1 金属回収
 
日本は今も昔も輸入に頼っていました。だから、諸外国と戦争して、貿易がシャットアウトされると、えらいこっちゃになるわけです。輸入が途絶えると食糧だけでなく、武器や航空機、戦艦、大砲をつくる金属も不足してしまいます。特に鉄の不足は深刻です。当時の日本の鉄鉱石はほとんど中国とイギリス領マレーからの輸入でした。アジア・太平洋戦争開始前に、イギリスやアメリカなどによって石油と鉄鉱石の輸入を封鎖されてしまい、鉄鉱石が手に入らなくなったのですね。

それで1941年金属回収令がだされました。翌年の1942年には寺の鐘や仏具、エレベーターなどあらゆる金属が強制的に回収されました。

銅像も、その対象になりました。1930年ごろから、ほとんどの小学校の校庭に建てられていた二宮尊徳像も金属製のものは回収され、石像に作り替えられました。また、東京・渋谷駅前の忠犬ハチ公の銅像も回収されたといいます。ハチ公の銅像って戦時中からあったのですね。


公共のものだけでなく、家庭の金属類も回収されるようになりました。家庭にある火ばち、鉄びん、窓ごうし、ネクタイピンや指輪などの装飾品、さらには時計のチェーンまでその対象なりました。「家庭鉱脈」という新語もうまれたほど徹底していました。


そのような取り組みをしても、金属は十分ではなく、おけ、コップ、さじ、フォーク、家具の取っ手まで回収されるようになりました。防火に必要なバケツも布製のものが売り出され、こどものおもちゃも金属製のものは回収されてしまいます。

2 代用品
 
鉄や銅などの金属は、まず軍のために使われました。そのため各家庭にあった金属類は姿を消してしまいます。日用品の多くは陶器や竹などでつくった代用品を使用するようになりました。金属どころか、国民の衣服にかかせない木綿の使用まで政府の管轄下におかれてしまいました。国民は代用品をつかってガマンをするしかなかったのです。

金属の代用品といえば、僕は陶製の湯たんぽを思い出します。僕は母と骨董の仕事をやっていたのですが、骨董市で陶器の湯たんぽをみた覚えがあります。アイロンも陶器をつかっていたそうです。陶器の中に暑いお湯をいれて使っていたそうです。陶器だけでなく、セルロイドやセメント、ガラスなども使われておりました。学生がかぶる学帽につける交渉や制服の金ボタンも代用品がつかわれました。校章も金属がないので紙をかさねて圧縮して金粉をふきつけたものをつかっていたそうです。紙で作られた校章なんて雨の日はぐちゃぐちゃになりますね。

あと、なんと陶製の硬貨も作られたといいます。硬貨に金属がつかわれなくなったのですね。しかし作られただけで実際には陶器の硬貨は用いられませんでした。

陶製だけでなく、代用品の材料として脚光を浴びたのがセルロイドです。主にこどものおもちゃなどに使われました。セルロイドとは、化学的につくられたプラスチックの一種です。缶づめの容器、画びょう、こどものおもちゃなど様々な金属製品の代用品として重宝されたといいます。ただ、セルロイドって燃えやすいのですね。そこが難点です。

金属だけでなく、革製品も代用品が用いられるようになりました。革靴には牛革が使われておりました。ほかにも布や紙に塗料をぬった鞄、ハンドバック、クジラの皮でつくったベルト、時計バンド、サイフなど。ランドセルも竹でつくられたそうです。竹をほそく割り、竹かごのようにあんで形をつくったといいます。

綿をつかった繊維製品も代用品が使わました。綿は江戸時代から日本人にとってかかせない繊維です。だから、「綿の流通禁止」が新聞の号外にのったとき、国民は驚いたといいます。綿の代わりにスフとよばれる一種の化学繊維が配給されました。スフは洗うと縮んだり、すぐにきれたりするので評判は悪かったといいます。

3 木炭と松根油
 
1938年5月からガソリンの切符制が実施されました。ガソリンも切符がないと買えなくなったのです。石油の輸入も連合軍によってストップされ、燃料となるガソリンが不足したからです。恐ろしい話ですね。我々はガソリンがあることが当たり前のような生活を送っておりますが、ガソリンがないとどれだけ厳しい生活になるか。 「ガソリンの一滴は血の一滴」といわれるほど、この当時のガソリンは貴重でした。

それで木炭自動車が登場しました。木炭を燃やして発生するガスを燃料して走るものでした。木炭自動車といっても、木炭自動車をわざわざ買う必要はありません。持っている自動車に木炭ガス発生装置を取り付けるだけで改造できたことから、たちまち普及したといいます。

また、ガソリンの代わりに松根油を使おうという動きもありました。松根油は松の木を切り倒し、根っこからにじみ出る白いヤニから作られます。この松根油をとりだす作業は小学生までかりだされたといいます。

しかし、松根油は非常に労力が掛かり収率も悪いため実用化には至らなかったといいます。戦後、進駐軍が未調整のままの松根油をジープに用いてみたところ、「数日でエンジンが止まって使い物にならなかった」という記述がJ. B. コーヘン『戦時戦後の日本経済』にあるそうです。

※ 参考文献
戦争とくらしの事典
ポプラ社
2008-04-01