1 恐怖政治の要となった裁判所
 久々にブログを書かせていただいております。寒い日が続いていたのと、個人的にいろいろ忙しかったので、更新が滞ってしまいました。さて、前回の記事で恐怖政治のことを取り上げましたが、恐怖政治の要となったのが「革命裁判所」です。この裁判所は恐怖政治が始まる半年前、1793年3月に出てきていました。

1792年9月に、民衆がパリの監獄をおそい、囚人千数百人を虐殺する「九月虚殺事件」がありました。革命指導者たちは、こうした事件が起こるのを恐れたのでしょうね。ジロンド派は、この裁判所ができることで、独裁政治が起こるのではないかと裁判所設置に反対しましたが、ダントンが押し切ったといいます。

革命裁判所は「あらゆる反革命的企て、自由、平等、統一、共和国の不可分性、国家の内的および外的安全を脅かすあらゆる行為、王政を復活させようとするあらゆる陰謀」にかかわる事件を管轄する特別法廷で、控訴・上告はいっさいなく、ここで下された判決は、即確定というものです。極端なはなし、革命三番で「お前は気に入らん、反革命分子」だという判決が下されば、即死刑になってしまうこともあるという大変恐ろしいものです・・・

2 ギロチンでおびただしい人が処刑
 死刑判決の割合の推移をたどると、1793年4月から1793円8月までに革命裁判所で裁かれた224人のうち死刑は52人と約4分の1でした。しかし、革命裁判所の再編強化がされると状況がかわってきます。1794年になると4月だけで155人が死刑になり、1794年6月に「草月法」が制定されるとさらにひどくなり、ひと月で796人も殺されてしまうのです・・・。革命裁判所が1793年3月に設置されてから廃止されるまで、死刑になった人の数は2800人にのぼりますが、そのうち半数の1300人が「草月法」以降のたった一か月半の間に処刑されたといいます・・・

3 マリーアントワネットの死

 マリー・アントワネットは、恐怖政治の最初の犠牲者です。マリー・アントワネットを殺せという声は非常に高かったことがうかがえます。1793年8月1日にタンプル塔から革命裁判所付属の牢獄コンシェルジュリにアントワネットは身柄を移され、10月14日に革命産所法廷に出廷しました。コンシエル受理に収監されていた二か月半の間には、アントワネット救出の試みも何度かなされましたが、こごとく失敗に終わりました。

革命に敢然と敵対したのは、いかにもアントワネットらしかったです。「国は国民のもの」と出張する革命家たちは、彼女をとんでもない悪人とおもったことでしょう。戦争中、敵国に軍事機密を流すのは革命の世では「国家反逆罪」で死刑に相当する重罪です。しかし、彼女にしてみれば、実家に助けを求めようとしただけでした。法廷では9歳になる息子といかがわしい行為にふけたとか、いわれもない非難も受けたといいます・・・・

その時アントワネットはこのように反論しました。

「一人の母親に対してなされたそのような非難にお答えすることは自然に反します。私は、ここにいるすべての女性たちの証人になっていただきたいと思います」

2日間の裁判で死刑を宣告され、パリの街を粗末な荷車に乗せられ死刑場にアントワネットは運ばれました。その時のアントワネットの髪は真っ白で、その姿は老婆のようにふけこみ、やつれはてていたといいます。

※ おまけ
僕がブログを書くのをさぼっているw?間、フランスで事件がおこりました。ノートルダム寺院の火災です・・・原因はたばこの不始末だとか・・・ノートルダム寺院の復興に関して、寄付は割と早く集まっているのですが、この寺院を再建するのに長い年月がかかるそうです。

ノートルダム人はパリっ子にとっては心の支え。その悲しみは大変深いものと察します。一日も早い再建をお祈りします。


※ 参考文献