これらの本を参考にしました。







1 フランス国憲法について
 前回の記事でオーストリア・プロイセン戦争のお話をしましたが、きょうのお話は戦争より少し前のお話です。1791年9月3日、憲法制定議会はフランス国憲法である「91年憲法」を可決しました。前文に人権宣言17か条と、本文全207条からなるもので、これがフランス最初の憲法となりました。

この憲法では基本的に「国民主権」が原則で、国王の権威は法のみに由来すると明記されました。フランスは革命前までは絶対王政で、「王様の言うことをきけ」みたいなかんじでした。それが革命でガラリと変わったのですね。「法の前の平等」も保障され、各人の能力に応じた社会的チャンスが与えられるという原則も確認されました。

また、「宗教の自由」や「言論の自由」も認められたし、拷問も禁止と明記されました。あれ?のちにルイ16世やアントワネットが死刑になったり、ルイ17世が監禁されひどい目にあわされるんですよね?「おかしい、拷問は禁止じゃないの?」って思うのですが。その辺のお話はまた後程お話しします。

そして、「商品生産と流通の自由」も認められました。おそらく、これがブルジョワ層たちにとって一番重要なことではないかと僕は思います。ブルジョワたち(第三身分といえども、商人だとか弁護士だとか裕福な人たち)は、自由な経済を望んでおりました。が、それまでのフランスは第一身分(聖職者)や第二身分(貴族)に高い税金を払わなくてはならないので、商売も自由にできなかったのです。それが革命によってできるようになったのです。フランス革命の担い手はブルジョワ層たちが中心でした。革命の間はブルジョワ層も一般市民も協力しましたが、革命が一息ついて、憲法を制定という話になると、ブルジョワ層の都合が優先されるのです。

2 下層市民には参政権が認められず。
 フランス憲法は国民主権といいながら、現実はブルジョワ層つまり勝ち組にとってはありがたくても、一般市民にとっては、それほどでもなかったのです。フランス国憲法は1789年の「人権宣言」に比べると後退していたのです。「人権宣言」は国民はみな平等で参政権も当然与えらえるものという内容でした。ところが、憲法はちがいます。国民を納税額によって「能動的市民」と「受動的市民」の二つのランクにわけ後者には参政権が認められなかったのです。つまり貧乏人は参政権が認められなかったのです。

「人権宣言」でも女性の参政権参は認められませんでしたが、新憲法においても参政権が認められなかったのです。フランス革命では女性も結構活躍したのに;・・・革命の中心人物たちは男尊女卑の考え方が強く、「女は家庭にこもるべき」という考え方が非常に強かったのです。参政権だけでなく女性が政治にかかわることさえ禁じられてしまいます。革命が成功するかわからないときは、女性の力まで借りたくせに、成功が確実になったとたんに、手のひらを返したのだから、ブルジョワ層は身勝手もいいところです。

3 国王は君臨すれども統治せず
 国王には、この憲法を拒否できる「拒否権」が認められておりました。が、ルイ16世は拒否権を行使しませんでした。ルイ16世が政治に興味がなかったともとれますが、仮に王が拒否をしたとしても、どうせそれは言っても無駄で、処刑される時間が早まるだけだと諦めたのかもしれません。

ルイ16世は処刑されてしまうのですが、この憲法が作られた当初は国王の存在が認められていたのですね。つまり立憲君主制をこの憲法は理想としていたのですね。それにも関わらず処刑されてしまうのですから恐ろしいことです。

この憲法作成はフイヤン派とよばれる議員のグループが主導してつくられました。日本でいえば自民党とか立憲民主党とか政党のようなものですね。フイヤン派は、自由主義の貴族とブルジョワ層が中心で、立憲君主制を理想としておりました。国王をマンセーしつつ「国王は君臨すれど統治せず」、つまり国王には政治の実権を与えないで法の支配のもとで政治を行うことを理想としたのです。

フイヤン派は、共和制をとなえる左派の勢いに危機感をおぼえ、一刻もはやくフランス国憲法をつくる必要があったのです。その左派の代表格がジャコバン派。フランス革命の三大指導者といわれるロベスピエール、ダントン、マラーもすべてジャコバン派(※1)です。ジャコバン派は弁護士や医師、ジャーナリスト出身者が多く、貧しいものたちの味方でもあると同時に中産階級の利権も守るというグループでした。とても急進的なグループで、「革命も新憲法も生ぬるい、国王を殺してでも共和制を早急につくるべきだ」という考え方です。左翼の過激派と小泉進次郎さんのグループ(急進的な新自由主義)を足して二で割ったようなグループです。

4 ジロンド派とジャコバン派の対立
 フランスの議会にはフイヤン派とジャコバン派のほかにジロンド派というグループもありました。ジロンド派(※2)は、中産市民や豊かな農民が支持しており、共和制をとなえていました。が、ジャコバン派に比べると穏健でした。ジロンド派は人々は総じて教養レベルが高く、演説もうまいし、筆もたったが、優柔不断なところがありました。一昔前の自民党の宏池会みたいなお公家集団だったようです。


1792年3月、ルイ16世はジロンド派に政権をゆだね、ジロンド派内閣が組閣されました。彼らは共和主義でしたから、ルイ16世にとっては口もききたくないような人たちだったと思います。王制にこだわるルイ16世は、三か月後の6月にジロンド派と衝突します。そして、1792年の8月10日に前回の記事でも取り上げた「8月10日の革命」(※3)がおこり王権は停止し、そしてジロンド派は1792年秋までは革命の主導権を握り続けます。が、しだいにジャコバン派に主導権を脅かされるようになります。そしてジロンド派とジャコバン派の対立は深まり、1793年春になるとそれは抜き差しならないものになります。

革命がはじまって数年はジロンド派もジャコバン派も仲が良かったのです。それが対立するのは1792年8月10日以降です。まず第一に、革命の展開が急すぎて、ジロンド派はついていけなくなりました。そして「8月10日の革命」によって民衆が大挙し、革命の表舞台にたつとジロンド派の態度はかわります。ジロンド派の人たちは、革命はしかるべき教養と財産を持った人々によって推進すべきで、無知な民衆は政治にかかわるべきではないという、今のネトウヨのようなある意味保守的な考え方でした。

しかし、国内では革命のごたごたが続いている、国外では対ヨーロッパ戦争をしている最中だ。こんな時こそ民衆の力が必要だと、ジャコバン派は考えておりました。

それでジャコバン派は民衆の要求を取り入れた政策を打ち出しました。たおてば、食糧問題に苦しむ民衆を救済しようとか。これをジロンド派は「経済活動の自由」に反すると批判。ジロンド派とジャコバン派の対立は深まるばかりで、なかなか国の方針は定まりません。



※1 ジャコバン修道院という修道院があって、そこを拠点にして政治活動を行ったからそう呼ばれるようになった。

※2 ジロンド県出身の人が多かったから、こう呼ばれた。
※3 前回の記事でも取り上げましたが、民衆が大挙してルイ16世のいるテュイルリー宮殿に押しかけた事件で、これによって王家の権利は停止されてしまった。http://ehatov1896rekishi.diary.to/archives/2433196.html