1 学童疎開とは
戦争中は、今とは比べ物にならないほど大変なものでした。太平洋戦争の末期、日本各地は度重なる空襲にまみれました。とくに東京、横浜、大阪、名古屋、くべなどの大都市への空襲は、日を追うごとに激しさをましてきました。

1944年(昭和19年)6月、政府は、都市部の国民学校初等科(※1)に通う児童を対象にして、空襲の恐れのない地方の農村部へ移住させることを決定します。それが学童疎開です。はじめは、親戚や知人を頼った「縁故疎開」がメインでした。僕の父親は縁故疎開でした。僕の父は昭和11年生まれですから、戦争をリアルに体験しているのですね。僕の祖母の実家が千葉県なのですが、僕の父も戦争中は千葉に疎開をしたそうです。やがて学校や学年ごとにまともって疎開をする「集団疎開」が行われるようになりました。全国で約40万〜60万人の児童が集団疎開したといいます。

2 学童疎開の現実
集団疎開の主な受け入れ先は、お寺や旅館など。子供たちは、そこで規律の厳しい集団生活を送らなければなりませんでした。なれない田舎暮らし、少ない食事、子供同士のいじめ。都会から来た子供たちが田舎の子供たちにいじめられるケースもあったそうです。僕だったらいやだな。あと、「ドラえもん」の「白ゆりのような女の子」にも、教官に怒鳴られながら農作業をする場面もでてきましたっけ。農作業なんて都会育ちの子供たちには大変だったのではないでしょうか。

そんなこともあって疎開先から脱走する子供たちも多くいたといいます。藤子・F・不二雄先生の「エスパー魔美」にも魔美の父親がクオーターということが理由でいじめにあい疎開先から脱走したなんて話も出てきます。藤子先生は昭和8年生まれで、実際に学童疎開を体験している世代です。だから、作品に出てくる学童疎開の話はご自身の体験に基づいているのでしょう。








僕の父親は縁故疎開だったので、そういったいじめの話はなかったようですが、そのかわり大変なおもいをしたそうです。なんと田んぼのあたりを歩いていたら、空から爆撃機がやってきて父をめがけてババババっと攻撃したそうです。命からがら父は逃げられたといいますが、父は今思い出しても恐ろしいと語っていました。

さて、都市部のこどもたちがすべて疎開できたわけではありませんでした。学童疎開は、原則として保護者の申し込みによるものです。保護者が疎開費用を負担できない子供や病弱なこどもなどは疎開できませんでした。疎開できなかったこどもたちは「残留組」と呼ばれ、激しくなる空襲におびえながら暮らしていたそうです。

3 日本のタイタニック 対馬丸
疎開といえば悲劇的なことがありました。対馬丸です。1944年8月21日、沖縄から集団疎開する児童や、一般の疎開する人たちを乗せた貨物船「対馬丸」が那覇港から長崎に向けて出港しました。日本の護衛艦に守られながらの主公開でしたが、その対馬丸の背後にアメリカの潜水艦ボーフィン号に追跡されていたのです。翌日の夜、対馬丸はトカラ列島悪石島付近の海で魚雷をうけて沈没。1500人以上の命を失ったといいます・・・

僕が対馬丸のことをしったのは小学校のころ。とうじ対馬丸の事件がアニメ映画化され、そのアニメ映画のパンフレットが学校でも配られたのです。僕はいかなかったけれど、そのアニメ映画は近所の公会堂で上映されました。僕も親にねだって見に行けばよかったなあ。

対馬丸の生存者もいらっしゃて、その動画もYouTubeであがっております。その方は元引率教師で、対馬丸に沈没して、海に投げ出されたが、漁船に拾われ一命をとりとめたそうです。沈没したときは大変で、船がものすごい音を立てて徐々に沈んだといいます。水がどんどん船に入ってきたといいます。怖かったろうな・・・小さなボートに数名の人が助かろうと群がったとか。僕はその人の動画をみて映画「タイタニック」の場面とかぶりました。一命をとりとめた人たちは、対馬丸の事件のことは一切言うなと口止めされたといいます。当時の日本は非常事態で、もしそんな事件があったとしたら、騒ぎになる、戦意が消失すると軍の上層部は思ったのかもしれません。


※1 国民学校初等科とは6年制で、現在の小学校に相当。





※ 参考文献