革命を恐れ国外逃亡をしました。しかし一国の王様が国をすて逃げるとなると大ごとになります。このまま国に残るか、それとも逃げるか。ルイ16世は悩みます。そんな時フェルゼンという人物が、「王様お逃げください」と勧めました。フェルゼンはマリーアントワネットの愛人でありました。実はルイ16世ってマリーアントワネット一人を妃にしていて、側室(愛人)が一人もいなかったのです。歴代のフランス国王は何人も側室(愛人)を抱え、いわば一夫多妻制みたいな感じだったのに、ルイ16世は違いました。ルイ16世はアントワネットを愛していたのに、アントワネットには愛人がいるとは不届きだなと僕は思うのですが、それは置いておきましょう。

ファルゼンの助力により、国王一家は国外逃亡を決意。逃亡先は、アントワネットの故郷オーストリア。国境まで無事にたどりつけば、アントワネットの兄レオポルド二世が守ってくれる。そんなことをアントワネットは考えていたのです。逃亡の予定日が1791年6月20日の夜。ルイ16世とアントワネットは馬車に乗り込み、ティイルリー宮を脱出しました。

しかし、アントワネットの強い要望で、逃げる途中で、質素な馬車から豪華な馬車に乗り換えました。そんな豪華な馬車に乗れば、人目につくし、ましてや逃げるとなると不都合です。そんなこともアントワネットはわからなかったのです。しかも、その逃げる道中ものんびりしたもので、途中でピクニックを楽しんだりしたそうです。本当に逃げるのならもっと急がなければならないのですが、ルイ16世達は「大丈夫、見つからない」と楽観視していたのでしょうね。

そしてとうとう、ルイ16世一家は、小さな町ヴァレンヌで捕まってしまいます。豪華な馬車に乗ってしまったのが仇となったのです。

そして、国王一家はパリに帰ってきましたが、聴こえてくるのは民衆の罵声。もともとルイ16世やアントワネットを嫌っていた人たちはもちろん、かつて国王を慕った人たちまでも、国をすてたルイ16世一家に怒りを覚えたのです。このヴァレンヌ逃亡事件は、のちの国王一家の惨殺につながっていたのです。もし、ルイ16世が逃げなければ、王制は廃止されても少なくとも惨殺は免れ、(いまの)日本の天皇陛下のようなポジションになれたかもしれない。実は議会でも「国王を殺すべきではない」という意見のほうがまだ強かったのです。すくなくともヴァレンヌ逃亡事件までは。むしろ立憲君主制を敷くべきだという意見もあったのです。ロベスピエールでさえ、王様殺しには反対していたのですから。その意味ではルイ16世は逃げるべきではなかったと僕は思います。




※ 参考文献