1 ロベスピエール打倒へ
 前回の記事で革命の雄ダントンが処刑されたことを取り上げました。ダントンの処刑は人々に衝撃を与えました。革命以降次々と人が殺され、「草月法」が制定され裁判が簡素化されてからは一日に50人ないし60人も処刑され、さすがに革命推進派の人たちもウンザリしてしまいます。

議員たちはそんな恐怖政治を進めているロベスピエールに不信感を抱くようになります。なにしろ議員たちは汚職だとかスネに傷があるもの。ロベスピエールに批判的な政治家たちは、いつか自分の番がくると恐怖にとらわれておりました。「やられる前にやろう」。反ロベスピエール派は、ロベスピエール暗殺計画に乗り出します。その中心人物が、フーシェ、バラス、タリアンの三人です。


2 テルミドールのクーデター

 1794年7月26日にロベスピエールが国民公会で演説をしました。そのときのロベスピエールの演説の内容が反革命派を厳しく攻撃するものでした。当然それを聴いていた人たちは、不安になります。特にクーデーターを企てていた人たちはなおさらです。

次の日(7月27日)の朝、ロベスピエールの側近サン・じぇすとが国民公会で演説しようとしますが、タリアンに妨害されてしまいます。その日の15時ごろに、ロベスピエールやサン・ジェストらの逮捕が決議されました。ロベスピエールは牢獄に入ってしまいます。しかし、夕方になってロベスピエールらは(ロベスピエール派の)国民衛兵隊によって救出されます。

釈放されたロベスピエールらはパリ市庁舎に入りました。市庁舎前の広場には、パリ48地区のうち16地区の(ロベスピエール派の)国民衛兵隊が集結していました。この国民衛兵隊を率いて、反撃するチャンスです。しかし、なぜかロベスピエールはそれをためらいました。

広場前に集まっていた兵士たちは何も命令がでないことに不安を感じます。ロベスピエールは夜になっても命令を下さない。そんな親分の不可解な行動に兵士たちも少しずつ広場から去っていき、深夜になると広場には誰もいなくなりました。

日付がかわって7月28日の午前2時、バラスが反ロベスピエール派の国民衛兵を率いて、市庁舎を攻撃。その時ロベスピエールは19歳の青年衛兵にピストルで撃たれてしまいます。ロベスピエールはアゴを撃ち抜かれてしまいます。ふたたびロベスピエールたちはクーデター派の手に落ちます。

そして28日に、ロベスピエール、サン・ジェストらは裁判にうけることもなく処刑されたといいます。

3 革命の終わり
 ロベスピエールの行った恐怖政治は誤りであったといわざるを得ません。恐怖政治だけでなく、この革命でも多くの血が流れました。しかし、フランス革命は負の一面ばかりではありません。「国民主権」、「すべての人間に教育を受ける権利」、「思想信条の自由」などはフランス革命によって確立されたものです。フランス革命以前は絶対王政で、王様が偉いというのが普通でした。もし、フランス革命がなければ、いまだに王政が続いていたし、日本でも不敬罪が残っていたかもしれない。


ロベスピエールたちは理想に燃えていました。フランスだけでなく人類の未来をも見据えて革命をすすめてきました。しかし、十分な根回しもないまま、ものごとを急激にやりすぎたために、フランス革命は失敗もしたし、多くの血がながれてしまったのです。

日本でも明治維新があり、そのときも多くの血が流れました。しかし、江戸城無血開城のような話し合いもあったことも見逃すことができません。江戸城無血開城がなかったら、江戸の町は戦火で焼かれ、多くの人が犠牲になっていたことでしょう。この話し合いをした勝海舟と西郷隆盛はGJですね。

おっと、話は脱線してしまいましたね。フランス革命以後、フランスのごたごたが続きます。そのゴタゴタにまぎれて登場したのが、かのナポレオンなのですね。ナポレオンのことはまた別の機会に触れます。

※ 参考文献