ジャコバン派が権力を握るようになったものの、国内では内乱、そしてヨーロッパの国々と戦わなければいけない状況。そんな状況を打破するには、強力な権力をもった政府が必要になってきます。それでジャコバン派がとったのが恐怖政治。

意外なことかもしれませんが、恐怖政治を望んだのは民衆でした。民衆は長い間自分たちを苦しめてきた、貴族や強欲な商人たちをこらしめたかったのです。小泉政権のときだったか、民主党政権の時代だったか忘れましたが、ある若者が「戦争になってほしい」とつぶやきました。なんともおそろしい発言ですが、その真意は議員や勝ち組が苦しんだり、地位をうしなったりするのならいっそのこと戦争になったほうがよいということです。当時のフランス人はその若者と同じ心境だったのでしょう。

本来、合法性の人だったロベスピエールは、民衆のそうした動きをできるだけ抑えようとしました。しかし、そんな民衆の動きにのる気になったのは、あまりにも反革命派勢力の態度が頑強だったからです。そのことにロベスピエールはキレてしまったのでしょうね。ロベスピエールははじめは死刑に反対していました。しかし、次第に革命に反対するものは処刑にしてもかまわないと思うようになったのです・・・・

恐怖政治がはじまったのは1793年秋でした。そのきっかけになったのはその年の9月におこった民衆蜂起でした。食糧問題や外国との戦争などいろいろなことでいらだった民衆たちの蜂起でした。国会は生活必需品の「最高価格法」とともに「疑わしいものたちに関する法令」を可決しました。

この「疑わしいものに関する法令」の「疑わしいもの」についての定義があいまいだったため、ほとんどだれでも「疑わしいもの」として逮捕したり、処刑にすることができたのです・・・

革命裁判所というものができてからは、何人もの人々が裁判にかけられ、そして処刑されたのです。死刑判決の割合の推移をみると1793年8月までにさばかれたのは224人で死刑になったのは52人でした。しかし、その年の10月から12月の3か月で裁かれたのがなんと395人。そのうち死刑になったのは177人と大幅に増えたのです・・・

革命裁判所がいちばん猛威をふるうのは1794年6月に制定された「ヴァントーズ法」が制定されてからです。この法令ができてから、裁判迅速化がすすめられ、証拠調べ、証人喚問、弁論等が廃止されました。尋問されたら即、判決ということになり、革命裁判所に連れてこられたらもう牢屋に入れられるか、下手すりゃ死刑になるというありさまでした。革命裁判所で死刑になった人は全部で2800人に及びますが、そのうち1300人が「ヴァントーズ法」以降のたった一か月半の間に処刑されたのです・・・

処刑になった人たちで代表的なのは、テニスコートの誓いを主導し、革命にも大きく貢献したバイイ、「質量保存の法則」で知られる天才学者ラヴォワジエ、革命の雄とよばれたダントン(のちほどのエントリーで詳しく取り上げます)、それからマリー・アントワネットも処刑されてしまうのです・・・

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(バイイ)

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’(ラヴォワジエ)

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’(ダントン。僕の知り合いに似ているw)





※ 参考文献