平成から令和にかわり、新しい年を迎えることができました。令和の世が平和で楽しい時代になりますように。さて、令和最初の記事はフランス革命の続きです。今日はフランス革命のキーマンの一人、ダントンのお話です。ダントンは、大変魅力的な人物ですが、革命の同志だったロベスピエールと次第に対立するようになり、やがて断頭台で亡くなった人物です。もし、ダントンが生きていたら、フランスの歴史はもっと違っていただろうと思いますし、日本にもダントンのような政治家がいればなあと思わずにいられません。



1 下町の弁護士から三大指導者の一人に
 ダントンはシャンパンの名産地として知られるシャンパーニュ地方の出身。ロベスピエールより一つ下。21歳の時に、パリに出て法律事務所に勤めました。弁護士の資格を取り、パリで売れない弁護士をしていた時に、フランス革命に遭遇しました。

最初は下町の一活動家にすぎなかったのですが、1792年8月の王政倒壊後に法務大臣に就任し、欲月、国民公会議員に当選しました。ロベスピエールとともにジャコバン派の中心人人物として活躍するのです。一介の弁護士に過ぎなかった人物が短期間で法務大臣に出世したのですから、すごいことです。一方で、急激な彼の出世が、彼の悲劇の始まりだとも見ることもできます。


2 ダントンの人となり
 ダントンは肩幅がひろく、胸板の厚い、みるからに勢力あふれる人物でした。周りの人たちをびっくりさせるような大声とド迫力で演説をしたといわれております。とくにフランスがプロシア軍の侵攻によってパリ陥落も時間の問題かと人々が思っていた時に、ダントンは法務大臣として演説をしました。その演説は歴史に残る名演説だったそうです。

「諸君、敵を打ち破るには、我々には果敢さが必要だ。さらなる果敢さが。そして常に果敢さが。そうすれば、フランスは救われる」

言葉に込められた熱情が人々の祖国愛を燃え上がらせ、それがヴェルミーの勝利にもつながったといいます。このときダントンは33歳。

革命家としては第一級のダントンですが、ごちそうが大好き、女が大好き、金さえ積まれれば反革命派の人間のためにも一肌脱ぎかねない一面もありました。

また、ダントンは保無性に多額な使途不明金が出ていることをライバル派閥のジロンド派に追及されたりもしました。ただ私腹を肥やすだけの人物はきらわれてしまいますが、ダントンの場合は革命にそそぐ情熱が真率なものであって功績も大きく、党派の利害を超えて革命全体を考える器量もありました。当時ジロンド派とジャコバン派は激しく対立しておりました。日本に例えれば自民党と立憲民主党の関係のようなものです。ダントンは激しく対立している両派の和解を計ろうとしたのです。



ほんと日本にもダントンのような人がいないのでしょうかねえ、与党と野党を利害をうまく調整させ、令和の日本をよい方向へ導く政治家が。与野党のいい政治家が知恵を出し合い、いざとなれば協力できる体制ができれば、この国はもっと良い国になりそうな気がするのに・・・

3 断頭台に向かうダントン
 革命政府がおこなった恐怖政治は、実際に罪を犯していない人物や何もしなかった人物も巻き込みました。そして、とうとうその恐怖政治の刃は革命の同志にまで及ぶようになります。1794年春になると身内であるジャコバン派の人間が次々と粛清されるようになります。4月上旬になりますと、恐怖政治に批判的だったダントンが断頭台送りにされてしまいます。

ダントンは、刑場にひかれる馬車の上からロベスピエールに対して「おまえも俺の後に続くコトンある」と不吉な呼びかけを行ったといいます。

ロベスピエールは、自分たちに逆らうような人間を排除して、自分の支持基盤を固めようとしたのです。しかし、ロベスピエールと対立したり、内心彼を面白く思っていなかった人物はおびえたのです。「今度はいつ自分の番がくるのかわからない」って。そして「やられる前にやってしまおう」と思う人間も出てくるのです。そのお話はまた次回に。


ダントンの死後、パリに彼の銅像をつくられました。フランス革命の革命家で銅像があるのはダントンくらいです。それくらいダントンはフランス人から慕われていたのです

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               (ダントンの肖像画)

参考文献