※ これらの本を参考にしました







1 サン・ジュストの演説
 ジロンド派とジャコバン派は、ことあることに対立してきましたが、そんな状況の中、11月のルイ16世の裁判がはじまったのです。ジロンド派は共和制には賛成だが、国王の処刑には反対。一方のジャコバン派はルイ16世処刑を訴えます。ジロンド派もジャコバン派もどちらも共和制には賛成でしたが、国王をどうするかについては意見が激しく対立したのです。

ジャコバン派のサン・ジュストは演説の国王処刑を訴えました。サン・ジュストはそのとき25歳、最年少議員で、議会で演説するのははじめてだったそうです。しかし、議会の演説が初めてとは思えないくらい、その演説は歴史に残るものだといわれております。サン・ジュストいわく、

「いかなる幻想、いかなる習慣を身にまとっていようとも、王政はそれ自体が永遠の犯罪であり・・・一国民全体の無知蒙昧むちもうまいさによっても正当化され得ない不法行為のひとつである。・・・秘湯は罪亡くして国王たり得ない・・・国王というものは、すべて反逆者であり、簒奪者さんだつしゃである。]


この演説に議員たちはぐうの声も出なかったといいます。サン・ジュストは日本でいえば田中角栄さんや小泉純一郎さん、ガンダムでいえばギレン・ザビのように演説がうまかったのでしょうね。

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(サン・ジュスト)

2 ガマンの告白
 サン・ジュストの演説によって議員たちの心は動かされましたが、それだけでは国王処刑になりません。議会が国王処刑に傾いたのは、国王の機密文書が見つかったからです。その秘密文書には、国王が反革命派と連絡を取り合っていたことが書かれておりました。その秘密文書は宮廷の隠し戸棚に入っていたのですが、フランソワ・ガマンという人物の告白により、その文書が見つかってしまうのです。ガマンとは、錠前づくりが趣味のルイ16世の師匠でした。ガマンの家は祖父の代から宮廷御用達の錠前屋をしていたのです。1792年の8月10日の政変以降、ガマンはもんもんとしていたのです。

もし隠し戸棚がみつかったら、自分はいったいどうなるのだろう?重要機密文書を隠すのに手を貸した自分は逮捕され、最悪の場合は処刑されるだろうと。しかし、国王を裏切りたくない。そんなことを考えていたガマンは夜も眠れなかったといいます。ガマンは機密文書のことを議会に言うか、ずいぶん迷ったといいます。そして、我慢wができなくなったガマンは11月20日に内務大臣ロランに面会し、すべてを告白しました。

そして、ガマンの言う通り、戸棚から機密文書がみつかったのです。書類が見つかったのはサン・ジュストの演説から一週間後のことです。この秘密文書は国王がフランスを裏切った重要な証拠となりました。


3 国王の死刑決まる

 1792年12月11日に国王の裁判がはじまりました。被告人のルイ16世も二度議会にきて発言しました。ルイ16世は「自分の良心は一点のくもりもない」と言い切り、終始一貫して落ち着きを払っていたといいます。年をこした1793年1月15日、審理が終わり採決に移りました。

全会一致でルイ16世は有罪となりましたが、どんな刑にするかはまだ決まりません。

その刑をめぐり、16日夜から17日夜までまるまる一昼夜をかけて行われ、結果は死刑387票(ただ執行猶予つきが26票含まれる)、追放・幽閉が334票でした。そのため国王の死刑が決まりました。意外にも大差で国王の処刑が決まったわけではなかったのです。

そして1793年1月21日、処刑場の革命広場(現在のコンコルド広場)にルイ16世は連行され、ギロチンの前に立たされます。その様子を多くの人々が見ております。そして、ルイ16世はみんなに語り掛けました。


「フランス人よ、あなた方の国王は、今まさにあなた方のために死のうとしている。私の血が、あなた方の幸福を確固としたものにしますように、私は罪なくして死ぬ」


そして、ルイ16世がギロチンにかけられ無残になくなったといいます・・・

ルイ16世は最後まで平静な態度だったといいます。それはルイ16世が信仰心があつかったからだといわれております。自分はあの世では正しい裁きを受けられるからだと思ったといいます。ルイ16世は来世の存在を固く信じて死んでいったのかもしれません・・・