1 憲法制定とフイヤン派
 ヴァレンヌ逃亡事件でルイ16世が国民の信頼を失う一方で、議会の方は盛り上がっておりました。1791年9月3日、憲法制定議会はフランス国憲法である「91年憲法」を可決しました。前文に人権宣言17か条と、本文全207条からなるもので、これがフランス最初の憲法となりました。

この憲法では基本的に「国民主権」が原則で、国王の権威は法のみに由来すると明記されました。フランスは革命前までは絶対王政で、「王様の言うことをきけ」みたいなかんじでした。それが革命でガラリと変わったのですね。「法の前の平等」も保障され、各人の能力に応じた社会的チャンスが与えられるという原則も確認されました。

とはいえ、この新憲法は現代の価値観からすれば、前近代的な面もありました。例えば、新憲法においても女性の参政権が認められなかったのです。フランス革命では女性も結構活躍したのに;・・・革命の中心人物たちは男尊女卑の考え方が強く、「女は家庭にこもるべき」という考え方が非常に強かったのです。参政権だけでなく女性が政治にかかわることさえ禁じられてしまいます。

この憲法作成はフイヤン派が主導してつくられました。フイヤン派は割と穏健派で、一昔前の自民党のようなグループでした。

2 ジャコバン派とジロンド派
フイヤン派は、左派の勢いに危機感をおぼえ、一刻もはやくフランス国憲法をつくる必要があったのです。その左派の代表格がジャコバン派。フランス革命の指導者といわれるロベスピエールはジャコバン派(※1)です。ジャコバン派は弁護士や医師、ジャーナリスト出身者が多く、貧しいものたちの味方でもあると同時に中産階級の利権も守るというグループでした。とても急進的なグループで、「革命も新憲法も生ぬるい、国王を殺してでも共和制を早急につくるべきだ」という考え方です。

フランスの議会にはもう一つジロンド派というグループもありました。ジロンド派(※2)は、中産市民や豊かな農民が支持しており、共和制をとなえていました。が、ジャコバン派に比べると穏健でした。ジロンド派は人々は総じて教養レベルが高く、演説もうまいし、筆もたったが、優柔不断なところがありました。


1792年3月、ルイ16世はジロンド派に政権をゆだね、ジロンド派内閣が組閣されました。彼らは共和主義でしたから、ルイ16世は面白くなかったと思います。

そんなさなか、フランス革命を快く思わない国がありました。オーストリアとプロイセンです。オーストリアとプロイセンは同盟を結んでおり、共同でフランスと戦おうとしていたのです。(※3)これに怒ったのがフランスの人たち。国中が開戦へと傾きました。議会でも開戦すべき!という意見が多数を占めました。議会で反対した議員は750人中、たったの7人。ついに1792年4月20日にオーストリア・プロイセン連合軍に、フランスは宣戦布告をします。

ちなみに、オーストリアではアントワネットの兄レオポルト2世が治めていたのです。


3 8月10日事件

 勇ましくフランスは戦争に挑んだものの、初めは連戦連敗でした。フランス軍が負け続けたのは、アントワネットが祖国オーストリアに情報を流したことも理由の一つですが、フランス軍は、旧来の貴族を主体とした指揮官に率いられ、軍隊は戦意に乏しく、また準備も十分ではありませんでした。軍服や軍靴さえそろっていないありさまでした。

一方のルイ16世とアントワネットは、フランス軍が負けることを悲しむどころか、むしろ大喜びで、プロイセンの力を借りて権力を取り戻そうとしていたのですね。アントワネットはプロイセンに情報を流していたし、さらにプロイセン軍は「ルイ16世に危害を加えれば、パリを全面的に破壊する」と脅したのですね。もちろん、この脅しもアントワネットの差金。フランスの平民たちはますます怒ります。いままで国王一家に敬愛していた平民たちも、可愛さあまって憎さ百倍、裏切り者の国王一家を殺せみたいな意見もチラホラ出てきます。

そして1792年8月10日、民衆たちは国王一家のいるテュイルリー宮へ進撃。宮殿を守る兵隊たちと民衆は激しい戦いが繰り広げられ、死傷者は1000人以上に及びました。国王一家はいっさいの権利が奪われ、ティイルリー宮からタンプル塔へと幽閉されました。これを8月10日事件といいます。それだけでなく国王の家来たちも次々と牢屋ロウヤへ入れられた挙句に民衆たちに虐殺されたといいます・・・

この事件により王権は停止してしまいます。議会ではジロンド派が権力を握っていましたが、しだいにジャコバン派に主導権を脅かされるようになります。そしてジロンド派とジャコバン派の対立は深まり、1793年春になるとそれは抜き差しならないものになります。



4 ヴァルミーの戦い

 国内でそんな事件が起こる中、戦場では負け続きのフランス軍。しかし、フランスの人たちは強かった。負けてしょんぼりするどころか、「祖国を守れ!」と意気込むのです。そして続々と義勇軍に参加するのです。革命政府も身分、学歴、年齢を問わず、能力のあるものを将軍として登用しました。それまでの貴族主体の指揮官から、優秀な指揮官に変えました。優秀な指揮官が指揮すれば、装備が不利でも十分に補えます。やはり指揮官がアホか優秀かで組織は大きく変わりますね。指揮官だけでなく、下っ端の兵士たちも、働き次第で出世できますから、そりゃ張り切ります。

初めはプロイセン軍に負け続きだったフランス軍でしたが、9月20日、フランスの国境から90キロのところにあるヴァルミーでフランス軍がプロイセン軍をやっつけるのです。

ヴァルミーの戦場で、フランス軍は帽子をサーベルや銃剣の先につけて振り回しながら「国民バンザイ!」と叫びました。フランス軍は3万人でしたが、その3万個の帽子が大きく揺れ動きました。プロイセン軍の兵士たちには、それが敵の軍勢が急に増えたかのように見えたのです。この異様な光景にプロイセン軍の隊列に動揺が走ったのです。プロイセン軍の総司令官は「これは狂信者か殉教者の軍隊だ」と思ったそうです。

そして、フランス軍のすさまじい戦意。その迫力にプロイセン軍も押されたのです。そして、プロイセン軍総司令官は退却を命じます。フランス軍は辛うじて勝つことができたのです。この戦いをヴァルミーの戦いといいます。プロイセン軍は、フランス軍をはじめは弱いとバカにしていたのでしょう。しかし、その油断がアダとなったのですね。

文豪ゲーテはプロイセン軍に同行し、この戦いの一部始終をみてました。おっとゲーテとは雑誌の名前ではありませんよwそして、ゲーテはこう言いました。


「この日、この場所から、世界史の新しい時代が始まる」





※1 ジャコバン修道院という修道院があって、そこを拠点にして政治活動を行ったからそう呼ばれるようになった。
※2 ジロンド県出身の人が多かったから、こう呼ばれた。
※ 3 レオポルト2世はプロイセンの国王に呼びかけ、1791年8月27日、「フランス国王を守るために、軍事行動を起こすこともできる」という旨のピルニッツ宣言を出した。この宣言が出たのはアントワネットを守るためともとれるが、これは革命の波が自国に及ぶことを恐れ、「革命をつぶさなければ、この先大変なことになる」とプロイセンとオーストリアの王様が思ったから。


ゲーテとの対話(完全版)
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
古典教養文庫
2017-12-31




※ 参考文献