噺家たちの戦争協力は国策落語だけではありません。軍の慰問にいったり、実際に戦地にも赴いたのです。柳家小さんさんや、前回の記事にもでてきた柳家金語楼さんもそうでした。

寄席も空襲で燃やされたり、兵役に噺家(おもに若手)が取られたりして、戦時中の噺家たちは苦労をしたのです。落語で食べていくのは大変なので、軍の慰問のみならず、軍需工場や農村など日本国内での慰問にでてきた噺家もいました。慰問さきでは娯楽に飢えていたので、どこでも歓迎されました。しかし、戦況が悪化し空襲がひどくなると、交通機関が止まったり、場合によっては空襲で列車が爆破されたりと、慰問活動も命がけになってきます。


実は日本国内の慰問活動は落語家自身を守るためのものでもあったのです。ある噺家曰く、

軍需工場だとか農村だとかを慰問してまわります。銃後の人たちのお役に立つようなんて、もっともらしいモットーを掲げているのですが、これがじつは徴用逃れなのです。噺家、それも私たちのように若いものは徴用され、軍需工場に連れていかれる危険性もありますから、慰問という形でお国のために働く、芸能をもって奉仕しますと(中略)いっておくと、徴用に行かなくてもいいわけです。」

もし、いまネットがあって、こんなことをした噺家はぼこぼこにたたかれてしまいます。しかし、戦争とはいえ、やはり自分の身というものは守りたいもの。僕だって当時の噺家の立場だったらそうします。

噺家といえば、高座着です。噺家にとっては高座着は大事な仕事服。しかし、戦況が悪化し、1940年に国民服令がだされ、男子は強制的に国民服を着る羽目になったのです。戦時中はものが不足しているから贅沢をするなということでしょう。 噺家の高座着も贅沢だからやめろという意見も当然でてきます。一方で「落語家の高座着は一種の衣装であって、俳優がヒゲをつけ、女形が赤い衣装を着けるのと何ら異なることもなく、業務上の必需品である」という意見もありました。


高座着は贅沢かそうでもないかで意見が分かれ、もめているうちに戦争が終わってしまいました。もし、戦時中に高座着が禁止されていたら、高座着を着ない噺家も戦後出てきたかもしれません。

また、戦時中は食糧難ということで、噺家たちのその影響を受けておりました。噺家は寄席に行く際は弁当を持参しましたが、その弁当のごはんは大根、芋、野草が混じっていたといいます。お米が足りなかったから、芋や野草を混ぜたのでしょう。

そして東京大空襲直後、東京の寄席も燃えてしまいましたが、五代目蝶花楼馬楽の自宅は燃えなかったのです。そこにはたくさんの噺家があつまってきましたが、ご飯をたくとき、コメが不足し、その日の人数が多い場合は米を足すのではなく、水を足し、ゆるいおかゆにして量を増やしていたといいます。

また、生活必需品は配給をされていましたが、その配給だけだはとても足りないので、闇取引が盛んだったといいます。ある噺家も近くの農村に交換用の衣類などをもって、食糧を確保したといいます。

※ 参考文献