1 マラーの暗殺
 ジャコバン派とジロンド派は対立は深まるばかりでした。両派は激しく主導権争いをしていましたが、その決着をつけたのは民衆でした。1793年6月2日、武装した民衆が国会を包囲したのです。8万の民衆がなんと60門の大砲をひいてやってきたのです。「革命がおこったが、一向におれたちの生活はよくならない!」と民衆は怒ったのです。ジロンド派は民衆の味方というよりもブルジョワつまり勝ち組のための政治を行おうとしていましたから、農民の暮らしもよくなりません。民衆にとっては敵でしかありません。民衆の敵といえば、そんな名前のドラマがありましたねw


また、ジロンド派とジャコバン派の間には中間派というグループもいました。はじめは中間派もジロンド派についていたのですが、次第にジャコバン派になびいたのです。そんなこともあって、ジロンド派の主だった議員は国会から追放されました。そうしてジャコバン派は権力を握るようになったのです。

そんな政府がゴタゴタしているなか、フランス各地の地方都市で内乱が起こりました。日本の室町時代末期〜戦国時代もそうですが、為政者がゴタゴタと権力争いをしていると、国内は乱れるもの。

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そんな状況の中で、事件がおこりました。ジャコバン派の中心的人物の一人だったマラwマラーが殺されたのです。マラーを殺したのはシャルロッテ・コルデという女性です。シャルロットはマラーのマラを切ってw、マラーを浴室で刺したのです。

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        (マラー暗殺の絵)

ジロンド派の幹部が国会から追放されたのは、シャルロットの目には混乱の極みと映りました。これはマラーのせいだ、マラーさえいなくなればフランスは平和になると彼女はかたく信じておりました
たしかに、マラーはひごろから過激な発言が目立ち、ロベスピエールさえも顔をしかめるほどでした。マラーは日本でいえば、政見放送で「NHKをぶっこわす」とのたまう議員さんみたいなものですw


シャルロットは、俗世間的なさまざまなしがらみとは無縁の純な女性だったといいますが、純粋すぎるゆえに残酷な一面もあったのでしょうね。そのシャルロットは事件の4日後に、革命裁判所で死刑判決をうけ、即日処刑されたといいます・・・

2 ユートピアのような社会を
 ジャコバン派が議会で力をつけていきました。その中心人物はロベスピエール。しかし、国内では革命のゴタゴタが収まらない状況の中、外国と戦わなければいけないという厳しい状況でした。そこで革命政府は、1793年8月23日に「大徴用令」を発令し、戦争のために民衆を総動員できる体制を整えました。そして、1793年10月10日には「フランス政府は和平達成時まで革命的である」と宣言し、強権的な態度を政府はとるようになりました。中央集権化も強化され、内乱の鎮圧と、外国との戦争も勝利しなければいけない、そんな難しいかじ取りを革命政府はおこないました。

内乱鎮圧と戦争遂行をする一方で、革命政府は内政もしっかりやりました。1793年7月17日に封建制度の無償廃止が宣言されました。これにより、貴族の土地の所有権が農民に譲渡されました。ただ、貧しい階層にはいきわたりませんでしたが。また、「1793年憲法」では「労働権」「教育を受ける権利」なども明記されるなど国民生活のためにさまざまな権利も保障されたのです。

また、民衆のために様々な食料政策をおこないました。悪徳商人を取り締まったり、生産者の食糧隠匿を摘発し、流通を促したり、公営の倉庫を設置し、食糧不足に備えたり。


3 ヴァントーズ法
 また革命政府は「ヴァントーズ法」という法令を採択しました。この法令は1794年2月末から3月はじめにかけて採択されました。これによって、貧しい人たちにも最低限の財産を分け与えようとしたのです。この法令をすすめたサン・ジュストは「国家の中に、ただひとりの不幸な人も、ただひとりの貧しい人も存在してはならない」といいました。すばらしいですね。

しかし、この法案の中身をよくよく吟味すると、結構ひどいものでして・・・ これは反革命容疑者の財産を没収して貧しい国民に分配するというもの。このヴァントーズ法でもわかるようにジャコバン派による徹底した反革命者にたいする対応はいつしか恐怖政治とよばれるようになり、犠牲者が次々にでてくるのです・・・
 
革命政府のリーダーであるロベスピエールは理論的にはこの法律を支持しましたが、実施するための支援を欠くことが明らかになり、法律を施行するための努力は数カ月のうちに終了しました。

※ 参考文献